「正社員以外ありえない」と思い込んでいた自分が「雇用形態よりも大事なこと」に気がつくまで

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当たり前に「正社員」を選択しているけれど、今の働き方にしっくり来ているわけではない。転職サイトで見かける転職の経験談や、近ごろ話題の“自由な働き方”に憧れを持つこともあるけれど、自分には縁遠く感じる。

自分に合った働き方が分からず、モヤモヤを抱いている方に向けて、「ちょうどいい働き方」を模索してきた碇雪恵さんの寄稿をお届けします。

現在、フリーランスのライターとして活動しつつ、バーでアルバイトもしているという碇さん。これまで正社員・契約社員・派遣社員など、さまざまな働き方を取り入れてきましたが、以前は「正社員以外ありえない」と思い込んでいたそうです。

そんな碇さんが柔軟な働き方を選ぶに至った経緯や、そこで得た気付きや変化をつづっていただきました。

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昼の12時ごろ、自宅から歩いて5分ほどのコワーキングスペースで仕事を始める。コンビニやドラッグストアに行ったり、食事休憩をとったりしながら、夜の22〜24時近くまで仕事をする。そのままジムに立ち寄りフィットネスバイクを20分ほど漕いで帰宅。寝るのはだいたい深夜2時半くらい。起きるのはだいたい10時半くらい。

これがわたしの生活の基本形である。こうして書いてみるとまあまあな夜型だが、この生活リズムが今は体に合っている。

なぜこのようにややズレた時間帯での生活が可能かと言えば、現在のわたしの職業がフリーランスのライターだからである。ある会社と業務委託契約を結んでいて、取り決めた月間稼動時間を目安に取材や執筆、原稿の編集などを行いWeb記事を制作している。取材時以外オフィスに出社することはない。

その会社以外からもWebや雑誌に掲載する記事制作などを請け負っているほか、自分で本(いわゆるZINE)を作って売り、さらには週に一回バーでバイトをしている。少し前までは、派遣社員とフリーランスの仕事を並行していた。

『35歳からの反抗期入門』

碇さんが35歳の時に始めたブログをもとに制作したZINE。独立系書店を中心に話題となり、刷り部数は1,900部に到達したという

都内に一人で暮らし、演劇やお笑いを観に行ったり、月額3,000円のジムに通い始めたり、たまに友だちと外食したり、たまーに高速バスで遠出をしたりするくらいの生活は今のところできている。人によってはまったく物足りないだろうし、今の状況がずっと続くかどうかも分からない。それに、一人暮らしで身軽だからこそ選べた生き方だと思う。こうした前置きはあるものの、複数の仕事を組み合わせて生計を立てる方法は、今の自分にはしっくりきている

しかし、ずっとそのような働き方をしてきたわけではない。社会人として働き始めて10年ぐらいは「正社員以外ありえない」という思いを漠然と抱いていた。収入だとか福利厚生の問題ではなく、ただなんとなくその方が安全そうだから、という世間知らずな思い込みがあったにすぎない。

本稿では、働き方を変えるに至った経緯を振り返ってみたい。

ちなみに、この文章は正社員を貶めるものでも称揚するものでもない。同じく、フリーランスを称揚するものでも貶めるものでもない。言うまでもなく、どちらも一長一短である。時代によっても捉えられ方は変化するだろう。

さらには、正社員としてどこかの会社に属していても、無理なく心地よくいられるならその方がいいのでは、と今も思う。正社員だからこそ得られる福利厚生や制度というのは実際にある。わたしの場合、そのことに気がついたのは、正社員ではなくなってからのことだったけれど。

9年勤めた会社を退職。当時は「次も正社員」と思っていた

先に述べた通り、現在に至るまでにはいくつかの働き方を経験してきた。

新卒カードを無駄にする気はなく、当然のように「正社員以外あり得ない」と思っていた大学卒業後のわたしが入ったのは、就活で初めて存在を知った出版取次(書店などに書籍や雑誌等の流通を行う)の会社だった。今から15年前の2008年のことだ。

初任給はあまり高くなかったが、その代わり無茶苦茶に働かされることもなさそうだった。さらに、会社の規模が大きくさまざまな部署があったので、「一つの仕事に飽きても、他の部署に異動すればいいや」などと考えて入社を決めた。その頃は一つの会社に長く勤めたいと思っていた。今にして思えば、いわゆる安定志向だったのだろう。当初の思惑は当たり、結局わたしはその会社に9年勤めることになる。7年は書店営業の部署を、2年は新規事業開発の部署を経験した。

9年間の勤務の後、さまざまなことが積み重なり、次が決まっていない状態で、とりあえず会社をやめることにした。9年も同じ会社に勤めると「(会社名)の碇です」と名乗ることが板につき過ぎていて、それがなくなった時にはアイデンティティを失ったような気分になり、不安だったことを覚えている。

しばらくはバイトでつなぐのもいいかと思ってはいたけれど、ちゃんと就職するなら正社員としてまたどこかの会社に入るつもりだった。この頃もまだぜんぜん「正社員以外はあり得ない」と思っていた。わたしを心配した友人・知人が契約社員やバイトの仕事を紹介してくれたのはとてもありがたかったが、いずれも気持ちだけ受け取ってお断りしていた。

正社員としてまた会社に入るなら、と転職サイトや転職エージェントに登録し、経歴を入力して出てくるのは大体メーカーや卸の営業職だった。これまでの経験を生かして年収をキープするのであれば、そういう求人に応募すればよかったのだが、なぜだか気が進まなかった。面談した転職エージェントの人は、年収キープこそが最優先であることに疑いのない様子だったが、自分にはそう思えなかった。

知人の問いかけをきっかけに「やってみたいこと」に気付く

しかし、だとしたら自分が優先したいことって何だろう。

そんなことをうっすらと考えながら無職期間を過ごしていたある日、出版社の知人に声をかけてもらい、発送作業を手伝う単発のバイトをした。

作業後、オフィス近くの居酒屋で今後のことを聞かれた。何も決めていないと答えると、「じゃあ、今の時点でできるかどうかは一旦置いておいて、やってみたいことは?」と、さらに質問が返ってきた。口に出すのが恥ずかしいなと思いながらも、少し酔いが回り始めていたことも手伝って、思っていたことをぽつぽつと話してみた。

気になる人に話を聞きに行ってみたい。それを文章にまとめる自信はないが、つまりインタビューみたいなことをしてみたい。これまでも本にまつわる仕事をしてきたが、流通がメインだった。今は本の中身を作ることに興味がある。

そんなことを話した。どんな返答をもらったかは覚えていないのだが、ひそかに考えていたことを口に出してみると、思いがけないインパクトがあった。そう思っているのなら、ライターや編集の道に進むべきではないか。年収キープを優先する気になれなかったのは、そういう理由なのではないか。

できないと決めつけていたが、そんなこともないかもしれない。メディア専門の転職サイトに登録をし、未経験でも応募できるライター・記者職を探してもらった。結果、あるにはあったが、ほとんどが契約社員としての募集だった。しかも、変わるのは雇用形態だけではない。どの求人も一社目に比べると年収が大幅に下がる。

しかし、この頃から少しずつ「何年もかかるかもしれないけれど、スキルを身に付けることを目指すなら、正社員にこだわらなくてもいいのかもしれない」と考えが変わり始めていた。年収にしても、働きながら仕事を教わると考えたら飲み込める。いわゆるやりがい搾取と隣り合わせの考え方かもしれないが、今はよしとすることにした。

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自分自身の方向性が明らかになるにつれ、「正社員以外あり得ない」という考えはもう捨ててもいいかも、と思い始めていた。というか、やってみたいことに向き合わないでいたからこそ、正社員という安定した立場でいることが大事だと信じ込もうとしていたのかもしれない。社会的な安定を求めていたのは、軸を自分の外に持っていたからであり、軸を自らの中に見出そうとするようになって、無邪気な正社員信仰は氷解し始めた

会社とは別の「居場所」としての副業バーテンダー

結局、4カ月半の無職期間を経て、ある出版社に契約社員として入社することになった。記者職に就き、インタビューや構成の仕事が担当業務の一部になったので、まずはスタートラインに立つことができた。

その後、別の出版社に同じく契約社員として転職し、インタビューだけではなく、編集補佐や本の発送作業、営業や事務作業など、幅広い業務を経験した。とにかく目の前のことをやらなければ、と日々粛々と働いていたが、一方でこことは別の居場所を持ちたいと考えるようにもなっていた。インタビューは楽しいが、もっと雑多な場所でいろんな人の話に触れたい。また、友人や知人がふらっと会いに来てくれるような場があったら、という思いもあった。

そんなある日、なんとなく流していた夕方のニュース番組で「副業バーテンダーが人気」といった内容の特集が組まれていた。昼は違う職業に就いているが、週に一回だけ夜にバーで働く人が登場して、「飲みながら楽しくおしゃべりできる上に、お金までもらえて最高」と話している。

「これだ!」と思った。ただ、思ったはいいが、働く場所のアテがあるわけではない。

一応、求人サイトで探してはみたものの、自分の理想よりもずっとオーセンティックなバーか、スタッフが女性性を全面に出す形態のお店しか出てこなかった。普段の服装で、普段の気分のまま働けるバーが自分の理想だった。そう簡単には行かないなぁと、副業バーテンダー構想をあきらめかけていた頃、「人手不足……」とつぶやくアカウントがTwitterで目に入った。

それは、以前一度だけ友人に連れていってもらったことのある、新宿ゴールデン街のバーのアカウントだった。ここでなら、普段の服装で、普段の気分で働けるかもしれない。「これはもしや」と勢いのままに「人手不足と拝見したのですが、働かせていただけませんか?」とDMを送ってみた。それがきっかけで、ゴールデン街のバーで週に一度働くことになった。雇用形態はバイトだが、この頃には「正社員以外あり得ない」という思いは姿を消していた。

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碇さんの働くプチ文壇バー「月に吠える」

社会も自分も変化するから「調整」していけばいい

その後、契約社員で働いていた出版社の勤務を週4にし、残りの平日1日で他の出版社の営業代行を始めるなど、働き方はどんどん複合的なものになっていった。2019年秋には、契約社員として働いていた出版社を辞めてフリーランスになった。

しかし、その半年後、コロナ禍に突入。ライターとして決まりかけていた仕事が飛び、バーも営業できない時期が続いた。営業代行の仕事もそのタイミングで契約が終了した。

いよいよ東京での生活継続が難しいかも、と地元に帰ることも考え始めていたが、地元の友人から「まだやりようがあるはず。今、帰って来たら絶対もったいない」とアドバイスをもらって思い直した。その「やりよう」を考え、2020年12月、人材派遣会社に登録し、ITベンチャーの会社で週に3日働くことにした。仕事内容はWebの記事制作なので、今までの仕事の延長線上にある。

東京に残るにしても、以前の自分であれば「世の中がこんなふうに思いがけず変化するなら、やっぱり正社員でいた方が安心」と考えたかもしれない。ライターや編集職としての数年の経験を生かして、出版社や編集プロダクションに転職することも選択肢としてはあったはずだ。

しかしこの頃には、「世の中がこんなふうに思いがけず変化するからこそ、自分で働き方を調整できた方がいい」と考えるようになっていた。それに、一社だけで働くよりも、さまざまな人たちと少しずつ関わり合いながら働く方が自分にとって心地よい、という気づきもあった。

一つの会社に勤めるということは、自分の生活を支えるのがその一社のみということになる。となると、その一社に「捨てられたら」生活が成り立たなくなる。それは困るので、忠誠心を持たなければ、という意識が勝手に働く。その結果、自分の声を無視してでも、会社の意向に沿う言動を心がけるようになる

冷静に考えれば、誰もそんなことは求めていない。会社なのだから、仕事さえしていればいいはずだ。頭では分かっている。しかし、わたしはどうやらそこを切り分けられない。

どこか一つの会社に勤める以上、例えばSNS一つとっても自由に発言できなくなる。実際、以前勤めていた会社でSNSへの書き込みを咎められたことがある。今のわたしは、もうそのことに我慢できない。自分の名前で、自分の責任の範疇(はんちゅう)で、自分の思ったことを発信したい。であれば、自分の生活を支える会社や個人を複数に分散し、無闇な忠誠心を発揮しない仕組みを作った方がいい

そういうわけで、派遣で週3日働くことで一定の収入を確保しながら、別の会社からもフリーランスとして仕事を請け負うようになった。さらには、自分で本を作って売るという楽しい仕事の仕方も習得して、約1年前からは派遣ではなく業務委託として仕事をするようになり、冒頭に説明したような複合的な働き方をすることになった。2019年に始めたバーのバイトは今も継続していて、4年目となった。基本的には一人で黙々とパソコンやらタブレットに向かう毎日を送る自分にとって、週に一度雑談補給の場があるのはありがたい

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「月に吠える」でお客さんと雑談中の碇さん

また、前から薄々感じていたのだが、わたしがいちばん仕事に集中できるのは18時以降なのである。これは会社員で言うとほとんど定時を過ぎた時間にあたる。「朝型か夜型かは自分の努力ではどうにもならない部分があり、ほとんどが遺伝子によって決められている」。そう医師が語っている記事を読み、きっとこれにも諸説があるとは思いつつも、都合よく解釈した。

