こんにちは! ライターの阿部光平です。

 

僕が暮らしている北海道・函館市には『五島軒(ごとうけん)』という洋食店があります。創業は明治12年で、今年で144年目。度重なる大火や戦争を乗り越え、平成元年には現在の上皇・上皇后両陛下も訪れたという由緒正しい老舗レストランです。

 

人気メニューのひとつである『イギリス風カレー』は、東京の帝国ホテルで修行した2代目料理長が大正時代に完成させた逸品。牛骨やすね肉を煮込んで作られたブイヨンの旨味がたっぷりと感じられる贅沢なカレーです。

 

昭和10年に建てられた五島軒本館は、国登録文化財の北海道第一号に登録。館内には国内外から集められた美術品が展示されており、豪華絢爛な内装も相まって、別の国の、別の時代に迷い込んだような気持ちになります。

 

でも、五島軒はただのレストランじゃないんです。函館という土地を体現するような、ベンチャー精神に溢れた歴史があるんですよ!

 

<五島軒のここがすごい>

・今年で144年目を迎える、北海道で最古の洋食レストラン

・創業者は、ほぼ無一文で一攫千金を夢見て函館へ。当時の函館は人口が急増し、ビジネスチャンスが溢れる新天地!

・教会で腕を磨いた旧幕府軍人の料理人と「ロシア料理とパンの店」としてスタート

・ロシア人向け→西洋料理のお店と時代に合わせて柔軟に変化

・平成5年ごろまでは五島軒で結婚式を挙げるカップルが年間300組以上

・現在はレトルトカレーやケーキ類の食品製造に注力

 

僕も10年ほど前にここで披露宴をさせてもらい、その際には「五島軒だったら料理が楽しみだね!」とか「あの人の結婚式も五島軒だったわ」と親戚中が大盛り上がりでした。

 

今では函館で誰もが知る有名レストランになった五島軒ですが、もともとは外国船にパンを販売するところから事業がスタートしたそうです。

 

明治時代の小さなベンチャー企業は、いかにして街を代表する老舗になったのか。ジモコロ初代編集長の徳谷柿次郎とともに、五島軒5代目社長の若山豪さんにお話を伺いました。

 

中央政府までは遠いけど、世界に近い街

「創業明治12年ということは、五島軒は今年で144年目を迎えるんですよね」

「はい。実は五島軒って北海道で一番古い洋食レストランなんですよ」

「えぇ、そうなんすか!?」

「五島軒より前にもお店はあったようなんですけど、今残っているという意味ではうちが一番古いレストランになります」

 

「こちらが創業者の若山惣太郎です」

「豪さんの、ご先祖様ということですか?」

「はい、私の曾々お祖父さんになります」

「この写真の方から、目の前にいる豪さんまで血が繋がっていると思うと不思議な感覚になりますね。惣太郎さんは、もともと函館出身の方だったんですか?」

「いえ、惣太郎は埼玉の出身なんです。東京で米相場に失敗して、再起をはかるために函館にやって来ました。ほぼ無一文のような状態で来たみたいですね」

「ギリギリ移住だ! 再起の場所として、函館を選んだのはなぜだったんですか?」

「東京や大阪のような大都市はすでに人や物に溢れていて、自分で事業を起こす余地がないと判断したんでしょうね。

その点、北海道は開拓が進んでいて、これから盛り上がっていく土地だという噂が、きっと全国的にあったんだと思います。たぶんゴールドラッシュみたいな状態ですよね。だから、惣太郎も一攫千金を夢見て函館に渡って来たようです」

 

「実際、太平洋戦争が始まるまでは、函館の人口ってずっと増え続けていたんですよ。調べてみたら、明治9年の人口が5万人弱で日本で13番目、大正9年には約15万人にまで増えて全国で9番目の人口数だったようです」

「え、函館の人口が全国で9番目? 100年前の函館って、そんなに大都市だったんだ」

「開港都市だから外国船が入ってくるし、本州と北海道の結節点なので、各地から人が集まる土地だったんでしょうね。それを踏まえると、『函館に行けばなんとかなるんじゃないか』と考える人がいてもおかしくはなかったんだと思います」

「人がたくさん集まってきているから、いろんなビジネスチャンスがある街だったんですね」

「新天地での勝負にかける猛者たちが集まっていたと考えると、すごい熱量が渦巻いてそうですね」

 

