今日もネット上ではYouTuberが謝罪動画を公開し、政治家は記者会見で謝らず、芸能人は「誤解を招いたとすれば申し訳ありません」という謝罪文を出しています。

SNSは理不尽と怒りをガソリンにしているので、そこには謝罪はつきもの。とはいえ私、ライターの大北は息抜きで見たSNSでつい気を取られてげんなりしてしまいます。なんだこの負の循環は……。

解決法があるとしたら、謝罪についての理解を深めることではないでしょうか。「正しい謝罪はこう」「この謝罪はこういう理由でイライラするんだ」一度その仕組みがわかってしまえば、モヤモヤせずに冷静でいられると思うんです。

『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』古田徹也著/柏書房刊

そんなとき、哲学者の古田徹也さんによる『謝罪論』という本を知りました。

これが謝罪をそもそものところから考える名著で、古田さんなら私の疑問にも答えてくれるはず! とお話を聞きに行ってきました。では古田さんへのインタビューをどうぞ!

話を聞いた人:古田徹也

1979年、熊本県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現職。専攻は、哲学・倫理学。『言葉の魂の哲学』で第41回サントリー学芸賞受賞。その他の著書に、『それは私がしたことなのか』(新曜社)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(角川選書)、『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)、『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)、『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)、『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房)、『言葉なんていらない?』(創元社)など。

 

「誤解を招いたとすれば」にどうしてモヤモヤするのか

──例えば「皆さんの誤解を招いたとすれば申し訳ありません」という謝罪にいつもモヤモヤしてます。でもなんでダメなのか、ズバッと言い切れないんです。

この言葉が適切であるケースはすごく少ないですよね。二重に問題になりかねないんです。

一つ目は、「誤解だ」という主張は「自分がやったことは間違ってない」という意味で受け取られかねない、ということ。二つ目は、「誤解を招いたとすれば」という条件付きの物言いは、状況を自分できちんと認識せずに、その役割を相手に投げてしまっている、ということです。

謝罪においては、その当事者が今の状況をどう見ているのかを説明する必要があります。重大な出来事に対する謝罪はそのつど状況が違うので、テンプレートに落とし込むことができない。なので、今、その状況を本人がどう理解しているのか? がスタートです。

本来は「私はこう認識してるから/こういう償いをさせてください」というふうに謝罪しなければいけないのに、「誤解を招いたとすれば」では前半部分を投げちゃうわけですよね。ずるいとか卑怯とか、そういう印象も持たれかねない。

──なるほど、分解していくとモヤモヤの理由も見えてきますね。面白いです。そもそも謝罪とはなにか? は一口ではとらえきれないということを、古田さんも本で書かれてます。

「謝罪とは」と大上段に振りかざすと、それがカバーする範囲があまりにも広すぎるので空虚な定義になってしまうんです。

謝罪について論じた本はすでに世の中にたくさんありますが、そこで展開されている話は、「どうしたら許してもらえるのか?」とか「どうしたら自分の印象が良くなるのか?」といった、謝罪を戦略的な行為として捉えるものが多い。でも、「謝る」という行為はもっと広いと思うんです。

その全体像を捉えるためには、広い視野で見て、ゆるやかに個別の具体例をつなげながら全体を見渡す作業が必要だと思いますね。

 

謝罪は「コミュニケーションの起点」

──本にありましたが、「お詫びします」は正解だけど「お詫びしています」だとダメなんですよね。なぜなんだろう? と(笑)。

例えば「結婚します」と「結婚しています」も意味が違いますよね。

──というと?