それで今は冒頭のような時間帯で生活している。朝型に憧れる気持ちもいまだになくはないが、自分が効率よく働けるのはこのやり方だと今は思っている。

自分の性質を知ることで雇用形態へのこだわりが薄れていった

かつて「正社員以外あり得ない」と思っていた頃に比べると、今のわたしはどう変わったのだろうか。さまざまな変化があるが、その中でも大きいのは、自分の性質を理解するようになったことかもしれない。自分は何がしたくて、何をしたくないのか。何が得意で、何が苦手か。軸を自分の中に置き直した結果、さまざまな人たちとゆるやかに関わりながら仕事をすることが、自分にとって息がしやすい働き方なのだと知った。

要するに、雇用形態よりも大事なのは、自分自身がどうしたいか、である。もちろん、フリーランスの保証のなさには不安がある。しかし、自分が息をしやすい環境を選ぶ方が、結果的に健康なまま働き続けられるはず、と今は考えている。

今後も自分は変化するであろう。わがままな自分に付き合い続け、その都度働き方を調整していけたらいい。

この考えに至るまでには、ずいぶん時間がかかった。かと言って「早く軸を自分の中に取り戻せ」と昔の自分に伝えたいかといえば、そんなことはない。その時々、一生懸命やってきたはずの過去の自分に説教などしたくない。ただ一つ言えることがあるとしたら、無職期間中に誘われた出版社の単発バイトには絶対に行ってほしい、ということくらいだろうか。蓋をしていた思いを口に出し、働き方を変えるきっかけをくれた人には感謝している。

編集:はてな編集部

いろんな「働き方」をのぞいてみよう

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著者:碇雪恵さん

碇雪恵さんプロフィール写真

1983年、北海道生まれ。出版取次の会社や出版社での勤務を経て、現在はフリーランスのライターとして活動。新宿ゴールデン街「月に吠える」店番なども行っている。2022年にZINE『35歳からの反抗期入門』を制作し、話題を呼ぶ。

Twitter:@yucchi_ro_rin

共働きの家事育児分担で不満をためないコツは?夫婦がしんどくならないためのコミュニケーション

共働きの家事育児分担で不満をためないコツは?夫婦がしんどくならないためのコミュニケーション

「家事・育児分担をスムーズにするための、夫婦間コミュニケーションのヒント」について、マンガ家・水谷さるころさんにつづっていただきました。

多様性が浸透する中でも、無意識のうちに「妻だから」「夫だから」といった性別による“役割”に捉われてしまうことは少なくありません。水谷さんも初婚時、性役割の意識によってつらい思いをし、離婚を経験したそう。

夫婦といえども価値観の違いがある中、お互いが不満をためないために大切なのは「自分の中の思い込みを手放すこと」と「互いの価値観を開示し合うこと」だと語ります。

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マンガ家・イラストレーターの水谷さるころです。30歳で結婚して33歳で離婚し、その後、自身の結婚観を見直した経験から、最近は「日常、結婚生活」を主なテーマにエッセイを描いています。

私は「働く父と専業主婦の母」の元で育ち、以前は「家のことは女性が中心に担うもの」という価値観を無自覚に踏襲していました。初婚では、共働きでありながらそういった価値観を自分に当てはめようとしたためにうまくいかず、離婚を経験。その後、同じく離婚歴のある夫と事実婚を選択。お互いに以前の結婚での反省を生かして家事や育児に取り組み、10年ほどたった現在も一緒に小学3年生の息子を育てています。

今回は、私も夫も互いに不満をためないためにどのようにコミュニケーションを取り、家事や育児を分担してきたのかについて、お話ししたいと思います。

離婚の反省をふまえ、従来の価値観に捉われない「家事分担」を目指した

わが家は共働きで、家計は割り勘です。家事は、夫が炊事全般を、私がそれ以外の掃除洗濯などを担当することで分担。現在は夫婦そろって在宅ワークなので、私はほとんど毎日3食、夫が用意してくれた食事を食べています。

こういう話をすると同性から「食事を用意しなくていいなんて、うらやましい……!」とよく言われるのですが、こうなった背景には、初婚での「反省」がありました。

初婚時も今と同じく共働きでしたが、私は自分の仕事をしながら、家事のほとんどを一人でこなす毎日。料理は元夫の好きなものを毎日作り、私が夜出かける時は、夫の食事を用意して冷蔵庫に入れていきました。無自覚に「そうするもの」だと信じていたからです。

最初は「結婚」への憧れもあってそんな生活も楽しかったのですが、私が仕事と家事を頑張れば頑張るほど、私がやるのが当たり前の状態になっていきました。そうするうち、お互いが思う責任の範囲、やるべきことなどがどんどんすれ違うようになり、やがて離婚。

現パートナーの夫とはもともと仕事仲間で、このような「どうして結婚生活を失敗してしまったのか」という原因をお互いに話し合う「結婚反省会」をきっかけに仲良くなりました。そういった経緯もあり、再婚にあたっては「今度はこうしたい」とよく話し合ってから共同生活をスタートしたのです。

再婚して10年。その間には2人の意見がぶつかってしまうことも多々ありましたが、試行錯誤を重ねた結果、次のような視点を大切に考えるようになりました。

・「女(妻)だから、男(夫)だから、これは自分がやらなければ」という思い込みを手放す

・相手に家事などのタスクを任せるときは「ここまでのレベルに仕上げるべき」と自分だけで勝手に決めずに、お互いにとって快適な状態を目指す

・相手が自分の価値観に寄り添ってくれたら「感謝」を忘れない

・不満がある場合は、ためる前に相手に「開示」。互いの価値観を尊重しながら、双方が納得できる答えを探す


ここからは、上記をふまえて具体的にどのようにコミュニケーションしているのかを紹介していきます。

しんどくならないために「やらなければ」という思い込みを手放す

わが家では、家事を「やる気がある方がやる」という方針で分担しています(もちろん、片方に負担が偏るなどして不満を持つことがないように、という前提です)。

私は初婚時こそ「一汁三菜の食事が必要」と思い込んでいたものの、もともとは食に関心がなく、料理のモチベーションも低い方。離婚後の一人だった時期は、何を食べるか考えるのも億劫(おっくう)になり、何も作れなくなってしまいました。

一方、現夫はもともと「家事は主に女性がするもの」といった思い込みがなく「やれる方がやればいい」というタイプ。彼は以前の結婚生活で「夫としての役割」を期待されていたことが不満だったようで「夫が炊事をしたっていい。それに男だからといってリーダー的な責任を負わされたくない。再婚後はフェアにやりたい」という意見でした。

夫と付き合い始めた頃、カップ麺ばかり食べていた私を心配して、彼が食事を作ってくれるようになりました。そんな流れでわが家では「炊事」が夫の役割となり、逆に夫があまりこだわらない「掃除」が自然と私の担当になったのです。

「やるべき」という思い込みを手放す棚卸し作業

離婚を経験しなければ、私は「食事を作る妻の役割」へのこだわりをなくすことはできなかったかもしれません。自分を追い詰めていた大きな原因は、「妻の自分がやるべき」という思い込みを手放せずにいたことでした。

離婚後の私には「誰かが私のために食事を作ってくれる、世話をしてくれる」という状況が心に深く染みました。そこで気付いたのは、相手に尽くすのが当たり前だと思っていたけど、実際は一方的に相手の世話をするだけの生活はつらく、私もケアをされたかったんだ……ということ。家事分担の方針を見直してから、精神的にもすごく楽になったと感じます。

相手にタスクを任せるのであれば「理想のレベル」は設定しない

夫婦間の家事育児分担でもう一つ痛感したのが「このタスクはここまでのレベルに仕上げることが必要だ」と設定しているのが自分である限り、それを人に受け渡すのは難しいということです。

例えばわが家では、夫がキッチンの主になって数年たった頃、私がキッチンを片付けた際に夫から「物の場所が元通りになっていない」と小言を言われることが増えました。でも私は夫ではないので、夫の考える最善の利便性を同じように考えることはできません。

自身も初婚時は元夫に対して同じような不満を抱いていましたが、怒られる側に立ってみて初めて「自分で判断して決めたわけではないルールを完璧に覚えるのは難しい」と気が付いたのです。

自分のテリトリーにおいて自分のルールで運用するということは、相手に頼めることが「お手伝い」の範囲に限られてしまうということ。そこで夫と話し合い、道具の配置をざっくりとでも覚えておけば戻せるような配置に変えてもらいました。

夫が素直に私の意見を聞いてくれたのは、夫も過去、キッチンを取り仕切る元妻から、何かと小言を言われる体験をしていたことが大きかったです。お互いが以前の結婚生活で逆の立場を体験していたことで相手の気持ちを理解しやすく、お互いにとって納得のいく解決策を見出すことにつながりました。

結局、家事を分担し共同で家庭内のタスクを回すにあたっては、「誰が何をやるか」より、「誰がタスクのルールと達成レベルを判断するか」の方が重要なのだと思います。そのため、わが家では「ダメ出ししない」「お願いをして、やってくれたら感謝する」というルールを決めました。

「私は毎日掃除機をかけたいけど、夫は毎日じゃなくてもいいと思っている」
「私は毎日同じ食事メニューでもいいけれど、夫は毎日同じだと嫌がる」

といった具合に、「ここまでやればいい」という価値観が夫婦間で異なるケースはよくあります。価値観と判断が2人の間でズレている限り「あなたはやっていない/できていない」と「私はやっている/できている」の話し合いはすれ違うばかりでしょう。

2人の価値観が違うとき、わが家では「あなたはそうなんだね、じゃあどうしようか」と話し合うようにしています。お互いに譲れるところは譲り、相手が合わせてくれたときは感謝することで「お互いにとって快適な状態」を2人で作るためです。

例えば夫が「濡れた洗濯物を、洗濯かごに他の洗濯物と一緒に入れた」とき。「他の洗濯物もカビたり臭くなったりしちゃうじゃん!」と怒りが湧くのをグっとこらえて「他の洗濯物もカビたり臭くなったりするかもしれないから、濡れた洗濯物は別にしておいてほしい」と伝えます。

そもそも彼には「カビるかも」とか「臭くなるかも」という想定がなかったり、仮にそうなったとしてもあまり気にしないかもしれません。

そんな相手に正当性を主張してもうまくいかないので、落ち着いて起こりうる不利益を伝え、「○○しないとダメでしょ」ではなく「○○してほしい」と自分の希望を伝える。結構難しいのですが、「ダメ出しせず、お願いする」のは相手の価値観を尊重することなので頑張ってやろうと決めています。

不満が出たら、ためる前に開示。互いの価値観を尊重することを忘れない

2人の生活においては、「家事を完璧にこなす」ことよりも「別々の人間が快適に暮らす」ことの方が大事だと感じています。そのためにわが家で重視しているのが、夫婦でお互い「自分はこういう状態が居心地がよい」と開示し合うこと。

不満はためずになるべく早く相手に開示し、理解できれば寄り添う。もし、お互いがどうしても理解できないなら「相手はそういう価値観なのだ」と諦める。相手が「変わる」と期待することを諦めたとしても、それが自分たちが出した答えなら納得ができる。

もちろん、その話し合いは非常に労力がかかります。でも、お互いが理解し合うことができればその後の生活はぐっと楽になります。

私たちが話し合いにコストをかけるのは、そうしないと、また「離婚」をすることになってしまうと思っているからです。結婚生活はメンテナンスなしには維持できないと痛感しているので、頑張ってやっています。

夫婦での価値観の擦り合わせ

夫婦でのコミュニケーションを重ねた結果、わが家は「不満をためない」「尊重し合う」「理想を共有する」といったところまではできるようになりました。

でも、実際にはまだまだ足りないことばかりだと感じます。

例えば、子どものケアについて。私は「生活のケア」のほか「感情のケア」も育児のタスクだと思っているのですが、夫はあまりそうは思っていないようでした。

私は子どもから親に対して「なんでも聞いてくれる」という信頼がなければ、本当に言いにくい話をしてもらえないと思っており、そのために「親にとってはどうでもいい情報でも、興味がなくても延々と聞く」を意識しています。でも夫はそんな私の態度を「寄り添い過ぎ」と感じており、「自分がその話を聞く意味があるのか」を自身の基準で判断していました。やはり「ここまでやればOK」という基準が違うのです。

彼を否定するのではなく「そういう価値観なんだな」と理解して、私は「息子が本当に困ったときに話をしてもらえるように、興味のない話も聞いている」「でも、私もそれが全く疲弊しないわけではない」「あなたは私と同じようにしなくてもよいけど、私は意図して労力を割いているので、そこは評価してほしい」という話をしました。

価値観が違って、行動が違っているとしてもお互い理解はしていたい。そうすれば、相手が同じように行動してくれなくても納得はできるし、「こうしたい」という思いがある方が、頑張ろうと思える。実際、息子の「話を聞く」件についても、価値観を共有できたことで「私ばっかりやっている」とはあまり思っていません。

ちなみにわが家の場合は、息子が夫にあまり話をしないという明らかな「結果」が生じたことで、夫の考え方に変化があったらしく、最近は私が息子を叱ったあとに夫が慰めるといった「寄り添い」をするようになっています。

この先またきっと、私から夫に、もしくは夫から私に、価値観の違いから不満を持つことが出てくるでしょう。共同生活というのは、その繰り返しなのではないかと思います。

これから先も、試行錯誤は続く

私たち夫婦はマンガの印象から揉めているように見られがちなのですが、実際の私たちを知っている知人や友人からは「夫婦仲がいいですね」と言われることが結構あります。話し合いにかなりの労力をかけているので、その成果なのかもしれません。とはいえ、わが家の話し合いは現状私からの働きかけが多いので、たまに「さるころさんばかりに負担が掛かっているように見える」「私はこんなにやりたくない」と言われることもあります。

でも私は、私だけが「家族のために」労力を割いているとは思っていません。私は家族が安心して過ごせる環境作りを目指していますが、実際は「8割」くらいは自分のため、残りの2割が子どもや家族のためと思ってやっています。一番は、私が「安心して過ごせる」場所がほしいのです。

夫がちゃんと私の話を聞いて、折り合いをつけようとしてくれているのを見るとやりがいを感じるし、感謝もしています。私一人では、私が望む「快適な家庭」は作れません。

今の頑張りが、将来の自分を楽にしてくれるという期待もあります。実際に、結婚当初より夫婦げんかの回数は減り、コミュニケーションはスムーズになりました。労力はかかりますが、信頼を築くために話し合いは必要なことだと思っています。

これからも私たち家族全員が「納得できる」状態を作れるように、ずっと試行錯誤していくのだと思います。


編集:はてな編集部

家事育児をめぐる不満、相手にどう伝える?

