京都には、「会館飲み」という独自の酒場カルチャーがある。

 

京都に何度も来ている人や飲み歩きが好きな人であれば、「ああ、あれか」とピンとくることも多いはず。

 

東京だったら「のんべ横丁」や「思い出横丁」などの横丁文化。大阪だったら「味園ビル」をはじめとするビル飲み文化のように、飲み屋のカルチャーには地域性がある。そして、「会館飲み」は京都の酒場において欠かせないキーワードだ。

 

会館は、低層階の建物に酒場が複数入った「酒場の集合体」のことをいう。詳しく言えば大阪や滋賀にも会館はあるものの、京都ほどはメジャーではないので、京都特有の飲み屋文化であると言っていい。

 

たいていは繁華街のなかでも大通りから1本か2本内側に入ったところにあり、京都の街には「たかせ会館」や「四富会館」「しのぶ会館」などたくさんの会館がいくつも存在している。

 

飲んべえを誘う、小さな酒場がおりなす小銀河

会館の建物の多くは二階建てか、もしくは平家。たいていは木造で、コンクリート製であっても一般的な雑居ビルとはなんだか趣や間取りが違う。

 

薄暗い廊下の左右に並ぶ酒場たち。スナックの扉を居抜きのまま使っているから、賑やかな声が漏れ聞こえるわりに外から様子が見えないところも多い。

 

「ここって入っていいの?」と、一見さんにはすこし緊張感を与える見た目の会館も少なくない。しかしひとたび中に入れば、意外と溶け込めるもの。そこには店主のエッジが効いた空間が広がっている。

 

ちびちびと日本酒を飲める小料理屋があり、空間いっぱいに若者が集うワインバルがあり、中島みゆきの曲がずっと流れ続けるバーがあり、時代をよく知るママが鎮座するスナックがあり、夜中に寿司が食べられる酒場があり……。

 

賑やかに喋りたいならここ、下町っぽい雰囲気ならここ、おなかが空いたらここ……と、会館ごとに異なるキャラクターがある。会館に入居する酒場は基本的に小バコで、7人も入れば満席というところも少なくない。

 

そのため、お店が混んできたら次のお客に場所を明け渡して、会館内の他の酒場をハシゴすることになる。

 

ロマンチックに言いすぎや、というツッコミが入りそうではあるが、夜が宇宙なら、ひとつのお店が星なら、会館はさながら小銀河。見下ろすと、そこかしこに小さな銀河が光を放っている。こうして、飲んべえたちは難破船のごとく会館を飛び回っては酩酊し、何度も墜落しまくってきたのである。

 

こちらは馴染みの会館の酒場でテキーラを入れられ、まさに墜落寸前の私。

 

私はいま神奈川県の逗子と京都で二拠点生活をしている。過去にも雑誌やWebメディアで会館に関する記事は書いてはきたが、京都以外にも居を持ち、あらためて京都独自の「会館飲み」がおもしろいと思うようになってきた。

 

新しく生まれた会館にも、若者の集まる酒場が次々とオープン中

 

しかしこの会館、調べてみると約70年前から成立しはじめ、最盛期には市内各所に100軒を超えるいろんな会館があったり、時代の流れで会館自体がなくなっていたり、あまりにわからないことが多い……!「身近な飲めるとこ」と深く考えずに立ち寄ってきたが、深い歴史といろんな変遷がありそうだなと常々思ってきた。

 

そこで、会館に詳しい人に話を聞いてみることはできないか、と飲み友達を尋ねたところ、ありがたくふたりの有識者とつながることができた。2023年の某日、京都のさまざまな会館をめぐり、会館建築の研究家、京都最古の会館「たかせ会館」の大家さんにお会いしお話をきいてきたわけです。

 

だいぶマニアックな話も多いけど、京都の飲みカルチャーを支える会館について、みんな知ってくれ〜!

