「ちょっと腰が痛いんで横になっていいですか? みなさんももう、楽な姿勢になりましょうよ」——。そんな言葉に誘われて、僕らもリングの上に寝そべって取材する。前代未聞のスタイルで話を聞く相手はプロレスラーのTAJIRI選手だ。

プロレスに詳しくない人はピンと来ないかも知れないが、世界ではイチローや大谷翔平より名の知られた日本人とも言われる。以前所属していたプロレス団体「WWE」は世界165カ国で放送され、SNSの総フォロワー数は10億超。その第一線で数年にわたって活躍していたのがTAJIRI選手。つまりワールドワイドな超一流のエンターテイナーなのだ。

涅槃のような姿勢で取材に応じてくれたTAJIRI選手

しかしそんな「世界のTAJIRI」が現在籍を置くのはどういうわけか、福岡に拠点を構えるローカル団体・九州プロレス。事務所も道場も福岡市郊外の工業地区にあり、上空を飛行機、真横を山陽新幹線がひっきりなしに通る。

そんなお世辞にも恵まれた環境とは言えないところになぜ? という僕らの当然の疑問に対し、TAJIRI選手いわく「それはもう、ここが世界一素晴らしい団体だからですよ」。えっ? 世界一?

調べてみると、確かに他に類を見ない奇跡のような団体であることがわかってくる。

まず九州プロレスは営利企業ではなく「プロレスでまちおこしをする」という世界で唯一のNPO法人。そしてレスラーとはプロ契約を結ぶのではなく正社員雇用している。開示されている給与は平均420万円とNPO法人としては悪くなく、週休2日制で社会保険も完備。体が資本のレスラーにとってこれがいかに大きなことかは想像に難くない。

さらに驚くべきことに九州プロレスの興行は基本入場無料。理念に共感する企業からの協賛金で運営されている。このビジネススキームも世界初という。

無料観戦を知らせる興行ポスター

代表理事の筑前りょう太さんは「闘う理事長」の二つ名を持つ50歳の現役レスラー。出身地の福岡で2007年、最初はたった一人でこの団体を立ち上げた。そんな筑前さんを評してTAJIRI選手は言う。

「あの人は九州のキリスト様。きっと人間を一回卒業している」

「九州プロレスはあの人の想念が具現化したもの。いまや僕自身も彼の世界の住人」

「業界広しと言えども、同じことをできる人は一人も思い浮かばない」

中心からはいろいろな意味で遠いこの九州の地に、なぜこんな奇跡のような団体が生まれたのか。世界のTAJIRIに「九州のキリスト様」とまで言わせる筑前さんってどんな人なのだろう。僕らはすぐさま車を走らせ、道場からは10分ほどの距離にある事務所に急ぐ。

すると幸運にもいた。背広姿の185センチの大男。あれが闘う理事長・筑前りょう太だ。

プロレスは誰のものか

——プロレス団体でありながらNPO法人。レスラーは正社員として雇われていて、週休2日で社会保険も完備。主たる運営資金は入場料ではなく企業からの協賛金。なぜこんなにも変わったプロレス団体が九州に生まれたのか不思議に思い、今日はお話を聞きに来ました。

僕は24歳のときにメキシコでレスラーとしてデビューして、35歳で起業しているんです。それまでの9年間、国もいくつか跨いでいろいろな団体で経験を積んできた。そこで得た学びだったり痛みだったりを形にしたのがこの団体、というところでしょうか。

メキシコ修行時代の筑前りょう太さん

——学びと痛み。業界に対する問題意識のようなことですか?

一つには、限られた人にしか選手の元気を届けられていない、これはある種の社会的損失ではないかという思いがありました。九州プロレスを旗揚げする前、千葉の「KAIENTAI DOJO」という団体にいた時期があるんですが、そこでは毎週、倉庫のようなところで試合をやっていました。その中で完結していたんですよ。

——文字通り閉じられた空間というか。

あくまで一例ではありますけどね。それが本当にもったいないと感じていました。日本におけるプロレスはもともと戦後復興期の街頭テレビから始まったもの。そこにたくさんの人が集まって、空手チョップで外国人をやっつける力道山に声援を送っていた。そうやって不特定多数の人に元気を届けたのが日本のプロレスの始まりですから。

——限られたマニアだけに向けたものではなく、社会に開かれたものだった。

若手時代に修行で訪れたメキシコでも似たようなことを感じました。メキシコではプロレスがサッカーと並んで人気ですが、客層は明らかに違うんです。サッカーのスタジアムには綺麗な身なりをした人たちがいっぱいいるけれど、プロレスの会場にいるのはみすぼらしい格好をした貧しい人ばかり。そういうところからも「プロレスは一体誰のために存在しているのか」ということを感覚的に学びましたね。

