価値観の違う人は「敵」じゃない。文学者・荒井裕樹さんと「言葉」から他人との向き合い方を考える

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最近、ちょっとしたSNSの言葉や同僚の発言にギョッとしたことはありませんか。

ここ数年、大きく社会や政治状況が変化するなか、自分と異なる価値観に出会うことも増えたように思います。コロナ禍、そうした状況に疲れや息苦しさを覚えた経験のある人も少なくないのではないでしょうか。

昨今の言葉を巡る社会状況を「非常事態」だと語るのは、障害者文化論を専門とする日本文学者・荒井裕樹さん。「分かりやすい言葉」に溢れる現状に警鐘を鳴らします。

荒井さんのお話を通じて、私たちの身の回りに溢れる「言葉」から他者との向き合い方について考えました。

※取材はリモートで実施しました

SNSの言葉に脊髄反射しない

荒井さんは著書『まとまらない言葉を生きる』のなかで「言葉が壊れてきた」と綴り、「分かりやすさ」ばかり重視されるようになっている風潮に警鐘を鳴らされていました。改めて、近年の言葉をめぐる社会の変化をどのように見られていますか。

荒井裕樹さん(以下、荒井) ここ10年近く、政治自体が「イベント化」していると感じています。そのときどきで話題になりやすい政策が、一貫性や事後の検証もなしに次から次へと乱発され、消費されて忘れられていく。そういった政治の影響もあって、私たちの考え方そのものも「イベント思考」になってきていると思うんです。大局的なビジョンや理念より、そのときどきの話題性や瞬間的なインパクトが重視されてしまう。私たちが日々の暮らしで使う言葉もそういった風潮に影響を受けていると感じていて、とても危惧しているところです。

そのときどきの話題性やインパクトばかりが重視されてしまうという空気は、特にSNS上の言葉を見ていて強く感じます。荒井さんは、SNSを中心とするインターネット上の言葉についてはどうご覧になっていますか?

荒井 やっぱり、サイクルが早いですよね。情報収集がしやすいことは大きなメリットだけれど、ネットで集められる情報量って、ひとりの人間が処理できる情報量をゆうに超えている。だから、なにかネット上で炎上や大きな事件が起きたときも、そのできごとに傷つけられた人がそれにずっと囚われ続ける一方で、そうでない人はインターネットの早いサイクルに取り込まれて次から次へと忘れていきますよね。そのギャップに戸惑います。

荒井さんご自身が、普段、SNSとの付き合い方や距離の置き方でなにか意識していることってありますか?

荒井 私はSNSをやっていないんですが、たぶん自分の仕事の広報という意味では、本当はやった方がいいんですよね。だから担当編集さんにいつもごめんなさいって思ってるんですけど(笑)。

ちょっと変な言い方ですが、「自分にとっていちばん責任の持てる言葉の発し方」というのが、私にとっては「本を書くこと」なんです。私は自分の師匠にかつて言われた「学者の言葉に時効はない」という言葉を大事にしているんですが、本は5年、10年たっても残るものなのでいちばん責任がとりやすいというか。時間はかかるけれど、本もSNSのように人と人をつないでくれるものなので、一冊ずつ大事に書いていきたいな、と思っています。

ただ、どのような事件が起きているのかとか、情報収集のためにSNSも見ることは見ますよ。でも、なるべく瞬時になにかを言おうとはせず、ひと晩は置いて考えるというのを意識しています。

ひと晩は置く……。どうしてでしょう?

荒井 そうしないと、脊髄反射の言葉しか出てこなくなってしまうと思うので。日々暮らしていると「いまはそれについて語れない」とか、「言葉がまとまらない」と思うことってたくさんあるじゃないですか。私の場合は、なにかについて自分の考えがまとまるまでに、長いもので年単位の時間がかかることもあります。1冊の本を書くのに、自分のサイクルとしてはだいたい5年くらいかかる。自分が発していて苦しくない言葉のサイクルってあると思うので、それをなるべく自分では守るようにしています。

『まとまらない言葉を生きる』表紙写真
最新作『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)

そのサイクルは人によって違いそうですよね。必要があってSNSはやっているけれど、SNSの速さに合わないという人も実際には多いような気がします。

荒井 私が接している学生からも「SNSがしんどい」という話はよく聞きます。ただ、SNSってすでにある種のインフラと化しているので、それなしに生活するのも現実的には難しいですよね。

自分にとってしんどくない言葉のサイクルは人によって違うのに、自分がその話題について語りたいかどうかもよく分からないまま、SNSの速いサイクルのなかでなにかを発してしまっているような状況なんでしょうね。いま、SNSにないものは存在しないかのように扱われてしまうとも感じます。

作家の方など、個人として活動している方にとっては、特にそのサイクルに置いていかれる怖さもあるのかなと思うのですが……。荒井さんはいかがですか?

荒井 30代の前半くらいまでは、話題にならないと自分の文章を読んでもらえないんじゃないかとか、本が売れないと次のチャンスがないんじゃないかみたいなことを強く思ってましたね。ただ、ここ3~4年で「もういいや」って腹が据わりました(笑)。

なにかきっかけがあったんでしょうか?

