はじめまして、ライターの小山内です!

 

2022年5月に、宮城県仙台市から静岡県静岡市に移住してきました。静岡と言ったら、お茶、富士山、うなぎ……と、いろいろなイメージを持っていたのですが……。住んでみてわかったのは、静岡を語るときに徳川家康は欠かせない存在ということ

 

そういうイメージってあんまりありませんよね!?

 

でも実際は、静岡駅を出てすぐ、今川義元像にならんで竹千代像(家康の幼名)があり、そのすぐまた後ろには壮年期の家康像も。そして駿府(すんぷ)城公園には晩年の家康像まであるんです。

 

駿府城公園に残る天守台は、かつて家康が築城した駿府城のもの。東海道エリアを代表するお土産で静岡の名産品である「安倍川もち」も、家康が命名したのだと知りました。

 

手前が竹千代(家康)像

 

私自身は東北で生まれ育ち、大学生から社会人は東京で過ごしてきたため、正直、家康には「江戸」のイメージが強くありました。「徳川家康は征夷大将軍になって江戸幕府を開いた人」という、いわゆる「教科書的なイメージ」で認識していたので、こんなにも静岡と家康の縁を感じて驚きました。

 

来年の大河ドラマは『どうする家康』。ちょっと調べてみたら、寅年の今年は家康の生まれ年で、8回目の還暦(満60歳だけではなくて、60年サイクルで生まれた年の干支に戻ることを還暦と呼ぶそうです!)でもあるんだとか。

 

じつは今、ものすごく家康のことを学び直してみるタイミングなのでは!?

 

そんなわけで、家康にゆかりの深い神社や博物館を回ってきました。「教科書で習わなかった家康14選」として、知られざる人柄や日常生活での姿を紹介します!

 

(※家康が現代に遺した功績やその人柄には諸説あります。この記事内で紹介しているエピソードは、様々な解釈のうちのひとつです)

 

其の一、家康は江戸よりも静岡で長く過ごした!?

「まずは家康を神様として祀(まつ)る神社であり、家康のお墓もあるという、家康ゆかりの史跡・久能山東照宮へやってきました」

「ようこそいらっしゃいました。久能山東照宮の権禰宜(ごんねぎ)・竹上政崇です。久能山東照宮内を歩きながら、家康公について私からお話しますね」

 

「ありがとうございます! そもそもなぜ、家康のお墓が静岡の久能山という地にあるのでしょう?」

 

家康の神廟

 

「不思議ですよね。全国的にあまり知られていないですが、家康公は静岡の大名だった今川義元公のもとで育った子ども時代から、天下統一後に大御所になって戻ってこられるまでを含めた生涯で、3分の1ほどは静岡で過ごしたんですよ」

「そんなに長く!? 余生を過ごす場所としても静岡を選んだんですね」

「静岡市の中心街はかつて駿府(すんぷ)と呼ばれていましたが、そこで晩年の生活を送ることを選んだのは、家康公にとって駿府が大切な場所だったからだと思っています

「なぜ大切に思えたのでしょう?」

「義元公のもとで過ごした子ども時代は、一般的には『人質だった』と言われていますが、人質どころかむしろ義元公から自分の息子のように教育を受け、太原雪斎という和尚さまからも教えを受けながら、育てられていました」

「えっ、すごいですね。天下統一を果たした英才教育の原点は、静岡にあったのかもしれないとすら感じます」

「久能山のことも、教育を受けながら過ごす中で、飛鳥時代から続く信仰の場所として知っていたのではないかと思います。断崖絶壁で囲まれ、攻め込まれにくい地形であったのも、亡骸を葬る場所に選んだ理由じゃないかと」

 

 

其の二、“東照宮”ってどんな神社?

「家康のお墓がある久能山東照宮は、どんな神社なのでしょうか?」

「まず、東照宮というのはどんな場所であるかご存じですか?」

「日光東照宮とかもあるし、全国に点在しているようなイメージがありますけど。どんな場所なんですか?」

「まず、家康公は死後、東照大権現という名前の神様となりました。東照宮とは、神様になった家康公を祀る神社のことで、全国で110社以上もあります」

 

久能山東照宮は明治時代になるまで、徳川家の人や譜代大名など限られた人しか出入りできないプライベートな神社だったそう

 

「すごい数! 家康の偉大さを感じますね」

「そして久能山は、家康公のご遺言によってその遺体が埋葬された地になります。埋葬されたあと、2代目将軍の秀忠公の命によって、全国で一番最初に家康公を神として祀る神社として創建されたのが、この久能山東照宮なんです」

 

 

其の三、家康とプラモデル産業にはどんな関係が!?