離婚するほどじゃないけど、モヤモヤする……。そんな気持ちを言語化してパートナーへ伝えるコツ
夫婦間のモヤモヤ、ため込まず伝えるには?
夫に怒りをぶつけるのをやめた|川口真目(カワグチマサミ)
相手につい「怒りの感情」をぶつけてしまいそうになったら
共働きの家事育児をめぐるモヤモヤは、討論ではなく“対話”で解決する。パートナーシップの専門家に聞く「すごい対話術」
夫婦間の価値観の違いは、対話で乗り越える

著者:水谷さるころ

水谷さるころ

1976年1月31日千葉県柏市生まれ。イラストレーター・マンガ家・グラフィックデザイナー。旅行記『30日間世界一周!』『35日間世界一周!!』など。エッセイ『結婚さえできればいいと思っていたけど』『骨髄ドナーやりました!』『子どもにキレちゃう夫をなんとかしたい!』など。現在子有り事実婚。趣味の空手は弐段。古墳が好き。
公式サイト:Salu-page

30代の停滞感を「着物」が解消してくれた。初心者として学ぶ楽しさは、自分の可能性を広げる

山本梨央さん記事トップ写真

30代になり停滞感やつまらなさを感じていませんか。

ある程度“経験値”が上がってくると、誰かに何かを教わったり、新しいことに挑戦したりする機会が減っていきがち。仕事や生活はそこそこ充実しているはずなのに、慣れて「ルーチンワーク化」している日常に、物足りなさを感じている方は多いのではないでしょうか。

とある企業での編集職を経て現在はフリーのディレクターをされている山本梨央さんも、「自分が想像できる範囲のスキルアップに留まっている焦り」を感じていたそう。

そんな山本さんに変化を与えてくれたのが「着物」という新しい趣味の存在です。着物を通して全く新しい世界を覗いていくことに楽しさを覚え、30代の停滞感から抜け出した山本さんの体験を書いていただきました。

30代に入って感じた「頭打ち」感から、着物に挑戦

私はいま、ほぼ毎日着物を着て生活しています。日本舞踊や茶道をやってる人? 着物にまつわる仕事をしている人? いえ、そういうわけではありません。仕事はフリーランスのディレクターです。Webメディアのコンサルや映像・Podcastのディレクターをやることもあれば、まちづくりに関わることもあります。

いろいろと幅広く仕事をしていますが、とにかく「着物を着る職業」ではないのです。ただ、私服として、みなさんが毎日のお洋服を選ぶのとおなじように、着物を選んで着ています

着物歴は1年と少し。約10年勤めた会社を辞めてフリーランスになる直前に、何か新しいことに挑戦したくて着物に手を出してみたのが始まりです。だから、フリーランスとしての仕事歴と着物歴がほぼ同じです。

着物姿の山本梨央さん
Podcastの収録立ち合いも着物で。右の着物は沖縄で買ったお気に入りの「琉球絣(かすり)」。

そもそも、30歳になる手前くらいから、言いようのない焦りが少しずつ自分の中に溜まっていく感覚がありました。

私が10年ほど勤めていた会社は、入社当時は社員数15人にも満たないベンチャーでしたが、その後、100人にも迫るほど急拡大しました。年齢はまだ20代でも、社内ではベテラン。事業部長を任されて、マネジメントも経験しました。

自分の上には社長しかいない、という時期が長かったこともあり、上の立場の人から何かを教わる機会がほとんどなく、自分の気づいていなかった伸びしろを誰かに押し広げてもらえるような経験があまりありませんでした。「自分が想像できる範囲のスキルアップにとどまっている焦り」があったのだと思います。

また、社内でも、取引先でも、比較的同世代の人たちが多かったため、自分より10歳〜20歳、もしくはもっと年上のロールモデルとなるような生き方をしている女性との出会いがあまり多くありませんでした。たまに出張先で「かっこいい!」と思うお姉さんに出会うと、その街へ行く度に飲みに誘って、憧れをさらに募らせてはいました。

しかしもっと身近に、もっとたくさん、いろんな年齢層の方と出会ってみたい。そう思っていたのです。

その後、30代も半ばにさしかかり、自分のキャリアを見つめ直しているタイミングで、何か思いもよらない趣味やスキルアップに挑戦したい。その挑戦の先で、憧れられる人生の先輩にも出会えたらラッキー。そんなことを考えていたときに「それなら着物はどう?」とパートナーに声をかけられました。こうした経緯で着物生活を始めてみることに。

実は私の実家は古くから続いているお寺。着物を着こなせていたら格好がつくのになぁと思った場面も何度もありましたが、「難しそうだし、お金もかかりそうだし」と諦め続けていたのです。

実家のお寺で祭りを手伝う山本梨央さん
実家のお寺。昨年初めて、お祭りの裏方を着物でやり遂げました。

着物を始めるハードルは、実は低い

着物にチャレンジしよう!と決めたものの、どこから手を出したらよいのかわからず、とりあえず着物系のInstagramアカウントをフォローして眺めていました。すると、とっても素敵だなと思っていた方のストーリーズで「古着で1000円でした!」というような情報が流れてくるではありませんか。

着物って何万円もするものじゃなかったの? 古着ってそんなに簡単に手に入るの? と途端に現実的な興味が湧いてきました。なんとなく、東京で着物を買うなら浅草あたりにたくさんありそう、という安易な考えで浅草の着物リユースのショップを巡ることに。

でもなんだか怖いなぁ、何も知らずに買いに行くなんて、怒られたりしないのだろうか。そんな気持ちで恐る恐る店に入って見ると、店員さんは「どうぞ羽織ってみてくださいね」と、とっても気さくでほっとしました。

その日訪れたどのお店でも「着物初心者です」と伝えると、とても喜んでくださいます。「お着物着る若い人、もっと増えてほしいのよねぇ」とか「着物を着ようと思うだけでも偉い!」など、まだ買ってもいないのに、その心意気だけで褒めてくれました。

始める前から自己肯定感が上がるなんて、絶対楽しいに決まってる! と、テンションが上がり、最終的に着物4枚と帯3本をゲットしました。

着物で仕事をする山本梨央さん
着物で出張や旅にも出ています。左は別府、右は尾道。

さて、家に帰ったら早速着たくなってしまいます。仕事柄、急な出張がかなり多く着付け教室にしっかり通えるような生活ではないため、YouTubeやInstagramの着付けノウハウ動画で覚えることに。近年はさまざまな方が着付け動画をアップしているので、iPhoneの中に着付けの先生がいるような感覚です。

もちろん中には、着物の布の中で手がどうなっているのか、帯の内側で手をどうやって動かしているのか、なかなか分かりにくいものもありますが、動画以外にもさまざまな情報がある時代なので、調べていけば自分に必要な情報にたどり着けます。

この写真はまだ着物を着始めて1週間くらいの頃。今見返すと、帯揚げ(帯の上側に巻いてある布)がふんわりぐちゃっとしているし、衣紋(うなじのあたり)の抜き方がわからず首元が詰まっていてあまりきれいじゃないけれど、当時は「なんか着れた!」というだけでうれしく思っていました。

着付け初心者の頃の山本梨央さん
初期の写真が残っていることで上達が実感しやすい。

ちなみに、古着だとサイズが合わないのでは……? と心配する方もいるかもしれませんが、女性の着物はおはしょり(腰回りで上下に折り返す部分)があるため、どんな丈でも着付け方でどうにかなります。腕の長さは人それぞれなので、「裄(ゆき)」と呼ばれる背中の中心から手首あたりまでを測ってもらい、そのサイズで着物を選んでいくといいですよ!

クラシックなものからレトロモダンなものまで、お店によって取り扱っているデザインが幅広いし、帯選びも楽しくて迷っちゃいます。

初心者からスキルアップしていく過程が楽しい

着付けを動画で見たり、雑誌を買ってヘアアレンジを覚えてみたり、工夫を重ねながら着物に取り組んでいるうちに「30代になるときに感じていた頭打ち感」から抜け出せたような気持ちになりました。想像できる成長に留まっていた毎日から抜け出して、新しい世界でゼロから学んでいく楽しさに夢中になっていたのです。

始めるハードルは意外と低いとはいえ、聞いたこともない用語や覚えることが多く、最初は必死でした。しかし、覚えたことが増えれば増えるほど、自分にとって快適な着方や肌に合うものが分かってくる。さらに、素材やサイズ感を変えたり、紐の結び方を変えるだけで明らかに自分の着付けがうまくなっていくのを体感できます。分かりやすい「スキルアップ」は、純粋にうれしいものだなと感じました。

着物で出かける山本梨央さん
着付けは10分〜15分ほどでできるようになったので、ちょっとしたお茶も着物で。

さらに、着物が身近なものになってから、映画や絵画の見方が変わりました。

小津安二郎監督の映画は昭和の日常の着物がたくさん詰まっていて、今まで何度も見てきた作品さえも、一時停止しながら「こんな色合わせがありなのか!」と参考にしたり。映画『極道の妻たち』は、襦袢の襟元の見せ方などポイントで参考になるものもありました。竹久夢二の絵画も、これくらいゆったり着る生活に憧れるなぁと眺めたり。着物を知ることで深く楽しめるものも広がったように感じます。

着物で麻雀をする山本梨央さん
着物と時を同じくして麻雀も覚え始めました。

初心者だからこそ、SNSに過程をアップしちゃう

着物をまだあまりきれいに着付けができていない頃から、SNSに写真をアップしていました。ネットやSNSで検索しても、極めきった「その道のプロ」は堂々と発信をしているけれど、うまくなるまでの過程や悩みはあまり引っかかりません。確かに、上達する前の状態を晒すのは恥ずかしい、という気持ちもあるでしょう。

それでも初心者の私がSNSにアップしてきたのは、着物にハマる前にやっていた編み物が原点にあります。コロナ禍で出かけられず時間があったときに編み物を始めて、どんどん難易度の高い服や編み方に挑戦していました。

その過程をTwitterにアップしていたところ、周りから「編み物の上達がすごい!」と声をかけられ、応援してもらえることが継続のモチベーションになりました。さらに、毛糸のメーカーからPR依頼が来たりと、思わぬ可能性も広がりました。

手編みのセーターや変形ニット
シンプルなセーターから変形ニットまで編めるようになりました。

着物も「ゼロから覚え始めてみたらすごく楽しい」とSNSに書いていたら、思いもよらない着物雑誌から執筆や出演のオファーが来ました。てっきり、雑誌なんてプロ中のプロしか関わらないのでは?と思っていたのですが、初心者だからこそのアイデアや疑問が強みになる、ということを改めて知ることになりました。

憧れられる人と出会いたいという気持ちも叶いました。古着屋さんには、着物についてたくさん教えてくれる店員さんがいます。Instagramに着姿をアップし続けていたら、実は着物が好きだという友人や、お母様が着物好きだったという人など、いろんな人が声をかけてくれるようになりました。

着物を日常に嗜んでいる先輩方は、私の母親世代だけでなく、おばあちゃん世代まで幅広い。そうすると、着物で家事をするような動きの多いときにはこうするといい、なども教えてもらえます。出会う人の幅が広がった影響は、着物に限りません。着物を通して出会った方々は芯のある生き方をしている方々が非常に多く、着物を切り口に知り合った方の人生観などもとても刺激になっています。

きっと何事も極めようと思えば思うほど「初心者としての時間」は限られてしまうと思います。だからこそ、初心者としての素直な気持ちや感覚をSNSに残しておくことは、後から振り返ったときに成長を実感できたり、みずみずしい感覚を思い出せたり、さらには周りの人に挑戦に興味を持ってもらえたりと、いろんないいことがあると思います。

何歳になっても「初心者」でいる時間を大切にしたい

すごくすごく気合いを入れて始めたというわけではなく、なんとなくふわっと始めた着物に、今はすっかり夢中です。

これから先も、ずっといろんな初心者でいられるような趣味や仕事を持っていたい、というのが最近の理想です。

実家の近くに東京電力を民営化した松永安左エ門さんが晩年を過ごした邸宅「松永記念館」があります。その邸宅は全てのお部屋が茶室になっており、長年「松永氏はどれだけ茶道を極めた人なんだろう」と思っていました。けれども、最近になって実は、彼が茶道を始めたのは60歳になってから、ということを知りました。

何歳になっても好奇心を持ち続けること、挑戦してみること、初心者となり誰かに教わるのを厭わないことが人生に彩りを与えるのだろうと改めて感じました。

今年は、着るだけでなく着物の仕立てにも挑戦したいと思っています。着物以外では、車のマニュアル免許も取ってみたいし、カメラも使いこなせるように覚えたいし、挑戦したいことは尽きません。これからも貪欲に、いろんな初心者になって自分の可能性を広げていきたいと思います。

山本梨央さんの免許証ビフォーアフター
最近、免許も着物で更新しました。クラシックな着物に似合う髪型を模索してぱっつん前髪を卒業。
編集:はてな編集部

「趣味」が仕事をもっと楽しくしてくれる?

