
ライター編集者として仕事をさせてもらいながら、地域編集という言葉を掲げ、誌面に限らない編集活動をしたりもする僕にとって、いまもっとも注目な地域編集者が山形にいます。
その編集者とは、山形県最上町・赤倉温泉という小さな温泉街で、「赤倉編集室」を営む山崎香菜子さん。
じつは、普段から「やまかな」と呼んで親しくさせてもらっているのですが、そんな彼女が「選挙に出る」と言い出したときの驚きは忘れられません。その後、見事に最上町の町議会議員として当選を果たした彼女の大きな後押しとなったものこそが、彼女の「編集力」でした。
地域×編集、この幸福な出会いを実践して道を開き続けている彼女のことを、どうかみんなに知ってもらいたい。その一心でお届けする記事です。
クリエイティブな世界に憧れていた女の子が大人になり、今に至るまでのインタビュー。地域の未来を考え悩む同士にどうか届きますように!
話を聞いた人:山崎香菜子さん
1983年生まれ、宮城県白石市出身。多摩美術大学を卒業後、都内で働いたのち、2012年山形へ移住。2014年に結婚を機に最上町へ移り住み、地域おこし協力隊に。自身の結婚式として嫁入り行事「むかさり行列」の復活や複合施設「une」のオープンなどを手がける。2023年から最上町議会議員としても活動。
<目次>
◉小田島等、暮しの手帖、勢いに乗っていた学生時代
◉期限つきの就職で山形県に
◉人生を変えた肘折温泉
◉編むことでつながっていく地域社会
◉掘り起こした「むかさり行列」
◉理想を形にした場所「une」
◉町議会議員として
小田島等、暮しの手帖、勢いに乗っていた学生時代
藤本:そもそも編集やデザインを仕事にしようと思ったのはどうして?
山崎:好きなミュージシャンのCDジャケットをデザインできたらいいな、と思ったのが発端です。
藤本:誰が好きだったの?
山崎:サニーデイ・サービスです。それでアートディレクターの小田島等さんに憧れたんですけど、大学に入ってアートイベントのお手伝いをしていたら、小田島さんと仲良くなって。一緒に飲みに行ったりしていました。
藤本:東京っぽい。
山崎:小田島等さんと川島小鳥さんと3人で飲みに行ったことも。
藤本:第一線の人たちと美大生。勘違いしそうー!
山崎:ほんとに。今思えば完全に浮かれてました。「Central East Tokyo(セントラルイースト・トーキョー)」(※)っていうムーブメントのインターンを6年ぐらいやっていたので、インターンの主みたいになっていて。東京に染まっていた時代ですね。
※Central East Tokyo ……日本橋横山町・馬喰町エリアの「さんかく問屋街」と呼ばれる場所で2003〜2010年に開催された、アート・デザイン・建築の複合イベント
Central East Tokyoインターン時代の写真。右が山崎さん
藤本:その分、社会人になったら壁がありそう。最初に就職したのはどこだったの?
山崎:大学4年生のときにお手伝いしていた暮しの手帖社で、「このまま就職したらいいじゃん」みたいな雰囲気になって、ここでがんばろうと思っていたんです。
藤本:暮しの手帖社にいたの?
山崎:そうなんです。でも当時、編集部の体制が変わって、雑誌の方向性にも変化があって。就職活動の終盤あたりの時期だったので、どうしよう……と思って、紹介してもらった小さな編集プロダクションにアルバイトで入りました。でも求めていた仕事とは違ったので、またモヤモヤして。
藤本:どういうところにモヤモヤを?
