

ジモコロ編集長の友光だんごです。今日は原宿に来ています。
久しぶりに来ましたが、原宿って平日でもこんなに人いましたっけ……?

表参道もこんな感じ。インバウンドの人がめちゃくちゃいる。
そう、原宿はいまや海外からも多くの人が訪れる、日本を代表する観光スポットのひとつ。きゃりーぱみゅぱみゅやFRUITS ZIPPERが象徴する「カワイイ」文化の街でもあり、さらには「DCブランド」や「裏原系」などが生まれてきたファッションの街でもあります。
そんな街をつくった「原宿の父」なる人物の存在を、知り合いが教えてくれたんです。
「原宿の父とは…?」
「原宿って、戦後すぐは今と全然違って、お店もほぼない住宅街だったらしいんです。そこへ25歳でニットの会社を作って、今みたいなファッションと観光の街にした立役者の八木原さんって人がいるんです」
「すごそうな人ですね」
「しかもずっと原宿に住んでるので、街の歴史について色々聞けると思いますよ」
「原宿が住宅街だったのもにわかに想像できないんですが、それがどうやって今みたいな賑わいに……? 気になります!」
ということで、本日は八木原さんへのインタビューをお届けします。
何もない住宅街だった原宿は、なぜ日本を代表する街になったのか? その歴史からは、街の個性を残すためのヒントも見えて来ました。
竹下通りにタヌキがいた? 住宅街だった60年前の原宿

「原宿の父」なる人物は、 大手セレクトショップや百貨店、デザイナーズブランドのニットのOEMや、自社ブランドのニットを手がけるメーカー「gim(ジム)」の代表を務めているそう。原宿駅から歩くこと10分ほど、神宮前にあるジムの本社ビルへやってきました。

出迎えてくれたのは、いかにも「原宿をつくった男」感のある男性。ちょっと緊張しますが、お話を聞いていきます!
「株式会社ジムの八木原保(やぎはら・たもつ)です。今日はどんな取材なんでしょう?」
「原宿が昔は住宅街だったと聞いて、歴史を伺いたくて来ました。今日も久しぶりにキャットストリートの辺りを歩いて『こんなに人いたっけ?』と」
「コロナが明けて、すごいことになりましたね。うちの会社の前なんか、昔は車もほとんど通らなくて、娘たちもすぐそこの道路で遊んでましたよ。それが竹下通りの延長みたいになっちゃってね。表参道も銀座に匹敵するような土地の高さになって、一坪あたりの価格がおおよそ1億5千万円になりつつあります」
「都内の一等地に。八木原さんが原宿に来た頃はどんな感じだったんでしょう?」
「私が独立して会社を作った1965年は、竹下通りも100%の住宅地だったんですから。本当に静かだったんですよ。タヌキが出るくらいの」
「タヌキ! たしかに代々木公園も近いですけど、いまの原宿からは想像できないです」
「それくらい自然豊かだったんです。信じられないでしょう。表参道には同潤会アパートがあって、あとはお店が二軒だけ」
「ほんとに住宅地ですね。ちなみにどんなお店だったんですか?」
「当時、代々木公園の中にワシントンハイツという米軍のキャンプ地があったんですよ。そこにやってくる外国人向けのお土産屋さんとして、キデイランドとオリエンタルバザーがありました」

ここにお店が二軒だけ! 60年前の竹下通りは商店街ですらなかったそうです。隔世の感
「そんななか、八木原さんはなぜ原宿で創業を? アパレルの会社なら、もっと都会のほうがよさそうですけど」
「私が東京に出てきたのは18歳の時なんですが、当時、日本のファッションの中心地は東日本橋の堀留(ほりどめ)とか人形町、浅草橋あたりと言われていてね。最初は浅草橋のニット会社に住み込みで入社したんです。ちょうど昭和33年ですね」
「まだ終戦から間もない時代ですよね」
「戦争に敗れて、食べるものも就職するところもない。『働かせていただく』という感じの時代だから、朝5時から夜10時くらいまで、毎日働きましたよ。社長の靴磨きまで、なんでもやりました」
「まさに丁稚奉公というか」

