フルパワーで頑張れない「のんびり働く」派の私が、仕事で意識しているたった一つのこと

 チェコ好き

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自分はのんびり働きたいタイプだというチェコ好きさん。しかしフルパワーで仕事に打ち込む周囲の人たちを見ると、ふと「自分の頑張り方」に疑問を持つ瞬間があるそうです。

周りを気にせず、自分のペースで頑張ることは難しいのでしょうか? 1冊の本と、以前旅したシチリア島でのある出会いを振り返りながらつづっていただきました。


新型コロナウイルスの影響で在宅勤務が基本になったのをいいことに、ここ最近、ほぼ毎日30分〜1時間程度の昼寝をしている。決して睡眠不足というわけではなく、夜もきっちり8時間くらい寝ているのに、である。

「シエスタだわよ!」とでもいえば格好はつくのかもしれないが、うっかり3時間くらい昼寝をしてしまい夕方に目覚めた日には、自分はとてつもなく怠惰な人間なのではないかと地の底まで落ち込んでしまう(が、翌日にはケロリと忘れてまたすやすや昼寝をしている)。

一方、私の周りには「実は裏で影武者みたいなのを5人くらい雇っているのでは?」と思うほど忙しく見える人が少なくない。企業の第一線でバリバリと活躍している人、本業とともに副業でもがっつり成果を出している人、誘いが多く飲み会にライブにキャンプにとアクティブに動き回っている人(この時期はZoom飲み会)、仕事と同時に子育てにも忙しく、最新の家電やガジェットや家事サービスを使いこなしつつ両立している人。

彼らの様子を見ていると、スペイン人でもないのに呑気にシエスタを取っているのは、世界で私だけなのではないかという気になってくる。実際は五十歩百歩で、みんな見えないところでちょっとずつ手を抜いているのだというわずかな希望を捨てずにこの文章を書いているが、それにしても私は、毎日のんびり過ごしすぎなのではないか

真面目な話、フルパワーで頑張るタイプの人たちは、そのこと自体に罪はないとはいえ、心や体の都合でゆっくり療養したい人や、さまざまな事情で少しセーブしながら働きたい人に、プレッシャーを与えてしまうことがある(私はただ怠惰なだけだからいいけど)。反対に、のんびり働いている人や昨今の「働き過ぎは良くない」という風潮は、仕事が「趣味」と思うくらい大好きで、本当は早朝から深夜までもっともっと働きたいと思っている人に、これもまたプレッシャーを与えてしまっていることがあるらしいと聞く。

そういう意味では、誰もが「自分の”頑張り方”はこれでいいのか?」と首を傾げており、心のどこかでプレッシャーや焦燥感を抱えている……のかもしれない。

早くても、遅くても、フルパワーでも、のんびりでもいい。それぞれがそれぞれにプレッシャーを与えず、みんなが自分のペースで頑張れる社会を実現するのは、難しいのだろうか。

シチリア島で出会った女性と、その赤ちゃんのこと

赤ちゃんの手

話は変わって、数年前、イタリアのシチリア島を旅行していた時のことだ。大通りに面した店で買ったほかほかの揚げパンを、店外に設置されたテーブルの近くでむしゃむしゃと食べていた。すると、赤ちゃんを抱えたふくよかな女性が近づいてきて、「シニョーラ、シニョーラ」と呼びかけながら、私の目の前に右手を差し出すのである。

「シニョーラ、私とこのスイートなベイビーに、どうかお恵みを!」

イタリア語なので正確には何を言っているのか分からなかったが、女性は、物乞いだった。私の腕や顔をべたべたと触りながら早口で何かを捲し立てたり、右手をさかんに差し出して「お金ちょーだい」の仕草をしたり、スイートなベイビーにわざとらしく私の前でちゅっちゅっと口づけをしたりする。

お腹に2人目の子供がいるらしく、丸々としたお腹を指差しては、「あ〜もうすぐ2人目が生まれるのに! お金がない、お金がない」とアピールするのも忘れない。海外で物乞いにお金をせがまれるのは初めてではなかったけれど、腕や顔を触られるという接触系の物乞いは初めてだったので、私は最初、けっこうビビっていた。

