現状維持って、充分すごくない? 30歳を過ぎて少しだけ手放せた「成長を続けなきゃ」の焦り

 菅原さくら

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仕事において結果や成長を求められることが増えてくる30歳前後。SNSなどで同世代の活躍を目にして「“今できること”だけし続けていてもダメなのかも」「もっとチャレンジが必要なんじゃないか」と不安になる、という声も聞かれます。

フリーランスのライターとして活動する菅原さくらさんは、第二子を出産後、「現状維持ではまずいのでは」と漠然とした焦りを感じるようになったといいます。パンデミックによる社会の混乱に振り回され、思うように進めない時期を経て菅原さんが見つめ直したのは、「自分が今できていることは何か」「今『できていない』ことは本当に必要なことなのか」の二つ。

理由のない焦りを感じたときの具体的な対処法を、ご自身の経験を交えて書いていただきました。

***

ベッドに入って目をつぶってから、つい考えてしまう。
いまの仕事は大好きだし天職だと感じているけれど、10年後20年後も続けていられるかな? もしかして、いまが仕事人生のピークだったりするんだろうか。この状態を保つためには、もっといろんなインプットをして、スキルを伸ばし続けなきゃいけないのでは? もしかして、寝てる場合じゃないかも……という具合に。

「35歳で転職は限界」「フリーランスには40歳の壁がある」なんて説を思い出すと、もうだめだ。現状維持するだけでは、少しずつ先細りしてしまう気がして、怖くなる。

中堅の年代になって、大きくなる焦り

フリーランスのライターとして働きながら、29歳で第一子、32歳で第二子を出産した。子どもは本当にかわいい。長男の眉毛のなかにあるほくろや、次男のきゅんととがった鼻先を見ては、愛しさのあまりに心がまるくなる。振り回されてぐったりすることもたくさんあるけれど、おおむね子育てはおもしろい。

ただ、その幸せと引き換えに、仕事に使える時間は減った。
自分から仕掛けていく余裕がなくなって、いただく案件を打ち返すのが精いっぱい。声をかけていただけるだけでもありがたいことだけど、受け身の自分は好きじゃなかった。

気づくと、できないことばかりに目がいって、不安になっている。私が寝かしつけに苦労している間にも、同業の方々はきっと本を読んで、みずから手を動かして、どんどん知識やスキルを身に付けているのだろう。だったら私ももっと効率的に働いて、ストレッチしていかなくてはと、うっかり自分を追い詰める。

焦りが大きくなったのは、二人目を産んでからだ。
昔からなんとなく「子どもの数は0か2」と考えていたから、二人目を産み終わったとき、私なりの人生の土台が固まった気がした。人生ゲームにたとえるなら、私はピンが4本刺さった車で、この先の人生をプレイしていくんだなぁという感覚。この先、結婚や出産で環境が変わることは、きっとない。

つまり、ここからは自分がアクションを起こさないと、何も変化はしないのだ。家事育児をしながら、限られたリソースをやりくりして、キャリアアップも目指していく。このままでいいとは思えないのに、ここからはすべて自分次第、というわけ。

ただでさえ、ずいぶん前から、同じ場所にとどまっている気がする。本当なら一段いちだんキャリアの階段を上がりたいのに、長いこと踊り場にいるようで、成長している実感がない。

一つひとつのお仕事とは、ちゃんと向き合ってきた。おかげでご指名やリピートは増えたし、ある程度の信頼もいただけている。でも、突出した成果を出しているとはいえないし、若手の台頭だってすごい。誰かと比べれば比べるほど、持っていないものの数をかぞえてしまう。

フリーランスのライターとして、自分が40代、50代と活躍していくイメージを持てないのも、焦る理由のひとつだろう。ライターにはエッセイストやコラムニスト、編集者といった派生ルートがあるけれど、いまのところはどれもしっくりこない。ずっと現場で取材をして、書き続けていられたらいいなと思う。