趣味=将来の保険? 劇団雌猫に「推し事」も「仕事」も楽しむ秘訣を聞いてきた
「推し事」も「仕事」も楽しむ秘訣
観劇は、生きる力をくれる(文・横川良明)
観劇は、生きる力をくれる
仕事のモヤモヤは、お酒と漫画で消化する。漫画家・コナリミサトさんの“気持ちのゆるめ方”
仕事モヤモヤは「飲む・食べる」で解消

著者:山本梨央

山本梨央さん

新卒で通信会社の法人営業を担当した後、転職してクリエイター向け求人メディアの事業部長を務める。クリエイターの移住促進を目的としたイベント企画やWEB・映像制作、企業のオウンドメディアの立ち上げ、美大・芸大での就職支援などを経験し、2022年に独立。現在はWEBメディアのコンサル、発酵デパートメントの企業・自治体プロジェクトのディレクター、Podcast「ブックブックこんにちは」のディレクターを担当。BRUTUSや七緒、JobPicks、CINRAでの執筆も行っている。
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安達茉莉子|「結果」に執着することをやめた - 人生は副産物でできている -

 安達茉莉子

安達茉莉子さん記事トップ写真

何か新しいことを始めるとき、やる前から「結果」を気にし過ぎるあまり、一歩踏み出すのに躊躇(ちゅうちょ)してしまうことはありませんか。

誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、作家の安達茉莉子さんにご寄稿いただきました。

仕事や家事など、忙しく毎日を過ごしていると、物事を始めるときにまず「やる意味」を考えてしまいがちです。以前は安達さんも、結果に執着するあまり、物事に取り組む足取りが重くなっていたといいます。

しかし、コロナ禍にある印象的な言葉との出会いを経て、安達さんは徐々に結果や未来ではなく、現在の自分を起点に「まず、やってみる」という考え方にシフトしたそう。結果への執着をやめた先に見えてきた広大な世界とは?

***

「Life is what happens to you while you are making other plans.(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)」。

これは、アラスカの大自然の中で生きた写真家・星野道夫さんの著書『イニュニック 生命―アラスカの原野を旅する』(新潮文庫)に出てくる言葉だ。星野さんの友人でブッシュパイロット(航空環境が整備されていない僻地に物資などを届ける仕事)のシリア・ハンターさんの口癖だったという。確かに、人生は思い通りにいかない。いかないけれど、追い求めていたわけではないものが、気付けば自分の人生をとびきり豊かにしてくれていたりもする。仕事だったり、恋だったり、夢だったり。

もともと引き算思考の方が性に合っていて、いろんなものを手放してきた。中でも、今の自分の生き方を作ったもののひとつに、「結果」に対する執着を手放したことがある。そうすることにより、なんでも自由に手を伸ばせるようになった。

最近、私は中国語を始めた。別に中国語ができなくても誰にも怒られないし、何ひとつ困らない。ただ、知っている言葉が増えるのは単純に楽しいし、自分の世界が広がる。良いことだらけだ。

成果を誰にも求められずに日々学び続けているとき、私は見渡す限り晴れた日の草原を走り抜ける柴犬の姿を思い描く。自由にのびのびと、あの丘の上にある木に向かって走ってみようとか、あの辺を掘り起こしてみようとか、柴犬なのにイルカみたいにジャンプしてみようとか、遊び心がむくむく湧いてくる。何もない草原でお日様の光を浴びながら眠ったっていいし、誰かにお腹を撫でさせてあげたっていい。

そして、そんな自由な遊び場から、思いもよらず自分の仕事につながる芽が出てきたり、縁が繋がっていくから人生は不思議だ

昔だったら、「時間とお金と労力をかけて中国語をやる意味は?」と、内なる芝犬を小屋まで引き戻しただろう。だけど、結果に執着するのをやめるようになって、私の日々は自由な柴犬が駆け回る無限のドッグランのようになった

安達茉莉子さん記事中写真

「結果」に執着するあまり、卑屈になった日々

もともと結果に対する執着は強い方だったと思う。高校時代は、大学受験という目標を設定し、そこに向かって進んでいくことが良いのだと疑いもしていなかった。

大分県の山間部で生まれ育ち、多様な生き方のサンプルが絶対的に少なかったのもあるだろう。都会にいるといろんな人がいるなと日々思うけれど、人口が少ない田舎にいると、変わり者として生きていくことの心理的コストは大きい。それゆえか、道を外れたり、挫折することを無意識に恐れるようになったのだと思う。

就職してからは、仕事の成果を当然求められる。20代の頃、「人財」という言葉を職場で目にすることがあった。その頃はまだナイーブだったので、いるだけで財産になる人材……という意味の造語を見て、喉の奥をぎゅっと締めつけられたような気持ちになった。すぐにでも目に見えた結果を出さなければ、自分の居場所はないような気がしていた。

そうして必死に働いていると、何事も優先順位をつけざるを得なくなり、やる意味があるかどうかをまず考えるようになった。時間的にも経済的にも余裕がないので、新しいことに挑戦するハードルは高くなる。そんなことしたってどうせ続かないし。そんなことしたってどうせ意味はないし。そんなふうに結果に執着するあまり、「やらない理由」ばかりを見つけるようになり、新しいことに取り組むのに後ろ向きになった。

30代前半で、作家として本格的に活動を始めた後も、不安はつきまとった。作家として食べていけなければ、未来がない。本を出さないといけないし、売れないといけない。そうすると、興味の赴くままに書くというよりも、まずは自分を売り込むことに必死になった。ただ、「人生かかってるんです! 自分を認めてください!」みたいな人が思い詰めたような表情で名刺を握りしめて近づいてくると、誰だってウッとなる。

今ならそれは分かるけれど、当時はそうすることが自分の未来につながる行為なのだと思っていた(書いていてしんどくなってきた)。やればやるほど裏目に出るし、必死な感じが人を遠ざける。それが分かるのに、どうしていいか分からない。

いつしか、どうせうまくいきっこない、どうせ売れない、ずっとこのままなのかもしれない。そんな暗い未来予想にとりつかれ、最終的には、誰も私に興味はないだろうと、ブックフェアに出店しているのに自分の名刺を配れないくらいに卑屈になっていた。

もちろん、結果にこだわったことで達成できたこともたくさんあるだろう。必要悪ならぬ必要黒歴史だったと思う。だけど、結果——望む未来を意識すればするほど、いつも悪い妄想に囚われていたように思う。欲しい未来を目指すあまりに、現実とのギャップに少しずつすり減り、いつしか前向きな努力をし続ける力が挫(くじ)けてしまっていたのだ

コロナ禍に出会った言葉がきっかけに

そんな結果への執着をやめたのは、いつだっただろう。

新型コロナだ。新型コロナによる社会の劇的な変動に適応する形で、「結果」に執着する観念を捨てざるを得なくなった

新型コロナが世界中に拡大していった2020年の頭、私は作家業と二足の草鞋(わらじ)で、海外留学関連の会社にフルタイムで勤めていた。

その会社が、ある日突然なくなった。海外留学事業は新型コロナの煽りを受けて解散されることが決定し、皆突然解雇されたのだ。

貯金なんてない。都内での一人暮らしを継続するのも難しく、妹夫婦の家に居候させてもらえることになり転がり込んだ。大海原に放り出されたような気持ちになったのを覚えている。

ただでさえ、新型コロナが発生した後の期間は、毎日状況が変わっていた。激しい水流の中で、その瞬間その瞬間、どう泳ぐかを身体全部で判断する。いつの間にかたくましいマグロのように、激流の中を泳ぎ続けられるようになっていった。

大海原に放り出されたすぐ後、運よくアルバイトを見つけて、作家業との両立が可能な範囲で週3で2年ほど働いた。その後、「週3でも大丈夫ですよ」と声を掛けてもらった都内のある財団で働くことになった。

そこで偶然の出会いがあった。ソーシャル・キャピタル論を研究している、社会学が専門の佐藤嘉倫先生にインタビューをしたことだ。

ソーシャルキャピタルとは、日本語で言えば社会関係資本のことを指す。物的資本だけでなく、人と人とのつながり自体がその人の人生にプラスにもマイナスにも働くことを示した概念であり、社会や地域の課題を解決する上で注目を集めていた。そんなソーシャルキャピタルについて、先生はこう言った。

「ソーシャル・キャピタルは“副産物”です」。

人間関係をプラスに働かせようと思って誰かに近づいても、不思議と期待したことは何も起こらないことが多いのだと。

それを聞いたとき、走馬灯のようにこれまでの人生の歩みを思い出した。本当にそうだ。確かに、作為したことは不思議とうまくいかないが(上記黒歴史参照)、あれこれやっているうちに、副産物として良縁にめぐり会えたり、思わぬことが仕事に繋がったりした

安達茉莉子さん記事中写真

全てのものは副産物。そう思うと、とても楽になった。それまで当たり前のように持っていた結果へのこだわりが、毎日状況が変わるコロナ禍の日々の中で、いつの間にか薄れていたことに気付いた。そもそも先生のその言葉だって、私がその職場にたまたま就職し、企画しなければ出会えなかった言葉だった。その選択はとても軽やかで、以前のように「やる意味は?」と自問自答を繰り返すことはなかった。単純にその場に私がいることで、生まれるものを見てみたいと思ったのだ。

作家としても、当初の拗れた自意識は、ゆでこぼしたみたいにどこかに消えてしまっていた。もっと認められたいという気持ちは今もあるけれど、それはやっぱり「副産物」。だから今自分が面白いと感じること、こうしたいと思うことを、楽しんでただやる。認められるかどうかは分からないけど、もっと良い文章を書きたいしもっと良い本が書けたらいいなと思う。ただそれだけで日々は十分忙しい。

合言葉は「何か起きるかもしれない」

こうして「以前と比べて結果に執着しなくなっている」と自覚してからは、意識的に結果に執着することをやめてみるようになった。

手始めに、普段使う言葉を「どうせ何も起こらない」ではなく、「何か起きるかもしれない」という合言葉に変えてみた。少しでも不安を感じたら、この合言葉を唱える。それでまあやってみようかな、となる。実際に行動を起こすと、確かに何かは起きる。やってみて、「ちょっと違ったな」「なんか合わなかったな」もまた大事な経験値だった。

例えば、居候していた千葉の妹夫婦の家を出てから、横浜の妙蓮寺に引っ越したのだが、そのときの決め手は「ここなら、なにか面白いことが起こりそう」という予感だった。その予感は正しく、妙蓮寺にはまちの本屋である石堂書店と、その姉妹店の本屋・生活綴方があり、そこで多くの人と出会って、いろんな関係性がただ生まれた。

さらに、本屋での雑談から生まれたZINEシリーズが累計5000部を超える販売数となり、その印税でゲットした自転車を夢中になって乗り回していたら、気づけば自転車の本(『臆病者の自転車生活』)を出版することになった。そのどれもが予想していなかったことだった。

安達茉莉子さん記事中写真

何かすればひとつ経験が増える。あと一段階段を上がれば違う景色が見えて、違う選択肢が見えるかもしれない。「結果に執着する」思考が身に付いていた私だけど、いったん慣れてしまえば「結果に執着しない」思考様式の方が圧倒的に精神的に楽なので、自然と慣れてしまった。

未来のための種まきはこれまでもやってきた。だけど、結果に執着することをやめて、「なんだか気が向いたらとりあえず」の精神で首を突っ込んでいると、まいているものは種というよりは胞子のようになった。細かく、何気なく、微細で軽く、どこまでも飛んでいく。種だと、一つ一つの結実が気になってしまう。だけど、飛ばした胞子の数なんて誰も覚えていないし行方だって追えない。人の放っているものは、本当はそれくらい微細で無限の可能性があるのだと思う。