「外国船が入ってきたことは、最新の学問や世界情勢を知りたい人たちを呼び寄せるきっかけにもなりました。イギリスやアメリカの領事館があり、ロシア正教会の神父様もいたので、新しい情報を求めて優秀な蘭学者や商人などがやってくる。当時の函館は『中央政府までは遠いけど、世界に近い街』だったんだと思います」

「幕末から明治にかけての函館は、世界の最先端に触れられる街だったんですね。北海道の地方都市に、外国のことを知りたい人たちが視察にやって来るなんてすごい話だな」

「今でいうアメリカのポートランドみたいな街だったのかもしれないですね。その時代の函館に来てみたかったー!」

 

謎に包まれた五島軒のパンのルーツ

現在の本館は昭和10年に建てられたもの。館内にはレストランのほか、資料展示室や結婚式場もある

 

「たくさんの人や情報が行き交う函館で、五島軒はどのようにして設立されたのでしょうか?」

創業者の惣太郎が最初に始めたのはパン屋でした。外国の方がたくさんいる街だったので、パンが売れるんじゃないかという算段だったんだと思います。そのときに知り合った五島英吉という料理人と一緒にお店を立ち上げたのが、五島軒のスタートになります」

「五島英吉さんは、函館の料理人だったんですか?」

「彼は五島列島の出身で、もともとは長崎の奉行所で通訳をしていた人なんですよ。だけど、戊辰戦争が始まるときに幕府に召集されて、艦隊と一緒に函館までやって来ました。その後、旧幕府軍の敗戦によって追われる立場となり、函館にあるハリストス正教会に身を隠しながら、神父様の手伝いをしていたそうです。

そこでロシア料理を習い、パンを作っていた惣太郎と協力して五島軒を立ち上げました。なので、最初は『ロシア料理とパンの店・五島軒』という名前で開業したんですよね」

「ロシア料理とパンの店。いいネーミングですね! 今の時代にありそう」

「東京から一攫千金を夢見てやって来た商人と、教会で腕を磨いた旧幕府軍の料理人って、すごい組み合わせですね。少年漫画の主人公みたい」

「確かに(笑)。これはもう漫画にしましょう!」

 

「五島軒の商売は、最初から上手くいったのでしょうか?」

「上手くいってたみたいですね。最初は函館に入ってくる外国船や在留外国人の方たちに、パンやロシア料理を売ってました。それだけでなく、横浜や神戸にも船便でパンを送っていたそうです」

「わざわざ函館から船便で? 横浜や神戸にはまだパンがなかったんですか?」

「いや、横浜や神戸には函館よりも外国人の方がいたはずなので、パン屋さんもあったと思います。だけど、五島軒のパンは美味しかったみたいなんですよね。文献を読んでみると、『味がいいから買いたい』といった記述があって」

「味で遠方からの注文を勝ち取ったのは、めちゃくちゃすごいっすね!」

 

「そもそも五島軒のパンってどうやって誕生したんですか?」

「それが、実はわかっていないんですよ。当時の記録によると、ホップの野生酵母をイースト代わりに使った香りのいいパンだったみたいなんですけど、どのように作られたのかという詳細は残っていなくて」

「惣太郎さんは、どこかでパン作りの修行をされていたんですか?」

「そこもわかっていないんですよね。近くにあるトラピスト修道院に手伝ってもらっていたという記録はあるんですけど、歴史的にはトラピスト修道院よりも五島軒のほうが古いんですよ。だから、最初は惣太郎が自分で作っていたんだと思います」

「えー、どうやってパン作りを習得したんだろう。めちゃくちゃ気になるー!」

「五島軒は大火で4度も建物が焼けているので、明治から大正にかけての文献がほとんど残っていないんですよね。当時のことで今に伝わっているのはほとんどが口伝で、細かい部分まではわからなくて。

五島英吉についても、明治20年くらいには横浜に行ってしまったんですよ。それで五島軒は若山家が継いでいくことになりました。五島は横浜でもレストランを作って成功したらしいんですけど、それについても細かいことはわかっていないんですよね」

「五島さんの、その後も気になるー! 街の歴史背景も含めて、大河とか朝ドラになりそうですね」

 

時代に合わせた柔軟な変化を可能にしたベンチャー精神

「創業時の五島軒には、地元の人も訪れていたんですか?」

「記録はないんですけど、私が思うに当時ロシア料理を食べるのは、やはりロシアの人たちだったんじゃないでしょうか。開港都市とはいえ、普段は米や魚や味噌汁を食べている日本人が、日常的にボルシチを食べるかと言われると難しいと思うんですよ」