 

深い話は後から読む!ひとまず会館に飲みに行きたい人はこちら

 

会館は、都市開発や戦後復興のなかで転用されてきた「元・町家」

木屋町にある「レイホウ会館」2階の酒場「ニュートレセン」に集まった会館好きのみなさん。とりあえず飲んでます。

 

画像左から、会館建築の専門家である加藤政洋先生。加藤さんを繋いでくれた建築リサーチャーの榊原さん、私、そして京都最古の会館「たかせ会館」の大家、大島さん。

 

加藤先生は立命館大学の文学部に勤める文化地理学や都市研究の専門家。『酒場の京都学』(ミネルヴァ書房)など、会館に関する著書も刊行している。フィールドワーク(会館飲み)の経験値も膨大だ。

 

大島さんは、おじいさまの代から家業として「たかせ会館」の大家をつとめる。最古の会館の運営を担うだけあって、会館の歴史にも詳しい。

 

ヒラヤマそもそも、会館とは何なんですか。なんとなく『酒場の集合体』という認識ではあるんですけど」

加藤先生「会館は京町家の一種なんです。会館によく飲みにいく人も、どんなふうに会館カルチャーがはじまってきたのか詳しく知らない人も多いかもしれませんね」

ヒラヤマ「会館って町家だったんですね。 いわゆるあの、京都らしい物件といえばという……」

 

いわゆる京都の町家のイメージ

 

加藤先生「そうですよ。会館って町家建築なんです。軒先の部分だけモルタルなんかの素材で覆って『ビル風』にする、いわゆる看板建築の一種ですね」

大島さん「たかせ会館も町家ですよ。表はビルっぽく改装されてますけど。外側はコンクリート製に見えても、じつは中身は木造の町家建築っていうのは多いです。屋根が瓦だったりしてね」

 

東京都青梅市で撮影。木造家屋のファサード部分に洋風の装飾をあてがい、表面のみ西洋風に仕上げた店舗によくある「看板建築」。古い商店街とかには結構ある。

 

ヒラヤマ「えー!そうだったんだ!」

加藤先生「ひとつの町家をひとつの物件として貸すよりも、部屋数を増やし、飲み屋の集合体にしたほうが、家賃収入も上がりますよね。店舗兼住宅だった京町家が、時代の流れで飲み屋に活用されるようになったと言われています」

 

 

ヒラヤマ「『会館』という名前はどうやってついたんでしょう」

加藤先生「明確な答えはないんですが、大型のキャバレーなんかに『会館』とつけることが戦前からあったみたいですね。それにあやかって酒場の集合体にも『会館』という名前がついて、さらにそれにあやかった形態の建物が増えていったと考えられます」

 

1980年代にピークを迎えた会館の成立

ヒラヤマ「会館っていうと、わかる範囲でいつからはじまったものなんでしょう」

加藤先生「現存しているなかでもっとも古いのは、大島さんが管理されている『たかせ会館』ですね。1956年度版の地図には載っているので、少なくともその時点ではあったと言うことになります」

ヒラヤマ「たかせ会館はどんな変遷をたどってきたんですか?」

 

大島さん「もともとはここで、油屋として商売をしていたそうです。戦時中は松根油という、松の切り株を精製してつくる油を売ってたみたいですね。軒先にドラム缶が3つぐらい並んでて、おばさんがすごい油臭かったとか言うてましたね」

 

たかせ会館のかつてのお写真をお借りしようとしたものの、大家の大島さんでさえ当時のお写真はお持ちでないそう。

昔のたかせ会館のお写真をお持ちの方、何か情報をお持ちの方はぜひ情報提供にご協力ください。

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大島さん「1950年(昭和25年)かな、油屋から旅館に鞍替えしたと聞いてます。『旅館高瀬』という宿で、半分は旅館、半分は住居だったみたいですね。それで、1953年(昭和28年)あたりで、旅館から会館にさらに業態の変化があったと聞いています」

