こんにちは、ライターの吉野です。 私はこの夏、石川県輪島市を訪れました。輪島市は前から友達夫妻が住んでいることもあって、私にとってほぼ第二のふるさと。

そして、輪島市といえば、元旦に発生した能登半島地震で大きな被害を受けた場所のひとつでもあります。輪島市の観光名所「朝市通り」の大規模火災などがニュースで大きく取り上げられ、記憶に新しい人も多いのではないでしょうか?

今年5月には、被災した友人の桐本滉平くん家族に話を聞き、ジモコロで記事にしました。

写真右が友人の桐本くん

それから3ヶ月経った8月下旬。夏休みを利用して、とある祭りに参加するために輪島を訪れました。

「桐本くん、たしか明日は輪島で最も大きな祭りがあるんだよね?」

『キリコ祭り』という、室町時代から能登各地に根付いているお祭りが開催されるんだ。毎年、能登では夏の約3ヶ月間、合計200以上のキリコ祭りが開催されていて、『夏に能登を旅すればキリコに出会える』と言われるほど。能登の夏はキリコなしに語れないよ」

キリコとは「切子灯籠(きりことうろう)」を縮めた名称のこと

「まだ輪島は震災で大変な状況だと思うけど、そんな中でもキリコ祭りは行われるの?」

8月下旬、輪島の至るところに地震による道路の亀裂や陥没が残っていた

倒壊したままの手つかずの住宅も

「今年は祭りの規模を縮小して実施するんだ。だけど、まだ輪島の宿泊施設が一部しか営業していないから、観光客をほとんど呼べないと思う。だから今年は、輪島の人のための祭りになるはずだよ」

「今年は地震もあったし、キリコ祭りは輪島の人たちにとって意味のあるものになりそうだね」

「能登の祭りの半数以上が今年は中止になった。そんな中、輪島は何とか開催することに決まって、祭りにかける思いはひとしおだと思う。せっかくだし、まいちゃんもキリコを担いでみない?」

「え、いいの。ぜひやりたい〜!」

というわけで、人生初めてのキリコ祭りに参加させてもらうことになりました。

<地元の人に聞いた「キリコ祭り」とは?>

・能登の人にとって「正月よりもキリコ祭りの方が盛り上がる」と言われるほど重要な、年に一度の大行事

・2015年には文化庁が認定した「日本遺産」に認定

・地震の影響で能登地区のキリコ祭りの大半が中止

・輪島地域では地域外の人も参加するため、「1年に1度人口が増える日」に

能登の各地では震災後から市外避難や仕事の都合などの理由で人口流出が進んでおり、特に20代から50代までの現役世代の流出が多いそう。

高さ約6mほどの巨大なキリコを担ぐには、何より若者の力が必要なはず。そんな中、一体どうやって祭りを決行するのでしょう。そして、被災地でどんな風に祭りを紡いでいくのでしょうか? 実際に私もキリコを担ぎながら、祭りの様子をお届けします。

 

また、この祭りの取材から1ヶ月ほど経った9月末に、能登半島北部の奥能登地方を豪雨が襲いました。この記事も一度は公開を見合わせたものの、11月に改めて桐本くんに話を聞くことができ、今回の公開に至りました。

二度の災害を経験し、現在は広島に移住している桐本くんの素直な今の気持ちについても、記事後半でインタビューしています。そちらもあわせて読んでもらえたら嬉しいです!

 

震災後、祭りは自粛するべき?

さて、話は8月に戻ります。輪島のキリコ祭りは夕方から。ですが、桐本くんから「キリコを運ぶ作業があるので、手伝ってほしい!」と言われ、この日は朝の準備から参加することに。

祭りで使用するキリコを搬出するために、大小約30基のキリコが保管されている「輪島キリコ会館」に集合です。

「キリコ会館の中を見渡すと、震災によって壊れたものがいくつもあるね……」

地震で破損したキリコ

「震災後からキリコ会館は休館してたんだ。僕も久しぶりに中に入ったけど、正直ここまで被害が出ているとは思わなかった(※)。キリコの新造には1基当たり約700万〜1000千万円かかると言われていて、破損したキリコをもう一度作り直すのには大きなお金と人手が必要なんだ

