観劇は、生きる力をくれる(文・横川良明)

 横川良明

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日常から抜け出して、別世界へ行きたい……。そう思ったことはありませんか? 慌ただしい日々を抜け出すような特別な体験は、疲れた心をふっと軽やかにしてくれるはず。

今回は、「観劇」に力をもらうというライターの横川良明さんに、自身の観劇への想い、観劇生活がもたらしてくれたことを寄稿いただきました。劇場へ向かうときの高揚感が伝わるような、観劇への愛があふれるコラムです。本文最後には、観劇初心者にもすすめたい作品を紹介いただいています。

※本記事は、2020年2月13日に執筆いただいたものになります

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パソコン画面の右上に「18:40」と表示されている。

やばい。時間がない。僕は駆け足でメールを打ち、誤字脱字がないかだけチェックすると、えいやとなかばやけっぱちのような気持ちでエンターキーを叩いた。

本日の営業は終了です。口の中でそう唱え勢い良くノートパソコンの蓋を閉める。投げ込むようにしてカバンにパソコンを詰め込み、席を立つ。

今日の開演時刻は19時。劇場に駆け込み、受付を通り抜けると、ロビーはすでに大にぎわいだ。物販コーナーには列が並び、待ち合わせをしていたのだろうか、顔を合わせるなり若い女性同士が「久しぶりー!」と高い声をあげた。みんな、うっすらと頬が上気している。これから何かが始まる予感にワクワクしている。

僕はするりとロビーを突っ切って、客席へ移動する。今日の席は、J列の18番。舞台と至近距離とは言えないけれど、真ん中で舞台全体が見やすい良席だ。「すみません」と小さく頭を下げながら、座席前の狭い通路を横切る。席に着いてスマートフォンに目をやると、画面は「18:55」。

よし今日も間に合った、とひと息ついて、スマホの電源をオフにする。ぶるっとバイブが一度震えて、画面がブラックアウトした。これが、僕にとって魔法の合図。煩雑な日常のあれやこれやも、これで完全にシャットダウンだ。

今から僕は別世界へトリップする。

飛行機の離陸を待つみたいに、背もたれに身を預ける。深く息を吸っていたら、すっと静かに音楽が鳴りはじめた。それに合わせるように周囲も途端に静かになる。客席の灯りがゆっくりと落ちていく。1メートル先さえ見えないぐらいあたりは真っ暗だ。引き換えに、音楽がはち切れそうなぐらい高まっていく。

この瞬間だ。僕は、人生でこの瞬間がいちばん気持ちいい。なんだか自分が生きているって感じがする。この高揚感を味わいたくて、毎日すり切れながら働いているとさえ思える。祈るように、きゅっと目を瞑る。今日は、どんな世界が見られるだろうか。

退屈と孤独なフリーランス生活を変えた、観劇生活

僕の趣味は、観劇だ。多いときは週5回。少なくとも週1〜2回のペースで劇場に通っている。この生活が始まったのは、28歳のとき。会社員を辞めて、フリーのライターになった僕は、突然ぽっかりと夜の予定が空いた。

会社員時代は特に理由がなくても同僚たちと遅くまで飲んでいたけれど、一緒に働く仲間がいなくなってからというもの、下手をすると1日誰とも喋らない日もある。飲み会の回数も減った。ぼんやりとテレビを観るぐらいしかやることがない。狭い1DKの部屋で、1秒でも多くカメラに抜いてもらおうと大げさにリアクションをとるタレントを白けた目で眺めていたら、なんだか自分まで面白みのない人間になってしまうような気がした。

リモコンでテレビを消して、ベッドになだれ込む。タレントたちの笑い声がまだうっすらと耳に残っている。それをかき消すようにして大きく伸びをする。退屈が、時間を腐らせる。社会人になるときにロフトで買った安物のランプシェードがかすかに揺れている。その小さな振り子みたいな往復を数えながら、ふっと思い立った。劇場に行こう、と。

理由は、あるようでない。もともと学生の頃に演劇をしていた僕は、観劇に行くこと自体なじみがあった。ただ、社会人になってからは終電近くまで仕事をしているのが常で、19時に劇場にいられる人種なんて空想上の生き物なんじゃないかとさえ思っていた。というか、仕事をこなすのに精一杯で、わざわざチケットをとってお芝居を観に行こうなんて発想すら湧いてこなかった。

でも、フリーになった今なら時間のコントロールは自分でできるし、何よりさして売れっ子でもない僕にはよそさまにお裾分けして差し上げたいぐらい時間があり余っている。僕はパソコンを起動して、昔よく通っていた劇団の名前を検索窓に打ち込んだ。演劇集団キャラメルボックスーーそれが、僕の観劇生活の始まりだった。

「劇場に通う」ことで慌ただしい毎日を乗り切れている

あれからもう8年以上の月日が流れた。歳月は、人を変える。暇を持て余してばかりの新人ライターだった僕も、それなりに慌ただしい暮らしを送れるようになった。たぶん、そこそこに忙しい。1日が終わる頃には、25mプールをクロールで3往復したぐらいに息が上がっている。

