誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、ブロガーの佐野まいけるさんに寄稿いただきました。
他人と信頼関係を築くには、「何でも話す」のが唯一の方法だと考えていた佐野さん。それがいつしか義務感に変わり、追い詰められるようになってしまったといいます。
しかし、パートナーと出会い、関係を築いていく中で、何もかもを言葉にして伝えなくても信頼関係を構築できることに気づいたそう。
自分の内面を言葉にして差し出すことにとらわれていた佐野さんが、どうしてとらわれていたのか、そしてどのようにして解放されていったのか、振り返っていただきました。
「心を開く」「自分の内面を他者と共有する」「大切なことは言葉にして伝える」。
これらは人と信頼関係を築くために重要な姿勢な姿勢の一つであることは間違いないだろう。しかし若いころの私は、それに必要以上にとらわれて苦しんでいた。
自分の内面を言葉にすること、それを相手に伝えること。その義務感から自分を解放できるようになるまでを振り返りたい。
信頼関係を築くには、自分の内面をさらけ出すしかないと思っていた
「信頼関係を築きたいなら、まず自分の内面を言葉にして相手に伝えることが大切」という考えが強く自分にインプットされたのは、社会に出た頃だと思う。もう10年以上前の話だ。
最初に入った会社では、新人研修の一環として、過去の失敗談をそれぞれ打ち明けるというアクティビティーがあった。「互いの弱みをシェアすることで信頼関係の下地をつくる」のだと説明された。しかし同期が順調にエピソードを披露する中、私はひとり口ごもってしまった。恥ずかしさのためというよりは、他人に自分の話をすることに戸惑いがあったのだ。「ノリが悪いなぁ」などと冷やかす同期たちに心の中で舌打ちしつつも、仕事ではこういうことも求められるのか、と洗礼を受けた気分だった。
はじめのうちは上司との1on1(1対1のミーティング)で軽いプライベートの質問に答えることさえ抵抗があった。仕事に関する些細な悩みを話すことはできるのだが、「休日はきちんと休めていますか? どんなふうに過ごしていますか?」「最近楽しんだことはありますか?」などの質問は、自分の核にふれずには説明できないと感じていたのだ。しかし、「佐野さんは何考えてるか分からないって後輩から怖がられてるよ。だから、もう少し自己開示してみよう」などと促されるにつれて、それが正しいことなんだと信じるようになった。
一方プライベートでも、自分の内面の話をする機会は増えていった。
私は昔から、異様な早さで距離を縮めようとしてくる人からなぜか近づかれがちである。社会に出て付き合いが広がると、その傾向はいっそう強くなり、出会ってから幾日もたたないうちに、生い立ちや人生についての考え方、聞くのをためらうような打ち明け話まで聞かされることも少なくなかった。
今でこそ、そのスピード感はおかしいと分かるが、親しい友人が少なかった私はうれしかった。「こんなこと話せるのはまいけるさんだけだよ」という言葉に舞い上がった。赤裸々に語られる内面世界は自分宛ての贈り物のように思えて、自分もそれに見合ったお返しをしなくてはと、自分の心を言葉にして伝えるよう精一杯努めていた。
そんなやりとりの繰り返しで、友人との距離は加速度的に近づいていき、あっという間に親友ができたかのようだった。ますます「自分を開示すればするほど信頼関係が築ける」という考えから抜け出せなくなっていった。
自己開示すべきという義務感が息苦しくなった
そうやって「正しい」はずの自己開示をしているにもかかわらず、私はじわじわと追い詰められていた。
私には誰にも共有したくない事柄や気持ちがある(それはここでも書けないが)。どれだけ親密な間柄になっても、それだけは話すことができなかった。
誰にでも、人に言えないことの1つや2つくらいあるものだが、当時の私はそれをさらけ出さないと職場でもプライベートでも深い人間関係を築けないのではないか、という恐怖と義務感に追い立てられていた。
相手は心の奥深くまでさらけだしてくれているはずなのに、自分だけ大事な部分を秘密にしていることが後ろめたかった。さらには、隠しごとをしているから相手は本当の自分を知らない、自分を好いてくれているのはその部分を見ていないからで、友人からの好意は幻なのだと思い込むようになっていった。「もっと自分を信頼してすべてを話してほしい」という友人の言葉も、秘密を言えない自分を非難しているように聞こえてきて、私はさらに追い詰められた。
そういった息苦しさや罪悪感から、心を開くことを求めてくる相手にだんだん接触したくなくなっていった。人と距離を縮めるためにしていたことが、逆に私を人から遠ざけることになったのだ。
自分のすべてを打ち明けられないという罪悪感に加えて、感情や感覚を言葉にする難しさにも悩んだ。
例えば私はイカを生物として愛好しており、「なぜイカなのか」「イカのどんなところが好きなのか」という質問をよく受ける。できる限り言葉を尽くして答えていたが、そのたびに自分の中で微妙な後味の悪さがあった。それは「言葉にする」行為そのものによって気持ちが変質してしまうような気がしていたからだ。
イカに限らず、自分のコアと深く結びついている感情はいい加減に伝えたくない。しかし、複雑な気持ちを言葉にしようとするとその過程で細かいニュアンスが抜け落ちてしまうように感じた。自分の中でもやもやと定まらない気持ちを言葉にしなければと焦り、つじつまを合わせようとして感情やエピソードが歪んでしまうこともあった。
一度言葉にして変質してしまったものは、自分でさえ元の形には戻せない。大事なものが不可逆的に損なわれることは耐えがたかった。自分にとって大切なものこそ相手に伝えなければと思いつつ、そういうものほど言葉にしたくないというジレンマに陥っていった。
