ずっとやってみたかった仕事や新しくチャレンジしてみたい仕事があっても、未経験の業種に飛び込むことには、不安を感じる人がほとんどではないでしょうか。特に、現在の収入がある程度安定していたり、転職に際して雇用形態が変わるといった懸念点があると、「いまのままの方が安泰なのでは」とキャリアチェンジを断念する方も多いのではないかと思います。
現在、書店員として都内の大型書店に勤務しながら、個人として本の紹介やフェアなどを主に行う「いか文庫」としての活動もされている粕川ゆきさんは、そんな異業種へのキャリアチェンジの経験者です。
スポーツ用品メーカーでの勤務を経て29歳でアルバイトとして未経験の書店の仕事を始め、少しずつ書店員としてのスキルと経験を積み上げていった粕川さんに、キャリアの選び方についてお話を伺いました。
スポーツ用品メーカーの正社員から、経験ゼロで書店員へ
粕川ゆきさん(以下、粕川):主にデザインとアートの分野の書籍を仕入れたり、ブックフェアやイベントの企画・運営をしています。あとはアルバイトさんたちのまとめ役として、コミックや絵本などのジャンルを担当している方にアドバイスや指示をすることもあります。
粕川:そうなんです。20年ほど前になりますが、新卒で入社したのはスポーツ用品メーカーでした。当時は営業統括という、社内外のさまざまな人たちと関わる部署にいました。
新商品が出るタイミングで行う展示会の運営をしたり、営業さんのための発注システムを作ったり得意先にパソコンの技術を教えにいったりと、次から次へと新しいスキルが入ってくるのがすごく刺激的で。始めはそんなに長くいるつもりじゃなかったのですが、結局、丸7年勤務しました。
粕川:スポーツ用品メーカーでの仕事もすごく楽しかったんです。でも、30歳を目前にしたときに、ふと「自分が本当に好きなものってなんだろう?」とあらためて考え直したんですよね。そうしたら、本や音楽が子どもの頃から大好きだったなと思って。
それに当時、会社の先輩に誘われて、東京スカパラダイスオーケストラのライブにたまたま行ったこともひとつの転機でした。ライブがとても楽しくて、そこから何度も足を運ぶようになったら、音楽やカルチャーが好きな友達がどんどん増えていったんです。
その人たちと遊ぶたびに新しいものに触れられるのがうれしくて、カルチャーに関わる仕事がしてみたいなと漠然と思うようになりました。特に、学生時代から通っていた書籍と雑貨の複合店が好きだったのを思い出し、一度でいいからそこで働いてみたいと思ったんです。
粕川:はい。結局29歳になるタイミングで思い切って会社を辞め、憧れていた書籍と雑貨の複合店に応募し、アルバイトとして入社しました。
最初はフルタイムではなかったこともあって、他にもいろいろなバイトをかけ持ちしていたのでとにかく大変だったのですが、入ってみたらやっぱり楽しくて仕方なかったです。
入社から数年で書籍の担当になり、好きな作家さんのPOP(店頭に置く宣伝物)をつくったり本棚の並びを考えたりするようになったのですが、自分が推していた本が売れるのを目にしたら、いままでに感じたことのない仕事の喜びを味わってしまって。結局アルバイトとして5年間働き続けてしまいました。
粕川:正直、メーカーで正社員として働いていたときは、福利厚生や給与面が恵まれていたことをあまり意識していなくて……無知だったと思うのですが、辞めてから「しまった」と思いましたね(笑)。
当時は待遇よりも、とにかく自分のやりたいことをやりたいという気持ちが強かったんだろうなと思います。お店で働いていたのは自分よりも若い人たちばかりだったのですが、その子たちと漫画をおすすめし合ったりするのが本当に楽しくて、仕事も生活も充実している感覚がありました。
選択に後悔はしていないのですが、当時は本当に貧乏な生活をしていたので、同じように正社員からアルバイトになる道を考えている方がいるとしたら、ある程度貯金をしてから会社を辞めるなど、準備をしておいた方が安心かなと思います。
ひとつの仕事の経験とその付加価値は、きちんと次の仕事につながっていく
粕川:それまで働いていた書籍と雑貨の複合店の閉店が決まり、別の店舗に異動になったのですが、そこで雑貨担当を任され、本の仕事ができなくなってしまったんです。最初のお店での経験があって本を売ることの虜(とりこ)になっていたので、やっぱり書籍に関わる仕事がしたいな……と。たまたま採用情報を見つけて応募した独立書店の店長が、これまでのキャリアを面白がってくれたこともあり、週1回のインターンから始めてそのお店に入りました。
それから、同時期に「いか文庫」という個人での活動も始めたんです。
粕川:当時よく通っていたブックカフェが近所にあったのですが、そこの店主さんや他のお客さんたちから「自分で本屋さんはやらないの?」と聞かれることが多くて。
