誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、バラエティ番組のプロデューサー・ディレクターである小山テリハさんに寄稿いただきました。
コロナ禍で自宅で過ごす時間が増え、理想とする「丁寧な暮らし」を目指し始めた小山さん。自分のために料理をしてみたものの、なんだか味気ない。実践してみたことで、今の自分にとっての優先順位や向き不向きを見つめ、自分自身の「幸せ」のあり方に気づいたといいます。
自分の理想や、他人の価値観にとらわれ過ぎることなく、今の自分の幸せを優先できるようになるまでをつづっていただきました。
「丁寧な暮らし」に憧れるけど
「丁寧な暮らし」という言葉を、Instagramなどでよく見かける。象徴するのは例えば、お気に入りの家具に囲まれたモデルルームさながらのリビング、ちょっとこだわりを見せつつも時短テクニック満載の手作りご飯、お手入れをしながら使い続けるとっておきの愛用品……など。
「これぞ丁寧な暮らし!」という明確なものは分からないが、キラキラした日常がおしゃれに切り取られたものを見ると、なんだか時に暴力的な同調圧力として感じてしまう自分がいた。
SNSで目にするような「丁寧な暮らし」に憧れがないわけではないけれど、私の理想は、仕事から帰ってきて、ちゃちゃっと簡単にご飯をつくって、ゆっくり湯船に浸かって、お気に入りのパジャマを着て寝る……みたいな暮らし。
そんなの理想じゃなく普通だろ、と思うかもしれないが、ADとしてテレビ局で働き始めてから、不規則な暮らしで、家に帰るとすぐ寝てしまったり、ご飯を作る元気なんてほとんどなくて、そもそもご飯を作ろうという発想すらあまりなかった私にとっては、充分「理想」といえる生活なのだ。
ご飯は会社のコンビニで買うことが多く、そのシーズンの弁当は一通り全部食べてしまって、カップラーメンにも手を出し、もはやカップラーメンの方が好きかもしれない、くらいの食生活だった。過去形にしているけど、実は今もさほど変わらない。
たまに時間ができると、ここぞとばかりに外食をする。その時間がなによりも楽しく、幸せだ。ごくまれに喜ばしいことがあると奮発して高級な店に行くこともあるけど、大半はInstagramに週末ディナー(キラキラ)とかで載せるような店ではない。それでも、当たり前に仕事をして疲れて、空腹で食べるご飯はなんだっておいしい。
外食ができなくなり、料理と向き合った結果
そもそも家事が苦手だ。
こうハッキリ書いてしまうと、なんだか自分に欠陥があるように感じて、文字にすることに非常に勇気がいる。でも、取り繕ってもしょうがない。実際、家事大好き!楽しい!って心の底から思ってる人はそんなに多くはないんじゃないだろうか。言わないだけで。
コロナ禍が始まった頃、自宅待機になったり、仕事がいろいろ停滞する期間があった。
外出は好ましくない、店は休業中で外食もできない、仕事に行くこともよろしくない…ということで、これまで寝床としてしか機能していなかった我が家にいなければならなくなった。その結果、私なりの「丁寧な暮らし」と向き合うことになった。
それまで自炊しようと思ったことがなかったので気づかなかったが、自宅付近に意外とスーパーがない、あったとしても深夜は営業していなくて、仕方なくコンビニに行くのだが、コンビニにも意外と野菜や果物が売られていることを初めて知った。
調理器具をほとんど持っていないことにも気付いた。鍋すらなくて、あるのは小さなフライパンひとつ。カレーを作るには浅いし、何かを炒めようすると具材があふれてしまうくらいのサイズ感。
それでも、まずはカレーを作ってみようと思って、せっかくならと材料をきっちり買い込んで、深夜にぐつぐつと本格的なカレーを作ってみた。
確かにおいしいのだが、自分で自分が生きるために料理をするだけのことという印象でしかなく、想像していたよりもあっけないものだった。誰かに食べてもらってリアクションがもらえたら、少し満足度が違うのかもしれない。
