仕事を“休む”ことに不安を覚えたら。休職や離職を肯定する「キャリアブレイク」という考え方

キャリアブレイクを専門家・北野貴大さんが解説

キャリアブレイクという言葉を知っていますか? 育児や介護といった家庭の事情だけでなく、学び直しや自身の働き方を見直すための一時的な離職・休職を肯定的に捉える考え方とされています。

働いていると「一度仕事を休んでゆっくりしたい」と思うことがあるはず。でも、「次の仕事が決まっていないけど辞めるのはリスクだ」「空白期間(ブランク期間)があると転職活動で不利になりそう」という考えから、それを叶わない夢だと考えている人も多いのではないでしょうか。

また、予期せぬ出来事や家庭の事情により「一時的な離職や休職をせざるを得ない状況」は誰にも起こり得ますが、キャリアの中断への不安から、離職や休職そのものにネガティブなイメージを抱いている方もいるはず。

欧州では肯定的に捉える文化が根づいているキャリアブレイクを日本でも身近にするため、メディアでの発信やイベント、コミュニティづくり、企業との勉強会などを行う一般社団法人キャリアブレイク研究所の代表・北野貴大さん。今回はキャリアブレイクのメリットや実態、不安になりやすい期間中の過ごし方についてお話を伺いました。

※取材はリモートで実施しました

キャリアブレイクとは、離職や休職をポジティブにとらえること

「キャリアブレイク」は、日本ではまだあまりなじみのない言葉ですよね。どういったものなのか、あらためて教えていただけますか。

北野貴大さん(以下、北野) キャリアブレイクとは、一時的に離職・休職し、働くことから少し離れてみることを指します。ヨーロッパではすでに社会に根づいていて、数カ月から数年の休職後に同じポジションで会社に戻れる制度も一部企業で導入されています。

離職しているあいだキャリアが止まるというわけではなく、その期間にさまざまな経験をしたり自分のキャリアを考え直したりすることで、「無職というキャリアを歩んでいる」状態だと僕は捉えています。

キャリアの「ブランク(空白)」ではなく「ブレイク(休憩)」である、という点がポイントなんですね。海外では、ビジネス特化型SNS「LinkedIn」が2022年春に、プロフィールの職歴欄に「キャリアブレイク」を設定できる機能を追加したことで話題になっていましたが、日本に根付くのはまだこれから、という段階でしょうか。

北野 確かに「キャリアブレイク」という言葉を知らない方はまだまだ多いと思います。でも活動していると多くの方から反響をいただきますし、またさまざまな調査や数値を見ていると、これまで名前がついていなかっただけで、実態としてはすでにあったんだなと。それは僕も活動を通じて気づいたことです。

北野さんはそもそも、何をきっかけにキャリアブレイクという言葉を知って「キャリアブレイク研究所」の活動を始めたのでしょうか。

北野 僕のパートナーが数年前、次の仕事を決めずに離職したんです。当時の僕は「ブレイク」ではなく「ブランク」と捉えていたので、無職って収入がなくなって働かないことへの不安を感じそうですし、復職しにくそうだし大丈夫かな……と心配していて。

でも彼女は離職をネガティブには捉えておらず、「せっかくだから旅行をしたり、学校に通ったり、自分の選択肢を増やしてから社会に復帰しようと思う」と話していて、それはもうぜひ応援したいと思い、見守ることにしたんです。

たまたま同じ時期に、欧州では彼女のような離職の選択をキャリアブレイクと呼ぶらしいと知り、おもしろいなと思ってSNSなどで発信を始めたのが活動のきっかけです。

パートナーは、もともとキャリアブレイクという文化をご存じだったんですか?

北野 言葉そのものは知らなかったようですが、彼女はイギリスに住んでいた経験があって。イギリスには、高校卒業から大学入学までや、大学卒業後から就職までの期間を長く取り、旅行や留学、ボランティア活動など好きなことに自分の時間を使うことができる「ギャップ・イヤー」という文化があるんですね。パートナーは学生のときにギャップ・イヤーを検討していたらしく、「人生に小休止を取り入れること」に抵抗がなかったようでした。

結局彼女は1年半ほどのキャリアブレイクを経て、離職前とは異なる業界に転職したんですが、学校に通ったりいろいろな人に会ったりして、ああでもないこうでもないと自分のキャリアを立て直そうとしている楽しそうな姿に、僕も大きく影響を受けました。

「働かなくて大丈夫?」という周囲の心配は、本人の可能性を狭めてしまう

北野さんご夫婦のケースのように身近な人に応援してもらえるといいなと思う一方で、離職期間や休職期間が長くなってくると、家族や周囲の人から「働かなくて大丈夫なの?」と心配されるケースもありそうです。

北野 そうですね、パートナーも周りからいろいろ言われることはあったようです。僕も最初は心配したので気持ちは分かるのですが、そういった声かけって「やさしさ」から生まれたものであっても、受けとる側にしたら「自分の選択を疑われている」と感じてしまうと思うんです。

「自分のことを信じてもらえていない」と感じる環境では、人の可能性は狭まっていってしまう。仕事から離れることで他者との交流が減りやすいタイミングでもあるので、お互いを信じて応援しあえる人と出会える環境をまずつくることが必要なんです。

だからこそキャリアブレイク研究所では、「むしょく大学」というコミュニティを運営し、キャリアブレイク中の方が集い学び合える場を提供しています。

キャリアブレイクを専門家・北野貴大さんが解説

キャリアブレイク中またはキャリアブレイクに興味がある人が集い、共に活動できる授業やおしゃべりを通じた学びあいの場を提供する「むしょく大学

自分のことを信じてもらえていない環境では可能性が狭まっていってしまう、というのはおっしゃるとおりだと感じます。コミュニティに参加しているのはどういった方なのでしょうか。

北野 「心身の不調を回復したい」「今の会社をとりあえず離れたい」といった療養的な理由で会社を離れた方が中心ですね。その次に「自分に合った働き方を見つけたい」「自分を見つめ直す時間を持ちたい」といった理由でキャリアブレイクを選んだ方が多いです。会社員の方もいらっしゃいますよ。

まさに今キャリアブレイク中、という方だけではないんですね。

北野 はい。会社を辞める決心がなかなかつかない方や、生活がかかっているのでいますぐには仕事を辞められないけれど、キャリアブレイクの世界を覗いてみたいという方も参加しています。

キャリアブレイクの本質は、「本来の自分に戻る」こと

日本では休職や離職を「ブレイクではなくブランク」とネガティブに捉える考え方がまだまだ主流としてある中で、前向きに捉えている“先輩”とコミュニケーションが取れるのはとてもいいことだと感じます。「このままでいいんだろうか」と不安になることもあると思うのですが、みなさんどのようにキャリアブレイク期間を過ごすのでしょうか?

北野 僕が活動を通じて出会ってきた多くの方は、仕事を辞めるとまず、ずっと会いたかった友達に会ったり、行きたかったお店に行ってみたり、いつか見ようと思ってずっと溜めていたNetflixを見たりして、最初はとにかくうれしくて仕方なくなるんですよ。

でもその感覚は長く続かず、次第に「何やってるんだろう」とか「社会の役に立ってないな」とか、虚無の時期がきて、焦りを感じ始めます。僕が見てきた限りでは、半分くらいの方がここで復職しますね。「ちょっと休んでみて気持ちが晴れたな」と。

もちろん、リフレッシュしてまた働く意欲が湧くのはとてもいいことです。ただ、言い方は厳しいですが、そういった“焦り”の気持ちからキャリアブレイクを終えると、転職の際に評価されづらく、年収が下がったり、希望の職につけないケースも多いんです。

「とにかく仕事に就かなくては」という焦りだけで動いてしまうことがマイナスになる、ということでしょうか?

北野 そうですね。「虚無」とそれによる「焦り」を感じつつも、同じ境遇の人たちに出会い、励まし合ったり情報共有をしたりすることで、「“実は”家族の近くで仕事をしたかった」とか「“実は”IT関連の仕事をしてみたかった」といった、自分の中にある“実は”に気づけるようになるんです。すると今度は、その“実は”を叶えるためには何が必要かが見えてくる。

もちろん、思い描いた理想が実現できないケースはたくさんあります。特に異業種転職の場合はハードルも高いです。それでも、キャリアブレイクの期間中に自分の軸を見つけ、徐々に折り合いをつけながら社会に接続していく方はとても多いですね。

キャリアブレイクを経て同じ業界に復帰する方ももちろんいますが、自分のキャリアについて改めて考えてみる前と後では、働くモチベーションや楽しさが大きく違ってくると思います。

キャリアブレイクを専門家・北野貴大さんが解説

キャリアブレイク中の変化を表したグラフ。多くの人が、1.解放期、2.虚無期、3.“実は”期、4.現実期、5.接続期の5段階をたどるという。「“実は”期」で見えてきた自分の理想と折り合いをつけていく「現実期」を経て、改めて社会と接続していく。(C)一般社団法人キャリアブレイク研究所

北野さんは以前別のインタビューで、「キャリアブレイクの本質は自分に戻ること」とおっしゃっていました。「自分に戻る」というのは、どういう感覚のことを指しているんですか?

北野 これまで、キャリアブレイクを選んだいろいろな方を見てきましたが、まず会社の一員という状態から離れると、狭い世界の常識から脱出できはじめて広い社会が見えてくる。そうして「そういえばあれがやってみたかったな」と主体的な選択肢が生まれてくる人が多いと感じています。

新しい選択肢は、必ずしも選ばなくていいんです。たくさんの選択肢の中から、主体的になにかを選ぼうとしたということ自体が重要なのかなと。僕はそれが「自分に戻る」という状態じゃないかな、と思っています。

大事なのは「仕事を辞める可能性もある」という選択肢を持てること

お話を伺っていて、キャリアブレイクに興味が湧いてきました。この文化が日本で根付くには「一度働くことから離れると、その後のキャリアが築きにくい」というネガティブなイメージから、「離職や休職をきっかけに自身を見つめ直すことができる」という肯定的な捉え方に変化していく必要があると感じます。

北野 そうなんです。あれこれと思考するより、効率よく正しい答えを出すのが「優秀」だと判断する従来的な学校教育もそうですし、新卒一括採用のような社会制度の影響など、さまざまな要因が絡み合った結果、そういったネガティブな考え方につながっているのだと思います。

ただ「キャリアブレイクをマイナスに捉える風潮がある」というのは、“偏見”であるとも思っていて。確かに病気、育児、介護など「取らざるを得ない休み」で仕事を離れることにネガティブな感情を抱く方はいますし、長期の休職や離職はキャリアにとってマイナスになると考える傾向は、まだまだ社会の中に残っています。

一方で、活動を通じてさまざまな企業の人事担当者や経営者の方などとお話をしていると、キャリアブレイクをマイナスに捉えている人ばかりではないというのも感じるんです。僕も「離職は社会的にダメなこととされている」というある種の偏見を抱いていたことに気付かされました。

離職や休職を肯定的にとらえる風潮も少しずつ生まれている、ということでしょうか。

北野 そうですね。現状、社会の受け皿が足りていない側面もありますが、社内の休職制度を変えたいと考えている“企業の中の人”も出てきています。

いま産休や育休、介護休業を除く「休職制度」って、ほとんどの場合は療養制度とイコールで怪我や病気の診断書をもらってようやく使える制度になっているんですよね。そうではなく「社員の自己実現が会社にもインパクトを与える」と考え、療養制度ではない形の休職制度をつくりたいと相談してくださる経営者は増えてきています。「休みたくなったら、ちょっと仕事を休んで世界一周でもしてこられる環境の方がヘルシーだよね」というスタンスの方も増えています。

企業だけでなく地方自治体の担当者と情報を交換したり、いち制度として根付かせるために議員に向けて勉強会を開いたり……。こういった僕たちの活動で、キャリアブレイクがもっと身近になればいいなと思います。

一時的な離職や休職を必ずしもネガティブに捉える会社ばかりではないという視点を持っておけると、家庭の事情や自身の体調などによって働くことを休まざるを得ない場合も、不安をやわらげるきっかけになりそうですよね。では「キャリアブレイクを検討している当事者」にはどんなサポートが必要だと思いますか?

北野 まずはやっぱり「当事者で集まってコミュニケーションを取る機会や場所」が大事です。

先ほども言及した「虚無」期間は人との接点が減って視野が狭くなりがちですし、孤立もしやすい。そういったときって“あまりよくない”サービスやコミュニティとつながりやすくなってしまうんです。そういったところと接触しないためにも、気軽に現状を話し合える同じ境遇の人たちと、離職にまつわるお金の話や学びに関する情報を交換したり、悩みの相談に乗ってもらうことってとても大事なんです。

僕たちが運営している「むしょく大学」ではこの職業訓練校がよかった、という話なども毎回白熱していますよ。ここで出会ったことをきっかけに、転職先で仕事につながったという話も聞きます。

確かに、自分のキャリアの選択肢を広げる上で、さまざまな境遇や業界の人と出会って情報共有ができる場があると心強いです。

北野 キャリアブレイクの最大の魅力は、実際に仕事を辞めるかどうかではなく「辞める可能性もある」という選択肢を持てることだと僕は思うんです。

そもそも、キャリアブレイクは万人に推奨できるものではないんです。部署異動や転職、起業など、働く環境を変えるための方法はたくさんありますし、実際、僕自身もキャリアブレイクを経験しているわけではありません。

「環境を変える」という選択肢の中に、キャリアブレイクという形があってもいい、と。

北野 そうです、そうです。何がしたいか分からなくなって人生が苦しくなってしまったときに、手に取れる範囲にその選択肢があるだけでも見通しが変わってくると思うんです。必ずしも「自分の人生を大きく変えたい」「キャリアアップしたい」というポジティブな動機でなくても、なかなか転職する気分になれなかったり、とにかく現状から抜け出したいという人には、キャリアブレイクを視野に入れてもいいんじゃないかな、と思います。

取材・文:生湯葉シホ
編集:はてな編集部

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お話を伺った方:北野貴大さん(きたの・たかひろ)さん

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一般社団法人キャリアブレイク研究所、代表理事。一時的な離職休職を肯定的に捉える「キャリアブレイク」を文化に。キャリアブレイクの人が活動する「むしょく大学」や、キャリアブレイクの情報誌「月刊無職」を発刊。前職はJR西日本グループで「ルクア大阪」をはじめ商業施設の企画マーケティング業務に従事。

健康改善は“やる・やらない”の二択じゃなくていい。無理なく続けるための「アジャイル式」健康カイゼンとは?

アジャイル式健康カイゼンガイド。テレワークや在宅勤務で運動不足を感じており、健康のためによくないのではと思いつつもなかなか継続した行動ができていない人に向けた、継続に重きを置いた健康改善のための手法が紹介されている。

なんだか毎日、うっすら体調が悪いーー。ハードな仕事や不規則な生活、テレワークによる運動不足などから「体調が万全!」と感じることが減ったという人は少なくないのではないでしょうか。ただ、病院に行くほどつらいわけでもないし……と、そのまま日々を過ごしてしまったり、心身を整えるための行動を始めてみても継続しなかったり、なんてこともありそうです。

そこで注目したのが、書籍『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』(翔泳社)で紹介されている「アジャイル式」健康カイゼンというプロセス。

ここで言う「アジャイル」とは、システムやソフトウェア開発における進め方のひとつである「アジャイルソフトウェア開発(以下、アジャイル)」に由来します。

著者の懸田剛さんは20年に渡りアジャイルを研究・実践・指導。現在はスポーツプログラマーの資格も取得し、自身で実践しながら他者への助言も行っています。共著者で保健師の資格を持つ福島梓さんも、過去エンジニアとしてアジャイルを実践・支援した経験を、働く人がいきいきと過ごすための支援に生かしています。

そんなおふたりが、健康に向き合うためのプロセスとアジャイルは共通していると考え、日々の生活で取り入れやすく継続しやすい健康改善方法として提唱したのが「アジャイル式」健康カイゼンです。健康のためにアジャイルがどのように役立ち、また継続につながるのか。おふたりに聞きました。

取材はリモートで実施しました

「うっすら体調が悪い」状態を見過ごさない

テレワークが浸透したことで運動不足になったり、忙しくてついつい食事をおろそかにしてしまったりと生活が乱れ、常に「うっすら体調が悪い」と感じている人が増えているように感じます。『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』でも書かれていましたが、この「うっすら体調が悪い」とは、どのような状態なのでしょうか?