山崎:自分はもっと、社会を変えていけるような編集の仕事や、地方のことやひとにフォーカスする取材がしたいなと思ってたんです。それができそうにないなあと思って、日本橋のタウン誌を編集するプロダクションに入ったんですけど、そこも結局8か月くらいで退職して。
藤本:そこでもやりたいこととのギャップを感じちゃったんだね。
山崎:そんなときに、あらためて暮らしのなかで重要なものってなんなのかを考えて。たどり着いたのが、食卓であり、それを囲む家族が幸せであることなのかなって思ったんです。でも、その真ん中にある食べ物が、食料自給率も低くなって脅かされている。だから農業の現場を見たいと思って、日本一大きい青果市場の大田市場で働き始めました。
藤本:すごい転換! やっぱり食卓だって思ったのがすごいな。
山崎:わたしが育った家では、食べ物は、ばあちゃんとじいちゃんが作っていて、ばあちゃんが毎日愚痴を言うんです。「毎日こんなに苦労して米を作ってるのに儲からない。これが農業であっていいのか」って。それに兼業農家で、父親が独立して工務店をやっていたので、親も忙しすぎて。だから、今思えば恵まれている家庭だとは思うし、愛情があったとは思うけど、それが目に見えなかったというか。小学生のころは寂しい思いをしていました。
藤本:だからこそ、食卓が大事だと思ったんだ。
山崎:そうですね。
期限つきの就職で山形県に
農業コーディネーター時代の山崎さん
山崎:そのあと、埼玉で農業コーディネーターっていう仕事をやらせてもらって、兵庫県でも少し働いて。さあ、いよいよ東北へ帰ろうと思って東京で多摩美時代の先生と飲んでたら、その先生が東北芸術工科大学に転職していて。「副手を募集してるから来ない?」って、その場で面接が決まったんです。
藤本:それで採用されて山形に行くことに。
山崎:2012年の4月に行きました。任期は3年だけなのに天職だと思っていました。
藤本:どのあたりが天職だと?
山崎:自分が学び直しをしているような気持ちで働いていたんです。学生だった頃はまだ、惹かれる先生も多くなかったし、いまいちデザインの意義が見えなかったので編集に興味が移ったんです。でも、社会課題を解決する大きな要素としてのデザインを芸工大の先生は教えていたので、地方におけるデザインのおもしろさに気づいたというか。あらためて、編集だけでもデザインだけでもダメだって気づいて。
藤本:大事な気づきだねえ。
山崎:それに、学生はかわいい。人付き合いが得意なわけじゃないのに、学生との付き合いはなぜかすごく楽しくて。お姉さん的に慕われるうれしさもありながら、一緒に考えたり悩んだりするのがおもしろかったんです。
藤本:学生たちから愛情を向けられたら、それを返したくもなるよね。相互に幸せそう。
山崎:単純に大学っていう場所が好きだったのかも。僻地にいる農家のおじいちゃんおばあちゃんの元へ学生と行って、話を聞いて、体感したのちにデザインに落とし込むプロセスを経験できる場所があるって、すごいと思う。
藤本:3年経ってからはどうしたの?
山崎:ずっと起業への憧れがあったんですけど、資金や経験が足りないと思ったので、声をかけてもらった山形県内の印刷会社で企画営業をすることになりました。受注した仕事の編集もさせてもらえて、大きい会社だからこそ得られる仕事も多くて、おもしろかったです。
人生を変えた肘折温泉
藤本:その印刷会社にはどのぐらい?
山崎:2年です。2年目の終わり頃に先輩が独立して、連れて行ってくれなくて寂しいな、わたしも独立したいなって思って。それで、スキルをもっと上げるために、ローカルジャーナリスト養成講座っていうのに参加させてもらったんです。その一環で、個々人で取材先を決めて取材に行く機会があって。
藤本:どこに取材に?
山崎:なんであんな僻地であんなに陽気なひとたちが、おもしろいことをしてるんだろうって、ずっと気になっていた、肘折温泉に行ったんです。
いろんなひとに話を聞いていたら、たまたま「肘折国際音楽祭」っていう、豪雪の時期に国内外から召喚したアーティストが10組くらい来る音楽祭の運営をしている方がいて。「わたしも手伝いたいです」って言ったら「いいよ」って、手伝うことになったんです。そこにいたのが夫です。たまたまボランティアで参加してて、結婚することになっちゃった。
藤本:音楽祭のボランティアで出会ったんだ。結婚まではどのくらい?
