地震や豪雨など、自然災害が後を絶たない日本。
予期せぬ事態を前に、重要なことは、しなやかにたくましく回復していくチカラではないでしょうか。
そこで立ち上がったのが「ジモコロレジリエンス」。大きな出来後を経てなお、強く前進する街や人を紹介するシリーズです。
今回、編集者の藤本智士さんが取材した土地は、宮城県の南三陸(みなみさんりく)町。2011年の東日本大震災から13年以上経ち、かつて大きな被害を受けた土地は、さまざまな形で「回復」しています。そこに暮らす人々の歩みと言葉には、前に進んでいくためのヒントが詰まっているはず。3つの物語から見えてくる、南三陸のいまと未来、その第三弾をお届けします。
※レジリエンス……困難をしなやかに乗り越え、回復する力のこと
2022年10月、宮城県南三陸町にオープンした東日本大震災の伝承施設「南三陸311メモリアル」。この施設には、訪れた人が防災について自分ごととして考えるための仕掛けが随所に施されています。
「わからないまま持ち帰ってほしい」と語るのは、「南三陸311メモリアル」の展示構成とコンテンツ制作を担当した吉川由美さん。
細野晴臣さんと青森県森田村の住民がコラボレーションしたコンサート「UN-DOKO」「O・NO・N・NO」や、国民文化祭やまがた2003の開閉会式(プロデューサーは井上ひさしさん)の演出をはじめ、日本全国でさまざまなアートプロジェクトやイベントを手がけてきた方です。
わかりやすさは、時に真の理解を遠ざけてしまいます。わかりやすさばかりが求められる世の中で、これほど胆力のある展示をつくりあげるチカラはどこからきているのか?
「南三陸311メモリアル」に伺い、吉川由美さんのお話を聞いてきました。
話を聞いた人:吉川由美さん
文化事業ディレクター、演出家。東北各地で地域資源を生かしたアートプロジェクトを展開するほか、イベントのプロデュース・演出をつとめる。コミュ二ティと地域資源、文化芸術、観光、教育、医療、福祉などをつなぎながら、地域に活力と新たな価値を創り出す。主な仕事に、青森県森田村の野外円形劇場での細野晴臣らと住民とのコラボレーションによるコンサート「UN-DOKO」「O・NO・N・NO」、八戸ポータルミュージアム はっち(青森県八戸市)文化事業ディレクター、えずこホール(宮城県大河原町)コーディネーター、東北六魂祭パレード演出、第1回東北絆まつり(宮城県仙台市)総合演出など。
学校の先生からはじまったキャリア
藤本:吉川さんの名前を人から聞くたびに、プロデューサー、演出家、アートディレクター、デザイナー、と肩書きが違うんです。吉川さんって一体、何者なんですか?
吉川:わたしも説明するのが難しい。デザインをやってる人、医療福祉系のワークショップをやっている人、学校の先生だったから、『先生』と思っている人もいます。
藤本:学校の先生だったんですね!
吉川:はじめに先生をした学校が、とにかく荒れた学校だったの。毎日が校内暴力で、ある先生が13針縫うケガをしましたとか、警察に生徒を迎えに行ったりとか、大変で。
藤本:ドラマのような話だ。中学では何の先生を?
