こんにちは、文筆家の土門蘭です。

みなさんは、日記をつけていますか?

 

誰にも見せない日記帳に書いたり、ブログやSNSに書いて公開したり。

書かないけれど読むのは好き、という方も多いかもしれません。

かくいう私自身は、子どもの頃から毎日誰にも見せない日記を書いています。

 

近年では、友人の桜林直子さんとの共著・『そもそも交換日記』や、自身のカウンセリングのプロセスを記したエッセイ集・『死ぬまで生きる日記』も出版しました。

 

日記は、読むのも書くのも好きです。

 

最近は特に、日記ブームが来ているように感じます。日記の新刊が増えたり、個人が出すリトルプレスやZINEもよく見かけるようになりました。

 

なぜ今、日記なのでしょうか。

みんな、どうして日記を読み、書くのでしょうか。

日記によって、人にはどんな変化が起こるのでしょうか。

一人の「日記書き」として、そんな問いを抱きました。

 

 

2020年春。

 

東京・下北沢のBONUS TRACKに「日記屋 月日」がオープンしました。

 

ここはその名の通り日記だけを扱う日記専門店で、「日付が入っていること」をひとつの基準として、古今東西の日記本が販売されています。

 

出版社から出ている書籍はもちろん、個人が作ったリトルプレスやZINEも多く扱われており、ここでしか出会えないような日記が見つかるのも魅力の一つ。

 

年2回開催する日記のお祭り「日記祭」や、日記好きのためのオンラインコミュニティ「日記屋月日会」など、お店だけでなくさまざまな形で日記文化を広めています。

 

 

今回は、そんな「日記屋 月日」の店主である内沼晋太郎さんとお話をしました。

 

内沼さんは「NUMABOOKS」という出版社も運営されているのですが、そこから出される本も日記本が多数。「もともと、日記を読んだり書いたりすることが好きだったんです」と話します。

 

内沼さんご自身は、日記を読んだり書いたりすることに、どんな意味を感じているのでしょうか?

 

お互いに「日記を書く人」として、日記の魅力について話し合いました。

 

 

▼ふたりが話したこと

「日記だったら、仕事や住んでいる場所など書き手のバックグラウンドに一つでも興味があると『この人の日常ってどんなものなんだろう』と読みたくなるんです」

 

「わざわざ紙の本にする必要があるのは、『答えを探しにいく』読書じゃないものになるんじゃないかな」

 

「僕にとって日記を書くという行為は『本日の肯定』なんです。いつか未来の自分が読んだときに『いい一日を過ごしたから今の一日があるんだ』と思えるかもしれない」

 

「個人の『小さな物語』を書くことで、世の中の『大きな物語』に呑み込まれないように」

 

​​

お話を聞いた人:内沼晋太郎さん

1980年生まれ。NUMABOOKS代表、ブック・コーディネーター。株式会社バリューブックス取締役、新刊書店「本屋B&B」共同経営者、「日記屋 月日」店主として、本にかかわる様々な仕事に従事。また、東京・下北沢のまちづくり会社、株式会社散歩社の取締役もつとめる。著書に『これからの本屋読本』(NHK出版)『本の逆襲』(朝日出版社)などがある。現在、東京・下北沢と長野・御代田の二拠点生活。

 

アマチュアが書いたものでも広く読まれる「日記」

土門:「日記屋 月日」をオープンされてから3年が経ちましたね。体感としてはいかがでしょうか。

 

内沼:ここを作ったそもそもの動機は「日記を書いたり読んだりする文化を盛り上げたい」ということでした。もともと僕自身が日記を好きだったのもあるし、自分の出版社から出す本も日記が多かったので、日記文化を盛り上げるリアルな拠点が作れたらいいなと思っていたんです。3年やってみて、その目論見以上の結果は出ているなと感じます。思いもよらないほどに「日記の時代」になったなと。

 

土門:日記の時代。

 

内沼:もちろん、想像できなかったのはコロナですね。コロナ禍をきっかけに、自分の生き方を内省する時間が増えたように思います。昔の日記作品でも、戦争や疫病など変化の大きい時代のものは後世に残ることが多いですよね。「当時、みんなどんなことを考えていたんだろう」ということを知るために読まれ続ける。実際、このコロナ禍でも多くの日記が出版されたし、そのうちのいくつかは後世に資料的に引用されるものになると思います。

 

土門:だけど、コロナ禍になる前から「日記屋 月日」の構想はあったんですよね。その頃から「これから日記が来るぞ」という予感があったのでしょうか?

