2024年は能登にとって試練ともいえる一年だった。

1月に発生した震災と9月に発生した豪雨は、多くの被災者を生み出し、失われた人命も数多い。

ジモコロでは震災発生以来、さまざまな角度から能登を取材し、そこに生きる人々のリアルを記事にしてきた。震災からほぼ一年半、豪雨から一年というタイミングで、私は改めて能登を訪れ、被災地の現状や暮らし、そこに生きる人々の思いを聞いた。

※取材は2025年8月初旬に行いました

 

「何もない」輪島朝市の光景

今回の取材でもっとも衝撃だったのが、輪島朝市の現在の姿だ。

輪島は震災に伴って発生した火事で大部分が炎上。ジモコロで昨年の6月に取材した際には、焼け跡が生々しく残っていた。

しかし、現在はというと、ほとんどの瓦礫は撤去され、朝市の面影は、ない。唯一、往時の面影を残しているのは以前からそこに立っていた石の道標だけ。それ以外は、青々とした草が一面に広がっている。

地元の人の話によれば、この草の上には、建築家・隈研吾氏の手による新しい商業施設がオープンする予定なのだという。

瓦礫が撤去されたのは、喜ばしいことだ。復興の進展ともいえる。商業施設の計画が決まっているのも、未来があっていい。しかし、この光景を見たとき、私はどこか寂しさにも似た感情を覚えた。

一言で言えば、それは「何かが忘れられていく」感情だ。

今回、能登で目にした様々な光景は、ひとえにこの「忘れられていく」感情を私に思い起こさせるものだった。

 

復興の芽吹きが少しずつ

東京から飛行機で50分ほど。私たちは半島の中央部にある「のと里山空港」に降り立った。到着ロビーには、今夏の祭りの予定が掲示されていた。

今年はキリコ祭りも本格的に再開する。キリコとは灯篭を乗せた山車のこと。キリコ祭りではこのキリコを引っ張って街を練り歩く。能登半島の各地で、7月〜9月にかけて行われる。

空港を出ると、真新しい建物が目に入ってきた。「NOTOMORI」だ。のと里山空港仮設飲食店街とされ、復興支援拠点施設でもある。中はいくつかの飲食店が軒を連ねるが、それらの多くは先の災害で被災した店舗である。

東京からだと、意外に能登は近いんです。羽田から飛行機で約1時間。ですから、ぜひ積極的に遊びに来て欲しいなと」

NOTOMORIにも出店している地元の飲食店「芽吹-mebuki」の池端隼也さんはこう言う。

「芽吹-mebuki」は震災で被災したさまざまな飲食店の店主が集まって作った居酒屋で、夜はもちろん、ランチも和洋を問わないさまざまなメニューが提供されている。輪島に本店があり、NOTOMORIの中にもサテライトで店舗を出店している。

能登豚を使ったスタミナ丼

池端さんは自身も被災者でありながら、いち早く仲間とこの店を立ち上げ、炊き出しへの協力を行った。そうした活動はメディアでも取り上げられ、私たちが訪れた時も、多くのお客さんが来ていた。なかには外国からのお客さんが来ていて、池端さんが愛想よく応対していた。

「ぜひ、また来てください」という池端さんの笑顔からは、能登の復興が少しずつ進んでいることを感じた。

 

日常が戻ったように「見える」

2024年、能登半島への観光客は前年比で54.7%も減少した。今年はどうだろうか。まだ2025年が終わっていないからなんともいえないが、私たちが能登を見た範囲では、その数は少しずつ増えているようにも感じる。輪島・珠洲といった能登半島の主要なエリアを車で回ったが、そのいずれにも観光客らしき人々がいたのだ。

宿泊した珠洲の宿は、ほとんどの部屋が埋まっていて、隣の部屋は家族連れ。車のナンバーを見ても県外が多い。宿の近くには、NHKの番組『ドキュメント72時間』で特集され一躍有名になった「海浜あみだ湯」がある。