ちょっと専門的な話になりますが、「結婚します」は“宣言”する“行為”であり、「結婚しています」は“描写”という違いがあるんです。「〜〜しています」は自分の行動の描写ですから、行為ではなくなってしまう。

──あー、なるほど。「お詫びしています」と自分の行動を描写されても、それは謝っているのか? という。

そうなんです。謝罪の場合、「お詫びします」という“行為”が求められるわけですね。

「ごめんなさい」と言っても相手が満足しない時があるじゃないですか。「だから謝ってるじゃないか」と言ったら向こうが怒り出す。この場合の「ごめんなさい」は相手に反応を要求する行為でもあり、そこから相手がどう反応するかが重要になっている。

「結婚します」もそうですが、社会って、一方的に何かを言ったりやったりして成立しているものじゃないんですよね。相手がそれをどう受け止めて、どう反応するか、さらにこちらが……という相互行為であるわけです。

──そのラリー自体が謝罪なんですね。

はい。その意味では謝罪は「コミュニケーションの起点」だと、本では書きました。

 

典型も独創性も、どちらも必要

例えば電車で知らない人に、ちょっとぶつかってしまったときは、「ごめんなさい」と言って相手がうなずく程度の軽い謝罪、儀礼的な謝罪があって、普通はそれで終わりますよね。これは束の間のやりとりですが、それでも、「ごめんなさい」はコミュニケーションの起点として機能しています。

──儀礼って定型やテンプレとも言えませんか? それが効果的なんでしょうか?

何かしら儀礼的な要素がないと、そもそも謝罪が謝罪として理解してもらえないですよね。ただ、謝罪のある種典型的な儀礼である「土下座」も、大げさすぎて逆効果になる場面もあります。なので、「これをしておけば絶対OK」という正解が存在するわけではない。

謝罪の誠意は、むしろ独自性にあらわれる、とも思うんです。謝罪の際に言葉が乱れるとか、どうしていいかわからなくてテンプレにはない謝罪の仕方をしているのは、その人がほんとに謝ろうと思っているひとつの証拠になり得ますよね。

──結果的に、その人らしさがにじみ出ている謝罪。

また、態度と同じく、謝罪文にもある程度までは定型的な部分が必要です。

ただし、生成AIに全部作ってもらったような、どこかで聞いたことあるきれいな言葉の集合体になっていると、誠意がないと感じてしまう。自分の認識とか、相手に対する思いとか、自分が今後すべきことなどを、ちゃんと伝えようと思ってないな。自分で頭を悩ましてないな、と伝わってしまうんですね。

──今後はChatGPTに謝罪文を作ってもらうことも増えそうですが。

自分で書いていない=NG、というわけではないと思いますよ。政治家の言葉がスピーチライターによって書かれていたとしても、それだけで「この言葉は嘘だ」とはならないですよね。

ポイントは、自分が発すべき言葉になっていること。人の心を動かすスピーチって、「自分の言葉で喋っているな」と感じるじゃないですか。

──逆に「なんか嘘くさいな」と感じちゃう喋り方もありますね。

その違いは、自分の認識と齟齬がないかどうか、全ての言葉を自分の言葉として責任を持って出せる状態になっているかどうかじゃないでしょうか。AIやスピーチライターにたくさん手伝ってもらった謝罪文だとしても、その内容の全てを自分の言葉として発せられる状態になっていれば、誠実さは伝わるはずです。

──謝罪される側は、相手の誠意が見たいということなんでしょうか。とはいえ「誠意を見せろ」は「気持ちだけじゃなくて金を出せ」みたいな意味にもなってしまう。

実際のコミュニケーションの場で誠意を表立って要求するのは、ある種、無理強いですよね。見せられないから誠意なので。それを要求した時点で、お金の要求とか物理的な話になってしまう。やはり「誠意を見せろ」は言っちゃおしまいのセリフなんじゃないですかね。

──見せられない誠意をなんとかわかってもらうのが、いい謝罪。

とらえがたいものをお互いに抱えながらやっていくのが人間のコミュニケーションなので。それはしばしばめんどくさいし、うんざりするんだけど、他方で、なくてはならないものなんですよね。大きなことを言うと、人間という存在がそういうものですから。

 

ほぼ自分みたいな人について謝る「あの時はどうかしてました」

──『謝罪論』では「自分を分離する」という謝罪の仕方が書かれてましたね。例えば「あの時の自分はどうかしてました」と謝ることとか。

社会学者のアーヴィング・ゴフマンは、謝罪について「個人が自分自身を二つの部分に分割する表示行為」という定義の仕方をしています。

「あの時の自分はどうかしてました」とか「あのときの自分は未熟でした、分かっていませんでした」というふうに過去の自分をいまの自分から切り離して、「でも、生まれ変わりました」、「でも、成長しました」というふうにいまの自分を位置づける。人はときに混乱するとか、成長するとか、そういう共通の了解があるから、そう言われて許せる場合があるわけです。それは他の行為であまりないことですよね。

──分離するとダメなケースはありますか?