山崎:1か月ぐらいで結婚が決まりました。
藤本:とてつもない速さ。
山崎:運命を感じたとかじゃないんです。「いっか」みたいな感じで。食卓とその周りの関係性みたいなところでの家庭への憧れもあるし、年齢も34で、ひとりで暮らしていくのが寂しすぎて。
藤本:そうか。
山崎:夫も結婚をあきらめていたときに出会って。別に結婚という意味ではなく「家、空いてるよ」って言われて。じゃあ住もうかな、みたいな感じで。
藤本:不思議。
山崎:お義母さんも最初から迎え入れてくれて。ここだったら幸せに暮らすことができるんじゃないかなと思ったんです。
藤本:出会ってからひと月っていうことは、印刷会社にいるときに結婚したの?
山崎:結婚することを決めて、計画的に退職に向かいました。退職したあとは、夫の家がある最上町へ。でも、すぐに起業できるほどの資金もつながりもない。そうなったときに、地域おこし協力隊の募集を夫が見つけてくれて。条件に当てはまったので、籍を入れたその月に協力隊に就任したんです。
藤本:任期は何年間?
山崎:3年間です。3年あれば、つながりもできて、どうにかなると思って。正直、後先はあまり考えずに。
藤本:起業しようと思ったときの業務内容は?
山崎:編集と簡単なデザインです。当初、思い描いていたイメージは、田舎で小さな喫茶店兼編集室みたいなものを開いてる姿で。観光客も地域のおばあちゃんもお茶を飲みに来て、いろんな出会いが起こったり、おばあちゃんが何かを教えたり。わたしはそれを見ながら発信をしたり、地域の仕事をもらったり。そんな場所をつくりたいっていう夢が、大田市場にいたときから、ずっとあったんです。
編むことでつながっていく地域社会
藤本:まさに、この赤倉編集室だね。その夢に向かうために、まずは3年間、地域おこし協力隊をやって、ひとや場所との出会いがあるといいなって思っていたと。
山崎:そうですね。フリーミッションだったので、自由に動くことができて。1年目は、「沢原はけごの会」の「はけご」を見つけて、PRのお手伝いに奔走しました。
藤本:はけごって、この「かご」のことだよね。
山崎:そうです。農作物をバーッと入れるかご。もともとは、アケビのつるとかで作られていたんですけど、昭和の終わり頃、梱包資材として使われていたPPバンドを捨てるのがもったいないと思ったおばあちゃんたちが、こぞって、はけごを作り始めたんです。頑丈で、軽くて、汚れてもいい。
藤本:それにカラフル。
山崎:最初は黄色とか青とかが多かったので、カラーリングの勉強会をしたんです。いろんなテキスタイルの画像を見せて「何色も使ってないですよね」って。最低3色で、その1色はモノトーンで、みたいな。
藤本:いろんな色を使いがちなところを抑えていく、引き算を伝えるためにやったんだ。みなさん抵抗なく受け入れてくれた?
山崎:もともとセンスのあるひとは飲み込みが早いというか、お母さんたちのセンスが勝手に上がっていったというか。わたしが考えているものを超えてくるんです。それがおもしろくて。
山崎:でも、やっぱり紫と黒しか使わないおばあちゃんもいて、そういうひとたちは抜けていきました。それで会員が減ってきたところでワークショップを何回かやって。子育て中のママとかが来てくれて、教えるみなさんとも仲良くなって。一緒にやれるレベルまでいったので、正式に会のメンバーになってもらったんです。ふたり残って、加わったのが3人。
藤本:もともとあった会に、うまく関われたのはどうしてだろう。一緒にはけごを作るわけじゃないんでしょ?
