休職を選んだ後悔を抱きながら、私は「休んでよかった」と「もっと頑張れていたら」の間を生きていく


適応障害で1年間の休職を選んだ(選ばざるをえなかった)ぱぴこさんに、当時の心境をつづっていただきました。

やりがいや使命感を持って働いていても、ふとしたきっかけで心身のバランスを崩してしまうことは誰にでも起こり得ます。

外資系のIT企業で働いていたぱぴこさんが適応障害(※)により休職したのは28歳のとき。それまで「働けなくなる」可能性についてまったく考えたことがなかったため、休職は想定外だったそうです。

今でも「あの時もっと頑張れていたら」と「休むべきだったし、休むことが必要だった」という相反する気持ちの間で揺れ動くことがあるぱぴこさん。しかし長い休みをとって回復したことで、「休む」が選択肢にあることの大切さも感じたそうです。


※適応障害:ストレスが原因で引き起こされる感情や行動の症状によって、仕事や学業、家事育児を行うなどその人の社会的機能が大きく阻害されたり、困難になっている状態のこと

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仕事をしない。
この選択肢は長らく自分になかったものだ。

思い返せば、就職活動時は「働き続ける」を前提として職探しをしていた。キャリアを断絶させない観点から「専門性、手に職」の要素があり、自分の興味関心と照らし合わせて外資IT業界をキャリアのスタート地点に選んだ。

仕事を選ぶ上で重要なのは「一定以上の給与を得られること」「市場の将来性があること」「転勤がないこと」。「自分が働き続けることを前提とし、したい生活を実現できる」ことが第一だったのだ。

このように論理的・合理的・効率的な判断をしているっぽい22歳の私は、自分自身に「働きたいのに働けなくなる」イベントが起こるなんて、まったく!これっぽっちも!考えていなかった

キャリアの断絶はせいぜい結婚、妊娠、出産といった人生イベント程度だろうと思っていたし、それらは自分の意思でコントロール可能だとすら思っていた。

仕事は順調!だったのに。まさかの「適応障害」を発症

順調に仕事の実績を重ね、同じ業界で転職して2年目の5月。

上期の評価がよく、厳しくて顔も怖い部長から評価面談で「一人前と言えるんじゃないですか」とフィードバックを受け、下期に社内でも有名なビッグプロジェクトにアサインされた。

私以外は全員シニアの歴戦の戦士で「この案件を乗り切ったらどこでもやっていける」と口々に言われた。やり切れば文句なしに成長できるし、昇格も見据えられる状況だった。

技術もスキルも未熟だったけれど、顧客との相性やカオスな状況で生き抜く力がうまくはまって、予想外に楽しく仕事ができた。仕事の質、環境、メンバー全てに恵まれていたと思う。

しかし、調子がやたらいい時というのは、反転して不運が運ばれてくる(と思っている)。不運の詳細は割愛するが、12月ごろからプロジェクトとは直接関係のない社内ハラスメント事案が3件程度並行して発生し、大きなストレスをかかえ、翌年1〜2月には診断済みの適応障害となった。まさか自分がメンタルを病むとは思っていなかったが、ストレス処理とエスカレーション対応と仕事をバランスさせることができなかった。

仕事自体は楽しかったこと、顧客のオフィスに常駐する形で働いておりハラスメント事案との物理的距離があったことから、診断後も「仕事を休みたくない!」という気持ちで必死に働き続けた。働けてしまった。適応障害により軽躁状態に陥っていたため毎日2時間睡眠でも眠くならず、1日18時間を元気に働いていた。

ストレスで脳がバグっていたため1日6食モリモリ食べていたが、それでも体重がどんどん減り、ふとした瞬間に赤信号で横断歩道を渡りそうになったり、階段から落ちそうになっていた。

常に細い糸の上を綱渡りで歩いているような危うさがあり、一歩間違えれば横に広がる深淵に落ちそうな感覚だった。「死にたい」と思うことは一度もなかったが、毎日「死ぬかもしれない」と頭の片隅で感じている状態だった。どう考えても異常である。