けれど、そのためには誰かに「書いてほしい」と思われる存在でい続けなければいけない。そんなライターには、いったいどれだけの知識や技術を身に付けて、どんな闘いをすればなれるのか。

いっそ会社員みたいに、定期的な目標設定面談でもあったら。それで、誰かわたしのキャリアや武器を一緒に考えてくれたらいいのに。でも、それは会社員のいい面ばかり見ているだけか。達成しなきゃいけない目標がきっちり決まっていて、それに応えようとしたり結果で評価されたりするのは、とても大変そうだ……。
ひとまずフリーランスであるいまは、私の働き方を決められるのは私しかいない。

30歳を過ぎたいま、私が打つべきベストな手は、何なんだ?

コロナ禍で、「自分のできること」を見つめ直してみたら

そうやってうじうじと悩む一方、持ち前の明るさですこやかに仕事をこなしていたら、突然パンデミックがはじまった。

0歳児と4歳児を抱えながら、登園自粛や健康不安に振り回される日々が続く。家族みんなが健康なだけで充分ありがたいと思いながらも、延期や中止の案件が出てくると、気持ちはひそかに、ざわざわした。

だけど、これほど非日常の危機のなかで、気を揉んでいても仕方ない。だって、下手に動けないいま、打てる手は少ないんだもん。

やみくもに挑戦したり、行動を焦ったりするのは、ただメンタルに悪いだけだ。自分でコントロールできないこと、考えても仕方ないことは悩まないと、昔から決めている。

じゃあ、いますぐやれることは? と考えて、まずは「自分のできていること」に目を向けてみた

せわしなく働いているとつい見過ごしてしまうから、コロナ禍でぽっかりと生まれた暇な時間にも、ぴったりの作業だ。企業で評価やマネジメントについて取材をする中で「女性のほうが自己評価が低くなる傾向にある」という話をよく聞く。なので、主観に頼らず、客観的な事実を並べてみる。

まず、ライターになって10年、締切を破ったことは一度もない。分からないことがあったらなるべく早めに確認してトラブルの芽を摘んでいるし、即レスじゃないけど必要な連絡は怠らない。地味なことだけど、クライアントには自分が思っている以上に喜んでもらえる。その結果、複数の担当者を紹介されて別案件をいただくことも、リピートのお声がけも、わりと多い。

「さくらさんに取材を受けて、インタビューされることの楽しみを知った」とか「こんなに自分の気持ちを言語化してもらえたのは初めて」とか、百戦錬磨のインタビューイーに言われたこともある。「しゃべるのはうまくないから、さくらさんなら心強い」と言ってもらえるのも、存在意義を感じてすごくうれしい。

そういえば、とある著名人の取材で。
「いまの部分、もっと掘り下げられたか?」「相手の言葉を咀嚼するのに時間がかかって、次の質問まで変な間があいてしまったかも」と反省したときがあった。でも、あとから録音を聞いてみれば、相手の発言を受けた上で、必要な沈黙があっただけ。一方的に証言を取るような取材じゃなく、ていねいに対話ができているように感じられた。その場で浮かんだ即興の問いに、相手も「面白い質問ですね」と笑ってくれている。

仕上がった記事は「あの方の繊細な部分がよく出ている、いい原稿ですね」と褒めてもらい、メディア内のランキングで一位をとった。真っ只中にいるときはつい自信がなくなってしまうけど、テープと原稿は嘘をつかない。編集者と読者からのあたたかい評価で、自分への反省を塗り替えられた。

……そんなふうにいろんな事実を思い返していたら、少しずつ「外から見た自分」の輪郭が浮かび上がってくる。もしかしてわたし、意外と「強み」ある系?

四柱推命の鑑定士をしている母から、この数年は空回りしやすく、地道にやっていくしかない年回りだと聞いている。ただし「自分の評価と他人の評価は、かならずしも一致しない」とも、言われた。プラスに解釈すれば、自分でダメだと思うほど周りは私をダメだと思っていないし、自分の感じる「低め安定」はじゅうぶん「高め安定」かもしれない……ということ。いろんな事実を思い返すと、自分と他人の評価のズレも、確かに感じる。

妊娠・出産をまたいだ数年、自分が納得するだけの成果が出せていなかったとしても。
手元のスキルでそこそこ安定的にやれているなら、まず及第点なのでは……?