山崎:そもそもリスペクトしていて、やたら褒めるからかもしれません(笑)。あと、最初はマルシェとか、いろんなところに持っていって売りました。それまではあげていて、売ってなかったんですよ。
藤本:売れることを教えてくれたんだ。このひとの言うことを聞いていたら売れるかもっていう感覚を掴んだのが大きいのかな。
山崎:そうですね。田舎の女性たち、特に最上町は、男性の後ろに隠れているというか、前に出るなと言われてきた方々が多くて。マルシェとかで、自分が作ったものをお客さんがすごく喜んでくれたり褒めてくれたりする、その瞬間に立ち会うことで、自分が認められた気持ちになるんだと思うんです。そこが一番大きいんじゃないかな。
藤本:そうやってどんどん自由にクリエイティビティを発揮していくのは、日々の暮らしで出せない自分を、ここで出していくっていうのがあったんだね。
山崎:今までの女性たちって、生まれた環境によって、制限されたり、嫁姑問題とかですごく嫌な思いをしながら生きてきて。我慢して、我慢して、それでも心は強く、たくましい。もし、現代にこのお母さんたちが生まれていたら、デザイナーとして一流になるだろうなって思います。
藤本:このはけごの会における、具体的な仕事はほかにもあるの?
山崎:ロゴを作って、タグを作って、販売サイトを作って、ひたすら発信というか。そうしたら、メディアが何社も取り上げてくれて、全国放送もしてもらって。他県からも注文が入るようになりました。
藤本:これをデザインって言うひとのほうが今はまだ多いかもだけど、僕はこれを編集だって思った。だから赤倉編集室として、はけごの会の動きは相当大きなトピックだと思う。
山崎:おばあちゃんたちに地域のことも教えてもらって、この町に馴染むきっかけにもなったし、親ぐらい年齢が離れてるけど、いまだに精神的な支えです。
大好きな旦那さんに先立たれたお母さんが、「つらいときも、これを編んでいるときだけは忘れられる」って。そうやって耐えながら、自分で楽しみを見つけて工夫して生きる強さみたいなものを、一緒に伝えられたらいいなって思います。
掘り起こした「むかさり行列」
藤本:友人としてこれは聞いておきたいと思うのが「むかさり行列」なんだけど、あれはどういう経緯だったの?
山崎:籍を入れるだけの予定で、式をやるつもりはまったくなかったんですけど。芸工大に田舎の結婚式を研究している学生がいて、先生から「何かない?」って相談を受けて。地域の生き字引きみたいなおじいちゃんに聞いたら、「昔、むかさりっていう結婚式があってな」って。歌を歌って、嫁に来たことを地域のみんなが受け入れるような儀式があったことを知ったんです。
藤本:コミュニティに入ってきた、そのお披露目のような。
山崎:なんで女だけって思うところはあるんですけど……。
藤本:たしかに。ただ、いろんな町のひとと出会って関係を築きたい気持ちがあるわけだから、自分がこの町に来たことのPRだと思えばすごくいいって考えたってこと?
山崎:今となればすごいPRだなって思います。
藤本:むかさりへの興味も増していって。
山崎:そう。結婚式って、赤倉温泉という空間を最大限に活用できる。それだったらやる意味があるかもって思ったんです。むかさりは、もともと歩いていたので馬に乗らなくてもいいんです。でも、馬産地だから馬に乗ったらいいんじゃないかなと思って。勝手に脚色していって。
藤本:馬は脚色なの? 単なる再現ではなく、編集が入ってるんだ。
山崎:いろんなところから招待客が来るから、旅館のかっこいい大広間で披露宴をして、泊まってもらえれば、少なからず経済効果もある。この場所(une)は二次会のパーティー会場にしたんですけど、そこで出す食べ物も全部、最上町産の郷土料理を地域のお母さんたちに作ってもらう。そんなふうに、全身全霊で赤倉、最上町をPRする計画を立てて。
山崎:そしたら、事前取材をしてくれた地元紙を見たアマチュアカメラマンが、呼んでもいないのに数十人もきて、お客さんも300人ぐらいいて。知らない人たちが、わたしを見に。震えましたね。馬頭観音で式をやることは誰にも言ってなかったのに、いっぱい人がいる。怖かったです(笑)。
藤本:すごいね。ちなみに本来のむかさり行列はどういうものなの?
