カーレンジャーが好きすぎて「戦隊の助監督」になった荒川史絵が叶えた目標と新たな野望

荒川さん

1975年に放映開始した『秘密戦隊ゴレンジャー』にはじまり*1、およそ40年の歴史を誇るスーパー戦隊シリーズ。特撮ヒーロー作品の代表格として知られる「戦隊」において、女性で初めて監督を務めたのが荒川史絵さんです。高校生の頃『激走戦隊カーレンジャー』に憧れ、映像系の大学を経て特撮の道へ進んだ荒川さん。助監督としてさまざまな戦隊シリーズに関わり、2015年に『烈車戦隊トッキュウジャー』のVシネマ作品『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー夢の超トッキュウ7号』にて監督デビューを果たします。

仕事がどんなにつらくても、目標になかなか手が届かなくても、戦隊を嫌いになることはなかったという荒川さん。好きを仕事にし、大きな夢を叶えるまでの道のりについて伺いました。

高2の夏、突如「戦隊ヒーロー」に開眼

まず、荒川さんが戦隊に本格的にはまったきっかけを教えてください。

荒川さん(以下、荒川) 高校2年生の夏に『激走戦隊カーレンジャー』を、たまたまテレビで見たことがきっかけです。最初はなんとなく眺めてたんですが、エンディングテーマで流れた『天国サンバ』の歌詞が気になったんですよ。

激走戦隊カーレンジャー……1996年3月〜1997年2月まで放送された特撮テレビドラマ。『秘密戦隊ゴレンジャー』から数えると20作目のスーパー戦隊シリーズ。自動車会社に勤める5人の若者が「激走戦隊カーレンジャー」となり、宇宙の暴走族「ボーゾック」の悪巧みを阻止するために「クルマジックパワー」を使い戦っていく。作品のモチーフは「車」。敵が「5対1は卑怯」と言い放ったり、普段は会社員として過ごすカーレンジャーたちの給料を公開したりと、シュールな物語が展開される。リーダーであるレッドレーサーは、自動車会社ペガサスのテストドライバー陣内恭介(演:岸祐二)が変身する

というと……?

荒川 「キックはやさしくしてね」とか「ラーメンおごっちゃうからたまには負けたりしてね」とか、“悪の戦闘員目線”の歌なんです。「なんだこれ、面白い!」と思って、翌週からちゃんと見るようになり、気付けばハマっていました。

歴史ある戦隊シリーズの中でもカーレンジャーはやや異色……というか、変わった作品として知られていますよね。斬新な設定・演出は当時の子どもたちの度肝を抜いたように思います。

荒川 そう、そこが魅力でもあるのですが……当時としてはちょっと早すぎたのかもしれませんね。ツッコミどころが満載で、今ならSNSで話題になりそうですけど。

でも、荒川さんは夢中になった。どんな点が特に魅力だったんでしょうか?

荒川 長くなるけど、いいですか?

お願いします。

荒川 まず、カーレンジャーは変身前と変身後の姿との「リンク率」がすごいんです。戦隊作品の多くは戦う時だけ変身して、物語の部分とか、重要なお芝居はすっぴん(変身前)の状態でやることが多いんです。でも、カーレンジャーは変身した姿のままで普通に日常に溶け込んでいて、その状態で芝居をしているシーンが多くて。そのおかしさがたまらなく好きで。

それから、全体的にコメディタッチなんですけど、そのうちの2割くらい、すごく熱いシーンがあるんですよ。そもそもコメディ的な演出も狙っていないというか、カーレンジャーの世界ではそれがかっこよかったり、正義だったりする。傍から見たら、だいぶおかしいんですけどね。そのギャップみたいなものも、大好きです。作品をどんな視点で楽しむかは人によって異なりますが、私はこのあたりにやられました。

荒川さん

特に印象深いシーンは?

荒川 たくさんありますが、あえて挙げるなら第32話の『RVロボ大逆走!』という回ですね。レッドレーサーがリーダーとしての自覚を持てと言われて暴走するシーンが一番好きです。あとは、終盤で陣内恭介(レッドレーサー)があえて変身せずにゾンネット(敵役である宇宙暴走族ボーゾックの女性幹部)への愛を語るシーンも最高です。

「戦隊史上初の女性監督」の座は、誰にも渡したくなかった

カーレンジャーを好きになったことで、「戦隊を作る人」になろうと考えたわけですか?

荒川 そうですね、何かしらの形で関わってみたいと思いました。ちょうど進路を決める時期で、国語と英語は得意だったので文系に進もうと考えていたのですが、社会が苦手で……。それで、国語と英語だけで受験できる映像系の大学に行き、東映に入って特撮の仕事をしたいと。

特撮の仕事といっても美術やカメラマンなどいろいろあると思いますが、最初から監督を目指していたんですか?

荒川 最初に興味を持ったのは音響ですね。効果音や音楽をつける仕事です。カーレンジャーの劇伴は佐橋俊彦さんという方が作っているのですが、それがまた良いんですよ。カーレンジャーって、劇伴がものすごくかっこよくて……。

ただ、撮影録音のコースは数学が必須だったので諦めました。数学、全然できなかったんです(笑)。造形や衣装、メイクなんかも、ぶきっちょなので難しいだろうなと。得意なものがなかったのですが、実は特別な技術がいらない「助監督」なら自分にもできるんじゃないかと思ったんです。それで、いずれは監督を目指せたらいいなと、最初はそれくらいの気持ちでした。とりあえず、特撮の現場に行ければいいかと。

ちなみに、「助監督」はどのような業務を担当するんでしょうか?

荒川 会社や作品によって異なりますが、私が関わっていた作品の場合は「監督の演出補佐」という感じですね。監督一人に助監督3~4人という体制が基本で、映画のやり方に近いと思います。助監督は主にフォース、サード、セカンド、チーフといった序列があり、新人はフォースないしサードから入って小道具などを担当します。セカンドはメイクや衣装の管理を担当しつつ、現場を回すための補佐ですね。チーフはスケジュール管理がメインです。

私の場合はフォースからのスタートでした。本当にたまたまご縁があって、東映の戦隊チームに入れてもらえることになり、大学4年生の夏くらいからちょこちょこ現場へ行くようになったんです。何も分からないまま、カチンコを叩いていました。初めて関わったのは、『百獣戦隊ガオレンジャー』*2の劇場版でしたね。

憧れの現場。楽しかったでしょうね。

荒川 はい。キャラクターを生で見られたり、アクションシーンに興奮したり、現場に行くのは楽しかったです。……でも、仕事自体は激務で、ただただしんどかったです。当初は何度も辞めようと思っていて、新人の頃から2~3年くらいはあまり良い思い出がないですね(笑)。

荒川さん

それでも辞めなかった。

荒川 正直なところ、辞めるタイミングを逃し続けました(笑)。当時、戦隊を作るチームって基本的に1チームしか稼働していなくて、ひとつの回が終わったらすぐさま次の回と切れ目のないスパンで作っていかないといけなかったんです。ただ、現場に入った当初、女性スタッフが少なかったこともあってか、「荒川さんがいて助かりました」と女性キャストの方に言われることもあって。そういった声もあり「もうちょっと頑張ってみるか」とがむしゃらに食らいついていたら、ずるずると時間がたっていて、気付けば20代後半になってましたね。そのあたりからは、もう半ば意地になって頑張っていたように思います。

意地……ですか。

荒川 はい。せっかく何年も頑張ってきて、怒られ続けてきて、ここで辞めたら悔しいじゃないですか。辞めるにしても、何かしらの形で名前を残してからにしようと……。そういう意地ですね。で、この頃くらいから「そういえば、戦隊で女性が監督をした作品ってなかったよな」ということに気付き、「私が最初になってやる!」と思うようになりました。2008年くらいかな。

そこで、目標ができたんですね。

荒川 ここまでやってきたんだから、「戦隊史上初の女性監督」の座を他の人に取られてたまるかと。それだけは絶対に達成してやろうと思いました。

監督デビューしたのは2015年。監督を本気で目指すようになってから7年後でした。

荒川 その間、同期は続々と監督デビューしていて、落ち込むこともありました。やはり女性が監督をするのは難しいのかなと。「女だから監督させないんですか?」って直談判したこともあります。でも、前例がないから会社としても悩ましかったのかなと思うんです。約40年にわたって先人たちが築いてきた歴史を崩すわけにはいかない、そういう空気も感じていました。

激務に加え、なかなか目標に届かないもどかしさもある。つらい状況の中、戦隊そのものが嫌いになったりすることはありませんでしたか?

荒川 それはなかったですね。やっぱり私は現場でキャラクターを見れば元気になりますし、自分が関わった作品の放送を見れば「かっけえじゃん!」と思えて、私がやっていることも多少は役に立っているのかなと感じられましたので。周りのスタッフの皆さんも優しかったですし。

私が信じる「かっこいい」を撮る

そんな中、助監督をされていた『烈車戦隊トッキュウジャー』のVシネマ作品『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号』で、ついに監督デビューを果たされます。当時の状況を教えてください。

荒川 当時はいったん戦隊を離れて、仮面ライダーシリーズの助監督をやっていました。その時にトッキュウジャーのチーフプロデューサーだった宇都宮孝明さんから電話がかかってきて、「今度Vシネマやるから頼むわ」と。私はチーフ(助監督)をやってくれという意味だと思って、「いいですよ、監督は誰ですか?」と聞いたら「君だよ」って。……そんな感じで、わりとあっけなく(笑)。本当にありがたかったです。

烈車戦隊トッキュウジャー……2014年2月〜2015年2月まで放送された特撮テレビドラマ。キャッチコピーは「勝利のイマジネーション」。高い想像力・イマジネーションを持つ者として認められた5人が、敵を迎え撃つ戦士・トッキュウジャーに選ばれ、戦っていく。作品のモチーフは「列車」。主人公のライト(トッキュウ1号)は、志尊淳が演じる

その時の心境は?

荒川 びっくりしすぎて、実感があまり湧きませんでした。もちろんうれしいんですけど、どこか他人事というか、不思議な気持ちでしたね。ただ、これが最初で最後の機会かもしれないから、絶対面白い作品にしようと。前例がなかったこともあってか、女性が監督を務めることに対しネガティブな意見を耳にすることもありましたけれど、そんなの知らんよ!って感じで、思い切りやらせてもらいました。

外部の声は気にせず、自分が見たいもの、面白いと思うものを作ろうと。

荒川 そうですね。脚本の段階から意見を取り入れていただき、自分が好きな監督やシリーズのセオリーにのっとりつつ、やりたいことは全てできたと思います。もう、楽しかった思い出しかないです。「子ども向けだから」というのも変に意識はしていません。私自身がかっこいいと思うもの、熱いと感じるものを作ればいい、ととにかく自分を信じました。

荒川さん

今思えばありがたい、自由に「好き」と言える環境

荒川さんTwitterより

荒川さんは現在、フリーランスとして活動されています。現在の主なお仕事について教えていただけますか?

荒川 『牙狼<GARO> -魔戒烈伝-』という特撮ドラマの助監督や、『絶狼<ZERO> -DRAGON BLOOD-』の監督をやらせていただいたり、最近までは中国の特撮ヒーローの仕事などをしていました。あと、たまに東映作品に助監督として入ったり、刑事ドラマの現場に行ったり、いろいろですね。

今は、2019年1月からスタートしたドラマ『トクサツガガガ』の特撮パートで、キャラクター担当に近いことをしています。

トクサツガガガ(1) (ビッグコミックス)

原作は丹波庭によるマンガ。『ビッグコミックスピリッツ』にて連載中

トクサツガガガは「隠れ特撮オタク」の女性が主人公。職場の同僚などには特撮好きであることを隠していますが、荒川さんはカーレンジャーを好きになった高校生の頃、それを周囲に明かすことにためらいはなかったですか?

荒川 私の場合は、隠さなきゃという感覚はまったくなかったですね。友達にも普通に「カーレンジャー面白いんだよ」って話していましたし、学校の休み時間にはカーレンジャーが載ってる子ども雑誌を熟読してました。同級生がファッション誌を読んでいるのと同じ感覚で、かっこいいシーンを切り抜いて喜んだり(笑)。それでも特に周囲から浮いたりせず、平和でした。

親御さんにも、特に咎められなかった?