 

内沼:その予感はありました。「日記屋 月日」の構想は2019年にはあったのですが、それより前から「ここ数年で日記本が増えているなぁ」という印象があったんです。特に、文学フリマ(*1)でそれを感じましたね。日記本を出す人が増えているな、と。

僕自身、文フリに行くといつも思うのが、ここで小説を買うのは自分には少しハードルが高いなってことなんです。小説は創作だから技術も必要ですし、アマチュアの方が書いた小説に対しては何を基準に買えばいいのか、きっかけをつくりづらい。

だけど日記だったら、たとえば仕事や住んでいる場所など書き手のバックグラウンドに一つでも興味があると「この人の日常ってどんなものなんだろう」と読みたくなるんです

(*1)文学フリマ。作り手が自らの手で作品を販売する、文学作品展示即売会。小説・短歌・俳句・詩・評論・エッセイ・ZINEなど、さまざまなジャンルの文学が集まる。現在、九州から北海道までの全国7か所で、年合計8回開催されている。

 

土門:ああ、すごくわかります。

 

内沼:僕は新刊書店「B&B」も経営しているのですが、本屋として出版文化を盛り上げるために「書き手を増やす」こともしていきたいと思っています。表現者が増えるようなベースやプラットフォームを作りたいな、と。

でも、無名の書き手が小説でデビューするのって大変なんですよ。まず新人賞で狭き門を潜って賞を獲らないといけないし、その上受賞したからと言って書籍化されないこともある。じゃあエッセイはどうかというと、新人がエッセイでデビューするという道筋も、旧来の出版業界ではほとんどないんですよね。

だけど、日記本ならさっき言ったように、インディペンデントなものでも多くの人に読まれる可能性があります。その中から、書き手としてやっていける人が見出されるかもしれない。書き手を増やす道筋は「日記」なのでは、と思ったんです。

 

土門:写真家の植本一子さんは、まさにそうですよね。

 

内沼:そう、僕の中のロールモデルはまさに植本さんなんですよ。彼女の『かなわない』は最初、自費出版のリトルプレスで、本屋B&Bでも扱っていました。それを買った編集者の方が、のちに同タイトルの商業流通版を出版されて、それもすごく売れたんです。

僕はその流れを見て、そんな日記本との出会いが作れる店が必要だと思いました。日記を書く人にご自身の本を持ち込んでもらって、編集者さんにフックアップしてもらう。そんな道筋を生み出せたらなと。

 

植本一子さんは写真家として活動しつつ、2016年刊行の『かなわない』(タバブックス)をはじめ複数の日記本を執筆。近著に、3か月に渡るトラウマ治療を記録した『愛は時間がかかる』がある

 

土門:なるほど。だからリトルプレスやZINEも多く扱っていらっしゃるんですね。

 

内沼:まずうちの店に来ると、「こんなに個人が作った本ってあるんだな」ってことにみなさん気づかれると思います。それを買って読んでみたら、「自分も書いてみようかな、本にしてみようかな」と思うかもしれない。そんなふうに、書き手を増やしていけたらいいなと。3年やってみて、少しずつその手応えは感じています。

 

日記以外、本にする必要がなくなるのでは?

土門:「日記の時代」について、もう少し詳しく聞きたいのですが、以前、内沼さんがTwitterで気になることを書かれていました。「人間の割愛」という言葉を投稿されたのは覚えていらっしゃいますか?