山崎:自宅から嫁ぎ先まで、箪笥を持って長持唄を歌っていく道中で、その行列を止めるんです。長持唄を止める唄というのがあって、止められた数が多いほど期待されている、みたいな感じらしくて。
藤本:へえ〜。
山崎:歌詞も、きれいな花嫁が来てくれてうれしいな、みたいな内容なんですけど、止めることで覚悟を問うというか。仲間にしていくような儀式なんです。
藤本:小さな関所を越えていく感じなんだ。
山崎:そう。なので、当時を覚えているおじいちゃんおばあちゃんに協力してもらって、50メートルくらい歩く度に、止めてもらって、歌ってもらって。次の世代にもつなげたかったので、小学校に歌を教えに行って、「歌ってくれない?」って呼びかけて、来てもらったりも。
藤本:すごい。一大プロジェクト!
山崎:これを全部ひとりで企画して、調整したんです。
藤本:半端ねえ! 昔の歌を知ってるひとのリサーチも、自分で動いたわけだよね。小学校の校長先生に相談したりしたわけでしょ。それもこれも、地域おこし協力隊という立場をうまく利用したってこと?
山崎:費用は全部自分で出して、調査する時間は協力隊として動いて。最大の情報発信であり、地域おこしであると思ったので、やらせてもらいました。
藤本:実際PRにつながってるし、地域おこし協力隊の制度を日本一、有効活用したんじゃないかって思う。
山崎:ただ、できることを証明はしたけど、次にやるひとがいないんです。見せ物としてやればいいとも言われたけど、そういうことでもない。意味があってやりたいから、赤倉のひとだけが対象になる。すると、やりたいひとは現れないんです。
ただ、むかさり行列って、たぶんどこでもあって、地域ごとに独自のアレンジがある。そこに表れている地域性をリサーチして、それぞれの地域で再現することはできなくないと思っています。
藤本:この時代で難しいのは、どんな嫁が来たんだって晒されてる感じがするから、やりたいひとがなかなか出てこないよね。だからタイミングも含めて、めちゃくちゃでかい花火を最後にあげた感じがする。
山崎:そうですね。今だったら絶対にやらないです。
藤本:どんなことにも、いいこととわるいことがあるから、どの視点で見るか、当事者としてどう活用するか、みたいなことが大事。それって編集だなって思う。
山崎:そうですね。
藤本:むかさりをやったのは、地域おこし協力隊として入って何年目?
山崎:1年目の終わり頃に準備を始めて、行ったのは2年目です。
藤本:スーパー地域おこしだ。役場側にはまったく描けないビジョンを具現化してる。
山崎:出会ったときにワクワクするというか。浮かぶビジョンがあるんですよね。
藤本:それが編集者の特徴だと思う。
理想を形にした場所「une」
「une」はコワーキングスペース、こどもの遊び場、土産店、カフェの機能を併設した複合施設
藤本:ここ「une」との出会いは? 披露宴をしたって言ってたけど。
山崎:もともとは公民館で、披露宴をした2年後ぐらいに、公民館機能が廃校になる小学校に移転することが決まっていて。建物の雰囲気は好きだったけど、まさか自分が借りて何かをするなんて、1ミリも思ってなかったです。
藤本:おばあちゃんたちがお茶を飲んでるのが見えるような、小さな編集室をやりたかったって言ってたもんね。
山崎:ところが、地元の土木会社の社長さんから突然、ここの駐車場に来い、と電話がきて。
藤本:いくつぐらいのひと?
山崎:今は40代後半かな。地域を活性化させようとがんばってる方で、地産地消エネルギー、地元で使う安心な電力を作っていきたいと活動をされているんですけど。駐車場に着いたら建物の入り口に立っていて、「どう?」って聞かれて。
そこで建物を見ながら、いいイメージが浮かんじゃったんです。「ああいうことも、こういうこともできますよね」って口からどんどん出てきちゃって。そしたら、「じゃあやってみたら?」っていう感じで。
藤本:むかさり第二弾だ。
山崎:ただ、けっこうな規模で借金をしなきゃいけなくて。
藤本:そのひとは具体的に何か助けてくれたの?
