仮面ライダーを好きな人がその生き方を真似できないなら、何の説得力もない――読売新聞専門委員・鈴木美潮さんの「仕事と特撮」

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読売新聞東京本社で政治記者を経て専門委員を務め、「よみうり大手町ホール」の企画プロデューサーとしても活躍する鈴木美潮さんは、“大の特撮ファン”として知られる存在です。記事を執筆し、コメンテーターとしてテレビ番組にも出演する一方で、自ら特撮ヒーロー番組に出演した俳優やアニソン歌手をゲストに招くトークイベントを企画・開催。精力的に仕事と趣味の両方に取り組み続ける鈴木さんに、その経緯や情熱についてお話を伺いました。

「どこまで食らいついてくるのか」試された

鈴木さんの今のお仕事について教えてください。

社長直属教育ネットワーク事務局の専門委員として、「読売教育ネットワーク」が開催する「出前授業」で講師をしています。いろいろな学校に出向いて、新聞の読み方、メディアリテラシー、18歳選挙権や主権者教育の話をします。ホール企画部の企画プロデューサーも兼務していて、東京・大手町の読売新聞ビルの中にある「よみうり大手町ホール」の企画運営にも携わっています。といっても私はアニソンライブしか担当しないんですが。他には、ほぼ週1回、「YOMIURI ONLINE」で「日本特撮党 党首の活動報告」という記事、そして隔週で英字新聞「The Japan News」でコラムを書いています。

【特集】:日本特撮党 党首の活動報告:カルチャー:読売新聞

なぜ新聞記者を目指したのですか?

私は小さい頃から政治に興味がありました。きっかけは小学校4年生のときに親が買ってくれた朝日新聞出版の「少年朝日年鑑」に、金大中事件*1が載っていたことです。それを読んで、民主化のために戦う金大中が社会のヒーローだと思いました。政治というものに興味を持ってから、ずっと政治に関わる仕事がしたいと思っていました。

父の仕事の都合で大学生の時にアメリカに渡り、アメリカの大学と大学院で政治学を専攻して修士号を取得しました。日本に帰国して就職しようとした時に、渡米前に在籍していた大学の後輩から「読売新聞のエントリーシートの締め切りが明後日ですよ。一部余ってるからあげます」と言われまして。小さい頃から漠然と書くことも好きでしたし、マスコミの仕事であれば政治に多少関わることができると考えました。幸いトントン拍子に採用試験を突破して、最初に内定をもらった読売新聞に入社を決めちゃいました。

そして新聞記者として仕事を始めたんですね。

入社すると、最初は地方支局に配属されました。私は第一志望であった横浜支局に行くことになり、事件記者からスタートして、高校野球、市役所、県庁などを担当しました。当時、横浜は事件が多いことで有名で、すごく忙しかったんですね。会社から「なぜ横浜を志望するのか?」と聞かれた時に「事件が多い所で自分を鍛えたいと思います」なんて真面目に答えたんですが、実はたまたまその時に夢中になっていたのが、横浜を舞台にしたドラマ『あぶない刑事』だっただけなんです……。もう時効だろうと思いますけど(笑)。

約4年後に本社に戻りました。同期入社はだいたい同じような時期に本社に戻ってきて、記事に見出しを付けたり、紙面のレイアウトを行ったりする「地方部整理」という部署に行きます。私はそこに1年半くらいいて、1994年10月に、政治部に配属されました。

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入社された1989年ごろは、マスコミで活躍する女性は少なかったように思います。

記者以外の職種を含めると全体の採用数は多くて、同期の記者は65人いました。そのうち7人が女性でしたね。当時は女性を全体の1割採用するって、結構すごいことだったんですよ。それでも女性の記者に対して、まだ腫れ物に触るようなところはありましたね。男女雇用機会均等法は施行された後なので無論差別はないのですが、「記者という仕事に果たしてどこまで食らいついてくるのか」ということが、採用する側もまだよく見えない時代だったのではないかと思います。

女性が少ない中で、大変だった思い出を教えてください。

政治部に配属されると、まず総理番*2から始めるんですが、総理番ってとにかく1日中総理の後をついて回るんですよ。男性でも体が弱い人は大変だと思います。朝、総理は首相官邸から隣の国会まで車で移動するんですが、記者たちは総理が官邸から出たら、走って国会の入り口で待ち構えなくちゃいけない。官邸まで全力疾走する「番ダッシュ」というものをしていました。まずこれで初日に息が上がりました。