懸田剛さん(以下:懸田) 例えば、朝起きたときにスッキリ目覚められるときと、なんだかつらいなと感じるときがありますよね。その「なんだかつらいな」という違和感が何日も続いていて、でもそれに手を打てずに常態化しているのが「うっすら体調が悪い」という状態です。

福島梓さん(以下:福島) 朝スッキリ起きられなくて会社に行くのが毎日すごく億劫だとか、日常的に頭痛があるのが当たり前になっているとか、そういうちょっとした不調が常態化してしまうと、だんだん「調子がいい」状態を実感できなくなっていくんですよね。

懸田 ただ、うっすら体調が悪いからといって「健康じゃない=不健康」と言いたいわけではありません。健康・不健康をジャッジするための言葉ではなく、なんだかスッキリしないとか、集中しにくいとか、そういった小さな違和感を「うっすら体調が悪い」と表現しています。

心当たりがあります……。どうしても日々の忙しさにかまけて自分の「うっすら体調が悪い」に見ないふりをしてしまいがちなのですが、忙しい中でも始めやすいことはありますか?

懸田 まずは日々、自分の状況を把握(モニタリング)しておくことでしょうか。僕は朝起きたときの感覚に違いが出やすいので、睡眠記録アプリなども活用して睡眠時間や睡眠の質をモニタリングしています。

シャキっと起きられる日とそうでない日があって、後者が続いたら黄信号。自分の生活を見直し、可能ならば、仕事量やストレスをコントロールするようにしています。ランニングが趣味なので、調子が悪くなってきたら仕事を早めに切り上げて走りに行ったりもしていますよ。

福島 私も、モニタリングと振り返りが大事かなと思っています。ときには仕事などでどうしても無理をしなければならないときもありますよね。

日ごろからモニタリングと振り返りをしていると、“体調変化の兆し”みたいなものが、自分の場合はどこにどのようにアラートとして出てくるのかが分かってくると思います。

日々の状態を把握して振り返りの時間が取れていると、今は無理をしても大丈夫か、休養を優先した方が良いか、など頑張り方の調整がしやすくなります。私自身も、20代の頃に比べて無理をし過ぎて大きく体調を崩すことがなくなったと感じています。

いざ、健康状態を改善しようと思っても続かない……という経験がある人も多そうですが、その原因は何なのでしょうか。解決策はありますか?

福島 一番の原因は「やる・やらない」のゼロイチ思考になってしまっていることだと思います。例えば「ストレッチを毎日10種類やる」と決めても、疲れているから「できない」と考えてしまい、続けるのがつらくなってしまいがちですが、「5種類やる」「1種類だけやる」というようなゼロとイチの間の選択肢も実はあるんですよね。

それに、人はどうしてもできなかったことの原因を自分の内面に求めてしまいがちです。基本的帰属錯誤という心理バイアスなのですが、「自分がダメな人間だからできない」と考えてしまうんです。でも本当にそうでしょうか。もしかしたら外部の環境に影響されていることもあるかもしれませんし、自分に合わないやり方だったのかもしれません。

できないことを自分のせいにし過ぎず、どんなことならできそうかを考えてみるのも継続のカギだと思いますよ。

懸田 本にもいくつか書いていますが、僕も挫折経験がたくさんあります(笑)。ジムに通っていたけど、コツコツ筋トレするのが合わなくて挫折したり、自転車通勤をしていたけど、引越しで職場が遠くなって挫折したり。

ただ、一貫してこだわってきたのは、自分が楽しんで取り組めること。どんなことなら楽しめるか、続けられるかを考えていろいろ試してきました。登山にもいろいろなルートがあるように、目標へ向かう道もたくさんあるんです。一つダメでも、他の道があるはず。そう考えていろいろ試してみるのもいいと思いますよ。

自分で選び、小さなステップを積み重ねていくから「無理なく」続けられる

『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』で取り上げられている「アジャイル」について教えてください。

「アジャイル式」健康カイゼンガイド

『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』(翔泳社)

「アジャイル実践家&スポーツプログラマ」「元SEでスクラムマスターをしていた保健師」という著者陣が、 ITエンジニアをはじめとするデスクワーカーに向けて、アジャイルに基づいてポジティブな気持ちで健康カイゼンを行うための知識(食・運動・休息)やテクニック(カイゼンパターン)を網羅的に解説した一冊。▶「アジャイル式」健康カイゼンガイド

懸田 ここで言う「アジャイル」とは「アジャイルソフトウェア開発」のことで、顧客に価値あるプロダクトを提供することを目的に、少しずつ作り、フィードバックを受けなから顧客や市場の環境に合わせて柔軟に改修・改善していくソフトウェア開発プロセスのことです。

アジャイルソフトウェア開発の模式図
ソフトウェアを一連の流れで開発・構築されてきた従来の模式図(上)と、
アジャイルソフトウェア開発の模式図(下)
『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』第4章より

これが、健康改善にも生かせる考え方だと思っていて。「これをやるだけでやせる」「これをやるだけで筋力がつく」といったようなやり方は、合う人にはそれでよいのですが、取り組む中で継続するのが難しく感じたり、自身の生活にフィットしないと感じるようになることもあると思います。

そこで健康改善における「継続」に重きを置き、目標の捉え方や取り組み方を柔軟に調整していくのが「アジャイル式」健康カイゼンです。

「カイゼン」とカタカナ表記にしているのには意味があります。元々は自動車メーカーのトヨタさんの業務改善において改善ではなくカイゼンとカタカナで呼ぶ文化があり、そこには「継続的な改善(英語だとContinuous Improvement)」という意味が込められています。

そもそもアジャイルは、トヨタさんの生産方式や仕事の進め方に大きな影響を受けています。その流れで、本書での「カイゼン」というカタカナ表記にも、あるやり方を一度やって満足するのでなく、「常に現状の変化に応じて、あるいは、現状でよりよいやり方に改善し続けていく」という意味を込めています。

「アジャイル式」健康カイゼンが「続けやすい」とされる理由を教えてください。

懸田 健康改善に向けた行動を継続するために必要なポイントとして、「自己効力感」「自律的動機づけ」「フィット感の調整」の3つを挙げています。

アジャイル式では、どの健康カイゼン行動=カイゼンパターンも小さくスタートするもので、一足飛びに負荷の高い行動はとりません。

小さく始めて「うまくいった」「次はこうしよう」と成功体験を積むことを重視しているので、「できなかった」という挫折感よりも「できた」「これもできそう」と自己効力感を高めることができます。

自律的動機づけは、自分自身が選んで決めるということです。お医者さんに「健康のために食事に気をつけるように」と言われて取り組むのと、自分が数ある方法の中から「食事管理ならできそうだ」という方法を選ぶのとでは、その後のモチベーションが大きく変わります。

「アジャイル式」では数々のカイゼンパターンから自分で選んで取り組むので、自然と自律的動機づけができるんです。

3つめのフィット感の調整は、まさにアジャイル式の基本的な構造です。体の変化というフィードバックを受けてPDCAを回し、よりよい状態を作っていくことができます。「アジャイル式」ではこの3つの継続ポイントを押さえているので、無理なく続けやすいといえるでしょう。

福島 フィードバックのサイクルを回していくことで、目標が変わっていくこともあると思います。例えば「何キロやせたい」という目標を立てていたけれど、自分が心身ともに健康でいられるベスト体重は? という視点から考えると「やせる」ではなく「キープ」や「体重を増やす」という方向に変わっていくケースも考えられます。

なるほど……! 具体的に、「アジャイル式」にはどんな方法があるのでしょうか。

懸田 本の中では、運動や食事、休養などの基礎知識とともに、健康カイゼン行動=カイゼンパターンを紹介しています。

例えば位置情報ゲームアプリで楽しみながら歩く習慣をつける、食べ過ぎ防止のために小さめの食器を使う……など、手軽さや目的に応じて様々なパターンがあります。これらの中から好きなものを選んで試し、自分に合うかどうか、継続が負担にならないかどうかを含めてモニタリングしながら、自分にフィットする健康習慣をつくりあげていきます。

中には合わない方法もあると思います。でもそれは失敗ではなく、合わない方法がわかったということ。自分に合う方法を見つけるためのプロセスだと考えましょう。

自分に合った方法を見つけるコツはありますか。

懸田 自分の今の生活のなかで、取り入れやすそうなものからチャレンジしてみるのが基本ですが、それを知るためにもまずは現状を知ることからですね。睡眠アプリなどもそうですが、運動や食事のログをとれるアプリなどはたくさんあります。

歩数や消費カロリー、摂取カロリーなどもアプリでチェックできるので、現時点で自分がどのくらい運動できているか、食事のバランスはどうかなどを把握するのが第一歩です。

歩数が少ない、食事バランスが偏っている、などの課題を見つけたら、それに対応したカイゼンパターンに取り組んでいきます。1週間ほど続けてみて、負担になっていないかをチェック。成果が出ているかは短期間で分かりにくいこともあるので、2週間から1カ月単位でチェックしてみるのがおすすめです。

「アジャイル式」健康カイゼンにおけるプロセスの全体像を示した図
『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』第7章より

福島さんが言っていたように、「やる・やらない」のゼロイチ思考をやめて、疲れているときでもできる行動パターンにアレンジしておくのも大切です。

これを「度合い思考」といいますが、「元気なとき・普通のとき・疲れているとき」などの状態別に取り組みの強度を変えておけば「今日もできなかった……」という落ち込みをなくせます

それと、「自分にしっくりくる」というフィーリングを大事にしてほしいです。人はそれぞれ好みや大切にすることが違いますので、自分に向いていることを行うのが一番です。正解を一発で見つけようとするのでなく、実験しながら「しっくりくるやり方」を見つけていくプロセス自体も楽しんでほしいですね。

脱・挫折。成果が出ないときは行動を見直す・専門家を頼ってみる

ちなみに、成果が出なくて挫折しそうになってしまったときには、どうすればいいのでしょうか。

懸田 あまり結果をあせらないことは大前提ですが、成果が出なくてモヤモヤしている場合は行動指標を見てみるのがおすすめです。

今取り組んでいるカイゼンパターンをきちんと遂行できているかをチェックし直し、できているなら「もう少し様子を見てみよう」と思えるかもしれないし、「負荷を上げようかな?」「他の方法も試してみようかな?」と検討することもできます。

同じような取り組みをしている仲間をSNSなどで見つけて、情報交換をしてみるのもおすすめです。知らなかったことや違う視点からの情報が解決のヒントになることもあります。

福島 加えて、専門家を頼るというのも手段のひとつです。例えば、効果が出るまでに想定よりも時間がかかるケースもあります。自分は「1カ月で効果を出したい」と思っていても、専門家から見ると「3カ月はかかりますよ」というカイゼンパターンだったりすることもあります。そうした時間的な目安を知るのに専門家の知識が役立ちます。

また、正しい方法で行えているかどうかも重要なポイントですね。スクワットをしているのに成果が出ないという人は、姿勢など身体の使い方が正しくないことが多いのだそうです。他にも、歩き方や走り方など、人によってクセがあったり、関節などを痛めやすいフォームだったりすることがあるため、運動を新たに始めようとしている方や思うように成果が出ない方は専門家に相談してみるのがおすすめです。

専門家……。今まで健康に無頓着だったので、なかなかハードルが高いです。

福島 運動についてなら、パーソナルトレーナーを探してみるのもいいですよ。短期の結果重視のところよりも自分に合ったやり方を提案してくれて、長く続けられるところが健康改善という点ではマッチすると思います。

健康全般について相談したいなら私のようなフリーの保健師を探してみたり、地域の保健センターや暮らしの保健室*1などで行われている健康相談やイベントに足を運んでみるのもいいと思います。会社員の方なら、社内に相談できる医師や保健師がいることもあります。

懸田 運動のきっかけを作りたいならば、行政や地域の総合型地域スポーツクラブが主催するスポーツイベントなどに参加するのもいいですね。

PDCAを回し、無理なく続けられるカイゼンパターンに出合う

『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』では、いろいろなカイゼンパターンとともに、ゼロイチ思考から抜け出す「度合い思考」や、普段の生活で負荷をかける「ニート*2を増やす」という考え方が面白く、また無理なく取り組めるポイントでもあるように感じました。

懸田 この本では、「水泳」や「ジム通い」といった一般的な健康改善方法は記載していません。それができる人は、きっとこの本がなくても自分で取り組めるはずですから(笑)。どちらかといえば、本当にゼロの状態からスタートして、金銭的・時間的・精神的に負担にならないレベルでできるというところを意識していますね。

それが「やる・やらない」の間をとって「これだけできればOKにする」という選択を行う「度合い思考」であったり、日々の何気ない動作に負荷をかけたりスキマ時間を活用して体を動かしたりする「ニートを増やす」などの形をとって表れています。

「頑張ろう」という気持ちはとても大切ですが、それが無理につながってしまうと継続できません。無理に頑張らなくても自然に生活のなかに組み込めて、続けられるのが理想的なカイゼンだと思います。

無理に頑張らなくてもいいんだ、と思えるだけでも気持ちがかなり楽になりそうです。

懸田 人間の体調や環境には波があります。どうしてもできないときは負荷を下げてもいいし、繁忙期で時間がとれない・疲れてつらいときは思い切って休んでもいいんですよ。休むことも含め、状況に合わせて取り組むカイゼンパターンも見直しながら、自分のリズムを作っていければバッチリではないでしょうか。

福島 無理なく、という点では「ゆとり」も大切にしてほしいですね。忙しいけど、なんとかしなきゃ!と無理に始めてしまうのは挫折につながりかねないので、「今、改善に取り組めるゆとりはあるのか」を忘れずにチェックしてほしいです。

それから、やる気が出る要素を見つけるのも無理なく続けられる秘けつだと思います。自分がどんなことでモチベーションを高められるのかを知っておけば、取り組みの合間に楽しみを用意しておくこともできますよね。「ごほうび」というとらえ方もあります。

また、取り組みそのものに楽しい要素を組み込む、という考え方もあると思います。例えば、達成度合いを可視化することで喜びを感じるなら、達成できた項目を記録するチェックリストを用意するとか。競い合うのが好きなら、一緒に競い合えるライバルを見つける、などです。

私はパーソナルトレーニングに通っていますが、お話していて楽しいと思うトレーナーさんと厳しく指導してくれるトレーナーさんを日によって使い分けているんです(笑)。トレーニングの合間の会話を楽しみに通っている感じです。

最後に、仕事や家事育児など、忙しい日々の中で健康改善に取り組みたいと思っている人に向けて励ましのメッセージをお願いします。

福島 「思うようにできない自分」を許してあげましょう。どうしても無意識に「自分がダメだから続かないんだ」と思ってしまいがちなのですが、自分に合ったやり方や環境に出合えていないだけかもしれません。アジャイル式によってPDCAを回し、自分にフィットしたカイゼンパターンを見つける手がかりにしてほしいです。

