地震や豪雨など、自然災害が後を絶たない日本。予期せぬ事態を前に、重要なことは、しなやかにたくましく回復していくチカラではないでしょうか。

そこで今回、大きな出来後を経てなお、強く前進する街や人を紹介する「ジモコロレジリエンス」シリーズを立ち上げました。

※レジリエンス……困難をしなやかに乗り越え、回復する力のこと

編集者の藤本智士さんが取材した土地は、宮城県の南三陸(みなみさんりく)町。2011年の東日本大震災から13年以上経ち、かつて大きな被害を受けた土地は、さまざまな形で「回復」しています。そこに暮らす人々の歩みと言葉には、前に進んでいくためのヒントが詰まっているはず。

3つの物語から見えてくる、南三陸のいまと未来をお届けします!


宮城県南三陸町の神社が氏子さんたちのために半紙を切って作る縁起物「きりこ」。

そんなきりこを模したエチケット(ラベル)が印象的な「南三陸ワイナリー」を知ったのは、南三陸の海で熟成させたという、熟成ワインに関するニュースを見たことでした。

地元の牡蠣漁師さんたちと連携し、海中熟成される三陸ワイナリーのワイン

南三陸愛に溢れたそのワインを作るのは、震災後に東北に移住された佐々木道彦さん。しかも前職はあのYAMAHAとのこと。

幼少期から音に魅せられてきたという佐々木さんの人生は、どこまでも運命的。どうか最後の最後のミラクルまでぜひ、読み進めてもらえたらと思います。

音ってすごい!

 

新卒でYAMAHAへ入社。はじめは東北へ戻るつもりはなかった

藤本:佐々木さんは、もともと宮城のご出身なんですか?

佐々木:実は大阪生まれで。ただ、0歳のときに山形に引っ越したので、東北育ちなんです。その後、新卒でYAMAHAに入社して、2年目で関西営業所に転勤に。その頃はオーディオ機器の営業をしていました。

藤本:YAMAHAにいらっしゃったんですね。

佐々木:とにかく音楽が大好きでYAMAHAに入りました。最初は営業だったんですけれども、そのあと商品開発プロデューサーとして、商品の企画開発をやらせてもらって。

藤本:営業さんから商品開発って、YAMAHAでは普通にあるんですか?

佐々木:かなり珍しいです。いつか本社で企画開発の仕事をしたいと思っていたら、社内公募で、新しい楽器商品を作るプロジェクトがあって。そこに行けたことで、以降14年間、企画開発を。

YAMAHA時代の佐々木さん

藤本:その頃から東北に戻りたい気持ちはあったんですか?

佐々木:まったくなかったんです。高校を卒業して、やっと田舎の山形から出て、東京に住んだり、海外留学もしたりしていたので。

藤本:留学は大学時代に?

佐々木:はい。1年間休学してイギリスの大学の経済学部に行ったんですけれども、そこでも音楽の授業をとったりとか、休みの日はずーっと音楽を聴いてました。

藤本:相当な音楽好きだったんですね。

佐々木:小学校から洋楽を聴き出して。お小遣いがあったら山形から仙台のタワーレコードまで行って、輸入版のCDを買ったり。ピアノもやっていたんですけど、中学校からはずっとバンドもやってて。

 

YAMAHA初の携帯音楽プレイヤーを開発

佐々木:ちなみにYAMAHAって世界最大の楽器メーカーなんですね。実は総合楽器メーカーって世界でもほかにないんです。私がいた当時は約5000億ぐらいの売り上げですけど、業界2位がFender(※当時)で700〜800億円くらい。(※現在、業界2位はローランド)

藤本:あのギターのFenderですか。

佐々木:そう。だから、なんでもやってる楽器メーカーって意外とないんです。YAMAHAはアコースティックから、電子から、学校用の教育楽器から、すべてをやっている圧倒的な世界最大楽器メーカーなんです。

藤本:言われてみれば、たしかに。

佐々木:ただ、どんどん楽器人口が減っているんです。70年代くらいはオーディオブームがあったり、楽器ブームもあったりして、多くの人がギターを手に取ったりしていたのが徐々に減って。最近はDJ文化も流行っているし、そもそも多趣味化が進み、楽器に時間を使う時代ではなくなってしまった。

藤本:なるほど。

佐々木:だから私が入社したときの大きな課題が、世界中で楽器人口をどう増やしていくか、だったんです。

藤本:それゆえの新しい楽器商品の開発だったんですね。具体的にはどんな商品を?