国会内でも総理の動きを追い掛け続けるわけですよね。

総理番をやっていた頃はヒールの高い靴だとつらいので、ローヒールを履いていました。総理番を外れた後も、国会内のどこかで秘密の会合が開かれていたりすると、終わるまでずっと待っていないといけない。政局の読みが鋭ければ、前もってローヒールにしますけど、だいたい突然の出来事で、そういうときに限ってヒールの高い靴を履いてたりして。もう大変ですよ。

ある衆議院議員の秘書給与流用疑惑があった時、議員の自宅前でずっと張り番*3をしたこともありました。真夏で気温が35度を超えていて、記者仲間で協力し合って近くのコンビニに行き、議員宅前でアイスキャンディーを食べました。あんなにおいしいアイスキャンディーは後にも先にもないですね。

政治部以外での印象的なエピソードはありますか?

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記者1年生の時、高校野球を担当したんですが、本当にひどいものでした。野球に興味が全くなかったので、学ぼうという意欲はあっても、世間の常識と私の持っている常識が全然違っていてですね……。かろうじて「ヒットを打ったら一塁側に走る」は分かるんですが、「一塁ゴロ」の意味が分からなかったり、「シュート」と「ショート」を間違えたり。

高校野球の地区大会を取材して、次にちびっこサッカーの取材があったんです。私はサッカーも分からない。でも野球でちょっとは慣れたと思っているから、野球のノウハウを使えばいいんだと考えました。野球の記事に「カキーン」「鋭い打球音を残して球がフェンスの向こうへ消えていった」みたいな文章があるじゃないですか。これを応用して「バスッ」「鈍い音をさせて白黒の球が網の中に消えていった」って書いたら、「お前これ真面目にやってんの?」ってものすごく怒られました。

現職に至るまではどんな仕事があったのでしょうか。

1999年夏に、『週刊読売』という週刊誌の編集部に行って『読売ウイークリー』にリニューアルする仕事に携わりました。その頃、日本テレビの情報番組に読売新聞の記者を出すという話があったので、自分から手を挙げて、週1回出演することになりました。

この情報番組が終了するまでは『読売ウイークリー』にいて、その後政治部に戻ったんですが、2003年に読売新聞が日本テレビと「イブニングプレス donna」という情報番組を立ち上げることになり、それにも手を挙げて出演者になりました。平日の月曜日から木曜日まで約10年、2013年の暮れまで続けました。テレビ番組があると政治部の仕事はできないので、途中で文化部に移り、文化面のコラムを書きつつテレビの仕事をメインで。その間にも「PON!」などの情報番組にコメンテーターとして出ていました。よくアナウンサーと間違えられることがありましたね。

ホームシックから立ち直る原動力となったのは、仮面ライダーの存在だった

ここまでは読売新聞でのお話でしたが、次は「特撮」を好きになった経緯について教えていただけますか。

うちはすごく厳しい家庭で、母がテレビを制限していてなかなか見せてくれなかったんですよ。ところが、7歳のときに始まった特撮ドラマ『ミラーマン』だけ気まぐれで見せてくれました。それにものすごくはまって、「鏡京太郎(演・石田信之)のお嫁さんになる!」となってしまって。でも毎回は見せてくれないんです。「テストで100点取ったら見てもいい」なんて言われたので、その通り100点を取って見ていました。ミラーマンの最終回が本当に悲しくて、小学校2年生の作文で「日曜日にあった悲しい出来事」として「ミラーマン、あなたは鏡の国に帰っていくのね、さようなら、ミラーマン、ミラーマン」なんて書いたんですよ、小学2年生なのに。

ミラーマンが終了したことで、特撮を見る機会がなくなったと思うのですが、その後どのように興味を広げていったのでしょうか。

毎年夏に、青森県八戸市の、ほぼ同年代のいとこ3人兄弟の家に遊びに行くんですね。そのとき一緒に特撮ドラマ『仮面ライダー』の放送を見たり、ライダーごっこをしたりして、今度は仮面ライダーにはまるわけですよ。当時「仮面ライダースナック」のおまけの「仮面ライダーカード」というものが大いに流行っていましたが、うちでは当然買ってもらえませんでした。ところがいとこの家はスーパーマーケットを経営していて、「ひとり1個ずつライダースナックを買っていいぞ」って言われて、そのとき初めて手に入れて。「何が出るかな、本郷猛か、1号か2号か、滝和也でもいいな」とわくわくしながら開けたら、ミミズ男(敵の怪人)が出てきた。

オチが(笑)。

私が唯一リアルタイムで買ってもらえたカードが、ミミズ男なんです。唯一です! だからもう、満たされない気持ちをずっと引きずっていて、政治部記者時代に仮面ライダーカードが復刻された時には、段ボールで30箱買いました。

大人買い!!