荒川 うちの親ものんきな人なので、あなたが好きならいいんじゃないって感じでした。心の中では、何か思うところがあったのかもしれないですけどね。受験の年になっても「後楽園ゆうえんち*3にカーレンジャーショーを見にいきたい!」とか言ってる娘に対して、そんな場合じゃねえだろ、くらいは思っていたのかもしれない。でも、少なくとも「いい歳して恥ずかしいでしょ」とか、「男の子が見るものでしょ」とか、そういうことを言われた記憶はありません。

年齢や性別に関係なく、好きなものを好きと言える環境だったんですね。

荒川 そうですね。今思えば、恵まれていたのかもしれません。だから、特に疑問を持つことなく特撮の道へ進めたのだと思います。好きなものを否定されたり、からかわれたりする環境だったら、どうなっていたか分からないですね。

荒川さん

人が何を好きだろうと、ほっといてほしいですけどね。

荒川 そうなんですよ。でも、世の中、けっこうほっといてくれない(笑)。私は男の子向けの戦隊が好きだけど、プリキュアもセーラームーンも好きです。「なんでも好き」じゃ駄目なの? と思うことはありますね。

いつか、「カーレンジャー」の監督を……

最後に、これからの目標を聞かせてください。

荒川 やっぱり、戦隊シリーズの「本編」の監督をやりたいですね。今、私の同世代がメイン監督をガンガン担当している中で、自分の状況と比較してしまってしょんぼりしたりもしますが、いくつになってもいいから達成したいです。

あと、いつかやってみたいのはカーレンジャーのVシネマ。もう終了してから20年以上たっちゃってますけど、あのカーレンジャーのノリならしれっと復活しても許されるような気がするので。その2つの野望を叶えないことには、引退できませんね。

取材・文/榎並紀行(やじろべえ)
撮影/関口佳代

お話を伺った方:荒川史絵さん

荒川さんプロフィール1979年生まれ。2001年『百獣戦隊ガオレンジャー』から特撮(主に戦隊シリーズ)の現場で働くように。2015年『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー夢の超トッキュウ7号』で監督デビュー。
Twitter:@bon_ranger_

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次回の更新は、2019年1月23日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:シリーズ第一作目とした扱われる作品については、『バトルフィーバーJ』をカウントされることもあるが、本記事ではゴレンジャーを第一作目とカウントし記載する

*2:2001年〜2002年に放送された、東映制作の特撮テレビドラマ

*3:現名称:東京ドームシティアトラクションズ

する・しないの正解はない はたらく女性4人が語る「転職」事情

集合イメージ

キャリア形成にあたり、転職は重要なカード。やりがいや収入、異業種へのチャレンジなど、転職願望の背景は十人十色ですが、いずれも現状を打破したい、未来をよりよいものにしたいという思いが根底にあるはずです。

また、もともとは転職願望がなくても、周囲がステップアップしている様子を見て、自分も一度は転職した方がいいのかも……と漠然した不安に駆られる人もいるかもしれません。そこで今回は、転職経験者と未経験者の女性4名に集まっていただき、それぞれの転職にまつわる経験談や考えを語ってもらいました。

***

<<参加者プロフィール>>

Mさん

Mさん(38歳)/転職経験あり
社会人15年目。メーカーのIT系部署の企画職。転職経験は3回、入社半年で辞めたことも。現在の職場は4社目で、勤続10年を迎える。30代に入り一人旅や登山が趣味に。

Nさん

Nさん(28歳)/転職経験あり
社会人5年目。正社員として働いていたデザイン会社を退職し、現在はWeb系企業の事務職。転職経験は2回。新卒で入社した会社から事務職としてキャリアを積む。

Rさん

Rさん(33歳)/転職経験なし
社会人11年目。テレビ番組制作会社のディレクター。転職経験はないものの、職場環境への不安から転職エージェントへの登録など、転職活動の経験はある。

Oさん

Oさん(23歳)/転職経験なし
社会人1年目。IT系企業のビジネスエンジニア。就職活動では「プライベートの時間が確保しやすい風土があるか」を重視。ジャニオタ歴12年、最近はK-POPアイドルにも傾倒中。

人間関係に疲れるも、職場でリセットされるのも不安

最初に、Rさんからお話を伺いたいのですが、転職経験はないものの、転職を何度も考えたことがあるとか。それはなぜでしょうか?

Rさん 私はディレクターとしてニュース番組をメインに担当しているのですが、テレビ局ではなく制作会社の社員として働いています。いろいろな現場に派遣されるので業務量も千差万別なんです。大変な現場だと徹夜が続くこともあったり、上司の一存で夜遅くまで飲みに付き合わされたりと、ちょっと不満が溜まることも多くて……。

いきなりヘビーなお話でした。それでも踏みとどまった理由とは?

Rさん 悩んでいる時期に、別会社に勤めている同業の人に話を聞く機会があって。そしたら、うちの会社は残業代も出るし、業界のなかでは割と待遇もいいことが判明したんです。そうこうしているうち、異動で環境が向上したのと、やっぱり仕事自体は好きなので、今に至ります。

Mさん 私は半年で辞めた会社が毎日深夜まで働いて、金曜日は朝まで……みたいな環境だったので、早々に根をあげましたね。

Rさん それは正解だと思います。私の会社では定期的に異動があると分かっていたので何とか持ちこたえられたのかな、と思いますし、そうじゃなかったら本気で転職活動をしていたかもしれません。実際、過酷を極めていたときには鬱っぽくなっていて、電車のホームでふらつきながら「もうだめだ」みたいなことがありましたから。

一同 えー! それやばいですって!

Nさん 私は真逆で、これまで2回転職していますが、定時であがる人生を続けてきた人間なんです。デザイン事務所の事務職として働いていた頃は、デザイナーは夜遅くにクライアントから直しがきて、深夜まで仕事をする――の繰り返しだったので、自分だけ安全地帯にいるようで申し訳なさを感じて、こんなんでいいのかなと思ったことはあります。

Oさん 私はまだ1年目ですが、チームの皆さんがちゃんとフォローしてくれて、本当にいいメンバーに恵まれているなと思います。深夜残業が発生することもありますが、このご時世、こんなに人柄のいい人たちばかりの職場ってなかなかないよなと思って。本当に運がいいと思っているので、このチームにどれだけいられるかばかり考えています。これがもし別のチームに飛ばされて、メンバーが変わると転職が浮かんでくるのかなぁと。

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転職理由のホンネで圧倒的に多いのは「人間関係」とも言われますよね。ちなみに、人間関係に難を抱えて転職した方はいらっしゃいますか?

Nさん まさに私ですね(笑)。前職は社長含めデザイナーが9割の職場で、私だけ事務職だったんです。なので、仕事で悩みを抱えたときとか、判断に迷うときに相談できる相手がいなくて。人間関係が嫌というよりは、疲れてしまって辞めました。同じ職種の人が複数いたり、人事異動があるような大きな会社だったりしたら、また違っていたかもしれませんが、そのときは環境を変えようとしか判断できませんでしたね。

Mさん 人間関係は難しいですよね。人事異動が珍しくない会社だったら、とりあえず異動の希望は出してみて、それでもダメだったら、転職を考えてみてもいいかもしれません。

Oさん 私はできれば一つのところで長く働き続けたかったので、就活のときに人間関係はかなり重視していました。私にとって何より大事なのは趣味のオタク活動。プライベートな時間を仕事で邪魔されるのは嫌だなと。「休日に社員でピクニックとか無理です」みたいなことは面接で伝えていましたし、その価値観を分かってくれる会社であれば、同じような考え方の人が集まっているはずだし、サバサバした人間関係が築けそうと思っていました。

すごい、就活時点で「こう働きたい」というビジョンを持っていて、それを伝えられるなんて、しっかりされてます……!

Nさん 転職すると人間関係はいちから築かないといけないので、それはそれで大変ですからね。特に不満がなければ、同じ会社に留まることでの「人間関係の楽さ」というのもあると思います。あと、キャリアアップのための転職ならアリですが、業種や職種を変えるような転職だとキャリアがリセットされて下っ端からのスタートになる可能性もありますし……。

Oさん リセット! 転職するデメリットについて考えたことがなかったので新鮮です。

Nさん 新卒入社で勤続年数が長い友人は、その会社でしっかりキャリアを積んでいますし、部下を持つ人もいます。部下がね~という話をされると、謎の焦りが生じることもしばしばです。でも、Oさんのようなエンジニア職はスキルが評価されると思うので、職種を変えない限りそれまでの経験がゼロになることはなさそうです。

Mさん 確かに職種を変えるといろいろなことがリセットされがちですよね。私は最初に勤めたのが占い本をつくる出版社で、占いコンテンツばかりを手掛けていたので、「企画」と「女性向けコンテンツ」という2つの軸をぶらさずに転職先を選んできました。転職にあたっては、経験を生かせる職場かどうかを意識していたかもしれません。

Nさん 個人的に、職種を変えるなら第二新卒までなのかなというイメージがあります。私は今28歳。これからは己の経験だけが武器になるフェーズに入っている気がするので、漠然とした不安はあります。というか不安でいっぱいです!

転職を考える上で「年齢」がついてまわる部分もありますよね。

Mさん 私は未経験ジャンルに挑戦するんだったら、30歳までかなと、なんとなく感じていました。同じ職種であれば、30歳を超えても大丈夫だと思うんですけど。ある程度、新しいことにチャレンジするなら20代のうちかなって。

Rさん 実はテレビ業界以外だと出版や広告に興味があって、ふんわりと転職を考えたこともありました。でも、新卒じゃないと転職のハードルが高い業界だな、と思って具体的には動けていません。さらに、今33歳なので、年齢的にも転職をしていないということは、一生この業界にいるのかな……と感じています。

あと、私自身に社会的な常識が身に付いていない気がするというか……テレビ業界、特に制作会社って服装もジーパンにパーカーですし、この歳から全然違う雰囲気の業界に入って、なじめるのかどうかみたいな不安もありますね。

Mさん 私自身はこの10年転職をしていませんが、趣味を持つ前の20代の頃は「こんな会社にいつまでもいていいのか」という飢餓感のようなものがあったかもしれません。だから、わりと短いスパンで転職していたように思います。ただ30代に入って一人旅や登山という趣味を持ったことで「仕事で成果をあげる」ことの優先順位が下がった感じがします。ちょっとぐらい嫌なことがあっても「でも休みを取れるからまあいいや」と考えて割り切れるようになったのかな。だから、私の場合は年齢というよりは、趣味を持ったことで仕事に対しての優先順位の付け方が変わったことが、転職する・しないに関係しているかもしれないです。

同じ職場で長く働く難しさを実感することも

では、結婚や出産などライフイベントとの兼ね合いはいかがでしょうか。ライフイベントとのバランスを考え、働き方を変える・転職を考えられたことは?

Mさん 今の会社は旧態依然としたメーカーの風土が残っていてるように思います。女性は長く働いても基本出世は難しい。逆に早く結婚して子どもを産んで、時短でそこそこのパフォーマンスで勤めることはできますし、それが勝ち組的な見られ方をするところがありますね。なので、勤め続けることはできると思いますが、働き方は変えないといけないかもしれません。

Nさん 私はそういったことをあまり考えていなくて……。ただ、今の職場環境はとても合っているので、この職場でできるだけ続けたいな、と思っています。でも今の会社では長く在籍している女性がおらず、ロールモデル的な人がいません。そうした意味での不安はあります。

Oさん 私は、同じチームの直属の先輩が、社内恋愛を経て同僚と結婚されているんですけど、お互いバリバリ仕事しているのでいいなって思ってます。しかも、私と同じくバリバリのオタクで、すごく要領がよくて毎日定時で帰るのに生産性がとても高くて評価されているという。実は私も、今社内に好きな人がいるので、模範にしたいです。

Rさん そんな先輩がいたらいいですよね。私は逆にすごく優秀な女性ディレクターが、結婚してから別の仕事に回されてしまって。上司にも子どもが生まれたらどうなるか、とちらっと聞いてみたんですけど、「時短になると一番忙しい時間帯に現場にいられないから事務職になるだろうね」と言われ、ちょっとモヤっとしましたね。

Nさん ワークライフバランスを求めて転職するにしても、具体的に「こんなサポートをします」と明示している企業って少ない気がします。制度は書かれていても、「蓋をあけてみたら」なんてこともありそうで。

Rさん 私は子どもが欲しいと思っているので、年齢的にもそろそろちゃんと考えなければなりません。ただもし子どもを持つことになったら、現状だと今の仕事を続けるのは、なかなか難しいよな……とも思っています。

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モヤモヤしている人は職務経歴書を書いてみるのもあり

転職をぼんやり考えながらも、まだ行動に移していない人は何からはじめればいいと思われますか?

