福島に来て一年。課題の現場に立ち続けたら、祖父との愉快な別れができた|ローカル若草コラム

2021.03.18

福島に来て一年。課題の現場に立ち続けたら、祖父との愉快な別れができた|ローカル若草コラム

福島県いわき市に移住して1年が経った、久保田貴大さん。彼は、つい先日亡くなった祖父を笑って見送ることができたのは「ローカルの感覚のおかげ」といいます。地元の長野で身に付け、福島での日々で再認識した「ローカルの感覚」とは一体?

人気記事

    みなさんはじめまして。福島県いわき市でライティングの仕事やシェアハウス運営をしている久保田貴大と言います。

     

    photo by 小松理虔

     

    実は僕、昨年の4月に地元の長野から福島に移住してきた“ヨソモノ”です。

    もうすぐ福島に来てから一年になります。僕にとってこの一年は、さまざまな課題と向き合うことを通じ、次第に「ローカルの感覚」を取り戻していった期間でした。

     

    そんななかで、つい先日、実家で暮らす祖父が突然亡くなるという出来事がありました。大きな存在を失い悲しみにくれるのかと思いきや、親戚やご近所さんの笑顔に囲まれ、祖父の葬儀はまるでお祭りのような雰囲気に。

    僕は福島での一年間で取り戻した「ローカルの感覚」があったからこそ、笑顔で祖父を見送れたような気がしています。

     

    「じゃあ、その『ローカルの感覚』ってなに?」 という疑問をひも解くために、まずは僕が地元を離れ、いわきで生きることになった経緯からお話ししていきますね。

     

    「この地を継ぐもの」の重み

    僕が生まれたのは、長野県の安曇野(あづみの)市。山紫水明という言葉がピッタリ合うような、とても美しい場所です。

     

    長峰山からの雲海。奥に見えるのは北アルプス

     

    この安曇野の地で、代々続く農家の長男として生まれたのが僕。小さい頃から家族や地域の人に可愛がられ、いずれはこの家や地域を継ぐ者として育てられました。

     

    子どもの頃の僕にとっての遊び場は、近所の神社や河原、そして田んぼ。今ではおとぎ話のようですが、豊かな環境のなかで周りの大人たちに優しくしてもらったり、叱られたりしながら幼少期を過ごしました。

     

    そして毎年、時期が来ると必ず、先祖代々受け継がれた田んぼへ出ていき、祖父や父と一緒に農作業をしました。実はこの田んぼでの作業こそが、ローカルのコミュニケーションの場。

     

    自分の家の田んぼで作業をしていると、近くで作業をしているご近所さんが通りかかり、小さい体で機械を操る僕の姿に感心して声をかけてくれます。今思えば、祖父や父はローカルで僕が生きていくのに不可欠な周囲との関係を築かせるため、田んぼへと連れていってくれたような気がします。

    それはすなわち、「ローカルの感覚」を習得させるためとも言えます。

     

    稲刈りをする祖父、父、僕の写真。機械を操作しているのが僕です

     

    しかし、やがて思春期を迎える頃になると、そうして注がれた想いや愛情が次第に重荷になっていきました。こんな自由な世の中で、やっぱり好きなことをしたいし、自分のために生きていきたいと思うようになっていったのです。

     

    高校は地元の進学校に入りましたが、ろくに勉強もせず、軽音部に入ってだいぶはっちゃけさせてもらいました。今だから言えますが、髪を金髪に染めたり、文化祭の前に飲酒事件を起こして全校の前で謝罪したりなど……。

     

    高校時代の僕。この場をお借りして黒歴史を供養

     

    もはや孝行息子の面影もないくらいやりたい放題でした。こんなことをしていたので、当然地域の人に顔を見せるのが恥ずかしくなりますし、幼馴染とも疎遠になっていきました。やりたいことをやりまくった結果、もはや地元にはいづらくなってしまったのです。

     

    地元と東京の間で揺れ動く

    そんな僕にとってある種の「救いの手」となったのが、大学への進学。東京の優秀な大学に進むことで、家族や地域にも認められつつ、生きづらくなってしまった地元を離れることができる絶好のチャンスでした。

     