そしてなにより、私は健康は目的ではなく、皆さんが自分らしくハッピーに生きるための手段のひとつだと思っています。皆さんが自分らしくハッピーな日々を送れるための手がかりとなれたらうれしいです。

懸田 優先順位はまず「自分」です。仕事の都合や周囲の人のことを考えるとどうしても自分のことは後回しになってしまうものですが、身体は自分自身に「調子が悪いよ!」とどんどん訴えかけてきます。それに気づけるのは自分だけ。だからこそ、定期的に体からのフィードバックを受け取って、「アジャイル式」で改善サイクルを回していただけたらと思います。

取材・文:藤堂真衣
編集:はてな編集部

「『アジャイル式』健康カイゼン」イベント情報

「アジャイル式」健康カイゼンに興味があるけれど、本を読んだだけではなかなか思うようにできない、本が読みきれないという方向けに、参加型ワークショップ「『アジャイル式』健康カイゼンに取り組んでみよう」が2023年1月から全3回にわたってオンラインで開催されます。

イベントでは、本書で扱っているワークを参加者皆で行い、振り返りと軌道修正をしていきます。健康カイゼンを考え・アクションプランを考えるきっかけとして、ぜひ参加ください。詳細は下記のイベント告知ページからどうぞ。

「アジャイル式」健康カイゼンに取り組んでみよう(全3回):第1回健康カイゼン導入編 - connpass

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お話を伺った方:懸田 剛さん、福島 梓さん

懸田剛さん

懸田 剛(かけだ・たけし)
日本にアジャイルが紹介された2000年からアジャイル開発の研究・実践を始め、現場への導入支援を行うようになる。40歳から始めたランニングをきっかけに身体へ目を向け、心身の統合・ウェルビーイングを探求しはじめる。いきいきとした個人、組織、環境づくりに携わる。認定スクラムマスター、日本スポーツ協会公認スポーツプログラマー。

福島梓さん

福島 梓(ふくしま・あずさ)
保健師、看護師、産業カウンセラー。 臨床心理学を学んだ後、SEとして働き始める。アジャイル開発やUXデザインの実践・支援に携わる中で、働く人の健康について問題意識を強くし、2014年千葉大学看護学部に入学。 卒後、産業保健師として組織・個人の健康支援、組織開発支援に従事。 現在は個人の健康相談や企業の組織開発や新価値創造支援に携わりながら「皆が自分らしくイキイキと働き続けられる社会」の実現に向け、日々模索している。

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*1:健康など暮らしの中でのさまざまな困りごとについて、看護師などの医療専門職に誰でも無料で相談できる施設

*2:ニート…Non-Exercise-Activity Thermogenesis。非運動性熱産生ともいう。

仕事も自分自身も「決めつけない」ことが、異業種へのキャリアチェンジのカギになる──書店員・粕川ゆきさん

"書店員・粕川ゆきさん"

ずっとやってみたかった仕事や新しくチャレンジしてみたい仕事があっても、未経験の業種に飛び込むことには、不安を感じる人がほとんどではないでしょうか。特に、現在の収入がある程度安定していたり、転職に際して雇用形態が変わるといった懸念点があると、「いまのままの方が安泰なのでは」とキャリアチェンジを断念する方も多いのではないかと思います。

現在、書店員として都内の大型書店に勤務しながら、個人として本の紹介やフェアなどを主に行う「いか文庫」としての活動もされている粕川ゆきさんは、そんな異業種へのキャリアチェンジの経験者です。

スポーツ用品メーカーでの勤務を経て29歳でアルバイトとして未経験の書店の仕事を始め、少しずつ書店員としてのスキルと経験を積み上げていった粕川さんに、キャリアの選び方についてお話を伺いました。

スポーツ用品メーカーの正社員から、経験ゼロで書店員へ

粕川さんは現在、書店員として大型書店に勤務されているとお聞きしています。普段はどんなお仕事を担当されているのでしょうか?

粕川ゆきさん(以下、粕川):主にデザインとアートの分野の書籍を仕入れたり、ブックフェアやイベントの企画・運営をしています。あとはアルバイトさんたちのまとめ役として、コミックや絵本などのジャンルを担当している方にアドバイスや指示をすることもあります。

キャリアをさかのぼると、粕川さんはもともとはスポーツ用品メーカーにお勤めだったそうですね。

粕川:そうなんです。20年ほど前になりますが、新卒で入社したのはスポーツ用品メーカーでした。当時は営業統括という、社内外のさまざまな人たちと関わる部署にいました。

新商品が出るタイミングで行う展示会の運営をしたり、営業さんのための発注システムを作ったり得意先にパソコンの技術を教えにいったりと、次から次へと新しいスキルが入ってくるのがすごく刺激的で。始めはそんなに長くいるつもりじゃなかったのですが、結局、丸7年勤務しました。

いまされている書店員とは、まったく違うジャンルのお仕事ですよね。いつか本屋さんで働きたいという気持ちは、当時からあったのでしょうか?

粕川:スポーツ用品メーカーでの仕事もすごく楽しかったんです。でも、30歳を目前にしたときに、ふと「自分が本当に好きなものってなんだろう?」とあらためて考え直したんですよね。そうしたら、本や音楽が子どもの頃から大好きだったなと思って。

それに当時、会社の先輩に誘われて、東京スカパラダイスオーケストラのライブにたまたま行ったこともひとつの転機でした。ライブがとても楽しくて、そこから何度も足を運ぶようになったら、音楽やカルチャーが好きな友達がどんどん増えていったんです。

その人たちと遊ぶたびに新しいものに触れられるのがうれしくて、カルチャーに関わる仕事がしてみたいなと漠然と思うようになりました。特に、学生時代から通っていた書籍と雑貨の複合店が好きだったのを思い出し、一度でいいからそこで働いてみたいと思ったんです。

では、それがきっかけになってメーカーを退職されたんですか?

粕川:はい。結局29歳になるタイミングで思い切って会社を辞め、憧れていた書籍と雑貨の複合店に応募し、アルバイトとして入社しました。

最初はフルタイムではなかったこともあって、他にもいろいろなバイトをかけ持ちしていたのでとにかく大変だったのですが、入ってみたらやっぱり楽しくて仕方なかったです。

入社から数年で書籍の担当になり、好きな作家さんのPOP(店頭に置く宣伝物)をつくったり本棚の並びを考えたりするようになったのですが、自分が推していた本が売れるのを目にしたら、いままでに感じたことのない仕事の喜びを味わってしまって。結局アルバイトとして5年間働き続けてしまいました。

粕川さんの場合は、新卒でいちど正社員を経験されていますよね。そこから異業種に転職し、アルバイト勤務を何年も続けるとなると、これまでの給与や待遇面と比べてしまう場面もあったのではないかと想像するのですが……。

粕川:正直、メーカーで正社員として働いていたときは、福利厚生や給与面が恵まれていたことをあまり意識していなくて……無知だったと思うのですが、辞めてから「しまった」と思いましたね(笑)。

当時は待遇よりも、とにかく自分のやりたいことをやりたいという気持ちが強かったんだろうなと思います。お店で働いていたのは自分よりも若い人たちばかりだったのですが、その子たちと漫画をおすすめし合ったりするのが本当に楽しくて、仕事も生活も充実している感覚がありました。

選択に後悔はしていないのですが、当時は本当に貧乏な生活をしていたので、同じように正社員からアルバイトになる道を考えている方がいるとしたら、ある程度貯金をしてから会社を辞めるなど、準備をしておいた方が安心かなと思います

ひとつの仕事の経験とその付加価値は、きちんと次の仕事につながっていく

「未経験の仕事をアルバイトから」となると、その後のキャリアに不安を抱える方もいらっしゃると思いますが、粕川さんは2012年には都内の独立系書店に、2020年からは現在のお店にと、同業での転職を2度経験されています。2012年の転職は、どういったきっかけだったのでしょうか?

粕川:それまで働いていた書籍と雑貨の複合店の閉店が決まり、別の店舗に異動になったのですが、そこで雑貨担当を任され、本の仕事ができなくなってしまったんです。最初のお店での経験があって本を売ることの虜(とりこ)になっていたので、やっぱり書籍に関わる仕事がしたいな……と。たまたま採用情報を見つけて応募した独立書店の店長が、これまでのキャリアを面白がってくれたこともあり、週1回のインターンから始めてそのお店に入りました。

それから、同時期に「いか文庫」という個人での活動も始めたんです。

「いか文庫」は粕川さんが現在も続けられている活動ですが、実店舗や在庫を持たない「エア本屋」と名乗られていますよね。

粕川:当時よく通っていたブックカフェが近所にあったのですが、そこの店主さんや他のお客さんたちから「自分で本屋さんはやらないの?」と聞かれることが多くて。

私はまったくそんな気はなかったのですが、おもしろいから屋号だけ考えてみようかとか、フリーペーパーを作ろうかなんてやっていたら、あれよあれよという間にいろんな方が声をかけてくださるようになって、グッズをつくったり、書店の一角でフェアを開催させてもらえたりするようになりました。

いか文庫の活動

グッズを作ったり本をテーマにイベントをしたりと、ユニークで幅広い「いか文庫」の活動

いまは私を中心に5人で活動をしていて、不定期で本にまつわる記事を書いたり、コミュニティラジオに出演したり、テレビ番組でおすすめの漫画を紹介したりしているんですが、いまとなっては自分のライフワークというか、人格のようになっていますね。

独立系書店には8年間勤めて最後は店長もしていたんですが、少しだけ自分の仕事に行き詰まりを感じてしまって……。2020年にいまのお店に移った際には、社員さんのひとりが「いか文庫」のファンでいてくださって、いか文庫の活動もやめずにぜひ続けていてほしい、と言ってくれたのが転職の大きな決め手になりました。

本業に加えて個人でも本にまつわる活動をしていたことが、次の仕事への足がかりになったんですね。お話をお聞きしていると、粕川さんは周囲の人たちの言葉やアイデアをきっかけに進む道を決められていることが多いのかなと感じます。

粕川:そうですね。いか文庫の成り立ちからもわかるように、人から「あなたにはこういうことができるよね」と言ってもらうことで初めてそれを自覚し、チャレンジしてみるというケースが多いです。人からきっかけをもらうことで「自分にはこういうこともできるのかも」と言語化し、それを少しずつ積み上げて自信とスキルにしてきたような気がしますね。

自己肯定感は低いけれど、「自分はこういう人間だ」と決めつけていない分、言ってもらえたことを素直に飲み込めるのかもしれません

逆に、周りの人の意見を取り入れることで、自分自身の仕事選びの軸がぶれてしまったり、スキルがしっかり積み上がらなかったり……というデメリットはありませんか?

粕川:業種や勤務形態にかかわらず、それまでの仕事を通じて身に付けたスキルは毎回生かせているんじゃないかと思います。最初の転職の際には社会人経験や人をまとめる力が生きましたし、次の転職ではPOPを書く技術が生きましたし、いまのお店の方には「いか文庫」の活動や前職での経験を評価してもらえましたし……。

毎回、まったく違う新しい環境を選んではきたのですが、ひとつの仕事の経験とその付加価値みたいなものは、きちんと次の仕事につながっているという意識がありますね

「この仕事はこういうもの」と決めつけずにやってみる

やりたいことがあってキャリアチェンジを検討していても、未経験の業種に飛び込むことに不安を感じたり、現在の収入が安定しているといった理由から、「いまのままのほうが安泰なのでは」と断念する人は多いように思います。異業種や経験の少ない業界への転職を考えている方に、粕川さんからアドバイスがあればぜひお聞きしたいです。

粕川:私は気づいたら40歳を越えていたので、仮にいまからそういった冒険的なキャリアチェンジができるかと聞かれたら、体力的に少し厳しいかもと答えるかもしれません。でも、やりたいことにチャレンジしてみるのは正解でも、間違いでもないはずです。

私個人としては、30代のアルバイト時代がいままでの人生で一番楽しかったんです。アルバイトを含むキャリアの中で「私、何やってるんだろう……」と思ったこともありましたし、周囲から、私の働き方に対して否定的な言葉をかけられることもあったのですが、それでも私はいい経験をしてきたな、と感じています。

体力・金銭的には厳しいときもありましたが、本の仕事だけでなくコンビニ勤務や日雇いのバイトなどいろんな仕事をやってみたことで、世の中にはこんなに多様な仕事があるんだと知れたのは大切な経験でした。

体力やお金に対する許容度や考え方は人それぞれだと思いますが、「やってみたい!」と思う気持ちで飛び込んでみたら、新しい世界が見えてきそうですね。

粕川:最近は20代でもすごく堅実な方が多いので、「粕川さん、私もう25ですよ」とか言われることもありますが、「悪いけど、30代がいちばん楽しいから!」っていつも返してます(笑)。

それまでの仕事の経験も生かせますし、20、30代であれば体力もまだあると思うし、仮に正社員としての勤務経験があるなら少しだけお金にも余裕のある時期かもしれない。なので、チャレンジしてみてもいいんじゃない? って思います。

1社に長く勤めたりひとつの業種での経験が長くなったりしてくると、「自分の居場所はここにしかないのかも」と感じてしまう人は多そうですが、粕川さんはとても軽やかに新しい仕事を選ばれていますよね。

粕川:そうですね。私の場合はわりと、新しい環境に飛び込んでみたときに、そこならではのおもしろさを発見していくタイプというのもあるかもしれないです。

いま勤務している大型書店と前職の独立系書店では、同じ書店でも本の売り方はまったく違います。私は現時点ではそれをとても刺激的に感じているのですが、抱いていたイメージと違ったり、もっと他のビジネスがしたいという思いから辞めていく方もいらっしゃいます。

確かに、好きなことを仕事にするとなるとなおさら、「思っていたのと違う」と感じてしまうこともありそうです。粕川さんは、ご自分に合った環境を選ぶのがとても上手な印象があるのですが、それを見極めるコツって何かありますか?

