この記事は、SNS上の言葉で傷ついたり、逆に、人を傷つけていないか悩んでいるあなたの、お守りになることを願ってつくられたものです。

 

書いているのは、自身も同じ悩みを持つライターの荒田もも。

お話を伺ったのは、校正者の大西寿男(おおにし・としお)さんです。

右が校正者の大西寿男さん、左がライター荒田もも

 

校正とは、本が世の中に出る前に、内容に誤りがないか、表現に不適切なところがないか、前後で矛盾する内容がないか、読みにくくないか、などをチェックする仕事。

みんなが安心して本を読めるように支えてくれている、縁の下の力持ち的存在です。

 

2023年1月、大西さんはNHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出演。

番組のなかで、大西さんは以下のように話していました。

「(SNSなどの投稿に対して)言葉が泣いているっていう気がします。本当はもっとケアしてもらいたいのに

 

「言葉をケアする」ってどういうことだろう。どうやるんだろう。

もしかしたら「校正」というものが、言葉に悩むたくさんの人たちのヒントになるのかもしれない。

 

そんな期待を胸に、大西さんにお話を聞いてきました。

 

大西 寿男さん

1962年、兵庫県神戸市生まれ。岡山大学で考古学を学ぶ。1988年より、校正者として、河出書房新社、集英社、岩波書店、メディカ出版、デアゴスティーニ・ジャパンなどの文芸書、人文書を中心に、実用書や新書から専門書まで幅広く手がける。また、一人出版社「ぼっと舎」を開設、編集・DTP・手製本など自由な本づくりに取り組んできた。企業や大学、カフェなどで校正セミナーやワークショップを担当。技術だけでなく、校正の考え方や心がまえも教える。2016年、ことばの寺子屋「かえるの学校」を共同設立。

「しょせんは言葉」なのに、なんで傷つくんだろう

荒田「校正者さんって、すごく簡単に言うと、言葉を世に出す前に、誤りなどがないかチェックをするお仕事ですよね」

大西「そうですね。以前はあまり知られていない職業だったんです。

2013年に、作家の石井光太さんが新潮社の校閲を絶賛するツイートをされて話題になったり、2016年に宮木あや子さんの小説『校閲ガール』シリーズがドラマ化されたり。そうやって、校正という役割がじわじわと世間に知られていきました」

荒田「いま、誰もが『炎上』しないよう気をつける時代になってきたと感じていて。そういう意味でも校正の価値は上がっているんじゃないかと思うんですが、どうでしょう?」

大西「そうですね。そのことに関連して、ぼくはずっと疑問に思っていることがあるんです。ちょっと脇道にそれるかも知れないけど、どう思うか聞いてもらえますか?」

荒田「はい、ぜひ!」

 

大西「炎上してしまうものって、もちろん動画もあるんですけど、圧倒的に『文字情報』が多いですよね。X(Twitter)での投稿とか」

荒田「そうですね」

大西「実はぼく、それが不思議でしょうがなくて。文字って記号じゃないですか。記号が並んでいるだけのものが、どうしてこんなに人を不幸にしたり、幸せにしたりするんだろうと」

荒田「すごくわかります。わたし自身、たかがSNSだと思っていても、しかも自分に向けて書かれたものじゃなくても、誹謗中傷をしている投稿などを見ると、ものすごく傷ついてしまうんです」

大西「言葉に心が揺れる理由は、いろいろ説明しようと思えばできる。だけど、根本的な疑問はずっと拭えない。だって、しょせん、言葉じゃないですか

荒田「しょせん、言葉……?」

大西「子どものころ、よく言われませんでしたか。『有言実行』とか『口先だけのやつになるな』とか『行動で示せ』とか。社会人になれば、なおのこと。本来、言葉より行動のほうがはるかに大事だし、突き詰めれば言葉は『かりそめ』のものじゃないですか」

荒田「たしかに、言葉に実体はないですよね。物理的な傷なら、グーパンチされるほうが攻撃力は高いはず」

大西「そうそう。だから言葉を扱う出版業も、なにか具体的な製品をつくる製造業に比べたら、『虚業』といわれるのではないか。そんな『かりそめ』のものであるはずの言葉が、なぜこんなにも人を生かしもするし、殺しもするんだろうと」

荒田「でも、わたしたちが小説などの言葉に救われているのも事実です。そう考えるとすごく不思議ですね……」

SNSの投稿は「書き言葉」? それとも「話し言葉」?