そもそも、よく考えたらわたしは「成長すること」でお金をいただいているんじゃなくて、「求められた仕事をやり遂げること」でお金をいただいているんだった。もちろん、今後その「求められた仕事」をするためには、いまのスキルじゃ足りなくて、成長が必要になる可能性はおおいにある。でも、少なくとも現時点では、成長できていないことに引け目を感じる必要なんてないのかもしれない。

「自分のできていること」を見つめ直したら、なんだか希望がわいてきた。


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「できていないこと」は、本当に「必要なこと」か?

次は「自分のできていないこと」について、もう少し深く考えてみる。「あれもできない」「これもできるようになりたい」というのは湯水のごとく浮かんでくるけれど、いったん立ち止まって。

その「できていないこと」や「できるようになりたいこと」って、わたしに、本当に必要なことなの?

油断すると「あの人はすごいなぁ」「あんなコンテンツをつくってみたい」なんてゆるい嫉妬に引っ張られて、つい人のスキルをうらやんでしまう。文章だけでなく、素敵な写真や動画もつくれるライターさんは、確かにすごい。何万人もフォロワーがいる人の拡散力にも、かなわない。

でも、私ってそういうことがしたいんだっけ? 
人の話を聞いて文章にすることが単純に好きだから、その技術はどんどん研ぎ澄ましたい。できることなら、スペシャリストになりたいと思う。でもそうなるために、写真や動画、SNSなどは必須じゃない気がする。

時間とエネルギーが無尽蔵にあるなら、かたっぱしから学んで身に付けていけばいいけれど、資源はなんだって有限だ。だったら、優先順位を付けた方がいい。むやみにジェネラリストを目指さないと決めたことで、また少し楽になった。

20代なかばを過ぎてからだろうか。なにか新しいことを学びたいと感じたときについ「早くはじめなきゃ」と焦るようになった。「これからの人生でいまが一番若い」という一見ポジティブな言葉すら、ベースが焦っていると「一番若いいまを逃さずにチャレンジしなければならない!!」と変換されてしまったりする。

だけど周りを見てみれば、30歳を過ぎて大学院に行った人も、40歳を過ぎて新事業をはじめた人も、たくさんいる。50歳で学びはじめたことを仕事にして、それで食べている人もいる。なんでも早くスタートしたほうがいいと思いがちだし、その焦りにのまれていろんなことが必要に思えてしまうけど。本当は、やりたいときにやりたいことだけやれればいいのかもしれない。

だったら、私にとってあらゆるチャレンジは、自分のボルテージがしっかりと高まっていないいま、わざわざやらなくてもいいことなのでは? 
自分にとって「本当に必要なこと」を見極める癖だけ付けておこう。そうすれば、きっとタイミングが来たときに迷わず飛び込める。

しばらくは現状維持でいい、ような気が、する

あらためて考えてみると、私が成長したいと思ったのは、ずっとこの仕事を続けていくためだ。ご依頼や評価をいただき続けるためには、スキルの成長を止めない必要があると考えただけ。どこか別の場所にいきたいわけでも、ものすごい高みにいきたいわけでもない。

それなのに、頭のどこかでは「成長して“何者か”にならなくちゃいけない」とも思っていた気がする。いまの私は何者でもない。そして何者かになることが、仕事を絶やさない唯一の方法である、というように。

でも、それってもしかして、全部思い込みだったのでは?

