転職先を決めずに退職。空白の8カ月を過ごしたら、次の道が見えてきた

 栗田真希

うつわの写真

念願のコピーライターの職に就いたものの、徐々に仕事に違和感やつらさを感じるようになり、思い切って転職先を決めず退職することを選んだ栗田真希さんに、次の仕事を決めるまでの空白期間を振り返っていただきました。

「今の仕事を変えたい」「違う働き方をしたい」と思いつつも、具体的な進路が決まっていないがゆえにやめる選択肢をとることができない……という人は多いのではないでしょうか。

次の仕事を決めてから退職する方がリスクは少ないはずですが、栗田さんは「まっさらな目で世界を見てみよう」と決め、あえて空白期間を設けたことで、次に進む道を決められたそう。

自分にフィットする働き方を決める選択肢として、栗田さんの経験は参考になることもあるはずです。

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「辞めます」と上司に伝えたとき、その先のことはまったく決めていなかった。無謀で、無茶な、紐なしバンジージャンプみたいな退職だった。

そのままじっくり、8ヶ月ちょっとの休息期間を過ごすことになる。この時間が、わたしの人生の舵取りにおいて大切な時間だったと、いまでも思う。

憧れの道からの、退職

コピーライターになる。それは、わたしにとっては壮大で、なかなか手が届かない夢だった。

ところが20代後半、経理の仕事から、異業種未経験で広告制作会社に転職することができた。念願だった、コピーライターの名刺。それは恐れ多くて、肩書きに負けない自分にならなければと奮起させる重みがあった。

最初は怒鳴られてばかりの日々。それでも、ちょっとずつ仕事を覚えた。先輩のおまけではなく、コピーをひとりで担当するプロジェクトを任されるようになった。自分が担当した広告が、DMや、電車内広告や、パッケージになる。悔しいことの方が多かったけれど、うれしさも知った。

そんなコピーライターの仕事を、2年ちょっとで辞めた。「これからじゃないか。栗田さんには、コピーの才能がある」と引き止めてくれる先輩もいた。けれど、自分の心に嘘は吐けなかった。ちょうど担当しているいくつかの仕事の切れ目でもあったので、「いまだ!」と辞表を出した。

どうして、辞めたのか。

ストレスで身体中にじんま疹が出たり、デザイナーさんたちと一緒につくった広告がクライアントのひと声で世に出なくなったり……そういう積み重ねも退職の理由だ。

いちばんの理由は、仕事じゃないところで取材し書いたインタビュー記事が、広告の仕事よりも楽しかったこと。コピーライターとしてやっていくのは、難しい。はっきりとそう自覚した。とはいえ、インタビュー記事もそのときが初体験だったから、ライターとしてやっていくと切り替えるのも当時の自分には難しかった。ただただ、コピーライターとしての自分の将来に、希望が持てなくなってしまったのだ。

コピーライターの、次の道。

どこへ進めばいいか、分からない。だって、あれほど夢見たコピーライターという仕事を、辞めるのだ。ここ何年も、見据えてきた道は一本だけ。コピーライターになってから、忙しい業界に身をおいて、休みの日も勉強に費やすことが多かった。だから仕事を辞めてからでないと、次のことが想像できなかった。

「自分の好きはどこにある?」とことん向き合ってみることにした

まだ仕事を辞めるか悩んでいたとき、尊敬する友人のひとりに、こんなことを訊かれた。

「人生に欠かせない、好きなものを3つあげるとしたら?」

その問いかけに、思考が止まってしまう。答えられないほど、自分のことが分からなくなっていた。分からないなら、見つけるしかない。

退職するとき、全てをゼロベースで考えよう、と決めた。「ことば」を扱う仕事以外も含めて、まっさらな目で世界を見てみよう。好きなものを見つけ、生きていくために。

とはいえ、そんな悠長なことを軽々しく言えるような状況ではなかった。近い未来の確約がなく、貯金もたいしてない。失業保険というのは、自主退職だと給付されるまでに期間が開く。焦る気持ちもあった。

ただ、幸運なことにわたしは健康で、誰も養っておらず、貯金がいよいよ尽きたときに働こうと思えば、なんとでもなる。「なんとかなる!」と自分を鼓舞していた。愚かだと思われるかもしれないし、自分でもどうかと思うけれど、試行錯誤する時間を持とうと決めていたのだ。

