リモートワーク・テレワークの導入や飲み会文化の変化などにより、最近は同じ会社で働く同僚とも、特別な機会がない限り交流の機会は少なくなりがちです。このことは、無理な人間関係の解消にもつながり、これまで歓迎すべき事柄として語られることも多かったように思います。
他方で、こうした人間関係の変化に対し、「さみしさ」や「孤立感」を覚える人も少なくないはずです。また、転職や部署異動などで新たな人間関係が生まれる場面において、以前のように他人と「信頼関係」が築けず、モヤモヤした思いを抱えている人も多いのではないでしょうか。
社会学者の石田光規さんは、個人の選択が尊重される現代社会は一見「自由」で生きやすそうに思えるけれど、孤立や人間関係の格差を招いてしまう側面も持ち合わせている、と語ります。
人と顔を合わせる機会が少なくなった今、私たちが再び人間関係を築いていくためにはどのような姿勢が求められるのか、お話を伺いました。
他人と「信頼関係」が築きにくくなった理由
石田光規さん(以下、石田) もともと日本は「ムラ社会」と呼ばれるように、さまざまな集団を中心に社会の仕組みがつくられていました。古くは地域、その後は家庭や企業など、生活の維持のためにはそうした集団のルールに従う必要があったわけです。
しかし、1990年代ごろから日本でも「個人化」が進みます。高度経済成長を経て、物質的に豊かになったことに加えて、「個性」や「多様性」を尊重すべきといった個人主義的な価値観が徐々に浸透してきたからです。それにより、人々はこれまでのように集団に縛られず、ある意味で「自由」にライフスタイルを選択できるようになりました。
石田 そうです。旧来的なしがらみから解放され、個人の意志が尊重される、ある程度「自由」な社会になったのは間違いありません。
ただ、個人の選択が尊重される社会では、人間関係すらも個人の選択に委ねられる部分が大きくなります。それは、かつては半ば強制的に組み込まれていた人間関係から退くことができるようになった反面、積極的に人間関係の維持を行わなければ自分が切り捨てられてしまうかもしれないという不安にもつながります。
大学のゼミ生に話を聞くと、本当は相手に意見したいと思うことがあっても、関係が壊れるのが怖くて口出ししない、という学生はとても多いです。「相手に文句を言わない」「人を批判しない」という傾向は若い方だけでなく、だんだん上の世代にも浸透してきている感覚がありますね。
石田 はい。これには「個人を尊重する」という考え方が日本にとってはある意味で輸入品であることも関係していると思います。
ヨーロッパの国々のように、市民が政府や権力者と戦うことで主体的に個人を尊重する社会を作っていった国々とは異なり、日本はもともと集団的な価値観の強い社会を築いてきました。それが戦後、西洋の影響を受け、「どうやらもっと個人を尊重しなきゃいけないようだ」という感覚のもと、個人の尊重という概念を取り入れていったわけです。その結果、取り入れ方が若干いびつになってしまった。
本来であれば、個人を尊重するというのは、AさんとBさんがいたら双方が自分の意見を口にし、それぞれの意見を戦わせることでよりよい社会を作っていこうという考え方だと思うんです。けれど日本では、違った意見を持つ人がいるのであればそれを“尊重”し、必要以上に相手に立ち入らないことが良しとされる部分があります。
石田 そこで重宝されるのが「人それぞれ」という言葉です。たとえ相手と異なる意見を持っていたとしても、「人それぞれだからね」と口にすれば対立のリスクを回避しながら、その場をやり過ごすことができる。とても便利な言葉ですよね。
ただ、この言葉を発することは、それ以上踏み込んだ議論やコミュニケーションを止めてしまうことでもあるので、他人に立ち入ることが難しくなります。そうなると、孤独感や他人と信頼関係を築く難しさにもつながっていくわけです。
「ひとりでいい」と思っていても、さみしさを抱えることはある
石田 おっしゃる通りです。これが例えば所得の格差であれば、累進課税のようなしくみを設けることで不平等さをある程度解消することができます。人間関係の場合はそれができませんから、いちど格差が生まれると、なかなか修正の利きようのない構造になってしまうんです。
難しいのが、人間関係がうまくいっている人ほど、つながりの少ない人に対して「それは人とコミュニケーションをとる努力をしていないからだ」と厳しい目を向けがちなんですよね。つながる機会はたくさんあり、自分で「選択」できるのだからその努力をしないのが悪い、という“努力幻想”に基づいた自己責任論にすぐに回収されてしまう。
けれど、それは裏を返せば、今は人間関係に困っていない人も、そうした努力をやめた途端に関係から滑り落ちてしまうリスクを持っているということでもあります。
石田 極端な話、行政や住宅企業が「ひとりで生活したい人はどうぞ自由に暮らしてください、その代わり孤独死を防ぐため、部屋に設置したセンサーに1日1回は触れて生きていることを報告してください」という選択肢を用意するという手もありますよね。大学生に尋ねても、それでいいんじゃないですかと言う人は一定数います。
ただ一方で、そういう人でもさみしさを抱えることはあるということを忘れてはいけないと思います。人間関係で気を使うのが煩わしいから友達なんていらない、という人でも、時間がたつとひとりがさみしいと感じ、結局また人間関係の中に入っていこうとするケースはよくあります。友達やパートナーはいらない、センサーで連絡する生活でもいい、と言っていた人が、その後一生つながりがいらないと思い続けられるかというと、多くの場合そんなことはない。
石田 人には一般的に、決定したことに対して「でもやっぱりこっちの方がいいかも」という揺らぎの感覚があるものなんですよね。それをないものとしてしまうと、「あなたがいちど選んだのだから、自分の選択には責任を持ってください」ということになってしまう。だから、仮に一時は「友達なんていらない」と思ったとしても、ずっとその意志を貫けるわけではなく、変化していく部分も大いにあるということは、本人も社会も念頭に置かなければいけないと思います。