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大人買いにもほどがある感じですよね。近所のお菓子屋のおじさんが軽トラに乗せて運んできました。段ボール1箱にスナックが28袋入っていたんです。お菓子はあんまり食べたくなくて、別梱包になっているカードを抜いて、お菓子は持てるだけ持って少しずつ会社に持ち込みました。

話は子供の頃に戻ります。そこから先の特撮番組の開拓はどうされたんでしょうか。

中学生になると、特撮よりもっと「見てはいけない」ような番組があるから、特撮については母からそんなに厳しくは言われなくなりました。そこでいろいろ見るようになって、お小遣いを貯めて超合金(ロボットアニメ・特撮作品のキャラクター玩具シリーズ)を買ったりして。そのうち『宇宙船』(SF・特撮作品の専門誌)という雑誌が創刊され、その時に初めて、自分の好きなものが「特撮」というジャンルであることを知りました。

みんなは小学校高学年ぐらいで徐々に特撮番組を卒業していくんです。でも私はずっと好きで、ずっとずっと好きで、子供心に「もしかしたら私は変態なんじゃないか」と悩みました。「私が好きなこれは何なんだろう?」ってずっと思っていましたね。

やっと自分の心が引かれるものの定義ができたんですね。

14歳の秋に村上弘明さんが出演されていた『スカイライダー』(仮面ライダーシリーズ第6作)が始まって、学校の創立記念日に、突然「今行かなかったら一生後悔する」と思って、東映の撮影所に乗り込んだんです。そしたらたまたま、ちょうどアフレコが終わった村上さんと東映テレビ部の平山亨プロデューサーが出てきた。お二人は近くの喫茶店で、私と、一緒に行った友人に付き合ってくれました。村上さんはまたアフレコがあると途中で戻ったんですが、平山さんは3~4時間、ちょっとませた14歳の話をずっと聞いてくれたんです。そこからですよ、沼にずぶずぶと沈んでいったのは。

ファンの中学生に何時間も付き合ってくれるというのはすごいですね。

平山さんのほかにもう1人、『スーパー戦隊シリーズ』の脚本を多く担当した曽田博久さんというシナリオライターさんとも交流がありました。私はこの方の作品が本当に好きで、シナリオの勉強をしたいと思って、シナリオに関する講座を受けていたことがあります。講座の主催元の協会から手帳が出ているんですが、まだ個人情報もへったくれもない時代で、手帳の巻末に協会の会員名簿が載っていました。そこで曽田さんについて調べて、番組の感想を書いて送って……。そこからしばらく曽田さんと文通が続いていたんですね。曽田さんは、私の名前を『大戦隊ゴーグルファイブ』(スーパー戦隊シリーズ第6作)の中で使ってくれたんです。

えっ!

第30回「猪苗代の黄金魔剣」で。ゲストは俳優の田崎潤さんで、田崎さん演じる道場主が、孫娘の婿をゴーグルファイブのメンバーの中から選ぼうとする話でした。その孫娘の名前が「鈴木美潮」なんです。高校3年生のときに「使いましたよ」って連絡が来ました。OAもしっかり見ました。

憎い演出ですね。

私の特撮ライフを支えてくれたのはそのお二人ですね。平山さんとは本当にずっと関係性が途切れず、アメリカ留学中にはたぶん200通以上書簡を交わしています。

当時はエアメールですよね。アメリカに行った後も連絡を取っていたのはなぜなんでしょうか。

私はもともと英語が苦手で、洋画は見なかったし、洋楽も聴かなかったし、どちらかというと演歌が好きで……。サンフランシスコ国際空港に降り立った瞬間に「これはカルチャー的に無理だ」って気づきました。当時は日本と簡単にはつながれないから、「わー、あれきれいだね」って言おうとしても、周囲はみんな外国人。ホームシックになってしまって、すごく落ち込んだんですよ。その気持ちを手紙に書いて平山さん宛てに出したら、平山さんは中学生と4時間話すくらいすごく優しい方だったから、お返事が来ました。