山崎:「おれは除雪とか、土木でできることはやっからよ」みたいな感じで協力してくれたり、個人的に寄付をしてくれたり。いまだにそのひとがいないと大変です。
藤本:そのひとすごいね。
山崎:でも、ひとりでやるのか……と思いながらも、なんとかなるっていう感じで走り出したので、一回、本当に怖くなっちゃって。借金することも、こんなところにひとを呼び込めるのかも。
藤本:立ち止まると怖くなるよね。
山崎:「やっぱりやめてもいいですか?」って言ったら、「おれらが支えるから大丈夫だ」って。本当に立ち行かなくなったら助けてくれるとは思うんですけど、わたしの名義で借金をしなきゃいけない。補助金の申請もすごく大変だったので、ノイローゼになりそうでした。
藤本:いくら借金したの?
山崎:500万円です。
藤本:補助金が出てもなお、だよね。加えてランニングコストもかかるし。なかなかの勝負だ。
山崎:事業計画を一生懸命考えたけど、そんなにひとは来ないし。おかげさまで、借金はなんとか返していけてます。
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uneでは定期開催イベント「うねる市」のほか、ワークショップや地元農産物の販売会など、さまざまな催しが日々開催されている
藤本:今オープンして何年目だっけ?
山崎:2022年の4月にオープンしたので3年目です。
藤本:建物自体はそんなに触ってないんだよね。
山崎:そうなんです。きれいにしただけ。
藤本:それがすごいよね。きれいにすればかわいいな、とかが見えてたんだもんね。そこがみんな見えないんだと思う。スタート段階のuneのビジョンは、どういうものだったの?
山崎:コンセプトは「地域編集の拠点」です。ここを使うひとたちが、それぞれの人生のなかでやりたいことを実現したり、子どもたちも、いろんな出会いや発見があったり、それぞれの人生が編集されていくようなきっかけが生まれる場所にしたい、と思ってました。
その要素として、子どもの遊び場と、大人が使うコワーキングスペースと、飲食系で起業したいひとが実験できるレンタルキッチンがあります。あと、はけごの展示販売も。地域の発信拠点でありながら、最初に描いていた小さい編集室のイメージも。
藤本:それをこの広さに合わせて膨らませた感じ。
山崎:そうですね。
町議会議員として
藤本:そして友人として何より驚いたのが、町議会議員選挙だけど。いつから立候補しようと思い始めたの?
山崎:意識し始めたのは、この町に来た当初からかもしれません。地域おこし協力隊として最上町に入っていた男の子が2年目で選挙に立つことになって、夫が手伝いをしていたんです。だから、その子とも仲が良くて、そういうこともありなんだって見えていたので。
藤本:それは大きいね。
山崎:別の地域の集まりでは、選挙に出てほしいって言われてきたというか。今まで女性議員がいなくて、できれば町長のほうがいいとも言われるけど、さすがにそれはイメージできなくて。求められている部分があるのを感じていながら、uneを始めたんです。
始めると、ここに来る子育て世代のひとと話すことが多くなって。子どもの学童の話や学校の話を、子どもを遊ばせながら、お茶しながらするんですよね。いろんな問題点や悩みを聞くうちに、意見が反映されない原因は、議員に女性がいなくて、声を吸い上げる場所もないからかなって考えるようになって。
議員になれば、この町の血税を有効に使えるんじゃないかって、使命感を感じたんです。これが「市」だったら広すぎて、たぶんやらないです。
藤本:なるほど。規模感というか身の丈感って大事だよね。
山崎:「町」だから、だいたい知ってるし、想像ができるし、寄り添える。町の方向性を少し変えるきっかけを作ることが、町議であればできるんじゃないかなって、思っちゃったんですよね。
藤本:すごく重要なことだと思う。何事も一足飛びにはできないから、これだったらやれそう、みたいな手応えを感じるところから始めていくのは大事だよね。立候補したとき、周りのひとたちの反応はどうだった?
山崎:女性が議員に立候補することに対して、絶対に大丈夫って言うひと、心配してくれるひと、それぞれでした。今までも、選挙に出ようとした女のひとはいたんですけど、出る前に家族に潰されちゃうんです。みんな必要だと思ってるのに。
藤本:この町で暮らしていくのにやりづらくなるとか?