Mさん 友人の中にも会社の愚痴が多かったり、転職したいと話したりする人がいます。でも、結局はずるずると働いているので、どうアドバイスしたらいいのかなといつも悩んでしまうんですよね。転職にはパワーが必要ですし、不満を持ちつつも会社に残る気持ちも分かるので……。

Nさん 「なんとなく転職」を考えているけれど、特に行動に移していないという人は、とりあえず転職サイトやエージェントに登録してみる、くらいでいいんじゃないかな。とにかくまずは自分のスキルや求めていることを棚卸したり、客観的に自分の能力を測って相談に乗ってくれる人に会いに行ったりした方がいいと思います。本当に転職するとして収入はどう変化するかとか、辞めてからのことが見えるんですよね。

Mさん 職務経歴書を書いてみると、自分のキャリアを客観的に見つめることができるんですよね。今はネットで探せば書き方も載っていますし、書いてみると自分の現在地が分かるような気がします。

Rさん 転職未経験者から見ると、転職経験者の皆さんはやっぱり身軽ですし、視野が広くてうらやましいなと思いますね。私はどうしても、今の会社しか知らないので、ここでどれだけやっていくかというのが前提になってしまいがちです。転職するときには、それまでの経歴が評価されて、その上で「自社に必要だ」と思われているわけですから、すごいなと。

Nさん 実際に動いてみないと分からないことってたくさんありますしね。モヤモヤしていたり、将来の展望が持てなかったりしたら、転職活動してみて自分の価値を測ってみるといいと思いますよ。そうすると、もしかしたら今の会社の良さに気づいて、前向きに踏みとどまることもできるかもしれないですし。

Oさん 私はまだ入社して間もないですし、今の職場が気に入っているので、できれば定年まで勤めあげたいと思っています。でも、長い社会人生活で何が起きるか分からないので、今回の座談会で知った転職のメリット・デメリットをしっかり胸に刻みたいと思います。



取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/小野奈那子

※座談会参加者のプロフィールは、取材時点(2018年11月)のものです

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次回の更新は、2018年12月28日(金)の予定です。

編集/はてな編集部

「私、アポロンに操を立てる」古代ギリシャに人生を捧げる藤村シシンさんの情熱

藤村さん

古代ギリシャ・ギリシャ神話研究家の藤村シシンさんは、大学院を卒業後『古代ギリシャのリアル』を出版。最近ではNHKカルチャー講座の講師や、『アサシンクリード オデッセイ』の解説などでも知られています。高校生の頃『聖闘士星矢*1』と出会い、この道を選んだ藤村さんですが、好きなことを仕事にするまでにはかなり危ない橋を渡り続けてきたのだそう。今回は藤村さんのご自宅でインタビューを敢行。古代ギリシャの文献やグッズ、オブジェに溢れた部屋で、古代ギリシャ・ギリシャ神話愛から働き方についてまでを伺いました。

浮気ばかりするギリシャ神話の神々

本日はよろしくお願いします。……衣装がすごい! それは何の格好ですか?

藤村シシン(以下:藤村) 特に決まったモデルはいなくて、古代ギリシャの一般的な女性の格好です。

部屋にも置き物やオブジェがたくさんありますね。これは……柱?

藤村 柱です(笑)。演劇か何かで使ったもので、Twitter経由で「柱欲しそうな人がいるよ」って私のところまでまわってきました。ちなみにこれは、私が一番愛しているアポロンの石膏像です。(机の上に置いてあるアポロンの石膏像を手に取る)

アポロンはギリシャ神話に登場する神、ですよね? どういうところが好きなのでしょうか?

藤村 良さを一言で語るのが難しいなぁ! 好き過ぎてもはやどこが好きなのかが分からなくなっていて。でも私、最初はギリシャ神話の中でアポロンが一番苦手だったんですよ。

アポロン像を見つめる藤村さん

へええー。アポロンってどんな存在なんですか?

藤村 音楽の神で、疫病や医術の神でもあって、あと、哲学の神、理性の神、光の神とか、とにかくマルチで。

マルチな神!

藤村 いろいろな神でありながら、自分が美しいことを分かっているナルシストで、女性に対しても強引に迫るんです。例えば、私が今かぶっている月桂冠(げっけいかん)もアポロンにまつわるものでして。アポロンが恋をしたダフネという女性がいるのですが、この人、最終的に月桂樹になるんですよ。

月桂樹になる……?

藤村 ギリシャ神話の話です。アポロンが「僕と結婚してよ~」ってダフネを追いかけて、ダフネは追いつかれそうになります。すると、ダフネはアポロンに触られるのも嫌なので、触られるくらいだったら自分を植物に変えて死んでしまおう、と月桂樹になるんです。それを見たアポロンは、「キミが僕の恋人になれないんだったら、せめて僕の冠になってくれ。僕の美しい髪を永遠に彩る冠として付き添ってくれ」と。

こうしてアポロンは、月桂樹(ダフネ)を冠にして、ずっとかぶり続けるわけです。これ、自分がダフネだったら、すごく嫌じゃないですか? 樹木になってまで逃げた男性の頭に永遠に居続けなきゃいけないんですよ!

めちゃくちゃ嫌ですね……。

藤村 ダフネだって、「お前の頭を飾るために樹になったわけじゃねえよ」って思っているはずです。アポロンがあまりに独善的だから最初は嫌いだったのですが、調べていくと実はこれ、後付けで作られた設定だということが分かって。もともとのアポロンはもっと高潔な神だったんです。そのギャップで好きになりました。

月桂冠を身に着け取材に応じてくださった藤村さん

人の間を伝わるうちにアポロンのキャラが変わっちゃったんですね。

藤村 ギリシャ神話って結構そういうのが多いんですよ。例えば、ゼウスっていう最高神は浮気しまくります。でもこれにも理由があって。

ゼウスに限らず、神話に出てくる神って浮気しがちなイメージがあります。

藤村 そう! 神のくせに倫理が欠如していますよね。しかもギリシャは一夫一妻制ですからね。でも実は、ギリシャの各地域の人々が「自分の祖先はゼウスだ」と言いたいがために、そうなってしまっているんですよ。「ゼウスという最高神がもうけた子が、俺たちの祖先だ! 俺たちは神の血を引いているんだぜ!」とみんながあちこちで一斉に言い出したせいで、ゼウスが浮気しまくっているような形で言い伝えられてしまったんです。

そうなんですか! ゼウスからするといい迷惑ですね。

藤村 「浮気してないしてない!」って言いたいかもしれないですよね(笑)。

古代ギリシャの哲学と倫理崩壊のギャップに熱中

藤村 結果的に、浮気ばかりして倫理が崩壊しているような神話が語られていながら、古代ギリシャでは哲学や数学が盛んで、そのギャップもまた面白いんですよ。古代ギリシャにハマった最初のきっかけは高校生の頃に見た『聖闘士星矢』というアニメだったんですが、調べていくうちに古代ギリシャそのものの面白味に熱中していきました。

古代ギリシャの哲学者や数学者というと……?

藤村 ソクラテスにアリストテレス、プラトン、ピタゴラス、医術だとヒポクラテスなんかもいます。

そうそうたるメンバーですね。

藤村 で、高校生だった私はそのまま受験の選択科目を日本史から世界史に変えるという暴挙に出ました。先生にはめちゃくちゃ止められましたけどね。日本史選択である程度授業も進んでいましたし、暗記科目を途中で変えるのはリスクしかなくて。先生には「日本史で受験をして、大学に行ってから世界史をやることもできる」と言われたんですが、今好きになったから、今からやるのが一番いいのだ! という感じで。

藤村さん

受験の世界史って、ギリシャ以外にもたくさん覚えなきゃならないのに……。

藤村 ギリシャって教科書で言うと全体の3ページくらいですからね(笑)。結局最後まで世界史が受験の足を引っ張っていました。

私、思えば結構そういう危ない橋を渡り続けていて……史学科でそのまま大学院まで進んだんですが、これ、「ゆるやかな自殺」って言われてるんです。

!? どういうことでしょうか?

藤村 理系の院卒は研究職や技術職といった就職口が比較的あるんですが、文系の院卒というとかなり進路が限られているんです。研究職として食べていければ一番いいものの、席が空いてないから相当厳しい。だから念のために教員免許を取っておくのが当たり前の世界で。でも、私は絶対教員には向いていないと思っていたのもあり、最初から退路を断つために、教員免許は取らなかったんです。教授には「えっ! 何それ! 自殺!?」って言われました(笑)。

「卒業したらどうするの?」って?

藤村 そうそう。でも、昔から毎朝早く起きたり、責任のある仕事だったりっていうのは自分には無理だと思っていたんですよ。だから結局そのまま就活もせずに卒業して。

何か別の仕事をして稼ぎつつ、古代ギリシャやギリシャ神話の研究は趣味として続ける……という選択肢もありますが、本職にしたい気持ちが強かったのでしょうか。

藤村 私、多分「これ(研究)が自分の仕事になる!」という変な確信があったんですよね。この道以外で生きようとも思っていなかった、というのもあると思います。大学在学中から個人で発信していたのをSNSで運よく見つけてもらえて、2015年に本(『古代ギリシャのリアル』)を出させていただいたのをきっかけに仕事の幅も広がりました。

古代ギリシャのリアル

古代ギリシャのリアル(実業之日本社 )

結果、今はこの活動一本で生計を?

藤村 そうですね。本を出すまでは違うバイトもしていたのですが、今はこれだけで。結果的になんとかなっていますけど、こうして振り返ると全然計画性がないように聞こえますね……! ヤバい!

牛を殺して盛り上がる古代ギリシャの祭儀を再現!

本を出したことから、どのような仕事につながっていったのでしょう?

藤村 NHKの講師をやったり、イベントをやったりしています。イベントでは「アポロン生誕祭」と題して古代ギリシャの祭儀を再現したこともあります。

どんな祭儀なんですか?

藤村 祭壇で牛を殺して、みんなで賛歌を歌って、市民たちとめっちゃ盛り上がる、みたいな祭儀で。これを実現するにあたって、まずは歌ってくれる人をTwitterで集めたんです。最初から「牛を殺して祭儀をしたいんですよ」なんて言うとビビって誰も寄ってこないだろうと思って、まずは古代ギリシャの楽器と楽譜をTwitterに載せて「この楽譜、読める人がいればいいのにな~」ってツイートして。

匂わせ系ツイート!(笑)

藤村 そう、匂わせたんですよ。我こそは楽譜を読めるというTwitter民がリプライしてくれると踏んで。それで、リプライくれた人たちを集めてオフ会をして、その場で「祭儀をやりたいから、楽譜を読めて歌える皆さんには古代ギリシャ語で聖歌隊をやってほしい」とスカウトしたんです。それで、その人たちに牛の役をやってもらったり、歌ってもらったりして、無事祭儀を再現できました。

祭儀でも使用する竪琴

最近では、古代ギリシャが舞台のゲーム『アサシンクリード オデッセイ』(アクションゲーム『アサシン クリード』シリーズの最新作)と公式コラボをされて話題になっていましたよね。どんな経緯で関わるようになったんですか?

藤村 2018年の初めくらいから、次の『アサシンクリード』の舞台が古代ギリシャだということは情報として入っていたんです。前作は古代エジプトが舞台で、古代エジプト勢の中では考証もしっかりしていて、世界観もよかったと評判で。だから、「次はギリシャなんだ!」とすごく楽しみにしていたんですよね。

「古代エジプト勢」って言うんですね。

藤村 やっぱり古代ギリシャ勢と一緒で、古代エジプト勢みたいなのもいるんです。でもエジプトの方がずっと先輩なので、先輩だと思っているんですが。

歴史上の先輩?

藤村 そう、歴史上の先輩ですね。古代ギリシャ人も、古代エジプトのことは学問も進んでいる国で先輩だと思っています。

で、たまたま『アサシンクリード』の広報の方から「コラボで仕事をしませんか」とお声がけがあって、関わらせていただくことになりました。普通に買おうと思っていたゲームのお仕事だったので、これは嬉しかったですね。

ubiblog-jp.com

古代ギリシャのおかげで嫌いだった科目も楽しめる

好きなことを仕事にされることでの発見は何かありましたか?

藤村 最初はギリシャ以外のことは一切やりたくないと思っていたし、ずっと古代ギリシャのことを考えて生きていくと思っていたんですよ。ただ、調べていくうちに、それ以外の知識もどうしても必要になってくるんですよね。それこそ、英語が分からないと、洋書で調べ物ができなかったり、竪琴持って歌う人が出てきて音楽のことを勉強しないといけなかったり。古代ギリシャ人の料理に関する文献もあって、私も実際に作ってみるんですが、それには家庭科の知識が必要になってきます。

完全に古代ギリシャの勉強だけをしていればいいわけじゃないんですね。

藤村 でも、やっているうちに、周辺の知識を得るのも楽しくなってきたんです。それこそ、私は昔、音楽が嫌いだったんですけど、高校時代にあれだけ苦手だった音楽を、古代ギリシャのおかげで楽しんで学べるようになりました。古代ギリシャの中に、全ての科目が入っていて、そういう知識がないと古代ギリシャのことを本当に理解することができないと分かるので、学ぶモチベーションも上がります。

当時「こんな勉強がなんの役に立つんだよ!」って言ってましたが、高校時代に必要なかった科目は一つもないんですよね。ちゃんとやっておけばよかったし、あのときあんなに勉強が楽しくなかったのはなんでだったんだろう! と思います。

結婚の圧力に対し、真顔で「私、アポロンに操を立てる」

逆に、この仕事をしていることでの苦労はありますか?

