安達茉莉子|「結果」に執着することをやめた - 人生は副産物でできている -

 安達茉莉子

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何か新しいことを始めるとき、やる前から「結果」を気にし過ぎるあまり、一歩踏み出すのに躊躇(ちゅうちょ)してしまうことはありませんか。

誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、作家の安達茉莉子さんにご寄稿いただきました。

仕事や家事など、忙しく毎日を過ごしていると、物事を始めるときにまず「やる意味」を考えてしまいがちです。以前は安達さんも、結果に執着するあまり、物事に取り組む足取りが重くなっていたといいます。

しかし、コロナ禍にある印象的な言葉との出会いを経て、安達さんは徐々に結果や未来ではなく、現在の自分を起点に「まず、やってみる」という考え方にシフトしたそう。結果への執着をやめた先に見えてきた広大な世界とは?

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「Life is what happens to you while you are making other plans.(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)」。

これは、アラスカの大自然の中で生きた写真家・星野道夫さんの著書『イニュニック 生命―アラスカの原野を旅する』(新潮文庫)に出てくる言葉だ。星野さんの友人でブッシュパイロット(航空環境が整備されていない僻地に物資などを届ける仕事)のシリア・ハンターさんの口癖だったという。確かに、人生は思い通りにいかない。いかないけれど、追い求めていたわけではないものが、気付けば自分の人生をとびきり豊かにしてくれていたりもする。仕事だったり、恋だったり、夢だったり。

もともと引き算思考の方が性に合っていて、いろんなものを手放してきた。中でも、今の自分の生き方を作ったもののひとつに、「結果」に対する執着を手放したことがある。そうすることにより、なんでも自由に手を伸ばせるようになった。

最近、私は中国語を始めた。別に中国語ができなくても誰にも怒られないし、何ひとつ困らない。ただ、知っている言葉が増えるのは単純に楽しいし、自分の世界が広がる。良いことだらけだ。

成果を誰にも求められずに日々学び続けているとき、私は見渡す限り晴れた日の草原を走り抜ける柴犬の姿を思い描く。自由にのびのびと、あの丘の上にある木に向かって走ってみようとか、あの辺を掘り起こしてみようとか、柴犬なのにイルカみたいにジャンプしてみようとか、遊び心がむくむく湧いてくる。何もない草原でお日様の光を浴びながら眠ったっていいし、誰かにお腹を撫でさせてあげたっていい。

そして、そんな自由な遊び場から、思いもよらず自分の仕事につながる芽が出てきたり、縁が繋がっていくから人生は不思議だ

昔だったら、「時間とお金と労力をかけて中国語をやる意味は?」と、内なる芝犬を小屋まで引き戻しただろう。だけど、結果に執着するのをやめるようになって、私の日々は自由な柴犬が駆け回る無限のドッグランのようになった

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「結果」に執着するあまり、卑屈になった日々

もともと結果に対する執着は強い方だったと思う。高校時代は、大学受験という目標を設定し、そこに向かって進んでいくことが良いのだと疑いもしていなかった。

大分県の山間部で生まれ育ち、多様な生き方のサンプルが絶対的に少なかったのもあるだろう。都会にいるといろんな人がいるなと日々思うけれど、人口が少ない田舎にいると、変わり者として生きていくことの心理的コストは大きい。それゆえか、道を外れたり、挫折することを無意識に恐れるようになったのだと思う。

就職してからは、仕事の成果を当然求められる。20代の頃、「人財」という言葉を職場で目にすることがあった。その頃はまだナイーブだったので、いるだけで財産になる人材……という意味の造語を見て、喉の奥をぎゅっと締めつけられたような気持ちになった。すぐにでも目に見えた結果を出さなければ、自分の居場所はないような気がしていた。

そうして必死に働いていると、何事も優先順位をつけざるを得なくなり、やる意味があるかどうかをまず考えるようになった。時間的にも経済的にも余裕がないので、新しいことに挑戦するハードルは高くなる。そんなことしたってどうせ続かないし。そんなことしたってどうせ意味はないし。そんなふうに結果に執着するあまり、「やらない理由」ばかりを見つけるようになり、新しいことに取り組むのに後ろ向きになった。

30代前半で、作家として本格的に活動を始めた後も、不安はつきまとった。作家として食べていけなければ、未来がない。本を出さないといけないし、売れないといけない。そうすると、興味の赴くままに書くというよりも、まずは自分を売り込むことに必死になった。ただ、「人生かかってるんです! 自分を認めてください!」みたいな人が思い詰めたような表情で名刺を握りしめて近づいてくると、誰だってウッとなる。

今ならそれは分かるけれど、当時はそうすることが自分の未来につながる行為なのだと思っていた(書いていてしんどくなってきた)。やればやるほど裏目に出るし、必死な感じが人を遠ざける。それが分かるのに、どうしていいか分からない。