もちろん、いつも新しい見識にふれて技術を磨いていくに越したことはない。だけど、人生100年時代だ。ライフステージに合わせて、その速度が鈍化するタイミングがあったっていいはず。「いずれ先細りするのが怖い」の「いずれ」がくるタイミングも、昔より後ろ倒しになっているかもしれない。じゃあ、自分のなかでもう少しやるべきことが整理できてから動き出すのでも、いいか。

だいたい、安定してお仕事をいただき続けるための方法が「成長」しかないわけじゃない。

目の前のお仕事に誠実に応えていくことも、いまのスキルをメンテナンスして保つことも、立派な対策。レギュラーの仕事ばかりに固執しないで、なるべく新しい仕事の機会を増やすだけでも、きっと風向きは変わってくる。それから、興味のある本を読んでちまちま発信する程度のことだって、明日につながっていくもの。このエッセイの依頼も、じつは2019年に書いたnoteが発端となっていただいた。

そんな小さい小さい積み重ねのすえに、成長させていきたいことや、成長したくてたまらなくなる時期をつかめたら、すごくいい。

だから、そうではないいまは、しばらく現状維持モード。といいつつ、どうしてもヒヤヒヤしたり、ソワソワしたりはするんですが……。それでも、やみくもに頑張って余白をなくしてしまうくらいなら、悩みながらでも余白を残したままで生きたいと思う。

最後の最後にそもそもですが、世の中はこれほどめまぐるしく変わっていくのに、現状維持できてるだけで、私たち充分すごいですよね?



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「頑張れない私」を見限らない。デンマークで学んだ「キャリアの停滞感」との向き合い方
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「働く」のは基本しんどいし、世の中「輝いている」人ばかりではない
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著者:菅原さくら

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フリーランスのライター・編集者、雑誌『走るひと』チーフなど。人となりに迫るインタビューが得意で、多くの俳優やアーティスト、クリエイターに取材。PR記事や採用広報、コピーライティングなど、クライアントワークも好き。5歳2歳の兄弟育児中。
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編集:はてな編集部

「頑張れない私」を見限らない。デンマークで学んだ「キャリアの停滞感」との向き合い方

 井上陽子

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「仕事はいつも全力で頑張りたい」
「仕事が楽しく、やりがいを感じている」
そう感じる人にとって、妊娠・出産や家庭の都合など、なんらかの事情でキャリアを中断せざるを得ないのはつらいものかもしれません。

現在家族と共にデンマークで暮らす文筆家の井上陽子さんは、かつて新聞記者として多忙な毎日を送っていました。妊娠を機に夫の故郷であるデンマークに移住し、新聞社を退職。それまでの忙しさとデンマークののんびりした生活のギャップがあまりにも大きく、それまでの自分の生き方が否定されたような感覚を抱いたといいます。

「前と同じように頑張れない」現実をどう受け入れ、どう向き合ってきたのか。その変遷を書いていただきました。

***

10年前には想像できなかった今の暮らし

いま私は、デンマークの首都コペンハーゲンの自宅から電車で30分ほどのところにあるホテルの部屋に、一人で缶詰になっている。はい、2歳と6歳の子供2人、夫のもとに置いてきました。

ある日、足の踏み場がない子供部屋のおもちゃを片付ける手をとめて「こんな細切れの時間じゃ仕事なんて何もできん!」と爆発した。頼まれた仕事、書きたい原稿、やった方がいいとわかっているのに着手できていない多くのことで頭がはちきれそうなのに、2人の育児に加えて「家族と過ごす時間は最優先」というデンマーク人夫の方針で過ごしていたら、まったく時間が足りないのだ。

夫によると、私がフラストレーションを募らせる場面は頻発していたらしい。そこで「クリスマスプレゼントに」と、子供なし”お仕事ステイ”をプレゼントしてくれたのである。なんといういい夫でしょう。いや、今回はそういう原稿ではない。

10年前は、自分がこんな悩みを抱える日が来るとは想像もつかなかった。いやむしろ、ひとり時間使い放題の仕事一辺倒な生活を送りながら、まったく逆方向の悩みを抱えていたのだ。

30代半ば、新聞記者だった私の詰めていた記者クラブには、昼夜問わず仕事する記者が仮眠に使うベッドがあった。圧倒的に男性記者が多かったが、汗臭い記者がもう何人も寝転んだであろうベッドで、私もよく休んでいた。締め切り時間から逆算して、原稿に着手する時間までの間、気絶するように眠る。アラームで深い眠りから起こされると、たいてい、いま自分がどこで何をしているのかわからなくなって、記者クラブの薄暗い天井をぼーっと見つめていた。

