「嫉妬」を嫌うのをやめてみた|中前結花

中前結花さん

誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、エッセイストの中前結花さんに寄稿いただきました。

かつての同級生が自分と同じ「書く仕事」で躍進し、瞬く間に注目を集めるのを目の当たりにしたとき、心に芽生えたのは「嫉妬」だったといいます。そんな自分をみっともないと感じ、嫉妬心をひた隠しにしてきた中前さんですが、ある日その気持ちを打ち明けたことで「嫉妬」への違う向き合い方を知ることになります。

嫉妬心を前向きに受け入れられるようになるまでの心の変化を書いていただきました。

***

彼女に「嫉妬をしている」と気づいたのは、つい半年ほど前のことだった。
それは、ただ「いいなあ」というのとも、「わたしが取って代わりたいわ!」だなんて攻撃的な感じとも、ちょっと違う。

もう少し個人的で恥ずかしくて、そのくせにチリッと熱っぽいような気持ちだ。どうしても他のことばで置き換えるのなら、「ちぇ、すごいなあ」みたいなことかもしれない。この「ちぇ」を認めるのに、ずいぶんずいぶん時間がかかってしまった。

中学、高校、大学を共にしてきた同級生が、瞬く間に「書いたもの」で賞賛され、SNSではいつも名前が溢れるほど人気者になってしまったのだ。わたしは来る日も来る日も書く仕事をしてきた。けれど、彼女ほど大勢の人の目に触れ、褒められたことは一度もない。

最初は素直に「すごいなあ」という想いでいたと思う。
けれど、日々の中でなにかうまくいかないことがある度に、ふうっとその存在が思い出されるようになった。

そして思うのだ。「ちぇ、彼女はすごいなあ」。

突然、「嫉妬」にこんにちは。

思えばわたしは、小さい頃からずいぶん便利な性分をしていた。自分の持っているもの、作ったもの、もらったもの……身の回りのどんなものもすぐに気に入ることができたのだ。

わたしの持っているポシェットが最高にかわいいし、わたしが工作の授業で作った貯金箱はとてもとてもイカしていると思った。海底に沈んだ宝箱をモチーフにした貯金箱なんて最高じゃないか。「これでいい」「これがいい」といつも満足ができる。誰に教えられたわけでもないけれど、「足るを知る」の精神にも近かったかもしれない。他と比べて落ち込むようなことは、それまでほとんど無かったのである。

それが、30歳を超えたここ数年のことだ。

「これでいいのかしら?」と不安になることが多くなった。おそらく、この歳になれば、おおよその未来図や、「自分はたどり着きたい場所にたどり着くことができるか」が漠然とでも見えてくるはずだと期待していたせいもあったと思う。

けれど、いざなってみれば現実は違った。相変わらず先のことはよく分からなくて、「いつまでもピンクのポシェットなんて持っていていいのだろうか」だなんて余計な考え事まで増えてしまう。自分は今、どんな道のどの辺に立っているのか。相応しい態度がよくわからなくなってきてしまったのだ。

「30代になってしまえば楽よ」と言ったのは誰だったっけ。

振り返れば、どんなときもわたしは自分の周りのものを「これ」と愛して来れたのに。前を向けば自分がどんなところを歩いているのかがよく分からなくて、人の目や他の人がどこへ向かって歩いているのか、ということばかりが気になってしょうがない。大人になってはじめて知った、不安。揺らぎだった。

そして、そんな心の隙間にひゅーっと入ってきたのが、先の「同級生の活躍」だ。彼女の書くものは多くの人の心を掴んだ。それを「すごいなあ」とぼんやり遠くから見つめていたはずなのに、気づけば名前を聞くとドキリとしてしまう。「彼女はどこを歩いているのだろうか」ということが、気になりはじめてしまう。

違う道でキラキラと輝いているのか、あるいは同じ道でわたしよりも大きく進んでいるのか……そんなことを考えはじめると、途端に自分の中にもくもくと薄暗い気持ちが立ち込めてきた。

まさかまさか、と自分で自分を疑う。けれど間違いないのである。よーくよーく煙の中を覗くようにして目を凝らしてみれば、その正体は「ちぇ」という、どうにもみっともないものだったのだ。

そう、「嫉妬なんて、みっともない ——」。それがわたしの考えだった。そんな気持ちをひた隠しにしながら、「自分」というものに集中しようと必死になるわたしがいた。

みんな、誰かがうらやましい?

そうして、そんな気持ちを「これでもか」と持て余すようになった頃のことだった。少し歳上のお姉さんたちと4人で中部地方の山あいの方へと出張に出かけたのだ。

夕食は、薄暗い中に光るオレンジのランプがやさしいお店で取ることになり、わたしはすっかりワインで上機嫌だった。そしてそこでなら打ち明けられる気がして、ひっそりと抱えている想いを話してみることにした。大きな山々に囲まれたその土地だから、そうっと話せばどこにも漏れまい。なんだかそんな安心感があったのかもしれない。

「わたし、今きっと嫉妬しているんです。それが恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないんですよ。人に対して、“ちぇ”なんて思ってしまうんです」