コスパを意識せず、「その場にいてみる」ことが関係を育む
石田 そうですよね。従来であれば、あまり親しくない人でも職場で一緒にいるうちになんとなく距離が縮まり、しだいに仲良くなって食事に行く、というような流れもありましたが、コロナ禍は決定的にそれを難しくしてしまいました。
人を食事に誘うこと自体を非常識と捉える人もいますから、そのリスクを回避するために近い関係の人だけに声をかけていくと、なかなか人間関係が広がらない。しかも、オンラインのコミュニケーションの浸透により、みんなが一斉に「対面で会うほどの価値があるかどうか」を選別するようになってきましたから、関係を深めるのが本当に難しい。
もちろんオンラインにもさまざまなメリットはありますが、新たな関係を築いていく上では、ある程度顔を合わせて同じ空間にいるということは重要だと私自身は思っています。身体を一緒に共有することで相手がどういう人なのかが徐々に見えてくるという側面はありますから、そういった機会を完全になくしてしまうのはあまりよくないんじゃないかと思いますね。
石田 自分から人を誘って何かをするって、意外と大変なことですよね。そうではなく、会うきっかけになるようなしくみが、社会や組織の側にある程度保障されているのが望ましいんですが。
……そういう意味では、いまはコロナの時勢柄なかなか難しいですが、職場単位の定期的な懇親会というのは意外と重要だったのかもしれないと思うんです。人間関係への意識や感度が高まり、個人的に相手を誘うということもしづらくなってきているけれど、職場単位の懇親会では「半年に一度なので、できるだけ皆さん参加してくださいね」というお膳立てがされている。
それをきっかけに親しい人ができたり、周囲の人たちの距離感が分かったりすることもあるので、そういうものがときどきはあった方が、関係が移行していく可能性はあるのかもしれないですよね。
石田 そうなんですよね(笑)。それに、「自分から人を誘うのは苦手だけれど、懇親会があるなら出ようかな」というタイプの人もいると思うんですよ。
石田 心構えとしては、なるべくコスパを意識せずにひとまずその場にいてみる、足を運んでみるということが大事じゃないかなと思います。いま、コスパのよさで体験の価値を測る人が増え、不安定なものや不確実なものに対する社会の耐性が下がっていると思うのですが、何がコストで何がパフォーマンスかというのは、実は短期的な視点ではなかなか見えてこないものなんですよね。
そのときにはコストだと思っていたものが、10年後に振り返ってみると自分にとって必要な経験だったなんていうのは人生では本当によくあることなので、即効性のあるものでなければ切り捨てるという考え方は、中長期的に考えればすごくもったいないかもしれない、という視点を持つのが大切だと思います。
石田 人の意外な面や考え方を発見する機会って、案外目的から外れたところにこそあったりするんですよね。結果がある程度予測されている場所にしか行かなくなってしまうと、予測された結果しか得られなくなってしまう。
とはいえ、関係が築けるのは確かにいいことなのですが、あまり無理をし過ぎないのも大事かなと個人的には思います。人と関係を築かなくてはいけないと意識しすぎると、それが義務になってかえってつらくなることもあると思うので、結果的に関係が確立できればラッキー、くらいの心持ちでいた方がいいかもしれませんね。とりあえずその場にいてみる、ということがまずは大事なのではないかと思います。
「友達」ではなく、「知り合い」と捉えてみる
石田 人に対する期待値みたいなものを、もうすこし下げてみることが大事なんじゃないかと思うんです。例えば「ちょっと頼らせてほしい」と声をあげたとして、それを相手に拒否されたらショックを受けてしまうかもしれないけれど、それならそれで別の人に聞いてみるか、くらいの構えでいた方が気楽だと思います。特定の人ばかりを絶対視し過ぎてしまうと、相手に対する期待が上がる分、余計に頼りづらくなってしまうんじゃないでしょうか。
石田 ですから、私は「友達」という言葉を使わないんです。誰に対しても「知り合い」って言うようにしているんですね。言い方は難しいのですが、友達という言葉を使うと「友達らしく振る舞わなきゃ」というプレッシャーを感じてしまうので、全員知り合いとして捉えておく。
いまって、ちょっと困ったときに頼れる人というだけで、ものすごく仲のいい相手を思い浮かべる人が多いのかなと思うんです。かつての婚姻関係のような盤石なつながりが揺らいできている現代では、強いつながりを友情に求めがちになる。
でも本来は、「会社ですごく仲の良かった人が転職して疎遠になってしまった」とか、「昔はしょっちゅう泊まりに行った友達だけど、最近は会ってない」なんていうのはごく自然なことなんですよ。そうやって人間関係は移動していくものですから、その中で強くなるときもあれば弱くなるときもある、と捉えていた方が気楽じゃないかなと思います。
だから、ある関係を「なんでも言い合える関係」にしていこうと躍起になるよりも、そこにこだわらずにやっていく方がいいのかもしれないですね。
石田 そう思いますね。軽い気持ちで人を頼ったり意見を言ったりした結果、疎遠になってしまうこともあるかもしれないけれど、逆にそのことがきっかけで仲が深まることもある。
これは「友達なんていらない、誰との仲も深めなくていい」ということではないんですよね。特定の人間関係に対する重みを取り、とりあえず同じ場にいてみたり、とりあえず頼ってみたりすることが、結果的にさまざまな他者に対する回路を開くことにつながっているんじゃないかと私自身は考えています。
取材・文:生湯葉シホ
編集:はてな編集部
他人との向き合い方に悩んだら
お話を伺った方:石田光規(いしだ・みつのり)さん