結果に支配されなくなり、足が軽くなった

結果に執着せず、気軽にやってみるようにしたことは、生き方の変化にもつながっていった。

例えば、それまで自分を苦しめていた「絶対こうならなきゃいけない」という思考から解放された。自分にとって夢や目標だったものが、自分を励ますどころか自分を苦しめることはよくある。だけど、例えば書くことが好きなのであれば、まず書いて人に見せてみればいいのだ。それがどう化けるかなんて分からないし、胞子はどこに届くか分からない。やってみたら実はそんなに好きじゃなかった……なんて、いくらでもある。最初からお金になるかどうかなんて、きっと誰にも分からない。ただ、自分が動くことで生まれてくるものをみてみればいい。

また、フットワークも軽くなった。昔は人にジャッジされることを恐れて対人恐怖症気味だったが、結果への執着を手放した結果、芋づる式に自分がどう見られるかへの恐怖や執着もなくなったので、今は普通にどこにでも行けるようになった。面白そうだと思って、かつ状況的・金銭的に無理がなければ、なんでもやってみる。経験する前から意味があるかどうかなんて、判断がつくはずがない。

安達茉莉子さん記事中写真

何より、「経験」そのものを重要視するようになった。結果を出すことに執着していた頃は、途中過程は全て達成するための手段のように思っていた気がする。だけど違う。時として、「経験」それ自体が人生の中で大切なことだったりする。

旅行は何かの目的達成のために行くわけじゃない。大学院で勉強するのは、学び自体がその人の一生で必要なことだったりする。語学をやりたいと思ったら、やりたいからだけで十分だ。成長になんて繋がらなくていい。経験することは、人生における収穫だ。収穫した果実を、存分に味わうことに生きる喜びも意味もあると私は思う

未来は目指すのではなく、今から生成されていくもの

もちろん、結果や未来ではなく、現在自分がどう感じているかを大事にすることは、簡単なようで簡単でない。「結果を重視する価値観」、「未来」に向かって行動する癖があるとしたらなおさらだ。

だから、「今自分はどうしたいのか」を意識するちょっとした練習は、日々やってみても損にはならない。例えば、評価サイトに頼らずに「このお店は美味しいかな?」と直感を働かせてみたり(評価サイトを使うことはもちろん全く悪いことではない)。もちろん、そんな脳に負荷がかかる面倒くさいことやってらんないよ! というときもある。だけど、ちょっと今ある生活の軌道を変えてみたい、違う世界が見てみたい。そう思ったら、そんな小さな実験精神の繰り返しで、まだ見ぬ世界に至るかもしれない

未来に向かって走っていくより、「自分が本当に望む今を生きる」こと。「今」から未来は生成されていく。どのようにも人生は変わっていく。階段を一段登ってみた先に、違う景色が見えるかもしれない。曲がり角を曲がった先に、運命の人がいるかもしれない。

結果にこだわっていた頃よりも、はるかに視界は広くなっていた。無限に広がる選択肢。何がどうなるかなんて、分からない。ネタバレのない世界に今日も私は生きている。

編集:はてな編集部

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著者:安達茉莉子(あだち・まりこ)

安達茉莉子さんプロフィール画像

作家・文筆家。大分県日田市出身。東京外国語大学英語専攻卒業、サセックス大学開発学研究所開発学修士課程修了。政府機関での勤務、限界集落での生活、留学など様々な組織や場所での経験を経て、言葉と絵による作品発表・執筆をおこなう。著書に『消えそうな光を抱えて歩き続ける人へ』(ビーナイス)、『毛布 - あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE 』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)、『世界に放りこまれた』(ignition gallery)がある。
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20、30代は「うまくいかない日々」に悩んだ。でも小さな経験の積み上げが“今”につながった


「私の働き方、これでいいのかな?」「何もかもがうまくいかない……」といったモヤモヤを抱えていませんか。50歳を迎える今もIT業界の第一線で働く白川みちるさんも、20〜30代は同じような悩みを抱いていたといいます。

一見、華やかに見える白川さんのキャリアですが、新卒で入社した会社を1年で退職したり、仕事に打ち込み過ぎて燃え尽き症候群になってしまったりと予期せぬ変化に次々に見舞われ、アップダウンの激しい“思い通りにいかない日々”に悩むことも多かったそう。

そんな中で続けたのが「目の前のことを実直に続ける」こと。小さな経験の積み上げが、現在につながっていると言います。「明確なキャリアプランを持てなくても、うまくいかない日々が続いても、目の前の仕事を続けていけば何かにつながるのかもしれない」というヒントを与えてくれる、白川さんの歩みを振り返ります。


※記事中の情報(所属・肩書きなど)は2023年5月時点のものです

***

はじめまして。IT企業でエンジニアリングマネージャーをしている白川みちるです。エンジニアとしてシステム設計やプログラムを書いたり、新規事業のプロジェクトをマネジメントしたり……といった経験を経て今に至ります。

またサイドワークとして、Googleが開発したプログラミング言語Goを日本国内で盛り上げる「一般社団法人Gophers Japan」の監事や、Go言語を楽しむ女性やジェンダーマイノリティーの方々が集う「Women Who Go Tokyo」というコミュニティの主催もしています。

今でこそWeb・ITに関わるさまざまな活動をしていますが、この業界に入ったのは20代も後半。それまでは何がやりたいかがわからず、行き当たりばったりで迷いの多い日々を過ごしてきました。

現在も思いどおりにいかないことはたくさんありますが、システム開発を軸にさまざまな活動に携わることができていて、以前よりも「仕事・人生を楽しんでいる!」と自負しています。今回は、迷いがちだった私が、なぜそう思えるようになったのかを振り返ってみたいと思います。

氷河期に就職した会社を1年で退職。「やりたいこと」がわからず迷い続けた20代

わたしが就職活動をしていたのは「就職氷河期」と呼ばれた時代。たくさんの企業にエントリーのための資料請求をしても、女性だったこともあり1〜2割ほどしか資料をもらうことができず、非常に苦労をした記憶があります。

とにかく就職先を勝ち取りたく、手当り次第に次々エントリーし、最初に内定をいただいた金融系企業に営業職として入社。社会人としての研修や試験などに追われつつ、先輩社員にサポートしてもらいながら営業先へ足を運ぶ日々を送ります。

しかし「とにかく就職をしなければ」と選んだ会社・業種だったため、自分自身が何がやりたくて、何ができて、それをどう社会に還元できるのか……などといったことは一切考えられないまま。「このまま働き続けていいのだろうか……」と不安を抱えながら月日が過ぎ、結局は1年ほどで退職をしてしまいました。

当時は「第二新卒」という言葉や概念もなく、今よりも「入社した会社をすぐに辞めることは許されない」という社会の空気が非常に強くありました。こんなに早く新卒入社した会社を辞める人は周囲におらず「こらえ性のないダメな人」という烙印を押されることに。両親には大層悲しまれましたし、自身も「ああ、人生に失敗してしまったな」という落胆を味わいました。

その後は漠然と「なにかものを作るような仕事をしたいかもしれない」と思い、未経験でソフトウェアを開発する会社に就職したり、その後はこれまた未経験で雑誌編集の仕事に携わったり、数年ごとのスパンで職を転々としました。

「そのときを生きている!」といえば勢いがあるように聞こえますが、何をやっても続かない、これからのキャリアも考えていない、いきあたりばったりの人生だったのです。


「やりたい仕事」を頑張り過ぎたら、今度はバーンアウト

今の仕事につながるきっかけが芽生えたのは、30歳が見えてきた頃でした。当時オンラインゲームやインターネットサーフィンを楽しんでおり「掲示板やカウンターを自分でも作ってみたい」というモチベーションが生まれたのです。

プライベートでWebプログラミングを勉強し始めた頃、ちょうどWebやモバイル開発の黎明期が訪れました。システム開発の仕事の需要が増え、わたしも運良くWebやモバイルシステムの受託開発をする会社に入社できました。

30代といえば、学生時代の同級生には責任のある立場を任されている人が増えてくる頃。経験も年収も彼・彼女たちに遠く及ばず、いつまでも“修行中”のような自分を恥ずかしく感じ「せっかくやりたいことが仕事がつながったんだし、30代はシステム開発に軸を絞りしっかりと『継続』しよう」と決めました。

「とにかく仕事を継続する」をモットーに掲げてからは、積極的に知識のアップデートをし続けました。一方で当時勤めていた会社はとてもハードで、昼夜問わず働き、何日も帰宅せず会社に“暮らしている”ような状態。当時の自分の息抜きは「お酒」で、毎日仲間たちと浴びるように飲酒しながら、がむしゃらな、でも充実感もある毎日を送っていました。

そんな生活を4〜5年ほど続けた頃、大きなプロジェクトが打ち上がった途端、急に燃えつき (バーンアウト) てしまいました。いわゆる「燃え尽き症候群」と診断され、身体を動かすことができなくなり、休職を余儀なくされました。このとき、「継続」はただがむしゃらにやり続ければいいのではなく、やり過ぎてはならない「バランス」があることを身を以て知ったのです。

「私は、なぜ働くのだろう」を見つめ直した余白期間

「燃え尽き症候群」になるほど無理して働き続けてしまった背景には、「今度こそはしっかり継続したい」という気持ちはもちろん、“諦め”もありました。最初の就職からつまづき続け、貯金も少なく、生きるためにとにかくがむしゃらにやるしかない。「そういう人生しか自分には歩めないのだ」と思っていたのです。

バーンアウトをきっかけに、わたしははじめて「働き方を変えたい」と思いました。そうして、無理なく仕事を継続していく方法を考えることになります。まずは昼夜逆転もしくは数日に一度の睡眠、といった生活を改善すべく、決まった時間に寝起きし、毎日ウォーキングをし、お酒に逃げない生活を始めました。

さらに「やり続けること」だけでなく、「なぜやるのか」にも重きを置くようになりました。それまでは忙しさのあまり「来た仕事は全部やるしかない」と考え、思考を止めて目の前の仕事をひたすら打ち返す状態。それが、一度立ち止まったことで「どうしてサービスを作るんだっけ?」「なぜユーザーに使ってほしいんだっけ?」と考えることが増えました。

「サービスを作りたい」に加えて、「誰のために」「何を解決したいのか」という要素が仕事のモチベーションに加わったのです。

うまくいかず、迷い続けた日々の「積み重ね」が40代で実を結び始めた

一度立ち止まって働く理由を見つめ直したことで「せっかくシステム開発の仕事をしているのだから、作っているものにもっと面白さや意義を感じたい」という気持ちが強くなり、休職から復帰して数年ほど働いたあとで受託の会社をやめて自社開発の会社に転職。受託の会社でひたすらプログラミングしたことで磨かれた技術力は、転職後のプロジェクトやチームマネジメントにおいてもわたしを助けてくれました。

また、休職後に時間の使い方を見直し、日々に余白を持てるようになったことで、勉強会などを通じて幅広いエンジニアとの交流が増えました。エンジニア同士のつながりは、継続して技術を学び続けることを支えてくれましたし、そこで築いた人脈がコミュニティ「Women Who Go Tokyo」の運営にもつながりました。

そうして、30代から始めた「継続」が、紆余曲折を経て、40代になり徐々に実を結び始めたのです。

もちろん、40代も全てが順調に進んだわけではありません。親の介護という大きな課題にぶつかり、自分の時間をほぼ全て仕事・介護に費やした時期もあります。それでも、投げやりにならずにコツコツと仕事を続けてこられたのは、自分なりに「積み重ねてきた」という自負があったからのように思います。

かつてのように「行き当たりばったり」で進む道を決めるのではなく、「社会への貢献」と「自身の成長」を考慮した目標を立てる。そして、その目標に向かって「何をするか」「どう進むか」を考えられるようになったのは、これまでの「うまくいかず、悩み続けた日々」があったからこそだと思います。

少しずつでも、目の前のことを実直に続けることで拓ける道がある

わたしは今年50歳を迎えます。

かつてのわたしと同じように、今、思いどおりにいかないジレンマを抱えている20〜30代は少なくないでしょう。そんなときは「まずは目の前にあるものを、無理のない方法で継続する」を一番に考えてもいいのかなと、今振り返って思います。

「結果論」や「生存バイアス」なんて言われてしまうかもしれませんが、でもやっぱり、継続することで目標が見えてきたり、積み重ねが次のキャリアに生きることはあると思います。

わたしの場合は「システム開発」が軸にありましたが、もちろん積み重ねるものや目標のターゲットは仕事だけに限らず、生活の中で大事にしていることを続けていくことが自信につながるかもしれません。また、親や子どもなど、自分以外を第一に考えなければならず「継続」がゆらいでしまうこともあるでしょう。ただ、どんなことであれ、少しずつでも目の前のことを実直に続けることで拓ける道があると思うのです。

どんな人にも共通で言えることは、何をする・気づくにも遅過ぎるということはない、ということです。この先の人生の中で、今の自分が一番「若い」状態なのです。

編集:はてな編集部

「最近、うまくいかないことが多いな」というあなたへ

人間関係は基本面倒。だからこそ「他人」ではなく「自分」軸で考えてみる|文・深爪
「人間関係は基本、面倒」自分軸で考えてみて
“働くことが上手でないわたしは、気持ちの逃げ場を作りながらポクポク進む
「働くことが上手でない」私の働き方
仕事がうまくいかない=能力が足りない、ではない? 組織開発の専門家に聞く「環境」に目を向けるべき理由
仕事がうまくいかない=能力不足ではない