当時の写真(写真提供:八木原さん)
「社長は非常に厳しかったです。でも、あの下積み経験が自分の人生の骨格だと思っていますよ。そこで6年間働いていたんだけど、当時、表参道へ初めてやって来て衝撃を受けたんです。『東京にこんなところがあるのか!』と」
「こんなところ、とは?」
「ケヤキ並木があって、道も広い。調べてみたら明治神宮があって、東郷神社があって、代々木公園がある。『もしこんな環境のいいところで住んだり、会社をつくることができたら最高だな』と、20歳くらいの頃ひそかに思ったんです」
「今と違って、都会というより田舎のような『住みやすい』場所だったんですね。自然も多くて」

当時の表参道(写真提供:八木原さん)
「そうです。私の地元は埼玉なんですが、高校時代まで東京に来たのは3〜4回くらい。まるで外国みたいな感覚でした。だから、どこか地元を思い出すような当時の原宿の雰囲気に惹かれたのかもしれませんね」
「八木原さんも『東京怖いな……』みたいな時期があったんですね。ちょっと安心しました」
「それはありますよ(笑)。けどね、その東京で一旗あげてやろうと働いて、25歳の時、『ジム』を創業したんです」

メンズニットのメーカーであるジム。原料や編み地にこだわったモノ作りと原宿からのトレンド発信力が支持され、百貨店やセレクトショップでの取り扱いのほか、ニットのOEMも手がけてきた
「ただ、今みたいに起業や転職が当たり前の時代じゃないですよ。独立なんてタブーの時代です。働いていた会社には裏切り行為のように見られて、創業から3年間は仕入れ先や販売先に手を回されてシャットアウト。それはもう大変でした」
「そこから、よくここまで会社を大きくできましたね」
「私も負けず嫌いですから、販売先や工場には誠意を尽くして、とにかく死に物狂いで頑張りました。するとだんだん、味方になってくれる人も出てきましてね。それに、すでに同業他社が乱立する台東区や墨田区じゃなく、誰もいない原宿で勝負をしようという狙いもあったので。そこも結果としてよかったんだと思います」
いかにして原宿はファッションの街になり、八木原さんは「原宿の父」となったか

「とはいえ、お店もほとんどなかった原宿が、どうやって今みたいなファッションの街になったんでしょう?」
「この50年で一気に変化しましたね。一番大きかったのは、1977年にはじまった歩行者天国だと思いますよ。『竹の子族』って聞いたことあるでしょう」
「あ〜、テレビで映像を見たことあります。路上で若者が踊ったりしてるような」
「元はというと、70年代頃からバイクに乗った集団が原宿に集まり始めたんです。人も少ないし好きにやれるぞと。デビュー前の舘ひろしがリーダーだった『クールス』なんかもいたんだけど、見かねた警察が車やバイクの乗り入れを禁止しようと、毎週日曜日に歩行者天国をはじめたんです。そうしたら、そこに若者が集まってきた」
「走り屋を締め出すための歩行者天国! いわゆる『ホコ天』ですよね。社会現象になったくらいの」

「すごかったんですよ。歌を歌う人、踊る人、ファッションを披露する人。何年か経つと、いろんなグループが登場して、原宿がだんだんと文化の発信地として認知されるようになった。それと並行して、竹下通りにタレントショップと呼ばれる店も出てきたんです」
「ビートたけしとか、有名人のグッズを売るお店ですよね」
「そうそう。当時は今と違って、家賃が安かったんです。坪5000円くらいだったかな。元が住宅街でしょう。他の街よりも安く店を出せるから、若いクリエイターもチャレンジできた。なので、いろんなデザイナーズブランドだったり、新しいファッションが原宿から生まれていったんです」
「昭和のファッション史ですね。家賃が他に比べて安いから、若者が挑戦しやすくて新しいカルチャーが育つという流れは、ジモコロで取材してきた今のローカルの状況と同じです。それが東京ど真ん中の原宿で起きてたのが意外でした」