荒井 特になにがあったというわけではなく、徐々にですね。1日のなかで、学校で働いて、子育てをして、自分なりに納得のいく原稿も書いて……となると、それ以上のことにはあんまり手が回らない。だとしたらどこかでなにかを諦めなくちゃいけないから、得意じゃないことの優先順位は下げようと思うようになったのかもしれないです。

もちろん、社会のことを考えるのが仕事なのでSNSを無視するわけにはいかないんですが、自分にとってバランスを保てる付き合い方やサイクルが、なんとなく分かってきたかなという感じです。それまでに時間はかかりましたけど。

考え方の違う人は必ずしも「敵」ではない

ここ数年、コロナ禍やそれに伴う政治状況などをきっかけに、職場や家庭など、ふだん同じコミュニティにいる人たちとも考え方の違いが明らかになる機会が増えたように感じています。ちょっとした雑談のなかで「この人とは分かり合えないかもしれない」と感じてしまうようなことが増えたのかなと。

荒井 「分断」「断絶」という言葉が現代社会を表すキーワードとしてよく使われますよね。分断という言葉には敵と味方のふたつに分かれるようなイメージがあると思うんですが、実際は分断というよりも、小さな切れ目がいろいろなところに入っている亀裂型社会なんだと思うんです。これまでもこうした亀裂はあったんでしょうけど、何となく見ないようにして取り繕ってきたものが、コロナ禍をきっかけに露わになってしまったのかなと思います。

特にコロナに関するトピックは他者の行動が自分にも影響を与えるからか、これまでは目を向けなくても付き合っていられたような家族や友達との考え方の違いに気づいてショックを受けた、という話も周りからよく聞くのですが。

荒井 自分と似ているような気がしていた周りの人たちとの感性や考え方の違いに、コロナをきっかけに気づいた人ってたくさんいると思います。ただ、自分と違う人ってたくさんいるんだけれど、自分と違う人が全員「敵」なわけではないですよね。いま、相手を「敵認定」するハードルって、かなり低くなっていませんか?

分かります……。ちょっとした一言だけですぐに敵認定して、距離を置いてしまうというか。

荒井 例えば、私はマンションに住んでいるんですけど、住人の方とすれ違ったときの挨拶の仕方って人それぞれなんですよね。すごく丁寧な方もいれば、軽く頭を下げるだけの方もいる。でも、それぞれの背景の違いを考慮せず、「挨拶とはこうすべきものだ」という他者への期待みたいなものを強く持ち過ぎると、それに合わない人を敵認定しがちなのかもしれませんね。もちろん、自分の生活や尊厳を危うくするような価値観とは闘うことも必要なんですが、基本的には人それぞれ背景や価値観ってバラバラなのが当たり前なので。

確かに、他者の置かれている状況や身体状況が自分基準になってしまっていて、他の人にも同じ振る舞いを期待してしまう部分はあると感じます。「自分だったらもっとこうするのに」という。どうやって向き合えばいいんでしょうか。

荒井 うーん、どうすればいいんでしょうね……。私にも明確な答えがあるわけじゃないんですが。ただ、自分で自分にムチを打ってがんばろうとするメンタリティって、「自分はこんなにがんばってるんだから、周りもこのくらいして当たり前だ」と他者に矛先を向けてしまうことにつながりやすいですよね。

私自身がもともとそういう人間だった自覚があるので分かるんですが、こういう性格ってやめようと思ってもすぐにやめられるわけじゃない。でも、少なくとも、自罰感情と他罰感情ってわりとリンクしているということを知っておくだけでも、少し楽になれるのかなと思います。他者に対する態度が自分にも返ってきてしまうというサイクルにいま自分がいるんじゃないか、と気づくだけでも逃げ道ができるような気はします。

荒井裕樹さんインタビュー写真

荒井さんの場合は、そういうご自分の性格をどうやって変えてこられたんだと思いますか?

荒井 障害者運動家の方々が典型ですが、「自分とぜんぜんちがう人たち」と付き合ってきたことで変わってきたんじゃないかと思います。あとは子育てを経験したことも大きかったかもしれない。子どもってどうしたってこちらの思い通りにならないですし、絶対的な他者ですよね。だから自分のものさしで相手のことを測れないときもあるというのが徐々に分かってきたというか。ある程度時間をかけて、着込んでいたものを1枚ずついろんな人たちに脱がしてもらってきたような気がしています。

自分の中に降り積もる言葉から社会を考える

荒井 あと、私からひとつ提案したいというか、こういうのは試してみてもいいのかな、と感じていることがあるんです。これまでの話は、SNSの言葉や他者の言葉、つまり自分の外側にある言葉のことが中心だったと思うんですが、言葉って実は自分の内側にも溜まっていくものなんですね。人ってそれぞれの境遇や環境に応じて、全然違った言葉を使っているものです。

……あの、「夕方」って聞いて何時くらいを思い浮かべますか?

私は17時くらいですかね。

荒井 夕方が何時くらいかって、わりとばらつきがある気がするんです。例えば「夕方までに原稿送ります」と私が言っていて18時に原稿を送ったら、Aさん(担当編集さん)は怒りますか?