藤村 強いて言えば、親戚からの目ですかね。親戚で集まったときに、「どこどこの○○ちゃんは立派に就職して、結婚していて子どももいて」「結婚もせずにプラプラして」などと言われるんですよ。「せめて恋愛くらいしなよ」とか。

嫌だなぁ……。

藤村 でも、ひとついい手があって。真面目な顔で「私、アポロンに操を立てる」って言うと、「こいつもうダメだ」って思って引いてくれるんですよ!

(笑)。

藤村 もう冗談じゃなく、真顔で「アポロンじゃないとダメ!」「神が好きなんですよ!」って言うと、サーッと引いていくので、オススメです。もちろん演技じゃなくて、私は心からのマジで言っているから効力があります。

ちなみにご両親は、活動に対してどんな反応を示されているのでしょうか?

藤村 最初……それこそ『聖闘士星矢』にハマって進路変更する! と言い出した頃とかはそりゃ心配していましたね。ただ、今となっては「育て方がよかったな」みたいな雰囲気になっています(笑)。

今後の目標は何かありますか?

藤村 たくさんあります! 例えば、神殿を建てたいですね!

神殿!?

藤村 だって神殿建てたことあります!? ないでしょ!?

えっ、いや、ない、ないです!

藤村 やっぱり、パルテノン神殿なんかはギリシャの神髄なんですよ。人間が見上げたときの目の錯覚をきちんと考えて柱の太さを考えられていて、そういうの、やってみたくないですか!?

うーん……。神殿を建てるからには、今後は建築技術を学んでいかないとですね。

藤村 そこは、祭儀イベントをやったときみたくTwitterで石を運んで削る動画をアップします。そして「う〜ん、一人で神殿建てるの難しいなぁ。誰か一緒に神殿建ててくれる人いないかな〜?」って匂わせていくことにします。でも石って高いからなぁ……。最終目標かもしれません。死ぬまでには建てたいですね。

藤村さん

取材・文/朝井麻由美
撮影/関口佳代

お話を伺った方:藤村シシンさん

藤村シシンさん作家、古代ギリシャ・ギリシャ神話研究家。高校のときに見たアニメ『聖闘士星矢』の影響でギリシャ神話にハマって以来、古代ギリシャに人生を捧げることになる。NHKカルチャー教室講師。古代ギリシャ総合体験型エンターテイメント「古代ギリシャナイト」主催。
Twitter:@s_i_s_i_n

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次回の更新は、2018年12月12日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:テレビアニメ化もされた、車田正美によるマンガ。作品の題材としてギリシャ神話が用いられている

「もし京都が東京だったらマップ」作者の岸本千佳さんが見つめる“街と仕事”

岸本さん

東京の丸の内は、京都でいうなら烏丸? ――2つの街を知る人なら、思わず「ああ、なるほど!」とうなずいてしまう「もし京都が東京だったらマップ」。2015年末にネットで公開されるとまたたく間に反響を呼び、翌年には同タイトルで書籍化もされました。作者の岸本千佳さんは、京都の不動産プロデュース会社「addSPICE(アッドスパイス)」の代表を務める不動産プランナーです。京都に生まれ育ち、東京で働いたのち再び京都に戻って独立した岸本さん。自身の職業を通じて、どんなふうに“街という生き物”と関わっているのでしょう。

建築家という夢を見失ったとき、世界一周の船旅に出た

岸本さんの肩書きは「不動産プランナー」。どんなお仕事なのでしょう?

岸本千佳(以下、岸本) まず、建物のオーナーさんから「この建物をどうにかしてほしい」というざっくりした相談を受けることから始まります。建物やオーナーさんに合わせてどんな使い方をするのか企画し、建築士さんや工務店さんとチームを編成してリノベーションを行います。チームの指揮者みたいな感じで、みんなの得意なことを引き出す仕事です。

建物のリノベーションをした後は、仲介も手掛けられているのですか?

岸本 そうですね。客付けから、建物の管理・運営まで一貫して行っています。私は大学卒業後に東京で不動産とリノベーションを手掛ける会社に就職したんですが、その頃の経験が京都に戻って独立してからも役立っていますね。東京では5年間で約40棟のシェアハウスを作り、物件の企画、入居者の仲介や管理を担当していました。

岸本さん

岸本さんが建築に興味を持ったのは、小学校4年生のとき。スペイン・バルセロナにあるサグラダ・ファミリアを写真で見たのがきっかけだったそうですね。

岸本 当時から「将来の夢は建築家」と決めていました。中高生の頃には、町家をリノベーションしたカフェに憧れて、「町家を改装する建築家になりたい」と思うようになりました。

なかなか渋い女子中高生ですね!

岸本 今思えばそうですね。「建築の道に進むんだ」と強く信じていたので、もともと文系だったのを一浪してから理転し、滋賀県彦根市にある滋賀県立大学環境建築デザイン学科に入学しました。ところが、「さあ、建築を学ぶぞ!」と大学に入ったら「あれ? もしかすると設計には向いていないかも?」って。

どうして、設計には向いていないと思ったんですか?

岸本 設計で食べていくには、適性も情熱も圧倒的に足りないと思いました。さらには、のんびりした彦根での学生生活にも閉塞感を感じてしまって。「これは外に出ないとまずいな」とお金を貯めて、大学2年生の夏にNGOが企画する世界一周の船旅に出ました。建築以外にやりたいことを見つけるなら、早い方がいいと思ったんです。

岸本さん

船旅の中では、新しい出会いや気付きはありましたか?

岸本 寄港地には最貧国と呼ばれるような国もあり、同乗者の中にはそういった地域での支援活動を希望する人たちもいました。一方で、もし私が建築家の世界に進むなら、付き合うのは家を建てるだけの財力のある人たちです。両極端な世界を比べたときに、どちらの世界にも積極的に関わるイメージを持てなくて。「私はどういう人を幸せにしたいんだろう?」と自問して、家や建物に関わる仕事の中でも「普通の人の暮らしを豊かにしたい」と、不動産の仕事に興味を持ち始めました。

より多くの人の暮らしを幸せにすることを考えたときに、不動産という仕事が選択肢の中に見えてきたんですね。

岸本 そうですね。「不動産の仕事をやりたい!」というよりは、自分のやりたいことをする手段として、不動産に一番可能性を感じたんだと思います。

独立して仕事をする街として「京都」を選んだ

東京の不動産ベンチャーに新卒で入社されたのは、どんな経緯だったんでしょうか?

岸本 就職活動は当初なかなかうまくいかなかったんですが、その間に短期で宅地建物取引士の資格を取得し、リノベーション業界の社長ブログやSNSをチェックして、自分と相性が良さそうだなと思ったら連絡するようにしていたんです。そんな中で、「新卒お断り」と書いている東京の不動産ベンチャーにダメもとで応募して採用されました。社会人1年目は、住む場所も仕事も初めてだし、仕事もめちゃくちゃ忙しかったから、毎日のように泣いていました。今でも、会社があった渋谷の道玄坂の方に行くと「あの頃、ここを歩きながら泣いて会社に戻っていたなあ」という記憶がよみがえります。

切ない思い出ですね……。京都で生まれ育った岸本さんにとって、東京はどんな街でしたか?

岸本 東京は、わりと肌に合いましたね。仕事では、シェアハウスだけでなくDIYできる賃貸の事業も立ち上げました。他にも、渋谷の街で学びの場を提供する「シブヤ大学」でスタッフとして活動したり、友人と同じアパートの隣室同士に住んでみたり、仕事以外の居場所作りもできました。

岸本さん

仕事もプライベートも充実していたのに、なぜ京都に戻って独立する道を選んだのでしょう。

岸本 「独立したい!」という野望があったわけではないんです。ただ、既存の建物を生かすリノベーションの仕事をしていると、同業の人たちから「京都出身なのに、何で京都でやらないの?」って結構な頻度で聞かれたんですよ。

京都には町家をはじめとして、リノベーションしがいのある古くて面白い物件がたくさんあるじゃないか、と。

岸本 確かに、京都の建物には魅力的なものがたくさんあると感じます。それに、リノベーション業界でいろいろな人と知り合っていくと「かなわないな」という人にもたくさん出会うわけです。そうすると、東京での自分の存在意義が感じられないというか、「東京では、自分がいなくても回っていくんだな」と何となく思い始めて。一方で、京都のリノベーション業界ではまだまだプレイヤーが少ない。

リノベーション業界で魅力的な素材があり、プレイヤーが少ない京都の可能性が見えてきたんですね。

岸本 そうです。京都に帰ろうと思ったのは、地元が好きだったからというよりは、仕事の可能性を感じたから。独立して仕事をする場所として、面白そうだから京都を選びました。

「もし京都が東京だったらマップ」はこうして生まれた

2014年1月、5年ぶりに戻ってきた京都での仕事はどんなふうに始まったのですか?

岸本 さすがに、京都でイチから仕事を作るのは難しいので、最初の1年間は京都市役所に勤めました。ちょうど京都市で空き家活用に関する条例が施行されるときだったので、空き家対策の部署で非常勤の仕事があったんです。週4日勤務で兼業も可という好条件で、京都の状況を把握できるという意味でもすごくありがたい仕事でした。

地元とはいえ、京都で働くのは初めてだったんですよね。「仕事する街」としての京都はいかがでしたか?

岸本 住んだり遊んだりする京都と、働く京都は全然違っていましたね。仕事の内容は東京と変わらないのに、物件の数が想定よりかなり少なかったりして、まるで違う仕事をしているかのような感覚でした。さらに、個人事業主として「addSPICE」を立ち上げたときは人脈もほぼゼロに近い状態。最初の7カ月くらいは「東京に帰った方がいいのかも」とずっと思っていました。勢いよく「京都で独立します!」と宣言するんじゃなくて、「ちょっと行ってきます」ぐらいにしておけばよかったって(笑)。

ちょっと後悔していたんですね(笑)。「京都でやっていけそうだ」と思えたのは、何かきっかけがあったのでしょうか。

岸本 京都に帰ってきて半年が過ぎた頃から、仕事で出会う人たちから派生する人脈と急につながり始めて。設計する人、工務店さん、デザイナーさんなどとのネットワークができて、自分のやりたい仕事がうまく回り始めた感覚がありました。

2015年末に岸本さんがブログで公開した「もし京都が東京だったらマップ」は、京都のさまざまなエリアを東京の地名に例えるというユニークな視点が話題になりましたね。その原型ができたのも同じ頃ですか?

岸本 そうですね。京都への移住を支援するプロジェクト「京都移住計画」で物件紹介をしていたんですが、京都のことをよく知らない人ほど、京都に対する幻想がスゴくて。リアルな京都とのギャップがあまりにも大きいというか……。仕事を辞めて移住するのは人生の一大事だから、ちゃんと現実を伝えて判断を委ねた方がいいと思って、原型となる地図を作って見せていたんですね。それが思いのほか反応がよくて。


もし京都が東京だったらマップ (イースト新書Q)

『もし京都が東京だったらマップ』(イースト新書Q)

「この地図をもっと多くの人に共有してみよう」とブログにアップしたんですね。

岸本 友達の友達くらいまでに知ってもらって、役に立ったらいいなと思って無料ブログに載せたら、思いのほかバズってしまったんです。「Yahoo!ニュース」に取り上げられて、日本テレビの「news zero」でも紹介されて。さらにはたまたまテレビを見ていた出版社から声が掛かって、本を作ることにもなりました。

本が出たことによって、お仕事にも変化はありましたか?

岸本 思っていた以上にありました。「京都を東京になぞらえるなんて」と、京都の人には嫌われるんじゃないかと思っていたんです。ところが、本を読んでくださった京都の老舗の会社さんからの引き合いが結構多くて。本質的な部分を理解した上で依頼していただいている感じがして、うれしいです。

仕事を入り口にして、また新しい街に居場所を作る

岸本さんは、自分が暮らす街をどうやって選んでいるんですか?

岸本 私個人としては、自分の身を投じて実験しているところがあります。居心地の良さよりも冒険心というか。東京では、シェアハウスにも住みましたし、部屋よりバルコニーが広い物件に住んだこともあります。京都でも「これから面白くなりそうな京都駅周辺」とか、「学生マンションが増え、街の雰囲気が変わってきている元田中(もとたなか)」とか、変化を肌で感じられるところに身を置くのが好きで。拠点を構えたり、住んだりする中で、小さな実験を繰り返しています。

不動産プランナーという職業ならではの選び方ですね。引っ越しを検討している人に対しては、いつもどんなアドバイスをしていますか?