ただ、女性に申し訳なさそうな雰囲気がまったくなく、また女性の抱えている赤ちゃんが、おむつのCMに出てきてもおかしくないくらいかわいくて、天使のように終始ニコニコしていたせいだろうか。不思議と、悲壮感はなかった。ビビりながらも強メンタルでその場にとどまり揚げパンを食べ続ける私以外にも、女性は、通りかかるたくさんの通行人に無差別に声をかける。みんな無視するのかと思っていたが、観察していると、意外にもたくさんの人が、女性にジャラジャラと小銭をあげていた。

結局、天使のような赤ちゃんに「お金ちょーだい」と右手を差し出されたのに根負けして、私は彼らに2ユーロを渡した。すると、感謝されるどころか「これだけ? もっとちょーだい」と(イタリア語で、たぶん)不満気に言われ、さらにスイートな赤ちゃんにも心なしか口をとがらせたような表情をされた。

しかし「なんだよ、せっかくあげたのに」という気持ちはなぜだか湧いてこず、「勘弁してよ」とジェスチャーで伝えたあと、私はなんだかちょっと笑ってしまった

物乞いに対する「うしろめたさ」の正体

なぜこんな話を挟んだのかというと、松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)に、少し似たエピソードが登場するからである。松村さんは、エチオピアで長くフィールドワークを続けた経験を持つ文化人類学者だ。

エチオピアを訪れた日本人は、まず物乞いの多さに戸惑うという。道で足を止めると、赤ちゃんを抱えた女性や、手足に障害のある男性が近付いてくることがある。しかし、日本人は物乞いにお金を渡すことに慣れていない。「みんなに与えることはできないから」「気の毒だが、与えることは彼らのためにならないから」といって、結局は彼らを無視してしまう。

物乞いにお金を渡すことについて、松村さんはちょっとした「うしろめたさ」を感じられるかどうかが、わりと大切なのではないかと言っている。松村さんいわく、物乞いにお金を渡すのは善行などではなく、不当に生じた格差を、わずかながら埋めているにすぎない。そこで生じている感情は「うしろめたさ」だと。彼らにお金を渡すことを善行と考えることは、逆に、彼らをおとしめる。最初はお金を渡すのに慣れず代わりにガムを配っていた松村さんも、エチオピアでの生活が長くなるにつれ、徐々に現地の人と同じように、ポケットにある小銭を渡すようになっていったという。

旅先の海外で物乞いにお金を渡すことの是非は、今回は考えない。ただ私はこのエチオピアの話を読んで、赤ちゃんを抱えた女性に2ユーロを渡したのにあまり感謝されなかったこと、またそのときに自分がちょっと笑ってしまったことを、少し肯定的に捉えられるようになった

私と女性と赤ちゃんは、それぞれが対等な存在だったのだ。まあ、だからといって顔をべたべた触るのは、ちょっとやめてほしかったけど。

どれくらい仕事を頑張るかは、あまり気にしなくていいのかも

話が逸れてしまった。もう一度、「自分のペースで頑張る」ということについて、考えてみる。

私がシチリアで物乞いの女性に会ったり、『うしろめたさの人類学』を読んだりして思ったのは、どれだけたくさん働くか、どれだけたくさん組織に貢献するか、どれだけ頑張るかは、やっぱりあまり気にしなくてもいいのかもしれないということだ。

仕事にどれだけ力や時間を注げるかは、個人の体力や境遇によって、どうしても限界がある。そして、その個人の体力や境遇は、必ずしも本人が望んだものとは限らない。

一方で私は今、自ら望んで非正規社員として会社勤めをしつつ、文筆業もやっている。自由になる時間は、おそらく正社員で働いていたり育児をしていたりする同世代よりも、多いと思う。だけど、自由な時間を読書や昼寝に費やしているからといって、私よりたくさん仕事をしている人、私よりたくさん努力している人に対して、うしろめたさを感じたくない。それよりも、シチリアで会った物乞いの女性や彼女が抱っこしていた赤ちゃんの方にこそ、うしろめたさを感じていたいのだ。