それからというもの、外食がなかなかできない時期は、なるべく自炊をしたのだが、洗い物が増えるのが嫌だなとか、フライパンが油でギトギトになると大変だなとか、一つひとつの不満がどんどん私をズボラにしていき、そのうち電子レンジとタッパーで完結するお手軽料理がメインになっていった。
自分で作るご飯はそれなりにおいしいし、作った満足感もある。でもそれだけというか、ゲームで技を覚えていくような、コマンド入力のような感覚だった。そして何よりも、その労力に割くだけの体力と精神的余裕をあまり持ち合わせていなかった。
自分の幸せは、自分で尊重する
やがて緊急事態宣言が明け、少しずつ出社ができるようになり、外食やテイクアウトの選択肢が増え出した。今まで通りの生活が戻ってくると、気づけば料理することや、家の環境をよくしようといった、「丁寧な暮らし」への関心が薄れていった。
夜遅くに帰って、パックのごはんにチンしたミートボールを乗せただけの料理(?)と、お湯で溶かした即席のお味噌汁、コンビニで買った漬物を用意して、楽しみにしているアニメの続きを見ながらそそくさと食べるご飯でも充分だと思えてしまった。
私だったら、ご飯が多少さみしくても、面白い漫画を読んだり、アニメを見たりしている時間が得られたら、その方がよっぽど幸せなんだなと思った。
幸せの価値基準はそれぞれだし、あくまで今の私はそうなのかもしれないというだけの話だが、家事がつらくて、完璧にできないことで自己嫌悪している人がいたら、自分の価値基準とか、向き不向きとか、得手不得手を思い返してみてほしい。できないことや、やりたくないという感情を、無理に直さなければと思う必要はないのではないか。
家事を嫌いだと言うと、いろいろネガティブに思うかもしれないけどあくまでこれは自分の人生なので、あまり他人からの評価を気にし過ぎることはなく、そのかわりに、あなた自身の幸せはあなたが一番尊重して大切にしてあげるべきだなと思う。
私だったら、オフの日に映画を見て、物語に出会い、感動する時間が得られる方が幸せ度合いが高くて、大事な優先することだったんだ、と気づくように。
丁寧な暮らしを目指すのは「今」じゃないだけ
料理って、メニューを考えて、材料を買い、調理するという、手間がかかる作業の連続で。それを当たり前に毎日こなしている方は本当にすごいと思う。今の私には、到底できない。
私の母はフルタイムで働きながら洗濯や料理などの家事をこなしていたが、いったいどうやってその作業を毎日こなしているんだろうかと(現在進行形で)尊敬せずにはいられない。
私もこの先子供を持つようになったら、子供の健康を考えて、自分から料理の技やコマンドを積極的に覚えて、「おふくろの味」なんて言ってもらいたくなるのかなと想像したりもした。それは少し、ワクワクする。ただし、それは想像であって「今」ではない。
今、私が向き合うテレビ、特にバラエティーの仕事は、大人になっても大人でないというか、童心に返って考えることが大事な部分がある。だから、なるべくワクワクするものに出会いたいし、面白いなって思えることをしていたい。そんな私の感覚を、「それでいいんじゃない」と肯定してもらえる世界のような気がする。
今の私に取っては仕事が楽しくて、大変だけれどやりがいがあって、生きる意味のかなりメインになっている。ハードな仕事なので、一生続けることは多分できないだろう。だからこそ、仕事が楽しいと感じる間は、仕事をなるべく優先してもいいよねと思う。自分がそういうタイプの人間だなんて思ってもいなかったけど。
きっと、しばらくは料理をすることも、Instagramに素敵なディナーの写真を上げることは、ほとんどないだろう。自分が担当してる番組が「面白い」と言ってもらえる喜びは何にも代えがたいほどうれしくて、それを今の私は一番の幸せに感じるからだ。
#わたしがやめたこと バックナンバー
著者:小山テリハ