 

 

内沼:「人間の割愛」……なんか書いた覚えがありますね。

 

土門:「日記の時代になる確信が強まっている」「人間は割愛されるが、その人の日記は割愛されない」とも書かれていました。

 

 

内沼:ああ、そうそう……!! 書きました、書きました。

 

土門:これはどういう意味なのかうかがいたくて。

 

内沼:この頃はチャットGPTの話題が盛り上がっていたのですが、あのような技術が出てくると「これ、もう人間いらないね」「仕事がとられるね」っていう話が出てきますよね。それって「省略」されているんじゃなくて「割愛」されているんだな、って思ったんですよ。

 

土門:「省略」ではなく「割愛」。

 

内沼:そう。「割愛」って「愛」という言葉が入っているように、惜しみつつも省くことなんですよね。たとえば煙草屋さんが自販機になった時には「あの店のおばあちゃんとの会話、結構よかったのにな」って惜しんだり、駅が自動改札になった時には「駅員さんに切符を切ってもらうのもよかったんだけどな」と惜しんだり。どう考えても機械になった方が合理的だから変わっていくんだけど、それは省略じゃなくて割愛なんですね。

今回、生成AIによって大規模な割愛が起こる時代がやってきているなと感じた時に、「じゃあ、割愛されたものはどこに残るんだろう?」って考えたんです。「それらはきっと『日記』に残るな」って。

 

土門:日記に、ですか。

 

内沼:自動改札機を通り過ぎる時、わざわざ「駅員さんがいた時代の方が良かったなぁ」なんて言う人はいないですよね。だけどふとした時、映画や写真などで昔の風景を観て、そんなことを思い出す。それってわざわざ表明する必要のない感覚で、どこに出すわけでもないんだけど、日記の中になら書けるわけです。つまり、人間の役割は割愛されるけど、人間が思ったことは日記に残り続けるなと思ったんです。

 

土門:世の中はどんどん合理的になって「割り」切られていくけど、そこで出る余り……つまり「愛」みたいなものの受け皿が日記なのでは、ってことでしょうか。

 

内沼:そうです。もっと言うと、本もここからすごく変わると思います。これまでにも、辞書は紙から電子になり、地図も紙からカーナビやGoogleマップになるなど、本は大きく変化してきました。さらにこれからは「答えを探しにいく課題解決型の本」はすべて紙じゃなくなり、いずれそのタイプの「読書」自体なくなるのでは、と思っています。

たとえば、仕事で部下のマネジメントに悩んでいる人がいるとしましょう。これまでは本の中に答えがあることを期待して、頭からお尻まで読む必要がありました。だけど、マネジメントの本の中身を読み込んだ生成AIがあれば、自分の現状を伝えてどうすればいいか尋ねるだけで答えが返ってくるようになります。まるで著者が自分のために返事してくれているような答えが、自分が本を読むよりもいい答えが、即時返ってくる。

 

土門:確かに、それなら答えを探すための読書はしなくていいですよね。

 

内沼:すると、わざわざ紙の本にする必要があるのは、「答えを探しにいく」読書じゃないものになる。読む行為やプロセス自体がおもしろいとか、答えではなく新たな問いや視点を得られるとか……読書している時間や経験そのものを目的とするものしか、一連の長い文章は必要とされなくなるだろうと思うんです。

で、ここにやや説明しにくい飛躍があるのですが、自分にとってそういう文章には「日記的」な要素があると感じられるんですね。その考えをさらに拡大解釈すると、「すべての本は日記なのでは?」「日記以外、本にする必要ないってことかも?」と。

 

土門:おお! まさに「割愛された部分」ですね。

 

内沼:もちろん、実際はいろんな本が出版され続けると思うのですが(笑)。ただ少なくとも、日記には答えはないし、なにごとも割愛される必要がない。だからAIに切り替わるものじゃない、って思うんですよね。

 

土門:そういう意味で、「日記の時代」とおっしゃっていたんですね。

 

日記を書かないと、生きている感じがしない

土門:私自身、子どもの頃からずっと日記を書いているんです。誰にも見せない日記なんですが、まさに内沼さんがおっしゃったように、ここでは「割愛された部分」が書かれているように思います。日常生活で生まれる、感情や思いの部分ですね。

ここでは何を書いてもいいんです。たとえば「あの人がどうしても嫌い」とか「嫉妬してしまう」とか、日常生活を送る上で邪魔になるような感情も全部出す。そういう意味では日記を書くことは、感情の排泄と自己受容になっているような気がしています。そうして感情の通り道を滞りなくする訓練が、執筆業を生業とする自分としてはとても大切なんですね。

