ライターの大北です。「蒲田温泉」という蒲田の銭湯に来ています。

東京にも温泉があります。「黒湯(くろゆ)」と呼ばれる黒いお湯は蒲田の銭湯でも入ることができます。そして蒲田の銭湯といえば不思議な文化があるんですよ。それが宴会場です。

蒲田温泉の2階にある宴会場

スーパー銭湯だと宴会場もなくはないと思うんですけど、蒲田やその近辺では、いくつかの普通の銭湯にあるんです。生ビールも飲めて料理も食べられて、ちょっとした居酒屋のような使い方ができるんですね。

なんで蒲田だけこんなことになってるんですか? 蒲田温泉の島 雪江(しま・ゆきえ)さんに聞くと、京浜工業地帯と羽田空港に近い、ここ蒲田の歴史がまるごと表れたような答えが返ってきました。

蒲田温泉の島雪江さん

 

黒湯の温泉が銭湯にあるわけ

──蒲田温泉って、銭湯なのにほんとの温泉なんですよね。

来年で88周年になるんですよ。ここを作った人がもともと宮大工の棟梁でね。「月日の湯」という名前で他にもいくつか銭湯をやってたんですけど、ここだけ現在まで残ったんです。なので名前も以前は「蒲田温泉 月日の湯」で、今は「蒲田温泉」になってるのね。

──なんで温泉を掘ろうと思ったんですか?

井戸水を掘ろうと思ったら出てきたみたい。ここは源泉ですから。昭和12年から営業してるから、今となっては黒湯の温泉でも一番古いところじゃないかしら。「黒湯の温泉」と認定されたのは、東京都でここが二番目です。第一号はたぶん六郷温泉(※同じ大田区、現在は閉館)じゃないかしら。

硫黄が含まれておらず、無臭で入りやすい蒲田温泉の黒湯。開業当時から薄くなっていない黒湯のところは珍しいんだとか

──戦前の話なんですね。

この辺りは空襲で焼けたんですよ。京浜急行の雑色駅と蒲田駅の間の「出村(でむら)」という駅が近くにあったんですけど、それも無くなりました(※1)。

また駅を作ってくれっていう声もあったんですけど、昔は電車も1両、2両の長さだけど、今は10両あるでしょう? 雑色駅と出村駅の距離は近かったから、10両の電車だとすぐ着いちゃう(笑)。当時の出村駅周辺には映画館があって、にぎやかだったって聞いてます。

※1……戦時中に辺りの被害が大きくなり、出村駅は休止。そのまま1949年に廃駅に。

──たしかに蒲田温泉の前の道にはお店が多いですね。道路の色も違うし、駅があった当時のなごりだったとは。

蒲田温泉の前の通り

 

お風呂のある家が増え、銭湯に宴会場ができた

──蒲田温泉の宴会場はいつできたんですか?

私がここにお嫁にきたのは昭和42年で、それまではふつうの銭湯でしたけど、昭和61年に建て替えたんです。

当時はみんながお家にお風呂をどんどん作るようになった時代で、お風呂屋が潰れはじめた時代でもありました。だから今後も銭湯を続けていくなら、お風呂だけじゃなくプラスアルファの要素がなければ続かないだろうって、1年かけて銭湯を建て替えたの。そしたらその工事をしていた1年で、この辺りのみんなも家にお風呂を作っちゃった(笑)。

──なんと!! 悲しい!

銭湯を建て替えるのに3億円の借金をしてたんですよ。当時は利息が8%とか9%って時代だったから、万が一支払えないと雪だるま式に大きくなっちゃう。だから上の階にマンションを作って、借金の利息分は、その家賃で返そうという計画だったのね。当時は「一億総中流時代」と言われていて、バブルが終わる前の、一番経済が調子のいい時期でした。

建て替え当時に近い昭和59年の蒲田駅東口の様子(大田区提供)

そこから40年近く経った2024年の蒲田駅東口

そこから(経済は)ガクーッと下がったんですけど、まだいい時代だったんですよね。蒲田温泉にはマッサージの先生が2人常駐してたし、施設内に仮眠室もあったんですよ。

──サウナも当時から?