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でも落ち込んだ気持ちについてはまともに取り合わず、「全く大げさなことを言ってるもんだ」みたいな内容だったんです。それで頭をがーんと殴られたくらいの衝撃を受けました。仮面ライダーは、もしかしたら自分が死ぬかもしれないのに、あんな巨大なゴキブリや巨大なムカデと戦っている。それに比べたら、私が今ここでいくら大変な目に遭っても、命を取られるわけじゃない。私は何を甘ったれたことを言っているんだろうと。それまで「仮面ライダーに学んだ」なんて言っていたのに、いったい何を学んだのかと、自分が許せなくなって、その日を境に1日16時間勉強するようになりました。

仮面ライダーによる立ち直りとは……!

私は日本の大学に1年半通った後にアメリカの大学に編入したんですが、他の人より毎学期1科目多く取って、2年で卒業しているんですね。在学中にアメリカ連邦議会のインターンの選抜に日本人で初めて受かって、インターンをやって、その勢いで大学院に進んで、1年で修士号を取って帰ってくるんですが、その全ての原動力、心の支えとなったのは仮面ライダーです。

「勉強の原動力が仮面ライダー」だったんですね……。

仮面ライダーを好きな人が、仮面ライダーの生き方を真似できなかったら、何の説得力もない。甘えてはいけないと思ったんですよ。

大学を卒業したときに「特撮のために日本に帰りたい」とは思わなかったのでしょうか。

私がそのタイミングで帰国しても何の足しにもならないと思いました。仮面ライダーが好きな子が、アメリカで大学院まで行って修士号を取得すれば、平山さんは絶対に喜ぶだろうし、仮面ライダーに夢中になって「テレビばかり見てないで勉強しなさい」と言われるような子供たちにも手本を見せられると思ったんです。事実、平山さんはすごく喜んでくれて。1986年に出版された『仮面ライダー大全集』(講談社)という本の中で、「ファンの中にアメリカに留学した人がいて」と話してくれているんですよ。

仕事と趣味、両立の秘訣は「とにかく思い立ったらすぐやる」

主宰されている「日本特撮党」の活動内容について教えてください。

「340(みしお) presents」という名前の、特撮・アニソンのイベントを開催しています。活動のスタートは2003年8月、スーパー戦隊シリーズのレッド役2人を呼んで実施した「赤祭」。その少し前の読売ウイークリー時代に、平成仮面ライダーシリーズ第1作の『仮面ライダークウガ』が約11年ぶりのテレビシリーズとして始まって、うれしくて取材に行って、特撮の取材をぽちぽちするようになっていったんです。大人向け雑誌で最初にヒーローものを取り上げたのは、たぶん私がクウガについて書いた読売ウイークリーの記事なんですよ。

そうだったんですか!

ある日、読売新聞の本社近くでクウガのロケをやっていたので行ってみたら、主演のオダギリジョーさんがいて、名刺交換をしました。そこで「今度は取材でお会いしましょう」って先方から言われたので、「ライダーと約束したんだから取材しないといけない」と思って。まずはカラーで2ページの企画をやろうと考えました。当時のデスクに「どうしても仮面ライダーの原稿書きたいんですけど」って話し掛けてみたら、「そんなの子供が見るもんだろう、子供が!」と言われまして。そこですかさず雑誌『宇宙船』を見せて「ほら、ルビのない雑誌が出てるでしょう、子供だけじゃないですよ」ってアピールしたらOKをもらえたので、彼の気が変わる前にすぐテレビ朝日に電話しました。

さすが、ライダーとの約束の効果は違いますね。

その辺りから特撮に関する活動が始まりました。読売ウイークリーに「男の隠し味」という、男性が料理をするカラーのグラビアページがあって、1年かけてそこをじわじわと乗っ取りました。年間で約40週のうちなぜか20人くらいは特撮関係者という異様な状況を作り出しまして。

そのうち、もともと仮面ライダーファンつながりで交流のあった竹本昇監督(特撮ドラマを主に手掛ける監督・演出家)、『超力戦隊オーレンジャー』(スーパー戦隊シリーズ第19作)のレッド役の宍戸マサルさん、『超電子バイオマン』(スーパー戦隊シリーズ第8作)のレッド役の坂元亮介さんと飲む機会があって、深酒をしているうちに「せっかく仲良くなったし何かできないかな?」という話になりました。そこで私が突然「イベントやりましょう、イベント!」なんて言い出して、午前2時過ぎに帰りのタクシーの中で、新宿ロフトプラスワン(トークライブハウス)のプロデューサーに電話して、「戦隊もののイベントをやらせてもらえないか」と言ったところ、すぐOKが出て日程が決まりました。翌日レッドの2人に電話して「決まりました」って伝えたら驚かれましたね。

ずいぶん急に決めたんですね!