    僕はこの機会を逃すまいと、目覚めたように急に勉強をしはじめました。その結果、一年の浪人こそしましたが、早稲田大学に合格。当初の狙い通り、大学進学という大義名分を得て、晴れて地元を離れることができたのです。

     

    早稲田大学に入学した僕。浪人の面影が色濃く残っています

     

    東京での大学生活は、すべてが新鮮でした。テレビでしか見た事のなかった渋谷の街、YouTubeでしか見たことがなかったバンドやアイドル、soundcloudでしか聞いたことがなかったトラックメーカー……。どう頑張っても手が届かなかったもののすべてが、そこにはありました。

     

    憧れのアイドルを自分でブッキングしてライブに出てもらったりもしました(写真提供:ROCK STEADY WASEDA)

     

    一方で、ゴールデンウィークや大学が長期休みの時には、まるで渡り鳥のように、きまって実家に帰っていました。東京と安曇野を往復する。なぜだか僕はその行為をひたすら繰り返しました。

     

    そのたびに感じるのは、二つの土地の間に横たわる大きなギャップ。東京と地元を行き来しているなかで、自分のアイデンティティが大きく揺らぐような感覚がありました。

     

    余談ではありますが、僕の実家の近くには東京電力の水力発電所があります。小さい頃、祖父に連れられてそばを通ったとき、「なぜ長野県は中部電力の管内なのに、東京電力の発電所があるんだ?」と子ども心に思っていました。

     

    今思うと僕にとっての「東京の第一印象」は、のどかな風景のなかにある、この巨大なダムでした。

     

    当初は新鮮だった東京の生活。しかし、何度か地元と往復しているうちに、次第にその生活にも違和感を抱くようになっていきました。

    それはまるで、のどかな山村地域に東京電力の巨大なダムが突如屹立する風景が抱かせる違和感に似ていたのです。

     

    どうしてもこの違和感をぬぐい去れない僕は、次第に「どうやったら違和感を解消できるか?」と考えるようになっていきました。

     

    気づけば『ローカルの感覚』を失っていた

    しばらくすると、4年間の東京での大学生活も終わり、僕は地元の銀行に入社することになりました。「東京で学んだことを地元に持ち帰って恩返ししよう!」というモチベーションだったことを覚えています。しかし、この時の僕は大きな思い違いをしていました。

     

    窮屈な地元を飛び出し、自由を求め東京で生活する中で、幼少期に身につけたはずの人と人との密な関係のなかで生きる「ローカルの感覚」をどんどん失い、個人化と均質化が極度に進んだ「冷凍都市の感覚」に染まり切っていたのです。

     

    職場ではプライベートには干渉しないでくださいという顔をしながら、社員寮でひとり四畳半の部屋に横たわり、Instagramで友人が綴る東京でのキラキラした生活を眺める毎日……。

     

    地域との付き合いが大切な業種だったこともあり、会社の指示のもと地域行事に顔を出すこともありましたが、そうした機会を肯定的に捉えることもできず、ただただ苦行を強いられているような気持ちでいました。

     

    地域のお祭りに駆り出され、めちゃくちゃ火の粉を浴びたりもしてました

     

    当然ですが、こんな毎日が楽しいわけもなく、次第に孤独感ばかりが募り、悩み事があっても誰にも打ち明けることができず。結局、半年でメンタルを病んでしまい、休職することに。以降も復職することなく、在籍1年ほどで会社をやめてしまったのです。

     

    会社を休むようになってからは、東京にいる友人の家を転々としたり、実家の離れの一室に引きこもったり……行き場のない時間をふらふらと過ごしていました。

     

    しばらく無為な日々を過ごしていましたが、Twitterでブログを見かけてからネット上で懇意にしていただいていた「北海道のスーパーマン」ことさのかずやさんと、ある日、直接お会いする機会がありました。

     

    この出会いがこそが、結果的に僕が「ローカルの感覚」を取り戻すきっかけとなる、大きな転機となりました。

    (※なお、本稿はネット上で出会った人と直接顔を合わせることを推奨するものではありませんので、あしからず)

     

    さのさんとの出会いをきっかけに、ローカルの舞台で活躍するさまざまな方々に面倒をみていただき、悶々としていた僕もちょっとずつ前を向けるようになっていきました。

    そして、最後にたどり着いたのが、福島県のいわき市。ローカルアクティビストの小松理虔さんのアシスタントとして、この地に降り立つこととなりました。

     