私の人生は仕事だけでいいのかな。やりたい仕事ってこういうことだったっけ。なんて考えるのも、たいていはそういう時だった。

あの頃は、家族の温もりに憧れつつも、夕食をコンビニに買いに行く時間すらままならない自分がどうやったら「誰かと出会う→おつきあいする→結婚する→妊娠・出産→子育て」なんていう気の遠い”偉業”を成し遂げられるのか、まるで見当がつかなかったのだ。

それから10年、私は家族を持つ夢を叶えて、めでたしめでたし……じゃないことはもうおわかりですよね。「私は何者でもなくなってしまった」という思いにかられて、胃が痛くなったりしているのだから、人生は一筋縄ではいかない。

甘くみていた人生の転換

私がデンマークに来たのは2015年夏。当時39歳、妊娠8ヶ月だった。新聞社の米国特派員として時差に振り回される生活を送りながら、流産といった事態にもならずに済んだことに心からほっとして、コペンハーゲンに降り立ったことをよく覚えている。

そこから、言葉もわからない国での出産、初めての子育てで目の回るような日々を過ごし、それが一段落すると今度は語学の勉強に打ち込む日々。語学試験に合格するのは、デンマークで安定した滞在資格を得るための条件の1つなのである。夜泣きで睡眠不足と闘いながら、40から新しい言語を学ぶのはしんどかったけど、余計なことを考えずに打ち込めたという意味では、助けられていたのだと思う。

自分がいかに大きな人生の転換を決断したのか、それを甘くみていたのかに気づいたのは、語学学校が終わり、冬を迎える間近のことだった。娘も順調に保育園に通い始めて、日中、何もやることがなくなってしまったのである。

幸いにして我が家は、夫の収入だけで家計をやりくりできている。思えば新卒で仕事を始めて以来、ずっと忙しく過ごしてきたのだから、昼間から好きな映画を見たり興味のあるイベントに行ったり、のんびり過ごせばいいじゃん、と最初は思った。でもまもなく、私はものすごく不機嫌になり始めた。一日のうち、まともに話す大人は夫だけ。帰宅した瞬間に、その日言いたかったことをぶちまける私に、夫は辟易している様子だった。そして、私が、日本や米国にいた時ほど幸せに見えない、と言った。

なぜそんな状況に陥ったのか。振り返ってみると、当時は、本を読んだり街を歩いたりしてはいたものの、日中の会話は自分の頭の中だけで、人間関係を広げたり家の外に居場所をつくったりする努力をしていなかった、というのがひとつ。そしてもう一つは、自分自身に対する評価の軸が学校や仕事での目に見える成果に極端に偏っているために、仕事をしていない自分、前進していない自分には価値がなくなったと感じたからだったように思う。

コペンハーゲンの街中で撮影

筆者。コペンハーゲンの街中で

かつての自分をデンマーク的価値観で測ってみると

ただ、この「前進していない」という焦りは、「成功」に対する直線的なイメージから来ているのかも、とある時ふと気がついた。

長く暮らしてきた日本はもとより、一時期を過ごした米国でも、学歴にしろ年収にしろ、いわゆる成功の基準が比較的はっきりした世界で育ってきた。一流と言われる大学に行き、知名度がある会社や組織で成果を上げながら肩書きの階段を登ったり、年収を上げるための転職を重ねる、といった具合に、わかりやすい指標と成功が結び付けられているところがあった。成功への道は細く険しいので、今の楽しみを犠牲にしてでも将来のために勉強しよう、当面の激務にも耐えよう、という考え方。