例えば、お客さんの資産を預かって運用して失敗した人が「あの時の自分がどうかしてました」とか言われても困りますね。そこはむしろ連続性を期待するので。

──ははは(笑)。それを言われたら終わりですもんね。

 

アメリカの人だって謝りたい

──海外の場合だとどうなんでしょうか?

欧米の人、たとえばアメリカ人やイギリス人は全然謝らない、という昔からの言説はありますよね。でもそれは嘘で、実際には、ちょっと肩がぶつかった時など、たとえ自分が悪くなくても「I’m sorry.」と言う人は多いです。

だけど、重大なケース、たとえば弁償などの可能性が生じるようなケースだと、日本人よりも、謝ることに慎重になりがちなのは確かだと思います。とはいえ、いまは日本でも、たとえば病院の研修とかで、医療事故が起こったときに(患者さんなどに)安易に謝らないでください、という指導があったりもします。

──それは、訴訟社会になりつつあるから……?

自然な感情としては謝罪の言葉を言いたいけど、訴訟で不利になりかねないから言えないということですね。ただ、実際に病院の現場などで全然謝らない先生に対しては、患者側が強い不信を覚え、関係がこじれてしまい、かえって訴訟に発展する、というケースも多々あります。

そういう状況のなかで、アメリカでは、医療事故などを念頭に、「Sorry Works!(ソーリーワークス)」という運動が生まれているんです。「もっと『I’m sorry.』と言いやすくしよう!」と活動している人たちがいる。

──謝りたいと思うのは、みんなそうなんですね。

謝れないことの苦しさって大きいですよ。謝れなかったことでどんどん精神的に追い詰められ、病んでいっちゃうケースも聞きます。謝れるというのは、本人にとってはひとつの救いでありうる。謝罪には「自分の気を済ませる」という側面も多分にありますから、その意味で暴力的でもあるわけですが。

──年を重ねるにつれて、加害の思い出が増えていく一方で毎晩頭を抱えてるんですけど、減らせるとすれば謝罪するくらいしかないですね……。

過去の思い出に思いを馳せてしまう

 

謝罪の戦略性と暴力性

謝罪という行為に、多かれ少なかれある種の戦略めいたところがあるのは確かです。場合によっては、謝罪によって立場が逆転することもありますし。

例えば誰かが謝る。その周りの人が「こんなに謝ってんだから許してあげなよ」と言うと、許さないほうが悪く見えてしまう。そもそも全然関わりたくないのに、謝られてしまったら、それに反応せざるを得ない立場に被害者が置かれる、ということもあります。

謝罪とは多くの場合、それ自体が暴力的な行為だと思うんです。今はYouTubeなどで一方的に謝ることさえできてしまいます。

──謝罪動画というものがありますが、たしかに一方的ですね。

例えば刑事事件だと、加害者からの謝罪の手紙を受け取ること自体が意味を持ってしまうので、被害者が受け取りを拒否するケースもある。刑の減免に繋がりかねないので。

しかし、謝罪動画はそういったところを全部飛ばして、いきなり謝ることができてしまう。特定のお店や人に迷惑をかけたなら、動画で謝る前に、まず直接そこへ行くべきでは?という話にもなりますよね。

──ネット上では「謝ったら負け」「謝ったら死ぬ病」という言葉も流行ってます。

ある種のプライドや男らしさ、決して言い負けない強さみたいなものをアピールして、支持者を増やしている人たちもいますよね。そういう人は、自分のイメージや「売り」を守るために謝らない。謝れない。