大西「さらにぼくは、『話し言葉』と『書き言葉』もまた違う言葉だと思っていて」

荒田「あ〜……。SNSの言葉は、どっちなんでしょうね。両方の要素があるような」

大西「おもしろい問いですよね。荒田さんはどう思われます?」

荒田「見ていて辛い投稿は、パッと投げつけられているような印象を受けます。走り書きよりもっとスピードの速い、叫び声みたいな。口から発しているのに近い言葉というか」

大西「たしかに。口で話しているような感覚で、SNSを使っている人も多いかもしれない。けれど、実際は画面の『文字』に変換されていますよね。つまり言葉は、文字になった瞬間、どうしてもフォーマルになってしまうという宿命があるんです」

荒田「書き言葉は、フォーマルになる?」

大西「今のSNSアプリはきちんと見た目がデザインされているから、画面上へ綺麗な活字(デジタルフォント)の状態で表示されるでしょう。だから、本当はちゃんと書けていないのに、『すごく書けてる』ように見えるんです」

 

荒田「活字になると、印象は変わるかもしれません。急に、それっぽく見えるというか」

大西「デバイスもものすごく進化していて、自分の身体の一歩先に、画面のなかのデジタルの世界がシームレスにあるような状態に近づいている。昔のタイプライターをバチンバチンと音を立てて打つような感じではなく、スラスラスラ~ッと喋る延長みたいに文字化できてしまう。音声入力もありますし」

荒田「たしかに、活字を世に出すハードルは確実に下がってますね」

大西「だから、すごく生々しい言葉なんだけど、SNSの投稿になったとたん、いきなりオフィシャルになっちゃうんです。昔は文字でなにかを表現しようとすると、面倒くさい工程がたくさんあったんですけど」

荒田「手紙を書いて、切手を貼って投函して、何日か経って相手に届いて……。それが一瞬でできるようになった。手間がかからなくなって、みんなが表現者になれる時代が来たけれど、同時に、言葉で傷つく人も多くなってますよね」

 

大西「本来、『自分のなかにある言葉』と『客観的な存在としての文字の言葉』は、かなり違うものだと思うんです」

荒田「『客観的な文字』というのは、SNSの投稿のような、他人から見える状態になった言葉ということですか?」

大西「そうですね。だけど、それに気がついていない人が多いために、炎上のようなことも増えているような気がします」

荒田「思っている以上に言葉が誰かを傷つけてしまったり、思わぬ相手に届いてしまったり……」

大西「いまのわたしたちはあまりにも膨大な、客観的文字と一緒に暮らしている。しかも、その変化はここ20年足らずで起こっていることなんです」

「魔法がド下手な魔法使いもいる」ことを知る

荒田「わたしたちは昔の人たちよりも、たくさんの文字に触れながら暮らしているってことですか?」

大西「『文字』というものは本来、ごくごくひと握りの学者、宗教家、権力者、王様のような特権階級の人たちだけが操っていたんです。本を書いたり出版できるのも、ごく限られた人たちだけでした。

読み書きできる人も少なかったし、文字とそれを乗せて運ぶ本は、大事な情報を広く伝えられるようにしたり、未来に残したりするための特別な道具。たとえるなら、魔法みたいなものですよね」

荒田「魔法……!!」

大西「現代のぼくたちは皆、それをごく普通に使うことができてしまっているわけです」

荒田「昔は一部の訓練した魔法使いしか使えなかった呪文を、いまは誰しもが使えて、しかも無闇やたらに乱射しているような」

大西「いや、ほんとに(笑)。しかも、さっき言ったように、手書きより活字のほうがフォーマルでちゃんと書けているように見えるし、伝わってしまいやすい」

荒田「自分は『ひとりごと』だと思っていても、見る人によっては『ちゃんとした発言』に見えてしまう。それではみんな戸惑ったり、混乱したり、ムカついたりしますよね」

大西「はい。いま言葉の世界に、歴史的に見ても誰も経験したことがないような、大変なことが起こっているんです。だから、なんというか、いろいろなことが起こってもしょうがない。誰もコントロールできない」

 

荒田「……やっぱりSNSをやめようかなと思ってきました……」

大西「耐えられなかったらやめていいと思いますよ」

荒田「怖いし、逃げ出したいです」

大西「でも、言い換えると、言葉や文字の世界にものすごくおもしろいこと、大変革が起こっているということ。それはもっとみんなに気づいて欲しいですね。いま、人類史上、すごくわくわくするようなことが日常的に起こっているのに、多くの人が素通りしている気がするから」