一方、そういう「野心」とか「我慢」という思考から縁遠いと感じるのが、デンマークの人たちである。ここでは、お金や地位が、日本やアメリカほどの意味を持っていないのだ。先生も上司もファーストネームで呼び、会社でも関係性がフラットなので、デンマーク人の部下を持つ日本人からは「言うことを聞いてくれない」と愚痴も耳にする。職業による所得格差が少なく、ある一定基準以上を稼いだら、それ以上は半分以上を税金で持っていかれる仕組みになっているので、働きすぎるのがバカバカしい。

でどうするかというと、夕方4時すぎには仕事を切り上げて、家族や親しい友人との時間を過ごすとか、趣味に打ち込むとか、家を快適にするために改修に力を入れるとか、仕事以外の時間を充実させ始めるのである。

そんなデンマーク人から見た”理想の暮らし”とはどんなものか。私からみると、それは「バランスのある生活を、余裕をもって送る」という感じ。男女とも仕事をするのが前提の社会なので、バランスというのは「仕事」と「友人・家族と過ごす時間」、そして「趣味や学びなど個人としての時間」という意味である。

友人に、大学教授をしている女性がいる。競争の激しい海外の学術誌にも論文を発表しなくてはいけないので、デンマーク流のワークライフバランスを保つのは難しそうなものだが、それでも平日は午後3時半には子供を迎えに行き、子供が寝るまでは宿題や習い事につきあう生活をしてきた。日中に間に合わなかった分の仕事は、子供が寝た後に家でこなす。仕事の成果はあまり語らないが、力を込めて話すのは、今は11歳と13歳になった子供たちとたっぷり時間を過ごしてきた、という自負。「これまで週末に仕事に手をつけたのは3回だけ」だそうだ。しっかり回数を数えているところに、週末は家族と過ごすという信念がにじんでいるなあ、と思う。

こういう世界観に浸かっていると、自然とそれまでの生き方を振り返ることになる。新聞記者時代の私の生活は、早朝から未明まで仕事に振り回される生活だったけど、それを説明するときの私は”忙しさ自慢”をしているところもあった。忙しい=必要とされている、仕事がどんどん回ってくる=それをこなせる私はできる人材、みたいな。

でも、当時の生活をデンマークの知り合いに話したら、まあ、「気の毒」「かわいそうに」という反応ですよね。体を壊さなかったのは単なるラッキー、という話。午後5時には職場を出る人がほとんどなので、私生活がないほど仕事をしたり、出産前と同じペースで仕事をこなすために、保育園に子供を遅くまで預けたり、というのも考えづらい。デンマークの保育園・幼稚園は、だいたい午後3時半がお迎えのピークで、5時きっかりに職員が施設の鍵をがちゃんと閉めて終了。ほぼみんな共働きでこれである。

私としては、それまでの自分の生き方を否定されたような気がして、反発したり落ち込んだりしたのだが、そうはいっても私なりに幸せに生きていく方策を考えるほかない。その頃、オンライン雑誌「クーリエ・ジャポン」で書いたのが、この連載。「幸せの国・デンマーク」にいながら、どうも幸せじゃないという皮肉な状態に陥った私が、デンマークの人々の知恵を借りながら、もう少し幸せになってみよう、と自分を実験台にして臨んだ記録である。(noteでも公開中

連載を始めちゃったというプレッシャーに力を借りて、多くの人と会ってつながりを広げつつ、新しいことにもトライしたりと、自分の世界を少しずつ広げた経験はとてもいい自信になった。北欧に来てからの”人生第二章”も6年を過ぎ、デンマーク的価値観がなじんできたところもある。仕事は人生の大事な要素だという思いは、今も変わらないけれど、仕事は人生の一部でしかない、というのもまた事実。この6年は、キャリアとしては停滞期かもしれないが、「幸せな家族の基盤を作る」という意味では、とても生産的な時間を過ごしたと捉え直すこともできるのだ。

理想を描ければそれで終わりーなら苦労しない

さてそんなことを言っておきながら、キャリアの停滞が全く気にならないほど、突き抜けた境地に至っているわけではもちろんない。「クーリエ・ジャポン」の連載後は子供が2人になって自由な時間がますます減り、「やりたいことが全然進まない」というフラストレーションを抱えることもしばしば。イライラが爆発して、ホテルに缶詰になっていることからもわかりますよね。