佐々木:最初に参加したプロジェクトの商品は片手で弾けるギターです。ギターってFコードを押さえられなくて挫折する方がたくさんいるので、かき鳴らすだけで演奏できるようなギターを。コードを覚えたいと思えば、光る鍵盤と同じで光るフレッドを押さえていくような、そういった商品から始まって、最後は、ランニングやウォーキング用の音楽プレイヤーを。

藤本:楽器じゃなくてプレイヤーを?

佐々木:楽器の原点って、身体運動と音が一体となることなんですね。たとえばドラムの音も、叩いたときに音が鳴るから気持ちがいい。これがコンマ1秒遅れるだけで気持ち悪いわけです。音と触感、体感を同時に感じてはじめて「音楽って気持ちいい!」となる。

当時iPodを聴きながらランニングをしていたときに、流れてくる音楽と自分の足のステップが合わないのがすごく気持ち悪かったんです。それで、加速度センサーで自分のステップを感知して、自動でまったく同じテンポの曲を選んで再生してくれるプレイヤーをつくった。

藤本:へー!

自ら開発したランニング用音楽プレーヤー「BODiBEAT」を付けてゴールドコーストマラソンを走る佐々木さん

佐々木:自分の足にリズムが合ってくれる。それって、まさに楽器の楽しみなんですよ。

藤本:プレイヤーとはいえ、もはや楽器なんだ!

佐々木:はい。人間の一番基本的なリズム動作って、歩行、走行運動なんです。これがYAMAHA初の携帯音楽プレイヤーだったんですけれども、iPhoneが出てきてそちらへ集約されていったわけです。我々も音楽デバイスだけでは難しいということで、以降はiPhoneアプリとかの開発を。

藤本:そうか、アプリに。

佐々木:ただ、僕は小さい頃からずっとものづくりが好きで。いままで世の中になかったものを、金型から作って形にして、それが動作する感動というか、その達成感が新しい商品をつくるモチベーションになっていたんです。だけど、アプリだとその達成感も減ってしまうし、お客さんと触れ合う機会もほとんどなくなってしまった。

藤本:リアルの製品に比べてアプリだと、お客さんとも口コミのコミュニケーションとかになってしまいますもんね。

佐々木:そうなんです。だからYAMAHAのなかではやりたいことをやらせてもらっていたものの、徐々にものづくりの達成感がなくなってしまって。そんなときに、震災が起こったんです。

藤本:ああ。

 

震災ボランティアで気づいた「地域に根ざした産業」の必要性

佐々木:最初は何をしていいかわからなかったんですけど、震災から1年以上経ってもまだまだボラティアが必要とされていると分かり、2012年に、静岡県から出ていた復興支援バスに思い切って乗りました。

金曜日の夜に静岡市役所に集合してバスに乗って、朝5時ぐらいに当時ボランティアの拠点があった遠野市に着くんです。たぶん自治体ごとに割り振られていて、静岡は、岩手県沿岸部の支援だったので、南三陸ではなく、釜石とか大槌町とかの支援でした。そこで最初は瓦礫の撤去や、遺留品の捜索をしたりして、その後だんだん綺麗になっていくと、植樹の仕事や漁師さんの支援とかを、1年半〜2年ぐらい。

藤本:週末にボランティアへ行かれていたんですか?

佐々木:土日に活動してましたね。日曜の夕方に遠野を出て、月曜日の朝5時ぐらいに静岡市役所に戻って、元気なときはそのまま会社へ行ってました。

藤本:すごい。

当時の被災地でのボランティア風景

佐々木:だんだん復旧が進んで、町がきれいになってくると、やれ復興、復興と言われるんですけど、そもそもが過疎地だったので。仮に元へ戻したとしても、そんなに活性化されるわけではないよなと。

藤本:賑わいを取り戻すというけど、そもそも賑わいがあったのか? ということですよね。

佐々木:そうなんです。だから、何か地域に根ざした新しい事業、産業を生んでいかないと、被災地に限らず、日本の地方の賑わいはつくれない。私はたまたまYAMAHAで、何もないところから新しい商品を開発するという事業をやらせてもらったので、その経験を生かして被災地で新しい産業ができないかと思いました。

佐々木:それに、ボランティア活動がとても充実していたんですよね。年齢も職業もさまざまな方が同じ思いで集まって、汗水流しながら現場で体を動かす。土曜の夜はボランティアセンターの宿泊施設に泊まって、お酒を酌み交わしながら、地域のことだったり自分たちのことをいろいろ話す、そういった時間がすごい有意義で。

