「自分は、どうやって社会と関わればいいんだろうか?」

日常のなかで、メディアを通して「社会を良くするために活動する人」を見かけては、自分もこんな風に生きられたらと思うことがあります。

大きすぎる社会課題を、自分たちの世代が解決できるかどうかもわからない。それでも社会に向き合う人たちのことを、どこか自分とは違うエンジンを搭載した「すごい人」だと思ってしまう瞬間がありました。

でも、それは思い込みなのかもしれない。そんな風に「社会に対してできること」のイメージを変えてくれるような出会いがありました。

その場所は、福島県いわき市。太平洋沿いに位置し、映画の舞台にもなった「スパリゾートハワイアンズ」や、恐竜の化石が発見されたことでも知られる土地です。

ここでは、まちのあらゆる場所に古着の回収ボックスがあります。毎日のように地域の方々が着なくなった「古着」が集まり、その量は倉庫に古着の山ができるほど。

古くなった衣類を捨てる際、燃えるごみとして出してしまうという方も多いことでしょう。そうなると次の使い道は見つかりません。しかし、いわきでは回収された古着のほとんどに次の使い道が見つかり、燃やすことなく活用されるといいます。

日常の役割を終えた古着が、再び社会の役に立つ。そんなシステムをつくりあげた女性がいます。

その方は、特定非営利活動法人「ザ・ピープル」(以下、ピープル)前代表の吉田恵美子さん。30年にも渡る地道な活動と古着回収のシステムによって、いわきを「古着を燃やさないまち」へと近づけてきました。いまでは、服飾を学ぶ学生をはじめとした全国の若者が、活動を見にはるばるいわきを訪れるほど。

吉田さんのように「地域社会の未来のため」に動くのは、とても利他的なこと。なぜ吉田さんは「未来のため」に地方で30年も動き続けてこられたのか。吉田さんが暮らすいわきのまちで、話を聞きました。

「社会に対して積極的に関わりを持ちながら生きるには、どうすればいいのか」。このことで葛藤する若者は多いと思います。彼ら彼女らのためのヒントが、吉田さんの話には詰まっていました。

 

古着の山は「資源ごみ」じゃない。ザ・ピープルの取り組み

取材にいく前から、吉田さんが取り組む古着リサイクルのシステムと、その規模の大きさを耳にしていた取材チーム。しかし、実際に倉庫を訪れると、目前に積み上がる古着の山に目を見張ります。

――ここがピープルの倉庫なんですね。見上げるほどの、すごい数の古着の山です。

そうでしょう。各地のボックスから回収した古着を一旦ここに集めて、仕分けをしていくんです。

定期的に山を崩して整理してますから、何年も放置されている古着はありません。数年前と比べると、これでも幾分か小さくなったんですよ。仕分けの人手が足りなくて山が膨れ上がる時期もあったし、私一人で仕分け作業をする日もあった。こうした倉庫が、いわき市内にさらに2つあります。

小名浜にあるショップでは、回収した古着をリユース販売。裾上げやお直しのサービスも行う

ザ・ピープルのスタッフのほとんどは有償ボランティアです。ショップの常連さんと話すうちに、手伝ってくれるようになったり、知り合い伝いに活動を知ってくれたり。

――吉田さん自身が現場に立つこともあるんですか?

実は、私は体調の都合で2023年の夏に理事長を退いていて。いまの現場は、副理事長の渡辺健太郎さんにお任せして動いてもらっているんです。

ザ・ピープルの副理事を務める渡辺健太郎さん。およそ13年前から、ピープルの活動を支えてきた

――健太郎さんは、いつから吉田さんたちの活動を手伝うようになったんですか?

健太郎さん:元々は、震災ボランティアとしてピープルに関わったのがきっかけです。東日本大震災が起きてすぐの頃から、ピープルは被災地支援の活動も行ってきたんですよ。

――古着リサイクルに、被災地支援まで……ローカルで活動されてきた大先輩へ、伺うべきお話がたくさんありそうです。メンバーから見て、吉田さんはどんな人ですか?

健太郎さん:とてもパワフルで、強い人という印象です。ピープル立ち上げ初期からこの団体の活動を牽引してきて、吉田さんがいなければ今のピープルはなかったですね。

――ピープルの活動も気になりますが、吉田さんご自身のことをもっと知りたいと思いました。

 

生きる意味を見出してきた、吉田さんの原点

「これだけの量があっても、古着のすえた匂いはしないでしょう。洗濯してから服を提供してくれる人がたくさんいるんですよ」と吉田さん

ーー吉田さんって、ピープルを立ち上げる前は何のお仕事をされていたんですか?

ピープルの活動をはじめる前は、専業主婦をしていました。結婚する前に就職して働いていたこともあったけど。

ーーその時はなんのお仕事を?