私はまったくそんな気はなかったのですが、おもしろいから屋号だけ考えてみようかとか、フリーペーパーを作ろうかなんてやっていたら、あれよあれよという間にいろんな方が声をかけてくださるようになって、グッズをつくったり、書店の一角でフェアを開催させてもらえたりするようになりました。

グッズを作ったり本をテーマにイベントをしたりと、ユニークで幅広い「いか文庫」の活動
いまは私を中心に5人で活動をしていて、不定期で本にまつわる記事を書いたり、コミュニティラジオに出演したり、テレビ番組でおすすめの漫画を紹介したりしているんですが、いまとなっては自分のライフワークというか、人格のようになっていますね。
独立系書店には8年間勤めて最後は店長もしていたんですが、少しだけ自分の仕事に行き詰まりを感じてしまって……。2020年にいまのお店に移った際には、社員さんのひとりが「いか文庫」のファンでいてくださって、いか文庫の活動もやめずにぜひ続けていてほしい、と言ってくれたのが転職の大きな決め手になりました。
粕川:そうですね。いか文庫の成り立ちからもわかるように、人から「あなたにはこういうことができるよね」と言ってもらうことで初めてそれを自覚し、チャレンジしてみるというケースが多いです。人からきっかけをもらうことで「自分にはこういうこともできるのかも」と言語化し、それを少しずつ積み上げて自信とスキルにしてきたような気がしますね。
自己肯定感は低いけれど、「自分はこういう人間だ」と決めつけていない分、言ってもらえたことを素直に飲み込めるのかもしれません。
粕川:業種や勤務形態にかかわらず、それまでの仕事を通じて身に付けたスキルは毎回生かせているんじゃないかと思います。最初の転職の際には社会人経験や人をまとめる力が生きましたし、次の転職ではPOPを書く技術が生きましたし、いまのお店の方には「いか文庫」の活動や前職での経験を評価してもらえましたし……。
毎回、まったく違う新しい環境を選んではきたのですが、ひとつの仕事の経験とその付加価値みたいなものは、きちんと次の仕事につながっているという意識がありますね。
「この仕事はこういうもの」と決めつけずにやってみる
粕川:私は気づいたら40歳を越えていたので、仮にいまからそういった冒険的なキャリアチェンジができるかと聞かれたら、体力的に少し厳しいかもと答えるかもしれません。でも、やりたいことにチャレンジしてみるのは正解でも、間違いでもないはずです。
私個人としては、30代のアルバイト時代がいままでの人生で一番楽しかったんです。アルバイトを含むキャリアの中で「私、何やってるんだろう……」と思ったこともありましたし、周囲から、私の働き方に対して否定的な言葉をかけられることもあったのですが、それでも私はいい経験をしてきたな、と感じています。
体力・金銭的には厳しいときもありましたが、本の仕事だけでなくコンビニ勤務や日雇いのバイトなどいろんな仕事をやってみたことで、世の中にはこんなに多様な仕事があるんだと知れたのは大切な経験でした。
粕川:最近は20代でもすごく堅実な方が多いので、「粕川さん、私もう25ですよ」とか言われることもありますが、「悪いけど、30代がいちばん楽しいから!」っていつも返してます(笑)。
それまでの仕事の経験も生かせますし、20、30代であれば体力もまだあると思うし、仮に正社員としての勤務経験があるなら少しだけお金にも余裕のある時期かもしれない。なので、チャレンジしてみてもいいんじゃない? って思います。
粕川:そうですね。私の場合はわりと、新しい環境に飛び込んでみたときに、そこならではのおもしろさを発見していくタイプというのもあるかもしれないです。
いま勤務している大型書店と前職の独立系書店では、同じ書店でも本の売り方はまったく違います。私は現時点ではそれをとても刺激的に感じているのですが、抱いていたイメージと違ったり、もっと他のビジネスがしたいという思いから辞めていく方もいらっしゃいます。
粕川:ちょっとずるいんですが、「私のこと好きでしょ」と感じている場所や人のところにしかアクセスしない、というのはあるかもしれません(笑)。自分のスキルや姿勢を認めてくれている人、関心を持ってくれている人に寄り添って居場所を選んでいるので、マイナスのギャップを感じることが少ないのかもしれないですね。
もちろん、自分に合わないと感じたら次のキャリアを選択することも大切だと思うのですが、まずは「この仕事はこういうもの」と決めつけずにやってみるのもいいんじゃないかな、と思います。
取材・文:生湯葉シホ
編集:はてな編集部
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お話を伺った方:粕川ゆき(かすかわ・ゆき)さん