岸本 人によっていろいろな基準があると思うので、まずは気になる街を歩いてもらいます。そこにいる人の服装、しゃべり方、好きなお店があるかどうか。自分の中で「良さそうだな」という感じがヒントになると思います。物件の購入を検討している人には、まずは賃貸で。住む時間の中で「ここが好き」という場所を見つけてから、本格的に探すことをおすすめします。

岸本さん

結婚・出産などを機に、住む場所や暮らし方、働き方を考え直す人は多いと思います。岸本さんご自身も、最近、和歌山在住のお相手と結婚されたそうですね。結婚を経て感じておられることはあるでしょうか。

岸本 結婚や出産を経た働き方というのは、今まさに私の中で隠れたテーマになっているんです。京都には、行きつけの店も、友達もできて、ものすごく居心地がよくて。最初は東京に帰りたいと思ったこともあったけれど、今ではすっかり京都を好きになってしまいました。だから、結婚して和歌山に行くことになったときは、「京都100%」でいられなくなることに拒絶反応が出てしまって、今までで一番しんどいと感じたくらいです。

今は、和歌山と京都のどちらを拠点にしているんですか?

岸本 今は、2拠点にして半々でやっています。私の場合は、やはり仕事が自分の大部分を占めていると思うんです。京都に帰ってきたのも、仕事を作るのに適していると思ったからです。それなら、和歌山に仕事を作ればいいと思ったんですよ。自分が和歌山にいたいと思える状況を作ってしまえばいいんじゃないかって。

なるほど。仕事があれば、その街にいる理由ができるということですね。

岸本 東京から京都に帰ったとき、仕事を通して仲間を作ることが、街に入っていく手段になりました。和歌山でも、そうしていくのが一番自分に合っていると思っています。また、和歌山という地方都市で仕事を作ることの面白さも感じています。今、結婚して子どもができて、仕事に戻りたいけれどフルタイムで働くのは難しいという悩みを抱えている女性は多いと思うんです。もし、和歌山で子育て中のお母さんに適したやりがいある仕事を作れたら、全国の地方都市で暮らしている女性たちを救う道筋になるかもしれない。そう思うと、和歌山が楽しく見えてきました。

結婚というライフステージの変化が、また新しい仕事を生み出しそうですね。

岸本 はい。これから数年かけて追いかける長期的な目標になりそうです。結婚や出産をきっかけに働き方を変えなければならないという、一見マイナスなことをポジティブに捉えたい。住まいを作る人はいろいろなことを経験した方がいいと思うので、そういう意味でも、住宅事業はまだまだ女性が参入できる分野なのかなと思っています。

取材・文/杉本恭子
写真/浜田智則

お話を伺った方:岸本千佳さん

著者イメージ

1985年京都生まれ。2009年に滋賀県立大学環境建築デザイン学科を卒業後、東京の不動産ベンチャーに入社。シェアハウスやDIY賃貸の立ち上げに従事する。2014年に京都で「addSPICE」を創業。物件オーナーから不動産の企画・仲介・管理を一括で受け、建物の有効活用を業とする。そのほか、改装できる賃貸物件の専門サイト「DIYP KYOTO」の運営、京都への移住を支援するプロジェクト「京都移住計画」の不動産担当、暮らしに関する執筆などでも活動している。著書に『もし京都が東京だったらマップ』(イースト新書Q)。
Twitter:@chicamo

次回の更新は、2018年11月28日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

60代でも働いている人はいるし、脚光を浴びるだけが仕事人ではない|タバブックス代表・宮川真紀さん

宮川真紀さん

今回、「りっすん」に登場いただくのは、合同会社タバブックス代表の宮川真紀さん。「おもしろいことを、おもしろいままに本にして、きもちよくお届けする。」をモットーに、リトルマガジン『仕事文脈』をはじめ、『かなわない』(植本一子著)や『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』(小川たまか著)など、話題の書籍を数多く手掛けています。

会社員、フリーランス、経営者と3つの異なる立場からキャリアを積み、2人のお子さんを持つシングルマザーでもある宮川さんならではの仕事観、そしてこれまでの決断について語っていただきました。

管理職を目指して会社に残るより、フリーランスとして編集を続ける

現在は、出版社「タバブックス」の代表を務められている宮川さんですが、意外にもキャリアの出発点は、外資系コンピューター会社の営業職だそうですね。

宮川真紀(以下:宮川) 私が就職した1985年は、ちょうど男女雇用機会均等法が制定された年。まだまだ女性は数年で仕事を辞め、専業主婦になるというのが主流の時代でした。ただ、私の両親はともに教師で、母親も定年まで普通に働いていた。だから、すぐに仕事を辞めるという発想がなくて、男女間の給与や待遇差の少ない外資系企業を選んだんです。まあ、2年ほどで転職してしまいましたが(笑)。

転職しようと思われたのは、なぜですか?

宮川 たまたま好きだったモータースポーツの雑誌を出している出版社が社員募集していたんです。当時は転職のハードルも低くて、自然な流れで応募したように思います。そこでは広告営業に配属になり、間近で編集の現場を見ているうちに、自分もやりたいなと思うようになって。2年ほどで転職し、株式会社パルコの『月刊アクロス』編集部に移りました。7年ほど在籍し、書籍編集部に異動。その部署には8年間いて、トータル45冊ほどの書籍を作りました。

パルコに入られてから、編集者としてのキャリアをスタートされたんですね。実際に仕事をされてみて、何か理想と現実のギャップのようなものは感じましたか?

宮川 いや、私はもともと理想とかを持っているようなタイプではないので(笑)。『月刊アクロス』では、自分で企画も原稿執筆もやらせていただけたので、すごく良い経験になりましたね。書籍に異動してからは、既に有名な人というより、自分でミニコミを出している方や小さなギャラリーで展示をやっているアーティストの方などと本を作っていました。当時、パルコはセゾングループの一つでしたから、美術や演劇など幅広い文化を推進した、いわゆるセゾン文化の名残りがあり、比較的自由に仕事をさせてもらっていました。

宮川真紀さん

ただ、その後宮川さんは2006年にパルコを早期退職されます。そんな自由な環境だったにもかかわらず、どうして退職という道を選んだのでしょう。

宮川 20年ほど社会人生活を送り、もう会社員としては十分に働いたという実感がありました。あと、書籍編集という仕事は、会社に所属しなくてもやっていける仕事だと思ったんです。当時40代前半で、このまま会社に残れば部署の異動もあり、管理職としての仕事を期待される。そう考えたときに、フリーランスとして編集者を続けていきたいと思い、早期退職の募集があったときにすぐに手を挙げました。

決断は自己完結! 迷っていても誰かに相談しない

当時、宮川さんはまだ小さなお子さんをお持ちだったかと思いますが、どなたか自身の働き方に影響を与えたロールモデルにあたる方がいらっしゃったんでしょうか?

宮川 いや、誰かがいるから同じように、とは思わなかったですね。単純に、私がフリーランスとして働いてみたいなと。当時は、夫も健在で正社員でしたから、自分一人で稼がないと食べていけないという切迫感がなかったのかもしれません。夫が亡くなってからは、子どもたち2人を養うために自分が稼ぎ頭になりましたが。

自分だったら、不安で押しつぶされそうな気がします……。

宮川 私もだんだん気付いたんですけど、子育ては終わりが見えるものですし、あくまで一時的なもの。それに、国の制度をフル活用すれば、案外なんとかなりますよ。一人親支援とかベビーシッター補助制度とか、使えるものは使っていいんですから。

その後、2012年にはタバブックスを旗揚げされます。なぜ、フリーランスから起業という選択をされたのでしょうか。

宮川 フリーランス時代は、知り合いから編集を依頼されたり、自分で企画を持ち込んだりと、比較的順調ではありました。ただ、少しずつ出版不況と言われるようになり、企画が通りにくいなと感じるようになったんです。それと、同時期にひとり出版社というタイプの会社が出てきたのを見て、自分が出版元になって本を出すことができるのか、と思い挑戦してみることにしました。

かなわない

『かなわない』(植本一子著)

とはいえ、仰るように出版不況ですから、本が売れなかったらどうしようなど、不安に思われなかったんですか?

宮川 売れないものはしょうがないですからね(笑)。そのことを不安に思うよりも、もう本を作り始めちゃっていたから、途中で止めるわけにはいかない、という方が近いかもしれない。

宮川さんのご決断は、一貫して速く、迷いがないように思います。

宮川 昔から、「迷ってるから誰かに相談しよう」みたいな習慣がないんですよね。進路、結婚、仕事、全てにおいて事後報告です。それが全て正解だったとは思っていないんですけど、失敗したらそのときに考えればいいかなと。もちろん、誰かがアドバイスをくだされば、参考にはしますけど、それが決断を揺るがすまでのことは、これまでないですね。

年齢は将来の可能性を閉ざす理由にはならない

宮川さんは、現在50代でおられます。年齢を重ね、働き続けることに漠然とした不安を抱く人も多いかと思いますが、宮川さんは何か不安などありますか?

宮川 不安というより、いつまでこの仕事をするのかな、とは思います(笑)。ただ、あまり表に出ていないので知られていませんが、いろいろな場所で60代や70代でも自分らしく働いている方がたくさんいる。メディアは、キラキラした若手のキャリアウーマンばかりを取り上げがちですが、脚光を浴びるばかりが仕事人ではないですよね。

確かに、年齢を気にして将来の可能性を閉じてしまうのはもったいないですよね。

宮川 最近話題にあがる仕事に、ライターさん自身にすごく影響力のある「読モライター」があります。もしかしたら、若いうちだけの仕事と見る向きもあるかもしれませんが、「何かを書く」という本質は外さずに、仕事の取り組み方や露出の方法を変えれば、この先も全然成立するんじゃないかと思うんですよね。例えば、高齢者向けの道を探ってみるとか。これから高齢者の数はどんどん増えますから、そういう人がいれば参考にしたい人も多いと思うんです。

宮川さんが手掛けられているリトルマガジン『仕事文脈』では、多種多様な書き手の方が独自の仕事にまつわる体験をつづられています。世間一般にも、働き方が多様化の一途をたどっていますが、宮川さんはこの風潮をどのようにみていらっしゃいますか?

宮川 選択肢が増えているのはいいことですよね。例えば、『仕事文脈』に書いてくださった方に「ノマドナース」と名乗って働いている女性がいました。彼女はフリーランスとして、キャンプや登山客に付き添う救護ナースをしているのですが、自身も登山が趣味で自由に動ける時間を確保したいと、病院に所属しない働き方を選んだそうです。主流の働き方ではないかもしれませんが、少なくとも人がやっているからと同調することなく、試行錯誤して自分らしくいられる仕事をしているな、と思います。

仕事文脈 vol.12

『仕事文脈 vol.12』

自分ならでは、を掴みとった人は強いですよね。最後に、人生100年時代と言われて久しいですが、宮川さんはこれからのキャリアをどのようにお考えですか?

宮川 私の場合は定年もないので、働ける限りは働こうかなと思っています。ただ、今後はタバブックスを継承する、ということも考えていきたいなとは思っています。

よく先が分からないから不安だ、と言う人がいますけど、今の私たちが不便だと思っていることは、意外とそれに対応したサービスなり、プロダクトが生まれてくるんですよ。私自身が編集者として仕事をしていく中で、どんどん柔軟な働き方ができるようになった、という実感があるので。だから、未来に悲観ばかりするのではなくて、まずは今の仕事をしっかりやっていきたいなと思っています。

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/関口佳代

お話を伺った方:宮川真紀

宮川真紀さん

東京生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。株式会社パルコにて雑誌編集(月刊アクロス)、書籍編集(PARCO出版)を行う。2006年よりフリーランスの編集者として独立し、書籍企画・編集・制作、執筆(神谷巻尾名義)などの活動ののち、2012年8月にタバブックス設立、2013年6月法人登記し合同会社タバブックスに。

HP:合同会社タバブックス/Twitter:@tababooks

お知らせ:共働きをテーマにしたイベント「りっすんお茶会」を開催します

「りっすん」では、2018年11月25日(日)にイベント「りっすんお茶会」を開催します(※11月15日申込締切)。詳細は下記のリンクをご参照ください。
www.e-aidem.com

次回の更新は、11月14日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

女の子にも男の子にも、好きに未来を育んでほしい―― 『HUGっと!プリキュア』内藤圭祐さん・坪田文さん

内藤さんと坪田さん

(写真左から)内藤圭祐さん、坪田文さん

2004年放送の『ふたりはプリキュア』以降、毎年新シリーズが制作されているアニメ「プリキュア」シリーズ。初代から一貫して「女の子の憧れ」を描き続けてきました。2018年放送の最新作『HUGっと!プリキュア』では、「子どもを守るお母さん」や「仕事」を主軸に据え、子どもだけでなく子育て世代や働く大人にまで広く共感を呼んでいます。

「子育て」というテーマ設定に至った経緯やそこに込められた思い、また、大人からの反響をいかに受け止めているのか、プロデューサーの内藤圭祐さん、シリーズ構成および脚本を手掛ける坪田文さんにお話を伺いました。

一番大事にしているのは、子どもたちへのメッセージ

HUGっと!プリキュア

©ABC-A・東映アニメーション

『HUGっと!プリキュア』は「子育て」や「仕事」がテーマ。初代プリキュアのスタートから15周年の節目の作品ということで、過去に「プリキュア」に熱中していた“大人の視聴者”も意識されていたのでしょうか?