中学校の社会科教師をしていたんです。体調を崩してすぐ辞めてしまったんですけどね。

ーー出会ったばかりで失礼かもしれないんですが、吉田さんはどうして今のような人になったのでしょう?小さい頃はどんな子どもで、なぜ社会科の教師を目指して、そこからどうして市民団体の立ち上げをするに至ったのかを知りたいです。

そうですね……小さい頃から「自分は何のために生まれてきたんだろう?」と考えていました。それは母親の影響で、日曜学校に通っていたりしたことが関係したりしているのですけどね。

利他じゃないけど、「自分が生きていく意味」みたいなものをどこかできちんと見直したいって思いが、子どもの頃からあったんだと思います。

なので自然と、社会科の教師になりたいと考えたんです。当時は「他人の痛みをわかるためには、知識がないとわかりようがない」という思い込みがあって。その姿勢や知識を伝えることが、自分の仕事だと思ったんです。

ーー新卒の年齢の時ですよね? その頃から社会に意識を向けて、「他人のために自分は何ができるか」を考えていたということでしょうか。

そうかもしれません。教師になってはじめてのボーナスで、W. ユージン・スミスの写真集『MINAMATA』を買ったんです。生徒に見せたいと思って。

アメリカ人写真家のW. ユージン・スミスによる写真集。高度経済成長期の日本で起きた公害事件の一つ水俣病について、現地に3年以上暮らしながら取材した1冊

ーー写真集を?

生徒たちに、社会の発展を目指すなかで技術の使い方を間違えて、公害の犠牲者になった人がいることを知って欲しかったんです。まだ中学生ですから、どこまで伝わったのかはわからないけれど。

ーーそんな先生が学校にいたら、きっと社会に対する意識の向け方を学べていたはず。どうして教師を辞められたんでしょう?

一番の理由は、体調です。当時の学校では理不尽に感じることが多くて、参ってしまって。それに、自分は教科書に載っていることを生徒に教えるだけで「自分のことを伝えていないじゃないか」ともどかしく思う気持ちもあったんですね。

それが今は、色々な土地の講演会で古着リサイクルの話をするようになった。「私が何をしてきたか」っていう一人称の話をさんざんするようになったわけなので、人生どうなるかわからないですよね。

ーーキャリアの変化はあっても、吉田さんの想いは一貫して「人と関わって、社会のことを考える」ところにあると思えます。そこからどうして、市民団体を立ち上げることになったんでしょう?

転機になったのは、いわき市の女性20人が集められて行った「いわき女性の翼」というグループでの研修旅行でした。ヨーロッパ諸国へ2週間ほど滞在したんです。

研修旅行中、ドイツの街角でリサイクル分別ボックスを見ました。自転車に乗ったおじさんが立ち止まって、ゴミを分別しているのを見て、「日常のなかに当たり前にリサイクルが組み込まれている社会」があることに驚いた。それがひとつのきっかけでした。

そういう刺激もあるし、何より同じ問題意識を持って語り合える仲間が研修旅行のメンバーにはたくさんいた。社会について考えて話せる相手が、いわき市の女性でこんなにいたんだと感動したんです。

ーー社会について考えて動ける、仲間を得たわけですね。

ええ。いわきに帰ってからもみんなと集まって、少しずつ活動をはじめていくんです。

最初は「リサイクルの大切さ」を子どもたちに伝えるためのワークショップを開いたり、牛乳パックで紙すきしたり、アルミ缶でレリーフ作りしたり、実際に自分たちで古紙の回収をしてみたり……いろんな活動をしていました。

ーー最初から古着リサイクルの活動をしていたわけではないんですね。

そうなんです。古着に注目したきっかけは、いわき市民向けにとったアンケートでした。「普段捨てているもののなかで、勿体無いなと思っているものはなんですか?」という項目に、「古着」と答える方がとても多くて。そこからピープルの活動に繋がっていきます。

 

どう信頼される?まちで「古着といえばピープル」になるまで

研修を通して仲間を得て、「古着リサイクル」という活動テーマも得た吉田さん。いわき市に暮らす女性たちが集まり、市民活動としてスタートした活動が、いまでは「いわきで古着といえば、ピープル」とまで言われるようになったそう。

いまではいわき市内に13箇所、県内に8箇所の回収ボックスを設置している

ーー30年間活動を続けてきて、吉田さんのなかで「社会が変わった」という手応えのようなものはありますか?