藤本:なるほど。

佐々木:もう40歳すぎだったので、自分の残りの人生を思うように過ごした方が幸せなんじゃないかなと思って。でも何ができるかわからなかった。

だけど、復旧が進むのを見るなかで、衣食住の大切さをあらためて感じたんです。自分はずっと音楽、つまり、趣味の仕事をしていたので、音楽の力を信じてはいるんですけれども、災害時には正直、役に立たないと思うこともあって。だから衣食住に関わる仕事をしたいと住宅メーカーに入ったんです。

藤本:あ、そこでYAMAHAを辞めてしまうんですね。

佐々木:はい。家族と一緒に仙台に移住して、住宅メーカーでブランディングや、新事業の企画開発を担当しました。

それなりにお給料もいただけるし、住宅関係なので被災地でも何かできればと思っていました。ただ、被災地の住宅支援よりも、東京などへの事業拡大志向が強かったので、逆に三陸エリアに仕事で関われることはほとんどなかったんです。なので、「なぜ自分はここに来たんだろう?」と思って、3年弱で辞めることに。

藤本:そうか、せっかく東北まで来たけれど。

 

45歳で訪れた、ワインとの出合い

佐々木:その後は仙台で、職人の技術を使って、いまのライフスタイルに合うようなインテリア商品をつくる会社に入って。家具や照明、食器などの商品開発責任者になりました。そのときにたまたま、有名なワイン漫画の原作者の方と一緒にワイングラスをつくらないかって話が入ってきたんです。

藤本:お、ようやくワインが!

佐々木:その企画を担当して、初めて仕事としてワインに関わるようになりました。お酒は大好きなので、ワインも飲んでましたけど、ビールも日本酒も好きで、特別ワインが好きっていうわけでもなかったんです。でも、その仕事をやるようになって、ワインの可能性をすごく感じるようになった。

藤本:どこに可能性を?

佐々木:例えば、ロックグラスとかビアグラスって一個で売れていくんです。でもワイングラスはペアで買われる方がほとんど。つまり、ワインは誰かと食事や会話を楽しみながら飲むお酒なんだと思いました。

それに、仕事で東京のワイン会にスタッフとして何回か参加させてもらったときに、ワインって、ほかのお酒よりもその地域のことが語られることに気づいて。原料にどこのブドウを使ってる、とか。

藤本:いわゆるテロワールですよね。

佐々木:そうそう。そういった土地や風土のことまで必ず話が及ぶので、ワインは地域に一番密着しているお酒じゃないのかなと。同じ品種が世界中で育てられているけれど、味わいも地域によって変わってくるし、何より、そのお酒を囲んだ食事と会話が、みなさん本当に楽しそうだったっていうことに惹かれて。

藤本:それで、どんどんワインに興味が。

佐々木:ワインっていうのは、食中酒の代表的なお酒ですし、人と人や、人と地域をつなぐ可能性がある。それで、ワインをやりたいなと漠然と思いはじめて。そこからワインの本を買って勉強するようになりました。

藤本:まさにゼロからなんですね。

佐々木:地元の山形で日本酒を造っている友達からも、ワインやったらいいよって後押しされたりもして。それで、山形県の上山市でワイナリーの起業家向けのスクールが開催されてることを知って、仙台で仕事しながら月1回くらい通ってました。

藤本:どんなことを学べるんですか?

佐々木:ぶどう栽培から醸造、ワイナリー経営まで。それでどんどんモチベーションが上がっていったんですけれども、上山市役所の方からは、「そんなに簡単にできないですよ」って言われて。

「そんなに儲かる商売でもないし、最低限どこかのワイナリーに3年勤めて、それでできるかどうかっていうところだから、どこかのワイナリーを紹介しましょうか」と。でも、そのとき既に45歳で、上の子ももうすぐ大学だったから、そんな時間はないなと思ったんです。

藤本:悠長なこと言ってられないですね。

佐々木:そうなんです。そうしたら、ちょうどそのぐらいのタイミングで、南三陸でワイン作りを推進するための、新しい地域おこし協力隊の募集があったんです。

藤本:なんてタイミング!