 

内沼:なるほど。

 

土門:ここからは一人の「日記を書く人」としてうかがいたいのですが、内沼さんにとって日記を書くことはどんな意味があるのでしょうか。

 

内沼:僕も毎日誰にも見せない日記を書いているのですが、その意味合いは土門さんと近いような気がします。自分が考えたり感じたりしていることを表出するために書いている。ただ僕は執筆が生業ではないから、土門さんのようにトレーニングという感覚はなくて、健やかな毎日を過ごすためにそれをやっているんですよね。

忙しいと、日記って書けないんですよ。バタバタしている時には1週間分溜めて後から思い出しながら書くことがあるんですが、そういう時って健やかな状態じゃない。「ああ、最近調子が悪いのは、毎日日記が書けていないからだな」って思う。逆に、毎日書く時間を取れている時は充実しているなって思うんです。

 

土門:日記が調子のバロメーターにもなっているんですね。

 

内沼:そう。忙しく仕事をしつつ、考えたり感じたりすることも同時に出せていないと、仕事しているだけで人生が終わっていく気がするんですよね。でも、人生の主体は仕事じゃなくて、「生きること」じゃないですか。

自分がどんなことを感じたり思ったりしながら「生きて」いるのか。それって、書いておかないと消えてしまうんです。だからその置き所としての日記がないと、もはや生きている感じがしないんですよね。

 

土門:仕事では、いろんなことが割愛されますもんね。でも「生きること」の核は、割愛されたものの中に残る。

 

内沼:そうです。たとえば、今日僕が話したことは、何かしらの形で土門さんが編集して書いてくれますよね。だけど僕が今感じていること、「こんなことを思った」とか「土門さんがこんな表情をした」とかは、書かないと忘れて消えてしまう。それが書けているのと書けていないのとでは、僕の「今日」の意味が全然違うんです。

 

土門:ちなみに内沼さんは、ネガティブなことも書くんですか?

 

内沼:それはあまり書かないですね。僕はネガティブな感情を原動力にできないタイプなので。ネガティブなことが日記に書いてあったとしても、僕にとっては良くないんです。

 

土門:つまり、読み返すことを前提として書いている?

 

内沼:そうそう。嫌なことは忘れた方がいいと思っているので、思い出したいことだけ書いています。ほぼいいことしか書いていない。

 

土門:そうかぁ。私は感情の排泄と受容が目的ですが、内沼さんはどこかアルバム作りに近いんでしょうか。

 

内沼:うん、まさにそうですね。アルバム作り。

……あ、でもネガティブなことを書くときもありますよ。ネガティブな感情って、コミュニケーションをとっている相手がいることがほとんどじゃないですか。するとつい、メールやSNSに文句を書いてしまいそうになることがあるんですよね。

 

土門:はい、はい。

 

内沼:でもそんなのを送っても、短期的にはスッキリしても中長期的にはいいことがないって、社会人としてはわかっている。とはいえ、感情としては出ているから書きたい。そういう時はもう、一旦書くんです。「それはあり得ないだろう」「ひどいと思う」みたいなことをバーっと書いちゃう。

そしてそれを送らずに、日記にコピペするんです。さらに、読み返すときに読まなくてもいいように、文頭の文字を一段下げたり、色を薄くしたりしておく。僕はそれを「供養する」って言ってるんですけど。

 

土門:供養!

 

内沼:穴を掘って叫んでいるみたいな感じですね。せっかく書いたんだからとメールで送っちゃうんじゃなくて、日記に残しておけば気が済む。これはすごくおすすめです。

 

土門:なるほど、見返したくない感情もどこかに置いておく、というのもいい方法ですね。

 

日記を書くと「同じ毎日じゃない」ことに必ず気づく

土門:内沼さんは、書かれている日記を本にしようと思ったことはないんですか?