山崎:そうです。やりづらくなることはないと思うし、ほかの同じ規模感の地域でも、けっこう前から出てるひとだっているのに。よっぽど強い何かがある。わたしが出やすかったのは親戚が少ないから。それって地盤がないっていうことなんですけど、しがらみがないから猛烈な反発もないんです。
藤本:しがらみの鎖の重さみたいなものはあまりなかったんだね。
山崎:その代わり、手伝ってくれるひとを探すのが大変でした。気持ちでは応援してるけど、直接手伝えないから、選挙期間中にuneの留守番をボランティアでしてくれた友だちもいて。このひとたちに出会えてよかったなと思いました。
子どもを産まないと、なかなか女性のつながりって生まれなかったんですけど、わたしも子どもを産んで、たまたま新所帯であった友だちが今も応援してくれている。そういうのがないと、なかなかやる気も出ない。
山崎:なんのためにやるのかって言ったら、生きづらいと思ってる子どもや、お母さんたちが少しでも『ここで暮らしてよかったな、生きやすいな』って感じる環境を整える手伝いをしたいからなので。
藤本:子どもは未来そのものだもんね。なんでみんな、未来のことをもっと考えないんだろうか。
山崎:子どもを持つひとが減ってきていることもあると思います。でも、前に友だちが「自分に子どもがいなくても、自分の子どものように友だちの子どもと接してるし、そういう関わり方もある」って言ってて、すごくいいなと思って。別に子どもを持つことが正解ではない。けど、関わる機会はあってほしいなって思います。希薄になってきている時代なので、より一層。
藤本:いろんな理由で子どもがいないひとはいっぱいいるから、子どもがいなきゃだめ、みたいな話ではまったくないし。
山崎:まったくないです。
藤本:それよりも、子どもを生産性みたいなところではかる価値観が、あまりチェンジしてないんじゃないかなって思う。そういう男性的な視点で語られ、できあがっていった仕組みみたいなものが強い町に女性議員がいるっていうことが大事。議員の任期は?
山崎:4年です。
藤本:4年後にまた選挙があって、そのときはほかのひとも出てくれそうかな?
山崎:出てほしいです。若いひとたちにどんどん。わたしは循環させたいので、2、3期がんばってバトンタッチして、その想いも引き継いでもらいたい。多世代の視点が入る必要があるので、模擬議会でもなんでも、動きは作りたいと思っています。やる気のあるひとはどんどん外へ出ていってしまうんですけど、探し続けて動いていれば、自ずと出会えるだろうし。
藤本:そういうのを考えたときに、おそらくクリエイティブの世界が政治に向いていく。デザインや編集が政治に掛け算されていくことが、これからの重要なポイントだと思う。
山崎:そうですね。
藤本:1幕目にはけご、2幕目にむさかり行列、3幕目にune、4幕目に議員。こうして振り返ってみると、結果的に、まちの女性たちの未来を編集していくっていうことをやってきたんだなって思った。
山崎:家庭っていう安定する土台があるから馬鹿みたいに飛び回って好きなことをできるんです。そこがなかったら絶対に全部できない。夫は全部を肯定して応援してくれて、できることはしてくれるんです。だから、きっと今後も、その都度、何かにぶちあたって、どこかで挫折することもあるだろうし、怖いけど。自分が正しいと思っていることを、ただまっすぐやっていくしかないですね。
彼女が全力で生きながら編集してきたものはなんだったのか。そして今もなお編集しようと奮闘しているものはなんなのか。その答えのようなものが見えてきたインタビューでした。
彼女を通して、僕は編集のチカラをあらためて見直しています。編集ってすごい。編集者ってすごい。この記事を読んで編集のチカラを信じてくれるひとが、ひとりでも増えるといいなと思っています。
インタビュー:藤本智士(Re:S)
構成:山口はるか(Re:S)
写真:佐竹歩美
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この記事を書いたライター
有限会社りす代表。1974年生まれ。兵庫県在住。編集者。雑誌『Re:S』、フリーマガジン『のんびり』編集長を経て、WEBマガジン『なんも大学』でようやくネットメディア編集長デビュー。けどネットリテラシーなさすぎて、新人の顔でジモコロ潜入中。