けれど、僕は劇場に通うことをやめない。むしろ観劇の予定がある日は、「なんとしてでも時間までに今日の仕事は終わらせてやる」と親の仇みたいに誓いを立てることで、毎日を乗り切れている気がする。

正直言ってチケット代は高い。時間だってそれなりにかかる。劇場を出て家に着く頃には23時を過ぎていることだって珍しくない。そうすると、あとはもう細々と片付けをすませたら寝るだけだ。プライベートが充実しているのかと言われると、答えに窮するところもある。

それでも、僕は劇場に通うことをやめられない。なんでこんなに演劇が好きなのか。通り一遍の答えは言える。あの作品に感動したとか。あの演出が忘れられないとか。あの台詞に逆境をはねのける勇気をもらったとか。そういう有り体のことは、いくらでも。

劇場は淋しさを忘れさせ、自分の存在を確認できる場所

もちろん、どれも嘘じゃないし真実なんだと思う。でもそれが最適解でもない気がする。きっと本当の理由は、もっと単純で、個人的で、俗っぽい。

僕は劇場に来ると、淋しさを忘れられるのだ。フリーになって9年。仕事も安定しているし、何があっても動じない程度には実力もついてきた。昔なら値札を見た瞬間に、そっと店をあとにした洋服も、まあいっかと買える程度には経済的な余裕もある。老後への不安は尽きないけれど、そんなことをあれこれ考えても仕方ないし、今というこの一点にだけフォーカスをすれば人生は存外に楽しくて、まあ、たぶん恵まれているんだと思う。

でもふっと誰ともつながっていないような気持ちになるときがある。キーボードを打つ手を止め、ブルーライトで疲れた目を指できゅっと揉んだとき。誰かと話がしたいけど誰に連絡をしていいのか分からず、そのままメッセンジャーアプリを閉じたとき。金曜日の繁華街、わいわいと騒ぎながら2軒目に向かう酔っ払ったサラリーマンたちとすれちがったとき。この世界で自分のことを見ている人なんてひとりもいないような、途方もない淋しさと虚しさでやるせなくなる。

そんなとき、劇場はいつも力強い。あたたかくて、にぎやかで、幸福な予感に包まれている。知り合いなんかひとりもいなくても、席に座れば、自分も何かに参加させてもらえているような感覚になる。それは、どこか存在を許してもらっているような感覚に近かった。

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みんなが同じものを観ている。その事実が、僕を救う

幕が上がれば、舞台の上で役者たちが話しはじめる。小気味の良い台詞の応酬に、客席から笑いが漏れる。すっと張りつめていた空気が、そこでかすかに緩む。すると、隙間から柔らかい風が吹き込んでくるように、劇場全体の雰囲気が温かくなって、あちらこちらで笑いが生まれはじめる。そして、あるタイミングで客席から一斉にどっと大きな笑いが起きる。

その瞬間、僕はここにいる全ての人たちと何かひとつのものを分かち合えたような気持ちになる。もっと言うと、客席全体を覆う感情の波を、劇場にいる全ての人たちで一緒につくっているような感覚になる。それが、この上なく心地いい。

終盤になると、役者の演技も一層熱を帯びてくる。衣擦れの音ひとつ立ててはならないような緊迫した空気が劇場を支配し、まるで全員が一緒になって息を止めているみたいだ。全身が強張り、血管が収縮する。

まったく例えがうまくなくて申し訳ないけれど、客席全体がコクピットで、そこにいる観客全員がパイロットとなり、劇場という名のロボットを操縦しているような錯覚に陥る。あの極度の一体感が、たまらない。

カーテンコールが終わって、客席の灯りがつくと、静かに席を立つ人もいれば、ひとりで鼻を啜る人もいる。連れ合い同士、「よかった〜」と今にも泣き出しそうな声をあげる人もいる。誰のことも僕は知らない。たぶん再び会うこともない。だけど、このとき、この場所で同じものを観て、それぞれ感じたことは違っても、確かに何かを受け取った。その事実が、僕を淋しさから救ってくれる。ひとりじゃないんだと思わせてくれる。

一瞬を全力で生きる彼らに会いたくて、僕は劇場に行く

36歳にもなると、仕事でミスすることも怒られることもほとんどなくなってきた。どんな原稿も書く前からなんとなく着地が見えていて、何か起きても事故らないテクニックも身に付けてきた。あんなに昔は緊張した取材も、今では開始直前まで雑談にふけるくらいの余裕はある。それはいいことなんだと思う。

でも、ときどき思うのだ、僕はこれから先、何かに全力になれることがあるのだろうかと。何かに夢中になれることはあるのだろうか、と。

だけど、劇場は違う。舞台の上に立っている人たちは、いつも全力だ。まるで自分の命を種火にして燃える炎みたいだ。身を削り、声を振り絞り、光を放つ。それは太陽を直視したみたいに鮮烈で、その眩しさが僕の心の中で淀んでいる不完全燃焼の何かを溶かしてくれるのだ。