「そんな家康にゆかりの深い静岡の久能山東照宮ですが、ずっと気になっていたのがこのプラモデルたち……」

 

「はい。久能山東照宮では、静岡の地場産業であるプラモデルを飾っております」

「家康を神として祀る神社になぜ、プラモデルが!?」

「これもよく質問されることですが、静岡には、タミヤさんをはじめ、ハセガワさん、フジミ模型さんなど、名だたる模型・プラモデルメーカーがたくさんあります」

「私も住んでから知ったのですが、静岡はプラモデル出荷額日本一なんですよね。静岡駅の周辺では現在、街にプラモデル風モニュメントを設置する取り組みも行われているくらい」

 

静岡駅南口のローターリー前に設置されているプラモデル風モニュメント

 

「そのプラモデル産業の大元を辿れば、家康公まで行き着くんです」

「家康が静岡のプラモデル産業の大元!?」

「家康公が大御所として駿府に入ったあと、静岡浅間神社の造営をしたと言われています。その静岡浅間神社の修繕や久能山東照宮の造営のために全国から選りすぐりの大工や職人が集められ、その人たちがそのまま静岡に根を下ろしました」

「ほうほう」

「彼らの模型製作技術が、静岡の木製工芸品への発展、ひいてはプラモデル産業への発展までつながっていったと考えられています。『模型産業の発展は家康公のおかげ』とプラモデルメーカーさんからご奉納いただいたものを展示しております」

 

 

其の四、家康が長生きできた秘訣とは!?

「家康の人柄についても教えていただきたいです」

「これはよく言われていることかもしれませんが、家康公はたいへん健康に気を遣われていました。そもそも家康公が亡くなった75歳って、50歳でも長寿とされていた当時からしたらものすごく長生きなんですよね」

「健康で長生きできた秘訣はなんだったのでしょう?」

「多くの学者の方々が研究されているので一概には言えませんが、ひとつは薬草なども含めた食べるものに気を遣っていたからだと考えられています」

「家康は薬に関心があったのですね」

「久能山東照宮の博物館内には、晩年の家康公が使った道具などを所蔵していますが、そういったものから自ら薬を作っていたこともわかります。医薬について勉強し、自ら薬の調合をして家臣や家族に与えるようなこともしていたのだとか」

「自分だけでなく、周りの人の健康にも気を配っていたという」

「家康公が他人の健康や命を大切にしていたことは、久能山東照宮の拝殿の賽銭箱上『蟇股(かえるまた)』部分に彫刻された、『司馬温公の甕割り(しばおんこうのかめわり)』からも伝わります」

「どんな意味を持つ彫刻なのでしょう?」

「司馬温公の甕割りとは中国の逸話です。中国の学者であり政治家でもあった司馬温公は少年時代、遊んでいたら立派な家の水甕(みずがめ)に落ちてしまった友達を助けようと、石で甕を叩き割ったというお話です」

 

江戸時代の技術と芸術が多分に施された社殿は、建造物では静岡県内唯一の国宝なのだそう

 

「司馬温公少年は、高価な水甕を叩き割ったことを父親に叱られると思っていましたが、お父さんからは『人の命に代わるものはなく、大切である』という言葉で諭されたと言います」

「いい話だなあ」

「つまり、人の命の大切さを説いているんです。家康公が亡くなってから建てられた社殿の真ん中にこの彫刻が施されているのは、いかに家康公が家臣や子どもたちに命の大切さを忘れないでほしいと伝えてきたかを表していると思います」

 

久能山東照宮の博物館入り口に設置されている、「司馬温公の甕割り」顔出し看板

 

「戦国を生き抜き、のちに260年余り続く平和な世を開いた家康の根っこには、自分の命も他人の命も大切にするという考えがあったことが伺えますね」

 

 

其の五、家康の遺訓(言い残し)にはどんなことが書かれてる!?