著者:白川みちる

白川みちるさんプロフィール画像

システム開発、組織やプロジェクトのマネジメント経験を経て、バックエンドエンジニアのエンジニアリングマネジャーとして働いています。プライベートでは「Women Who Go Tokyo」や「Go Conference」といった Go 言語コミュニティの運営や、大学院生 (2021年10月から学生をやっています) を楽しんでいます。長い人生はジェットコースターのようだけど、自分にとっての “豊かさ” を考えて追求することが好きです。

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休職しなければよかった? 「後悔」と「休んでよかった」の間を私は生きていく


適応障害で1年間の休職を選んだ(選ばざるをえなかった)ぱぴこさんに、当時の心境をつづっていただきました。

やりがいや使命感を持って働いていても、ふとしたきっかけで心身のバランスを崩してしまうことは誰にでも起こり得ます。

外資系のIT企業で働いていたぱぴこさんが適応障害(※)により休職したのは28歳のとき。それまで「働けなくなる」可能性についてまったく考えたことがなかったため、休職は想定外だったそうです。

今でも「あの時もっと頑張れていたら」と「休むべきだったし、休むことが必要だった」という相反する気持ちの間で揺れ動くことがあるぱぴこさん。しかし長い休みをとって回復したことで、「休む」が選択肢にあることの大切さも感じたそうです。


※適応障害:ストレスが原因で引き起こされる感情や行動の症状によって、仕事や学業、家事育児を行うなどその人の社会的機能が大きく阻害されたり、困難になっている状態のこと

***

仕事をしない。
この選択肢は長らく自分になかったものだ。

思い返せば、就職活動時は「働き続ける」を前提として職探しをしていた。キャリアを断絶させない観点から「専門性、手に職」の要素があり、自分の興味関心と照らし合わせて外資IT業界をキャリアのスタート地点に選んだ。

仕事を選ぶ上で重要なのは「一定以上の給与を得られること」「市場の将来性があること」「転勤がないこと」。「自分が働き続けることを前提とし、したい生活を実現できる」ことが第一だったのだ。

このように論理的・合理的・効率的な判断をしているっぽい22歳の私は、自分自身に「働きたいのに働けなくなる」イベントが起こるなんて、まったく!これっぽっちも!考えていなかった

キャリアの断絶はせいぜい結婚、妊娠、出産といった人生イベント程度だろうと思っていたし、それらは自分の意思でコントロール可能だとすら思っていた。

仕事は順調!だったのに。まさかの「適応障害」を発症

順調に仕事の実績を重ね、同じ業界で転職して2年目の5月。

上期の評価がよく、厳しくて顔も怖い部長から評価面談で「一人前と言えるんじゃないですか」とフィードバックを受け、下期に社内でも有名なビッグプロジェクトにアサインされた。

私以外は全員シニアの歴戦の戦士で「この案件を乗り切ったらどこでもやっていける」と口々に言われた。やり切れば文句なしに成長できるし、昇格も見据えられる状況だった。

技術もスキルも未熟だったけれど、顧客との相性やカオスな状況で生き抜く力がうまくはまって、予想外に楽しく仕事ができた。仕事の質、環境、メンバー全てに恵まれていたと思う。

しかし、調子がやたらいい時というのは、反転して不運が運ばれてくる(と思っている)。不運の詳細は割愛するが、12月ごろからプロジェクトとは直接関係のない社内ハラスメント事案が3件程度並行して発生し、大きなストレスをかかえ、翌年1〜2月には診断済みの適応障害となった。まさか自分がメンタルを病むとは思っていなかったが、ストレス処理とエスカレーション対応と仕事をバランスさせることができなかった。

仕事自体は楽しかったこと、顧客のオフィスに常駐する形で働いておりハラスメント事案との物理的距離があったことから、診断後も「仕事を休みたくない!」という気持ちで必死に働き続けた。働けてしまった。適応障害により軽躁状態に陥っていたため毎日2時間睡眠でも眠くならず、1日18時間を元気に働いていた。

ストレスで脳がバグっていたため1日6食モリモリ食べていたが、それでも体重がどんどん減り、ふとした瞬間に赤信号で横断歩道を渡りそうになったり、階段から落ちそうになっていた。

常に細い糸の上を綱渡りで歩いているような危うさがあり、一歩間違えれば横に広がる深淵に落ちそうな感覚だった。「死にたい」と思うことは一度もなかったが、毎日「死ぬかもしれない」と頭の片隅で感じている状態だった。どう考えても異常である。

療養と服薬による回復と、さらなる試練

休職に突入したのは、約10年前の4月1日だった。

「エイプリルフールって、できすぎかよ(笑)」と思うけれど、原稿用の作り話でもなんでもなく、悲しいかな事実なのである。

「絶対にこのプロジェクトをやりきりたい」
「自分に非がないことで負けたくない」
「今の仕事を手放したくない」

そんな気持ちで必死だったが、無理なもんは無理である。バタンキュー!状態で休職に突入した私は、適応障害による軽躁状態で働いていた反動をモロに食らい、反転してうつ状態で過ごすことになる。

お風呂やゴミ捨て、皿洗いとか全部無理。基本はずっと寝ている引きこもり状態で3カ月程度を過ごした。激務とストレスで12キロ減った体重は、薬と不健康な食生活によって18キロ増加。体重推移が新興国の株価みたいなチャートを描いていた。

休職時の記憶は正直ほぼない。何をしていたとか、どんな気持ちだったとか、何が大変だったとか、全ては断片的な記号のようであまり思い出せない。

ただ、当時は一人暮らしだったため「家賃の支払いが重い」「生活どうしていこう」という経済的な焦りが大きかった。医療費負担もあるが、躁状態の病状のひとつである過度な消費により、私の口座には当時の月給くらいの貯金しか残っていなかったからだ。

休職中は傷病手当金を受けとることができるが、給与とは違い「毎月同日に支払われる」ものではない。手当申請の手続きは、書類仕事が苦手な上にメンタルがアンヘルシィな私にとって、非常に困難な作業であったし、貧弱な預金といつ振り込まれるかわからない傷病手当金を頼りに生活するのは心細かった。

ただ幸運なことに、病気自体は適切に薬を飲み、隔週から月1程度の通院で順調に回復していった。療養と薬で病状が安定した7月ごろからは、急激な体重増加の解消も兼ねて週3プールに通えるほどになり、9〜10月に復職する方向で主治医や産業医と会話していた。

働いていた時に飲めずにいた抗不安薬や睡眠薬は、処方された容量を守って飲むことでメンタルに安定と回復をもたらしてくれたし、不眠も解消されて眠れるようにはなった。薬による浮腫みや体重の変動はあったものの、動けるようになりほっとした。

比較的順調な回復で復職目途も立ったものの、8月に婦人科検診を受けたところ腫瘍があることが発覚し、適応障害の治療とは別に入院と開腹手術が必要になる。腫瘍が見つかり悪性か良性かの病理検査の結果を待つ間は生きた心地がしなかった。

弱り目に祟り目って私のためにある? 辞書を引いたら私の名前のってる? と天を仰ぐほどの不運のフルコースである。

転職か、残留か。心機一転か、安心感か。揺れ動く復帰への気持ち

そうして目まぐるしい時を過ごし、予定より長くなった休職期間にも終わりが見えてきた。

休職直後は早く戻りたい!という焦りがあったが、休みが長期化したことで戻ることへの不安感や気まずさが焦りを上回ってきて、気持ちはグズグズとしていた。早く社会の一員に戻りたい気持ちと、復職の怖さで気持ちがグワングワンに揺れ動いた。長期休暇明けに元の職場に戻るのは気まずく、正直、めっちゃくちゃ、嫌だった。

そうは言いつつもずっと休職しているわけにもいかないため、1月に産業医面談、人事面談を経て、2月から10か月振りに復職、復帰することとなった。ほぼ1年休んだことになる。

復職時は人事や所属部門のボスと会話し、一時的に復帰しつつ社内異動先を探す形となった。ボスに「何がしたいの?」と聞かれたときは「病み上がりにwillを聞くな」と心の底から思った。

当時、所属していた外資系企業において、社内で部門を跨ぐ異動の場合はオープンポジションに応募、職務経歴書を出して面接→合格する必要があった。

他社への転職時と同じように履歴書や職務経歴書書類も作成していたことから、私は並行して転職活動を開始した。「気まずさ」から解放されるためにも外に出たいという思いや、できることなら環境ごとリセットしたい、逃げ出したい感情も当然あったからだ。

社内異動面接は、2~3程度のポジションを受け、1つが受け入れてくれた。結果、私は外部企業の内定を2つと、異動先の内定を1つ手に入れ、どうするかを選択することになる。

「転職 or 残留」の選択肢を得た上で冷静に考えると「新しい場所で働けるのか……?」という不安が湧き出てきた。あんなに「気まずい……」と悩んでいたのに転職に二の足を踏んだのは、内定した会社も外資系で現職と同様に「ハイプレッシャーで忙しい」会社だったからだ。

悩んだ結果、「新しい環境のストレスで再発したら終わり」と判断して元の会社への復職を選択した。この時の判断に、「勝手を知っていることの安心感」は大きく寄与した気がする。弱っている時に全てを新しくするというのは博打すぎるなぁと思い、大変さはあれども「知っている」場所の方がマシだと感じた。

ただ、最終的にこの選択ができたのは異動先の新ボスが、自社での休職やハラスメントの件を理解してくれ、寄り添ってくれたからという点に起因する。自分の努力や判断で手に入れたというよりも、単純に運がよかったと思う。


後悔はある。でも「休めてよかった」も嘘じゃない

「休職を経験してよかったと思いますか?」

こう問われたら「全然思わない」と答える。私は「休職期間があったから、今の私がいます!」とキラキラとしたことは言えない。休職もメンタル不調も経験しないで人生を終えられた方がいいだろう。仕事においても、顧客と一緒にゴールを見たかったし、チームの一員として結果を出せていれば、昇進・昇給も含めて違うキャリアになっていただろうなぁという思いは残る。

同時に「休めてよかった」も本当だ。メンタル療養もさることながら、長期休暇がなければ婦人科検診に行かなかっただろう。悪化させたり病気起因で休むことになっていたかもしれない。

エイプリルフールのあの日からそろそろ10年がたち、当時目指していた事業開発や企画の仕事を経験できていて、今の自分には満足している。今のキャリアは休職後の異動先で経験した新規立ち上げ経験の賜物でもある。

休職に至るほど追い詰められる経験はつらいものだったけれど、「休むべきだったし、休んでよかった」と心から思う。

気持ちとして「働きたい!」「休みたくない!」と思って無理に体を動かしていても、倒れる未来を変えられるわけではない。私自身、体が先に限界を迎える経験をして「限界の閾値」概念を得て休息・休養の重要さを理解するに至った。

「休む」選択肢を持ち、選べることが、持続可能なキャリアを作る

メンタル不調や休職を経験しないに越したことはない。だけど、人生に「まさか」はつきもの。自分自身、休職する状況に陥るなんて思わなかったし、不運のデパートを経験するのも予想外だった。

仕事でのメンタル不調だけでなく、家庭や家族環境の変化、健康状態の変化によって「今までと同じように働くことが困難になり、休息・休養が必要」な状況が発生する可能性は誰にでもある。そういった不運イベント発生時に「我慢する」「辞める」「転職する」だけでなく、「休む」が脳内選択肢にポップアップされて、かつ選んでほしい。私は「休む」を選択できず踏ん張ろうとした結果、倒れてしまった。

また、休むことが苦手なら休みを取る練習をしよう。ちょっとした有給をなんでもない日に取るなどはおすすめだ。ちょっと疲れたな、不調だなと感じる時の「平日休み」は気分がリフレッシュされるのですごく良い。しんどい状態でずるずると仕事をするより、1、2日の休みを取ってリフレッシュする方が簡単だし、再現性がある。持続可能なキャリアには休みは絶対に必要である。

当時から今までを振り返っても、「休むのは重要だよ」という教えはなく、仕事を休んで自分の態勢を立て直すという発想がなかった。自分が死なないためには撤退が必要な時があり、休みは逃げや負け犬の烙印ではなく立派な戦略であることを知らなかった。人間は「知らない」ことは選べないので、選択肢をもち選択するべき理由を知ることはとても大事だ。

「休んだ先にどうなるの?」という不安はあるだろう。しかし、必要な時期に休みを取らないと負債は大きくなって戻ってくる。そのことは、ここまで記載した私の経験からも感じてもらえると思う。

メンタルを病んだり休職しても、適切に回復さえできればキャリア再構築はできるし、自然に「やるか」とか「やらなきゃな」と思う日がやってくる。だからこそ、苦しい思いをしている人はその場所から離れる、休むという選択肢を選択すること。今回は以上です。

編集:はてな編集部

「なんだか、働くことに疲れたな……」と感じたら

「みんな頑張っているから休めない」と無理を重ねた私が、自分を大事にするようになるまで
「みんな頑張っている」と無理を重ねた私が、自分を大事にするようになるまで
“休み方迷子”を抜け出すためには日常の「深呼吸」が必要だった――HAA代表・池田佳乃子
「休み方」が分からないあなたへ
仕事を“休む”ことに不安を覚えたら。休職や離職を肯定する「キャリアブレイク」という考え方
離職や休職をポジティブにとらえる「キャリアブレイク」って?