ヒラヤマ「へえ〜!」

大島さん「ただ、もともとたかせ会館より古かったのは、いま話をしているここ、レイホウ会館の前身にあたる木屋町会館だったそうです」

ヒラヤマ「そうなんだ!」

大島さん「ただ、いつだったかな、80年代前半にオーナーが変わって、そのあと火事になったみたいなんですよ。うちも貰い火するくらいの火事だったので、全焼とか、そんなレベルだったんちゃうかなと」

加藤先生「ああ、じゃあその後に現在のレイホウ会館が建ったんだ。どうりでコンクリート製の建物だなあって思ってたんですよね。こう、壁を叩いた感じが……(コンコン)」

ヒラヤマ「そんな調べ方ある?」

 

おもむろに壁をこんこん叩いて材質を確かめる先生。

 

ヒラヤマ「黎明期の会館にはどんな人が働いていたんでしょうね。東京の横丁とかだと、戦争未亡人の方も多かったと聞いています」

加藤先生「もちろん男性もいたし、みんなが戦争未亡人だったというわけではないでしょうけど、多くの女性の働き口にはなっていたとは思いますね」

ヒラヤマ「ひとりでできるお商売っていう、参入障壁の低さはあったでしょうね」

加藤先生「京都って、福井や石川などの日本海側、中国地方や九州など西側から、職を求める人々の流入が多い街なんですよね。祇園なんかのスナックのママも、生まれを聞くと福井や九州の出身だという人が少なくないです」

ヒラヤマ「たかせ会館はどうだったかって聞き及んでますか?」

大島さん「1階には給仕さんのいるフランス料理店が入ってたりして、なかなかハイカラな会館だったみたいですね。でもまだその頃はいまほど商業ビルも多くないし、車もそんなに通らなかったと聞いています。物件のひとつには、髪結いさんがいたという話も聞いてますね」

ヒラヤマ「飲み屋の集合体としての会館が増えてきたのはいつからなんでしょう?」

加藤先生「1960〜1970年代にかけて、地図の刷新とともに会館は増えていきました。1980年代の地図なんて、もうこのあたりにはめちゃくちゃ会館があるんですよ。そのへんでいわゆる『会館ブーム』というか、酒場カルチャーのなかで他所に追随するような動きがあったように思います

ヒラヤマ「20年以上から、会館飲みの文化は愛されてたんですね」

大島さん「たかせ会館もあるこの町内は、会館は多かったですね。もう今は残ってないですけど『セントラル会館』、『一富士会館』、『錦会館』と、いろんな名称の会館がありました」

加藤先生僕が調べたなかでは、トータルで145もの会館が成立しました。建物の老朽化やオーナーの代替わりによる建て直しなんかもあって、1950〜1960年代の会館で現存しているのはどうしても少ないですけど、1970年代後半〜80年代にかけて成立した会館は、いまでもけっこう残ってますよ」

 

いまや観光客もひっきりなしに訪れる京都の名酒場「たつみ」も、じつは「しのぶ会館」という会館の一部。

 

ヒラヤマ「そうなんですね。ほとんどなくなっちゃったものなのかと思ってました」

加藤先生「厳密にいうと『建築物としての会館は残ってる』ですね。飲み屋ではなくなっていたり、酒場の集合体ではなくなっていたり、オーナーが変わって会館の名称を使っていないから検索にかけても出ないだけで、登記簿には住所として会館は残ってたりするんですよね」

ヒラヤマ「へえ〜!とはいえ『けっこう残ってる』っていうのは、減少傾向にあるのが前提にはなりますよね。好きな会館があったんですが、取り壊されていまは有料駐車場になってたことがあって……うっうっ」

 

加藤先生「ただ、僕としては町家を転用したものだけを会館と呼びたいんですよね……。ガイドブックにもよく載っている折鶴会館や四富会館は、本来の会館にあやかってつくられた起源が町家じゃない建物なんですよ」

ヒラヤマ「ほう……?」

 