はい。サウナは今のほうが混んでますけどね。「ととのい部屋」というのも新しく始めたばかりですけど、好評ですよ。

サウナブームの波は蒲田温泉にも。ととのうための部屋を作ったそう

──蒲田温泉の他にも、この辺りには宴会場のある銭湯がありますよね?

この近くの銭湯に宴会場が多いでしょう。うちがリニューアルオープンしたら、真似されちゃった。もうしょうがないものね。

──ここが最初だったんですね! ということは宴会場がすごく人気だった。

平日もやってましたけど、土日はすごい人でしたよ。100人定員の宴会場が満席で、座るところがなかったの。蒲田だけでなく、色んなところからいらっしゃいましたね。ビール大瓶が7ケース(※20本入りであれば140本)くらいは1日で出たものね。

──今は瓶ビールも2種類ありますよね。お酒が好きな人向けのものが置いてある。

そうなんです、最近は焼酎の「キンミヤ」を始めたんですよ。あと、ここは釜飯が名物なんですよ。

名物の釜飯を作る島さん。美大生のスタッフに釜飯のイラストを描いてもらい、具材にもこだわり改良を重ねた結果、注文が増えたそう。若いスタッフも多くなり、彼ら彼女らの感覚も取り入れている

──仮眠室もサウナもあって、お酒も飲めたら大人の楽園ですね。

朝の10時の開店から来たお客さんが、夕方まで寝ていったりしてね。夜の12時まで寝てた人が「よし、今から仕事だ」って言うもんだから「あなた今からやる仕事って泥棒じゃないの?」なんて冗談で言ってたんですよ(笑)。そしたら大田市場の仕事をするんですって。

当時は大田市場ができた頃(※2)でね、市場の人は午前2時とか3時あたりに働きはじめるのね。

※2 ……大田市場は、平成元年(1989年)に青果の旧神田市場、荏原市場、水産の大森市場を統合して開設。ちなみに秋葉原にあった「やっちゃば」と呼ばれたのが神田市場。

大田市場が開設して間もない頃の競り風景(平成2年)大田区提供

 

「一曲歌えたからよかった!」カラオケの同好会があった時代

──宴会場には舞台とカラオケがあるんですよね。

すごくカラオケが人気だったんです。歌ってる人の方向にスピーカーが向いてるから、カラオケの途中でも、宴会場ではお喋りが楽しめるようになってて。当時はカラオケの機械も8トラック(※3)でしたね。

※3 ……「8トラックカセット」といって、大きなカセットテープによる音響システム。カーステレオやカラオケ音源としても普及し、後に現在のコンパクトカセット(いわゆる「カセットテープ」のこと)が登場し衰退へ。

──そもそもカラオケの機械に画面がなかったんですよね。

そうですね。今みたいに歌詞も表示されないし、イントロがわからないとうまく歌に入れなかったり。

歌う曲も限られてるから、宴会場が100人いっぱいになったときにはカラオケの争奪戦で、お客さんが喧嘩になっちゃうのね。歌う前にスタンプを押してもらったりして順番を整理して。だから、「あ~、今日は一曲歌えたからよかった~!」って言うお客さんもいらっしゃいました(笑)。

──今と一曲の重みがちがう!

当時はどこもカラオケ同好会というのがあるくらい、カラオケブームだったんです。10人や20人からのカラオケ同好会が、いろんな会社や学校にあったんですよ。

昭和62年の歳末の風景(大田区提供)

──カラオケの存り方が全然違いますね。ゴルフみたいなちょっとありがたいものだ。

カラオケを歌うにしても、スナックに行くとちょっとお高いでしょう。うちはお酒を飲むにしても居酒屋に近い値段だから。朝にお風呂行くって家を出た方が宴会場で長居するもんだから、帰る前に「タオルが乾いちゃったから濡らしてくれ」と言ってらしてね(笑)。

──なんてこった、新聞の4コママンガみたいだ!