療養と服薬による回復と、さらなる試練

休職に突入したのは、約10年前の4月1日だった。

「エイプリルフールって、できすぎかよ(笑)」と思うけれど、原稿用の作り話でもなんでもなく、悲しいかな事実なのである。

「絶対にこのプロジェクトをやりきりたい」
「自分に非がないことで負けたくない」
「今の仕事を手放したくない」

そんな気持ちで必死だったが、無理なもんは無理である。バタンキュー!状態で休職に突入した私は、適応障害による軽躁状態で働いていた反動をモロに食らい、反転してうつ状態で過ごすことになる。

お風呂やゴミ捨て、皿洗いとか全部無理。基本はずっと寝ている引きこもり状態で3カ月程度を過ごした。激務とストレスで12キロ減った体重は、薬と不健康な食生活によって18キロ増加。体重推移が新興国の株価みたいなチャートを描いていた。

休職時の記憶は正直ほぼない。何をしていたとか、どんな気持ちだったとか、何が大変だったとか、全ては断片的な記号のようであまり思い出せない。

ただ、当時は一人暮らしだったため「家賃の支払いが重い」「生活どうしていこう」という経済的な焦りが大きかった。医療費負担もあるが、躁状態の病状のひとつである過度な消費により、私の口座には当時の月給くらいの貯金しか残っていなかったからだ。

休職中は傷病手当金を受けとることができるが、給与とは違い「毎月同日に支払われる」ものではない。手当申請の手続きは、書類仕事が苦手な上にメンタルがアンヘルシィな私にとって、非常に困難な作業であったし、貧弱な預金といつ振り込まれるかわからない傷病手当金を頼りに生活するのは心細かった。

ただ幸運なことに、病気自体は適切に薬を飲み、隔週から月1程度の通院で順調に回復していった。療養と薬で病状が安定した7月ごろからは、急激な体重増加の解消も兼ねて週3プールに通えるほどになり、9〜10月に復職する方向で主治医や産業医と会話していた。

働いていた時に飲めずにいた抗不安薬や睡眠薬は、処方された容量を守って飲むことでメンタルに安定と回復をもたらしてくれたし、不眠も解消されて眠れるようにはなった。薬による浮腫みや体重の変動はあったものの、動けるようになりほっとした。

比較的順調な回復で復職目途も立ったものの、8月に婦人科検診を受けたところ腫瘍があることが発覚し、適応障害の治療とは別に入院と開腹手術が必要になる。腫瘍が見つかり悪性か良性かの病理検査の結果を待つ間は生きた心地がしなかった。

弱り目に祟り目って私のためにある? 辞書を引いたら私の名前のってる? と天を仰ぐほどの不運のフルコースである。

転職か、残留か。心機一転か、安心感か。揺れ動く復帰への気持ち

そうして目まぐるしい時を過ごし、予定より長くなった休職期間にも終わりが見えてきた。

休職直後は早く戻りたい!という焦りがあったが、休みが長期化したことで戻ることへの不安感や気まずさが焦りを上回ってきて、気持ちはグズグズとしていた。早く社会の一員に戻りたい気持ちと、復職の怖さで気持ちがグワングワンに揺れ動いた。長期休暇明けに元の職場に戻るのは気まずく、正直、めっちゃくちゃ、嫌だった。

そうは言いつつもずっと休職しているわけにもいかないため、1月に産業医面談、人事面談を経て、2月から10か月振りに復職、復帰することとなった。ほぼ1年休んだことになる。

復職時は人事や所属部門のボスと会話し、一時的に復帰しつつ社内異動先を探す形となった。ボスに「何がしたいの?」と聞かれたときは「病み上がりにwillを聞くな」と心の底から思った。

当時、所属していた外資系企業において、社内で部門を跨ぐ異動の場合はオープンポジションに応募、職務経歴書を出して面接→合格する必要があった。

他社への転職時と同じように履歴書や職務経歴書書類も作成していたことから、私は並行して転職活動を開始した。「気まずさ」から解放されるためにも外に出たいという思いや、できることなら環境ごとリセットしたい、逃げ出したい感情も当然あったからだ。

社内異動面接は、2~3程度のポジションを受け、1つが受け入れてくれた。結果、私は外部企業の内定を2つと、異動先の内定を1つ手に入れ、どうするかを選択することになる。