写真提供:八木原さん
「元々住んでた人たちは、八百屋や魚屋なんかの商売をやめて土地を貸す側になっていったけど、ファッション関係の会社をやって、かつ原宿に住んでいたのは私くらい。それで、まちづくりにも深く関わっていきました」
「そこは自然な流れというか」
「創業当時から『日本を代表するニットメーカーになりたい』と思っていましたが、いくらいい商品だけを作っても長続きしない。社会貢献や地域貢献、行政との連携もやらねばと、最初から思っていたんです」
「実際、急に人やお店が増えると、新しい人たちと地域との橋渡しとなる人は絶対に必要ですよね」
「子どもが地元の幼稚園や小学校に通っていたから、自然と地域の有力者との繋がりも生まれていってね。そこで『町がうまくいってないからまとめてくれ』と頼まれて、原宿神宮前商店会なるものを設立したんです。そこで商店街の人との関係性も深まりました」

地域のお祭りや防犯パトロール、美化活動など、街の活動にも積極的に参加してきたという八木原さん(写真提供:八木原さん)
「ローカルに根付き、地元の方の信頼も得ていった。それが今の立場に繋がっているわけですね」
「行政である渋谷区とも関わりは深いですね。今の渋谷区長の長谷部さんもだし、前区長の桑原さんとも親しくさせていただいてます。渋谷区との話でいうと、2012年に、知人から一人の若者を紹介されてね。奇抜なファッションで、『原宿のカワイイを世界に広げたい』と。その若者というのが『きゃりーぱみゅぱみゅ』なんですが」
「あの!?!? 急に有名人が出てきた」
「アソビシステム社長の中川さんが知人でね。『原宿のカワイイを世界に』という話は正直、全部は理解できなかったんだけど、非常に面白く感じまして」
「きゃりーさんの夢を語る姿に共感したと」
「そうですね。それで渋谷区長だった桑原さんに推薦したら、『八木原さんがそう言うのなら』と、原宿の魅力を世界に発信する『原宿カワイイ大使』にきゃりーさんが就任することになったんです」

「原宿カワイイ大使」認証式の様子。右から二人目が八木原さん。きゃりーさんを挟んで立っているのが前渋谷区長の桑原さん
「その認証式にたくさんメディアの取材が来たんだけど、桑原さんが『きゃりーぱんぴゅん殿』と発音したのがたくさんニュースになったんですね。そこからの彼女の勢いはすごくて、同じ年のベストドレッサーになり、年末にはレコード大賞と紅白歌合戦にも出演してました」
「すごいエピソード!!! その出来事がなければ、事務所の後輩であるFRUITS ZIPPERたちの今の活躍もなかったかもしれないですね……」
若い才能が育つ余白があるのが、原宿らしさ
「話を戻して、八木原さんが関わって来た原宿のまちづくりについて、もう少し詳しく聞いていいですか」
「代表的なものでいうと、ラフォーレができたとき、当時の森ビル社長から『知恵を貸して欲しい』と相談があったんです」
「とにかくいろんな相談がくるんですね」

「原宿が急速にファッションの街になっていた1978年に、森ビルがファッションビジネスに進出しようとラフォーレ原宿を作ったんですね。ただ、森ビルは元々、ホテル事業やゴルフ場がメインで、ファッションに強いわけではなかった。ラフォーレも最初は苦労していたんです」
「それで八木原さんに相談が」
「先代の社長で森稔さんという方から連絡がきて、いろいろ話し合いをしましてね。その結果、ラフォーレの地下一階に、60坪ぐらいの『ハイパー・オン・ハイパー』という売り場を作ったんです」
「どんな売り場だったんですか?」
「若手ブランドの商品を多数取り扱って、自分たちで新ブランドを育てていくインキュベート機能を持たせたんです。既存ブランドを集めるだけではダメ。自分たちで新しい人材を育てていこう、と考えたんですね」
「実際に、そこからは有名ブランドも?」
「年間2千万円くらい売り上げられるブランドは、ラフォーレの中に5坪ほどの店を出せる仕組みでしたが、そこから平成ブランドとよばれるところが50くらい出てきましたよ」
「原宿がファッションの聖地になった一つの原点ですね」