ずっと前向きな気持ちでいられたわけではない。休息期間は、天国と地獄のミルフィーユみたいなものだった。幾重にも重なる心模様。辞表を出してから辞めるまでの心は、晴れ晴れしていた。退職後には、グッと気持ちが落ち込むことも、たびたびあった。自分が「おもしろい!」と思えるものに出合えたときには、胸が高鳴った。その繰り返しのなかで、ちょっとずつ前進した。

8ヶ月ほどの休息期間にやったこと

仕事を辞めてから、まず花屋さんに通った。近所の花屋さんとは、仕事終わりに立ち寄ったときにビールをごちそうしてもらったことをきっかけに、親しくしていた。お客さまのすくない時間帯にブーケのつくり方を教えてもらい、花卉(かき)市場での競りにも連れて行ってもらった。

夜、店に顔を出すと、店主のおじいさんは生花とドライフラワーに囲まれながら、年季の入ったギターをぽろぽろ弾いている。花のこと、働くこと……いろんな話をした。

練習して作ったミニブーケ

友だちに、作家もののうつわを揃えたうつわ屋さんに連れて行ってもらって、うつわにも興味を持った。陶器と磁器の違いも分からない素人のわたしでも、その奥深さに魅了された。作家さんの個展に遊びに行ってみたり、いいなと思ったうつわを家で使ってみたりした。うつわや屋さんの店主は芯の通ったすてきなおばあさんで、一緒にお茶をしてはいろんなことを教えてもらった。

だんだん自分が、生活を豊かにするものや、手仕事のものが好きなんだ、ということが実感とともに分かってきた。

図書館にも通った。無料で本が読み放題で、定職に就いていない身にはありがたい。少しだけ受けていたライターの仕事をするのにも、こんなに適した環境はない。よく、片道40分ほど歩いて大きな図書館に通っていた。

そうやって日々を過ごす中で、お金のなさにびっくりして、通帳を見て気分が落ちることもあった。東京は家賃が高い。みるみるうちに、残高が減ってゆく。

それでも、近所の八百屋さんで底値のキャベツを買って、どうしたらいちばんおいしく食べられるか試す時間は、豊かだった。お金の大事さを思い知ると同時に、自分にとっての豊かさは決してお金だけでは計れないとも学んだ。

ハローワークにも通い続ける。転職活動の報告をしつつ、失業保険をもらえたおかげで*1、じっくり腰を据えて仕事探しができた。

ハローワークへ行くと、なぜかちょっとだけ、もともとの猫背がさらにまるくなった。なにも悪いことはしてないのに。「これもいつか人生のネタになる!」と思うとちょっと気が楽になったので、訪れる際には声に出してから家を出るのをおすすめしたい。

休息しながらも、採用面接はいくつも受けていた。いろんな企業に面接しに行き、話を聞くことも、改めて自分の向き不向きを判断する材料になった。好きなものだけでなく、合わないものが明確になっていくと、迷いが減っていく。

ちなみにハローワークで転職の相談をすると「経理関係の仕事ならきっとはやく見つかりますよ!」と勧められた。わたしが新卒で入った会社で、簿記三級の資格を取得していたからだ。三級だからさほど専門的なことはできないけれど、資格は有利に働く場面もあるらしい。

でも、おおざっぱで飽き性の自分に、経理の仕事が向いていないのは、すでに経験して分かっている。「焦らない」と自分に言い聞かせて、さまざまな場所に顔を出しながら仕事を探した。

そうするうちに、心が定まった。「書くこと」をベースに、生活を豊かにするものや手仕事のものにかかわる仕事をしてみたい。

いろんなところへ行き面接を受けて、最終的に、長崎県波佐見町にあるやきものの商社に転職し、webメディア兼ECサイトの運営の仕事をすることになった。興味を持ちはじめた、うつわにかかわる仕事だ。

大事にしたいものが決まったから選べた、地方への転職

波佐見町の風景

転職を決めたのは、現地を視察させてもらったとき、土地のあちこちに、やきものをつくってきた歴史の積み重ねを感じたから。ノスタルジックな町並みの陶郷・中尾山を歩くと、苔むす用水路には、陶器の破片が落ちていた。陶磁器は1000度以上で焼かれているから、土に還らない。歴史がそのまま落ち、埋まっている。

波佐見町では、400年も昔から、やきものをつくってきた。この土地では、いまも多くの人たちがやきものにかかわる仕事をしている。人びとの暮らしを豊かに彩るうつわを、日本中に、そして世界中に届けているのだ。自分も好きになったうつわのことを、伝えるお手伝いがしたいと純粋に思えた。