いつしか、どうせうまくいきっこない、どうせ売れない、ずっとこのままなのかもしれない。そんな暗い未来予想にとりつかれ、最終的には、誰も私に興味はないだろうと、ブックフェアに出店しているのに自分の名刺を配れないくらいに卑屈になっていた。

もちろん、結果にこだわったことで達成できたこともたくさんあるだろう。必要悪ならぬ必要黒歴史だったと思う。だけど、結果——望む未来を意識すればするほど、いつも悪い妄想に囚われていたように思う。欲しい未来を目指すあまりに、現実とのギャップに少しずつすり減り、いつしか前向きな努力をし続ける力が挫(くじ)けてしまっていたのだ

コロナ禍に出会った言葉がきっかけに

そんな結果への執着をやめたのは、いつだっただろう。

新型コロナだ。新型コロナによる社会の劇的な変動に適応する形で、「結果」に執着する観念を捨てざるを得なくなった

新型コロナが世界中に拡大していった2020年の頭、私は作家業と二足の草鞋(わらじ)で、海外留学関連の会社にフルタイムで勤めていた。

その会社が、ある日突然なくなった。海外留学事業は新型コロナの煽りを受けて解散されることが決定し、皆突然解雇されたのだ。

貯金なんてない。都内での一人暮らしを継続するのも難しく、妹夫婦の家に居候させてもらえることになり転がり込んだ。大海原に放り出されたような気持ちになったのを覚えている。

ただでさえ、新型コロナが発生した後の期間は、毎日状況が変わっていた。激しい水流の中で、その瞬間その瞬間、どう泳ぐかを身体全部で判断する。いつの間にかたくましいマグロのように、激流の中を泳ぎ続けられるようになっていった。

大海原に放り出されたすぐ後、運よくアルバイトを見つけて、作家業との両立が可能な範囲で週3で2年ほど働いた。その後、「週3でも大丈夫ですよ」と声を掛けてもらった都内のある財団で働くことになった。

そこで偶然の出会いがあった。ソーシャル・キャピタル論を研究している、社会学が専門の佐藤嘉倫先生にインタビューをしたことだ。

ソーシャルキャピタルとは、日本語で言えば社会関係資本のことを指す。物的資本だけでなく、人と人とのつながり自体がその人の人生にプラスにもマイナスにも働くことを示した概念であり、社会や地域の課題を解決する上で注目を集めていた。そんなソーシャルキャピタルについて、先生はこう言った。

「ソーシャル・キャピタルは“副産物”です」。

人間関係をプラスに働かせようと思って誰かに近づいても、不思議と期待したことは何も起こらないことが多いのだと。

それを聞いたとき、走馬灯のようにこれまでの人生の歩みを思い出した。本当にそうだ。確かに、作為したことは不思議とうまくいかないが(上記黒歴史参照)、あれこれやっているうちに、副産物として良縁にめぐり会えたり、思わぬことが仕事に繋がったりした

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全てのものは副産物。そう思うと、とても楽になった。それまで当たり前のように持っていた結果へのこだわりが、毎日状況が変わるコロナ禍の日々の中で、いつの間にか薄れていたことに気付いた。そもそも先生のその言葉だって、私がその職場にたまたま就職し、企画しなければ出会えなかった言葉だった。その選択はとても軽やかで、以前のように「やる意味は?」と自問自答を繰り返すことはなかった。単純にその場に私がいることで、生まれるものを見てみたいと思ったのだ。

作家としても、当初の拗れた自意識は、ゆでこぼしたみたいにどこかに消えてしまっていた。もっと認められたいという気持ちは今もあるけれど、それはやっぱり「副産物」。だから今自分が面白いと感じること、こうしたいと思うことを、楽しんでただやる。認められるかどうかは分からないけど、もっと良い文章を書きたいしもっと良い本が書けたらいいなと思う。ただそれだけで日々は十分忙しい。

合言葉は「何か起きるかもしれない」

こうして「以前と比べて結果に執着しなくなっている」と自覚してからは、意識的に結果に執着することをやめてみるようになった。

手始めに、普段使う言葉を「どうせ何も起こらない」ではなく、「何か起きるかもしれない」という合言葉に変えてみた。少しでも不安を感じたら、この合言葉を唱える。それでまあやってみようかな、となる。実際に行動を起こすと、確かに何かは起きる。やってみて、「ちょっと違ったな」「なんか合わなかったな」もまた大事な経験値だった。

例えば、居候していた千葉の妹夫婦の家を出てから、横浜の妙蓮寺に引っ越したのだが、そのときの決め手は「ここなら、なにか面白いことが起こりそう」という予感だった。その予感は正しく、妙蓮寺にはまちの本屋である石堂書店と、その姉妹店の本屋・生活綴方があり、そこで多くの人と出会って、いろんな関係性がただ生まれた。