——プロレスは誰のためのものか。

まさに今立ち上がろうとしている人、そのための元気を欲している人たちのためにこそ僕らはいるんだと思いました。そういう人に元気を届けるためにプロレスは存在しているんだと。

——元気を届けるために。そういえば亡くなった猪木さんもよく言っていましたね。

「元気ですかー!」ってね。

——実際、九州プロレスの会場には子供が大勢いますよね。いかにもな格好をした外国人が場外で暴れると、キャーキャー言いながら楽しそうに逃げ回っている。まるで昭和のプロレス。なんだか懐かしい気持ちになりました。

じいちゃんばあちゃんだったり子供だったり、情報を掴む力が弱い人も置いていかないのもプロレス本来の魅力ですから。そこに集まりさえすればそれだけで元気がもらえる。そういうかっこいいものでありたいと僕らは思っているんです。

カリスマなき時代に必要なこと

——プロレスを再び社会に開かれたものにする。今まさに立ち上がろうとしている人たちに元気を届けられるものにする。そのために追求した理想形がこの形だったんですね。

もう一つ念頭にあったのがお金の問題です。プロレス一本で食えているのはほんの一握りのトップオブトップだけ。ほとんどの選手はアルバイトをしてなんとか食いつないでいるのが現実です。僕自身もデビューして5年くらいはプロレスで飯を食えなかった。バリウムを飲ませて胃の健診などをするバイトをしていました。白衣を着て健診車に乗り、企業を回ってね。

——体を生かした力仕事ではなく。

嫌がる人にバリウムを飲ませる圧力にはなったかもしれないですけど。

——そうした経験が「レスラーが食える団体」を作ることにつながっていく?

そうです。そのためには経営を一から学ばなければならないと思い、地元の同級生の伝手で経営者の勉強会に入りました。日本のプロレス界は長いあいだ、猪木さんや馬場さんのような巨大なカリスマありきで成り立っていた。しかしそういう人はもういないわけで。しっかりとした会社組織でなければ難しい時代です。

——「いいものを作ってさえいれば売れる時代ではない」というのは、いろんな業界を取材していてもよく聞く話です。

選手はリングに上がったら絶対に頑張るもの。問題はその全体を司る経営側がどれだけ結果を出せるかだと思っています。そこが足りずに報われていない現場をたくさん見てきました。千葉時代にはまちおこしのNPO法人に参加していた経験があるんですが、そこでもまったく同じことが起きていましたし。

——というと?

みんな持ち出しのボランティア。日本人特有の美徳なのか、痩せ我慢をしながら「まちのために」と踏ん張っていた。そういう人を見るのが辛かったです。頑張っているのはもちろん美しい。でも、そこにプラスして対価を発生させられたら、お金という道具をうまく使えたら、プロフェッショナルなより良いまちおこしができるのではないかと思いました。

——それもあってのNPO法人。

一義的には、僕らが「九州ば元気にするバイ!」という目的ありきの集団であることをわかりやすく表現するためですが。それに加えて、NPOに対する日本人の観念を変えていきたいという思いもあります。アメリカではNPOは学生の就職先上位に入るくらい人気の職業。堂々とお金を回せるNPOを作ることで、日本でもそれができることを証明したいなって。

夢破れて再考した「人生の贅沢」

——しかし九州プロレスを立ち上げた当時、筑前さんはまだ35歳。レスラーとして一番脂の乗った年齢じゃないですか。経営側に回るのに葛藤はなかったんですか?

もともとレスラーになったからには世界一を目指していたわけですけど。諦めざるを得なかったんですよ。メキシコ修行からの凱旋帰国第一戦を日本武道館でやることになってね。全日本プロレスという老舗団体の興行だったんですが、直前に所属選手の大量離脱があり、誰も選手がいなくなったことで僕にも白羽の矢が立ったんです。

——ものすごく大きなチャンスじゃないですか。

でも、日本武道館といういきなりの大舞台に、足がガクガクの状態になってしまって。対戦相手も同じ立場だったから、試合をリードしてもらうわけにもいかず。とんでもなくしょっぱい試合をしてしまったんです。「しょっぱい」というのはプロレス用語で、要するにひどい試合。僕としてはここで凱旋を決めて、関東を拠点にレスラーとして世界一を目指す青写真を描いていたんですけど。一発目に大コケしてしまったことで、一気に居場所がなくなった。故郷である九州に帰ってくるしかなくなったんです。

——たった一回の失敗で。

それだけしょっぱかったということでしょう。それで地元で健診車のアルバイトをしながら、声をかけてくれる小さな団体に出続けていました。でも今考えると、レスラーとしての世界一をスッパリと諦めざるを得ない状況に置かれたことは、結果的に良かったと思ってます。

——というと?