 

内沼:それはないですね。終始自分が読み返すためだけに書いているので。

 

土門:それって、すごく贅沢なことですよね。自分が読みたいものを、自分のために書き続けるって。

 

内沼:NUMABOOKSから日記シリーズを出している阿久津隆さんは、「誰も読まないものを書くなんてもったいなくてできない」っておっしゃっていました。それは書き手っぽい感覚だなと思います。でも僕は違うんですよ。僕が読者だからいいじゃんって思っている。自分の書いた日記を読むのがすごく楽しい。一読者として、自分の日記が好きなんですよね。

 

土門:それはとても素敵だなぁ。

 

内沼:なんだか恥ずかしいけれど、自分の過去の日記って、今の僕にとっては名言だらけなんですよ。人間って、同じようなことで何度も悩んだりするじゃないですか。だけど過去の日記には、「こういう問題にはこう対処すればいい」っていう考えがいっぱい書いてある。だから僕は、過去の日記に線を引くんですよね。

 

土門:いいこと書いているなってところに、マーカーするんですか。

 

内沼:そうそう。もっといい言葉は、今日の日記にコピペして「本当にその通りだなと思った」って書いたりしますね。僕はそこで、常に自家発電しているんです。

 

土門:それって、自分のことが好きになれそうな……。

 

内沼:ほんとそうです。自分のことが好きになるように書いているところもあるし、実際それで仕事もうまくいく気がするんですよね。

気持ち的にしんどい状況や、自信をなくすような出来事が続いていても、その日の日記をじっくり書いて、過去の日記を読み返してとやっているうちに、自分ならきっと大丈夫だと思えるような状態に持っていけて、実際に結果もついてくる。自分自身がこれまでの仕事で、そうやってつくった波に乗ってきたような感覚があるんです。

 

土門:今のお話を聞いていて思ったんですけど……私はかなり未来志向で、「将来こうなりたいからこうしよう」と「今」を決めるタイプなんですね。だから過去をあまり振り返らない。でも内沼さんは、過去を大事にされている感じがします。過去を積み重ねた先に今の自分があるんだって思っているような。そういう姿勢って、先がうまく思い描けない今の時代において、大事になってくるかもなって。

 

内沼:それは僕もすごく思います。特に日本は今後経済成長も難しいだろうし、「こうなりたい」と掲げたところで、なれる人はひと握りという種類のことも多いと思う。そんな中で未来に向かって走り続けるのって、多くの人にとってはなかなかしんどいと思うんですよ。

僕にとって日記を書くという行為は「本日の肯定」なんです。「僕の人生に今日という一日があってよかったね」と思うために書いている。そうすると、肯定された今日が残っていく。そんな日記を読み返していると、「いい人生を送ってきたなぁ」って思えるはずなんですよね。

 

土門:わ、なんかめちゃくちゃ羨ましくなってきました……いいなぁ!

 

内沼:いいでしょう(笑)。そりゃたまにはネガティブなこともあるけど、過去のおかげで今日があって、今日という一日も未来のためになっている。「今日はこんないいことを考えたよ」「こんなおもしろいことを思いついたよ」と未来の自分に向けて書き残していけば、いつか未来の自分が読んだときに「いい一日を過ごしたから今の一日があるんだ」と思えるかもしれない。それって、誰にでもできることなんじゃないかと思います。

たとえば、毎日同じ満員電車に乗って、会社に通う人がいるとしましょう。その人が日記を書かないと、その電車は本当に「毎日同じ」になるけれど、日記を書けば実は「毎日同じ」じゃないことがわかるんですよね。「今日は隣にこういう人がいた」「今日は電車でこんなことがあった」……そんなふうに定点観測的に描写すること自体が楽しくなると、精度もどんどん上がっていく。気づくことや感じることも増えていくと思うんです。

 

土門:なるほどなぁ。

 

内沼:「同じような人生だな」と思っているだけだと本当にそうなるけれど、日記を書くと「同じじゃない」ことに必ず気づきます。その一日一日を味わったり肯定することを繰り返す……生きるってそれでいいじゃない? と思いますね。なりたい自分を掲げなくても、「今日はよかった」「明日もよかった」「明後日もよかった」ってことでよくない? って。

 