阪急西院駅から降りてすぐの所にある飲み屋の集合体、折鶴会館。

 

加藤先生「もともとは、ここって調べる限り、町家とかもなく更地だったみたいなんですよ。で、いつからかバラック建築の集合体ができて『折鶴会館』になった。大阪の酒場文化が入ってきて、『会館』という京都風の名づけがされてきたのかなとか」

 

加藤先生「四富会館もね、人気ですよね。建物としておもしろいと思うんですけど、あれも京町家じゃないんですよね。もともとは砂糖問屋だったらしいですね」

 

加藤先生「いろんな会館があるなか、あり方を否定するつもりは毛頭ないんですが、建築という目線でぼくは『会館原理主義』なので、個人的には京都にあるすべての会館を会館とは呼びたくなくて……」

ヒラヤマ「今回はカルチャーの話が主軸だから、急に過激になるのやめてよお!」

 

京都のメインストリートの移り変わりと、会館のはじまり

加藤先生「そもそも、会館が生まれた背景には京都の街の発展が関係していたんです。かつての京都のメインストリートは、現在のメイン通りの河原町通りから1本東に入った裏通り『木屋町通り』でした。木屋町には通りに沿って『高瀬川』が南北に走ってますよね」

 

 

加藤先生「高瀬川は、大阪へと繋がる交通の要所でした。材木とか、醤油とか、重いものを船で運んでいたんですね。そして川沿いはそれらを取り扱う問屋街だったんです」

ヒラヤマ「かつての物流において、川が果たす役割は大きいですよね」

加藤先生「その後走りはじめた路面電車の京都市電も木屋町を通っていたし、一帯はずいぶん賑わっていたみたいですね。しかし、1927年(昭和2年)に、線路が河原町通に掛け変わりました。必然的にメインストリートが河原町通に移ったんです」

 

 

ヒラヤマ「そうすると、問屋としての町家が機能を失ってきますね。京都市電は1978年(昭和53年)に廃止されて車のみが走る道路ですが、いまもメインストリートは河原町通ですし」

加藤先生「時を同じくして1920年代には高瀬川の運送船が廃止されて、木屋町はより、裏通りとしての顔を見せてくるようになります。それから木屋町が飲み屋街となっていくのは、その後の戦後復興がきっかけでした」

 

ここいらでおでんを注文。トレセンは洋風おでんとワインのお店です。モッツァレラチーズが入った巾着、これがまたうまいんよ。

 

加藤先生「戦後は風営法の影響で、メインストリートの河原町通では夜のお店が営業できなかった。だからこそ木屋町エリアにお店が出来て、今にも続く歓楽街になっていったんです」

ヒラヤマ「そのなかで、会館がうまれていったと」

加藤先生問屋街としての機能を失った木屋町には、転用できる町家がたくさんあったんですよね。京都の場合、空襲の数が少なかったので街はそんなに丸焼けになっていなかったから」

ヒラヤマ「なるほど。機能を失った川沿いの町家が、戦後に飲み屋の物件として価値が出てきたってことなんですね。そこから、会館が生まれてきたと。会館はそれ自体が街の変遷を表しているものなんだなあ

 

 

排他的な雰囲気から京都を代表する「飲み文化」へ

ヒラヤマ「それにしても、会館の酒場には一度入ってしまうとハマってしまう魅力があると思うんですよね。会館って、昔からいまのような賑わいがあったんですか?」

加藤先生「いやいや、僕が記憶してる限りでは『会館飲み』といわれるカルチャーが出てきたのって、ここ10年くらいなんですよ

ヒラヤマ「そうなんだ!」

加藤先生「僕が会館でよく飲んでいた頃は、それこそ排他的というか、フラっと来た新参者を寄せつけないような独特の雰囲気がありましたね。若い人も少なかったですよ。そもそもお店の広さ的にも長居するのが難しいから、余計にサッと一杯ひっかけて出るって飲み方でしたね」