実は、最初は市役所の方々から「敵なんじゃないか?」と思われていた時期もあったと思います。分別についての提言もしていたので、「クレームを言う市民なのかな」と思われていたんでしょうね。

ーーなんと……よかれと思ってやっていることが、市役所の人には警戒されてしまって。

関わり始めたばかりの頃は、ごみに関する素朴な質問をしても、「一言も返答を間違っちゃいけない」って緊張感のある答えを出されていました(笑)。

それが今では、市役所に「古着のリサイクルってどうすればいいんでしょう」って問い合わせの電話がかかってくると、職員さんは「いわき市内にはピープルさんという団体があって……」とうちの取り組みを伝えてくれるそうなんです。

かつての「ザ・ピープル」の活動の様子

ーー最初とは180度違いますね。どうしてそこまで信頼を得ることができたと思いますか?

活動資金をある程度自分たちで稼いで、独立して活動できる仕組みを作っていたのが強かったんだと思います。古着のリサイクルショップの売上で、無償だったボランティアを有償に切り替えることができていましたから。

「自分達で責任を持ってやる」ということを長年続けたことが、信頼される理由だったのかもしれませんね。

最初は本当に余裕のある人だけが無償で来てくれていたけど、有償ボランティアに変わってからは、「ちょっと小遣い稼ぎしながら、世の中に良いことができるなら」と関わってくれる人の幅も広がりました。これも団体にとっては大事な転機でしたね。

ーー改めて、30年以上団体を続けていくということの重みと凄さを感じます。辛いと感じられたことはなかったんでしょうか。

身の丈を超えるような、大きなことをやらなくてはいけないと思い込んでしまったことがありました。2011年の東日本大震災が起きて、ピープルという団体に対する社会からの要請が変わってしまったんです。

 

利他のサイズが、身の丈を超えてしまった

震災をきっかけにスタートした、「ふくしまオーガニックコットンプロジェクト」の様子(ザ・ピープルFBより

ーー震災後、ピープルに何があったのでしょう?

実は、震災前から市内で火災などがあると、罹災家族に向けて古着でいいのですぐに着られる服の提供を市の福祉部門から依頼され、対応するという経験を重ねていて。NPO法人として登録するときに、災害支援の項目も事業内容の一つに入れていたんです。

それで、震災が起きたタイミングで「自分たちにはやることがある」と思い、被災者支援に動き出したんです。

もちろん、大変だったことばかりじゃありません。ここで出会えた仲間も多い。いまの副理事長もそうだしね。

食糧や衣料品の援助、ボランティア派遣のためのセンター立ち上げ、避難民の方々と協力してのオーガニックコットン栽培事業など、支援活動は多岐に渡った

ーー農業にまで活動を広げたんですね。それはなぜはじめることに?

被災地での炊き出しのために、農家さんの野菜を直接買う機会があって。そこで「風評被害が心配だから、しばらくは野菜を作れないかもしれない」と聞いたんです。このままだと地域の耕作放棄地がどんどん増えていってしまうと思いました。

同時に、いわきに移って来られた避難区域の方々が、コミュニティから少し孤立しはじめているという課題もありました。特に高齢の男性たちがうまく地元の人たちと関われず、家にこもりがちになってしまっていたんです。

そういう背景があって、オーガニックコットン栽培ははじまりました。一緒にコットン畑で農作業をすれば交流も生まれて、コミュニティの分断のようなものを解消できるんじゃないかと思って。

ーー地域の課題に向き合った結果なんですね。けれど、これまでやってきた「古着を回収して、みんなで手分けしてリサイクルすること」と比べると、かなり大きな責任と役割のある取り組みのようにも思います。プレッシャーに感じることはありませんでしたか?

当時は「やるべきだ」と思って突っ走っていました。

何より、復興支援の予算がついたことで、社会からピープルへの要請も、「ピープルにできること」も変わったのだと感じました。言い方は悪いかもしれませんが、ある種の「災害復興バブル」とでもいえるような時期だったと思います。

おかげでスタッフを雇用できるようになりましたが、その分やるべき活動は増えて、団体も大きなものになっていった。身の丈に合わないような、大きなことをやらないといけないんじゃないかと考えてしまう、しんどい時期でしたね。

 

続けるために大切な、「人と闘わない」こと

古着の回収トラックには、災害ボランティアとして都内から来てくれたアーティストが描いてくれた絵があしらわれている

ーー「生きる意味を見出す」というお話からはじまって、社会に対する問題意識を持って、時代の変化による社会からの要請も経験した。30年間本当にいろいろなことがあったと思いますが、吉田さんはどうして、ここまで社会に対して利他的な活動を続けてこられたのでしょう?

