誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、声優・作家として活動するあさのますみ(@masumi_asano)さんに寄稿いただきました。
あさのさんがやめたことは、主に仕事にまつわる場面で「本当に好き」か考えること。
今就いている仕事にやりがいを感じるし、楽しいと思える瞬間もあるーーそんな方はきっと少なくないはずです。それでも「今の仕事のことが『本当に好き』か」と問われると自信を持って頷けるという人は多くはないのではないでしょうか。
狭き門とされる声優の職に就き、その約7年後には文章を書くことも仕事にしたあさのさんも、この「好き」という気持ちに複雑な感情を抱いていたのだそう。簡単には測れない「好き」の物差しに悩んだあさのさんの考えを変えるきっかけになったのは、同じく「好き」が原動力のように見えていた友人漫画家の一言だったそうです。
耳にするたび、コンプレックスを感じてきた言葉がある。「本当に好き」という言葉だ。
「本当に好きな人じゃなきゃ、務まらない」
「あの人は、この仕事が本当に好きだから」
ぱっと見楽しそうだけど実は困難なことや、なりたい人が多くて狭き門とされるジャンル。そういうものを語るとき、この言葉はしばしば、人の口にのぼる。まるで、「本当に好き」という気持ちそのものが、携帯必須の通行証かなにかであるように。その気持ちを携えた人だけが、たどりつける場所があるかのように。
私自身も、何度もこう問われてきた。
「あなたは、本当にこれが好き?」
けれど私はそのたび、即答できず言葉につまった。なぜなら私の内側には、「好き」という気持ちよりはるかに強いうねりのようなものが、常にぐるぐると滞留していたから。
好きです、と胸を張って言えない自分は、そう答えられる人より劣っている気がした。だからいつも、誰かに聞いてみたかった。
「本当に好き」って、どういう気持ちですか?
「書きたい」気持ちを駆り立てた書店での出来事
私は、声優業と文筆業、二つの仕事で生計を立てている。
大学卒業後、声優としてデビューし、7年ほど仕事をしたのち、30歳目前で文筆業の道が開けた。絵本の賞を受賞したことがきっかけだった。
あのときのことは、よく覚えている。
書店で本を探していて、うっかり絵本売り場に迷い込んだ。通り過ぎようとしたそのとき、床に座り込んで絵本を音読している、小さな女の子の声が耳に入ったのだ。ハッとして、思わず振り返った。その子が声に出した一節は、私にとって、とても馴染み深いものだったから。
『ぐるんぱのようちえん』。幼いころ私が、テキストをすっかり覚えてしまうほどお気に入りだった絵本を、その女の子もまた、楽しそうに読んでいるのだ。
改めて売り場を見渡してみると、そこには、子供時代に愛読していた絵本が、何冊も平積みされていた。『ぐりとぐら』『はじめてのおつかい』『おおきなかぶ』。うわ、なつかしい、と一気にテンションが上がり、何気なく手に取って、驚いた。初版から半世紀近く経過している本、100回以上重版されている本もある。
声優業界という、入れ替わりの激しい世界に身を置いていた私にとって、その息の長さは、ほとんど天文学的な数字に見えた。
私も書いてみたい。そう思うまで、時間はかからなかった。
頭の中に、すぐにポンと短いお話が浮かんだのは、私が根っからの作家だったから……ではもちろんなくて、その日、絵本売り場で、久しぶりに何冊も絵本を読んだからだったのだと思う。ためしに書き留めたら、原稿用紙5枚ほどになった。
公募雑誌を買ってきて、たくさんあるコンテストの中から、有名な出版社が主催しているものをひとつ選んで応募した。すると数ヶ月後、電話がかかってきた。
「あなたの作品が、最優秀賞を受賞しました」
かくして、本当に思いがけず、声優業と文筆業、二足の草鞋を履く生活がスタートする。そしてそれをきっかけに私は「本当に好き?」という問いかけを、しばしばされるようになるのだ。
好きだけど、「本当に好き」とは即答できなかった
声優デビューからたった7年、中堅とすら呼べないキャリアだったにも関わらず、並行して文筆業もはじめた私に、首をかしげる人は少なからずいた。声優としてまだ足元も固まっていないのに、どうしてもう一つ仕事を? そういう意味のことを、いろいろな人に繰り返し尋ねられた。
声優の仕事はもういいの? 確か、そんなことを言われて、条件反射のように「いえ、もちろん続けます。私にとってはどっちの仕事も大事なので」と答えたときだったと思う。私はその人にこう問われたのだ。