ヒラヤマ「他の都市の歓楽街にも言えることですけど、世代交代が進んで若い店主が増えたことで雰囲気が変わってきたんですね。そういう風潮のおかげか、2020年以降になって新しく会館もできましたしね」

 

会館文化をいまに繋げる、新しい会館もできている。2020年には西院に「西院会館」が、2021年には祇園南に「どんぐり会館」がオープン。

 

ヒラヤマ「どんぐり会館なんかは、オープンした時にけっこう話題になりましたね。餃子屋とサウナが一緒になったお店とかあったり、人気のお店の姉妹店が入居したりして」

 

2階手前にあるワインと串揚げの立ち飲み屋「シロトクロ(2023年9末現在休業中)は、ジモコロでも以前取材をした「イルラーゴ」の姉妹店。

 

加藤先生「建築様式はさておいて、新しく会館を名乗る建物が出てきているのは、会館の価値観が変わってきたという証拠でしょうね。ちょっと入りにくそうな雰囲気も、エンタメのひとつになって、若い人を呼び込んでいるんだと思います」

 

どんぐり会館の1階に入っている「夷川餃子なかじま」は、完全予約制のサウナ&水風呂が併設されていることで話題になった。

 

ヒラヤマ「独立したら会館に店を構えたいんだ!っていう人も多いと思いますよ。店がコンパクトだから家賃が比較的安く、若い店主が独立しやすい点もあるけど、単純な値段だけじゃない魅力があるんだと思うんですよね

大島さん「もちろん新規入居には不動産屋さんを通しますけど、『たかせ会館』でお店やりたいって言うてくれはる人はいてますね。ありがたいです」

ヒラヤマ「ここもそうですが、姉妹店を別の会館でオープンさせるってこともよくありますよね。それだけ居心地がいいってことなのかも」

加藤先生「一般的な物件と違って、会館は改装がOKっていうところがあるんですよ。いまは差はあるでしょうが、一昔前だと柱さえ切り倒さなければどう改造してもいいっていうある種の「ユルさ」があって、それが店子が変わっても引き継がれているところがあります

ヒラヤマ「ああ、ありますよね。会館にしては広いなあってお店、よく見ると天井の柄や高さが違ったりする」

 

前の店子はタトゥースタジオだったという「ニュートレセン」も、過去の店子の改装跡がある。天井や壁に段差があり、どうやら3軒をぶち抜いてつくられた模様。

 

加藤先生「会館に限った話ではないですけど、2000年代ごろに『町屋カフェ』や『町家フレンチ』といった業態が出てきた時も、天井を落として梁を見せてもいいし、畳を剥いでもいいし……っておおらかな大家さんが多かったんですよ」

大島さん潰してしまうよりは、元の建物を残しながら活用していってくれたほうがね、うれしいですし」

加藤先生「だからこそ、お店をやる人にとっては自由がきくぶん『いいお店をつくろう』ってやる気がでますよね」

 

大島さん「おおらかさで言うとね、うちのおじいちゃんの時代はまだ銀行振込がなかったので、家賃が手渡しなんですが、家賃の回収を1週間ごとにしてたんですよ。なんでかというと、各店子を回って、家賃をもらってはそこで飲んでたから

ヒラヤマ「酒飲みの猛者すぎる」

大島さん「お酒好きだったんですね。1週間みんなのところを回って飲んで、それが月に4回あるじゃないですか。最終的に手元に入ってくる家賃が目減りしてるっていう」

ヒラヤマ「大家さんでもあり、いちばんの応援者でもあったんですね。いい話だなあ」

大島さん直接手渡しにすることで、店子と喋る機会もつくってたんやと思います。振込だと、それぞれのお店の声ってあんまり聞こえへんけど、お家賃もらいにいったついでに飲んでたら『ちょっとこうしてほしいな』とかお互いに言いやすいでしょ。そういう関係づくりも週ごと回収の理由としてあったと思いますね」