※震災後、輪島キリコ会館では約30基のうち20基で被害が確認された

「日常生活が戻るめども立ってないのに、地域でそんなにたくさんの費用を用意するのは難しいよね。そしたら、今日はどのキリコを運ぶの?」

朝市通りの大規模火災に見舞われた『本町九区』が所有している、3本のキリコだね。幸いなことに、これらのキリコは全て地震の被害はなく無事だったんだ」

「よかった。じゃあ夕方の巡行に向けて……」

「いや、今年の『本町九区』の3本のキリコは巡行ではなく、追悼行事として担ぐことになってるんだ」

『本町九区』のキリコは、桐本くんがコロナ禍で中止になった2020年から約1年かけて、町の人たちと修復作業を行っていた。修復作業中の桐本くん(写真左)、キリコに載せる文字を和紙で製作中(写真右)

「そうか、朝市通りは被害の大きかった場所だったね」

「そうなんだ。個人的には、例年のようにキリコを担ぎたい気持ちもあった。だけど『人が亡くなった場所でキリコを出していいのか?』という意見も出たんだよね」

「お祭りをやりたい気持ちがある中で、人が亡くなった場所だし、やってほしくない側の気持ちも分かる。祭りをやる、やらないにはどちらにも配慮が必要なんだね。これはすごく難しい問題だ……」

「そもそも、キリコ祭りの起源は京都の祇園祭にあると言われていて、亡くなった方の魂を鎮めるために行われ始めたんだ。今年は改めて、祭りの起源について向き合う機会にもなったし、やっぱり祭りを続けたいという意志がさらに固まったよ。

だけど、地域の人と長い時間をかけて話し合った結果、追悼行事という形になったんだ

「そんなキリコを今から運んでいくんだね。大事に運ばなきゃ!」

いざ、出発!

地元の人たち含めて総勢30人ほどで、朝市通りの立ち入り禁止区域(※)までキリコを運びます。キリコは最大で2トン、高さが15mあり、実際に持ってみると想像以上に重たい! みんなで力を合わせて、えっさほいさと運んで行くこと約15分、ようやく朝市通りに着きました。

※朝市通りは現在、公費解体のため立ち入り禁止となっている

現地では、まず神主さんによる神事が行われました。本来は地域の人のみが参加できる神事ですが、特別に見せていただけることに。

毎年、祭りを主催している神社の神主さんが来てくれるのですが、今年は『こんな時だからこそ』と無償で行ってくれたそう。朝市通りの解体作業を背景に神事が行われるのは、なんとも不思議な光景です。

桐本くんとアーティスト「YOSHIROTTEN」がコラボ制作した盃

ちなみに今回、神事で地域の人が着用している法被は、桐本くんがデザインや制作費の面で知人の助けを借りながら、新しく制作。震災後、離れ離れになった本町九区の人々とのつながりを表すためのものだそうです。

法被の腰柄は「吉原つなぎ」と呼ばれるもの。連続的につながれた鎖のような紋様で、現在は人と人を結ぶ良縁を意味し、「人間関係を豊かにする」という想いが込められています。

以前、桐本くんから「輪島はこれまでも未曾有の大震災を幾度と乗り越えてきたんだよ」と聞いたことがありました。

実際に能登半島の北部は、過去に大規模な地震が繰り返し起きた場所。お揃いの法被で神事に臨む地元の人たちの姿に、いつの時代もこんな風に祭りが復興の起点となって、輪島の人の心を支えてきたんだなと思いました。

 

ついにキリコ祭りがスタート!

神事が終わり、あたりが暗くなるにつれて、どこからかキリコ祭りの始まりの合図である太鼓の音が。今回、私たちは桐本くんの知り合いの方が所有するキリコを担がせてもらいます。

ちなみにこの日、全国から私も含めて桐本くんの友人が30名ほど集まっていました。担ぎ手の数も集まり、一安心です。

キリコ祭りは本来、豪快なことで知られていて、地区同士で威勢を競い合い、激しく練り歩く姿は日本の祭りでも珍しく、クライマックスでは海辺で松明を燃やし、松明に刺された三本の御幣(紙垂を付けた竹)を奪い合います。

※今年はクライマックスの松明は実施されず

そして、待ちに待ったキリコ祭りがスタート。地元の人に混ざりなが​​ら、「トマト、キュウリ、ナス(テンテ、テンテン、テン)」という」という一定のリズムを刻みながら練り歩きます。

法被を着ているのはキリコを所有する「友遊会」の人々

「よっしゃ、行くぞ〜!」

「まいちゃん、キリコは持って歩くだけじゃなくて、時々走ったり、回ったりするよ!