荒田「そうか。わたしたちは、たとえ下手でも魔法を使うことができるんですもんね。それはたしかにわくわくするかも」

大西「はい」

荒田「でも、魔法が下手な魔法使いもたくさんいる。自分も含めて」

大西「そう考えれば、言葉との距離の取り方を考えることができるかなと思います」

荒田「そうですね。飛び交う言葉全部を受け止めてしまうと、とても耐えられないということもわかりました」

大西全てを真正面から受け止めちゃうと、やられちゃうと思います。誰だって耐えられない。ダメージ1でも、100回受けたら致命傷になることもある」

 

言葉はその人とイコールではない。伝わったらラッキー

大西言葉って、基本的にはわかってもらいたいじゃないですか。どんなにつまらないことでも、それこそつまらないジョークでもウケたいし、わかってほしいし」

荒田「わかります。つまらないジョークでもスルーされると凹みますよね……」

大西「そうそう。別にウケを狙ってなくてもね(笑)。でも、なかなか受け止めてもらえない。むしろ意味を逆に取られることすらある。その絶望感が大きいんですよね」

荒田「だからなのか、SNSをやめる人も多くなってきましたよね」

大西「ただの『つぶやき』で済めば、別にいいんですけどね。でも、ひとりごとでさえ、言葉はどこか、誰かに受け止めてもらいたいといつも思っている。だから、発言した本人にも絶対コントロールできない」

荒田「『受け止めてもらいたいから、コントロールできない』? どういうことですか?」

大西言葉というのは発した途端、どんどんひとり歩きをするんです。口にした瞬間、文字にした瞬間にどんどん自分から離れていく。発信者が思ってもみなかった、いろいろな意味や要素をまといながら」

荒田「他人の感情はコントロールできないのと同じように……」

大西「はい。自分の言葉もコントロールできない。それを知っておくことは、とても重要かもしれません」

荒田「なるほどなあ」

 

荒田「いまって、すこし間違えた投稿をするだけで、炎上して一発KOになってしまう感じがして、すごく怖いと感じています」

大西「そうですよね。ぼくは、誰もが『人は必ず間違える』ことを前提にして会話するのが一番いいと思っています」

荒田「『人は必ず間違える』。どういうことでしょうか?」

大西「校正の仕事をしていると、実にたくさんの、いろんな方の原稿を読みます。すると、どんなに売れっ子の作家でも第一線の学者でも、『最初から100%完璧な原稿なんてない』ということがわかります。誤字や脱字、事実関係の誤り、表現上の問題……」

荒田「プロの作家でも間違えることがある」

大西「著者だけではありません。校正者だって、間違えます。勘違いもあれば、誤解もある。だから、わたしたちは原稿をチェックするとき、自分の記憶や感覚をあてにしないで、辞書や資料をたくさん調べたり、原稿を何度も読み直したりします」

荒田「何回も何回も見直して、書籍などの言葉はようやく世の中に出るんですね」

大西「人は間違える生き物。あなたもわたしも。だから、『やり直しのきく関係』がすごく大事になってくるわけですよね一度まずいことを言ったけれど、謝ることができたり、話し合える。でもこの時代、なかなかそういう時間を持つのは難しいです」

荒田「次から次へと情報が飛び交っているから、ひとつの話題に長くとどまることがないんですよね。これはわたしも反省していて……」

大西「現時点でものすごく腹を立つことを言っている人も、10年後に同じことを言っているかはわからないでしょう。酷い発言をしている人が、10年後には、ものすごくいいことを言っているかもしれない。それはもしかしたら10年後じゃなくて来年かもしれないし、明日かもしれない」

荒田「人は変わるものだから、それを待つことができれば」

大西「はい。自分も変わるのだから、人も変わるはず。変わる余地を、もっと人や言葉に与えてあげたいという感じはありますよね。今はひとつ間違ったらその瞬間、全ペケになってしまう。ちょっと怖いですよね」

 

大西「最近は、本の校正に対するSNS上での指摘もけっこうシビアになっていて。誤字脱字の見落としは言われても仕方ないんですけど、『表記揺れ』を厳しく問われることがあるんですね。『表記揺れがあるからこの本はロクな本じゃない』『校正者はなにをやってるんだ』と評価されちゃうんです」

荒田「表記揺れって、たとえば、同じ本のなかで『一人』と『ひとり』が混在しているような」

大西「そうです。本によるのですが、例えば文芸書のような、表現が大事になってくる本の場合、表記統一を杓子定規にやるのはよくない場合があるんですね。表記を揃えることで失われる、ニュアンスとか感覚とか、生理的な部分もたくさんある。だから、表記揺れを100%許さないというのはどうかな、という気持ちがあります。