粕川:ちょっとずるいんですが、「私のこと好きでしょ」と感じている場所や人のところにしかアクセスしない、というのはあるかもしれません(笑)。自分のスキルや姿勢を認めてくれている人、関心を持ってくれている人に寄り添って居場所を選んでいるので、マイナスのギャップを感じることが少ないのかもしれないですね。

もちろん、自分に合わないと感じたら次のキャリアを選択することも大切だと思うのですが、まずは「この仕事はこういうもの」と決めつけずにやってみるのもいいんじゃないかな、と思います。

取材・文:生湯葉シホ
編集:はてな編集部

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お話を伺った方:粕川ゆき(かすかわ・ゆき)さん

粕川ゆきさんのプロフィール写真

1978年山形県生まれ。大学卒業後スポーツメーカー勤務を経て、学生時代から通っていた書籍と雑貨の複合店に転職。その後、自ら立ち上げた、お店も商品もないエア本屋「いか文庫」の活動も行いながら、都内独立系書店の店長となり、2020年4月から二子玉川 蔦屋家電にBOOK担当として在籍中。

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最近、他人との間に“壁”を感じるあなたへ。社会学者に聞く「コスパを意識しない人間関係」のあり方

石田光規さん記事トップ写真

リモートワーク・テレワークの導入や飲み会文化の変化などにより、最近は同じ会社で働く同僚とも、特別な機会がない限り交流の機会は少なくなりがちです。このことは、無理な人間関係の解消にもつながり、これまで歓迎すべき事柄として語られることも多かったように思います。

他方で、こうした人間関係の変化に対し、「さみしさ」や「孤立感」を覚える人も少なくないはずです。また、転職や部署異動などで新たな人間関係が生まれる場面において、以前のように他人と「信頼関係」が築けず、モヤモヤした思いを抱えている人も多いのではないでしょうか。

社会学者の石田光規さんは、個人の選択が尊重される現代社会は一見「自由」で生きやすそうに思えるけれど、孤立や人間関係の格差を招いてしまう側面も持ち合わせている、と語ります。

人と顔を合わせる機会が少なくなった今、私たちが再び人間関係を築いていくためにはどのような姿勢が求められるのか、お話を伺いました。

他人と「信頼関係」が築きにくくなった理由

石田先生はご著書などで、「個の尊重」や「多様性」という言葉が注目を集める現代社会では、人間関係が不安定化すると指摘されています。改めて、この「不安定化」の状況と、その背景をご説明いただけますか。

石田光規さん(以下、石田) もともと日本は「ムラ社会」と呼ばれるように、さまざまな集団を中心に社会の仕組みがつくられていました。古くは地域、その後は家庭や企業など、生活の維持のためにはそうした集団のルールに従う必要があったわけです。

しかし、1990年代ごろから日本でも「個人化」が進みます。高度経済成長を経て、物質的に豊かになったことに加えて、「個性」や「多様性」を尊重すべきといった個人主義的な価値観が徐々に浸透してきたからです。それにより、人々はこれまでのように集団に縛られず、ある意味で「自由」にライフスタイルを選択できるようになりました。

近代化が進んだ結果、「個」が尊重されるようになったわけですね。

石田 そうです。旧来的なしがらみから解放され、個人の意志が尊重される、ある程度「自由」な社会になったのは間違いありません。

ただ、個人の選択が尊重される社会では、人間関係すらも個人の選択に委ねられる部分が大きくなります。それは、かつては半ば強制的に組み込まれていた人間関係から退くことができるようになった反面、積極的に人間関係の維持を行わなければ自分が切り捨てられてしまうかもしれないという不安にもつながります。

大学のゼミ生に話を聞くと、本当は相手に意見したいと思うことがあっても、関係が壊れるのが怖くて口出ししない、という学生はとても多いです。「相手に文句を言わない」「人を批判しない」という傾向は若い方だけでなく、だんだん上の世代にも浸透してきている感覚がありますね。

石田光規さんインタビュー写真1

以前と比べて自由に人間関係を選べるようになった結果、相手に「選んでもらう」ために慎重にコミュニケーションする必要が出てきたということですか。

石田 はい。これには「個人を尊重する」という考え方が日本にとってはある意味で輸入品であることも関係していると思います。

ヨーロッパの国々のように、市民が政府や権力者と戦うことで主体的に個人を尊重する社会を作っていった国々とは異なり、日本はもともと集団的な価値観の強い社会を築いてきました。それが戦後、西洋の影響を受け、「どうやらもっと個人を尊重しなきゃいけないようだ」という感覚のもと、個人の尊重という概念を取り入れていったわけです。その結果、取り入れ方が若干いびつになってしまった。

本来であれば、個人を尊重するというのは、AさんとBさんがいたら双方が自分の意見を口にし、それぞれの意見を戦わせることでよりよい社会を作っていこうという考え方だと思うんです。けれど日本では、違った意見を持つ人がいるのであればそれを“尊重”し、必要以上に相手に立ち入らないことが良しとされる部分があります

確かに異なる意見を持つ人同士が議論する機会はあまり多くありませんよね。しかも、最近ではSNSなどで頻繁に炎上を目にするので、なおさら「下手ことは言えない」という態度を取る人が増えているように思います。

石田 そこで重宝されるのが「人それぞれ」という言葉です。たとえ相手と異なる意見を持っていたとしても、「人それぞれだからね」と口にすれば対立のリスクを回避しながら、その場をやり過ごすことができる。とても便利な言葉ですよね。

ただ、この言葉を発することは、それ以上踏み込んだ議論やコミュニケーションを止めてしまうことでもあるので、他人に立ち入ることが難しくなります。そうなると、孤独感や他人と信頼関係を築く難しさにもつながっていくわけです。

「ひとりでいい」と思っていても、さみしさを抱えることはある

先ほど「人間関係も個人の選択に委ねられるようになってきた」というお話がありましたが、そうなると、「人から選ばれやすい人」と「そうでない人」という格差も生まれてしまいそうですね。

石田 おっしゃる通りです。これが例えば所得の格差であれば、累進課税のようなしくみを設けることで不平等さをある程度解消することができます。人間関係の場合はそれができませんから、いちど格差が生まれると、なかなか修正の利きようのない構造になってしまうんです。

難しいのが、人間関係がうまくいっている人ほど、つながりの少ない人に対して「それは人とコミュニケーションをとる努力をしていないからだ」と厳しい目を向けがちなんですよね。つながる機会はたくさんあり、自分で「選択」できるのだからその努力をしないのが悪い、という“努力幻想”に基づいた自己責任論にすぐに回収されてしまう。

けれど、それは裏を返せば、今は人間関係に困っていない人も、そうした努力をやめた途端に関係から滑り落ちてしまうリスクを持っているということでもあります。

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なるほど……。ただ、そうした関係性に四苦八苦するぐらいなら、つながり自体が煩わしいといった人もいるかと思います。少し前には「友達なんていらない」といった言葉を耳にする機会も多かったのですが、こうした意見については、どのように思いますか。

石田 極端な話、行政や住宅企業が「ひとりで生活したい人はどうぞ自由に暮らしてください、その代わり孤独死を防ぐため、部屋に設置したセンサーに1日1回は触れて生きていることを報告してください」という選択肢を用意するという手もありますよね。大学生に尋ねても、それでいいんじゃないですかと言う人は一定数います。

ただ一方で、そういう人でもさみしさを抱えることはあるということを忘れてはいけないと思います。人間関係で気を使うのが煩わしいから友達なんていらない、という人でも、時間がたつとひとりがさみしいと感じ、結局また人間関係の中に入っていこうとするケースはよくあります。友達やパートナーはいらない、センサーで連絡する生活でもいい、と言っていた人が、その後一生つながりがいらないと思い続けられるかというと、多くの場合そんなことはない。

確かに、「ずっとひとりでいい」という選択をとり続けることのできる人はかなり限られてきそうです。自分自身を振り返っても、しばらくひとりで生活していると「誰かといたい」と思う気が……。

石田 人には一般的に、決定したことに対して「でもやっぱりこっちの方がいいかも」という揺らぎの感覚があるものなんですよね。それをないものとしてしまうと、「あなたがいちど選んだのだから、自分の選択には責任を持ってください」ということになってしまう。だから、仮に一時は「友達なんていらない」と思ったとしても、ずっとその意志を貫けるわけではなく、変化していく部分も大いにあるということは、本人も社会も念頭に置かなければいけないと思います。

コスパを意識せず、「その場にいてみる」ことが関係を育む

近年では、「相手に立ち入らない」傾向が強まっていることに加え、コロナ禍でリモートワークなどの自由な働き方が増えてきたこともあり、職場の人と信頼関係を築くのが難しくなってきているのを感じます。とりわけ転職や部署異動など、新たな出会いが生じる場面でどのように人間関係を築いていけばいいのか、悩んでいる人は多いのではないでしょうか。

石田 そうですよね。従来であれば、あまり親しくない人でも職場で一緒にいるうちになんとなく距離が縮まり、しだいに仲良くなって食事に行く、というような流れもありましたが、コロナ禍は決定的にそれを難しくしてしまいました。

人を食事に誘うこと自体を非常識と捉える人もいますから、そのリスクを回避するために近い関係の人だけに声をかけていくと、なかなか人間関係が広がらない。しかも、オンラインのコミュニケーションの浸透により、みんなが一斉に「対面で会うほどの価値があるかどうか」を選別するようになってきましたから、関係を深めるのが本当に難しい。

もちろんオンラインにもさまざまなメリットはありますが、新たな関係を築いていく上では、ある程度顔を合わせて同じ空間にいるということは重要だと私自身は思っています。身体を一緒に共有することで相手がどういう人なのかが徐々に見えてくるという側面はありますから、そういった機会を完全になくしてしまうのはあまりよくないんじゃないかと思いますね。

オンラインのコミュニケーションが中心で、あまり対面で顔を合わせたことがない人だと、ちょっと雑談をしたりお茶に誘ったりするのも失礼かなと悩みがちです。そういった人と新たに関係を築いていくためには、どのような姿勢でいればよいのでしょうか。

石田 自分から人を誘って何かをするって、意外と大変なことですよね。そうではなく、会うきっかけになるようなしくみが、社会や組織の側にある程度保障されているのが望ましいんですが。

……そういう意味では、いまはコロナの時勢柄なかなか難しいですが、職場単位の定期的な懇親会というのは意外と重要だったのかもしれないと思うんです。人間関係への意識や感度が高まり、個人的に相手を誘うということもしづらくなってきているけれど、職場単位の懇親会では「半年に一度なので、できるだけ皆さん参加してくださいね」というお膳立てがされている。

それをきっかけに親しい人ができたり、周囲の人たちの距離感が分かったりすることもあるので、そういうものがときどきはあった方が、関係が移行していく可能性はあるのかもしれないですよね。

会社単位の懇親会、苦手な人も多いと思うのですが、人を誘うというある種リスクにもなることを「会社のせい」にできるのは、メリットだったかもしれないですね……。

石田 そうなんですよね(笑)。それに、「自分から人を誘うのは苦手だけれど、懇親会があるなら出ようかな」というタイプの人もいると思うんですよ。

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社会や組織がある程度そういったしくみを作ってくれるのが望ましい、というのはおっしゃる通りだと感じます。個人がアプローチできることとしては、どんなことがあるでしょうか?

石田 心構えとしては、なるべくコスパを意識せずにひとまずその場にいてみる、足を運んでみるということが大事じゃないかなと思います。いま、コスパのよさで体験の価値を測る人が増え、不安定なものや不確実なものに対する社会の耐性が下がっていると思うのですが、何がコストで何がパフォーマンスかというのは、実は短期的な視点ではなかなか見えてこないものなんですよね。

そのときにはコストだと思っていたものが、10年後に振り返ってみると自分にとって必要な経験だったなんていうのは人生では本当によくあることなので、即効性のあるものでなければ切り捨てるという考え方は、中長期的に考えればすごくもったいないかもしれない、という視点を持つのが大切だと思います。

確かに、これまでは「気が乗らなかったけれど、参加してみたら意外と楽しかった」という機会がときどきあったのを思い出しました。

石田 人の意外な面や考え方を発見する機会って、案外目的から外れたところにこそあったりするんですよね。結果がある程度予測されている場所にしか行かなくなってしまうと、予測された結果しか得られなくなってしまう。

とはいえ、関係が築けるのは確かにいいことなのですが、あまり無理をし過ぎないのも大事かなと個人的には思います。人と関係を築かなくてはいけないと意識しすぎると、それが義務になってかえってつらくなることもあると思うので、結果的に関係が確立できればラッキー、くらいの心持ちでいた方がいいかもしれませんね。とりあえずその場にいてみる、ということがまずは大事なのではないかと思います。

「友達」ではなく、「知り合い」と捉えてみる

新しい人間関係はもちろん、たとえ古くからの関係であっても「人を頼る」こと自体に強い苦手意識を感じている人も多いように思います。職場や友人関係などで、周囲の人々にある程度気軽に頼みごとやお願いなどをできるようになるためには、どんな心構えでいればいいんでしょうか。

石田 人に対する期待値みたいなものを、もうすこし下げてみることが大事なんじゃないかと思うんです。例えば「ちょっと頼らせてほしい」と声をあげたとして、それを相手に拒否されたらショックを受けてしまうかもしれないけれど、それならそれで別の人に聞いてみるか、くらいの構えでいた方が気楽だと思います。特定の人ばかりを絶対視し過ぎてしまうと、相手に対する期待が上がる分、余計に頼りづらくなってしまうんじゃないでしょうか。

なるほど……。言われてみると、「この人なら応えてくれるはず」と自分のほうが身構えてしまって、声をかけづらくなることってありますね。

石田 ですから、私は「友達」という言葉を使わないんです。誰に対しても「知り合い」って言うようにしているんですね。言い方は難しいのですが、友達という言葉を使うと「友達らしく振る舞わなきゃ」というプレッシャーを感じてしまうので、全員知り合いとして捉えておく。

いまって、ちょっと困ったときに頼れる人というだけで、ものすごく仲のいい相手を思い浮かべる人が多いのかなと思うんです。かつての婚姻関係のような盤石なつながりが揺らいできている現代では、強いつながりを友情に求めがちになる。

でも本来は、「会社ですごく仲の良かった人が転職して疎遠になってしまった」とか、「昔はしょっちゅう泊まりに行った友達だけど、最近は会ってない」なんていうのはごく自然なことなんですよ。そうやって人間関係は移動していくものですから、その中で強くなるときもあれば弱くなるときもある、と捉えていた方が気楽じゃないかなと思います。

だから、ある関係を「なんでも言い合える関係」にしていこうと躍起になるよりも、そこにこだわらずにやっていく方がいいのかもしれないですね。

ではむしろ、頼る相手は誰でもよくて、軽い気持ちで周囲の人にコミュニケーションをとってみる癖をつけよう、と考えた方がいいのでしょうか?