「え、回る??」

全員が急に走り出す

「「「「「やっせ〜!!!!」」」」

「ちょっと待って! こんなに激しいなんて聞いてない(笑)!」

「よっしゃ! もう一周!!!」

「え! また?」

10分に1回はすごい勢いで回転するキリコ。その激しさに、転んでしまう人も! 私も置いていかれないように必死にキリコを持っていたのですが、そのスピードに体が着いていけず、何度か離脱してしまいました。

「まいちゃん大丈夫?」

「私、昔から体力には自信がある方だったけど、キリコ祭りの熱量には負けてしまいそう……。みんなキリコを担ぐと急に顔つきが変わって、『あれ、この人誰?』となってしまうね」

「僕も含め輪島の人って普段は寡黙な人が多いんだけど、祭りの日だけは変なスイッチが入って、怒りっぽくなったり、人懐っこくなったりと人が変わるんだよね。年に一度、こうやって騒ぐことで日頃溜まっている心のアク抜きしているんだ(笑)」

昼間の桐本くんが

祭りスイッチが入ると、別人に!

「あ、またキリコが始まる! もう一周いくよ〜」

「再び! ちょっと待って〜!」

気がつくと、キリコの上に大人が乗っている

その後、4時間くらいキリコを担いでいるうちに輪島港の近くに到着。それぞれの地区のキリコが並べられ、お互いに戦うように笛や太鼓が激しく鳴り響きます。

そして花火の音と共に、祭りが終了と思いきや……

キリコ祭りのフィナーレ!

みんな自分の地区には帰らず、港でかれこれ1〜2時間は激しく騒いでいます。みんな、その体力どこから出ているの?? 輪島の人のスタミナに驚きっぱなしの時間でした。

 

「祭りを知っていたら、どこにいても絶対に帰ってくる」

にぎやかだった祭りの後。この日のために輪島に帰省していた地元出身の若宮樹くんに、輪島の人にとってキリコ祭りがどんな存在なのか話を聞く機会がありました。

話を聞いた人:若宮樹(わかみや・たつき)

1992年生まれ。輪島市出身。イギリス、スペインでの留学後、会社員を経てフォトグラファー、映像作家に転身。ポートレート、ファッション、MVなどを中心に広告業界で幅広く活動中。桐本くんの中高の同級生でもある。
Instagram:https://www.instagram.com/tatsuki_wakamiya/

「まいちゃん、さっきは頑張ってキリコを担いでたね〜。初めてのキリコ祭りはどうだった?」

「何度か人の渦に飲み込まれそうになって、意識が遠のきそうになったけど、楽しかったよ。それこそ震災後、大きく変わってしまった輪島の街で、地元の人々が祭りを通して誇りを取り戻そうとしている様子がすごく伝わってきた」

「実は、キリコ祭りはコロナの影響もあって2020年から3年連続の中止だったんだ」

「そうなんだ! じゃあ、そんなタイミングで地震が……」

「ようやく祭りができると思った矢先、今年は地震が起こって。『能登の伝統の祭がなくなってしまうかもしれない……』と不安だったけど、今年はなんとか開催することができて本当によかったよ」

「ちなみに、樹くんは年始の地震の時、ちょうど輪島にいたんだよね?」

「うん、家族で初詣に行く途中の高速道路上で地震が起きて。地震で上りも下りも道路が崩落したから、その日は道の駅で車中泊したんだ。その日はすごく寒かったから、被災した人たちと店内にある什器や棚を火種にして暖を取り合いながら、食事をみんなで分け合った。もう終末映画の世界みたいだったなあ」