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イベントをやりたいと思った理由は、スーパー戦隊シリーズに関する当時の情報量が少なすぎたからです。スーパー戦隊シリーズは、長く続いている分、世代によって見る作品がすごく限られるんですね。例えば『太陽戦隊サンバルカン』(スーパー戦隊シリーズ第5作)は、再放送の機会が多かったので見る世代が幅広い方だと思います。でも、それより後になると、バイオマンを見ていた人はたぶんオーレンジャーを見ていないし、オーレンジャー世代はバイオマンを知らないんですよ。とてももったいないと思っていました。

昔からずっと仮面ライダーシリーズの制作に携わっていた渡邊亮徳さん(元東映副社長)という方がいるんですが、この方は若いころ、名うての映画のセールスマンだったんですよ。映画館の館主に映画を売り込みに行く際に「あなたも得をする、私も得をする、両方の得でリョウトクが私の名前です」と言ったそうです。そのフレーズが頭のどこかにあって、各戦隊のファンが別の戦隊の作品を知ってそれぞれ得をして、さらに仕掛ける私も楽しいということから始めたんです。

イベントをコンスタントに続けるのは大変だったのではないでしょうか。

始めた当時のスーパー戦隊シリーズ関係者って、みんな縦のつながりも横のつながりも切れていたんです。放送当時はメールなんてないし、携帯電話もないから、引っ越したら終わりなんですよ。それをイベントで文化財修復のようにつなげていった。同窓会みたいな感じです。今は皆さんがいろいろな場所で一緒に活動をされていますが、だいたい「340 presents」のイベントで会った人が多いんじゃないかな。

読売新聞の仕事と特撮のイベント運営、どちらもパワーを使うと思うのですが、両立の工夫はどうされているのでしょう?

どちらも好きだから、配分は考えないです。決めちゃえば何とかなるものです。「どうしよう、どうしよう」と言っていると、いつまでたっても始まらないですね。あとは「すぐやる」。とにかく思い立ったらすぐやる。仕事もイベントも後回しにして重ねていっちゃうと、無理になりますから。人間って意外と無駄にしている時間がいっぱいあるので、私は隙間時間でいろいろなことをやっています。電車に乗っているときにイベントの告知文を作ってブログにアップしちゃうとか。

政治記者として朝から晩まで仕事をしたお話もありましたが、もともと体力があるのでしょうか?

いえ、子供の頃は体が弱かったし、基本的にはそんなに強い方ではないです。だから無謀な徹夜は絶対と言っていいくらいしない。体調管理の方法は「とにかく寝る」で、6時間は寝るようにしています。書籍『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』(集英社クリエイティブ)を書いていたとき、最後の方は徹夜に近い状態だったんですが、1時間半でも寝るようにしていました。

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予定がたくさんあると思いますが、スケジュール管理の方法を教えていただけますか?

手帳です、手帳。イベントの内容も手書きでメモしてます。全部手書きでひどく汚い! 私、字がヒエログリフだって言われちゃうくらい汚いんですよ。酔っ払いながら予定を決めたときに「忘れてはいけない!」と思いながら書いたものが全然読めないこともあります。さすがにイベントの進行表はパソコンで打ったものを印刷しますけど……。

基本的には手書きなんですね。

ずっとアナログで、目で見ないとだめなんです。スマホは水没したら終わりだから情報を入れているのが心配で……。もしご興味があればお見せしますよ。ひどいですよ。落としても何の心配もない。絶対に読めない。いろんな色でぐちゃぐちゃ書いているんですけど、色には何も意味がないんです。その場にあったペンで書いているだけで。

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鈴木さんの昨年の手帳を見せていただきました。予定がびっしりと書き込まれています。そして確かにぱっと見では読めません。

イベントの開催は特撮ヒーローたちへの恩返し、仕事では「社会に対する義務」を果たしていく

「りっすん」では女性の働き方を主なテーマにしているのですが、親交の深かった平山さんや仮面ライダー以外、かつ女性で、影響を受けた方はいますか?