「他にも家康公のご遺訓が、その人柄やものの考え方を表していると思います」

 

家康の遺訓は、久能山東照宮の神廟の前に置かれている。

 

「遺訓には、どんなことが書かれているのですか?」

「戦国時代を生き抜いてきたからこその教えが、随所に散りばめられています。たとえば、『勝事ばかり知てまくる事をしらざれば害其の身にいたる おのれを責めて人をせむるな』は、負けた側のことも理解することが大切という教えです」

「最終的には勝った人なのに、亡くなるまで負けた人のことを思われていたんですね」

家康公が若い頃、家臣たちが自分に対する一揆に加担しましたが、鎮圧後に敵対した家臣たちを許したエピソードもあります。おのれを責めて人をせむるなの言葉のとおり、一揆が起こった原因のすべてを家臣に押しつけなかったということ」

「自分にも何か原因があったのではないかと」

「現代でも、たとえば会社の中で何かあったときに『お前が悪い』と押し付けあいが始まることはある気がします。家康公は負けた側に押し付け、その気持ちを理解しないことは、自分に跳ね返ってくると考えていたのだと思います」

 

 

其の六、「鳴くまで待とう」の本当の意味とは

「家康が負けた人の気持ちや、弱い立場の相手のことを考えられる人だったのはどうしてでしょう?」

「やはり戦国時代は、常に勝った側と負けた側がいるわけです。家康公も若い頃は武田信玄にことごとく敗戦したりなど、負けてきた経験がある人だったので、弱い立場の人にまで気持ちが行き届いていたのだと思います」

 

「家康自身も負けたり、苦労したりしてきた経験があるんですね」

「そうですね。たとえば、織田信長の命令によって自分の長男(松平信康)が切腹せざるを得なくなったのですが、息子にそれを命じたのも家康公自身だったという経験もあります」

「辛すぎる……」

「そういった辛いことと向き合うときの考え方が、有名な句である『鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす』に表れているのだと思います。辛いことがあっても急ぐことなく生きていこう、という意味を含んだ言葉はご遺訓にもあるので」

「鳴くまで待とうほととぎす、の句はそういう解釈ができるんですね!? もっと、家康の性格を表している句なのだと思っていました。この有名な句から、のんびりで穏やかな性格、のようなイメージもついているように思います」

「性格のお話で言ったら、のんびりで穏やかというよりもむしろカッとなりやすい、短気な側面があったんじゃないかと思います」

「意外だ……!」

「たとえば、『堪忍は無事長久の基い いかりは敵とおもへ』。これは、すぐに他人に怒ってはいけないという自分への戒めですね。長久というのは長生きの意味で、『怒りに任せて短気になると長生きできないよ』という教えなんです」

「ここまであまりに素晴らしい人だったので、人間臭さが見えてちょっと安心しました(笑)」

 

 

もっと家康の素顔を深堀りしたい! 静岡歴史博物館へ

2代目将軍の秀忠によって造られた久能山東照宮では、家康やその家臣が後世に残したものを通して、教科書では習わなかった家康について知ることができました。

 

もっと知られざる家康の功績や人柄について知りたい! と話したところ、「今年7月にプレオープンした静岡市歴史博物館に行ってみては?」と竹上さん。

 

駿府城公園のすぐ隣に位置する静岡市歴史博物館は、今川義元や徳川家康の一生から静岡の街の歴史を学ぶことができる施設。

 

2023年1月のグランドオープンに先駆け、学芸員として博物館に勤める鈴木将典さんにお話を伺いました。

 

 

其の七、家臣の文書からわかる家康の一面

「プレオープン中の博物館で毎月トークショーをされる鈴木さんに、家康の人柄や日常生活での姿を伺いたいです!」

「よろしくお願いします。静岡市歴史博物館では、『江戸幕府を開いた偉大な人物としてだけではなく、ひとりの人間としての家康』が伝えたいこととしてあるんです」

「知りたいのはまさにそれです! 久能山東照宮では、家康は人の命を大切にしながら時には負けた側の気持ちにも立てる一方で、じつは短気だった一面もあったかもしれないなど、立派な部分から人間らしい部分まで教えてもらいました」

「短気な面があったのでは、というのは同意です。多くの人が、ほととぎすの句から穏やかでのんびりしているイメージを持っていると思いますが、じつは意外と気が短く、そして気分屋だったのではないかと私は思っています」