夫と出会って新しい信頼の築き方を知る
そんな苦悩を抱える中、新しい職場で出会ったのが夫である。夫は自分のこと、特に感情面についてあまり話さないし、私にもそういう話は振ってこない。その割に気さくな感じの人間で、夫との時間は不思議な居心地の良さがあった。
やがて夫婦となり一つ屋根の下に暮らすようになっても、内面的な話をすることは少なかった。今思えばその距離感(何も言わなさ)こそが居心地の良さの正体だったのだが、その頃の私はそれが分かっていなかった。
愉快で心落ち着く結婚生活。何も問題がないように思えたが、ある日、自分でも意識していなかった不安が暴発することになった。
夫は嫌なことがあると黙りこむ癖がある。その日も仕事から帰宅するなり、眉間にしわを寄せたまま貝になってしまった。負のオーラがビンビン伝わってくるのでこちらとしては居心地が悪い。その空気に耐えかねて「どうしたの?」と声をかけても返事がない。「自分の感情や状態をすべて言葉にして相手に伝えること」が良いことだと信じていた私は、不機嫌なわけを話してくれない夫にいらだっていた。何も言わないまま自室にこもろうとする夫を捕まえて、なぜそんなことも話してくれないのかと責め立てた。私のことを信頼していないから何も話してくれないのではないか。不安に支配されている私を置いて、夫は「なにも話したくない」と言い残して部屋の扉を閉めてしまった。
一度冷静になろうとリビングで水を飲み干して、はたと気付いた。私は過去の友人たちと同じことをしている。自分の心のうちを無理やり言葉にすることのつらさを知っているはずなのに、それを夫に強いてしまった自分を恥じた。その日から、夫の内面を掘り起こそうとするのはやめた。
それでも、「自分の内面をすべて言葉にして伝えなければ分かり合えない」という考えは私の中に深く根を張っていて、未だ取り去ることができずにいた。仲良く過ごしてはいるけれど、相変わらず夫とは言葉での深いやり取りはないし、本当にお互いに理解し合えているのだろうか?
その懸念が払拭されたのは、夫と映画を観に行ったときのことだ。
楽しみにしていた映画だったのだが、物語の中頃に流れたシーンが自分のトラウマを呼び起こしてしまった。予期せぬダメージを受けつつも、なんとか冷静を装って劇場から脱出したところで、夫が「〇〇のシーン、まいけるには怖かったんじゃない? 大丈夫だった?」とそっと聞いてきた。自分以外にとってはとりたてて恐怖を感じるようなシーンではなかったはずだし、そもそも夫にそれについて直接的に話したことは一度もなかったはずなのに。
そのときやっと分かった。これまでの積み重ねから、自分の内面も十分に伝わっていたのだと。すべてを言葉にしなくても、夫は私の重要な部分をちゃんと理解している。出会ってから幾年、思い返せば自分だって出会った頃よりずっと夫のことが分かってきているじゃないか。「言葉にしていないから分かり合えていない」という思い込みにとらわれて、それが見えていなかっただけだった。
無理に自分の気持ちを言葉にしようとするのをやめた
それまでの私は、自分の内面を何もかも相手に渡し合うことが信頼関係だと考えていた。だが先の映画の一件から、実際にそうしなくても「相手は何を伝えても受け止めてくれる」と確信できることが信頼ではないかと徐々に考えが変わってきた。そしてそれは、日々の積み重ねでしか築けないものだと。
過去の私は、その積み重ねがないうちに自分の心の内側を何もかもさらけだして「早く相手に信頼してほしい」と焦っていたのだろう。確かに自分をオープンにすれば距離は近づくが、自分が安心したいがために相手の世界に入り込み、情報を引き出しても本当の信頼関係は築けないのかもしれない。
そう気づいてから「何でも話す」ことはしなくても、「何でも話せる」と信じられる関係を育んでいきたいと思うようになった。
そんな心境の変化があってから、無理に気持ちを言葉にするのをやめた。あんなに重くのしかかっていた「話さなくては」という義務感も、放り投げてしまえばあっけないものだった。友人が誰もいなくなるかもしれないという心配も杞憂に終わった。必死に自分を切り売りせずとも、そばにいてくれる人は意外と多かった。そして、すぐに距離を縮めてこようとする人が現れても、自分にとって心地よい距離を保って接することができるようになった。
もちろん言葉で伝えるべきことも多いが、そもそも、言葉を尽くしたからといってすべてが伝わるわけでもない。「話さなかったこと」の方が多くを語る場合もある。私自身も無意識にそうやって人の心の機微を読み取っていたことに、言葉に頼りすぎるのをやめてから気付いた。
それから、大切にしたい繊細な感情はあえて描写しないことにした。自分の中に湧いてきたものを既存の言葉に押し込めるのをやめてから、微妙なトーンや瑞々しさを保てているような気がする。輪郭を持たない感覚をそのまま閉じ込めて発酵させると、忘れた頃に思いもよらないものが出力されてきたりして楽しい。なにより、自分の世界を守れるという安心感がある。
無理に気持ちを言葉にするのをやめてみて、相手にすべてを明かさなくても、それは決して後ろめたいことや不誠実なことではないと思えるようになった。何をどこまで言葉にするかしないか、そのタイミングも誰かに強いられて決めるものではない。つらいこともうれしいことも、すべて自分のものなのだから。
自分と相手の心を言葉にしてぶつけ合って、新しいものを生み出す喜びは確かにある。それによって人間関係が次のステップへ進むこともあるだろう。でもそれは、自分と相手の心の安定と日々の積み重ねによって関係の基礎ができてからでも遅くないはずだと今は思っている。
言葉にしなくてはという義務感から解放されたことで、最近ではまた、人と関わり合う喜び、言葉にして人に伝えることの楽しさを思い出してきた。
編集:はてな編集部
みんなの「やめたこと」は?
著者:佐野まいける