1988年創業の大衆浴場で、震災後いち早く営業を再開し、地元の人や復興に携わる人々の心の拠り所になってきた場所である。ジモコロでは、この銭湯を若くして切り盛りする新井健太さん(通称・しんけんさん)のインタビューも行っている。

訪れてみると、中には大学生らしきグループがいて賑やかだった。どうやらその中の一人があみだ湯で働いているようで、夏休みに合わせて友達がやってきたらしい。これだけ見ると、能登にはどこか元通りの日常が戻ってきたかのようにも思える。

能登の震災については、当初からその情報の少なさが問題になってきた。新聞社の人員不足で能登の支局が軒並み閉鎖されていたことも要因の一つだが、震災直後でさえ、そのような状況だったのだ。災害から1年ほど経過した今では、もはやメディアで大々的に能登に関する報道を見ることは、きわめて少なくなった。

そんな状況もあいまって、一見すると、能登は震災前の風景を取り戻したかに見える。しかし、それは「そう見える」だけなのだ。

 

復旧さえ完全にはできていない

例えば、珠洲の町を走ると、電柱や看板は斜めのまま放置され、それが延々と続いている。震災から1年半以上が経過したとは思えない。中には、まだ解体されていない倒壊家屋もある。

道も、傷んだままのところが多い。

地震による地面の隆起だろうか、通行止めになった橋

「道はまだ全然直ってませんよ。私の車も、普通に走っていたら知らないうちにシャフトが四本折れてましたから」

そう語るのは、輪島で海女を営む早瀬千春さん。早瀬さんは海女さん向けのウェットスーツも作っており、その工房までの道は穴が空いていたりと損傷が激しい。私たちも車で走ったが、まるでオフロードを走っているような縦揺れに襲われた。

撮影:編集部

「世間の人はもう復興できているものだと思っているけど、実は復旧もまだですよ」

早瀬さんの旦那さんは土建会社で働いているが、輪島の方ではまだ倒木の撤去作業もままならない状態だという。震災に2024年9月の豪雨も加わって、土砂崩れの跡が至るところで見られる。

倒木の撤去を行う林業従事者の作業が機能していないわけではない。人手が足りないのだ。

「災害で倒木が発生している現場では、まず林業従事者が出動して倒木を撤去します。ですから、自治体や国からさまざまな依頼が来ます。ただ、人数がなかなか足りなくて仕方なく断らざるを得ない仕事も多いです」

能登森林組合本所事業部長の古坊勝利さんはこう言う。取材当日も、珠洲での作業での人手がまだ二人足りていないことを聞かされた。

私たちは実際の木の伐採作業にも立ち会ったが、一本の木を切るだけでも時間と労力がかなりかかる。そこに来て人手が足りないとなれば、復旧が進まないのも当然だといえる。

 

復興の進度はバラバラ

撮影:編集部

それぞれの地域や業種で復興の進み具合がバラバラになっている現状もある。早瀬さんは、こう言う。

「私は海女さん向けのウェットスーツも作っていますが、地震で元の工房が斜めになってしまいました。今は仕方なくそこで作業していますが、やはり仮設の作業場が欲しい。そのための申請をしたのですが、なかなか通らなかった。

何度も役所に言ってなんとか申請できたのですが、海女をはじめとした一次産業も大事な産業で、輪島塗だけが産業ではないぞ、と思いましたね

震災から3ヶ月後の2024年4月には、輪島市によって輪島塗の仮設工房がオープンしていた。早瀬さんの言葉は、この事実を踏まえたものだろう。

もちろん、役所も産業で優劣を付けているわけではないだろうが、どうしてもリソースは限られる。人手も物資も足りないなか、さまざまな人の思惑が交差する。

「海女の頭の中には海の地図があります。けれど、震災後は土砂崩れの影響によって、海の地図が大きく変わった。生物への影響なども調べたいのですが、その予算が出るのも今年度までらしく、来年以降はどうすればいいのか」(早瀬さん)