著者:ぱぴこ

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限界OL兼インターネットの妖精。休職や転職を含んだキャリアの話や、DINKS生活を中心としたライフスタイルをテーマにゆるりと執筆中。
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育児中はフルタイムor時短の2択、ではない。“働き方の選択肢“はできるだけ多く知っておく

桜の花びらを持つ手

仕事と子育ての両立のため「会社員兼フリーランス」として働くちゃきさんが、ワーキングマザーが柔軟な働き方を実現する上で「選択肢を知ることの大切さ」について語ります。

子育て中の女性の働き方というと、「週5日フルタイムでバリバリ働く」もしくは「時短やパートなどで少しペースを落として働く」の2択をイメージする人が多いかもしれません。しかしちゃきさんは「自分のキャリアも大切にしながら、子どもとの時間もちゃんと持ちたい」と考え、正社員とフリーランスの両方の仕事をこなす「複業」という形にたどり着きました。

従来のスタンダードとは異なる新しい働き方を選んだことでどんな変化があったのか、また柔軟な働き方を考える際に気にかけておきたいポイントは何か、経験をもとにつづっていただきました。

***

こんにちは、「ちゃき」こと田原未沙記といいます。現在39歳、夫と共働きで小学3年生の娘を育てるワーキングマザーです。私は週2日会社員として働きつつ、フリーランスの編集・ライターとしても活動しています。

もともとは週5勤務の会社員でしたが、バリキャリでもない、ゆるキャリでもない、自分にとってちょうどいい働き方を模索した結果、会社員とフリーランスの仕事をほどよく両立させる「複業」という働き方を選択しました。2023年でこの働き方を始めて5年目。以前よりも仕事と子育ての両立がしやすくなり、心に余裕を持って働くことができるようになったと感じています。

もちろん同じワーキングマザーであっても、誰でも今すぐに選べる働き方ではないし、私と同じ働き方が合うとは限らないでしょう。

ただ、働き方の「選択肢」をできるだけ多く知っておくことは、仕事と子育ての両立を考える際に、自分にとってより最適な道を見つけるきっかけになると思っています。

この記事で私の経験や考えを共有することで、同じように悩む人の道を照らすきっかけになれば幸いです。

「3歳の壁」に直面し、子育てを優先するため転職活動を開始

私は現在、都内の会社で専門誌の編集者として週2日働いています(繁忙期だけは週5勤務に戻るという働き方です)。そしてそれ以外の時間は、個人で編集・ライターの仕事をしています。

今の会社は勤続12年目。もともとは週5日フルタイムでしたが、働き方を変えようと考えたのは、子育てと仕事の両立に悩んだことがきっかけです。

当時娘が通っていたのは0〜2歳が対象の小規模保育園。タイムリミットが迫り新たに3歳以降の預け先を探したものの、希望の保育園には入れませんでした。いわゆる「3歳の壁」です。

わが家の場合は娘を預かり保育のある幼稚園(通常の教育時間の前後に子どもを預かってもらえる)に入れることになったのですが、幼稚園は保育園と違い、両親の共働きを前提としていません。全員参加の係仕事、平日の呼び出し、母親同士の昼間の懇親会など、働いていると負担に感じる場面が多々ありました。

さらにお昼寝の時間がないため、長時間預けていると夕方まで娘の体力がもたず、お迎えの時に自転車で寝てしまいそのまま朝を迎えることも。

「もっと早くお迎えに行ってあげたい」
「子どもに関わる時間を優先したい」

こうした思いが日々強くなり、転職を検討し始めました。

「複業」という新しい選択肢に気付き、会社に交渉

当時の私の転職条件は「なるべく自宅近く・経験が生かせる・時短OK」。しかしなかなか見つからず、「希望の働き方をかなえること」ことと「子どもと向き合う時間を増やす」ことを両立するのは、こんなにも難しいことなのかと実感しました。

そんな中で偶然発見したのが「在宅で働くライター」の募集です。

当時は、今ほどリモートワークが普及していなかった時期。「そうか、場所に縛られない仕事ならもっと可能性が広がるのか」と気付き、これはチャンスかもしれないと思い切って応募することに。

一方で、転職活動をしてみてあらためて気付いたのが「働き方は変えたい」けれど、「会社を辞めたい」わけではないということ。人手不足の状況は理解していたし、辞めて迷惑をかけたくないという気持ちもありました。

そこで思いついたのが、会社員とフリーランスを組み合わせた「複業」という働き方です。当時の私は、業務で情報収集をする中で「働き方改革」や「パラレルキャリア*1」といった世の中の変化に触れ、新しい働き方についても関心が高まっていました。「もしかしたら、自分にもそんな働き方ができるかもしれない」と思ったのです。

ワガママは承知の上で「勤務日数を減らし、ライターの仕事と並行しながら働けないか」と、勇気を出して会社に交渉してみました。

まずは、もともと私の子育て事情に理解があった直属の上司に相談。さらに経営層との面談の際には「週2勤務に変更した場合、これまでの担当業務をどうするのか」を書類にまとめて提示しました。

また、万が一ダメだった場合は会社を辞める覚悟を持った上で交渉に臨みました。おかげで中途半端な交渉にならず、自分の希望をはっきり伝えられたように思います。

その結果、無事にOKをもらい、ほぼ同時に在宅ライターとしての採用も決まったので、今の働き方に至りました。この働き方を認めてくれた会社には今でも感謝していますし、その分きちんと貢献しなくてはと考えています。

ビルと青空
コロナ禍をきっかけに、今では会社の仕事も在宅中心へ

子育てとの両立だけでなく、自分の幸せや成長にもつながった

バリキャリ志向でもゆるキャリ志向でもない私にとって、今の働き方はとても心地よく、たくさんのメリットを感じています。その中でも、特に大きいと感じる3つの変化があります。

1.時間の使い方を自分でコントロールできるようになった

もっとも大きな変化は、時間の使い方を自分でコントロールできるようになったこと。

週2勤務になることで固定の労働時間がそれまでの半分以下になり、大きな心のゆとりが生まれました。さらに、フリーランスの仕事量は自分である程度調整できるため、かなり柔軟に行動できるようになりました。

そして本来の目的だった「仕事と子育ての両立」については、働きながらも娘と一緒に過ごせる時間が増え、平日の予定にも対応できるようになりました。小学校に上がってからも、保護者会への参加、宿題や自宅学習のサポートができています。「3歳の壁」には苦労しましたが、結果的に「小1の壁」対策になったわけです。

それに、自分の選択で時間の使い方を決められるようになったことで、人生の幸福度が大きく上がったような感覚になりました。

2.自分自身が成長し、視野が大きく広がった

二つ目の変化は、自分自身の大きな成長を実感できたことです。

会社員+フリーランスという働き方には、思った以上の相乗効果がありました。

一方で得たスキルや情報をもう一方でも活用できると、自分自身がレベルアップしていくのを感じます。特に私の場合は、会社でも個人でも編集・ライターの仕事に携わっているため、双方で得た知識を生かしやすいと思います。

さらに、フリーランスとして自分の名前で仕事をするようになったことで、何者でもない自分に依頼が来る喜びや、信頼を積み上げる大切さ、世の中の動きに敏感である必要性、学び続けていく責任感など、今まで知り得なかった感覚が磨かれました。

3.以前よりも収入がアップした

そして三つ目は、働き方を変える前よりも、収入がアップしたことです。

もちろん、最初からいきなり収入が増えたわけではありません。週2勤務になったことで会社からの給与は減りましたし、ライターとしての収入も当初はそれほど多くありませんでした。それでも、自分なりにいろいろと行動し続けた結果、フリーランスの仕事が徐々に広がり、以前の年収を上回るように。

会社員として年収を上げることは容易ではありませんが、フリーランスなら自分の努力次第で収入を大きく増やせる可能性があります。

ただしフリーランスの場合、当然ですが仕事が得られないと収入はゼロになります。実際に私も、2020年にはコロナ禍の影響でライターの仕事がストップした月もありました。だからこそ、安定的に収入がある会社員との兼業は、いいとこ取りの働き方だと思っています。

手帳
毎年愛用していた手帳たち。今は全てデジタル管理にシフト

自分らしい働き方を実現するには「自分軸・情報収集・お金の試算」がポイント

新しい働き方を取り入れる上では「自分にもできるかな」「収入はどうなるかな」といった不安も当然あると思います。そこで私の経験をもとに、柔軟な働き方を考える上で大切なポイントを挙げてみます。

1.「自分がどうしたいか」を大切にする

普段、働き方についてSNSやブログ、書籍などで発信していると、仕事と子育ての両立に疲れた人たちから共感や悩みの声が寄せられます。

「いつの間にか毎日から『自分』がいなくなっていた」
「もっと『自分』の時間が欲しい」
「母でも妻でもない『自分』を取り戻したい」

責任感や貢献心が強い人ほど、子どものため、家族のためと、自分を犠牲にして頑張ってしまいがちです。それは一見美しく見えるかもしれませんが、常に「家族など自分以外の誰か」を最優先にしていると、そのうち無理が生じて、自分を追い詰めてしまうように思います。

だからこそ、ここで考えてみてほしいのです。

「あなたは、これからどうしたいですか?」
「あなたにとって、結局、何がどうなれば幸せに過ごせますか?」

もちろん、最終的に「どう働くか」は家族とも相談する必要がありますが、自分を幸せにするにはまず主語に「自分」を置くことが何より大切です。

働き方を変えるにはかなりのエネルギーが必要です。踏み出して後悔しないためには、その先に自分の求めている幸せがあるかどうか、自分のキャパに見合う仕事や働き方ができるかどうかをまず考える。そこから逆算して、仕事を探す上での具体的な条件に落とし込んでいくのがいいと思います。

2.情報に対するアンテナを張っておく

柔軟な働き方を考えるには、いろいろな情報(特に新しい動き)に敏感であることも大切です。

例えばこの記事をきっかけに、週2勤務という働き方や、複業で仕事と子育てが両立できる可能性について初めて気付いたという人もいるかもしれません。

もともと私がこの働き方に思い至ったのも、専門誌の編集という仕事柄、情報収集する中で「働き方改革」の動きや「パラレルキャリア」というキーワードを知っていたからでした。

働き方改革、副業解禁、コロナ禍によるリモートワーク化、AIの急速な進展など、ここ数年の間にも働く環境はどんどん変わっています。「こんな働き方は無理だろう」と今は思っても、時代の変化が追い風になって実現できるかもしれません。世の中の動きを知っておくことは、新しい行動を起こす時の武器となってくれるはずです。

情報収集というと難しく感じるかもしれませんが、SNSやYouTube、ブログ、ビジネス系メディア、ネットニュースなど、無理のない範囲でチェックする程度でOK。今は個人の発信も多いので、多様なロールモデルも探しやすいと思います。

3.お金の不安は必ずクリアにしておく

仕事と子育ての両立が最優先だとしても、避けては通れないのが収入の問題。家族の生活や今後のライフプランをふまえ、お金の不安を解消しておくことが大切です。

今よりもゆとりのある働き方にシフトした場合、多くの人は一時的に収入が減ることが予想されます。そのため、以下のような点を確認しておくといいでしょう。

  • 現状の家計は黒字なのか赤字なのか
  • 自分の収入が減る場合、どの程度であれば生活できるラインを維持できるのか
  • 新しい働き方で収入が増える見込みはあるのか
  • 今の支出の中でもっと減らせる要素はないか
  • 今後、新しく家族が増える可能性はあるか

このような内容を中心に、家計への影響を具体的に試算してみるのがおすすめです。そして、夫婦間で共有することも忘れずに。

そこから逆算すれば、週4勤務でギリギリなのか、週3勤務でも大丈夫なのか、副業を組み合わせるべきか……など、具体的なプランを検討できます。

つい新しいアクションばかりに目を向けがちですが、現実的にはこういった「守りの対策」が重要です。しっかり足元を固めてから行動することで後悔を防ぎ、着実に理想の状態に近づけると思います。

小学3年生の娘が好きな鳥
小学3年生の娘の夢は、鳥の博士になること

“普通の働き方”に縛られず、可能性を知ることが第一歩

私の周りでも「週4会社員×キャリアコンサルタント」「週3会社員×Webデザイナー」といったように、新しい働き方を選択する人たちが少しずつ増えています。

これまでの「普通」や「常識」からもう少し視野を広げてみると、自分らしく働ける可能性が眠っているかもしれません。柔軟な働き方を選べる環境は、徐々に整ってきていると感じます。

誰もが好きな働き方を選べるわけではないし、さまざまな事情で自由に働けない人もいると思います。それでも、まずは「選択肢」を知っていることが、いつか自分の道を切り拓く可能性につながるはずです。

今の働き方にモヤモヤしているのなら、ちょっとだけ足を止めて、これからの働き方について見つめ直してみませんか。健やかで持続可能な働き方を考えることは、人生100年時代のいま、子育ての時期を過ぎたあとにもきっと役立つことでしょう。

今回こうしてつづった話が、少しでも何らかの気付きとなり、自分らしく働くためのきっかけとなることを願っています。

編集:はてな編集部

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著者:ちゃき(田原 未沙記)