そういう状況に置かれたことで、改めて自分は一体なんのためにプロレスをするのか、なんのために生きるのか、自分にとっての人生の贅沢とは何かと考える時間を持てたので。そうして出した答えが、大好きな場所である九州で、大好きなことであるプロレスをして、大好きな九州の人たちを元気にしたいということでした。

——九州プロレスが選手を正社員で雇っているのは、ご自身の選手としての挫折からくるもの?

それもあるかもしれないですけど。それ以前に、単純にずっと付き合っていきたいという思いがあります。選手を一商品として見るのではなく、一人の人間として付き合いたい。リングに上がっている時期もそうですが、上がれなくなった後も含めて。その方が贅沢だな、楽しいなと思うんです。だからこういう雇用形態をとっているんだと思います。

——これも「人生の贅沢」の一つだと。

それに、選手活動を通じて得た知見や経験が、引退後に違う形で世の中に対して発揮されることもあると思っているんです。たとえば営業として。あるいはフロントとして。そういう仕事をさせても彼らはすごい力を発揮してくれると思うんですよ。なぜならレスラーという人たちは基本的にエネルギーがすごい。そしてものをあまり深く考えない。そういう人って強いでしょ? 加えて彼らにはプロレスラーとしての、人に愛されるキャラクターがあるわけだから。

カタカナ4文字にときめく人たちに支えられ

団体最重量を誇るマスクマン・阿蘇山選手。公式プロフィールによると身長は「標高1592m」

——九州プロレスは現在、試合のほかに青少年の健全育成や施設の慰問といった形でも「元気を届けて」いますね。これは当初から考えていたことですか?

いやいや、結果としてそうなったという感じでして。というのも、恐ろしいことに僕は「プロレスなら絶対に地域を元気にできる」「喜んでもらえる」「ということは職業としても成り立つはず」という思いだけを持って九州に帰ってきたんですよ。だからどうやってそれを届けるかということまでは深く考えていなかったんです。たまたま施設に呼ばれて一回行ってみたら、じいちゃんばあちゃんにものすごく喜ばれた。「ああ、こんな形での元気の届け方もあるのか」と思ったところから徐々に活動が広がっていきました。

——なるほど、思い先行型というか。TAJIRIさんが「九州プロレスは筑前さんの想念が具現化したもの」「僕も筑前さんの世界の住人」と言っていたんですが、徐々にその意味がわかってきたような気がします。

ははは、そんなこと言っていましたか! でもそうかもしれない。最初にあったのは「プロレスで九州ば元気にしたい」という思いだけ。その時点ではほかに社員がいるわけでもないですし、一人の妄想から始まったようなものです。ただ、ありがたいことに立ち上げ当初から手伝ってくれる人はたくさんいました。みんな自分の本業がある中、その合間に集まって手伝ってくれてね。

——なぜ応援してもらえたんだと思いますか?

九州の人って地元愛がひときわ強いんですよ。その大好きな町にいながら大好きなプロレスに関われるなんて! と思ってくれる人がたくさんいた。それまで九州でプロレスというものが成り立った歴史はありませんでしたから。「新団体旗揚げ」と言われるだけでときめいてしまうんですね。それで力を貸してくださったんだと思います。

——プロレスの魅力というか魔力というか。

先輩たちがこれまで世の中に与えてきてくれたドキドキに助けてもらっていますね。それがあってこその話だというのは、15年経った今でも感じるところです。「プロレス」というカタカナ4文字を聞いただけでときめく人が世の中にたくさんいるんですよ。

——協賛金で成り立っているというのも驚きだったんですが、そこもプロレスの力?

それは大きいと思いますね。2022年度の実績で言えば、売上の86%が企業協賛です。チケットの売上は全体の5%ほどで、今年度はもっと少なくなる見込みです。「地域に元気を届ける」と言っている僕らですが、その僕らは、地域の人たちによって存続させてもらっているんです。これはお金に限った話ではないですよ?