お風呂へ行くって聞いてたのに帰ってこないから、奥さんとかご家族の方が心配して見にくるの。でも「スナックと違ってここなら安心」って言われてお小遣いもらった方もいらしたわね。

今は通信費が高いのでカラオケは一曲200円になってますけど、当時は一曲100円。「無料でいい」と最初は思ってたんですけど、お客さんから「やりたい人が多すぎてトラブルになるから、有料にしたほうがいい」って。なにしろ番台しかやってなかったから、商売のことがあんまりわからなかったんです。

──飲食店の経験もほぼなかったわけですよね。それなのに宴会場へ100人もお客さんが来ちゃうと大変そう……。

宴会場を始める前はお金を払って珈琲店で一週間研修してね。知り合いも手伝ってくれたんだけど、おしんこひとつ出すにしても、盛り付け方もわからないし。

──お客さんはどんな人が来てましたか?

昔はね、工場の人たちが多かったです。工場で1日働いたあとに、サッパリ汗を流して帰って行くの。今、時代はコンピュータだからあんまり汗はかかないかもしれないけれど(笑)。

昭和43年の大田工業展の様子。蒲田は工場の街でもある(大田区提供)

パソコンに向かってのお仕事だと目、肩、腰にくるんでしょうね。遠くから色んな方がいらっしゃいますし、近くの板前さんとかも来ますね。

 

銭湯の宴会場は時代を映し出す鏡

──この辺りの様子も当時とは変わりましたか?

当時は高い建物も少なかったから、ここから東京タワーが見えたんですよ。私がお嫁にきたときはたくさん工場があったんですけどね、大きなところはみんな移転しちゃいましたね。重機メーカーさんとか、大きな会社もたくさんあったんですよ。

──まさに京浜工業地帯ってことですよね。蒲田駅周辺の風景もだいぶ変わりましたか?

蒲田駅のコンコースが木造の渡り廊下でね、木の古い駅でした。西口は露天のテントのお店がたくさんあって、トタン屋根のお店もたくさんあった。

昭和43年の蒲田駅西口(大田区提供)

当時は羽田空港が大きくなっていく頃(※4)で、工事の人たちがよく来てました。東京湾で漁師をやってた方たち(※5)もいらしてましたね。あと、40年前は会社の交際費が今よりも大らかに使えたから、そういう方たちも。いい時代よね。

羽田沖の海苔の収穫(大田区提供)

──本当にいろんな人たちが来ていたんですね。

ここは世相がそのまま現れるんですよ。

※4……羽田空港の大規模工事は何度も行われているが、時代としては1984年から2007年にかけて行われた東京国際空港沖合展開事業の時期かと思われる。

※5……かつては東京湾にも漁師が数多くいたが、工事や埋め立てや環境汚染により国から補償をもらう形で多くは廃業していった。「多額な補償金を貰った漁民が、競馬・競輪にあけくれているといった無責任な噂さが、一時区民の間にささやかれたこともあったが、現実は決してそのようなものではなかった。」『漁業権放棄後の問題』(品川区デジタルアーカイブ)にはそんな記述があることも付け加えておく。https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000020/ht004680

 

まとめ

あるなあ、歴史。蒲田温泉には、蒲田の歴史がありました。

なんで銭湯に宴会場があるのだろう? と思ったら羽田空港や蒲田の工場の話が出てきて、当時の姿が立ち上がってきました。学校の先生たちで結成されたカラオケ同好会の姿に思いを馳せては、胸が熱くなります。

現在はサウナブームの影響もあり、中高生をはじめ若いお客さんが増えたそう。宴会場を利用するのも、若い人が多いんだとか。スタッフにも若者が増え、彼ら彼女らの感覚も積極的に取り入れて銭湯を運営しているそうです。

風呂好きの若者も増えてきましたが、銭湯業界の今後はまだまだわかりません。長く続いてもらうためにも、皆さん協力して黒湯に入りに行きましょう。そうして蓄積した蒲田温泉の歴史は、またいつか聞き取りに行きますので。