──今、SNSなどで見かける「強さ」って、内心を隠すことなんですかね。

ネット上で強さを求める人たちにとっての「強さ」って、少なくとも「誠実さ」とは全く結びつかないですよね。元々、誠実さと強さは深く結びついていたはずなんですけど。

──「潔く謝る」のが大人である、みたいなところもあったと思います。

われわれは子どもに対しては「そういう誠実な人になりなさい」と言いますよね。だけど今、社会で優位に立つ人の像みたいなものは、だいぶ違う方向になっている気もします。

 

許しているのではなく、人をものに置き換えている

──「許す」ことについてはどうでしょう? 本の中では、人に対しての態度とものに対しての態度の違い(※反応的態度/客観的対象への態度)が説明されていて、そういえばそうだ! と思いました。

概念的にはそう表現できるわけですね。相手の敵意に対してはこちらも自然に敵意が生じるけれど、相手にその気がなかったときは、それに応じた反応をすると。

──誰かと生活をしていると小さなケンカがありますよね。でも、そういった時に「なんでこんなことになったのか」の原因をずっと遡っていくと、どちらかの過失というより、何かの不注意や不運に行き着く実感があります。

そういった場合、ある種の偶然的な要因とか巡り合わせによって人間社会が成り立っているのが見えてきますよね。その道筋が見えると、憤りや人間に対するストレートな責任帰属みたいなものは緩和されます。

──相手ではなくもののせいなら気が落ち着く。人はやっぱり人以外に腹を立てないんでしょうか?

人間に対する反応って独特なものがありますよね。例えば災害で家が壊れた、地震や津波が憎いみたいな言い方はありますけど、人間に向けるものとは本質的に違う、やり場のない怒りなわけです。

人間の意志や行為に対する怒りの中に、自然現象に近いような要素が見出されてくると、人間に対する反応的態度の中に徐々に客観的対象への態度がにじんでくる。でも、これも基本的にはグラデーションだと思うんですけどね。

 

償いと復讐は不公平さから来ている

──謝罪には復讐という要素もありますね。本の中では、土下座を求める『半沢直樹』の例がありましたが、私たちはなぜ復讐したいのか。人間の動物的な本能みたいなところなんですかね?

受けた被害に対して謝罪が釣り合うかどうかという感覚も含まれることですから、人間的だとは思いますけどね。

償いもそうです。「耳を切られたら耳を削ぐ」みたいなシンプルな釣り合いの観点から償いが行われることは昔も今もありますが、「幸せになるのがあいつへの復讐なんだ」のように、込み入った形で釣り合いをとる場合もありますよね。

──何か被害をこうむった際、そこに対して釣り合うような謝罪や償いによって、ある種自分を納得させるという。にしても、謝罪は一言でとらえきれないですね~。

謝罪について考えると、結局、人の社会の複雑さや奥行きを見て回ることになるんですよね。「謝罪のコツ」みたいな言い方をして、謝罪を社会の実践や状況と分離した行為、一個の自己完結した行為のように捉えてしまうと、その複雑さや奥行きが見えなくなってしまう。

今日あれこれ喋ったことも含めて、そういう複雑な面についてよく考えることが、本当は、謝罪というものを理解するための一番の近道であるはずなんです。だけど、こういう話は「難しすぎる!」と嫌がられることもありますね。

──そのつどの状況ごとに時間をかけて向き合ってやってくのが謝罪であって、しかしその過程や結論は複雑で一言で表すのは難しい、ということですね。いや、よくわかりました。ところで古田さんはどうして謝罪に関して研究されてるんですか?

ウィトゲンシュタインという哲学者の研究をしてまして、そこからうねうねと派生して浮かび上がってきたテーマなんです。僕が今まで研究でやってきたことと社会が合流する地点でもあったんですね。

でも、どんどん自分の首絞めてるみたいな感じですよ。仮に自分が何かやらかして謝るときには、「どう謝るか、さあ見ものだぞ」となりますから(笑)。

 

おわりに

暗い取材になるかもしれないな……と覚悟してましたが、古田さんは和やかに「それも興味深くてですね……」と笑顔で語られていました。

「謝罪しろ」「謝罪しなければ」と一言で表すことにそもそも無理があって、その無理自体が人間と社会の複雑でおもしろく、また美しい部分でもあると。少なくとも今後はSNSを落ち着いて眺めることができそうです。