 

会館は「街全体における投資」、だからそう簡単には潰さない

ヒラヤマ「過去無くなっていった会館って、どういう理由が多かったんでしょう?やっぱり地上げ的なこととか?」

加藤先生「いや、地上げはないんじゃないかな。大家さんの意向だと思いますよ」

大島さん「まあ、潰して雑居ビルにしちゃったほうが長期的には運用しやすいっていうのはありますよね。建物はどんどん古くなっていくわけですし……」

 

ヒラヤマ「たかせ会館は70歳近いわけですが、今後、つ、潰しちゃったりとか……」

大島さん「いやいや、それはないです! 一応、最古参の会館として、たかせ会館を守っていかなあかんなとは思ってます」

ヒラヤマ「よかった〜〜〜〜!!」

大島さん「理想は外観だけ残して、中身をごそっと刷新できたらいいんですけどね。時間も費用もかかってしまうので、ちょっとずつやっていかんと……」

 

加藤先生「現存する会館、とくに古い建物であればあるほど、維持をどうしていくかっていうのは課題ですよね」

大島さん「そうなんですよ。古い建物なんで図面もないですし、過去の改装でいろんな管が通っててよくわからないんですよ。なにかあったら、壁全部を壊さなあかんリスクがあるし。あとは下水のインフラ系ですね。下水が詰まったら修繕に軽自動車1台分くらいの経費がかかるんです」

ヒラヤマ「うげ〜〜〜!!!みんな、ぜったいにトイレットペーパーを使いすぎないようにしてね!詰まっちゃうから!!」

大島さん「京都の古い物件は隣の建物と壁を共有していたり、建物と建物の隙間がほとんどなかったりするんですよね。だから外側から鉄骨で補強するとかもできないんですよ。まあ、そのぶん横揺れには強いのかもしれませんけど(笑)」

ヒラヤマもしクラファンとかされるなら教えてくださいね。会館でたくさん飲んできたし、これからも飲みたいので、維持に関われたらいいなあ」

大島さん「まあ、いろいろ大変ではあるんですけど、新しいビルじゃないところに魅力を感じた店主や、お客さんが多いのは事実ですし、最初に会館をつくった人が『飲食店の集合体をつくろう』って思って、それが京都に広まってきたのは、街の人たちの、街全体における投資やと思うんですよ

ヒラヤマ「『街全体における投資』」

大島さん「いろんなお店が京都にあるっていうことが、街をつくるんちゃうかなあと思うんです。となると、お店ができる場所が必要ですよね。いろんなお店が集まる会館がいまも残っているってことに価値があるのかなと」

 

ヒラヤマ「ああ、なるほど。しかもそれが、京都の町家をルーツにしてるというところが重要ですよね。歴史のある建物を潰さずに活用していく、そこからあたらしい文化が生まれて、世代交代が続いていく

大島さん「まさに、そうですね」

ヒラヤマ「大手デベロッパーが再開発でつくった商業ビルが生み出すカルチャーとは違う、地続きの京都というか、町衆の気概を感じますよね」

加藤先生「お寺や近代建築などさまざまな建築物がありますが、京都に会館があるということが、ひとつメジャーシーンではない京都の文化をつくっていく役割をになっているんでしょうね」

大島さん「そうですね。残していかんとですね」

 

まとめ

酒場の集合体である会館は「街への投資」……、なんて気概のあるカッコいい言葉なんでしょう。レトロゆえの魅力を差し置いても、新しい物件の方が便利なのは言わずもがな。なのに店主たちがあえて会館にお店をかまえる理由は、長い時間をかけて街の人たちがつくってきた気概に感化されているからなのかも。

 

というわけで、2ページ目では京都のさまざまな会館をハイライトでご紹介!京都に馴染みのあるみんなも、旅行に来たみんなも、今夜は会館に足を運んでみましょう!

 

巡ってお気に入りのお店を見つけよう!会館紹介ハイライト