    さのさんとの出会いからいわきにたどり着くまで、たくさんの方にお世話になりました。この場をお借りして感謝申し上げます。

     

    『課題』と向き合い続けた一年間

    いわきに来てからの一年間は、ずっと「課題」と向き合う日々でした。僕がいわきに来たのは2020年4月7日。折しも新型コロナウイルスの感染拡大で首都圏に初めての緊急事態宣言が出された日でした。

     

    なにより、いわき市がある福島県の浜通り地域は、10年前の震災と原発事故の被害がもっとも深刻な地域。僕も取材などでたびたび原発の帰還困難区域を通ったことがありますが、10年前から時が止まったようなその姿を見ると、ふらっとこの地を訪れた身である僕には何も言えないような気がしてしまいました。

     

    バリケードが張り巡らされた帰還困難区域の夜ノ森駅前

     

    いわきに来てからしばらくは、この地にいることへの強い違和感を覚えながら日々を過ごしていました。それはまるで、東京に出た時のあの違和感、そして、地元にそびえ立つ東電の巨大な発電所を見たときの違和感に似たような……。またしても、僕は違和感ととも生きることとなったのです。

     

    違和感を覚えながら過ごす日々のなかで、小松さんのアシスタントとして、ローカルで必要とされる様々な仕事に関わらせてもらうことができました。

    業務内容としては、広報や発信、ライティング、さらには企画やディレクションに関わる分野など。名前だけ聞くと無機質にも感じる業務内容ですが、こうした仕事たちは、実は「課題」と向き合うことを避けては通れないものでした。

     

    例を挙げると、魚屋さんの広報の仕事があります。普通であれば、この地で獲れた魚の魅力をストレートに消費者へと伝える形になりますが、福島の漁業においては原発の汚染水の問題を取り上げずに、海産物の魅力ばかり伝えることは叶いません。

     

    このように、いわきでは漁業、農業、製造業、観光業など、あらゆる分野において震災や原発事故をきっかけとして生まれた(あるいはそれ以前からあった)課題と向き合わざるをえないような場面が多発します。

     

    当初はあまりの課題の多さに打ちのめされるばかりでしたが、いろんな課題の現場に立ち合わせてもらううち、次第に「課題の裏には必ず魅力がある」ということがわかってきました。

     

    例えば、高齢化が進む山間の地区。こうした地域では「過疎が進み、いずれ消滅する」というような悲観的な見方をされることが多々あります。

    しかし、よくよく目を凝らすと、実は濃密なコミュニティが今でも存在し、先進的な住民同士の助け合い事例があったり、万が一の災害にも強い組織体制が組まれていたりと、現代社会において学ぶことが多い地域という見方もできるのです。

     

    いわき市地域包括ケア推進課が運営するウェブメディア「igoku」で取材させてもらった時の写真

     

    そして、実はこうした「課題の現場」に立ち会うことこそが、「ローカルの感覚」を取り戻す最短経路であることにも気づきました。

     

    というのも、ローカル、すなわち人と人との関係が密な場においては、魅力だけでなく必ず課題も現れます。これは考えてみれば当たり前で、生きていてずっといい思いばかりしている人がいないのと同じこと。ローカルでは人々の喜怒哀楽、生老病死が鮮やかに浮かび上がります。

     

    人生の凹凸をオープンにし、共有できるのがローカルの面白さである。僕はいわきで過ごした一年間、様々な人と出会い、魅力や課題と向き合いながら生きることで、この「ローカルの感覚」を取り戻すことができました。

     

    『祖父の死』によって福島での一年間が意味付けられた

    冒頭でも触れましたが、つい先日、幼い僕に「ローカルの感覚」を叩き込んでくれた祖父が亡くなりました。祖父の葬儀は隣組のご近所さんや親戚の協力のもと、コロナ禍にも関わらず盛大に執り行われました。

     

    祖父が亡くなってから葬儀までの日々は、まるでお祭りのように忙しく、にぎやかに過ぎていきました。

     