「この仕事、本当に好きなの?」
声優の仕事が好きか、と聞かれたら、きっとすぐに頷いたと思う。でも「本当に好きか」と言われて、一瞬躊躇してしまった。本当に好きってなんだろう――。
「受賞したからって、必ず書き続けなきゃいけないわけじゃないんでしょ。絵本が好きってこと?」
その人は、私を責めていたわけではない。ただ単純に、二足の草鞋を履くと決めた理由が知りたかったのだと思う。ここで私が「声優の仕事も、物語を書くことも、本当に好きなこと。だからどっちもやりたいんです」と即答できれば、事態はシンプルだった。でも、自分の気持ちを説明しようとして、気づいてしまった。
私の選択の理由は「本当に好きだから」ではない。まず最初に不安があって、すべての行動は、そこからはじまってるんだ。
胸の奥にある記憶が「好き」という気持ちを曇らせる
子供のころ、私の家は貧しかった。
学校で給食費や教材費の袋を渡されても、親は給料日が来るまで払うことができず、けれど先生にそれを説明するのが嫌で、封筒をわざと机の中に忘れて帰る子供だった。持っている服は上下セットのスウェットが3着だけ。学校が終わるとみんなが行く「塾」や「ならいごと」も、私には未知の世界だったし、高校時代アルバイトで稼いだお金は、給料日になると父が回収に来るので、結局自分では1円も使ったことがなかった。
そんな生活から逃れたくて、奨学金をもらって大学に入ったけれど、それさえ両親が使い込んでしまい「学費未納で、大学は除籍になる」と連絡がきた。あのときの、胸の奥が真っ黒になるような気持ちは、二十年以上経った今でも、忘れることはできない。どんなに必死で走っても、必ず追いかけてきて、やがて囚われてしまう。私はお金がないということが、なにより怖かった。
消えないうねり
声優という職業を選んでからも、私の中にはずっと、恐怖心があった。いつかまた、あのときと同じ気持ちに、襲われる日が来るんじゃないか。お金がないせいで、二度と取り返しがつかないなにかを、失ってしまうんじゃないか――。
声優は、不安定な仕事。そのことは私なりに覚悟してこの道を選んだつもりでいたのに、進めば進むほど、一生声優業で生計を立てるということが、いかに困難かを思い知らされた。「声優を目指したけれど、なれなかった人」よりも、「声優になったけれど、途中で生活していけなくなった人」の方が、人生の立て直しは難しい。そのことが余計に、私を焦らせた。
私が必死に声優として精進しようとするのは、なぜか。貧しさに囚われる可能性を少しでも遠ざけたい、という理由がまず浮かぶ。絵本作家への道が開かれたとき、チャンスに飛びついたのは、なぜか。二足の草鞋を履けば、収入の不安定さをいくぶん補填できるという思いが、あのとき確かにあった。それなのに、「本当に好きだからです」と言い切ってしまうのは、違う気がした。
「生活のためです」
二つの仕事をもつ理由を正直に言うと、たいてい怪訝な顔をされた。あからさまにがっかりした反応が返ってくることもあった。そういう気持ちじゃやっていけないよ、とはっきり言われることもあったし、「好き」という気持ちが持つ絶大なパワーや求心力を、私に教えようとする人もいた。
「あの人のお芝居からは『本当に好き』って気持ちがあふれてる。だから、目がそらせないんだよ」
そうなんでしょうね、でも私の内側には、恐怖心や不安感という大きなうねりがあって、どうしても消えてくれないんです――そう伝えたくても、うまく説明できる気がしなかった。私は少しずつ、自信をなくしていった。
たとえばオーディションに落ちたとき。力を入れて書いた作品に、重版がかからなかったとき。気づくとこう考えている自分がいた。
「本当に好きって気持ちが、欠けているからなのかな」
明文化できない魅力の源。大勢を惹きつけ、選ばれ続ける人や作品は「好き」という気持ちを、キラキラ光るヴェールのように纏っているんじゃないだろうか。アニメや漫画の主人公たちだって「本当に好き」なものを見つけると、俄然力を発揮するじゃないか。なのに、私は。
声優業も、文筆業も、これといった下積みなく突然デビューしてしまったという事実が、自信のなさに拍車をかけた。たまたま幸運に恵まれただけの自分は、きっといつか振り落とされてしまう――。私は、絵本で受賞してから、毎月200冊以上の絵本を読んで、ノートにつけ続けた。声優としてプリキュアのオーディションに受かったときは、3ヶ月かけて、過去10年分の作品をすべて見た。それでもやっぱり、自分がニセモノであるかのような気持ちは、拭い去れなかった。