吉川:美術の先生です。美術って、子どもの行き場のない気持ちを吸収できる学科なんです。だから、ふつうの授業は全然受けていない子も、「美術室では、しゃべらないで物に向き合おう」と言ってデッサンさせると、鏡に映る画家の姿まで描き込む『アルノルフィーニ夫妻の肖像』みたいに、花瓶に写り込む自分をデッサンする。
人間には、何かに集中して無になったり、思索したりする時間が絶対に必要で、そのことで人間は精神の平和を得られるんだなって思ったの。表現っていうのは、苦しい状態を救うんだなと。それが、そのあとの仕事のすべてにつながってると思ってます。
藤本:なるほどぉ。
答えではなく問いを持ち帰る
藤本:「南三陸311メモリアル」は、対話だったり、他人との差異の認識だったり、震災の体験をどう自分ごととして持って帰ってもらうか、みたいなことをすごくかたちにされた場所だと思いました。
吉川:「南三陸311メモリアル」では大きく分けて、ふたつのアート空間をつくっていて。ひとつは、フランスの現代美術家、クリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーション。多くの人が、そこに入ったら「死」というものについて考えてしまうような、異様な感覚を得る部屋です。
その体験をしたあとに、ラーニングシアターに入って、ラーニングプログラムをご覧いただく流れになっています。プログラムの冒頭はボルタンスキーの空間とつながる構成にしているんです。
藤本:あの部屋で、津波から避難するときに、「高台に行ったからといって本当に安全なのか」と問いかけられて、ドキッとしました。
「南三陸311メモリアル」では、東日本大震災を体験した住民たちの証言映像や、震災からこれまでの南三陸町のさまざまなエピソードを収蔵し、企画展のテーマ毎に公開している
吉川:南三陸町は津波にすごく備えていた町なので、みんな、高台にある指定の避難所にすぐ避難したんです。それなのに、指定の避難所の半分ぐらいに津波が到達してしまって、多くの人の命が亡くなった。つまり、100パーセント完璧で安全な避難計画は絶対にないっていうことなんですよね。
藤本:僕ならどうするかっていうことを、すごく考えさせられて、いまだに考えています。
吉川:まさに、モヤモヤした気持ちで、なんの回答も得られないまま帰っていただくって仕掛けになっているんです。
藤本:ラーニングプログラムの映像を見て、隣の人と会話をさせられる場面もたくさんありましたけど、ああいうことも大事ですよね。隣の人がどういう意見か知ると、気づくことがある。
吉川:その場で意見を交換することは、SNSでコミュニケーションをとったつもりになることとは、全然違うこと。そのことに気づけるだけで、楽にもなれるし、もっと豊かになれるのよね。
藤本:こういうプログラムにしようと思ったのはどうしてですか?
吉川:昔、アムステルダムにあるアンネ・フランクの家を見に行ったことがあって。当時はアンネの隠れ家を見たあとに入る小さな部屋で、映像がずっと流れていたんです。
いろんな社会運動のデモが次々と流れ、それぞれのデモについて「あなたは賛同できますか?」って聞かれるんだけど、イエスかノーのアンケートボタンを押すと、その場所で押した人の数がすぐ出てくる。そこで、わたしは絶対にノーでしょ、そんな主張は人権侵害じゃない?と思っても、イエスを押す人もいることを知るんです。
藤本:難しいですね。どんな人も自分の意見を言う権利があるからこそ。
吉川:そう。自分と違う意見の人がいたときに、その人の存在自体は受け入れないといけないわけでしょ。そこからが始まりで、自分と違うものを異質なものとしてすぐ壁の外に追い出してしまうのではなく、その人の立場になって想像してみようよって。
でも、自分以外の人のことを想像するって、本当に難しいことなので、まずは語り合うことが、思いもよらない気づきをくれることを体験してほしいと思っています。それって、結構わくわくしますよね。