ただ、焦りがあるというのは、諦めたくない目標があるのだということでもある。そういうマイナス感情をなくそうとやっきになるよりは、うまくおつきあいする方が、結局はうまくいく……というか、今はそれしか選択肢がない。

かつてはそうじゃなかった。自分の時間とエネルギーが使い放題だった時は、目標に向かって一直線に、全力で頑張ることで、焦りの原因をねじ伏せていった。でも、仕事オンリーじゃない世界で生きることを望んだのは、ほかでもない自分自身。やり方も変えなくてはいけない。

なかなかうまくできないものの、大事なことは、自分に優しくあることだと私は思っている。”理想の自分”があまりに遠く、日々の歩みが遅いときには、短気を起こして一切見限ってしまいたくなるけど、一歩でも進めばよしとする、不完全さや曖昧さを許容する。それが結局は遠くまで行くためのコツだと、私は自分に言い聞かせている。

ところで、冒頭に書いた「私は何者でもなくなってしまった」ということだけれど、最近、あるデンマーク人に同じことをつぶやいたら、真顔で正面から凝視され、「Who said that?(誰がそう言ったの?)」と問い詰められた。「いや、誰っていうか……」と答えに窮していたら、さらに2回、強い口調で畳み掛けられた。その時点で泣きそうだったが、「2人の子供たちにとって、あなたは世界のすべてでしょ」と言われて、ついに涙腺が崩壊した。

そう、何者でもないとかって、勝手に自分で思ってるだけなんですよね。誰からもそんなこと言われたことないぞ、よく考えたら。自分に優しくしましょう。そして、ゆっくりと望む道を進んでください。


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「みんな頑張っているから休めない」と無理を重ねた私が、自分を大事にするようになるまで

著者:井上陽子

井上陽子

デンマーク在住の文筆家。大手紙の新聞記者・特派員として20年近く勤め、妊娠を機に北欧デンマークに移住。デンマーク人の夫とコペンハーゲンで6歳娘、2歳息子の子育て中。クーリエ・ジャポン、日経DUAL、BuzzFeed、note等で執筆。 サイト:​​https://www.yokoinoue.com/japanese Twitter:@yokoinoue2019

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編集:はてな編集部

異業種転職は必ずしも“リセット”じゃない。元看護師の私が、仕事は「地続き」だと感じた話

イラスト・文 meme(成沢彩音)

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現在の職種・業界とはまったく異なる世界へ足を踏み入れることになる「異業種・異職種転職」。転職だけでも大変なのに「異業種」「異職種」ともなると、「うまくいくのだろうか」「転職できたとしても、ちゃんと働けるのだろうか」など、不安に襲われることも多いはず。

IT企業のWebデザイナーとして働くmeme(成沢彩音)さんは、もともとは看護師としてITでも一般企業でもない職場で働いていました。そのため以前は、転職前のキャリアを「空白期間」や「同世代からの遅れ」と捉えてしまい、焦りや不安も大きかったそうです。

しかし、最初の転職から時間を経た現在は「過去の経験も礎になって今の仕事に生きる」「異業種転職は“リセットボタン”じゃない」と感じているそう。今回は、そんなmemeさんに、自身の転職経験についてつづっていただきました。

***

「どうやってデザイナーになったんですか?」

と、初対面の方によく聞かれる。

看護師からデザイナーへとキャリアチェンジをしているためだ。看護師を3年ほど経験したのちに一念発起し、デザイナーへと転身した。看護という医療畑から、デザインというまったく別の業界・職種への転職だった。

そして今、私はココナラというWebサービスのUIデザイナーをしている。

デザイナーになって7年目、デザイナーとしてのキャリアもようやく落ち着いてきた頃だ。最近になって、異業種からデザイナーへの転職を志す方のアドバイスをする機会がぽつぽつと増えてきたのだが「デザイナーとしてのキャリアは白紙だから、私には何もない……」といった声を聞くこともある。