それは……「悔しさ」だったのかもしれません。

ーー悔しさ、ですか。

実は、私はピープルの立ち上げメンバーではあるんですが、最初の代表ではないんです。

色々あって最初の代表が団体を去ることになったとき、彼女に「あなたが団体を継いだら、ピープルはすぐに潰れる」と言われました。それを聞いて、意地でも続けようと思ったんです。

「こんな話でいいのかしら?」話しながら、照れ臭そうに笑う吉田さん

ーー半生を聞いているなかで、どこか吉田さんのことを「利他的な巨人」のように思い込んでいました。でも、個人的な悔しさとか、そういう気持ちがエンジンになることもあるんですよね。

そうね、やっぱり悔しさが大きいかもしれない。

ーー 一方で、いまの吉田さんからはあまり「怒り」みたいな感情は感じませんでした。昔は違ったんですか?

どうなんだろう。でも、自分達はできるだけ誰も責めずに活動を続けていきたい、とは思っていました。社会問題の要因になっている組織や事柄を批判したり敵対したりすることもできますが、現状を変えていくためには、できるだけ多くの人と一緒に変えていく必要があると思っていたから。

組織の内側に対しては、厳しく接してしまって「感じの悪いやつだな」と思われていたかもしれないけど(笑)。

ーー人とは闘わず、一緒に考える人を増やしていく。それも吉田さんが活動を続けるために大切にしていたことだったんですね。教師時代の生徒たちへ「MINAMATA」の写真集を見せたことや、「いわき女性の翼」で多くの仲間を得たこととも繋がっているように思えます。

だから、東電の関係者がオーガニックコットンの活動を視察しに来られた時も、一緒に畑を見に行きました。これから何ができるかを一緒に話すことの方が大切だと思ったから。

ーー吉田さんの想いを、受け継いでいく人はいますか?

副理事の健太郎さんをはじめ、現場で団体を支えてきてくれたメンバーがたくさんいます。

それから、ピープルの取り組みを評価したり、一緒に考えてくれる外の人たちもいます。たとえば日本リ・ファッション協会の鈴木純子さんとの出会いも、大切な出会いだったなと思います。

一般社団法人 日本リ・ファッション協会の代表理事・鈴木純子さん。東京でリメイクファッションの展示会をやるからと声をかけてくれたことがきっかけで知り合ったそう

彼女自身も、「いいものを長く愛用する」循環型の生活を目指して、衣料品の分野で活動を続けてきた人。近い悩みも抱えていたから、お互いに葛藤を話し合うこともできました。

ーーピープルに関わってくれる人も、当初と比べてかなり増えたし、人の入れ替わりもあったんだと思います。今日現場で会った人のなかには、取材日にはじめて吉田さんと挨拶をした人もいましたね。そういう人を含めて、ピープルがやろうとしている「古着を捨てない」「循環させよう」という営みは、受け継がれていくんじゃないかと感じました。

そうね、そうだといいなと思います。

「がんばれ〜」と副理事に念を送る吉田さん。お茶目に振る舞いながら、「この活動が続いてほしい」という思いの真剣さも垣間見えた

ーー最後に、これからの社会を生きる下の世代に、吉田さんが残したいものは何なのかが気になっていて。 もしくは、“残したくない”ものも、あれば教えてほしいです。

残したいことは、そうね。社会にはたくさんの課題があるけれど、あなたたちの上の世代の人たちも、いまある社会課題を諦めていた訳では決してないんだよ、ということを伝えたいです。変えたいと思って、努力してきた痕跡のようなものを、見せられたらいいな。

“残したくない”ことは、彼らに将来の全責任を投げることはしたくない。いまある社会課題は間違いなく彼らにも降りかかる問題で、その世代に続きを委ねることにはなるけれど……丸投げをしたくない、とは思いますね。それが、彼らに伝えたくないことかな。

 

おわりに

「社会を良くしたい」と考え、行動する人に“利他”という言葉を背負わせることの残酷さを感じた取材でもありました。吉田さんにとってのピープルは、“誰かのため”という言葉ではくくることのできない、自分自身がどう生きるかを追求した結果だったのかもしれません。

取材の終盤、吉田さんは「何もできないんだけどね」と力なく笑っていましたが、周りにいるメンバーは「やれることをやってきたと思いますよ」と本人を鼓舞します。取材陣も、吉田さんがやってきたことと、これから起きればいいと思うこと、を話して伝えました。

ピープルにはたくさんのインターンや、学生の体験活動、ボランティアの人たちが訪れるといいます。なかには、「やり方を勉強させてください!」とリサイクルの活動自体に関心がある人も。ピープルはひとつのモデルであり、先人として多くの人々の先を走ってきてくれたもの。これから先、ザ・ピープルと吉田さんの取り組みに触れた世代が、いつか同じ志を持って、別のまちで活動をはじめることでしょう。

1世代のうちに、ある社会課題の“解決”まで辿り着くことは、難しいことなのかもしれません。「ピープルみたいな活動が、どの街にもあればいいのに」と思えるような活動と、未来を示したこと自体が、吉田さんたちが30年かけて作り上げた「社会に対して、できること」だったのではないでしょうか。