近年は多くの人が校正・校閲に対していろいろ関心を持ってくれて嬉しいと思う反面、SNSを見ていると『それは誤解なんです』と訴えたいようなこともたくさんありますね」

 

荒田「その人なりの正しさで発言されているんでしょうね」

大西「SNSに限らず、世の中の至るところで、『正しさ』という仮面をかぶって、言いたいことを言っている気がしますね。その人が本当に言いたいのは『間違ってますよ』ということじゃなくて、もっと別のなにかなんだな、みたいなこともよくあって」

荒田「『ストレスを解消したい』みたいな気持ちだったり……」

大西「だけどそれはもう、その人の世界だから、想像してもしょうがない。言葉はぜんぜん完全なものではないし、その人をそのまま正しく表しているものでもない。

なにか、自分には絶対にわからないストーリーを経て言葉がいまここにあるんだということを、気持ちが落ち着いたら思い出してみる。そういう言葉との距離の取り方、付き合い方が大事ではないかなと思っていて」

荒田「なるほど」

大西「ほんとは、相手にちゃんと伝わったら奇跡みたいなことなんです。ほとんどの場合、『なんで伝わらないの』っていうのがベースにあるでしょう。でも、伝わらなくて当たり前。そんなところから出発できたら、逆に『伝わったじゃん、珍しい、ありがとう!』って思えるんじゃないでしょうか」

荒田「SNSも、『いいね』の数を気にし出すとキリがないけど、『あ、いいねがついた! 伝わったんだ。ラッキー。ありがたい!』って思えればいいですね」

大西「あとはね、自分の気持ちに素直になることも、すごく大事だと思っています。自分はいまどこに立っていて、怒っているのか、悔しいのか、悲しいのか、嬉しいのか、おかしくてしょうがないのか。どういう状態で、誰に向かって本当はなにを言いたいのか。現在の自分に対して素直になる。

素直になったからといって素直に言葉にする必要はないんですけど。でも、まず自分に対して素直にならないと、言っていることと思っていることがぜんぜんバラバラになっちゃう

荒田「自分に素直じゃないと、満たされてないとか、あり余っているものを人にぶつけちゃう。その状態に気づいていないのが、本人にとっても相手にとっても一番辛いですね」

大西「やっぱり自分に対して正直にならないと、自分の言葉に対しても正直になれないから。いまの自分のことを、よくても悪くても、そのまま認める。まあ、言うは易し、行うは難しなんですが(笑)」

荒田「自分の本当に思っていることを口にしたり、誰かに伝えられている状態になりたいな」

大西「はい。だけど、自分の本当に言いたいことってわからないもの。大抵、間違ったところからはじめてしまうんですけどね(笑)。100%完璧な原稿がないのと同じように、最初からちゃんと自分の言葉をつかめている人はいないんだと思います」

言いたいことが伝わった経験が、少しでもあれば大丈夫

荒田「さきほど、『しょせんは言葉』とおっしゃっていましたよね。だけど、大西さんは言葉に魅力を感じているからこそ、校正のお仕事をしているのかなと思っていて。伝わらない、成就しない言葉も多いこの時代で、言葉に関わるお仕事をされているのはどうしてなんでしょうか」

大西「あー、なんだろう……」

 

大西「校正の仕事をするようになったルーツと言ったらいいのか、根っこになる体験がありまして」

荒田「聞きたいです」

大西「子どものころ、ぼくは母と喋るのがすごく好きだったんです。外で遊ぶのが好きなタイプでもなかったので、家で本を読んだり、折り紙や工作をしたりして遊んでいました。それから、家事の手伝いをしながらずっと母と会話しているのも好きでした。一緒に買い物に行って、献立を話し合いながら帰って来るとか。思春期になると、夜中に眠れないとき、話を聞いてもらったり、とにかくずっとお喋りをしていました」

荒田「素敵ですね」

大西「そういう母との言葉のキャッチボールが、すごく楽しかったんですよね。だから、言葉っていうのはすごく気持ちがよくて、おもしろくて、嬉しいものだと思っていました。逆に言いたいことが伝わらなかったときも、一度でも伝わった経験があるから信じられるし、投げ出すことはしなかった」

荒田「お母さんに『伝わっている』と感じられていたんですね」

大西「母はすごく聞き上手だったんです。ふたりで喋っていると、どんどん話題が広がって、思いがけない方向に行ったり。そういうお喋りが、単純にすごく楽しかったんですね」