石田 そう思いますね。軽い気持ちで人を頼ったり意見を言ったりした結果、疎遠になってしまうこともあるかもしれないけれど、逆にそのことがきっかけで仲が深まることもある。

これは「友達なんていらない、誰との仲も深めなくていい」ということではないんですよね。特定の人間関係に対する重みを取り、とりあえず同じ場にいてみたり、とりあえず頼ってみたりすることが、結果的にさまざまな他者に対する回路を開くことにつながっているんじゃないかと私自身は考えています。

インタビュー写真3

取材・文:生湯葉シホ
編集:はてな編集部

他人との向き合い方に悩んだら

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お話を伺った方:石田光規(いしだ・みつのり)さん

石田光規さんのプロフィール写真

1973年生まれ。早稲田大学文学学術院教授。主な著書に『孤立の社会学――無縁社会の処方箋』(勁草書房, 2011年)、『つながりづくりの隘路――地域社会は再生するのか』(勁草書房, 2015年)、『郊外社会の分断と再編――つくられたまち・多摩ニュータウンのその後』(編著, 晃洋書房, 2018年)、『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(筑摩書房, 2022年)、『「友だち」から自由になる』(光文社, 2022年)など。

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吉田恵里香(脚本家)インタビュー 「意見が違う相手」はまず受け入れ、折衷案を探す

無理のない範囲で、対話を諦めない。脚本家・吉田恵里香さんに聞く、「自分と異なる考え方」を持つ相手への接し方

さまざまな考え方の、さまざまな立場の人が集まって働く会社という場。ふとした瞬間に、同僚や上司とのズレを感じたり、考え方の違いにモヤモヤしたり。会社だけでなく、家族や友人という身近な存在に対しても感じたことがあるかもしれません。その場ではやり過ごしても、なんとなくモヤモヤしたものを引きずってしまう……なんてことも。

ドラマ『恋せぬふたり』『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(チェリまほ)』などの脚本を手掛けた吉田恵里香さんは、意見が違う相手に対して「まずは受け入れて、折衷案を探していく」というスタンスで接するそう。作品づくりにもそうした姿勢が表れているように思います。

自分とは異なる考えや立場を否定せず、コミュニケーションを取っていくあり方について、お話を伺いました。

※取材はリモートで実施しました

いろんな人がいることを作品では書きたい

吉田さんが脚本を手がけた『恋せぬふたり』では、それまでの恋愛ドラマでは描かれてこなかったアロマンティック・アセクシュアル*1の方々を主人公に執筆されていました。考証の方と丁寧に議論しながらキャラクターを固めていったとも聞きましたが、どのように脚本づくりを進めていったのでしょうか。

―――恋愛しないと幸せじゃないの? 人を好きになったことが無い、なぜキスをするのか分からない、恋愛もセックスも分からずとまどってきた女性に訪れた、恋愛もセックスもしたくない男性との出会い。 恋人でも…夫婦でも…家族でもない? アロマンティック・アセクシュアルの2人が始めた同居生活は、両親、上司、元カレ、ご近所さんたちに波紋を広げていく…。

恋せぬふたりより

吉田恵里香さん(以下、吉田) もともとアロマンティック・アセクシュアル(アロマアセク)の主人公が登場するということは決まっていたので、脚本を書くことになったとき、「嘘がないように」ということは大事にしました。

アロマンティック・アセクシュアルの中にもいろんな方がいるだろうから、当事者の方に、「自分とはまた違う部分もあるけど、こういう人も確かにいるよね」と感じてもらえるリアリティラインを実現させたいと思い、監修の方とかなり丁寧にやり取りしましたね。

特に、主人公である兒玉咲子(岸井ゆきの)のキャラクターのバランスは考えました。彼女は、明るくて空気が読めないところがあるのですが、その特徴が「アロマンティック・アセクシュアルと直接結びつくものではない」ということが、どうしたら伝わるかといった話し合いもかなりしました。

吉田恵里香さん

吉田恵里香さん

もう一人の主人公、咲子が同居することになる高橋羽(高橋一生)という役に対してはいかがでしょうか。

吉田 高橋は、人と物理的に接触することへの嫌悪があるキャラクターなんですけど、それを描くことで、「アロマンティック・アセクシュアルの方=潔癖症である」と見えてしまうのは違うと思って。

そこで監督や監修の方と話し合って、座る位置など、絶妙な距離感で彼が接触に嫌悪があるということを表現することになりました。セリフで説明し過ぎたり、あまりにもはっきり描くと、一括りにされてしまう恐れがあると思ったからです。

けれど、実際に接触が苦手というアロマンティック・アセクシュアルの方もいるので、監修の方とやり取りを重ね、ベストな道を選べたら、と思いながら書きました。

『恋せぬふたり』小説版

『恋せぬふたり』小説版。こちらも吉田さんによる完全書き下ろし (C)NHK出版

『恋せぬふたり』には、主人公の2人以外にもさまざまなキャラクターが登場します。恋愛に興味がない主人公たちと、「恋愛するのが当たり前」という考えを持つキャラクター(咲子の同僚であるカズくんや、咲子の家族)との衝突や、そこから互いに歩み寄ろうと努力する様子も描かれていました。こうした周囲のキャラクターとのシーンについて、どんな描写をしようと心がけていましたか。

吉田 まずは、アロマンティック・アセクシュアルのふたりを中心に描くので、恋愛をしたりセックスをしたりする選択も悪いことであるように見えてしまわないようにしたいと思いました。また、ふたりを取り囲む登場人物たちは、ただ知らないから理解がまだ及んでいないだけということを描きたかったので、徐々に知ることで成長していく役として作っていきました。

それと、咲子の親友が、シスヘテロ*2ではないということを描いたり、この作品の中には、いろんな人がいるということは書きたいなと思いました。

実際の私たちの社会でも、例えば、いつも行っているパン屋さんやマンションのお隣さんがシスヘテロとは限らない。当たり前のことなんですけど、シスヘテロと勝手に想定して接しているかもしれない、ということを描けたらいいなと。アロマアセクの方が集まる交流会のシーンで、アロマンティック・アセクシュアルのいろんな人が登場することで、まだ身近に感じていない人にも、知ってもらえるようにということは気を付けました。

放送後にさまざまな意見が見られたと思います。それについては、どのように受け止めましたか?

吉田 執筆時の私のベストを尽くしたとは思っています。ですが執筆時から100点満点はとれない作品とは分かっていて。むしろ、もう少し考える必要があるねってことが分かったり、そこから話が膨らんでいけばいいなと思っていました。

こちらの意図したこととは違う受け取り方をする方の意見を見ることで、納得するところもありました。普段はエゴサーチをやっているとつらくなるから見ないようにしているんですけど、今回はNHKの掲示板の意見なども読んで、更に勉強させてもらった感じでした。

自分自身も考えやスタンスは常に変わる

ドラマ版『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(チェリまほ)』は、誰の存在もどんな考え方も否定しない"優しい世界"と表現されることが多かったと思います。さきほども、少しお聞きしましたが、その根底には吉田さんの考えや価値観も反映されているのでしょうか。

童貞のまま30歳を迎えた安達清(赤楚衛二)は、“触れた人の心が読める魔法”を手に入れる。そんな無駄な力を持て余していたが、社内随一のイケメンで営業部エースの同期・黒沢優一(町田啓太)の心を読むと、自分への恋心が聞こえてきてしまう。思いも寄らない好意に安達は困惑する。

ドラマ『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』

吉田 当時は、極力、誰も傷つかない、優しい世界を目指しました。ただ、それは私が「こうしたい」と相談したことを、原作の豊田悠先生がOKしてくださったのが一番大きいです。

今は、ドラマの黒沢優一(主人公・安達清に思いを寄せるキャラクター)は、ちょっと優等生になり過ぎたかもと思うことはあります。もちろん、優等生だからこそ抱えている苦悩もありますが、原作の黒沢はもっと自分の欲望に素直で。ドラマ版ではその要素が少なくなってしまったので、「優等生しか優しい世界に住んではいけないのか?」という視線を持たれた方もいたのかもしれません。

でも今の私は、優等生だけでなく、かっこ悪いところやダメなところがある人にも「優しい世界」が訪れるといいなと考えが変わってきたかもしれないです。

そこは、『恋せぬふたり』の方に生かされている感じがしますね。

吉田 『恋せぬふたり』の登場人物に関しては、主人公の咲子にしても高橋にしても、ちゃんとダメなところのある人にしようと思いました。

咲子は距離感が掴めないところがあったり、「自分が平気なら他人も平気」と思っているところがあったりします。

高橋は、人の欠点を見過ごせない感じがあるというところを意識して書きました。今は、以前書いていた「優しい世界」から、更にどのように派生した世界が描けるかなってことを考えています。

物語でどんなことを描くべきか、日々変化しているのは感じますね。それは「見ている」側の理解も変わってきていることもあるように思います。吉田さんは以前、「息苦しさや生きにくさを感じている誰かに寄り添える作品」を描くようにしていると言われていましたが、それは変わらない部分でしょうか。

吉田 根本的にそこは昔も今も変わってないです。今の作品って、気づくとマジョリティ側の人しか出てこないことってありますよね。

外国から来日した人もたくさん住んでいるのに日本人しか出ていなかったり、障がいを持った人が出ていなかったり。気を抜くと、「恋愛を知ってハッピーになった女性のドラマ」ばかりになってしまうと思うんですね。

ドラマを作る人たちはマジョリティの人が多いし、「マジョリティ以外の人はいない」と思いこんでいることが関係しているのかもしれません。私は「マジョリティばかりが出ているもの」“ではない”ものを作りたいと言い続けていきたいと思っています。

自分がやってみたいと思っていたことがテーマになった依頼を初めて受けたのは『恋せぬふたり』でしたが、それまでも依頼された作品の中に、例えば「1つのセクシュアリティだけを描かない」とか、「テンプレートな女性像を描かない」とか、自分の考えていることを取り入れてきました。

そう考えるようになった経緯やきっかけはあるのでしょうか。

吉田 以前は、「“多様な生き方があると認識できない人”には(作品が)届かないでいいや」と思っているところもあったのですが、今現在の私は、むしろ届きにくい人にこそ届かないと、世の中の認識は変わらないんじゃないかと思っています。

広く届くためには、間口の広さをもっと考えた方がいいのかなって思うこともあります。「この言葉だと強く感じるから避けたいと思う人もいるかな?」とか「この段階ではもっとキャッチーな表現にした方がいいかな?」とか、Twitterなどでの表現も含めて、言葉選びにはすごく悩みますね。

多くの人に届けるためにはどうすればいいんだろうというのも考えてしまいます。例えば、SNSでもフォロワーさんが増えた方が作品も届きやすいし、仕事を頼んでくれる人も増えるけれど、同時にSNSで自由にいることは難しいとも思うんです。

自分の名前で興味を持って見てもらえるような脚本家になりたいという気持ちを持ちながらも、「透明でいたい」とか「声が大きくなり過ぎないでいたい」という思いも少し出てきてしまっていて。

不特定多数の人がいるSNSだと、昨今は特に対話する以前のところで止まってしまうこともありますしね。受け取り方、解釈の仕方の違うたくさんの人がいる中で、素朴な感想なども含めて自由に発言する難しさを感じます。

吉田 元来は「『マッドマックス』が好き!」とかそういうこともTwitterに書いていたんですが、いろんなことを考えると告知しかできなくなってしまっていたんです。

でも、最近、作家の桜庭一樹さんと『すばる』という文芸誌の「変化する価値観と物語の強度」という連載企画で対談をさせてもらったんですけど、桜庭さんはTwitterでどんどん発言されているんですよね。それを見て、私も責任を持って発言していかないといけないなと思いました。

コミュニケーションでは、相手によって伝え方を変える

今のお話はSNS上でのコミュニケーションの難しさだと思うんですけど、例えば、社会人として、組織との関わりの中で働いていたり、普段の生活の中で、すぐには分かり合えない人と出会ってしまったときの接し方ってどうすればいいと思われますか?

吉田 私の場合は人によって違ってきますね。自分より偉い、権力を持っている人が差別的なことを言ったら、遠慮せずに「それは差別です」と指摘します。もし冗談を交えて何か言って来たら「面白くないからやめた方がいいと思いますよ」と言うと思います。

目上の方から、無意識の上で差別的な発言を含んだメールが届いて、それに対して時間をかけて返信を考えているときに「こんなことに時間を使いたくない!」と思う気持ちもあるんですよ。でも人と関わることをやめたらそこで終わりかなと。無理しない範囲で対話していきたいと思っています。

自分より立場が下だったり、単に知らなくて差別的なことを言ってしまった人であれば、「それで傷つく人はいるんだよ」と伝える感じになるかもしれません。

というのも、私自身がキャリアを積んで、もはや「若手」ではなくなっている面もあって。自分より立場が下の人に、率直に思ったことを言うと、怖いと思う人もいると思うんですね。

自分としては、「まだまだ新米」という気持ちがあるんですけど、30歳を過ぎたあたりからは、何か年下の人に指摘をすると「すみません」と恐縮されるようになってしまって。年齢を重ねること、キャリアを積むことで、受け取られ方が違うと感じているので、自ずとコミュニケーションや伝え方も考えてしまいます。

特に、今のようなリモート環境下だと「さっきは言い過ぎてごめんね」とフォローしにくいですよね。わざわざLINEした方がいいかな? とか悩む場面もありますが、私だったら言われたいと思うので、自分も連絡するようにしています。

差別のように絶対に許されない話ではないところでの、相互に違った価値観や違った意見が出たときには、どう向き合っていったらいいと思われますか?

吉田 距離感が近くない人であれば、この人はこういう意見の持ち主なんだなと受け入れて、その上でお互いの折衷案を探そうよと提案すると思います

身近な人や家族のように、距離が近い人であれば、私の場合、夫にはけっこう率直に言ってしまいますね。

でも、全ての人に対して言えるのは、一個一個、扉を開いていくことかなと思います。それと同時に、20代くらいまでは、人に好かれたいと思っていたけど、今はそれがそこまで強くなくなったことで、楽になった部分もあります。

そういうコミュニケーションの中で、思ったことをすぐに口にできない人もいると思います。家に帰って、「なぜあそこでちゃんと自分の思ったことを言えなかったんだろう」って思ったり。

吉田 私も瞬発力がない方だと思いますが、職業的には、その時に傷ついたことや言えなかったことを、別の場所で生かすようにしていたりしています。

それに、瞬発的に何かを言い返すことができる人がいたとして、それが必ずしも正しいということでもないと思うので。

そのときに、未完成の言葉で言い返すことができても、それが何か瞬発的なだけのものであれば、自分も相手も傷つくだけかもしれないし。そのときのことを後でかみ砕いて、次に生かしたり、また同じことに出くわしたときに言う、ということでもいいんじゃないかと思います。

取材・文:西森路代 はてな編集部
編集:はてな編集部

人との関わり方に悩んだら

価値観の違う人は「敵」じゃない。文学者・荒井裕樹さんと「言葉」から他人との向き合い方を考える
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他人を自分の物差しで決めつけない。一穂ミチに聞く「答えを出さない」人間関係の築き方
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『流浪の月』凪良ゆうさんに聞く、受け入れられない「善意」との向き合い方
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人間関係は基本面倒。だからこそ「他人」ではなく「自分」軸で考えてみる|文・深爪
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「これは若手の仕事だから」にモヤッとしていい。職場に飛び交う“ずるい言葉”への対処法
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お話を伺った方:吉田恵里香さん

吉田恵里香さん

脚本家。1987年生まれ。 2022年、テレビドラマ『恋せぬふたり』(NHK)で第40回向田邦子賞を受賞。 代表作に映画『ヒロイン失格』、『ホリック xxxHOLiC』、ドラマ『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』、『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』、『君の花になる』などがある。小説『脳漿炸裂ガール』シリーズは累計発行部数75万部を突破するなど、映画、テレビドラマ、アニメ、舞台、小説等、ジャンルを問わず多岐にわたる執筆活動を展開している。好きな食べ物はウニと万能ねぎ。
Twitter:吉田恵里香
Instagram:吉田恵里香
公式:吉田恵里香

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*1:「アロマンティックとは、恋愛的指向の一つで他者に恋愛感情を抱かないこと。アセクシュアルとは、性的指向の一つで他者に性的に惹かれないこと。どちらの面でも他者に惹かれない人を、アロマンティック・アセクシュアルと呼ぶ。」NHK『恋せぬふたり』( https://www.nhk.jp/p/ts/VWNP71QQPV/)より

*2:シスジェンダーとヘテロセクシュアルをあわせた言葉。シスジェンダーは性自認と生まれた時に割り当てられた性別が一致している人、ヘテロセクシュアルは異性愛者で、性的指向が異性に向いている人。

離婚するほどじゃないけど、モヤモヤする……。そんな気持ちを言語化してパートナーへ伝えるコツ

ふっくらさん、サミ太郎さん夫妻イメージ画像

パートナーと一緒に暮らす中で募っていくモヤモヤ。ひとつひとつは小さくても、胸の中で次第に膨れ上がっていき、あるとき爆発して大喧嘩に発展……なんて経験のある人も少なくないかもしれません。プライベートの空間ですれ違いが発生すると、日々に余裕がなくなり、仕事などオンの場に悪影響を与えてしまうことも。

『夫婦でつくるメンタル安全基地 〜「離婚するほどじゃないけどなんかモヤモヤするッ」を減らして持続可能な夫婦になる〜』(講談社)の著書ふっくらボリサットさんは、そんな“モヤモヤ“が爆発したことをきっかけに「自分の気持ちを言語化してきちんと相手に伝える」ことを意識するように。今では夫のサミ太郎さんと定期的な「夫婦ミーティング」の場を設け、心理的安全性の高い状態で話し合いができるようになったといいます。

小さな不満を溜め込まずに伝えた上で、良好な関係性を維持できている理由とは? ふっくらボリサットさんと、夫のサミ太郎さんにお話しを伺いました。

※取材はリモートで実施しました

小さいモヤモヤも、ため続けるといつか爆発する

お二人は今では周りから「こんなに仲良しな夫婦は見たことがない」と言われるそうですが、『夫婦でつくるメンタル安全基地』では、もともとコミュニケーションのスタイルにかなりズレがあったと描かれていますね。

(C)ふっくらボリサット/講談社

夫婦が、お互いを人生の最大の味方=“安全基地”とできるようなパートナーシップを築くための、実用的エッセイ漫画。夫婦間で定期的に考えていることを共有し合う「夫婦ミーティング」など、ふっくらボリサットさん&サミ太郎さん夫婦が試行錯誤のすえ編み出した、今よりもっとパートナーと仲良くなるヒントが満載。

試し読み

ふっくらボリサットさん(以下、ふっくら) 私と夫はまったく性格が違うんです。例えば、私はどんなに小さいことでも2人で相談して決めたいタイプ。でも夫はスパッと物事を決断できるタイプなので、私が悶々と悩んでいる間に「あれ決めといたよ!」という感じで気がついたら解決していた、ということが多くて。

「相談してほしかったな」と悲しくなりながらも「わざわざ伝えなくても私が我慢すれば丸く収まるし」とモヤモヤを飲み込んでいました

『夫婦でつくるメンタル安全基地 〜「離婚するほどじゃないけどなんかモヤモヤするッ」を減らして持続可能な夫婦になる〜』より

(C)ふっくらボリサット/講談社

サミ太郎さんも、一人でモヤモヤを飲み込むことはあったのでしょうか?