 

ビジョンもミッションも全部つくって、地域おこし協力隊として着任した

佐々木:実は震災以前の宮城県って、ワイナリーが1軒しかない県だったんです。山形、岩手は多いのに、宮城はほとんどなかった。それがさらに震災でゼロ、最下位になった県なんです。

藤本:宮城ってワイナリーがそんなに少なかったんですね。

佐々木:宮城はそもそもブドウ栽培もほとんどやってなくて。そんななか、仙台の秋保温泉にある秋保ワイナリーさんが震災後、最初にワイナリーを始めて、勉強のためにお手伝いさせていただいてたんです。そこで南三陸町の募集のことを教えてもらって。

ワイナリーをやりたいと思って勉強して、しかも、もともと三陸沿岸部で地域に根ざした産業をやりたいと思っていたので「これは全部が一つにつながった」と思いました。

藤本:ほんとに。

佐々木:それですぐに手を挙げて。実際に地域おこし協力隊になったのが2019年1月です。ただ、南三陸町のことをまだよく知らなかったので、2018年夏に移住体験ツアーに参加したんですね。

そのときに、町のいろんなキーマン、それこそ今のブドウ畑の場所を貸してくれている農家さんや、「戸倉SeaBoys(南三陸町戸倉地区の若手漁師グループ)」のメンバーにも出会い、環境面に関する町のいろんな取り組みとかも知りました。銀鮭なり牡蠣なり、農家さんもそうですけど、本当にこだわりと誇りを持って活動をしている方々が南三陸にはたくさんいるんだって。

藤本:いい食材もたくさんですよね。

 
 
 
 
 
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佐々木:そうなんです。なにより南三陸の食材がおいしかった。海のものだけじゃなくて山のものも含めて。ワインは食事と合わせておいしさがより引き立つので、これだけおいしい食材に囲まれたところであれば、おいしいワインをつくってそれと合わせたら、新しい町の賑わいが起こせるんじゃないかって。

藤本:見事につながった。

佐々木:ただ、年齢もいっているので、協力隊期間の3年間のうちに起業できたらとは思ってなかったんです。なので実は協力隊になる前年から、必死になって起業塾に通って、なんで南三陸なんだろう、なんでワインなんだろう、どういう差別化ができるんだろうって、とことん考えて。ビジョンもミッションも全部つくったうえで、地域おこし協力隊として着任したんです。

藤本:すごい情熱。

佐々木:1月にこの町に移住しましたけれども、その翌月の2月には南三陸ワインプロジェクトを株式会社化し、南三陸ワイナリー株式会社を立ち上げました。

藤本:へえ〜!

佐々木:実は秋保ワイナリーさんで委託醸造としてつくらせてもらってるワインもあったし、いずれワイナリーをつくるためには、まず商品を売っていかないといけない。だから酒販免許も必要だし、そのためには会社法人として立ち上げて、事業として進めていかないと未来はないと思っていたんです。

それで2月に会社をつくって、4月には酒販免許も取れたので販売も開始して。そこからは本当にありがたいくらい順調に。それは当然、町の協力もあっての話なんですけれども。

藤本:意を決して東北に移住されてからの紆余曲折が全部活かされているというか、「ちょうどいいタイミングまで待て」って言われていたかのよう。

佐々木:結果的にはそうだったのかもしれないなと思います。それこそ、なんとか3年以内にワイナリーを立ち上げたいと思って、構想を練ったり場所を探したりしたんですけど、なかなかいい場所がなくて。

どうしても南三陸の海が見えるワイナリーをつくりたいっていう思いが強かったので探すものの、どこが使える土地かもわからなかったし、仮に使えるとなっても、1から建てるとなると1億円以上かかるわけです。協力隊といってもリスクは全部自分でとらないといけないので。どうしようかなと思っていたら、たまたま今のワイナリーがある建物が空いたんです。

藤本:来た!

 

水産加工場はワイナリーに最適!

佐々木:この辺りはもともと津波で全部流されたエリアなので、町の主要な産業である水産加工業をいち早く再開するために、志津川漁港の目の前にプレハブの仮設工場が何軒か建てられました。その後、震災から10年に近づいてきて、再建されたり、近くに新しい工場を建てられたりするなかで、ここも数百メートル先に新しい工場を再建されて空いたんですね。

ワイナリーがあるのは元々かまぼこ屋さんの土地だったんですけど、そこの社長さんも、わたしが海の見えるワイナリーをつくりたいって言ってることを知ってくれていたので、ここが空いた瞬間に最初に声をかけてくれたんです。

藤本:へえ〜。

佐々木:だから、やりたいことは言っておくべきだなと本当に感じました。水産加工場だった建物って、ワイナリーに最適なんですよ。

藤本:どういう部分が最適なんですか?