大告白のようなつもりでいたけれど、人生の先輩たちのリアクションは、とても意外なものだった。

「するする。30代前半なんて、特に人と比べまくって、すごい落ち込んだり、嫉妬したりしましたよ」
「わたしもあるかも」
それはそれは、えらくあっけらかんとそんなふうに話してくれたのだ。
「嫉妬って、なんだか、みっともないと思ってしまって」
そう呟くと、
「きっと多かれ少なかれみんなしてると思いますよ」
「少なくとも“うらやましいなあ”というのは誰にでもあるんじゃないかな」
「言わないだけで、その延長で『ちぇ』と思ったり」
「中前さんが嫉妬している人も、きっと誰かのことをうらやましいと思ってて、それはもしかすると中前さんかもしれない」

わたしのことが? そんなことは、まるで考えたこともなかったから、宇宙でグルンっとでんぐり返しをする話を聴くような調子で「そんなことが起きるものなんですか」とよくわからない返事をしてしまう。けれど、“みんな、誰かのことがうらやましいのだ”という言葉は、わたしをとてもとても楽にしてくれた。
そして、もうひとつ。

「だけど、見方を変える工夫もできると思います」

と話は続く。その女性が言うには、こうだ。「うらやましいなあ」「妬いちゃうなあ」という気持ちがもくもくと立ち込めるとき、その誰かのそれまでの過程に目を向けてみるといいんじゃないか。そこにいる経緯も全部含めて本当にうらやましいか。自分も同じものが欲しいか。それについてよくよく考えてみるといいのではないか、とのことだった。

これが、わたしにとっては、とてもありがたい教えだったのだ。

言われてみれば、わたしは彼女の今の活躍を「点」で見てあれこれと思っていたけれど、これまでの「線」についてはよく知らない。大学を卒業したところで、わたしの知っている彼女の「線」はぷつりと途切れている。けれど、彼女には彼女の約10年があったはずで、ポツポツと点が重なった今をわたしは遠巻きに見ているだけにすぎない。

わたしは彼女について、何も知らない——。

そう思ったとき、なんだかとても解放された心地になった。そして、そうだ。「よく知らない」から「ちぇ」なんて言葉が出てくるのだ。そんなことにもようやく気づく。つまり、省略せずに言えば、「ちぇ、よく知らないけれど、すごいなあ」だったのだ。

わたしにも、つないできた自分だけの「線」がある

その人の影の苦労や努力、災難なんかを目の当たりにしていれば、「すごいなあ」で済むところを、よく知らないからちょっとおもしろくなく思ってしまう。

けれど、これは何も彼女に限った話ではない。多くの「線」はそう容易く知れるものではないからだ。

事実、同様にわたしにも細くとも弛まずつないできた10年ちょっとの「線」があった。「ここだ」と思った会社に入り、好きな仕事をし、またたくさん失敗もした。自分なりの選択を繰り返して、たくさんの愛おしい人とも出会い、充分過ぎるほど支えられてきて、それを気に入らずして何を気に入るのか。

そして、この「線」も全てを知るのは、またわたしだけなのだ。わたしが気に入らずして、誰が気に入るのか。これを投げ打ってまで欲しいものなど、どこにもないことにも気づく。

その人には、その人の「線」。「ちぇ」が始まったなら、誰かを「点」で見ている証拠で、そんなときはまた振り返って自分の「線」をたっぷり愛でればいい。すると「これでいいのかしら?」だなんて悩む仕事や洋服を選ぶことは、少なくなってくるだろう。せっかくここまで歩いてきた自分だ。「これがいい」に囲まれていたい。そんな考えにようやくたどり着いた。

嫉妬も、悪いことばかりではないのだ。無闇に嫌う必要はないのかもしれない。

その「いいなあ」はぐるぐる廻(めぐ)る

「というわけで、なんだか“嫉妬”みたいな気持ちがあったんだけど、どんな経緯でその人がそこに居るんだろうって考えてみると、よく知らなかったの。同じ学校、同じ歳。それだけ。他はなにも知らないから『ちぇ』なんて思ってたんだね」

天井の高い、風がよく吹き抜ける店で、友人にそう話した。ここは、深い山が覆い隠してくれるような場所じゃないけど、特にもう不安になることはなかった。

「へえ、なるほどなあ。じゃあ、もっと知ってみてもいいのかもね。連絡だってできないわけじゃないんでしょ?」

確かにそうかもしれない。数年前に1度「会おうよ」「会おう会おう」とメッセージで会話をしたきりになっていたけれど、彼女の「線」をちょっとたぐってみることもまた、できないわけじゃあないのだ。わたしは、そうしてみたいと思った。

そしてその友人はこんなことも言ってくれた。

「わたしは中前さんのこれまでを少しは知ってるから『ちぇ』とは思わないけど、でも、これまでも含めて『うらやましいなあ』『いいなあ』と思うときはいっぱいあるよ」
「わたしのこと?」

どうやらそんなものらしいのだ。

線の先が見えなくて不安になる。誰だって大人になるのは初めてのことだからだ。そんなとき、ちょっと自分と違う輝きを持った人に「うらやましいなあ」「いいなあ」と眼差しを向けるのは自然なことだ。みんな誰かの点がうらやましくって、それは「ちぇ」という気持ちも多分に含みながら、きっとぐるぐると廻っている。

誰もが誰かをうらやましい。そんな想いを眼差しを抱えながら、みんな自分の線を懸命にひた向きにつなげているのだ。

編集:はてな編集部

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著者:中前結花

中前結花

エッセイスト・ライター。兵庫県生まれ。『ほぼ日刊イトイ新聞』『TBSラジオ』ほか多数の媒体でJ-POPやお笑いなどのエンタメや、日々のできごとついて執筆。趣味は本を買うことと、映画館や劇場に出かけること。

Twitter:@merumae_yuka

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