「どんなところから気分屋の一面が見られるのでしょう?」

「たとえば、家臣の残した文書からです。記録では、『家康の機嫌がいいときに話しかけると仕事が上手く回る』という言葉が残されているんですよね」

 

 

 

其の八、まだまだあったのんびりイメージとは逆な家康の素顔

「のんびり穏やかなイメージとのギャップは、家康はのんびり待つタイプではなくむしろ、行動的な人だったことからも伺えます。戦では籠城戦をせず、本陣でどしっと構えるというよりは自ら打って出るようなタイプだったんです」

「家康が行動的になったのはどうしてなのでしょうか」

「やはり生い立ちに影響していると思います。19歳の頃に今川義元が亡くなって、そこから独立して20代前半で戦国大名になっているわけです。現代で考えたら大学生くらいでそこそこ大きい企業の社長をやっているようなものです」

 

駿府城公園の東御門

 

「若い頃からある意味で行動的にならざるを得ない状況だったんですね」

「失敗もたくさんしています。ですが、そこからちゃんと学んで、目の前のチャンスを逃すことなく掴みにいく、というのは生涯通じる姿です。若い頃からがんばってきて、70代半ばまで戦いつづけたのが家康です」

 

 

其の九、74歳で20Kgの甲冑を着て戦った家康

「75歳まで生きることでさえ当時の寿命からすればすごいことなのに、さらに70代半ばまで戦い続けていたんですか!?」

「そうです。大坂の陣って知っていますか?」

 

「家康が天下統一して江戸幕府を開いたあとの、徳川と豊臣の戦いですよね。関ヶ原の戦いほど一般的に知られてはいないかもしれませんが、大坂冬の陣・夏の陣という言葉を聞いたことがある人は、少なくないように思います」

「その大坂の陣の、夏の陣では家康は74歳でしたが、それでも戦場に出ていました。当時の70歳って今でいう100歳くらいの長寿なのでそれだけ生きることもすごいことですが、家康はさらに重さ20キロほどの甲冑を着ていたんですよ!」

「ものすごいバイタリティだ……」

 

 

其の十、晩年まで多趣味だった家康

「おっしゃる通り、家康はバイタリティに溢れた人で、それは晩年の過ごし方にも表れていました」

「家康の日常での姿について教えてください」

すごく多趣味で、運動から文化的な活動まで楽しんで過ごしていたんです。家康の趣味として挙げるなら、ひとつは鷹狩り」

「そういえば駿府城公園の晩年の家康像も、手には鷹が乗っています」

 

「晩年の過ごし方は、夏は川遊び、秋から冬になると毎日のように鷹狩りに出かけていたことが伺えます。文化的な面では、たとえば、戦国時代を代表する武将のひとりである伊達政宗とは囲碁将棋も嗜み、ふたりは非常に仲も良かったんです」

「趣味を通じて友達と交流する。素敵な老後ですね」

 

 

其の十一、読書を愛し、本も出版した家康

「ほかにも、子どもの頃から晩年まで、家康の生涯通じての趣味として欠かせないのが、読書です」

「家康はどんな本を読んでいたのでしょうか?」

「今放送されている大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では鎌倉時代の始まりが描かれていますが、その時代に鎌倉幕府についての歴史書として書かれた『吾妻鏡』を、家康は子どもの頃から愛読書としていました」

「子どもの頃から歴史書を読むなんて勉強家ですね」

「そうですね。家康は武将であり政治家でもあった源頼朝を非常に尊敬していて、歴史が好きというよりは、そこから政治について学ぼうとしていたことがわかります。さらに、本を読むだけでなく本の出版も積極的に行いました

「えっ、家康が出版事業をすすめた!?」

銅活字版の『群書治要』など、中国の政治に関する本を出版しています。日本で初めて銅活字がつくられたのも、家康の時代なんです」

 

 

其の十二、大御所の家康がいた駿府と海外からの視線

「家康が駿府に住んでいたことで今の静岡に与えた影響などはありますか?」

 

駿府城公園内に復元された巽櫓(たつみやぐら)。櫓の中でも、非常に防衛に優れた機能を持っていた

 

「計り知れないほどあります。たとえば家康は駿府で、中国人に花火を見せてもらったり、オランダの使者と面会したりしました。使者を通してスペイン国王フェリペ3世から洋時計をもらったりしていたことも、残っている資料からわかります」