サミ太郎さん(以下、サミ太郎) 僕は妻に対して不満はほぼなくて。「自分の気持ちを言葉にするのが苦手なタイプなんだな」と思ってはいましたが、それを迷惑に感じたこともありませんでした。

だから彼女がそんなモヤモヤを抱えていたということにまったく気付いていなくて、むしろ「僕たちはうまくやれてる」と思っていたんです。ただ、ある日妻がため込んできたモヤモヤが可視化される事件が起きて……。

著書の冒頭でも描かれていた、バンコクでのエピソードですよね。

『夫婦でつくるメンタル安全基地 〜「離婚するほどじゃないけどなんかモヤモヤするッ」を減らして持続可能な夫婦になる〜』より

二人がタイ・バンコクに越したばかりの頃。家のカギを持つサミ太郎さんが飲みに行ったまま連絡がとれなくなり、体調の悪いふっくらさんが家に入れなくなったことで怒りが爆発。
(C)ふっくらボリサット/講談社

ふっくら それまではモヤモヤすることがあっても「私にも否があったかも」と思ってストレートに感情をぶつけられませんでした。でも「さすがにこの件は私は悪くないんじゃない?」と。自分の怒りに自信を持って、初めて思っていることを全てサミ太郎に伝えました。

『夫婦でつくるメンタル安全基地 〜「離婚するほどじゃないけどなんかモヤモヤするッ」を減らして持続可能な夫婦になる〜』より

(C)ふっくらボリサット/講談社

サミ太郎 「別れも考えている」と言われたときは、正直焦りました。でも、ストレートに打ち明けてくれたから「自分が心地いいと思っていただけで、妻は違ったんだ。このギャップを埋めないとまずい」と自覚できたんです。

そう思えたのは、妻がただ「別れたい」だけではなく「関係を良くするために建設的な意見交換がしたい。それができないのであれば別れたい」と伝えてくれたのが大きかったと思います。だからこそ僕も感情的になることなく妻と向き合えました。

ふっくら もちろん、サミ太郎が一方的に悪いわけではなくて。モヤモヤしているのに我慢したり、なのに察してほしかったり……。ふたりの間に大きなギャップができてしまった原因は、私の態度にもあります。だから、サミ太郎が「ふたりで変わっていこう」と受け入れてくれたのは本当にうれしかったし、心強かったですね。

パートナーの姿を見て「気持ちを言葉にするのが恥ずかしい」を乗り越えられた

そこから「モヤモヤを我慢せずにちゃんと伝え合おう」という方向に進み始めたお二人ですが、二人で話し合う前の重要なステップとして「まずは自分の気持ちの解像度を上げて把握し、言語化する」ことを挙げられています。

『夫婦でつくるメンタル安全基地 〜「離婚するほどじゃないけどなんかモヤモヤするッ」を減らして持続可能な夫婦になる〜』より

「モーニングページ(毎朝ノート3ページ分、その時考えていることや頭に浮かんだことをそのままノートに書いていく手法)」や瞑想などで自分の気持ちを認識し言語化する訓練をしていったふっくらさん
(C)ふっくらボリサット/講談社

ふっくら 「自分の気持ちを言語化する」といっても、最初は愚痴っぽいことばかり口にしていたので、サミ太郎からは「それって意味あるの?」と言われることもありましたね。

サミ太郎 妻からは「うれしいことでも悲しいことでも、とりあえず最近あった出来事を話そう!」と言われていたんですが、僕は抵抗感があり、なかなかできなくて。素直な気持ちを打ち明けるのは恥ずかしいというか……。なんだかかっこ悪い気がしていたんですよね。

そこから、どのように考えが変わっていったのでしょうか。

サミ太郎 自分の気持ちを言語化して、思いを伝える努力をしている彼女の姿を見ていて「こういうやり方もあるんだな」と徐々に学んでいったというか。例えば愛情表現に関しても、別にほかの誰かが見ているわけじゃないし、「好き」だと思ったら相手にそう伝えてもいいんだなという意識に変わっていきました。OSが書き換わったような感覚です。

それから、気持ちを吐き出したあとの妻がすごく晴れやかな顔をしていることにも気付いて。「自分の内面を言語化して、お焚き上げする」みたいな感覚なのか! と発見があったんです。

『夫婦でつくるメンタル安全基地 〜「離婚するほどじゃないけどなんかモヤモヤするッ」を減らして持続可能な夫婦になる〜』より

(C)ふっくらボリサット/講談社

あとは、意識して自分の気持ちを言語化していくことで仕事に良い影響があったのも、「言語化っていいことがあるんだな」と感じる成功体験になりました。

どんな影響があったんでしょうか?

サミ太郎 例えば妻は「漫画を描きたい」という自分の気持ちを認識して言語化したことで、結果的に漫画の単行本まで出しちゃったんですよね(笑)お互いに「そもそも人生で何をしたいんだっけ?」を素直に話せるようになった結果、僕も仕事を変えるという選択に至りました。これは自分の中で大きなパラダイムシフトだったなと思います。

夫婦の関係改善以外にもメリットが見えるのはいいですね。ただ最初の頃のサミ太郎さんのように「自分の気持ちを言葉にして相手に伝える」ことにハードルの高さを感じる人は一定数いそうです。

ふっくら そうですよね。私たちの場合は、自分の言いたいことを「本」に代弁してもらうことも多かった気がします。

サミ太郎 一時期「お互いの人生を良くするための基礎知識をつけよう」と、人気のビジネス書や自己啓発本を片っ端から買って読んで、良かったものを勧め合っていたときがありました。

本には自分が言語化できない気持ちや、どうにもならないモヤモヤの突破口が書かれていることがありますし、夫婦で同じ本を読むと二人の間で共通言語ができるんですよね。それがコミュニケーションの大きな助けになったと今振り返って思います。

なるほど! お二人の場合は「本」でしたが、例えばインターネットで読んだ記事や見た映画などの感想を言語化して伝え合うこともお互いの「共通言語」になりそうですし、コミュニケーションの頻度そのものも上がりそうですよね。ぜひやってみたいです。

まずは「あなたといい関係を築きたい」を大前提に

自分の気持ちを言葉にして相手に伝えても、相手がそれを「責められている」と受け取ってしまい喧嘩につながるケースは珍しくないと思います。そうならないように何か工夫していることはありますか?

ふっくら まずは「相手と歩み寄りたい」「考えをすり合わせたい」という気持ちが前提にあることを共有しておくのが大事なのかなと思います。

サミ太郎 お付き合いや結婚をしている時点で、もともとはお互いに「いい関係を築きたい」と思っていたはずなので、関係性を改善してもっと近づきたいという提案は、相手にとっても基本的にウェルカムだと思うんです。

そこに同意できない、してもらえないのであれば、個人的には別れを考えてもいいのでは……という気がします。

ふっくら 何もいきなり「これからのことをじっくり話し合おう!」というスタンスでなく、まずは「お茶でも飲みながら最近のことを話さない?」から始めていいと思うんです

気軽な夫婦デートをするとか散歩に誘ってみるとか。「もう少し関係を良くしたいからいろんなことを話したい」という気持ちを示していけたらいいんじゃないかな。

『夫婦でつくるメンタル安全基地 〜「離婚するほどじゃないけどなんかモヤモヤするッ」を減らして持続可能な夫婦になる〜』より

ふっくらさんご夫妻が考える、夫婦のコミュ力向上ために必要な3つのスキル
(C)ふっくらボリサット/講談社

著書で紹介されていた“夫婦のコミュ力向上のための3つのスキル”も参考になりそうですね。あとは、話したいことがあっても、体調が悪かったり余裕がなかったりして、どうしても相手を気遣えないときもあるかと思います。そんなときはどうされていますか?

ふっくら 私も体調が悪いときはよくサミ太郎にあたってしまいます……。

サミ太郎 人間なので、日によってコンディションに差が出るのはしょうがない。ただコンディションが悪いときに話すと、相手に否がないのに責めてしまったり、とにかく悲観的になったりすると思うんです。だから、どちらかのコンディションが悪いときは話したいことがあっても“リスケ”を提案しています

いったん寝て体力を回復してから話したり、週末の時間に余裕があるときに話したりすることで冷静になれますし、一方的ではない建設的な話し合いができるようになります。

ふっくら 「なんかむかつく!」だけだと、彼もどうしたらいいのか分からず困っちゃいますよね。リスケすることで、私も“モヤモヤ”を言語化する時間ができて、冷静に気持ちを伝えられるんです。

あとは、「自分に余裕がないこと」を正直に伝えるのも大事だと思っています。少し前、サミ太郎に話しかけたらすごく雑な対応をされたことがあったのですが(笑)、仕事がすごく忙しい時期だったようで「ごめん! 今どうしようもなく焦っていて!」と言ってもらえたので嫌な気持ちにはなりませんでした。

相手を気遣う余裕のないときは、そのことをしっかり伝える、と。

ふっくら 普段から、前提として「傷つけたいわけではない」「良い関係を築きたい」ということを共通認識として持っておけたら、伝え方にも配慮できるし、相手の話に耳を傾けられるはず。それができないときはそもそもコンディションが良くない可能性があるので、まずは休んだり、内省したりする時間がとれるといいですよね。

「話し合わなくても相性ばっちり」はない

お二人はこの2月に第一子が誕生したばかりですよね。子どもが生まれたことで環境が大きく変わったかと思いますが、夫婦ミーティングは変わらず実施されていますか?

ふっくら はい。時間を短くするなど工夫をしながら、週に1、2回、夫婦ミーティングの時間はとるようにしています。だいたい子どもを一時保育に預けている時間や子どもが寝たあとの時間を使っていますね。

サミ太郎 これまでは、「妻と夫」という分かりやすい関係だったから、話し合いがスムーズにいっていた面も大きいと思います。子どもが生まれると、妻と夫だけでなく、母や父といった役割も出てくるので、コミュニケーションのとり方もより工夫が必要だなと感じていますね。

父や母になって今まで知らなかったお互いの一面もたくさん見えたので、これまでの「僕⇔妻」に加えて、「父(である僕)⇔母(である妻)」のコミュニケーションを新しく築いていかなきゃいけないなと思っています。

ふっくら 小さなことでイラッとしたり喧嘩することはこれまで以上に増えましたね……。でも、これまでの経験からお互い不満をサッと小出しにできていますし、全体としては円満な、居心地のよいところにたどり着けているなと思っています。

「息がぴったりで相性ばっちり」は、運も大事ですがそれ以上に二人の努力の元に成り立っている……というのが、今日のお話を聞いてよく分かりました。

ふっくら 以前の私のように「いい関係を築きたい」がゆえにモヤモヤを溜め込んでいる方も多いと思いますが、まずは不器用でもいいから「あなたと仲良くしたいんだ、だからお互いのことをもっと知りたいんだ」と伝えられたら、きっとそこから少しずつ関係が変わっていくと思います。

お互いの気持ちを伝え合う努力ができていれば、「違う意見を持ってやりとりしてもいいし、むしろ違う意見だからこそいい」と思えるようになれるんじゃないでしょうか。

取材・文:仲奈々
編集:はてな編集部

親しき仲。だからこそ“夫婦”は難しい

共働きの家事育児をめぐるモヤモヤは、討論ではなく“対話”で解決する。パートナーシップの専門家に聞く「すごい対話術」
夫婦のモヤモヤは討論ではなく「会話」で解決
産後クライシスは一度じゃない。乗り越えた夫婦が気付いた「頼ること」と「共有」の大切さ
産後クライシス、夫婦で乗り越えるには……?
夫婦は「同じ目標」を追えている? 仕事と育児の緊急事態に、共働き夫婦が備えたいもの
夫婦一緒に「家族の目標」を考えてみる

お話を伺った方:ふっくらボリサットさん、サミ太郎さん

ふっくらボリサット・サミ太郎夫婦

ふっくらボリサット(妻)はマンガ家・イラストレーターとして活動。サミ太郎(夫)とは2016年に結婚。サミ太郎がタイで働きだしたため、2013年からタイ・バンコクに在住。東京とバンコクを行き来していたものの、コロナ禍をきっかけに日本在住に。2022年2月に第1子が誕生。
Twitter:ふっくらボリサット

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“昭和的な家庭モデル”が私たちの「働きづらさ」につながっている【はせおやさい×男女共同参画局 対談】


「仕事が忙しくて自分に使える時間が少ない」「頑張って働いているのになかなか収入が増えない」「子どもが生まれたら今までと同じようには働けないのかな」

働く上で、こういった悩みを抱えている方は少なくありません。誰もが不満や不安のない状態で働くには、まだまだ国や企業の制度が整っていなかったり、慣習や自分の思い込みが足かせになったりしています。

そこで今回は、会社員兼ブロガーのはせおやさいさんと一緒に「働く人が抱えている課題」について考える対談を実施。対談相手は内閣府男女共同参画局の方々です。男女共同参画局は毎年、ジェンダー・ギャップにまつわるさまざまなデータやエビデンスを調査し取りまとめた「男女共同参画白書」を発行しています。

私たちが「働きづらいな」と感じる背景にはなにがあるのか、なかなか見えづらいけれど「国」や「企業」は変わろうとしているのか、どうしたらみんなが「自分が納得する働き方」を選べるようになるのか――。いち会社員であるはせさんが日々感じている不満や課題を投げかけてみました。

***

<<プロフィール>>

はせ おやさいさん

はせ おやさいさん
ブロガー。ITベンチャー企業にフルタイムでリモート勤務する40代。フリーランスで働く30代の夫とともに、4歳の子どもを育てている。

由井 啓太郎さん

由井 啓太郎さん
内閣府男女共同参画局総務課調査室課長補佐。令和4年版「男女共同参画白書」作成にかかわる進行管理・全体の取りまとめを担当。

丹下 留美子さん

丹下 留美子さん
内閣府男女共同参画局総務課男女共同参画分析官。令和4年版「男女共同参画白書」特集編(人生100年時代における結婚と家族~家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~)の執筆を担当。自身も未就学児の子育て中。

※参加者のプロフィール、お子さんの年齢は、取材時点(2022年9月)のものです



そもそも「男女共同参画局」って何をしているの?