さらに、本屋での雑談から生まれたZINEシリーズが累計5000部を超える販売数となり、その印税でゲットした自転車を夢中になって乗り回していたら、気づけば自転車の本(『臆病者の自転車生活』)を出版することになった。そのどれもが予想していなかったことだった。

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何かすればひとつ経験が増える。あと一段階段を上がれば違う景色が見えて、違う選択肢が見えるかもしれない。「結果に執着する」思考が身に付いていた私だけど、いったん慣れてしまえば「結果に執着しない」思考様式の方が圧倒的に精神的に楽なので、自然と慣れてしまった。

未来のための種まきはこれまでもやってきた。だけど、結果に執着することをやめて、「なんだか気が向いたらとりあえず」の精神で首を突っ込んでいると、まいているものは種というよりは胞子のようになった。細かく、何気なく、微細で軽く、どこまでも飛んでいく。種だと、一つ一つの結実が気になってしまう。だけど、飛ばした胞子の数なんて誰も覚えていないし行方だって追えない。人の放っているものは、本当はそれくらい微細で無限の可能性があるのだと思う。

結果に支配されなくなり、足が軽くなった

結果に執着せず、気軽にやってみるようにしたことは、生き方の変化にもつながっていった。

例えば、それまで自分を苦しめていた「絶対こうならなきゃいけない」という思考から解放された。自分にとって夢や目標だったものが、自分を励ますどころか自分を苦しめることはよくある。だけど、例えば書くことが好きなのであれば、まず書いて人に見せてみればいいのだ。それがどう化けるかなんて分からないし、胞子はどこに届くか分からない。やってみたら実はそんなに好きじゃなかった……なんて、いくらでもある。最初からお金になるかどうかなんて、きっと誰にも分からない。ただ、自分が動くことで生まれてくるものをみてみればいい。

また、フットワークも軽くなった。昔は人にジャッジされることを恐れて対人恐怖症気味だったが、結果への執着を手放した結果、芋づる式に自分がどう見られるかへの恐怖や執着もなくなったので、今は普通にどこにでも行けるようになった。面白そうだと思って、かつ状況的・金銭的に無理がなければ、なんでもやってみる。経験する前から意味があるかどうかなんて、判断がつくはずがない。

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何より、「経験」そのものを重要視するようになった。結果を出すことに執着していた頃は、途中過程は全て達成するための手段のように思っていた気がする。だけど違う。時として、「経験」それ自体が人生の中で大切なことだったりする。

旅行は何かの目的達成のために行くわけじゃない。大学院で勉強するのは、学び自体がその人の一生で必要なことだったりする。語学をやりたいと思ったら、やりたいからだけで十分だ。成長になんて繋がらなくていい。経験することは、人生における収穫だ。収穫した果実を、存分に味わうことに生きる喜びも意味もあると私は思う

未来は目指すのではなく、今から生成されていくもの

もちろん、結果や未来ではなく、現在自分がどう感じているかを大事にすることは、簡単なようで簡単でない。「結果を重視する価値観」、「未来」に向かって行動する癖があるとしたらなおさらだ。

だから、「今自分はどうしたいのか」を意識するちょっとした練習は、日々やってみても損にはならない。例えば、評価サイトに頼らずに「このお店は美味しいかな?」と直感を働かせてみたり(評価サイトを使うことはもちろん全く悪いことではない)。もちろん、そんな脳に負荷がかかる面倒くさいことやってらんないよ! というときもある。だけど、ちょっと今ある生活の軌道を変えてみたい、違う世界が見てみたい。そう思ったら、そんな小さな実験精神の繰り返しで、まだ見ぬ世界に至るかもしれない

未来に向かって走っていくより、「自分が本当に望む今を生きる」こと。「今」から未来は生成されていく。どのようにも人生は変わっていく。階段を一段登ってみた先に、違う景色が見えるかもしれない。曲がり角を曲がった先に、運命の人がいるかもしれない。

結果にこだわっていた頃よりも、はるかに視界は広くなっていた。無限に広がる選択肢。何がどうなるかなんて、分からない。ネタバレのない世界に今日も私は生きている。

編集:はてな編集部

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著者:安達茉莉子(あだち・まりこ)

安達茉莉子さんプロフィール画像

作家・文筆家。大分県日田市出身。東京外国語大学英語専攻卒業、サセックス大学開発学研究所開発学修士課程修了。政府機関での勤務、限界集落での生活、留学など様々な組織や場所での経験を経て、言葉と絵による作品発表・執筆をおこなう。著書に『消えそうな光を抱えて歩き続ける人へ』(ビーナイス)、『毛布 - あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE 』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)、『世界に放りこまれた』(ignition gallery)がある。
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