「家康は駿府を海外との交流拠点としていたんですね」

「当時の世界地図を駿府城の中で見ていたという記録もあります。そして、家康が見ていた時代の世界地図には、駿府と思われる位置に印があるんです。これはつまり、海外の人々から、大御所の家康がいる駿府が日本の要所と見られていたということです」

「幕府は江戸にあって、天皇のいる都は京都にあるけど、大御所の家康がいる駿府も外してはいけない場所だと」

「当時の天下人だった家康がいた駿府というのは、ちょっと大袈裟にいえば、海外の人々にとっては“日本の首都”のようなものだったのではないかと思っています。家康がいたおかげで、家康がつくった駿府城の城下町は賑わいました」

 

 

其の十三、土木工事に優れた家康が手がけた静岡の中心地

「家康は静岡に住んでいただけでなく、静岡に残してきた功績も大きかったんですね」

「そうですね。家康が整備した駿府城周辺の城下町は、今の静岡の中心市街地になっています。時代の流れとともに大きな商業施設もたくさん建っていますが、区画はほとんど当時のままで、町の名前も家康の時代から多く残っているんです」

 

晩年の家康が駿府にいた頃の、静岡市・中心市街地図(静岡商工会議所が所蔵する資料写真を掲載した、静岡市歴史博物館プレ広報誌を撮影)

 

現代の静岡市・中心市街地図(静岡市歴史博物館プレ広報紙を撮影)

 

「家康が亡くなってから約400年も経っているのに、東海道が通っている場所まで変わらないのですね。町の形がこんなにしっかりと残っているのには、何か理由が?」

「理由のひとつに、家康の治水工事があります。治水を含めた土木工事は、家康の得意分野ですね」

「家康の治水工事とはどんなものだったのでしょう?」

「静岡市には安倍川という大きな川が流れていますが、家康が晩年になって駿府城に入る以前は、もっと町の中心地の近くに川が流れていて、洪水被害も多かったんです」

「住んでいる身としては、今の安倍川は中心街からは離れているように思うのですが……」

「現在は安倍川の東側に、安西という地名がありますが、もともと安倍川の西側にあったから安西という地名になったともいわれています」

「それを家康が、川を中心地から安西をまたいで西側へと離したから、川の東側に安西があるということです」

 

 

其の十四、家康の3つの銅像からわかること

「なぜ静岡市に家康の銅像が3つもあるのか、その理由が少しわかった気がします。家康は静岡に長く住んでいたというだけでなく、町を豊かに発展させ、人々から愛されていたのだろうなと」

「誰の銅像があるかで、その地域の人々にとっての歴史上の人物への評価がわかりますが、家康もそのひとりです」

 

「たとえば、伊達政宗は山形県米沢市出身ですが、仙台藩主としての功績が大きいということで仙台に銅像がありますし、越後を統治していた上杉景勝は江戸時代に殿様として山形県米沢市にやってきたから、米沢に銅像があります」

「おもしろい」

「そういう意味ではまずは幼少期、次に三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5カ国を統治して駿府城の築城もした壮年期、そして大御所になった晩年とそれぞれの時期の銅像があるというのは、静岡の人にとってはもう、家康はヒーローだということ」

「ここまでお話を伺ってすごく納得できます」

「家康の人柄やその功績というのはまだまだ語り尽くせません。天下人としてだけでなく、辛く悲しいことも多かった戦国の世で成長し、長寿を全うしたひとりの人間としての家康は、本当に学びがいのある人物だと思います」

 

 

おわりに

「教科書で習わなかった家康」を探し歩いてみて、約400年も前に亡くなった徳川家康を今までよりずっと身近な存在として感じることができました。

 

それはきっと、久能山東照宮の竹上さん、静岡市歴史博物館の鈴木さんが、天下人や江戸幕府を開いたことなど大きな肩書きや功績で家康を語るのではなく、むしろその過程やものの考え方などを積極的に教えてくれたから。

 

特に、「しっかり勉強を重ねてチャンスのタイミングで生かしていくこと」や「弱い立場の人の気持ちを考えること」など家康なりの物事への考え方は、今にも通じる学びに溢れていたように思います。

 

日本の頂点を獲るような大物になるための考え方だけでなく、地域の人に愛され、自分も周りの人も大切にできる人になるためのヒントをたくさん持っている人物が、徳川家康なのだろうと思いました。