「確かに。だとしたら、最初から外国人を相手にするつもりで、そこに勝機を見出して作られたお店だったのかもしれませんね。新しい領域でのビジネスを立ち上げるベンチャー企業みたいな」

「まさに、そういうことでしょうね。最初はロシア人向けのお店としてスタートして、そこから徐々に幅を広げて西洋料理のお店へと変化していったんだと思います」

「そっか。明確にこれをやりたいってことではなく、『お金を稼ぎたい』とか『成り上がりたい』という想いがベースにあったから、時代に合わせて業態も変えられたんでしょうね。ロシア料理から西洋料理へと、地域の食文化の変化をキャッチしながら次々に手を打ってきたというか」

「函館に来た時点で、そういう考えはあったんでしょうね。新しい領域を開拓していこうという意思が。実際、2代目の若山徳次郎になってからは、西洋料理店としてメニューを拡大しています」

 

「徳次郎さん! 名前が、ほぼ俺だ!」

「(笑)」

「2代目の時代に、なぜ五島軒が西洋料理店になっていったかというと、たくさんあった外国の大使館や領事館の機能が徐々に東京へと移行していったのが理由だと考えられます。函館に駐在する外国人の方が少なくなったので、日本人に来てもらえるレストランになる必要があったんです。

そんな背景もあって、2代目の徳次郎は東京の帝国ホテルへ修行に出て、カレーライスやオムライスなど、日本人に親しんでもらえる洋食を学んできました。そうして徐々に洋食レストランへとシフトしていったのが、明治後期から大正初期にかけての頃です」

「時代背景を知ると、お店が変化していった理由が見えてきて面白いですね」

 

「その後、3代目・若山徳次郎のときには太平洋戦争が起きています。戦時中は英語を使うこと自体が利敵行為だと見做されて、洋食店だった五島軒は営業停止を命じられました。

徳次郎も軍隊に召集されていたのですが、帰還してから警察に『あなたたちが着ているのは洋服で、サーベルも洋物だろう。それなのに、洋食店だけが規制されるのはおかしい』と訴えて、営業停止を解除してもらったそうです」

「闘う料理人だ! とんでもない反骨精神ですね。時代に抗いまくってる」

「終戦後は、お店が米軍に接収されて、南北海道司令部が設置されていました。なので、その間は仮店舗で営業を続けて、ケータリングやテイクアウトの業務でなんとか凌いでいたそうです。現代のコロナ禍みたいな状況ですよね」

 

結婚式などが行われる『王朝の間』。ダンスホールとして使われることもあるため、床は絨毯ではなく板張りになっている

 

「昭和から平成にかけては、結婚式をはじめとする宴会業が五島軒の基幹事業になっていました。平成のはじめ頃までは、年間の結婚式数が300組以上もあったんですよ」

「ほぼ毎日だ」

「それだけ若い人も多かったんですよね。まだ函館の人口が30万人を超えていた時代ですから。

そこから、私の父である4代目のときには食品製造業を開始しています。それまではバブルの勢いに乗って支店をどんどん増やしていったんですけど、この頃から徐々に人口減少の兆しが見え始めていたので、工場を建ててレトルトカレーや冷凍ケーキなどの食品製造をスタートさせました」

「お話を伺っていて思ったんですけど、五島軒が150年近くも続いているのは、時代に合わせて柔軟に事業を変化させてきたからなんですね」

「そこは間違いないですね。ロシア人相手から日本人相手になり、宴会業から食品製造業へと移り変わってきたので。そういう変遷を辿ってこられたのも、根幹にベンチャー精神があったからなのかもしれません」

 

函館はスタートアップシティだった?

「五島軒ができた頃の函館にはたくさんのビジネスチャンスがあったというお話でしたが、他にもベンチャー的な会社はあったのでしょうか?」

私が函館で1番面白いと思っているベンチャーは『函館氷』を作っていた会社ですね。当時の日本には氷を大量に生産・輸送する技術がなく、はるばるアメリカのボストンから天然氷を輸入していました。ただ、冷凍庫がない時代なので、日本に着くまでにはほとんど溶けてしまって、100トンの氷が5トンくらいしか残らなかったそうです。