町の人とアーティストが出会い生まれるもの
藤本:ラーニングシアターを出たあとに、写真家の浅田政志くんの写真が展示されていて、すごくほっとしました。
吉川:それがもうひとつのアート空間なんです。浅田さんが2013年からずっと南三陸に通って、先が見えず一番大変だった時期にお互い支え合いながら頑張っている姿を撮ってくださっていて。その町民の方たちの写真がたくさん並んでいます。
藤本:みなさん、すごく、すてきな笑顔で。
吉川:どこの被災地でもそうだと思うけど、大変なときに、地域の人たちのなかには笑顔を絶やさず頑張ってる方がいらっしゃるんです。その地域の絆みたいなものが生きる力になったということが、浅田さんの写真で、どこからいらした方にも感じていただけると思います。
藤本:僕も浅田くんとはよくお仕事をさせてもらっているので、関西にいた頃から浅田くんを見てますけど、彼が自分の家族写真を撮るところから、自分以外の家族を撮るようになって、さらに震災後南三陸の写真を撮ったことで、またひとつ次の段階に行ったなあと感じて。
2013年秋から2021年夏まで、浅田政志さんと南三陸町の人々による写真プロジェクトが行われた。浅田さんと住民たちが話し合い、アイデアを出し合いながら47点の写真作品が生まれたという(撮影:浅田政志)
吉川:そうですね。ここに写っている人が、この写真を見ることで、普段は見えていない周りの人の表情を見るじゃないですか。そのときに『自分がひとりで生きていない』ってこととか、『普段はあまり仲良くないけど、こんないい顔してるんだ』とか、気づくことが絶対にあると思う。
地域の中での位置付け、関係性みたいなものがすごく切り取られていて、客観的に見せてくれる。浅田さんの写真は、なかなか客観的な目を持てないわたしたち一般の人に、俯瞰して自分を見るもうひとつの目を与えてくれて、それがすごいなっていつも思うんです。
藤本:浅田くんと南三陸町のみなさんを引き合わせたのは吉川さんですよね。アーティストだけでなく、市井の人々とものをつくっていく楽しさや、そうやってできあがっていくものを吉川さんはいつも大切にされているように感じます。
吉川:わたしがほかの、いわゆるアートプロデューサーとかキュレーターとかと違うかも、と思うことがあって。それはアーティストの才と一般の人たちとが出会うことで、一般の人たちの暮らしぶりとか人生に、ちょっと別な視点を持てる。そういうことにものすごく興味を持った点だと思う。
それに、ふつうの人の人生について聞いてみると、本当におもしろいよね。
藤本:本当にそう思います。もはや、ふつうってなんだろう? とも。
吉川:私が「えずこホール」(※宮城県南部の大河原町にある文化ホール)のコーディネーターをしていたときに、住民劇団の脚本と演出をしていて。セリフを覚えられない70代の人に、ある日、17歳のときに何をやってらっしゃったんですかって聞いてみたんです。
藤本:セリフを覚えられない人に、そうやって何気ない問いを投げてみるのが吉川さんらしいです。それでなんと?
吉川:そうしたら、『土浦の予科練で特攻隊の訓練をしてました』って言われて。そのときに、そうか、この人がまだ紅顔の美少年で、明日死ぬかもしれない特攻隊の飛行機に乗ろうとしていた時代があったんだって、本当にびっくりしました。
藤本:目の前のおじいちゃんの、若かりし日が見えてきたんだ。
吉川:その人は、自分たちの部隊が飛ぶ直前に終戦になって助かったと言っていて、それだけでひとつ演劇ができると思ったのね。終戦後にその人は、鉄鋼の会社に勤めてブラジルに移住したあと、仙台に来て、八幡町に大きなスケートリンクをつくった。その会社の社長さんだったんです。
藤本:へー!
吉川:わたしにとっては、ただのセリフ覚えのわるいおじいちゃんだったのが、これこそがドラマじゃんと。自分のつくってる演劇なんて恥ずかしいと思って、それから台本を書くのはやめて、ワークショップで芝居をつくるようになりました。
藤本:すごい話。それはいくつぐらいのときですか?