取材に同席していた編集Aさん いや、翌日の1時くらいまでは大丈夫ですね。そういう締切を設定しているはずなので。

やさしい(笑)。

荒井 (笑)。夕方ってそれぞれの人の生活スタイルや、季節によっても違うんですよね。15時くらいから夕方の雰囲気を感じている人もいれば、19時でも「まだ夕方だ」と思う人もいる。その言葉ひとつとってもこんなにずれがあるのに、私たちはなんとなく言葉が通じているかのようにやりとりして生活している。だから、自分のなかにはどういう言葉が降り積もっていて、自分はどういうふうに言葉を使いやすい人間なのかというのを考えて生きていくのはいいことなんじゃないかと思います。

私は、障害者運動家の方に「荒井は社会がこうだとか経済がこうだとか、大きい主語で喋り過ぎだ」「なんで自分がつらいなら自分がつらいって言わないんだ」と随分言われてきました。自分に降り積もった言葉の使い方を指摘していただいた経験は大きかったと思います。この時代、一歩立ち止まってそういうことに目を向けてみてもいいんじゃないかと思うんです。

なるほど、確かにそういう自分の言葉遣いって、人と関わるなかで気づくことが多いように思います。荒井さんがいま日常的に意識されている、自分の言葉の使い方ってあったりしますか?

荒井 ふだん意識しているのは、家でパートナーになにか頼むときは「きちんとお願いする言葉」を使うようにしていることですかね。男性が女性にものを頼むときに、ぞんざいな言葉を使っていいと自分の息子に感じてほしくないんです。職業柄、いろんな世代の子どもたちと接するんですが、ある年頃になると「女性には気軽にものを頼んでいい」「女性は手伝ってくれるのが当たり前」と思っている男の子が一定数出てくるような気がしています。でも、それはまったく「当たり前」じゃないんです。誰かにものを頼むときは、性別年齢関係なく「お願いする言葉」が必要なんです。大人の日常的な言葉の使い方が次の世代にも影響を与えてしまうと感じているので、そこは心がけています。

確かに、子どもって本当に大人の言葉遣いをよく見ていますよね。

荒井 やっぱり、大人の言葉のあり方が社会に降り積もって、次の世代を作っていくことになると思うんです。教育現場に立っていて、教員の言葉遣いが荒かったり人への態度が横暴だったりすると、そういうあり方がクラスのなかで許容されてしまう空気ができていくのを感じるんですね。世の中に荒っぽい言葉が増えたのも同じようなもので、その一因は政治家の言葉が荒っぽくなっているからだと思うんです。

いま、言葉をめぐる状況がかなり緊急事態というか、非常事態のなかで私たちは生きています。そこはひとりの学者として、強く警鐘を鳴らしたいところです。政治家の言葉の横暴さと空虚さを私たちがきちんと噛みしめれば、じゃあ本当はどんな言葉が望ましいのかという問いが生まれてくると思います。

どんな言葉を求めているのかというのはそのまま、どのような暮らしや社会を求めているのか、ということにつながりそうですね。

荒井 そうですね。自分の本のなかで、社会が「安易な要約主義」に陥っているという言葉を使ったのですが、日常生活のなかでもそういったキャッチフレーズ化された言葉を押しつけられやすい社会になってきているので、自分なりの言葉に噛み砕けない限りはその言葉を信用しない、という姿勢も大切なのではないかと思います。

要約って「ここが大事ですよ」とまとめるような行為ですが、なにを大事と思うかって本来は人によってバラバラなはず。それを勝手に決めつけられるような空気って、私は息苦しいししんどいと思います。だから、なにか大きな言葉を前にしたとき、その言葉が自分にとってしっくりくる意味で使われているかどうかを疑ってみることが必要なのかなと。「言葉の画素数を上げていく」という表現を私はよく使うんですが。

画素数を上げる、というのは?

荒井 例えば、「怒り」という言葉は最近「怒っているだけじゃなにも変わらない」というようなネガティブな意味で使われることも多いと思うのですが、それには個人的にモヤモヤしているんです。「怒り」と「憎悪」って違うもので、怒りというのは相手と一緒に生きていくことを前提とした感情のように思うんですね。私も自分の子どもや学生には怒ることもありますし。でもいま特にネットの世界で飛び交っている「憎悪」は、相手の存在自体を拒絶する態度で、それは社会を壊すものだから許容できない。

だから「怒り」は本当に使わない方がいい言葉なのかとか、「ダイバーシティ」って最近すごく使われるけれど本当にその言葉でいいのか、とか。そういうふうにいちいち立ち止まって考えることを、私自身これからも意識していきたいと思っています。


取材・文:生湯葉シホ (@chiffon_06
編集:はてな編集部

周囲との関係性にモヤモヤしたら

お話を伺った方:荒井裕樹さん

荒井裕樹さんのプロフィール写真

1980年東京都生まれ。二松學舍大学文学部准教授。専門は障害者文化論、日本近現代文学。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。著書に『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)、『車椅子の横に立つ人――障害から見つめる「生きにくさ」』(青土社)、『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)などがある。

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