これに目をつけたのが、開港と共に横浜に移り住み、天然氷の販売をしていた中川嘉兵衛さんという方でした」

「天然氷の販売」

「彼は国産の氷を作るために、富士山麓で事業を立ち上げるも失敗。徐々に北上しながら採氷に挑むも上手くいかず、最終的に函館の五稜郭に辿り着きました。そこで明治政府から堀の使用権を得て氷を作ったら、すごく品質の高いものができて大人気になったんですよね」

「名前だけは知っていましたが、函館氷ってそういう成り立ちだったんですね」

「高品質と低価格を実現した函館氷は瞬く間に人気商品となり、1877年に東京で行われた『第一回内国勧業博覧会』では一等賞を受賞しています。その後、五稜郭は使えなくなってしまったんですけど、場所を移して製氷技術を積み重ねていきました」

五島軒の若山さんも、函館氷の中川さんも、他の地域で事業に失敗して函館に辿り着いたという共通点があるんですね。開拓が進み、外国船が入ってきて、これから盛り上がっていきそうな予感があったからこそ、ベンチャー精神のある人たちが集まってきた。きっと当時の函館は、スタートアップシティだったんでしょうね」

 

「ベンチャー精神という話でいうと、ここ2、30年の函館の様子はどうなんですか? 今でもベンチャー精神に溢れた企業が多い土地なのでしょうか」

「いや、今はもう少ないんじゃないですかね。私の知る限りは、近年はあまり大きな会社は出てきていないと思います」

「なんで、そういうふうに変わってしまったんですかね?」

「やはり当時の函館の特異性は、外国人の方がたくさんいたことだと思うんですよね。今考えてもちょっと特殊な環境じゃないですか。イギリスやアメリカ、ロシアの人たちが溢れている街って。だから、外国人の気質というか、それこそベンチャー精神みたいなものが、自然と街に浸透していたんじゃないかと思います」

「なるほど。海外から入ってきたのは人や物だけでなく、それに伴う文化や精神性みたいなものもあったのかもしれないですね」

「そういう可能性はあると思いますね。常に異文化コミュニケーションをしているような環境だったはずなので」

 

階段の踊り場に飾られたステンドグラス。こちらは火事の後で修復されたものだが、もともとはティファニーで作られたものだった

 

「日本初の西洋式商用帆船『箱館丸』を作った続豊治さんという船大工の方が若山家の親戚にいて、その方が亡くなったときの話を3代目・徳次郎の母が残しているんです。続さんは江戸時代に生きた方で、明治に入ってすぐに亡くなっているんですけど、病床で『最後にタンシチューが食いてえ』と言っていたらしいんですよね」

「江戸時代の人がタンシチューを」

「私が想像する江戸時代って、長屋が並んでて、庶民はお蕎麦を食べているというような世界観なんですよ。でも、函館の江戸時代はそうじゃなかったんでしょうね。外国の人と触れ合う機会があって、食文化も多様だったんだと思います」

「函館だけ日本の歴史とペースが違ってる(笑)」

 

きっと他よりも早く、新しいものに触れられる街だったんだと思います。お酒にしても、当時の北海道ではお米が作れなかったので、飲むためには本州から持ってくるしかなかったんですよ。でも、それなら外国船に頼んだほうが早いってことで、ウィスキーなどの洋酒が飲まれていたらしいです」

「すごい! そう考えると、やはり開港の影響というのは凄まじかったんですね。良い面も悪い面もあったとは思いますけど」

「そうですね。少なくとも、当時の函館は今よりもよっぽど国際化していたんだと思います。私も含めてですけど、今のほうが遅れちゃってるところはありますよね」

「なるほど。観光ではなく、生活のなかに多様な文化や人との接点があったわけですもんね」

 

函館は商売人が変えていく街

レストランと同じ製法で作られたレトルトカレー。30年近いロングセラー商品で、道内外で販売されている

 

「豪さんは、2021年にはお父様からバトンを引き継いで、五島軒の5代目社長に就任されました。歴史ある洋食店を任された社長として、今後の展望を聞かせてください」

五島軒の武器って、やはり歴史だと思うんですよ。だから、それをしっかり守って、語っていくことが重要だと考えています。私も従業員も含めて、函館の歴史の語り部になっていくことが必要だなと。

もうひとつは、函館の人たちに食べに来てもらえるお店にならなくてはいけないと思っています。祖父の時代の五島軒は本当に函館の人たちから愛されていました。それが今も引き継げているかというと、私はそうではないなと感じているんですよね。観光客が行くレストランというイメージが強くなってしまったので。