    亡くなった翌日、近所に住む遠縁の親戚が集まり、葬儀屋と打ち合わせ。日程が決まると親戚が地区内のお宅一軒一軒を訪ね、祖父の訃報と葬儀の日程を伝えます。すると地区内の隣組衆が誘い合わせて弔問に訪れ、家の中はあたかも集会所のようになりました。

     

    あまりのドタバタに疲れ果て、祖父の亡骸の横で寝る僕

     

    なかには久しぶりに顔を合わせるご近所さんもいて、「元気してたかい?」「いやー、耳が遠いし、足も痛くてダメだ!」なんて会話が飛び交います。そして、何度も同じ話を繰り返すじいちゃんや、耳が遠いために会話をさえぎって突然しゃべり出すばあちゃんも……。

    どう見てもヤバい場ができてしまっているのですが、不思議とみんな笑顔に包まれているのが印象的でした。

     

    「そういえばこんな風景を、いわきでも見たことがあったな」と、その時の僕は思いました。

     

    正直、いわきに行く前の僕だったら、この場を見て「この地区は年寄りばかりで終わっている……もうダメだ……」と思ってしまっていたことでしょう。しかし、いわきで「ローカルの感覚」を取り戻した僕は、こんなてんやわんやな場面も、なんだか面白くてしょうがなくなっていました。

     

    課題を面白いなんて言うと、いかにも不謹慎であるような気がしてしまいます。ですが、いわきで多くの課題、喜怒哀楽、生老病死、人生の凹凸を見てきた僕には、祖父の死を前に生まれたカオスな空間が別のものに見えました。

     

    コロナ禍でなかなか会えなかった、ご近所さんとの再会の場として。住民同士が健康や安否を気遣い情報を共有するセーフティーネットの場として。そして何より、こうしたローカル=課題の現場が、実は多くの魅力を持っていることを、僕のような若い世代が感じることができる貴重な場として。

    そうやって前向きに捉えることができたのです。

     

    そんなことを考えると、不思議なことに「ローカルの感覚」を僕に教えてくれた祖父の死により、僕がいわきで「ローカルの感覚」を取り戻すために過ごした一年間が意味付けられた。そんな気がしてならないのです。

     

    祖父が亡くなる前日。久しぶりにくっきりと北アルプスの姿を見ることができました

     

     


     

     

    2021年3月、東日本大震災から10年という節目を迎えると同時に、コロナ禍の社会になってから一年が経ちました。

    リモートワークが普及し、外出の回数も減ったことで、他者とコミュニケーションをとる機会も激減。人間関係が希薄になっています。また、Zoomなどを通じてオンラインのコミュニケーションを交わしていると、どこか一人ひとりの個性も均質化しているように感じてしまいます。

     

    しかし、こんな時代だからこそ、「ローカルの感覚」は価値を持つように感じるのです。

     

    個人個人で孤立することなく、「ローカルの感覚」を持って他者と関わることで、喜怒哀楽、生老病死、人生の凹凸をより感じることができ、人生は豊かになるように思います。

     

    ローカルに生きるというのは、すなわち田舎で暮らすということではありません。僕たち一人ひとりが住んでいる地域、所属しているコミュニティ、付き合いがある関係性のなかで生きるということです。

    もしかしたら、それはリアルの場にあるかもしれないし、ネット上にあるかもしれません。(いずれにせよ、オープンで情報量が多いに越したことはありませんが)

     

    僕も今後、ライティングの仕事と、いわきでのシェアハウス運営を通して、この感覚を広めたいと思っています。もし、興味を持ってくださった方がいたら、いつかいわきに遊びに来ていただけると嬉しいです!

     

    photo by 小林 知世

     

    OGPイラスト:小松佑

    イーアイデム

    この記事を書いた人

    久保田 貴大
    久保田 貴大

    1995年生まれ、長野県安曇野市出身。2020年4月に福島県いわき市に移住し、地域活動家・小松理虔氏のアシスタントを半年間務める。現在はNPO法人中之作プロジェクトの職員として働く傍ら、シェアハウス「コウノヤ」の管理人やライターとしても活動中。根がヤンキー。

    久保田 貴大の記事をもっと見る

    同じカテゴリーから記事を探す

    オススメ記事

      こちらの記事もオススメ