樹さんが避難した道の駅。被災した当時の様子

「ええ……」

「そして次の日、家族で3時間かけて隣町まで歩いて自宅に戻れたけど、自宅の水道管が壊れていて、住める状態じゃなかった。それで家族と金沢に移動して、5日ぶりにお風呂に入ると、体が疲れていたのか髪の毛がすごく抜けてビックリしたな」

「そんな背景があって、今日の祭りに参加していたとは……。今日は久しぶりに輪島に戻ってきて、街の様子はどう感じた?」

「つい最近、朝市通りの解体作業が始まったり、実家の水道管が治ったりしたけど、正直『8ヶ月経って、まだここまでしか変わっていないのか……』と感じたな。復興には思ったより時間がかかっているけど、今回、キリコ祭りが行われたのは輪島の人にとって前を向く希望になったと思っていて」

2024年5月中頃の朝市通り

2024年8月下旬の様子

「希望?」

「やっぱり震災もあって輪島と言えば暗いニュースが続いている中で、キリコ祭りを通して『輪島は生きているんだよ』と示せるきっかけになったんじゃないかな」

「たしかに、お祭りってその土地の『生きる力』が詰まっているというか。輪島の人がキリコ祭りでエネルギーを大爆発させてるのを見て、驚くとともに恐れ入ったな」

「それと、祭りの最後に上がった花火は地元の高校生たちがクラファンで資金を募ったもので。地元の若者が街を盛り上げようと頑張ってくれている姿を見て、すごく輪島の未来を感じた」

地元の高校生たちが企画した500発あまりの「復興花火」

「たしかに、あの花火には感動したな〜。震災後も変わらず祭りをつないでいきたいと思った地元の高校生の意志の表れでもあるよね」

「輪島は震災後から人口流出が進んでいることもあって、今年は全体的に担ぎ手が不足していたんだ。だけど、まいちゃんみたいに外部からの人も参加することで、中と外の人が上手く混ざり合う。そんな流れがこれからの輪島で必要なことじゃないのかな

「祭りを通して、関係人口を作っていくんだね。今回は縮小して行われたキリコだけど、来年以降はどんな祭りになってほしいと思う?」

「来年こそは本来の規模で開催して、震災をきっかけに輪島から離れた人も、その日だけは帰ってきてほしい。僕はキリコ祭りの太鼓や笛の音を聞くとすごく落ち着くんだけど、キリコ祭りは、能登の人間のDNAに刻まれているはず。祭りを知っていたら、どこにいても帰ってくると思うから、これからもキリコ祭りの伝統は守り続けていきたいよ」

撮影:若宮樹

「コロナや震災で途絶えかけていた祭りが、こうやって形を変えて行われるのは日本全国の希望にもなると思う。今日は祭りに参加できて本当によかったよ」

地震と豪雨。二度の災害を経て、輪島を離れた理由

こうして盛り上がった祭りの約1ヶ月後、9月21日から23日にかけて記録的な豪雨が奥能登を襲いました。

輪島市では大雨の影響で川が氾濫し、住宅や仮設住宅の浸水被害が相次ぎ、多くの人が再び住む場所を失うことに。また、桐本くん本人や家族全員は無事だったものの、実家や自身のアトリエは浸水被害を受けたそう。

それからしばらく経った頃、桐本くんから「輪島から広島に引っ越すことになった」という連絡が来ました。どんな思いで輪島を離れることにしたのか。桐本くんの状況が落ち着いた11月下旬、改めて今の心境について話を聞く機会がありました。

「桐本くん、久しぶり。こうやって顔を見て話すのはキリコ祭り以来だね。今は広島で暮らしているの?」

 

取材はオンラインで行いました

「うん。震災後、生活のために妻だけ地元の広島に戻っていたんだけど、豪雨を機に僕もしばらく広島で暮らすことに決めたんだ。豪雨災害についてはまだ気持ちの整理がつかないけど、あの祭りを通して輪島の人たちと『きっと大丈夫』という感覚を持ち続けることができたと思う。だから唯一、キリコ祭りは開催できて本当によかったよ。