撮影:編集部

地域によるバラつきもある。

まだまだ能登半島に人は戻ってきていません。ただ、正直、もともとそこまで人がいたのだろうか、という話ではあると思います。やはり人が集まっているのは能登観光の中心である輪島な気もします」

そう語るのは、輪島市から車で1時間ほどの志賀町(旧・富来町)にある赤崎という集落で「TOGISO」という古民家宿を営む佐藤正樹さん。佐藤さんは、2017年から東京と能登を行き来しつつ、赤崎の古民家をリノベーションしている。

「メディアでは、輪島の朝市が燃えた、とか珠洲の見附島が崩れた、のようなセンセーショナルな写真や映像を撮って流していたので、やはり支援も先にそちらへ行きがちです。志賀町も震度7の地震被害があったのですが、ふるさと納税の集まっている金額は、珠洲市や輪島市の10分の1ほど。報道の有無で、支援がこれだけ変わるのだなと

 

薄れる関心の中で、それでも前を向く

TOGISOスタッフと佐藤さん

人々の興味関心が薄れていく中、TOGISOを運営する佐藤さんは前向きだ。

「支援が集まりづらい町なので、僕がSNSをやったり、少しでもメディアで取り上げてもらったりすることで知ってくれる人やこの街に関わってくれる人を増やしていきたいです。

そのために僕は、ある程度ポジティブな発信をずっと心掛けています。地震でこんなにやられたので助けてください、ではなく未来をこうしたいんだ、ということを発信したい。まあ、強がってる部分もあるのかもしれないですが(笑)」

佐藤さんは、公費解体を待たず、自身のお金でTOGISOの敷地にある蔵の解体を行った。

「この辺りの古民家は、柱や梁が優れているものも多くて、他の部分が使えなくても、それらは十分に使える可能性があります。ただ、公費解体だとそれらもすべて壊されてしまうので、あえて自費で解体したんです。震災が起こってから今まで、TOGISOと赤崎集落周辺の施設で一年半で2000万円ぐらい使いました(笑)」

佐藤さんがそこまでするのには、ある野望がある。

「赤崎って、これまで観光で人が来ることはない集落でした。そこに人々がやってくるようになったらすごく面白いじゃないですか。それを、地元の人々と協力しながら持続可能な形で目指したい」

TOGISOの向かいにある土蔵を改装し、震災後に蔵からレスキューした歴史ある輪島塗や九谷焼などを扱う古物店「TOGIZO」をオープン。PayPay決済の無人店舗で、24時間営業中

海女の早瀬さんは、こう言う。

「漁師の人たちも、山で働く人たちもまだまだ色々なことを再建していくのに必死です。会うとみんな笑顔なんですけどね。やっぱり裏では辛いこともたくさんあって、元気に見えていたのに突然亡くなってしまう人もいます。

そんな状況なのに、どうして能登にこだわるのか、と思う人もいるかもしれません。けれど、やっぱりここがいいし、好きなんですよね。ここにとどまるために、みんなすごく頑張っている」

撮影:編集部

最後に、早瀬さんはこう言った。

「輪島の朝市のような観光で有名なところだけでなく、復興が進んでいないところを見たり、そこにいる人たちに話を聞いてみたりして欲しいですね。震災からこれまで、なにがあったのか。

それから、疑問に思って欲しいです。どうして復興が進んでいないのだろう、なぜほったらかしにされている場所があるのだろう、と」

県外にいると、報道がないだけで、能登の復興はもう済んだものだと思ってしまう。更地になった輪島の朝市跡は、もはやそこでかつて何があったのかを忘れさせてしまう。しかし、現実に復興は途上である。業種差や地域差によるバラつきもある。

能登の災害を忘れないために、いったい何ができるのか。能登で生きるさまざまな人の話を聴きながら、そんなことを考えた。

撮影: 杉山慶五

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