はせおやさい(以下、はせ) こんにちは! 今日はおふたりに、私が普段働く上で感じているさまざまな悩みをお話しできればと思うのですが……そもそも「男女共同参画局」ってどんな組織なんでしょう? 名前はニュースなどでよく見かけますよね。

由井啓太郎(以下、由井) 「男女共同参画局」はその名のとおり、男女共同参画を推進する部署です。内閣府に置かれていて、ジェンダー・ギャップを解消していくために5年ごとの基本計画を制定したり、政府内の会議を運営したりするのが主な業務です。そのなかに「男女共同参画白書」の作成や国会報告が含まれています。

左・内閣府男女共同参画局の由井啓太郎さん。右・同 丹下留美子さん
左・内閣府男女共同参画局の由井啓太郎さん。右・同 丹下留美子さん

はせ 「男女共同参画白書」は毎年ニュースやネットで話題になりますよね。今年は「20代男性の約4割がデート経験なし」「もはや昭和ではない」といったトピックに注目が集まっていました。

由井 「男女共同参画白書」には、社会の現状と対策をオールインワンで提示するという役割があります。盛り込まれているのは、大きく分けて「男女共同参画社会形成の状況」と「そのために政府が講じた政策」「これから講じようとする政策」の3つです。

また、価値観が多様化する社会の中で、国民の誰もが納得できる政策をつくっていくには、客観的なデータの裏付けが欠かせません。そのためにも、白書では印象や雰囲気ではなくエビデンスをもって「実態」を示すことを目的としています。

はせ 日ごろ「なんで分かってもらえないんだ!」とモヤモヤしていることが、実態やエビデンスに基づきデータで示されている、と。それは心強いです! ところで白書って毎年、個別のテーマが設けられているんですよね。どんなふうに決めているんですか?

丹下留美子(以下、丹下) その年の「ホットトピック」を取り上げるようにしています。例えば令和3年は、その前年から続くコロナ禍や生活の変化を踏まえ、「コロナ下で顕在化した男女共同参画の課題と未来」となりました。

そして、よくよく分析してみると、緊急事態宣言などによって生活や雇用が脅かされた方には女性が多く、男女共同参画が推進しきれていなかったことが分かりました。そこで令和4年はその背景を探るため、「人生100年時代における結婚と家族~家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~」というテーマを設定したんです。

はせ 「白書」といわれると堅い印象を受けるのですが、どちらもすごく身近なテーマですね! ただ、社会で働く一会社員としては白書でまとめた内容がどうやって政策に反映されていくのかが気になります……。

由井 具体的な政策に落とし込んでいくのは、制度等を直接担う各省庁の役割ですが、私たちは白書の中で、さまざまな政策を検討する際の前提となるデータをまとめて示しているというわけですね。今日は白書をもとに、どんな政策が取られているかもお伝えできればと思います!

はせ なるほど! では早速、私が日ごろ働いて生活する上で感じている悩みごとについてお話しさせてください。

由井 リアルなお話、こちらもぜひお伺いしたいです!

キャリアが一時中断すると“元”に戻りづらい……

はせ 私は昨年、40代で転職活動をしたのですが、これがもうとても難しくて。未就学児を育てていることもあり、転職エージェントに相談するとまず「子どもがいるなら時短勤務ですね」と提案されるんです。

わが家は私の収入が家計の多くを占めているのですが、時短勤務になると収入が6~7割まで減ってしまいます。「子どもがいる既婚女性」という属性だけで、当たり前のように「時短」を提案されたことに不安を感じました

丹下 IT産業でも難しいのですね。IT産業はもっと柔軟に対応してもらえるものだと思っていました。

はせ IT産業は確かにかなり柔軟でフラットな企業もありますが、その手前で転職エージェントの固定観念に阻まれた感じもありましたね。私の場合は「40代子持ち女性の転職」の悩みでしたが、「30代フリーランス男性」である夫も、育児をきっかけにキャリアについて悩んだことがあって。

私は子どもが生後半年のときにフリーランスを辞めて会社勤めをはじめたんです。なので子どもが保育園に入れるまでは、フリーランスの夫が仕事をセーブして、専業主夫をしてくれていました。でも夫は、社会復帰のときに「以前と同じ仕事や収入で働けるのか?」と不安がっていたんですね。

私たちのように、今の日本の「育児や介護などでキャリアが一時停止すると、収入の水準や役割を戻しづらい」という状況に不安を感じている人は多いと思います。

はせおやさいさん

由井 出産や育児だけでなく、介護など家庭の事情で一度現場を離れても、同じ条件で戻れるといいですよね……。

はせ そうなんです! 

由井 日本ではまだまだ「稼ぎの主体は男性で、女性はそれを補助する」という昭和的な家族モデルが根底にあるため、「家庭の事情」が考慮されづらいと思います。

これらに紐付く問題は、「勤続年数」を賃金を定める際の考慮要素として重視する組織が多いことや、男女間の賃金格差もあります。同じ組織の中でも、正規・非正規や勤務時間といった雇用形態の違いによって、男女間で賃金格差があるケースは少なくありません。

はせ 私は「フルタイムから時短になって収入が減るかもしれない」という点に悩みましたが、そもそも非正規雇用しか選択肢がないという方も多いですよね。既婚で子どもがいる女性は特に……。

由井 そうなんです。社会全体で見てみても、女性が多いサービス業やエッセンシャルワーカーは、業務と賃金が見合っていないことがあります。こうした現象はいずれも、「女性の稼ぎは補助的である」という古い考え方に基づいているのでは? と推察しているところです。

はせ そういう構造的な格差って、どうすれば解消するんでしょうか。

由井 まずは民間企業に対して、男女間の賃金格差に関するデータを開示してもらうよう、仕組みをつくっています*1。それから、同一労働同一賃金を徹底するための政策も進めていて*2、さまざまな角度から格差を解消していきたいと考えています。

はせ ぜひ解消してほしい……! 社会全体に「働いている母親は時短勤務」「主たる稼ぎ主は男性」という決めつけが根強く残っていて、別の選択肢を検討しづらいと感じるので……。

由井 社会保障制度が昭和の「夫が外で働いて、専業主婦が家を守る」という前提をベースにつくられたままになっているのも大きいんですよね。そこで白書では、これまでの家族の姿はもうスタンダードではないことや多様な生き方についてとらえ、実態をレポートしています

グラフ「共働き世帯と専業主婦世帯の割合」平成初期に共働き世帯と専業主婦世帯の割合が逆転し、その差は開き続けている(令和4年版「男女共同参画白書」より)

丹下 実際に「社会保障は世帯単位ではなく個人単位にすべきではないか」といった議論も生まれています。ただ、省庁横断でまるごと変えていかなければいけない問題なので、なかなかスピードが出せずに歯がゆいのですが……関係者それぞれ、頑張っていきたい思いは確かです!

「1日8時間×週5勤務」がデフォルトなのは大変!

はせ 先ほどの時短勤務の話ともつながっているのですが、「働き方」についても考えたいなと思っていて。

会社員は「1日8時間×週5日」勤務がデフォルトのケースが多くて、それだけ働いていないと受けられない社会保障も少なくありません。でも、暮らしを営んで子どもや親の面倒を見ていると、フルタイム勤務は本当に時間が足りなくて!

家族と過ごす時間や睡眠時間など、何かを切り捨てないとやっていけないんです。「稼ぐ人」と「母」を両立しようと思うと、身も心も引き裂かれそうになることがあります……。

丹下 私も子育て中なので、お気持ちはよく分かります。ある程度柔軟に働けていたって、大変ですよね。

ワークシェアリング(労働者を増やすなどして、労働者同士で雇用を分け合い、社会全体の雇用者数を増加させること)はひとつの解決策ですが、どうしても収入が減ってしまうため、根本解決にはなりません。

キャリアを落とさず、かつ負担を減らして働き続けられるような方法だと……例えば海外では、女性の幹部職員と意欲の高い男性ミドル層にペアで働いてもらい、限られた時間で仕事をうまく回す取り組みがあると聞いています。そうした例を紹介しつつ、国内でも前例を積み重ねていきたいですね。

内閣府・男女共同参画局 丹下さん

はせ そのアイディアは面白いですね。もしくは、働き方自体がもっとフレキシブルになったらいいなと感じます。

私はフルリモート勤務ですが、それでもやっぱり体調不良や休園などで子どもが家にいたら仕事はできません。協力し合えるパートナーがいればまだしも、ワンオペやシングルの方は本当に大変だと思います……。

由井 今後のためにぜひ伺いたいのですが、はせさんは社会にどんな働き方を許容してほしいと思いますか?

はせ 時間単位で取れる休暇があったらいいなと思います。企業によってはすでに時間単位の有給休暇を導入しているところもありますが、子どもがいる・いないにかかわらず時間ごとに休暇が取れたら、どうしても仕事を抜けなければいけない時間帯だけ休めるのでありがたいですね。

それから私自身はフレックスタイム制で雇用されていて、月の総労働時間で勤怠管理されていることに、とても助けられています。子どもが体調を崩して3日間労働時間が短くなったとしても、そのあとの稼働時間を調整すれば、なんとかなったりする。

もちろんそういった働き方が難しい職種もあるでしょうから、いろんな方法で「働き方の裁量」を自由にしてもらえると、みんなが少し楽になるんじゃないかなと思います

丹下 そうした働き方の問題は、女性だけでなく、男性も含めて考えていきたいですね。時代の変化に伴って「仕事より家庭を大切にしたい」「育児にしっかり参加したい」という男性も増えてきているので。

そのためには、誰もが柔軟に働ける仕組みづくりが必要ですが……じつは、女性に比べるとまだ男性の分析は進んでいなくて。そこも今後の課題です。

はせ 性別や子どもがいる/いない、家庭の状況にかかわらず、みんなの働き方が柔軟になって、仕事に忙殺されず自分の時間も大切にできるようになるといいですよね。

働くことと結婚・出産はトレードオフなのか

はせ 最近、年下の女性から「結婚や出産をしたら、キャリアを維持するためにはいろんなことを犠牲にしないとダメでしょうか?」とよく聞かれるんです。若い世代にまで「働く」と「出産」はトレードオフになるという価値観が浸透していると感じるんですが、実際のところ、どうなんでしょうか?

由井 働いている女性の8割以上が、結婚しても就業を継続しています。なので、結婚はさほど大きなターニングポイントにはなっていません。が、第一子を出産したタイミングでは、約3割の女性が仕事を辞めてしまいます。第二子、第三子となると就業継続率は8〜9割をキープする*3ため、「第一子出産」と「働く」は、少なからずトレードオフになっている可能性があるといえるでしょう。

グラフ「子どもの出生年別にみた、出産前後の妻の就業変化」子どもの出生年別にみた、出産前後の妻の就業変化(「第16回出生動向基本調査 」より)

はせ 第一子が転機だったんですね! そして、ただ一口に「働く」といっても、「本人が納得する形で働けること」が大事なのかなと。

もちろんそれぞれの家庭の事情や方針によっては「時短や非正規雇用を希望する」こともあると思うのですが、「フルタイム」や「正社員」を希望しているのに、「時短」や「パート」になってしまう人もいて……。働き続けたい方が、働きたい方法で働き続けるには、どうすればいいのでしょうか。

由井 まずはやはり「働き続けたい方をサポートする仕組みづくり」が大事だと思いますし、私たちとしても今後いっそう大切にしていきたい部分です。支援が不十分なことで働き続けられなくなっている方は、一定数いらっしゃいますから。

ただ、とくに団塊ジュニア周辺の世代には「子どもが小さいうちは家で育てたい」という声も、案外少なくないようで……。

グラフ「女性が職業を持つことに対する意識の変化」
女性が職業を持つことに対する意識の変化(令和4年版「男女共同参画白書」より)

はせ 確かに……! 私の親は昭和10年代生まれで、まさに「3歳児神話(3歳までは母親が家で育てるべきという考え方)」の世代です。そんな母にしっかりと手をかけて育ててもらってきたぶん、私自身も幼い我が子を保育園に預けることに抵抗があって……。

こういう葛藤によって、自主的に仕事を離れてしまったり、雇用形態を変える方がいるのは想像できます。企業も変わろうとしているし、私たち自身の価値観も変わっていく途中なのかも。

丹下 社会の機運も高まっており、出産しても働き続けられる環境は、以前に比べてずいぶん整ってきていると感じます。

とはいえ、先ほどのお話のように「時短を余儀なくされる」といったケースもありますし、働きたくてもそれぞれが希望する方法で働けない方を阻害している要因が何なのかを引き続き探り、対策を講じていきたいです

多様化する人生。 性別・属性を問わずみんなが生きやすくなるには?

はせ 少しずつ変わってきてはいるものの、これまでのお話にもあった通り、男は外で稼いで女が家の中のことをやるという意識は、若い世代にも根強く残っているのかなと感じています。

30代の夫は現代的な男性なんですが、駆け出しのフリーランスをしていたとき、周りの人に「奥さんが会社員だから大丈夫でしょ」と言われて、すごく悔しかったそうなんです。そのとき、自分のなかに「男が稼いで食わせたい」という価値観が残っていることに気づいてびっくりしたと。

丹下 まさにアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)ですよね。実際「男性は稼がなければいけない」という男性の考え方は、調査結果にも表れています。

また、コロナ下で男性の仕事時間は減り、その分、育児時間が増えたのですが、家事参画の時間はほとんど増えていません。育児をしても、家事をする男性は少ないんです。そうした価値観は、世代間で継承されている部分も大きいんですよね……。

グラフ「性別による無意識の思い込み」
令和3年度「性別による無意識の思い込み(アンコンシャス・バイアス)に関する調査研究」より

由井 ただ、変化の芽は見えてきていて、やはりコロナ下で働き方が変わったことは大きく影響しています。

まず一部の業種・職種に限定した話ではありますが、働く場所と住む場所が一致したことで余剰時間が生まれました。働きながら家事育児をしたいと考える男性も、若い世代には増えている。これからの調査でその実態を把握していけば、男性の家事育児参画を促す制度の誕生にもつながっていくはずです。

もちろん、男性の人生も多様化しているいま、結婚や出産が前提ではありません。結婚や家事育児をしたい男性をフォローしながら、そうではない人生を歩む男性も支援することが必要です。

例えば、女性に比べると数が少ない男性の地域における相談窓口の整備拡充などは、今後大切な施策のひとつだと考えています。

はせ 男性と女性の生きやすさは両輪だから、併せて変わっていかないといけませんよね。

由井 おっしゃるとおりです。国民の意識と制度は、補強し合って最適化していくもの。今は時代に合っていないと思われがちな社会保障制度も、少し前の時代には最適でしたし、ひとつの均衡を達成していました。

いまは、そのバランスが少し崩れている過渡期。次の均衡を目指して、制度と意識の両面にアプローチをしていきたいと思います。

はせおやさいさんと、男女共同参画局のお二人

取材・執筆:菅原さくら
撮影:小野奈那子
編集:はてな編集部

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*1:2022年7月8日、女性活躍推進法に基づく省令改正により、常時雇用する労働者が301人以上の事業主に男女間の賃金差の開示が義務付けられた。