吉川:1996年ぐらいかな。30代ぐらいの話ですね。それまでは演出って、こうしなさい、ああしなさい、って言う人だと思っていたんだけど、全然違うなって。
この人たちの、それぞれの人生のことを紡いでいったほうが、よっぽどすごい演劇になると思った。台本を暗記してもらうような作り方はやめて、みんなの話を聞いて、それを紡ぐっていうスタイルに変えたんです。
田舎にある自治のチカラ
藤本:やっぱり、吉川さんって何をするにも聞くっていうスタンスが最初にあるなと思うんです。吉川さんといえば、南三陸のきりこプロジェクトを思い出すんですが、あのプロジェクトにおいて強く感じたのは、この町の女性たちの物語でした。
南三陸みんなのきりこプロジェクト……南三陸の神社が氏子らのために半紙で作る神棚飾り「きりこ」。その様式をベースに、まちの人たちの宝物や思い出などを切り紙で表現。各家々の軒先に飾ったアートプロジェクト。2024年7/24〜11/4まで、南三陸町の約100箇所と南三陸311メモリアルに「みんなのきりこ」を展示中
吉川:強く意識はしてなかったけど、世の中において圧倒的に足りないのが女性の視点なのは間違いないと思う。震災の復興委員もほとんどが男性だし、話し合う場所に女性が入っていることもない。震災を伝承することにおいても、語られている視点は男性的で、別の立場だったらもっと違うことを伝承するはずって思う。
藤本:ああ、たしかに。
吉川:きりこプロジェクトは、女性の話を聞こうと思ったわけではなくて、たまたまそこにいるのが女性が多かったんですよね。だけど、同じように話を伺うと、違いはあって。男性に何かを聞き出そうと思うときは、自意識を取り払って本題に入るまでが大変なことが多い。でも、女の人はすぐにエモーショナルな部分を話してくれるんですね。
藤本:特に記憶みたいなことだと、男性だと手柄みたいになりがちですよね。もっと素朴な思い出を知りたいのに。
吉川:そう。聞き取る側としては『あなたの思いを、あなたがいまどう感じているかを知りたい』と思っているんですよね。だけど、男の人は自分の感想じゃなくて、あるべき姿みたいなのを話しがちなところがあって。日本の場合は特に。
多くの女性の視点は本当に生きることに直結しているから、その視点で何かを語ったほうが、当時どれだけ辛かったかとか、どういうふうに自分が復活していったのかとか、わかりやすい話が聞ける。なかなか本音で話してくれない男性は、たいてい心の中で鎧兜を着てしまっていて、それを脱いでもらうまでが大変よね。
藤本:吉川さんのそのコミュニケーションに対する胆力みたいなものは、どうやって培われてきたんでしょう。
吉川:親が登米市(※宮城県北部の市)の人だから、子どもの頃、盆暮れに必ず田舎に連れて行かれて。「由美ちゃん大きくなったね」って同じことを何回も言われると、子どもなんだから大きくなるの当たり前じゃん、わずらわしいって思って、本当に嫌だったの。
藤本:吉川さんらしい(笑)。
吉川:でも大人になって、南三陸の人たちの復興の有り様を見て、田舎で生きている人たちがやってきたことには、ちゃんと理由があり、生きていくために必須だったんだって教えてもらった。
相入れない人たちとも一緒に酒を飲み、そこでお互いに話したりして、なんとか折り合える線を見つけながら一緒に生きる。それが人の道であって、そういうことができるからこそ、藤本さんが取材してくれたカキ部会の人たちをはじめ、ものすごいことが出来たわけなんだからって。
藤本:たしかに田舎の暮らしには、そういう自治のチカラを感じるものがたくさんありますね。
吉川:そう。自分たちがやるしかない。それに、田舎ではみんなが表現者だから。お祭りのときには笛を吹いたり踊ったりするでしょ。人を楽しませる喜び、ハレの日の人をわくわくさせることへの喜びも田舎で教えてもらったのかな。
藤本:それ、めちゃくちゃ大きいですね。吉川さんのエンタメ力。
吉川:人の生きているところには感動があり、豊かなことがある。自分では価値のあるものと思っていないところに価値を見出せたときの喜びってすごいから、今後もそういうところで仕事をしたいなって思います。
取材:藤本智士
構成:山口はるか
撮影:松浦奈々
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この記事を書いたライター
有限会社りす代表。1974年生まれ。兵庫県在住。編集者。雑誌『Re:S』、フリーマガジン『のんびり』編集長を経て、WEBマガジン『なんも大学』でようやくネットメディア編集長デビュー。けどネットリテラシーなさすぎて、新人の顔でジモコロ潜入中。