世界は「小さな物語」で構成されている

土門:今のお話を聞きながら、自分が初めて小説を書いた時のことを思い出しました。私の母は韓国人で、スナックのママをしていて、シングルマザーなんですね。貧乏だったし、うまく日本の文化に溶け込めないしで、すごく苦労をしたと思います。日本語が充分に話せなかったので、私と彼女の言語コミュニケーションもあまりうまくいかず、彼女がどんな思いで毎日を過ごしているのか、よくわからなかったんです。

 

内沼:はい、はい。

 

土門:周りの人に母はよく「大変だね」と、少し同情されるように言われていました。そんな母を見ているうちに、「このままだと母は本当に『可哀想な人』になってしまうな」と思ったんです。でも、そんなこともなくない?って。それで、母目線で物語を書いてみようと試みたのが私の初めての小説でした。母を「日本で苦労している韓国人のシングルマザー」ではなく、一人の「私」として書きたい、と。

 

内沼:なるほど。

 

土門:それを書きながら、私は「大きな物語」に対抗しようとしているんだな、と感じました。個人の「小さな物語」を書くことで、世の中の「大きな物語」に呑み込まれないようにしている。きっと「満員電車で辛そうに出勤するサラリーマン」も、「大きな物語」の登場人物なのだと思います。だけどその人が「今日という一日」を書けば、それは「小さな物語」になる。その足掛かりとして日記があるのかもな、と。

 

内沼:本当にその通りですね。今、すごく言語化していただきました。本来世界というものは、一人ひとりの「小さな物語」の集積でしか構成されていないはずなのに、わかりやすいストーリー、つまり「大きな物語」に回収されてしまっている。その方が理解も管理もしやすいからってだけなんだけど、それはある種、思考の放棄に近いんですよね。

 

土門:はい、はい。

 

内沼:これから労働の一部がどんどんAIに置き換わって、自分の人生のために時間を使えるようになっていくのだとすれば、空いた時間で「小さな物語」をもっと書き残すようになったら楽しいと思う。そもそもは人生が主体で、その中に仕事があったはずなのに、仕事がなくなったら「人生とは?」ってなってしまう人がいるのは、やっぱりどこか間違っているんですよ。それを取り戻すためにも、自分が日々感じていること、考えていることをもっと書く人が増えたらと思うんです。

また、他人が書いたそういったものを読むことで、道ゆく人に対する解像度も上がると思います。「満員電車で通勤するサラリーマンはみんな辛いはずだ」とステレオタイプにしか捉えていなかった人も、そういう人の日記を読むことで、「この電車の中にいる人にも、一人ひとりいろんなことがあるんだな」と知ることができて、世界に対して優しい気持ちになれる。

 

土門:本当にそうですね。

 

内沼:今、「大きな物語」に苛立っている人が増えているんだと思う。でも、本当は「小さな物語」の積み重ねが世の中なんだと認識できると、優しい気持ちになれますよね。だから何かもやもやしている人には、日記を書いたり、読んだりしたらいいかもしれないよ、って思います。「日記屋 月日」がそういう拠点になれたら、とても嬉しいですね。

 

 

おわりに

日々の中で割愛される「小さな物語」。

それを取り戻すために、日記を書く。

 

内沼さんのお話を聞いていると、日記を書くということは、自分の人生を愛する行為なのかもしれないと思いました。

 

私はこれまで「感情の排泄と許容」として日記を書いてきましたが、今後はそれ以上の意味をもって日記を書けるような気がします。

 

「一日一日を味わったり肯定することを繰り返す……生きるってそれでいいじゃない?」

 

そんな内沼さんの言葉に、なんだか心が軽くなりました。

 

もしかしたら変わろうとし続けなくていいのかもしれない。成長し続けようとしなくてもいいのかもしれない。

日記を書けば、今日が昨日とは違うことに、その今日が未来を作っていくことに、必ず気がつくのだから。

 

あなたの今日は、どんな一日でしたか?

 

<お知らせ>

日記をたのしむイベント「日記祭」の第4回が開催決定!

開催日時:2023年12月10日(日)11:00-17:00
開催地:BONUS TRACK(東京都世田谷区代田2-36-15)

日記本の即売会やトークショー、音楽ライブなど盛りだくさんの内容です。イベントの詳細はこちら↓

https://tsukihi.stores.jp/news/64bcbe62117e114fb43f7656


編集:くいしん