内藤圭祐(以下、内藤) そうですね。15周年ということで、昔のシリーズを見ていた人たちに再びプリキュアにタッチしてもらいたい、思い出してもらいたいとは考えていました。ただ、一番大切なのは、ターゲットである「3歳から6歳の女の子たち」を夢中にさせること。ですから、テーマ設定に関しても、15周年ということにはあまり縛られずに決めています。ここ数年のシリーズでは「プリンセス(2015年の『Go!プリンセスプリキュア』)」「魔法(2016年の『魔法つかいプリキュア!』)」「パティシエ(2017年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』)」など、さまざまなモチーフをテーマとして盛り込んできました。「お母さん」もそれらと同じく、子どもが憧れを抱く対象の一つだと考えると、プリキュアにマッチするのではないかと。

www.toei-anim.co.jp

「子育て」を描くにあたり、気を付けたことなどはありますか?

坪田文(以下、坪田) こちらから子どもたちにこれが「正解」だと提示するような表現は、絶対にしたくないと思いました。子どもを産み育てるのは幸せなことだけれど、“それだけが女性の幸せ”というわけではない。子育てがテーマではありますが、「いろんな形があっていい」ということを伝えたいと考えています。

内藤 そこは、ここ数年のプリキュアが大事にしてきた「多様性」にも通じる部分ですね。また、作中では中学2年生の主人公・はな(野乃はな)が「はぐたん」という未来から来た不思議な赤ちゃんを育てますが、「子どもが子どもを育てる」ことになります。そこをいかに無理なく描くかについては、神経を使いました。中学生が1人で育てていたらリアリティーがないし、そもそも、はなが学校に行っている間はどうするのかと。そこで坪田さんに用意していただいたのが、プリキュアをサポートする妖精の「ハリー(ハリハム・ハリー)」というキャラクターです。ハムスターの姿から人間体に変身すると「イケメンかつイクメンになる」という設定なんですが、彼をはじめ、はなの家族や他のプリキュアたちも含めて「みんなで育てていく」という形になっています。

HUGっと!プリキュア

ハリーやプリキュアたちみんなで、はぐたんを育てている
©ABC-A・東映アニメーション

www.toei-anim.co.jp

まさに、助け合う育児ですね。そんなプリキュアたちの姿は、現代の「ワンオペ育児」の問題に対するメッセージのようにも思えます。

内藤 私や座古明史監督にも幼い子どもがいて、最近の社会の風潮に対して個人的に思うところはあります。ワンオペ育児もそうですし、“騒音”を理由に保育園が作れないとか、ベビーカーと一緒にバスに乗ったお母さんがいたたまれない気持ちになるとか。そういった社会全体にまん延する不寛容さに対し、もう少し温かくなればいいなと。ただ、『HUGっと!プリキュア』に関しては、特別にそこを意識しているわけではありません。もちろん、見た人それぞれに何かを感じてもらえればいいとは思いますが、ことさらに「大人社会へのメッセージ」を込めているわけではないんです。

坪田 社会への問題提起という意識は全くなくて、私たちがこの作品で届けたいのは「あなたが生まれてきたことは素晴らしい」というメッセージなんですよね。それがまず根底にある。その上で、子どもたちに「こういう社会をみんなで作れたら、ハッピーかもね」っていう幸せな図を見せられたらいいなと思っています。

坪田さん

男女関係なく好きなものを好きと言える、自由な社会に

では、もう一つのテーマである「仕事」についてお伺いします。今回、プリキュアの両親をはじめ大人たちが働くシーンも数多く登場しますが、いずれの仕事もポジティブに、また「かっこよく」描かれている印象があります。プリキュアたちの母親は、タウン誌の記者や女優、クレーンの運転士だったりしますね。

坪田 そこは座古監督がとてもこだわっている部分ですね。座古さんって本当に優しくて、とにかく“肯定の人”なんですよ。だからなのか、いろんな人、いろんな仕事の良いところを見つけるのがすごくうまい。今回もさまざまな職業の案を出していく時に、「これはかっこいいね!」「これもすごいね!」って肯定してくれて。あと、これは職業に限らずかもしれませんが、佐藤順一監督が「社会にはさまざまな人がいる。それが当たり前」とおっしゃっていることもありますね。私たちが生きる世界はカラフルなんだなと。

HUGっと!プリキュア

作中では、プリキュアたちもさまざまなお仕事にチャレンジする
©ABC-A・東映アニメーション

それで男女問わず多様な職業が登場するんですね。前期エンディング主題歌『HUGっと!未来☆ドリーマー』の歌詞にも、さまざまな職業が出てきます。

内藤 1つの道に縛られる必要はないし、いろいろなことをやっていいんだと、子どもたちの視野が広がるきっかけになればいいなと考えています。エンディング曲の歌詞についても、そんなイメージで作詞家さんにお願いしました。

歌詞の中には「エンジニア」など、いまだに“男性の仕事”というイメージが根強い職種も出てきますね。

坪田 男女関係なく、エンジニアやクレーンの運転士など、「何を選んでもいいんだ」と感じてもらいたいですよね。社会には今も、女性にとって生きづらい部分が残っているんだと感じます。例えばプリキュアを見ていた女の子が、この先成長してエンジニアになりたいと思っても、誰かに「女性なのに理系なの?」などと言われて悩んでしまうかもしれない。そんなとき、「そういえば昔見たプリキュアで『エンジニア』って歌ってたじゃん!」と思い出して、自分を肯定してもらえたらうれしいです。それが、今回のプリキュアをやっている目的の一つでもありますね。

どんな選択も、どんな生き方も肯定する。作品の根底に、そんな「愛」があるように感じられます。

坪田 そうですね。みんなの魂というか命は自由なんだよ、好きに人生を、未来を育んでいいんだよって。そこは、当初から変わらずスタッフ全員が共有していると思います。

内藤さんと坪田さん

職業の多様性もさることながら、今回は特に、男女の性差に対する固定観念を打ち砕くような、さまざまな価値観、生き方にも踏み込んでいるようにお見受けします。例えば、19話では「男の子だってお姫様になれる」というセリフが登場し、インターネット上でも話題になりました。

坪田 プリキュアは1作目から「女の子だってヒーローになれる」を体現してきましたが、同じように男の子だってかわいいものが好きだったり、お姫様になりたいという願望があったりしてもいいはずです。でも、実際にはまだそこまでは言い出せない空気がある。私、5歳の男の子の友達がいるんですけど、彼はプリキュアを見てくれているのに人前では「見てない!」ってかたくなに言い張るんですよ。理由を聞くと「男が見るもんじゃないから恥ずかしい」と。気持ちは分かるんです。だけど、ちょっと寂しいなって。

好きなものを好きと言える、自由な社会になってほしい。そんな願いも込められているんでしょうか?

坪田 そうですね。先ほどのエンジニアの話と同じく、お姫様に憧れる男の子が「だって、プリキュアで言ってたもん!」って、自分を肯定してくれたらうれしいです。

人生で大事なことは全て「プリキュア」に詰まっているのかもしれません。

坪田 そう。だから全人類に「プリキュア」を見てほしいと思っています(笑)。

HUGっと!プリキュア

©ABC-A・東映アニメーション

大人からの反響はうれしいけれど、左右はされないように

今回のシリーズは特に大人からの反響が大きいように思いますが、どのように受け止めていらっしゃいますか?

内藤 確かに大人の視聴者の方からの反響は届いていますが、だからといって作風を変えることは一切ありません。基本はやはり子どもたちに向けて、何を感じてほしいか、そこだけです。ただ、大人が見ても楽しい要素が詰め込まれていますので、ぜひ家族全員で見てもらって、親子の会話が弾むきっかけになったらうれしいですね。

坪田 私も、大人が見てくれるのはすごくうれしいです。師匠的な人からも「女の子向けのアニメをやるにしても、全人類の視聴に耐え得るものを作りなさい」と言われ続けてきたので、そこは意識しています。ただ、内藤さんが言うように、3歳から6歳の女の子に一番に届いてほしいという軸がぶれてはいけない。ですから、インターネットの反響に左右されないようにしようと思っています。ネットでバズったからといって、それが世論の全てではないと思うので。

実際、『HUGっと!プリキュア』に言及したブログなども多く、SNSでも広く拡散されています。それでも、そこは冷静に受け止めていらっしゃるんですね。

坪田 そうですね。「プリキュア」の記事にはてなブックマークがたくさん付いたりするとうれしく感じます。でも、実際の視聴動向などを見るとそこまで大人の視聴数が伸びているわけではないんですよ。現在、伸びているのは子ども。ですから、今作は大人向けだとよく言われますが、私たちの軸はぶれていないのかなと思っています。

内藤さん

15周年の集大成である映画にも期待

最後に、10月27日(土)から全国公開される『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』についてお聞きします。お2人が担当されているのはテレビシリーズですが、15年間の集大成でもある映画についてはどのような思いを抱いていらっしゃいますか?

内藤 今回は歴代のプリキュアが全員出る映画です。これまで歴史を紡いできた各監督、各プロデューサーが大切にしてきたキャラクターたちの中に『HUGっと!プリキュア』があるというのは、やはり感慨深いものがあります。当初は初々しかった『HUGっと!プリキュア』のキャストさんたちも、物語の進展やキャラクターの成長に合わせて結束力が高まり、いろいろなことを乗り越えて映画が完成しています。そして、15周年の並み居る先輩キャストたちの中心にいる。そんな姿を見ていると「みんな、よくがんばったね」って思いますね。

坪田 私も映画には直接タッチしていないんですけど、内藤さんが言うように脈々と受け継がれてきた作品の真ん中に自分が担当する『HUGっと!プリキュア』があって、がんばっているのはうれしいです。キャスト・スタッフ陣は大変そうですが、フレフレ、がんばれ~!って、応援しています。

内藤 シナリオなどは確認しているんですけど、一体どんな映像になるのか僕らも分からないので。いちプリキュアファンとして、楽しみですね。

内藤さんと坪田さん

プリキュア15周年記念映画、10月27日(土)公開

10月27日(土)公開の『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』は、歴代55人のプリキュアたちが総出演する、シリーズ15周年記念作品。プリキュアたちの大切な「想い出」を奪う敵・ミデンが現れ、『HUGっと!プリキュア』と初代『ふたりはプリキュア』が力を合わせて戦います。

取材・執筆/榎並紀行(やじろべえ)
撮影/小野奈那子

お話を伺った方

内藤圭祐さん
東映アニメーション所属の『HUGっと!プリキュア』プロデューサー。2014年から放送された『ワールドトリガー』のアシスタントプロデューサーを経て、2016年に『魔法つかいプリキュア!』、2017年に『映画 キラキラ☆プリキュアアラモード パリッと!想い出のミルフィーユ!』のプロデューサーを担当。
Twitter:@minerogenesis

坪田文さん
脚本家。2016年の『魔法つかいプリキュア!』、2017年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』にも脚本で参加し、『HUGっと!プリキュア』ではシリーズ構成を担当。ドラマ『コウノドリ』や映画『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』など実写作品も手掛ける。
Twitter:@tsubofumi

次回の更新は、2018年10月26日(金)の予定です。

編集/はてな編集部

ハロプロの作詞手がける児玉雨子。デビューのきっかけは高校時代に書いた小説

作詞家・児玉雨子

今回お話を伺ったのは、作詞家の児玉雨子さん。高校3年生で作詞家として活動をスタートして以来、「モーニング娘。」「つばきファクトリー」などハロー!プロジェクトのアーティストをはじめ、今注目の女性アイドルグループの楽曲を中心に詞を提供しています。順調そのものに思えるそのキャリア。しかし、本人は「ほぼ運だけでここまできた」と語ります。若くしてデビューしたがゆえの苦悩、現在の仕事、これからのことについて迫ります。

高校生で作詞家デビューは「運がよかっただけ」

もともとは高校時代に書かれた小説がきっかけで、作詞家への道が開けたそうですね。当時は、小説家を目指されていたんですか?