ちなみに、豪雨の中でもキリコは無事で。キリコは元々、災害から守るため高いところに保管されていたし、塗られている漆が防水性に優れた素材なんだ」

「キリコが無事でよかった! 豪雨の時、桐本くんはいち早くSNSで被害状況やスーパーの品薄状態などを投稿していたよね。それを見て、私を含め多くの人が今回の被害の大きさに気づいたと思う」

「地震の時に『とりあえずどんなことでも撮っておこう』って学んだこともあって、非常時に記録するクセがついていたからかな。やっぱり本当の被害状況って、そこにいる人しか分からないしね。

豪雨の日は輪島市内の実家にいたんだけど、昼前に仕事へ行こうと外に出ると、50cmくらいの濁流が山の方から流れてきて。『うわっこれはやばい!』と思い、急いで避難準備をした」

「わあ……」

「自分が体験してみると、豪雨って1秒単位で降水量が変わって水量も増えていくから、考える暇もなく濁流に襲われてしまう。だからこそ災害時は1分1秒でも早く避難が必要だって痛感したよ」

「災害って自分が体験してみて、その本当の恐ろしさに気付くんだね。桐本くんは震災前から地元に対する思いが強かったから、輪島を離れることに決めたのも何か理由があるからだと思っていて。輪島を離れることになった訳を聞いてもいい?」

「僕は地震後、SNSで輪島の状況を発信したり、動物保護のボランティアの活動をしたりしていたけど、気がついたらどんどん貯金が減っていて。やっぱり家族もいるし、生活費を稼がないといけない。それに自分の作品を待ってくれる人のためにも本格的に活動を始めなきゃと思い、一旦、広島で妻と暮らすことに決めたんだ」

「そうだったんだね。輪島を離れてみて、何か気持ちの部分で変化はあった?

輪島を離れてしまうと、たとえアンテナを張っていても現地の情報があまり入ってこないのを感じてる。それに周りが輪島で頑張っている中で、自分だけが安全な場所にいると正直モヤモヤしてしまうこともあって……。だけど、僕には家族がいるし、自分だけ輪島に戻って、生活が苦しいままの状態ではダメだと思ったんだ」

「そこは考えてしまうよね。だけど、まずは自分の暮らしを安定させるのが何よりも大切ことで。それが落ち着いてから、輪島をサポートするので私はいいと思う」

最近、復興の段階で『焦らないこと』を自分に言い聞かせてるんだ。

今、輪島では全国の解体業者さんが働いてくれているお陰で町が少しずつ変わっているし、自分たちが住む復興住宅の目処が立ったら、輪島に戻ろうと考えてる。それまでは僕みたいに災害で故郷を離れざるを得なくなった人同士が繋がって、支え合っていけたらいいなと思っていて。いつか輪島に帰る日まではこっちで頑張っていくよ」

「今日の話で震災後は焦らないことも大事なことだって気づけた。ゆっくり進むことで、見えてくるものがきっとあるもんね。久しぶりに桐本くんの元気な顔が見れてよかったし、またすぐに会おうね〜!」

おわりに

震災による人口流出やキリコの破損など、例年とは大きく異なる今年のキリコ祭り。まだまだ復興に向けて課題が多い中、不安や憤りと向き合いながらも地元の人々とキリコを担いでいると、全員が一丸となって見えない敵と戦ってる感じがしました。

この夏、3ヶ月ぶりに輪島に訪れて、そして豪雨を受けて桐本くんに話を聞いた中で気づいたことは「待つこと」の重みです。

滞在中、震災後も輪島で暮らす友人から「実はあの時こう感じていたんだよね。でも、今話せてよかったよ」と言ってもらえることがありました。災害時、その地域のために何か助力できないかと思った時、焦らず待つことも大事な役割のひとつなのかもしれません。

もうすぐ能登半島地震から一年が経とうとしてます。これから年末にかけてふと能登のことを思い出した時は、過去にジモコロで取材した能登の記事を読んでもらえると嬉しいです。

<お知らせ>
桐本くんが制作した漆の作品が渋谷のd47 MUSEUM(渋谷ヒカリエ8F)で2025年3月16日まで展示されます。もし興味がある人はぜひ見に行ってみてください! イベント詳細はこちら

撮影:橋原大典(@helloelmer