「転職 or 残留」の選択肢を得た上で冷静に考えると「新しい場所で働けるのか……?」という不安が湧き出てきた。あんなに「気まずい……」と悩んでいたのに転職に二の足を踏んだのは、内定した会社も外資系で現職と同様に「ハイプレッシャーで忙しい」会社だったからだ。

悩んだ結果、「新しい環境のストレスで再発したら終わり」と判断して元の会社への復職を選択した。この時の判断に、「勝手を知っていることの安心感」は大きく寄与した気がする。弱っている時に全てを新しくするというのは博打すぎるなぁと思い、大変さはあれども「知っている」場所の方がマシだと感じた。

ただ、最終的にこの選択ができたのは異動先の新ボスが、自社での休職やハラスメントの件を理解してくれ、寄り添ってくれたからという点に起因する。自分の努力や判断で手に入れたというよりも、単純に運がよかったと思う。


後悔はある。でも「休めてよかった」も嘘じゃない

「休職を経験してよかったと思いますか?」

こう問われたら「全然思わない」と答える。私は「休職期間があったから、今の私がいます!」とキラキラとしたことは言えない。休職もメンタル不調も経験しないで人生を終えられた方がいいだろう。仕事においても、顧客と一緒にゴールを見たかったし、チームの一員として結果を出せていれば、昇進・昇給も含めて違うキャリアになっていただろうなぁという思いは残る。

同時に「休めてよかった」も本当だ。メンタル療養もさることながら、長期休暇がなければ婦人科検診に行かなかっただろう。悪化させたり病気起因で休むことになっていたかもしれない。

エイプリルフールのあの日からそろそろ10年がたち、当時目指していた事業開発や企画の仕事を経験できていて、今の自分には満足している。今のキャリアは休職後の異動先で経験した新規立ち上げ経験の賜物でもある。

休職に至るほど追い詰められる経験はつらいものだったけれど、「休むべきだったし、休んでよかった」と心から思う。

気持ちとして「働きたい!」「休みたくない!」と思って無理に体を動かしていても、倒れる未来を変えられるわけではない。私自身、体が先に限界を迎える経験をして「限界の閾値」概念を得て休息・休養の重要さを理解するに至った。

「休む」選択肢を持ち、選べることが、持続可能なキャリアを作る

メンタル不調や休職を経験しないに越したことはない。だけど、人生に「まさか」はつきもの。自分自身、休職する状況に陥るなんて思わなかったし、不運のデパートを経験するのも予想外だった。

仕事でのメンタル不調だけでなく、家庭や家族環境の変化、健康状態の変化によって「今までと同じように働くことが困難になり、休息・休養が必要」な状況が発生する可能性は誰にでもある。そういった不運イベント発生時に「我慢する」「辞める」「転職する」だけでなく、「休む」が脳内選択肢にポップアップされて、かつ選んでほしい。私は「休む」を選択できず踏ん張ろうとした結果、倒れてしまった。

また、休むことが苦手なら休みを取る練習をしよう。ちょっとした有給をなんでもない日に取るなどはおすすめだ。ちょっと疲れたな、不調だなと感じる時の「平日休み」は気分がリフレッシュされるのですごく良い。しんどい状態でずるずると仕事をするより、1、2日の休みを取ってリフレッシュする方が簡単だし、再現性がある。持続可能なキャリアには休みは絶対に必要である。

当時から今までを振り返っても、「休むのは重要だよ」という教えはなく、仕事を休んで自分の態勢を立て直すという発想がなかった。自分が死なないためには撤退が必要な時があり、休みは逃げや負け犬の烙印ではなく立派な戦略であることを知らなかった。人間は「知らない」ことは選べないので、選択肢をもち選択するべき理由を知ることはとても大事だ。

「休んだ先にどうなるの?」という不安はあるだろう。しかし、必要な時期に休みを取らないと負債は大きくなって戻ってくる。そのことは、ここまで記載した私の経験からも感じてもらえると思う。

メンタルを病んだり休職しても、適切に回復さえできればキャリア再構築はできるし、自然に「やるか」とか「やらなきゃな」と思う日がやってくる。だからこそ、苦しい思いをしている人はその場所から離れる、休むという選択肢を選択すること。今回は以上です。

編集:はてな編集部

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著者:ぱぴこ

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