そんなある日、漫画家の友達に言われた言葉に、ハッとする。
好きという気持ちの成分は、人によって違う
「俺、絵を描くのは本当に好きだけど、お話考えるのは、全然好きじゃない」
仕事場に遊びに行ったときだった。何気ない世間話の中でその人が発した言葉に、私は驚いた。漫画を描くのが人生そのもののようなその人、数々の賞を受賞し、大勢の尊敬を集め、常にキラキラとしたヴェールを纏っているように見えていた彼が、そんなふうに言うのだ。
「へ? そ、そうなの?」
「うん。漫画を描くのが本当に好きかって聞かれたら、そりゃ好きって答えるけど、その作業をもっと細かく見ていくと、当然、好きな部分と嫌いな部分がある。みんなそんなもんだと思うけど」
衝撃だった。「本当に好き」というのは、もっと圧倒的な、まじりっけのない強い思いなのだと、勝手に決めつけていた。でも彼は、「好き」の中にだって嫌いはあるし、それは別におかしなことではないと言う。私は今まで言葉に囚われすぎて、きちんと考えることを放棄していたのかもしれない。もしかして、細かく気持ちをさらっていけば、私の中にも「本当に好き」が見つかるんだろうか。
不安をかき分けるようにして、目を凝らしてみた。ぐるぐるとしたうねりの中にかいま見える、自分の気持ち。こびりついたいろいろなものを、丁寧に払いのける。――お芝居にしても、創作活動にしても、形がなかったものを作り上げて、それが認められてお金に変わったとき、確かに私は、幸福感に包まれる。今まで感じてきた様々な気持ち、みじめさも、悔しさも全部、いらない感情なんてなかったんだなと思える。そう肯定される感じが嬉しい。その、ちょっとした瞬間のことならきっと「本当に好き」と呼んでいい気がする。
ああ、あった、と思った。小さなかけらかもしれないけれど、私にも存在していた、「本当に好き」と呼べる部分。どこにもないわけじゃなかったんだ。
そして、それを見つけたことで私は、最終的にこう思えるようにもなった。
「本当に好き」か考えることに、きっと意味なんてない。
「本当に好き」かなんて、他人には決められない
子供時代を、思い出してみる。まだなにも知らなかった幼いころ、「本当に好き?」と聞かれて躊躇することなんて、なかったように思う。例えば晴れた空のように、好きという気持ちはすこーんと存在していて、顔を上げればいつでもそこにあった。ほらここに、と指させばそれでよかった。
けれど、躓いたり、自分を恥じたり、誰かと比べたりというさまざまな経験を経て、やがて私の中に、たくさんの障害物ができあがっていく。そして、好きという気持ちは、どんどん見えづらくなっていったのだ。
「本当に好き?」そう聞かれて即答できないのは、ジャッジされているように感じるから。「好き」という感情以上のなにかを、提示しなくちゃいけない気がするから。だから、自分の中に確かに存在したはずのささやかな「好き」さえ、取るに足らないもののように思ってしまうのだ。
でも。
そんなにも「本当に好き」じゃなきゃいけないんだろうか。
その感情こそが、尊いものなんだろうか。
感情というのは複雑だ。誰かに説明を求められても、かくも入り組んで絡まり合ったものを、言葉で伝えるのはとても難しい。ただでさえうまく言い表せないものなのに、優れている感情と、劣っている感情を、一体誰が、どうやって決めるというのだろう。
「本当に好き」という気持ちは確かに、その人を素敵な場所まで運ぶエネルギーを持っているのだと思う。でも、それと同じ力を持つ感情は、他にも絶対にある。
ふり返ると私は、自分の中のうねりにせき立てられるようにして、ここまで来た。恐怖心も、劣等感も、その中にちらりと見える「好き」という気持ちも、すべてが前へ進むためのエネルギーになった。自分さえ全貌が把握できないそのぐるぐるは、つまり私自身だ。
誰かを納得させるために「本当に好き」という言葉に集約させていく必要など、ないのだ。
今、私はこう思っている。
私には、オリジナルのエンジンがついています。そのエンジンがどういう動力で動くかは、どうかこちらにお任せください。
私はこれからも、一言では説明できないうねりを抱えたまま、大切な二つの仕事を追求していきたい。うんと遠くまで、見たことのない景色を探しに行きたい。
その覚悟は、もうできている。
著者:あさのますみ
「わたしがやめたこと」バックナンバー
編集/はてな編集部