*2:同一企業・団体における正規雇用労働者(無期雇用フルタイム労働者)と非正規雇用労働者(有期雇用労働者、パートタイム労働者、派遣労働者)との間の待遇差の解消を目指し、パートタイム・有期雇用労働法、労働者派遣法の改訂が行われた。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000144972.html

*3:第16回出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)より

「頼ること」をためらわない。発達障害・知的障害児を育てる吉田可奈さんに聞く、仕事と療育の両立


吉田可奈さんは、フリーライターとして働きながら、健常児の長女・みいちゃんと発達障害・知的障害をもつ長男・ぽんちゃんを育ててきたシングルマザー。2020年には親子3人での日々をつづった著書『うちの子、へん? 発達障害・知的障害の子と生きる』(以下、『うちの子、へん?』)を出版されています。

吉田さんの著書タイトルにもなっている「うちの子、へん?」というキーワードに、ドキッとする方も少なくないのではないでしょうか。子どもが成長していくにつれ、もし何らかの障害が分かったとき、子どもとどう向き合っていくか。それに伴うライフスタイルの変化、今の仕事を同じように続けられるのかなど、不安は尽きないはずです。

そこで今回は、子どものケアと仕事をどのように両立してきたのか、長男・ぽんちゃんが3歳から小学校に入学するまで通っていた「療育」のことなど、当事者である吉田さんに聞きました。

※取材はリモートで実施しました

まだ社会の理解が浅かった「発達障害」を当事者目線で発信

『うちの子、へん?』では、発達障害・知的障害をもつぽんちゃん、お姉ちゃんのみいちゃんと過ごす日常が描かれています。この本はどのような経緯で作られたのでしょうか。

吉田可奈さん(以下、吉田) あるwebメディアのコラム連載で、息子・ぽんちゃんの障害が判明したときのことを書いたときに、当時の担当編集の方から「発達障害や知的障害児の育児について連載してみないか」と打診があったのがきっかけです。

それから「障害児の子育て」をテーマにした連載をスタートし、一冊の本にまとまったのがこの『うちの子、へん?』になります。

『うちの子、へん? 発達障害・知的障害の子と生きる』より

『うちの子、へん? 発達障害・知的障害の子と生きる』より

ぽんちゃんの障害が分かったときの「自分のせいかも」という後悔や戸惑いもストレートに書かれていますが、何よりも「不安や葛藤もあるけれど前向きに生きていこう」という吉田さんのポジティブさを感じます。

吉田 ぽんちゃんが生まれた2010年ごろはまだ、「発達障害」という言葉を聞いたことはあるけれどもよく知らないという人が大半だったように思います。

また、我が子に障害があることを知らされた親に対するフォローも少なかったんですよね。今でも議論されていることではありますが、発達障害や知的障害は「治る」といわれていたり、障害児向けの専門教材がいくつも出回っていたり。私もぽんちゃんの障害が分かったときに同じ境遇のママさんから「息子さん、発語がないの? 〇〇先生のところに行けばよくなるよ」なんて言われたことがありました。

でも、障害は100人いれば100通り。Aさんには合う方法だけど、Bさんには合わないなんて当たり前にあることで、万人に効果のある「治療法」なんてないと思っていて。そういった誤解や偏見、そして障害児を育てることへの不安が、私が体験談を語ることで少しずつでもやわらいでいけばいいなと思い、連載をしていました

保育園で指摘された「発育の遅れ」から、発達の遅延が判明

ぽんちゃんの障害が分かったときのことや、どのように行動していったのかを教えてください。

吉田 ぽんちゃんの場合は、1歳の頃に保育園の先生から「小さいね」と言われたのが最初のきっかけでした。二人目の子だったこともあってあまり体重や健康面について細かく気にかけることがなくなっていたんです。

『うちの子、へん? 発達障害・知的障害の子と生きる』より

『うちの子、へん? 発達障害・知的障害の子と生きる』より

でも「小さい」と言われたことがすごく気になって、その日のうちにかかりつけの小児科へ足を運びました。それから1年ほど、食事に栄養剤のようなものをプラスして様子を見ることになりましたが特に改善が見られず、発語もなかったため、2歳のときに大きい病院へ行って検査を受けました。

関係のありそうな検査は全て受けましたが、結果は「異常なし」。でも、健常児なら長女と同じように育っているはず……。モヤモヤした気持ちはありましたが、このときに「ぽんちゃんには障害があるかもしれない」と腹をくくったような気がします。

そこからどのようなアクションを?

吉田 その後の3歳児検診で他の子との違いをはっきり認識しました。検診時に、保健師さんに専門的な教育支援などが受けられる療育センターへ通うのを勧められたので、検診後すぐに問い合わせて予約をとりました。予約は半年待ちでした。

半年待ち……。すごく長い期間ですね。

吉田 この半年の間に、自分に何かできることはないか? と市役所の方に尋ねましたが、特にないという回答でした。ただ、療育センターの方から「保育園に通っているのはすごくいいこと」と言っていただけて。発語がないこと以外は健常児と変わらず、よく笑う元気な子。保育園で集団生活に参加していることもプラスになるし、お姉ちゃんがいることもいい刺激になっている。他の子と同じように生活をさせることが一番だと言われたので、私は変わらず仕事をしながら保育園に通わせていました。

3歳の時点で健常児との発達の違いが顕著になっていたこともあって本格的に療育を受けることになり、週に2回、午前中の時間を療育にあてることになりました

仕事の量はキープしながら、週に2回の療育に通う日々

そもそも「療育」とはどういったものなのでしょうか。

吉田 明確な定義はないようですが、障害のある子どもやその可能性のある子どもがそれぞれの発達や特性に応じて受ける専門的な支援を指すのが一般的なようです。療育が受けられる機関としては、医療機関や児童発達支援センターがあり、そういった場所が「療育センター」と呼ばれることもあります。

具体的にはどのようなことを?

吉田 子どもによってかなり異なるので、ぽんちゃんの場合についてお話ししますね。ぽんちゃんは3~5歳まで週2回、6歳では月に2回、療育に通っていました。内容は、発達検査の結果や先生との問診で決まっていきます。

ぽんちゃんは週に1回ずつ、「言語聴覚療法」「作業療法」と呼ばれる療育を受けていました。ひらがなの読み書きを練習している子もいるようでしたが、ぽんちゃんの場合は発語がないので読み書きの訓練などはなく、積み木を重ねたり、紐にボタンを通したりといった内容が多かったように思います。

ほかにはトランポリンや、ペットボトルを使ったボウリングのように手足や体全体を使ったり体幹を鍛えたりする活動が取り入れられていました。いずれも「遊び」の延長なので、本人は楽しんで取り組んでいたと思います。

我が子が障害の診断を受けたとき、療育と仕事を両立できるのか不安を感じる人も多いと思いますが、吉田さんは何か仕事の仕方を変えたところはありましたか?

吉田 あらかじめ、療育に行く時間帯には予定を入れないようにしておきました。療育は8時半からで、医師の診察があるときもだいたい11時くらいには保育園に預けて、午後から仕事。ぽんちゃんが小学校に上がるまでこのスケジュールでした。

療育との両立にあたり、仕事をセーブせざるをえないと感じた場面はありませんでしたか?

吉田 離婚していたこともあって「とにかく稼がなきゃ!」という気持ちの方が強かったので、両親と保育園のサポートを受けながら、仕事量を減らさずに働き続けることを優先して考えました。ただ私の場合、フリーランスということもあり、調整はしやすい環境だったと思います。

勤務時間が決まっている会社員だと、両立が大変なケースもありそうですね……!

吉田 会社員の方や実家が遠い方は「それは難しい」と感じるかもしれませんが、今、リモートワークやフレックス勤務が推奨されるようにもなっていますよね。これって、子どものケアにもすごくつなげやすいんじゃないかなって。

通勤に費やす時間が減った分、通院がしやすくなったり、パパが療育に付き添うこともできたり。親二人で分担できると、負担も減らせるのではないかという希望もあります。

働き方をある程度調整できる環境であれば、保育園も利用しながら療育と仕事を両立できそうですね。ただ物理的には可能でも、「仕事より子どものケアを優先すべきなんじゃないか」「仕事をやめてずっと一緒にいてあげた方がいいのかも」と悩んでしまう人もいそうです。吉田さんはそういった葛藤はありましたか?

吉田 療育は関係なく、私も「子どもを保育園に預ける」という選択をしたときから罪悪感をすごく感じていました。私の母は昔気質で「こんなに小さいうちから預けるなんてかわいそう」と言うタイプでしたし。しかも離婚もしていて、それは私が決めたことで……と、がんじがらめになってしまって。

でも、その悩みを保育園の先生に打ち明けたら「私たちは保育のプロなんだから、子どもたちのことを一番に考えていますよ。プロに任せて、しっかり仕事してきなさい!」って。その言葉のおかげで、働き続けることへの後ろめたさは薄れていった気がします。

『うちの子、へん?』のコラムでは、最相葉月さんの「障害のある子どもを育てることと、女性の夢がバーター取引であってはいけない」という言葉も紹介されていましたね。

吉田 ぽんちゃんは就学後は支援学校に入り、療育は卒業して放課後等デイサービスを利用しています。そうなると一日の流れは小学校と学童保育を利用している子と同じで、親も健常児の親とほぼ同じように時間を使えるようになります。障害の程度にもよりますが、送迎や長時間の付き添いが必要なのは保育園や幼稚園の間だけでした。だからこそ、自分のやりたいことや仕事は手放さずに最初の数年をしのげれば……と、実体験を経て感じています

<放課後等デイサービス>
主に6歳~18歳の障害を持つ就学児童が対象。授業の終了後又は休校日に児童発達支援センターなどの施設で利用できる福祉サービス。

「言葉にする」「発信する」ことで、我が子の障害を受け入れていけた

療育と仕事を両立する忙しい毎日の中で自分の気持ちを整理していくのは、大変さもあったのではないかと思います。ご自身がいっぱいいっぱいにならないように、何か心がけてきたことはありますか。

吉田 ぽんちゃんのことを隠さず、周りになんでも話すようにしました。離婚のときもそうでしたが、自分の近況をついあれこれ話してしまうんですよね(笑)。

例えばどんなふうに話していたのでしょうか。

吉田 6歳を目前に、ぽんちゃんに「表出性言語障害」の診断が下りて、のちに発達遅滞とともに知的障害もあると判明しました。その日は、長くお付き合いしている女性シンガーソングライターの方の取材があって……。顔を合わせたとたんにこらえきれず「ねぇ、聞いてもらってもいい?」って、取材に入る前にぽんちゃんの話をして、それで緊張の糸が切れてわんわん泣いてしまって……(笑)。

でもそうやっていろいろな人に話しながら自分の気持ちを言葉にしたり、感情を出したりすることで、どんどん「当たり前のこと」になっていったというか、怖くも恥ずかしくもないと思えるようになっていったように感じます。

他人に話すと同時に、自分の気持ちも整理されていったというか。

吉田 思えばそれが、私がぽんちゃんの障害を受け入れていく“障害受容”のプロセスだったかもしれません。取引先の出版社の方などにもぽんちゃんのことをよく話していたので、事情を分かってくださる方も多くて、仕事との両立の面でも助けられました。

仕事相手に家庭の悩みを話すのは勇気がいりますが、吉田さんの場合、正直に話すことが働きやすさにもつながったんですね。

吉田 あとは、長女とよく遊んでいる友達に自閉症の子がいて、その子のママにぽんちゃんのことを相談したのも大きなステップでした。著書にも書きましたが、ひとしきり今抱えている不安を話したらその人が「よし、逆手にとろうか」って(笑)。すぐに市役所で療育手帳を取得しよう、行政のサービスで使えるものはどんどん使おう、と、ポジティブな言葉をたくさんかけてくれて。

同じ境遇で、同じ経験をしてきた人だからこその言葉には確かに励まされそうです。

吉田 サークルのようなものもあるし、身近に同じ境遇の人がいない人は参加してみるのもよいかもしれません。ただ、中には価値観の合わない方もいるので、SNSでもリアルでも、合わない人とは上手に距離をとる必要もあると感じます。同じ目線や温度感でいられるママ友がいたことは、私が恵まれていた点かもしれません。

苦しいとき、誰かに頼ることをためらわないでほしい

『うちの子、へん?』を読んでいると、吉田さんのポジティブな考え方・生き方に勇気づけられる一方で、「でも私はこんなに前向きになれない……」と自分と比べてしまう人もいるのかなと思って。

吉田 私も、もちろん不安になることはあります。同じ境遇のママ友と話していても、みんな将来への不安を感じていますし、「自分がいなくなったら、この子は……」というのは共通の悩みです。思い詰めてうつになってしまったり、「いっそ、この子と一緒に……」なんて、最悪の想像をしてしまったりする人もいます。

でも、先のことって考えれば考えただけ不安なんですよね。健常者であるみいちゃんも、私自身も、明日は何があるか分からない。そう考えたら「今日を楽しく生きたい」って。すごくバカみたいかもしれないけど、今日を楽しめて、明日も楽しく生きよう! って一日を終えられたら、それを積み重ねていけたら。そう思うようになってからは、私も娘も、息子もポジティブに過ごせるようになりました。

『うちの子、へん? 発達障害・知的障害の子と生きる』より

『うちの子、へん? 発達障害・知的障害の子と生きる』より

当たり前ですが、いろんな葛藤、悩みを乗り越えての今なんですよね。

吉田 ぽんちゃんに障害があると分かってからは、私自身すごく強くなった気がします。ベビーカーを押していると通りすがりの人から「邪魔なんだよ」と言われたりすることもあったので、金髪にしたりゴツいアクセサリーをつけたりして、周囲を威嚇していました(笑)。心ない人に攻撃されれば「何がダメなんですか?」と反撃することもありました。

シングルマザーとして生きていくと決めたときに「この子たちは私が絶対に守るぞ」と思ったのが、攻撃的な形をとって表れていたのかもしれません。

確かに、見た目を変えたら攻撃されなくなったというのはよく聞きます。でも、本当は頑張って強くならなくても生きていける世界がいいですよね。

吉田 みんながみんな強くならなくていいと思うんですよ。弱くても、誰かに助けてもらうことが一番大事だと思います。例えば療育センターや病院、役所、友人、SNS……。「私はすごく困っている、助けてほしい」と、SOSを出すことをためらわないでほしい。

私もそうなのですが、ほとんどの人は誰かに頼られると「何とかしてあげたい」「助けたい」って思うんですよね。信頼できる人に助けを求めることが、今苦しい人にとってはとても大切なことなんじゃないかなって。助けてもらったら、次は自分が助けよう……。そういう気持ちで、一人ひとりが大切な人を大切にしていけるようになればいいなと思います。

取材・執筆:藤堂真衣
編集:はてな編集部

子どもとの向き合い方に悩んだら

仕事が忙しいとき、つい子どもを怒ってしまい後悔。イライラして余裕がないときの「子どもとの向き合い方」
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『母親になって後悔してる』翻訳の裏側。後悔してる=子どもを憎んでいる、ではない
母親のつらさはもっと語られるべき。でも、後悔してる=子どもを憎んでいる、ではない
「良いお母さん」になろうとするのをやめて、私のままで「親」をやる
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お話を伺った方:吉田可奈さん

吉田可奈

エンタメ系フリーライター。作詞家。シングルマザー。14歳、12歳(知的障がい)の子育て中。著者本「うちの子、へん?」 「シングルマザー、家を買う」発売中。
Twitter:@@knysd1980

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