どこかの誰かは私のことを「そんなに低い意識でキャリアプランもロクに練らずにのんびりとしていたら、これからの時代は生きていけないぞ!」と思うかもしれないけれど、よりたくさん頑張る人の努力が報われてほしいと思う一方で、あんまり頑張らなくてもとりあえず死にはしない社会を実現した方が、どう考えたって健全だと思う。

のんびり働く私が意識している、たった一つのこと

さざなみ

さて、そんな感じでほぼ毎日昼寝をしつつのんびりと働いている私だが、自分の中で意識していることがたった一つだけある。

『うしろめたさの人類学』の著者である松村さんは、大学教員として教壇に立つ仕事を、対価を得るための「労働」だとは、なるべく考えないようにしているという。もちろん、働いてお金を得なければ暮らしは成り立たないし、活動を継続できない。お金はとても大切なものだ。一方で、教壇に立って学生たちに語りかける言葉を、相手を満足させるためだけの「商品」にはしたくないという。

どう受け取ってもらえるか分からない、何につながるか未定のまま。そういう、「贈り物」として渡したい。松村さんは、本の中でそう語る。

あまり大それたことは言えないけれど、私も実は、自分の仕事に対して似たような意識を持っている。非正規の社員として関わっている仕事も、そして文筆業の方も、相手を満足させるための「商品」としてだけではなく、できればたくさん、「贈り物」の部分を残しておきたい。

相手がどう受けとるか分からないし、何に使うか分からない。もちろん、私の仕事における影響力なんて、大きな海に小石を一つぽちゃんと落とす程度のものにすぎない。ただそれでも、その波紋の広がり方を、最後までしっかりと見届けたいとは思っているのだ。

これは、自分の仕事を好きになるとか、使命感を持って働くとか、そういうこととはちょっと違う。仕事が好きで楽しいならばそれに越したことはないけれど、私はやっぱり、「めんどくさい」「働きたくない」と感じる仕事でも、その小さな波紋の広がり方に本人がちょっとでも興味を持てるならば、働く理由がお金以外に一つでもあるならば、それはとても価値のある仕事だと思うのだ。

まあ、というか、世の中の仕事はだいたいめんどくさい。私も、できることなら30分〜1時間といわず、毎日3時間くらい昼寝したい。沼にはまるのが分かっているので手を出してないけれど、本当は3日間くらいずっとどうぶつの森だけをやっていたい。

周囲の人の働き方のペースや価値観が自分とは異なっていたとき、焦燥感に駆られることがある。その感覚を、完全になくすことはおそらく難しいだろう。その焦燥感のようなものは、一定程度は「あって然るもの」として、自分の心にモヤモヤと暗い気持ちが生まれてきても、おいしいものを食べたりそれこそ昼寝をしたりして、紛らわしてしまえばいいと思う。

ただ、暗い気持ちが一定程度を超えてしまったとき、思い直したいのは次のことだ。

自分が海に落とす小石は、いったいどのような波紋を描いているのだろう。

どれだけフルパワーでまい進するかではなく、またどれだけワークとライフのバランスを調整しながら働くかでもなく、波紋の広がり方に、わずかでも興味を持ち続けること。私が、シチリアで出会った物乞いの女性と、その赤ちゃんとつながり続けるには、こちらの方が有効なのではないかという気がしている。

もし意識できるならば、家で過ごす時間が長い今、それぞれの胸の内で「私は社会に対してどんな贈り物をしているのだろう?」と考えてみても、きっとバチは当たらないと思う。

私はこれからものんびりと、社会に贈り物を届け続けることにする。

著者:チェコ好き

チェコ好き

旅と文学について書くコラムニスト・ブロガー。1987年生まれ、神奈川県出身。HNは大学院時代にチェコのシュルレアリスム映画を研究していたことから。文筆業を行いつつ、都内のIT企業に勤務もする。

ブログ:チェコ好きの日記 Twitter:@aniram_czech

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編集/はてな編集部