だから、もう一度、函館の人たちが食べにきてくれるようなお店を作っていきたいです」

「確かに、五島軒ってハレの日に行く特別なレストランというイメージがありますよね。昔はもっとカジュアルなお店だったんですか?」

「昔は本店以外に、函館駅前や五稜郭にも支店があったんですよ。私も、本店は結婚式や行事で来る場所で、家族でドライブの帰りに寄るのは駅前支店でした。そっちはもっとカジュアルで、ラーメンや丼ものを食べられるお店だったんですよ。いわゆるファミリーレストランみたいな感じですね」

 

「本店にセントラルキッチンがあって、ラーメンの麺もそこで作っていましたし、お肉も牛や豚を一頭買いしてステーキにしたり、出汁をとるのにも使っていたんですよ。その頃の五島軒は、すごく親しみやすいお店だったと思います。

函館の人と五島軒の接点って、実は本店じゃなかったのかもしれません。本店の近くにケーキを扱っている店舗があるんですけど、そこの2階も昔は喫茶スペースでした。だから、今でも60代、70代の方からは、『あそこでグラタンを食べたのは、私たちの青春だった』と言っていただくことがあるんですよ」

「街の人たちの記憶には、いろんな五島軒があるんですね」

「なんて言うか、思い出のなかに、いい五島軒がたくさんあるんです。それをまた復活させたいんですよね。街の人たちから『あそこは観光客の行く店になっちゃった』と言われてしまうのは悲しいので」

 

かつて店舗で使われていたレジスターは北海道で最古のものだそう。舶来の製品で、表示が日本語に改造されている

 

「時代に合わせて変化し続けてきたのが五島軒だったわけじゃないですか。老舗でありながら、そういう柔軟さがあることも武器だと捉えると、まだまだ新しい展開が考えられそうですね」

「いきなり立ち飲み屋とかやってほしい」

「そういうのもいいと思うんですよ。『かつての函館には、こんな文化や風習があった』というような後ろ盾があれば、それを再現するのも面白いですよね」

「これだけ歴史的な資源があるからこそ、いろんな企画や商品が成立しますよね。歴史って、他では真似できないオリジナルのコンテンツだから」

「新しいことを始めるときって、どうしても反対意見が出るじゃないですか。でも、函館のように『もともとはスタートアップシティだった』という下敷きがあると、新しいこともやりやすいですよね」

「本当にそうだと思います。ベンチャー精神があってこその函館だと思うので」

 

「私、函館公園が好きなんですよ。あそこは明治期に完成しているんですけど、開発のきっかけは函館に駐在していたイギリス領事の『近代都市には公園があるものだ』という一言だったそうです。その話を聞いた商人たちがお金を寄付したり、市民が手を貸したりして作られたという背景があって」

「今でいうクラウドファンディングみたいなことですよね」

「そうそう。明治政府にも函館市にも財源がなかったから、市民で作ろうってなったわけじゃないですか。これってすごい函館イズムだと思うんです。ないなら自分たちで作ればいいじゃんっていう」

「ないなら自分たちで作る!」

「そういう街になるためには、やはり今も昔も商人がキーマンになると思っています。商人が自分の商売のことだけを考えるのではなく、街にも目を向ける。それによって自分たちの事業がよくなるわけじゃないけど、函館はよくなるっていう。そういう気概と地域愛を持った人たちが、今の函館を作ったんだと思うし、そういう人がたくさん出てこないときっと街は変わっていきません。

函館は商売人が変えていく街だと思うので、それに貢献できるように我々も頑張ろうと思います」

 

おわりに

若山社長のお話を伺って、改めて函館という街の歩みを知り、地元が誇らしく思えました。今は閉鎖的な街といわれることもありますが、かつてはベンチャー精神に溢れ、オープンでチャレンジングな街だったのだと思うと、自然とやる気が漲ってきます。

 

五島軒がある函館の旧市街では、ここ数年で古い建物を活用したお店が次々とオープンしています。長い歴史の積み重ねが街の価値となり、情熱を持った人と結びついて、新たな商売によって活気が生まれていく。そんな光景を見ていると、まさに函館は商売人が変えていく街なんだなと実感します。かつてのように人口が増え続けているわけではありませんが、きっとこの街には今も人を惹きつける魅力があるのでしょう。

 

函館の歴史を味わえるレストラン・五島軒。地元の方も旅行者の方も、是非足を運んでみてください!

 

撮影:原田啓介(TwitterInstagram