ちゃきさんプロフィール画像

週2会社員(編集者)+個人でもライターとして働く一児の母。都内在住。文章に携わって15年以上、フリーランスでは5年目。著書に『脱・週5勤務の働き方』。
note:ちゃき|田原未沙記 Twitter:@Chakimama1

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*1:キャリアを開拓していくために、本業以外の仕事や社会活動などにも取り組むこと

「次の仕事を決めずに退職」を選択してみて。転職前の空白期間で進みたい道が見えた

 栗田真希

うつわの写真

念願のコピーライターの職に就いたものの、徐々に仕事に違和感やつらさを感じるようになり、思い切って転職先を決めず退職することを選んだ栗田真希さんに、次の仕事を決めるまでの空白期間を振り返っていただきました。

「今の仕事を変えたい」「違う働き方をしたい」と思いつつも、具体的な進路が決まっていないがゆえにやめる選択肢をとることができない……という人は多いのではないでしょうか。

次の仕事を決めてから退職する方がリスクは少ないはずですが、栗田さんは「まっさらな目で世界を見てみよう」と決め、あえて空白期間を設けたことで、次に進む道を決められたそう。

自分にフィットする働き方を決める選択肢として、栗田さんの経験は参考になることもあるはずです。

***

「辞めます」と上司に伝えたとき、その先のことはまったく決めていなかった。無謀で、無茶な、紐なしバンジージャンプみたいな退職だった。

そのままじっくり、8ヶ月ちょっとの休息期間を過ごすことになる。この時間が、わたしの人生の舵取りにおいて大切な時間だったと、いまでも思う。

憧れの道からの、退職

コピーライターになる。それは、わたしにとっては壮大で、なかなか手が届かない夢だった。

ところが20代後半、経理の仕事から、異業種未経験で広告制作会社に転職することができた。念願だった、コピーライターの名刺。それは恐れ多くて、肩書きに負けない自分にならなければと奮起させる重みがあった。

最初は怒鳴られてばかりの日々。それでも、ちょっとずつ仕事を覚えた。先輩のおまけではなく、コピーをひとりで担当するプロジェクトを任されるようになった。自分が担当した広告が、DMや、電車内広告や、パッケージになる。悔しいことの方が多かったけれど、うれしさも知った。

そんなコピーライターの仕事を、2年ちょっとで辞めた。「これからじゃないか。栗田さんには、コピーの才能がある」と引き止めてくれる先輩もいた。けれど、自分の心に嘘は吐けなかった。ちょうど担当しているいくつかの仕事の切れ目でもあったので、「いまだ!」と辞表を出した。

どうして、辞めたのか。

ストレスで身体中にじんま疹が出たり、デザイナーさんたちと一緒につくった広告がクライアントのひと声で世に出なくなったり……そういう積み重ねも退職の理由だ。

いちばんの理由は、仕事じゃないところで取材し書いたインタビュー記事が、広告の仕事よりも楽しかったこと。コピーライターとしてやっていくのは、難しい。はっきりとそう自覚した。とはいえ、インタビュー記事もそのときが初体験だったから、ライターとしてやっていくと切り替えるのも当時の自分には難しかった。ただただ、コピーライターとしての自分の将来に、希望が持てなくなってしまったのだ。

コピーライターの、次の道。

どこへ進めばいいか、分からない。だって、あれほど夢見たコピーライターという仕事を、辞めるのだ。ここ何年も、見据えてきた道は一本だけ。コピーライターになってから、忙しい業界に身をおいて、休みの日も勉強に費やすことが多かった。だから仕事を辞めてからでないと、次のことが想像できなかった。

「自分の好きはどこにある?」とことん向き合ってみることにした

まだ仕事を辞めるか悩んでいたとき、尊敬する友人のひとりに、こんなことを訊かれた。

「人生に欠かせない、好きなものを3つあげるとしたら?」

その問いかけに、思考が止まってしまう。答えられないほど、自分のことが分からなくなっていた。分からないなら、見つけるしかない。

退職するとき、全てをゼロベースで考えよう、と決めた。「ことば」を扱う仕事以外も含めて、まっさらな目で世界を見てみよう。好きなものを見つけ、生きていくために。

とはいえ、そんな悠長なことを軽々しく言えるような状況ではなかった。近い未来の確約がなく、貯金もたいしてない。失業保険というのは、自主退職だと給付されるまでに期間が開く。焦る気持ちもあった。

ただ、幸運なことにわたしは健康で、誰も養っておらず、貯金がいよいよ尽きたときに働こうと思えば、なんとでもなる。「なんとかなる!」と自分を鼓舞していた。愚かだと思われるかもしれないし、自分でもどうかと思うけれど、試行錯誤する時間を持とうと決めていたのだ。

ずっと前向きな気持ちでいられたわけではない。休息期間は、天国と地獄のミルフィーユみたいなものだった。幾重にも重なる心模様。辞表を出してから辞めるまでの心は、晴れ晴れしていた。退職後には、グッと気持ちが落ち込むことも、たびたびあった。自分が「おもしろい!」と思えるものに出合えたときには、胸が高鳴った。その繰り返しのなかで、ちょっとずつ前進した。

8ヶ月ほどの休息期間にやったこと

仕事を辞めてから、まず花屋さんに通った。近所の花屋さんとは、仕事終わりに立ち寄ったときにビールをごちそうしてもらったことをきっかけに、親しくしていた。お客さまのすくない時間帯にブーケのつくり方を教えてもらい、花卉(かき)市場での競りにも連れて行ってもらった。

夜、店に顔を出すと、店主のおじいさんは生花とドライフラワーに囲まれながら、年季の入ったギターをぽろぽろ弾いている。花のこと、働くこと……いろんな話をした。

練習して作ったミニブーケ

友だちに、作家もののうつわを揃えたうつわ屋さんに連れて行ってもらって、うつわにも興味を持った。陶器と磁器の違いも分からない素人のわたしでも、その奥深さに魅了された。作家さんの個展に遊びに行ってみたり、いいなと思ったうつわを家で使ってみたりした。うつわや屋さんの店主は芯の通ったすてきなおばあさんで、一緒にお茶をしてはいろんなことを教えてもらった。

だんだん自分が、生活を豊かにするものや、手仕事のものが好きなんだ、ということが実感とともに分かってきた。

図書館にも通った。無料で本が読み放題で、定職に就いていない身にはありがたい。少しだけ受けていたライターの仕事をするのにも、こんなに適した環境はない。よく、片道40分ほど歩いて大きな図書館に通っていた。

そうやって日々を過ごす中で、お金のなさにびっくりして、通帳を見て気分が落ちることもあった。東京は家賃が高い。みるみるうちに、残高が減ってゆく。

それでも、近所の八百屋さんで底値のキャベツを買って、どうしたらいちばんおいしく食べられるか試す時間は、豊かだった。お金の大事さを思い知ると同時に、自分にとっての豊かさは決してお金だけでは計れないとも学んだ。

ハローワークにも通い続ける。転職活動の報告をしつつ、失業保険をもらえたおかげで*1、じっくり腰を据えて仕事探しができた。

ハローワークへ行くと、なぜかちょっとだけ、もともとの猫背がさらにまるくなった。なにも悪いことはしてないのに。「これもいつか人生のネタになる!」と思うとちょっと気が楽になったので、訪れる際には声に出してから家を出るのをおすすめしたい。

休息しながらも、採用面接はいくつも受けていた。いろんな企業に面接しに行き、話を聞くことも、改めて自分の向き不向きを判断する材料になった。好きなものだけでなく、合わないものが明確になっていくと、迷いが減っていく。

ちなみにハローワークで転職の相談をすると「経理関係の仕事ならきっとはやく見つかりますよ!」と勧められた。わたしが新卒で入った会社で、簿記三級の資格を取得していたからだ。三級だからさほど専門的なことはできないけれど、資格は有利に働く場面もあるらしい。

でも、おおざっぱで飽き性の自分に、経理の仕事が向いていないのは、すでに経験して分かっている。「焦らない」と自分に言い聞かせて、さまざまな場所に顔を出しながら仕事を探した。

そうするうちに、心が定まった。「書くこと」をベースに、生活を豊かにするものや手仕事のものにかかわる仕事をしてみたい。

いろんなところへ行き面接を受けて、最終的に、長崎県波佐見町にあるやきものの商社に転職し、webメディア兼ECサイトの運営の仕事をすることになった。興味を持ちはじめた、うつわにかかわる仕事だ。

大事にしたいものが決まったから選べた、地方への転職

波佐見町の風景

転職を決めたのは、現地を視察させてもらったとき、土地のあちこちに、やきものをつくってきた歴史の積み重ねを感じたから。ノスタルジックな町並みの陶郷・中尾山を歩くと、苔むす用水路には、陶器の破片が落ちていた。陶磁器は1000度以上で焼かれているから、土に還らない。歴史がそのまま落ち、埋まっている。

波佐見町では、400年も昔から、やきものをつくってきた。この土地では、いまも多くの人たちがやきものにかかわる仕事をしている。人びとの暮らしを豊かに彩るうつわを、日本中に、そして世界中に届けているのだ。自分も好きになったうつわのことを、伝えるお手伝いがしたいと純粋に思えた。

取材をしたら、どんな歴史が掘り起こせるだろう。職人たちは、どんなふうにものづくりに打ち込んでいるんだろう。そんなことを考えると、わくわくが止まらない。

広告の仕事とは違い、ひとつの案件ごとではなく、じっくりとやきものについて書き続けられることも、魅力的だった。

九州には縁もゆかりもなかったし、やきもののこともそれほど詳しくなかったけれど、「おもしろいから飛び込んでみよう」と思えた。

書くことを仕事として続けるのか、という悩みは、休息期間中、ずっと心のどこかにあった。書くことは、好きだ。ただ、いまの時代、仕事にしなくても文章を書くことはできる。書く仕事の道は、わたしにとっては険しく、やっていける自信はそれほどなかった。

それでも、尊敬する人たちからの「書く仕事は続けた方がいい」「君は書くことに向いている」の声が、背中を押してくれた。数多の道を探って選んだことで、「ことば」にかかわる仕事をしていこう、と覚悟が決まった。

実際に長崎県に移り住み、働いてみて、わたしはとても満たされた気持ちになった。

町のあちこちに出向くと、いつも発見があった。工房を訪れ、職人さんたちにたくさん話を聞く。ときには学芸員さんにやきものの歴史をじっくり聞いた。絵付教室に週2回通って、自分でもうつわをつくる経験をした。

できたばかりの自社のwebメディアで、現地でライティング・編集ができるのはわたしだけ。東京の編集者さんに原稿をチェックしてもらい、企画、執筆、写真撮影、入稿、進捗管理、SNS運用など、できることはなんでもやる。

インターネットを検索しても出てこない、歴史、文化、技術、職人の思いを、コンテンツとして世に出せる仕事は、おもしろさとやりがいに満ちていた。

休んで自分の気持ちに向き合うことは、長い目で見れば人生にプラスになる

波佐見町で暮らして2年半。じつは、この春からまた東京に戻り、働くことが決まっている。波佐見町は離れがたかった。別れを惜しみつつ、笑顔で送り出してくれた人たちの顔を思い出すと、胸がぎゅっとなる。

じゃあ、あの休息期間と転職は間違いだったのか?

そんなことは絶対にない。波佐見町で暮らし仕事をしたことは、120%正解だったと断言できる。充実した時間を過ごせたからこそ、わたしはまた前に進むことができたのだ。

書く仕事に真剣に取り組んできたなかで「ひと記事ごとではなく、本の情報量で、おもしろいコンテンツを届けたい」と気持ちが変化してきた。うつわのように誰かの日常にずっと寄り添うような、そんな本をつくりたいと思うようになった。

次の仕事は、書籍の編集者。書くことはすくなくなるけれど、変わらず「ことば」にかかわる仕事をしていく。

あのとき、コピーライターを辞めずにいたらどうなっていただろうと、ふと考えるときがある。きっとそれはそれで、ちゃんと戦ってもがいて、違う正解を見つけていたんじゃないだろうか。人生の正解はひとつじゃない。ただわたしは、いまの道を進む自分が好きだ。

***

次を決めずに仕事を辞めることは、誰にでもおすすめできることではない。やっぱり焦りもあるし、リスクもある。それでも、わたしはあのとき、じっくり時間をつくって休んでよかったと思う。

友人に「今の仕事を辞めたい。でも毎日疲れちゃって転職活動もできないから辞められない」と打ち明けられたこともある。そういう場合には、辞めてから次を考えるという選択肢もアリなんじゃないだろうか。

人それぞれ、いろんな事情や環境の違いがあるけれど、自分の心の声に耳を澄ませて、自分に合った働き方を探し、ときにはつくりだしていく。そんなふうに自分を大切にできたら、健やかに働けるんじゃないかな、と思っている。

編集:はてな編集部

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著者:栗田真希

栗田真希さんプロフィール画像

1989年生まれ。ライター/編集者。横浜生まれ。大学卒業後、経理、コピーライター、ライター・編集を経験。2020年に波佐見焼の産地・長崎県波佐見町へ移り住み、2年半やきものについてのコンテンツを制作していた。うつわに絵付をするのが趣味。
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*1:失業保険の申請時にライターの仕事について申告をしていたため、受給金額はその分減っている。