僕はもうあんなふうに全力で生きることは、たぶんできない。だけど、彼らの全力を浴びることで、ちょっとだけ自分もその一員になれた気がする。物語の主人公になれたなんて口が裂けても言えないけれど、誇り高き村人Bぐらいにはなれた気がする。

劇場を出ると、いつも足取りが軽い。このまま走り出したら、どこまでだって行けそうだ。それはきっと舞台上にいる彼らがくれたエネルギーが、まだ体に残っているから。あの感覚をまた味わいたくて、一瞬一瞬を全力で生きる彼らにもう一度会いたくて、僕は劇場に行く、性懲りもなく。

生きていると感じさせてくれる場所がある人は、たぶん強い

別に演劇だけが特別だとは思わない。きっとみんなそれぞれ同じように大切なものがあるんだと思う。熱狂の日本武道館だったり、白熱の日産スタジアムだったり、至福の東京ビッグサイトだったり、一人ひとりに聖地がある。生きていると感じさせてくれる場所がある。そして、そういう場所を持っている人間は、たぶん強い。

だから僕は今日も劇場に行く。相変わらずチケット代はかさむ一方で、月々のクレジットカードの明細を見たら瞬時に百年の恋も醒めそうになるけれど、せめて自分の好きなものに好きなだけお金を使えるぐらいには稼いでやろうと息巻いて、真新しいWordの画面を立ち上げる。今日は19時から天王洲 銀河劇場。18時34分発のモノレールに乗れば間に合うだろう。それまでにこの原稿を仕上げてやるぞ。

……そう気合いを入れる僕は、もしかしたら舞台の上に立つ彼らと同じぐらい全力なのかもしれない。

横川良明さんがオススメしたい3作品

■ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー!!」“最強の挑戦者(チャレンジャー)
古舘春一/集英社・ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー!!」製作委員

(C)古舘春一/集英社・ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー!!」製作委員会

古舘春一原作の同名コミックの舞台版。高校バレーボールの世界で頂を目指す高校生たちの青春を描いた王道スポーツドラマです。見どころは、舞台の上でいかにバレーボールを表現するか。本物のバレーボールをそのままトレースすることはできません。だけど、まるでデジタルアートのような映像クリエイティブと、若い俳優たちが実際に体を動かし汗を流すことで表現される白熱の試合シーンは、本物の試合のようで、本物の試合とはまた違うエキサイティングな楽しさが。

原作の雰囲気を忠実に再現したキャラクタービジュアルや、大好きなあのシーンのあの台詞を生身の俳優が目の前で演じる興奮と感動は、原作ファンなら一度は味わっていただきたいもの。原作をご存じない方でも、きっと劇場に来ればあの青春の熱気を追体験できるはずです。 

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■改竄・熱海殺人事件

1970年代から1980年代にかけて日本の演劇シーンに一大旋風を巻き起こした革命児・つかこうへい。その代表作が『熱海殺人事件』です。熱海で起きた瑣末な殺人事件を起点に巻き起こる人間ドラマは喝采を浴び、演劇界の芥川賞とも呼ばれる岸田國士戯曲賞を受賞しました。2020年3月より上演される『熱海殺人事件ザ・ロンゲストスプリング』、『熱海殺人事件モンテカルロ・イリュージョン』は、つか自らが手がけた派生作品のひとつ。それぞれ本家の『熱海殺人事件』をベースにしつつ、まったく違う設定と展開が用意されています。

つからしい膨大な台詞量と、役者の唾が舞い飛ぶ熱量と迫力。そして複雑で哀切な人間の業。決して古びないという意味では、もはやつかこうへいも古典の領域。まず入門編として演劇らしい作品を体験したい方にはオススメしたい1本です。

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■舞台『タンブリング』2020
タンブリング  

2010年4月よりTBS系で放送されたドラマ『タンブリング』。リアルタイムでご覧になっていた方も多いのではないでしょうか。男子高生が新体操に挑むというキャッチーなストーリーが10代を中心に共感と憧れを集め、ドラマ終了後も5度に渡って舞台化されました。

そんな人気作品が10周年のメモリアルイヤーに復活! 感動のスポーツドラマを繰り広げます。見どころは、何と言っても若い俳優がスタントなしで挑戦する本格アクロバットの数々。男子ならではのダイナミックな迫力は、生の舞台にぴったり。ひとつ技が決まるたびに、心の中で大歓声が湧き起こるはず。

さらにそこに、男子高生らしい友情と青春の物語が絡まれば、涙腺決壊は間違いなし。甲子園や箱根駅伝を観戦しているとつい泣いてしまうという方が本作を観れば、きっとその頬に爽やかな涙が伝うことでしょう。

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※記事内で紹介されている作品情報は記事公開日時点(2020年2月28日)のものです

著者:横川良明

横川さん

1983年生まれ。大阪府出身。テレビドラマから映画、演劇までエンタメに関するインタビュー、コラムを幅広く手がける。男性俳優インタビュー集『役者たちの現在地』が発売中。
Twitter:@fudge_2002

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編集:はてな編集部