うーん、女性と言われると難しいですね。もちろん素晴らしい女性にはいっぱい会ってきましたけど、私のようにバツイチでお気楽に生きている女からすると皆さん素晴らしすぎて、仰ぎ見るような存在ですね……。

私たちの世代ってゴレンジャーの紅一点、モモレンジャーに、良くも悪くもすごく影響を受けていると思います。モモレンジャーにしても『ウルトラマン』のフジ・アキコ隊員にしても『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員にしても、紅一点でしょう? 紅一点の功罪ともいえる「紅一点主義」については、ぜひ私の著書を読んでいただきたいです。やっぱりふと「あっ、ロールモデルっていないな」とは思いましたね。ヒーローものが好きで、ヒーローものにロールモデルを求めた結果、どうしても「男性が求める女性の働き方」である紅一点の影響を受けて育ってきたかなと思います。スーパー戦隊だって、女性が2人になったのはバイオマンからですし。

今後の特撮活動の展望について教えてください!

できればまた本を書きたいと思っています。1冊本を書いた後、1年くらいは満足していたんですが、「自分の好きな世界とは違う」と思う方が多かったのが残念でした。だからもう少し一般の人にも読んでもらえる、違う角度のものを書けないかなと考えています。

イベントについては引き続き開催していきたいんですが、もともと規模を大きくしようとは考えていないんですよ。特撮ヒーローたちへの恩返しとしてやっています。身の程にあったキャパシティーでやっていけたらと思います。

司会業が多いのでしょうか。

司会の依頼があったイベントについてはほとんど引き受けています。よみうりランドのマスコットキャラクター「グッド&ラッキー」の新しいテーマソングをアニソン歌手のうちやえゆかさんに歌ってもらうミニライブのプロデュースをしました。イベントをやる場合は、ブッキングも企画もギャラ交渉もちらし作成も、全部自分で担当することが多いですね。

http://www.yomiuri.co.jp/culture/special/tokusatsu/20170509-OYT8T50065.html

読売新聞の専門委員としてはいかがでしょうか。

最近は「教えること」を求められるようになりました。私は自分のことを、未完成で「人に教えるほどのもんじゃなかろうよ」と思っているんですけれど、この年次になってくると、社会に対する義務を果たさなくてはならないという気持ちで取り組んでいます。

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新聞に関する啓発活動も多くなっています。どんなに良い記事を書いても、新聞を手に取ってくれない若い人が増えています。それはとても悲しいことです。「みんなが思っているほど新聞って悪くないんだよ」「きちんと作られているし、良い文章も載っていますよ」「特撮やアニメが好きな人にとっては意外とうちの紙面アツいですよ!」という話をしていかないと、新聞を触らない人はたぶん一生触らないから。読売教育ネットワークの「出前授業」にしても、まずは新聞を知ってもらう、手に取ってもらうことが重要だと思っています。

ありがとうございました!

お話を伺った人:鈴木美潮(すずき・みしお)

鈴木美潮

読売新聞東京本社 社長直属 教育ネットワーク事務局 専門委員。ホール企画部の企画プロデューサーも兼務。「よみラジ」(ラジオ日本)キャスター。1989年に入社し、横浜支局、政治部、文化部、メディア局などを経て現職。日本テレビの情報番組「イブニングプレス donna」「ラジかるッ」「PON!」などに出演。特撮ファンとして知られており、特撮番組出演俳優や制作スタッフ、スーツアクター、特撮・アニソン歌手との親交が深い。「日本特撮党」の党首として「340 presents」をはじめとする特撮・アニソン関連イベントを主催している。著書に『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』(集英社クリエイティブ)がある。隔週刊『仮面ライダー フィギュアコレクション』(朝日新聞出版)内の「ライダー交友録」では、ホストとして各号のライダーにまつわるゲストを迎え、対談を行っている。

ブログ:340.340340.net
Twitter:@340age26

次回の更新は、5月31日(水)の予定です。

*1:1973年8月8日、韓国の政治家・金大中氏が、東京のホテル滞在中に拉致され、船で連れ去られた後にソウルで軟禁されて、5日後にソウル市内の自宅に戻った事件。全容は分からないままとなっている。

*2:総理担当の記者のこと。総理の動向を追い掛け、動静取材や政治課題に関する質問をする。

*3:特定の人物に張り込みをして取材すること。