佐々木:たとえばワインはタンク間で頻繁に移動するんですが、開いたタンクは丸ごと水洗いするんです。なので必ず排水設備が必要なんですが、もともと水産加工場だから、あるわけです。それに広さも十分にある。

いまショップとキッチンになっている場所は、工場の事務所だったところなんですよ。あとはせっかく海が見えるところなので、目の前のテラス棟だけはクラウドファンディングでご協力いただいたお金でつくらせていただいて。

テラス棟2階からは、志津川漁湾が一望できる

藤本:設備を1から揃えようと思ったら、いくらかかるんだっていう話ですよね。

佐々木:1億円かかるところが、想定したものの半分以下に収まりました。

藤本:もちろん借り入れしなきゃいけないけど、その額が半分くらいになったということですね。

佐々木:そうです。お金を借りるにはちゃんとした実績がないといけないと思ったので、最初に委託醸造でつくったワインを必死に売りましたね。

藤本:店舗がないなかで、どういう売り方をされていたんですか?

佐々木:ひとつはインターネットの通販。あとはイベント出店。そこだけです。ただ、南三陸ということもあって、南三陸を応援したいという気持ちも含めていろんな方々が紹介してくれたり、買ってくれたりしました。2年間の委託醸造でつくった10000本が順調に売れて、それでお金も借り入れできるようになって。

藤本:すばらしい。

 

海中熟成ワインの奇跡

佐々木:あと「海中熟成」もやってるんです。海に沈めて。

藤本:海中熟成ワイン、すごく話題でしたよね。僕はそれで南三陸ワイナリーを知りました。あれは、いつからですか?

佐々木:2020年からです。秋保ワイナリーさんで場所を借りてつくったワインを戸倉SeaBoysのみんなと一緒に沈めて、それをイベント化してみんなで味わって。

藤本:きっかけはなんだったんですか?

佐々木:そもそも海中熟成ワインっていうのは昔から存在するんですね。いろんな説があるんですけれども、スウェーデン沖のロシア艦隊の沈没船から取り出したワインが非常に熟成も進んでおいしかったっていうところから、地中海やアメリカ西海岸でやってるワイナリーがあるんです。

実は、南三陸でも最初は秋保ワイナリーさんがテスト的に、いまのSeaBoysのメンバーのお父さんの牡蠣漁師さんと一緒に始めてたんです。2018年あたりに十数本だけ。それを南三陸ワイナリーで本格的にやりたいと引き継いだんですけど、本当に味が短期間でまろやかになるんです。

藤本:どうしてなんですかね。

佐々木:実はいろいろ調べていくと、音が関係していることがわかったんです。

藤本:え! すごい、ここで音とつながる!?

佐々木:でしょう! 水中は音の振動の速度が空気中よりも5倍ぐらい速いんです。そうすると、ものすごい速さで、いろんな海の音が振動として伝わって、分子レベルで均一化が早まっているんじゃないかっていうのが最近の研究でわかってきた。

最初は水の分子とかアルコールの分子とかが別々の状態で酸味や渋味が強いのが、時間の経過とともに、水分子がアルコール分子を包み込みまろやかな味わいになるっていうんです。それが音の微振動によって早まるっていうことがわかってきて。

だから、3年ぐらい熟成した味わいが、1年ぐらいでできる。飲み比べをしても、誰もがわかるくらい味が変わるんです。

藤本:へえ〜! まさか音で。ドキドキします。

佐々木:音って知ったときに、わたしも縁があるなと思いました。

藤本:全部が回り道のようで、全部がつながってる。

佐々木:ここでワイナリーをできたのも、YAMAHAの経験があったからこそだと思っています。ただ、ワインは工業製品とまったく違う。YAMAHAでやっていたのは、すべての商品が全部一緒なわけです。

藤本:逆に変わってはいけない。

佐々木:そう。部品メーカーが変わったとしても、機能的にはまったく変えてはいけないというのが工業製品なんですけれども、ワインは必ず毎年変わるんです。同じブドウであっても。でも、それが自然から生まれたものの、強さであったり、おいしさであったりするので。

藤本:変化を受け入れてきたからこその今なんですね。

佐々木:この場所にたどり着くまでにはいろいろありましたけれども、結果的には、本当にすごいスピードでできたと思っています。

藤本:まさに音のおかげで夢の熟成も早まったのかもですね(笑)。

地元の食材に惚れ込んだ、よそ者の挑戦が回復の大きなチカラとなった南三陸ワイナリー。次回は、そんな佐々木さんの思いに共鳴してくれた地元の漁師たちの偉大な挑戦のお話をお届けします。南三陸、たくましい!

撮影:松浦奈々