「だとしたら嬉しいですね。当時はマルイとパルコが前衛的な商業施設としてすごく勢いがありました。そこに勝つには、既存のブランドを集めてもダメ。違うことをしなきゃと考えたんです」
「新しいチャレンジを応援する土壌があって、そこから時代を担う新しいカルチャーが生まれていった。歩行者天国のエピソードとも通じる気がします」
「それが原宿らしさの原点じゃないですか。この魅力をどうやったら次の時代に引き継げるか。それが今の自分たちの役割だと思っています」
いまも住民が街の安心・安全を守る街

「次世代の話でいうと、今日同席いただいてる孫の雄介さんも、現在ジムで働かれているんですよね」
「以前は百貨店でバイヤーを目指して働いていたんですけど、2020年に会長から声をかけていただいて入社しました」
「お孫さんから見て、会長ってどんな方ですか?」
「あんまり直接は言わないですけど、鉄人みたいな生き方をしているといいますか。毎朝3時50分くらいに起きて、2万歩ほど散歩するのを、もう30〜40年ぐらいやっているんですよ。原宿のこの場所で60年もアパレルを続けているのもそうですし、継続力がすごいなと」
「60年間、会社を休んだことがないですからね。お酒も50歳くらいでやめちゃいました」
「それは健康のために?」
「夜遅くまで飲んでる人たちがみんな、60を過ぎて内臓をやられちゃうのを見てましてね、これはよくないなと。とにかく自分の決めた土地に根付いて、長く続けるのが一番の社会貢献だと思っているので。ファッションの世界は本当に時代に左右されますし」

雄介さんが担当し、gim初の直営店として2023年にオープンした「I CAN’T GIVE YOU ANYTHING BUT KNIT by gim」
「これからの原宿の課題でいうと、家賃の高騰はあるんでしょうか?」
「ファッションの聖地になったのはいいことですが、その分、とても若者が挑戦できるような家賃じゃなくなりました。もっとチャレンジしやすい環境は整えなければと思っています」
「昔は『安いから原宿なら店を出せる』みたいだったと思うと、すごい変化ですね」
「歩行者天国の復活もやりたいのですが、こう人が増えちゃうと、いろんなハードルもありまして。ただ、かなり住みにくい街になってしまったけれど、新宿や渋谷に比べて、まだ住民が残っているのも原宿の特徴じゃないかな」
「まだ『人が暮らす街』ではあるんですね」
「八百屋や魚屋みたいな生活の匂いのするお店は無くなりましたけどね。住民たちが警察と連携して住民が呼び込みや怪しいスカウトを見張ったり、防犯や街の安全を担っているんです。バーやキャバレーなど、夜の風俗営業も規制されています」
「あ、そうなんですね。言われてみれば、同じく若者の多い渋谷なんかとは街の雰囲気が違うかも」

「そこは住民の協力も大きいと思いますよ。それに、表参道は街づくり協議会で『けやき並木より高い建物は造らせない』と決めています。あそこに高層ビルがどんどん建ったら、他と同じような街になってしまいますから」
「再開発が進む日本で、原宿に街の個性が残っている理由がわかった気がします。今日はありがとうございました!」
おわりに

面白いまちには「余白」と「関わりしろ」がある。全国のローカルを取材していると感じる共通点です。かつての原宿も同じで、そこから今のような日本を代表する個性的な街が生まれていると思うと、なにか希望のようなものも感じます。
「竹下通りの『カワイイ』カルチャー、明治通りのスポーツストリート・ストリートファッション、そして表参道のスーパーブランド。そうした個性が2kmほどのエリアにギュッと凝縮されている街は、世界的に見ても珍しい」とも、八木原さんは話していました。
都市開発で街の個性が薄まり、均一化されているように感じる現代だからこそ、原宿の歴史に学ぶことは多いと思います。と同時に、原宿がまた「若者が挑戦しやすい街」になっていってほしいと心から願います!
撮影:Hide Watanabe(@sumhide)





