取材をしたら、どんな歴史が掘り起こせるだろう。職人たちは、どんなふうにものづくりに打ち込んでいるんだろう。そんなことを考えると、わくわくが止まらない。

広告の仕事とは違い、ひとつの案件ごとではなく、じっくりとやきものについて書き続けられることも、魅力的だった。

九州には縁もゆかりもなかったし、やきもののこともそれほど詳しくなかったけれど、「おもしろいから飛び込んでみよう」と思えた。

書くことを仕事として続けるのか、という悩みは、休息期間中、ずっと心のどこかにあった。書くことは、好きだ。ただ、いまの時代、仕事にしなくても文章を書くことはできる。書く仕事の道は、わたしにとっては険しく、やっていける自信はそれほどなかった。

それでも、尊敬する人たちからの「書く仕事は続けた方がいい」「君は書くことに向いている」の声が、背中を押してくれた。数多の道を探って選んだことで、「ことば」にかかわる仕事をしていこう、と覚悟が決まった。

実際に長崎県に移り住み、働いてみて、わたしはとても満たされた気持ちになった。

町のあちこちに出向くと、いつも発見があった。工房を訪れ、職人さんたちにたくさん話を聞く。ときには学芸員さんにやきものの歴史をじっくり聞いた。絵付教室に週2回通って、自分でもうつわをつくる経験をした。

できたばかりの自社のwebメディアで、現地でライティング・編集ができるのはわたしだけ。東京の編集者さんに原稿をチェックしてもらい、企画、執筆、写真撮影、入稿、進捗管理、SNS運用など、できることはなんでもやる。

インターネットを検索しても出てこない、歴史、文化、技術、職人の思いを、コンテンツとして世に出せる仕事は、おもしろさとやりがいに満ちていた。

休んで自分の気持ちに向き合うことは、長い目で見れば人生にプラスになる

波佐見町で暮らして2年半。じつは、この春からまた東京に戻り、働くことが決まっている。波佐見町は離れがたかった。別れを惜しみつつ、笑顔で送り出してくれた人たちの顔を思い出すと、胸がぎゅっとなる。

じゃあ、あの休息期間と転職は間違いだったのか?

そんなことは絶対にない。波佐見町で暮らし仕事をしたことは、120%正解だったと断言できる。充実した時間を過ごせたからこそ、わたしはまた前に進むことができたのだ。

書く仕事に真剣に取り組んできたなかで「ひと記事ごとではなく、本の情報量で、おもしろいコンテンツを届けたい」と気持ちが変化してきた。うつわのように誰かの日常にずっと寄り添うような、そんな本をつくりたいと思うようになった。

次の仕事は、書籍の編集者。書くことはすくなくなるけれど、変わらず「ことば」にかかわる仕事をしていく。

あのとき、コピーライターを辞めずにいたらどうなっていただろうと、ふと考えるときがある。きっとそれはそれで、ちゃんと戦ってもがいて、違う正解を見つけていたんじゃないだろうか。人生の正解はひとつじゃない。ただわたしは、いまの道を進む自分が好きだ。

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次を決めずに仕事を辞めることは、誰にでもおすすめできることではない。やっぱり焦りもあるし、リスクもある。それでも、わたしはあのとき、じっくり時間をつくって休んでよかったと思う。

友人に「今の仕事を辞めたい。でも毎日疲れちゃって転職活動もできないから辞められない」と打ち明けられたこともある。そういう場合には、辞めてから次を考えるという選択肢もアリなんじゃないだろうか。

人それぞれ、いろんな事情や環境の違いがあるけれど、自分の心の声に耳を澄ませて、自分に合った働き方を探し、ときにはつくりだしていく。そんなふうに自分を大切にできたら、健やかに働けるんじゃないかな、と思っている。

編集:はてな編集部

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著者:栗田真希

栗田真希さんプロフィール画像

1989年生まれ。ライター/編集者。横浜生まれ。大学卒業後、経理、コピーライター、ライター・編集を経験。2020年に波佐見焼の産地・長崎県波佐見町へ移り住み、2年半やきものについてのコンテンツを制作していた。うつわに絵付をするのが趣味。
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*1:失業保険の申請時にライターの仕事について申告をしていたため、受給金額はその分減っている。