児玉雨子さん(以下:児玉) いえ、その頃は特に何も目指していませんでした。実は中学・高校の頃、遅刻や休みを繰り返してばかりでした。友達にも先生にも恵まれたのに、なぜかそうしないと心のバランスが保てないというか。出席日数が進級に響きそうになったとき、何とかして内面に抱えているものを発散させなきゃと、まず漫画を描こうと思ったんです。でも、絵を描くのが億劫になっちゃって(笑)。それで小説に方針転換して、高校2年生で文学賞に小説を出しました。

そこから作詞家デビューまでは、どのような流れで?

児玉 父の知り合いに静岡朝日テレビのプロデューサーがいて、『コピンクス!』という情報番組を担当していたんです。それで、私が小説を書いているというのを聞いて、Juice=Juiceのメンバー・宮本佳林*1ちゃんが歌う番組の主題歌『カリーナノッテ』の作詞に関わってくれないかと話をいただきました。高校3年生の時です。

高校生で作詞初体験、いかがでしたか?

児玉 相当焦っていたのか、正直当時のことはあまり覚えていません(笑)。ただ、その時は何も知らなくて、勝手にメロディを変えて「これにしてください」とか、図々しいこともしてしまって……。「女子高生のワガママだからいいや」と、なあなあで許してもらえてたみたいです。

作詞家・児玉雨子

そこから、インディーズアイドルの楽曲作詞、さらにはハロー!プロジェクトにも作詞家として携わられるようになったとか。若くして仕事ぶりが評価されたということですよね。

児玉 いや、これは謙遜でも何でもなく運がよかっただけだと思います。あと、"女子高校生""女子大生"の肩書きにブランド的価値があったからだなって。高い下駄を履かせてもらってたなあと。

肩書きで評価されるのは、気持ちがいいものではないですよね。

児玉 若かったおかげで機会に恵まれた反面、「若いのに凄いね」と、どれだけがんばっても全部「若いのに」でまとめられてしまうのがつらかったです。それと、どれだけミスをしても「若いから」で許されてしまうことは、自分のためにはならないな、と。大学在学中にもお仕事をいただけていましたが、「早く32歳の女になりたい」って思っていました。年齢を重ねた女性って、余裕があって素敵でかっこいいじゃないですか。

就活の失敗が作詞家としての覚悟に

「女子高生」「女子大生」の下駄がなくなってからが、ある意味本当の勝負だと思っていたんですね。

児玉 そうですね。"女子大生"の肩書きが外れたことで、仕事をもらえなくなったケースもありましたけど、「ブランドで見られていた仕事ならいらないや」って。それに、ブランドに関係なく今でも続いている人や、大学卒業後に出会った人には、何かしら結果で返したいですし。まだ20代半ばですけど、社会に出てからは、否が応でも書いたものだけで判断されるようになったので嬉しかったです。ここからが頑張りどきだなと思っています。

大学卒業後はそのまま作詞家になろうと考えていたのでしょうか? 就職するという選択肢はまったくなかったですか?

児玉 ギリギリまで悩んでいました。実際、エントリーシートも3社くらい出したんですよ。でも、全部落ちてしまって。たった3社でも、「社会から拒絶された……」と妙にショックを受けてしまったんです。それなら、いまもらっている作詞の案件を頑張ろうと。

作詞家・児玉雨子

当時、会社員への憧れはありましたか?

児玉 お昼休みに小さい財布を持ったOLさんを見ると「いいな~」ってなります。でも、結局3社落ちただけで諦めたから、その程度だったと思います。歌詞の修正は何度でもやれるのに(笑)。

街の喫茶店には作詞のヒントが転がっている

児玉さんは、どのように作詞をされるんでしょうか? プロセスを教えてください。

児玉 レーベルごとにも違うとは思いますが、私の場合はデモテープをいただいて、曲を聴きながら〆切までに作詞するケースがほとんどです。作曲家やディレクターによっては「詞のプロットが欲しい」と要望をいただくこともあるので、その場合はプロットを書いたあとにまとめ直します。楽曲にもよりますが、早ければ制作期間は1日も掛かりません。ただ、そこから修正を加えて1カ月くらい必要なケースもあります。

1日掛からないというのは凄いですね。

児玉 デモの音源から自然と言葉が出てくる感じですかね……。ただ、バーッと書いたあとに、メインのフレーズを検索してかぶらないように気をつけています。どちらかというと書いたあとの推敲に力を入れています。

「アイドルっぽい歌にしよう」と意識して作詞されることもありますか?

児玉 あまり「アイドルだからこうしよう」とは考えないようにしていますね。年齢やイメージは多少意識しますが、「アイドル=こういう歌詞」と決めることはないです。それはアニメ方面で書くときも同じですね。あと、感覚なんですけど、例えば「恋愛系のメロディ」に「夢を追いかける系」の歌詞をつけてしまうと、ちぐはぐになってしまいます。特にアイドル好きの方って、曲をたくさん聴いているから違和感を見抜いちゃうんですよね。なので、デモテープの雰囲気から「歌詞の系統」はある程度決めています。

作詞家・児玉雨子

他にも、意識されていることはありますか?

児玉 「こういう内容のものが欲しい」というオーダーがあれば一応チェックしつつも、「書きたいように書く」ようにしています。昔は発注いただいた要望全てを叶えなきゃという気持ちがありましたが、そうすると、聞き手に届きづらい歌詞になることもあって。最近は発注書を斜め読みしている感じです(笑)。特にハロプロさんは長くお仕事をさせていただいてることもあり、ほぼお任せで書かせてもらっています。

作詞をする場所はどこが多いですか?

児玉 チェーンの喫茶店ですね。

個人店ではなく、「チェーン」じゃないとダメ?(笑)

児玉 ダメですね(笑)。中高生、大学生がたくさんいるような、塾や大学近くのチェーン店がいいです。そこにいる若い人たちの話に聞き耳を立てていると、歌詞のヒントになることもあるんですよ。

若者のリアルな会話が歌詞に反映される、と。

児玉 例えば、つばきファクトリーの『低温火傷』という曲の歌詞は、喫茶店にいたカップルにインスピレーションを受けて書いたんです。「この男、絶対に遊んでるよ」って心配になる男の子と一緒にいる女の子がマジで恋している顔をしていて、切なくて死にそうになって(笑)。

その男の子が来週スノボに行くって言うと、彼女は「へえ~いいね~行きたい~」ってリアクションするんですけど、明らかにスノボなんてやったことなさそうな真面目な女子だったんですよね。健気に話を合わせていて……。その時の会話と、そのやりとりから抱いた感情を反映しました。


つばきファクトリー『低温火傷』(Camellia Factory [Low-Temperature Burn])(Promotion Edit)

つんく♂さんの真似はできない! 「私らしい」歌詞を書く

ハロー!プロジェクトの方とのお仕事で印象に残っていることがあれば、教えてください。

児玉 いろんな現場の仕事をするようになって、「待って、私が初めて作詞した曲を歌ってくれた宮本佳林ちゃんって、めちゃくちゃ歌上手だったんだな……!」ということに気付きました。とにかくレコーディングが早くて、1、2回通しで歌ったらもうOKといった感じだったんですよ。いろんな方のレコーディングに参加して、「普通のレコーディングは、あんなに早く終わらないんだ」ということを知りました。決して他の方が下手なのではなく、彼女が異常にうまいんです(笑)。

ハロー!プロジェクトに所属するアイドルは皆さんパフォーマンス力が高いですよね(笑)。

児玉 ハロプロメンバーのレコーディングは、気付いたら終わっています(笑)。レコーディング現場で「歌いづらいから」とその場で歌詞を変更することって割とあるんですけど、ハロプロはあまり歌詞変更がなくて。メンバーみんな上手だから、何でも歌ってくれるんです。

作詞家・児玉雨子

ハロー!プロジェクトといえば、やはりつんく♂さんのイメージが強いです。ただ、一方で最近はつんく♂さん以外にさまざまなクリエイターが参加されています。その中で、児玉さんはどのように存在感を発揮したいとお考えですか?

児玉 私に求められているのは、楽曲に違うカラーを持たせることだと思っています。レジェンドであるつんく♂さんの真似はとてもできませんが、バリエーションの一つとして私を選んでいただけるのはとても光栄なことだと思っています。歌詞は「存在感を発揮したい」から書くものではないので、時代が求めているものを書きたいと思います。それが「私らしい歌詞」になれば、理想ですね。

作詞を手がけたものの中で「これは手応えがあった」と感じた楽曲はありますか?

児玉 最近だとつばきファクトリーの『今夜だけ浮かれたかった』はのびのび書けたな、と思います。デモはそこまで夏夏していなかったのに、「これは夏の曲だ! 夏じゃなきゃだめだ!」と感じた不思議な曲でした。


つばきファクトリー『今夜だけ浮かれたかった』(Camellia Factory[Only for tonight, I wanted to be playful])(Promotion Edit)

ご自身でハロプロとの相性のよさ、といったものを感じることはあるのでしょうか?

児玉 私が中高生の頃って、ちょうどAKB48グループが一番盛り上がっていた時期だったんです。その時に「僕」目線の曲が多いなという印象は持っていて。一方で、ハロプロって「私」目線の曲が昔から多いんですよ。私は一人称の歌詞を書くことが多いので、そういった面ではハロプロの曲となじみやすいのかな。ありがたいことに、すでに土壌がありました。

人生なるようにしかならないなら"ぶっつけ本番"の人生を

では最後に、これからのライフプランについて伺いたいです。

児玉 それは、まったく何も考えていないです(笑)。

おっと!それは、あえてですか?

児玉 というか、「なるようにしかならない」って常々思ってるんです。もしかしたら干されて、1カ月後に仕事がなくなっているかもしれないし。自分が何かを成し遂げたい、という気持ちもそんなにないんです。知らない誰かの代弁となる詞や、歌手が売れるきっかけになるものを少しでも多く書きたい、という方が強いです。実は、学生時代に教授から「アイドル向けの作詞家なんて浮き草仕事をしてないで、歴史に残る仕事をしなさい」って言われて……カチンときたんですよね。「今でいう『古典』は、当時の流行だぞ」って。

その反骨心が、児玉さんの原動力になっているのかもしれませんね。

児玉 はい! だから「浮き草上等! 私の浮力を見くびるなよ」っていう気概は持っているつもりです(笑)。だからこそ、場当たり主義かもしれないですけど、その時できることを全力でする、ぶっつけ本番の人生でいこうって思っています。

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
写真/関口佳代

お話を伺った方:児玉雨子さん

著者イメージ

1993年生まれ。2011年に情報番組『コピンクス!』(静岡朝日テレビ)の主題歌『カリーナノッテ』で作詞家デビュー。以来、ハロー!プロジェクト等のアイドルグループをはじめ、声優、アニメ・ゲーム主題歌を中心に作詞提供。2015年より「月刊Newtype」にて小説『模像系彼女しーちゃんとX人の彼』連載中。
Web:児玉雨子 – KODAMA Ameko –
Twitter:@kodamameko

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次回の更新は、2018年10月17日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:当時はハロプロエッグ(現名称:ハロプロ研修生)

やり方次第で“育児根性論”は脱却できるーー先輩ママ3人の「仕事と育児の両立」座談会

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(写真左から)小沢あやさん、桜口アサミさん、いまがわさん

子どもは……欲しいといえば欲しい。でも、今のところは「分からない」。

「母になること」に想像を巡らせてみても、目の前の仕事のようにリアルじゃない――とはいえ時間は待ってくれず、悩める時間には限りがあります。妊娠・出産は自分で完全にコントロールできるものではなく、難しい問題です。

仮に「子どもを産んでも働き続けたい」と思ったとしても、さまざまな情報を目にし「仕事と育児の両立って大変そう、不安」とネガティブな気持ちになってしまうことも少なくありません。

そこで、仕事で第一線を走りながら育児に奮闘している3人の座談会を実施。それぞれ悩みを抱えながらも出産をした彼女たち。いま思うこと、仕事との両立、パートナーとの関係までホンネで語っていただきました。

***

<<参加者プロフィール>>

桜口アサミさん(37歳)

桜口さん

オウンドメディア編集長、マーケター。26歳で結婚、28歳のときに関西から東京へ単身赴任。第一子の妊娠を機に関西へ戻り、30歳で出産。その後、関西で在宅ワークをしていたが、現在は東京で正社員として働いている。長男(7歳)、長女(4歳)、次女(2歳)の母。転職活動&保活&引越しを同時進行で行った経験談を寄稿したことも。

小沢あやさん(31歳)

小沢さん

フリーランスの編集者・ライター。音楽レーベルの営業/PRを経て、IT系スタートアップへ。正社員として働きながら、ライターとしても活動し、2017年8月に第一子を出産。2018年4月に会社へ復職後、しばらくしてフリーランスに。

いまがわさん(29歳)

いまがわさん

UIデザイナー。新卒で入社した会社の同期と27歳で結婚、28歳で第一子を出産。保活に苦戦した経験あり。夫はフリーランスのエンジニアで、自身はフルタイムの正社員。2018年9月中旬から一家でドイツに移住。

「いつか欲しい」とは思っていたけど、腹をくくったのは妊娠してから

早速ですが、皆さんが子どもを持つことをリアルに考えるようになったのは、いつ頃からでしょうか? また、もともと「子どもが欲しい」という思いはありましたか?