荒田「そういう会話っていいですよね。『自分、こんなこと考えてたんだ』って気づきがあるような」

大西「そうそう。すごく盛り上がって、『あれ、そういえばなんでこんな話になったんだっけ』となっちゃうくらいの会話って楽しいじゃないですか」

荒田「それって、『間違ってる』『合ってる』の指標だけで話していると、なかなか辿り着かないですよね。どちらかの価値観に合わせるのではなくて、一緒に探検したり、一緒に迷子になるような会話だから」

 

大西「ほんとにそうですね。ちっちゃな日常的なレベルでいいと思うんですけど、たとえば家族でも友だちでも、仕事の相手でもいいんですけど、ちゃんとお互いの言いたいことが伝わる会話ができたら気持ちがいいですよね。完璧じゃなくてもいいんです。『伝わって嬉しい』という積み重ねが、生活のなかにちょっとでもあったら、わたしたちはたぶん『大丈夫』だと思うんですよ」

荒田「小さなことでも、相手に伝わると本当に嬉しいですもんね」

大西「自分がいま嬉しいとか、悲しいとか辛いとか。それをわかってくれる人がひとりでもいたら、ものすごく幸せですね。それは自分の言葉が満たされる体験だから」

荒田「『プロフェッショナル 仕事の流儀』や今日のお話を通じて、大西さんが言葉のことをとても好きなんだということが伝わりました。校正の仕事って、どうしても『こう書いちゃだめです』という指摘をする役割のイメージがあったんですが、そうじゃない。

校正者さんが、『書いちゃだめ』じゃなくて『自由に書いてください。ぼくたちがいるので』と言ってくれるから、書き手が自由に書けるんですね」

大西「校正者は『もっともっと書いて』って思ってますよ。行き過ぎると、『ちょっと待って~!』ってなるけど(笑)。

どこかブレーキがかかっていたり、なにか常識が邪魔していたり。そういうしがらみをどんどん外していって、本当に言いたいことを見つけてください、というのが、校正者としての一番の思いですかね」

荒田「書き手を肯定する姿勢を感じました。自分の心のなかに小さな校正者を住まわせていれば、すごく自由に言葉が扱えるようになるのかも、と思ったり」

大西「『小さな校正者』、いいですね(笑)。言葉が行き過ぎてしまいそうなとき、それを未然に防ぐセーフティネットにもなるし、なにか攻撃があったときの防波堤にもなるし。そして、言葉をのびのびと使うための翼にもなる

荒田「のびのびと。自分の言葉をあまり押し込めずに使えるようになりたいです」

 

大西「どんなに奔放な言葉を使う人でも、おそらくどこかで自分を押し込めていますから。言葉との付き合い方を学ぶと、もっとのびのびと言葉を使えるようになると思うんです」

荒田「わたしは最近、言葉で傷つくことが本当に多くて。極端な例かもしれないですけど、言葉が原因で死んでしまう人もいるっていうのが、とても怖くて辛かったんです。今日のお話を聞けてよかったなあと思います。言葉ともっと冷静に、もっとのびのびと付き合っていけるという予感がしました」

大西「人間は、言葉なしで生きることはできないから。言葉を操るのはとても大変だけど、言葉はあなたを助けてくれもするから。お互いに、上手く付き合っていきましょうね」

まとめ 言葉で傷ついているあなたへ

「今、言葉の世界に大変革が起きている。戸惑うのも無理はない!」

「SNSに溢れる言葉は『ちゃんと書けている』ように見えるけど、本当はまとまっていない言葉たち」

「人と言葉はイコールではない。それぞれ独立した存在だと考える」

「『人は必ず間違える』ことを前提にして会話する」

「自分の素直な気持ちを見つめてみる」

 

大西さんのお話のなかで出てきた、これらの言葉が、最近悩んでいた自分の心に沁み入るように感じました。

「しょせん、言葉は言葉だから」と思い、距離を取ることができるだけで、心無い言葉で傷つくことは減りそうです。

 

いっぽうで、たくさんの人が言葉に魅了され、難しいと知りながら表現を続けるのは、言葉こそが自分の気持ちを表してくれるのだという、どこか確信めいた感情が一人ひとりの心のなかにあるからではないでしょうか。

 

言葉から身を守る、そして言葉を伸び伸びと扱うヒントが、「校正」という営みには詰まっているのかもしれません。

 

「校正」の仕事に興味を持った方は、ぜひ、大西さんの著書『校正のこころ』を開いてみてください。

大西 寿男・著『校正のこころ 増補改訂第二版 積極的受け身のすすめ』(創元社)