わかりやすいことで言えば、この事務所もそうです。30坪ありますが、家賃は月額6万円。寮として使っている一軒家も6万円と格安です。これは不動産屋さんのご好意あってのこと。あるいは会場設営のやり方も、物流業者の方のおかげで効率化することができていたり。「リングの運搬を手伝いましょうか?」と申し出てくれたんです。プロレス業界には古くからのやり方があるんですけど、それを見た業者の方が「僕らだったらこうやるけどね」と。

——もっと効率的なやり方を提案してくれた。

彼らからすると当たり前のやり方らしいんですが。この一事が示すように、プロレス界は基本的にムラ社会なんです。「我々が培ってきたもの、受け継いできたものこそがコアであって、それ以外は違う」と思い込んでいるところがある。それが自分たちの首を絞めている。でもいざプロと触れてみると「こんな非効率なやり方をやっているの?」と指摘されたりもする。そうやって地域の方々に教わることがたくさんあるんです。だからやってこれているんだと思っています。

15年目の経営方針は……ズバリ「黒字化」

——お客さんは入っているし、リング内では若いチャンピオンも育っている。TAJIRIさんが加わったことで、この規模の団体としては異例と言えるくらい海外とのつながりもある。順風満帆なのでは?

いやー、全然そんなことない。だって見てください。今年度の経営方針はこれですから。

——黒字化!? あまりにもシンプルな!

15年やってきてこんなことを言っているくらい、まだまだ未熟なんですよ。学んでいるとは言っても、今でも毎月が戦いです。「世の中に対していいことをやっている」といったことに甘えて、どうしても経営や数字のことを後回しにしてしまっている。そういう自己反省があります。これはひとえに自分の経営者としての甘さです。

——実際はそれくらい大変ということなんですね。

「プロレスでまちおこし」で共感を得ていくのは簡単ではないですよ。そんな突飛なまちおこしなんて世界中見渡しても誰もやっていないわけで。ありがたいことに、どの企業さまも支援してくださるお気持ちはあるんです。でも花火大会とは規模が違うので。これだけの所帯(レスラー、スタッフ込みで18人)を食わせていけるほどの強い共感を取り付けるのはやはり難しい。その道なき道をみんなで頑張って、工夫して、なんとか進んでいっているというのが実情ですね。

——筑前さんはそうやって経営者として奮闘しながら、今も「闘う理事長」としてリングに上がり続けていますよね。それもまた大変なんじゃないかなと思うんですが。

それは大したことではないですよ。僕は年に1回くらいしか試合はしないので。「年に1回」闘う理事長です。というのも、毎度試合をしてしまうと大会全体を見られないじゃないですか。見に来てくれた人たちに対してどういったものを提供できたのかを確認できない。楽器を吹いていたら指揮はできないのと同じで。それは気持ちが悪いなって。無責任だし、嫌だなと思うんです。

——逆に選手を引退して経営に専念しないのは?

そこはリングに上がれる余地も残しておきたいなって。表面的なところをやるのも好き。でも「なるほど、これがこうなるからこれが成立しているのね」という裏側も楽しい。プロレスを表からも裏からも触れていたい。それがたまらんのです。それが僕の言っている「贅沢」。だからおっしゃるように、この九州プロレスというのは本当に僕という一人の人間のパーソナリティをそのまま事業に落とし込んだようなものなんです。

——それは今日のお話でよくわかった気がします。そしてTAJIRIさんが「九州のキリスト様」と言っていたことの片鱗も。

ははは。でもそんな「贅沢」をさせてもらっているのだからこそ、もっともっと経営を頑張らねば。15年もやって「黒字化」とか言っているのが現状なんだから。まだまだですよ。

 

◆◆◆

 

再び道場に戻ると、すぐ外でうまそうにタバコをふかすTAJIRI選手の姿があった。会ってきました、九州のキリスト様。TAJIRIさんがここを選んだ理由も、なんとなくわかった気がします——

「それはよかった。でも実際、東京から来た自分からしたらこんなに素晴らしいところはないんですよ。まず空が青い。博多駅まで自転車で15分の場所に住んでいながらこんなにも自然豊かです。東京ではすぐに不審者扱いされますけど、ここでは子供も、おばあちゃんも向こうから挨拶してきてくれる。そして何より食べ物が美味い。それだけでもう最高でしょう。世界中を旅してきた僕が断言するんだから、これはもう間違いない」

そう言って九州を絶賛するTAJIRIさんは、さらにこう続けた。

「でも逆に言えば、これは僕が旅してきてたから言えることなのかもしれないですね。だから、もし自分の生まれた場所の良さにピンと来ない人がいるのであれば、一度東京に出てみたらいいんじゃないですか。そうすれば、当たり前に思っていたものがいかに素晴らしいものかがわかるから」

・・・おおっといけね、もうこんな時間か。明日からまた海外なんで、この辺で失礼します。どこに行くかって? イタリア、マルタ、イギリス、アメリカ・・・帰ってくるのは1カ月後くらいですかね。そう言い残すとおもむろに自転車にまたがり、キコキコとかわいい音を立てて去っていく世界のスーパースター。その背中は「しのごのいうな、旅をせよ」と僕らに言っているようだった。

 

撮影:大塚淑子
編集:日向コイケ(Huuuu)