桜口(敬称略、以下同) 28歳後半までは「いつか欲しい」くらいの感じでした。でも、友人に「子どもって、欲しいと思った時にできるとは限らないよ」と言われたときにハッとしたんです。不妊治療をするにしても早い方がいいだろう、とまずは避妊をやめてみることにしたら、第一子を妊娠して。ここで腹をくくるしかないとなりました。

小沢 私も、「いつか欲しい」とは思っていましたが、タイミングは考えていなかったですね。残業・休日出勤が多い業界からIT企業へ転職したときに、「ここなら育児しながら働けるかも」と思ったことは覚えています。IT企業は業務ツールも充実していて、長時間オフィスにいなくても、リモートでできる仕事が多いですから。

転職されたことで、「子どもを持つ」人生が現実的になった?

小沢 そうですね。産みどきは自分がコントロールできるものではないけれど、「子どもを考えるのは、仕事が一区切りついてからかな」と思っていました。自分のキャリアにまったく自信がなかったので、育児で身動きがとれなくなるのが本当に怖かったんです。

いまがわ お二人とも、しっかり考えてらっしゃるんですね。私は、漠然と「31歳くらいで出産するのかな」……みたいな、ずっとぼんやりしたままで、妊娠をリアルに捉えられないままでした。なので、27歳で妊娠が発覚したのは想定外で。友人の中でも妊娠・出産が早い方だったので、できてから覚悟したのが正直なところです。

座談会イメージ

ちなみに、出産前後で、どんなことに不安を感じましたか?

桜口 出産前はどうなるか分からなさ過ぎて、不安だらけでしたね。というのも私は、第一子の出産が単身赴任中のときだったんです。「無事に産めるのか」というレベルから、どうやって仕事と両立させていこうかということまで、ありとあらゆる不安を抱えていました。結局、会社を退職して関西へ戻り、30歳で第一子を出産しました。

小沢 私も出産前は、とても不安でした。雑誌やWebメディアのニュースを読んでいると、「小1の壁」など、育児にまつわるネガティブな記事ばかりが目について。「子どもを育てるには、何枚の壁をブチ壊さないといけないんだ?!」って、考えこんじゃいましたね。

いまがわ 壁、ビビりますよね。赤ちゃんかわいい! という記事より、ネガティブな記事の方が記憶に残るので、子どもを持つことに対する漠然とした不安はありました。

小沢 保活(保育園に入るための活動)の壁もそう。「認可外保育施設に預けることになったら、いくら必要なんだろう?」と、経済的な不安もありましたね。実際に産んでみると「意外となんとかなるじゃん!」と、いい意味でのギャップがありました。

いまがわ 私は出産後の方が不安が大きかったかも。というのも、保活に本当に苦労して……。認可・認可外含めてさまざまな保育園に申し込んだのですが、全滅してしまったんです。

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小沢 東京の保育園事情は、本当に深刻です。わが家は認可外も含めて、広範囲で片っ端から申し込みました。結局、入園が決まった園の近くに引っ越しました。

桜口 地域によって、だいぶ変わりますよね。「小1の壁」に関しては、うちの場合は地域性によってだいぶ和らいだ感があります。いま住んでいる区では全ての小学校に学童があって、19時まで預かってくれるんです。

仕事のストレスは最小限に抑え、精神的栄養は子どもに残す

生活に子育てが組み込まれると、住む場所選びも一筋縄ではいかないんですね。では、仕事との両立についてはいかがでしょうか? 小沢さんは、出産後に会社を辞めてフリーランスになったんですよね。

小沢 「子どもが産まれたから仕事をセーブするの?」と聞かれるんですが、違うんです。むしろ「子どもができたから、もっと稼がねば!」と働き続ける気満々。ただ、育休が終わって復職してみると、想像以上に会社と子どもだけの生活になってしまいました。個人で受けたい仕事もたくさんあるのに、断らざるを得ないこともあって、うずうずしていたんです。

「今の働き方って、ベストなのかな?」と考えている間に会社の組織変更があり、「かける迷惑を最小限にして辞めるなら今だ!」と勢いでフリーランスになりました。今は、業務委託で複数の企業とお仕事をしています。正社員を辞めるのは怖かったけれど、この働き方もしっくりきていますね。

桜口 自分がいかに柔軟に動けるかの土台をつくるのは、大事かもしれませんね。私の場合は、会社が育児に協力的じゃなくなったら即辞めてやる、くらいの気持ちでいます。

だって、“精神的栄養”は子どもに絶対残したいじゃないですか。そう考えると仕事で1ミリもストレスを溜めたくない。ワガママかもしれませんが、嫌なことは嫌ってはっきり言います。それでクビになっても、自分で生きていこう、別の会社を選んでやろう、と思います。

桜口さん

小沢 育児って時間は割かれるけど、ネガティブなことばかりではないと思うんです。仕事の稼働時間も制限されるけど、一層効率よくしようと思えるし、「土日と深夜で巻き返すぞ!」みたいな、無茶な働き方もしなくなりましたね。

いまがわ 確かに、取捨選択は上手になるかもしれないですね。

桜口さんは第一子を出産される際に一度退職されたとのことでしたが、その後仕事はどうされたのでしょうか。

桜口 仕事はしたいと思っていましたが、育児を優先したいとも考えていたので、在宅ワークできる企業にジョインしました。

ただ、40歳くらいまで在宅ワークを続けようと思っていたのですが、3人目を産んでから「そろそろチームで働きたい」と思うようになってきて。昔からインターネットが大好きだったこともあり、IT系の企業が多い東京で働きたくなったんです。ちょうど夫も東京での仕事が増えてきたので、転職と合わせて家族で引っ越すことになりました。

正解はない「妊娠報告のタイミング」

皆さん、妊娠されてから産休・育休に入るまでの働き方はいかがでしたか。

いまがわ 私は、妊娠してから産休までの間がちょっとしんどかったかも。上司には早めに伝えていましたが、妊娠したことを職場の同僚に言い出しにくかったんですよね。

それはなぜでしょうか?

いまがわ ちょうど大きなプロジェクトに関わっていて、忙しい時期に妊娠が重なってしまったので、心苦しくて知られたくなかったというのが正直なところです。運良く妊娠中も不調になることもなく働けていたので、お腹が大きくなったのもしばらく隠していましたね。お荷物扱いにされたくないというか。

小沢 妊娠を申し訳ないと思ってしまう、という気持ちは何となく分かります。

妊娠報告のタイミングは、働く女性にとっては悩みどころだと思います。「安定期に入ってから」「妊娠初期」など、タイミングはいくつかあると思いますが、妊娠中の体の状態は本当に人それぞれなので、「これが正解」というのもないですし……。

小沢 安定期に入る前でしたが、すぐ上司に報告しました。体調不良がひどかったのですが、お休みをいただくこともできました。理解してもらえたのはありがたかったですね。早めに報告した方が、会社も産休・育休中の人材配置や採用を先回りして検討できるのではないでしょうか。

いまがわ 今となってはですが、いつ体調が急変するかも分からないので、同僚にも早く報告すればよかったな。

桜口 私が第一子を出産したのは7年前ですが、全ての企業ではないにしても、出産育児の寛容度はかなり向上しているなと思います。「社員にとって働きやすい環境を考えるのは当然だよね」という雰囲気が、社会に広がっているのはいいことだなって。

小沢 世間は意外と優しいし、今後はリモートワークができる企業も増えてくるはずです。いい時代になってきている感じはありますよね。


便利サービスは積極的に活用し、育児根性論から脱却

皆さん、共働きでいらっしゃいますが、パートナーは育児や家事に協力的ですか?

いまがわ 協力的ではありますが、気が回るタイプではないので、家では私がプロジェクトマネージャーで、夫は外注さんとして忠実に任務を遂行してもらえるように道筋をつくるようにしています。

桜口 もはや仕事みたいな割り切りも必要ですよね。うちの夫は仕事が忙しくて、第三子を出産してから約2年半くらいワンオペ状態のような時期もありました。ただ、パパ抱っこ面談みたいなのにちゃんと来てくれたり、育児に協力的だったりと「子どもが好き」というのを知っていて、ちゃんと土台があったので、許せたんだと思います。

小沢 わが家の場合は、よく私が怒られています。夫に「Twitterより、先にお皿洗いしてよ!」と言われちゃうことも(笑)。もともとは、私が主体で家事をしていたのですが、今は逆転しましたね。つわりや体調不良で動けなくなったときに、徹底的に家事をしなかったので、その状況を見て責任感が芽生えたのかもしれません。

桜口いまがわ 夫さん、素晴らしいです!

桜口 つまるところ夫が“やらないこと”に対してのストレスを感じちゃうときりがないですよね。逆に、夫が“やること”のストレスがないものに目を向けて、有り難みを感じた方がいいというか。極端ですけどモラハラとか暴力とか、仕事を辞めろって強制してくるとか。そこを“やられる”と、パートナーシップが破たんしますからね。“やらないこと”は、アウトソーシングで補填するという選択肢もありますし。

小沢 最近は、手ごろなサービスも充実していますもんね。家事も、すべて外注に踏み切るのは難しいけれど、スポットで利用できたらいいですよね。

UberEatsなどの出前サービスやECもどんどん便利になっていますし、デジモノもそう。ネットサービスやガジェットを効率よく使えば、育児根性論から脱却できるということも実体験から分かりました。育児自体は思い通りにいかないけれど、オペレーションは効率化できる。お金はかかるけれど、精神的安定を買う感覚でいます。頑張り過ぎて息切れするのが、一番怖いです。わが家は実家を頼れない核家族なので、割り切りも必要なのかなって。

いまがわ それが理想ですよね。

いまがわさん、小沢さん

産む前から気負い過ぎない方がいい

ここまでお話を伺ってきて、皆さんやはり、妊娠・出産にあたりさまざまなことを考え、仕事でもプライベートでも自分らしい選択をされてきているんですね。

桜口 子どもを持ってからも仕事を続けたい、という人にとっては、仕事が忙しくて一緒にいられないことに罪悪感を持ってしまうという声も耳にします。でも、自分だけで育てているんじゃなくて、学校や社会にも育ててもらえるんだよと伝えたいですね。親は、「とにかくあなたのことをめちゃくちゃ愛してる」と、しっかり伝えることが役目なんじゃないかなと。

小沢 育児中は自分の行動に制限がかかるのは事実ですが、それを恨み節みたいにはしたくないんです。そのためには、自分が自由でいる状況を創造しないとなって。子どもと私のキャリアプランは切り離して考えたいし、子どもは自分の人生の歯車ではないので。育児は思い通りにならないからこそ、「私、こんなに頑張っているのに!」と考えないようにしようと思っています。

いまがわ 出産育児で仕事のブランクを心配する人もいますが、私の場合はいざ復帰してみるとガッツリ仕事に関われたので、いい意味で裏切られました。スキルを磨く努力さえしておけば、子どもがいてもキャリアは自ずとついてくると思います。9月から海外へ移住しますが、向こうへ行っても、また仕事をしたいと思っていて。子どもがいても、新しいことに挑戦する姿勢は今後も持ち続けたいです。

とはいえ、実際には出産前から考えすぎて不安が払しょくできない人もいると思います。

桜口 私も、実際に妊娠するまでは漠然としか考えていなかったですし、出産前の方が「母であろう」とかいろいろ気負い過ぎていた感がありました。なので、心配になったり、不安になったりする気持ちも分かるんですよね。

いまがわ いざその状況になったら考える、くらいでもいいと思います。実際、私は妊娠してから今後の人生設計について考えるようになったので。

小沢 普通にOLとして働いていても転勤や異動のリスクはあるのに、なんで赤ちゃんに対してだけビビっていたんだろう? と今では思います。10ヶ月くらい気持ちを切り替える時間があって、その間にいろいろと作戦を練ることもできる。不安は尽きませんが、あんまり思い詰めず、楽な気持ちでいるのがいいかもしれませんね。

座談会

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/関口佳代


※座談会参加者のプロフィールは、取材時点(2018年8月)のものです

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編集/はてな編集部