本当にそうだろうか?頑張ってきた過去のキャリアを「異業種だから」と切り離し、リセットして考えてしまうのは、少しもったいないように思う。

私自身、異業種・異職種からの転職をしているが、過去の経験が今に生きていたり、つながっていたりすることはある。今回は、そんな話をしようと思う。

やりたいこと探しに迷走していた看護師時代

最初に看護師という職業を選んだのは、「なりたい」と思って選んだ道ではなかった。思い返せば今の仕事につながるが、高校生までは油絵や服飾などにハマっていたこともあり、ぼんやりと「将来は何かクリエイティブな仕事に就くんだろうなぁ」と思っていた。

しかし、大学進学のタイミングで将来就きたい職業像がはっきりせず、まずは「手に職を」との思いから看護の道を目指すことにした。

母子家庭という環境もあり、漠然とした目標に対して高額な学費を出してもらうことには抵抗があったし、小さい頃から家族の見舞いで通院していた自分としては看護の道も自然な選択だった。

看護学校を出た後、上京して大きな病院に就職した。看護の仕事はやりがいも感じていたが、ルーチンワークかつ煩雑な環境が苦手で、日々ストレスを感じていた。食欲もあまりなく、うまく寝れない日々が続いていた。休日はデッサン教室に通ったり、レジンで小物を作って販売したりしていたが、「このまま看護師として働き続けられるのだろうか」「私が本当にやりたいことは何か他にあるんじゃないか」と、仕事における私のやりたいこと探しは迷走していた。

思い切って飛び込んだ「デザイナー」の道

看護師を3年経験した頃、転機が訪れた。

家の事情で名古屋へ引っ越しした事を機に体調の関係からしばらく休職することを考えていた折、近所の商店街で「未経験可。デザイナー募集」という張り紙を見かけたのだ。業務システムを開発している、小さな会社だった。デザイナーという仕事の詳細は正直分からなかったが、広告やホームページを作る仕事と聞いて「面白そう!」と、好奇心から応募した。

デザイナーとしての初めての職場は、なんと(未経験の)私一人しかいない環境だった。デザイナーの先輩が居たわけでもなかったため、独学で勉強を始めた。ネットの動画学習サービスや専門学校の教本を購入し、ソフトの使い方を一人で学習した。習得したスキルを使い、作ったものでお客さんの役に立てることが楽しく、どんどんデザインの道にのめり込んでいき、やっと「やりたいこと」を見つけたような感覚があった。

ただ、独学でソフトを使えるようになったものの、一人デザイナーの環境や仕事で扱う範囲も大きくなかったこともあり、デザインの力が身に付かないと感じるようになっていった。デザイナーとしてちゃんとスキルアップできるよう、制作会社へ転職することを決めた。

エージェントからは「ほぼ未経験の場合ギャップを感じることもあるが、大丈夫か。経験のある看護師に戻った方が良いのでは?」と言われることもあったが、不思議と看護師に戻ろうとは思わなかった。ダメでもともと。やっとやりたいことを見つけたんだから、やれるところまでやってみようという思いだった。

制作会社での日々はやはり大変だったが、スキルを吸収できることがただただ、楽しかった。日々成長している実感があり、周りのデザイナーを意識した事もなかった。全てのデザイナーは先輩で、常に追いかける目線しか持っていなかったためだ。

遅れてスタートした「焦り」は自信が消してくれた

広告やWebサイトをメインにする制作会社でグラフィックデザインを始めて数年が経過した頃、徐々に働いていて楽しいと感じるポイントが見えてきた。一人で行うクライアントワークでのルーチン業務よりも、チームで企画しながらものづくりをする方が私には向いているように感じた。

デザイナー4年目のとき、チームで企画しながらものづくりができる環境へとの思いから、UIデザインの領域へ転職する。広告やWebサイトの見た目を作る仕事から、Webサービスやアプリの機能を作る仕事と、また少し違う職種へのジョブチェンジだった。

UIデザインを始めてしばらくたった頃、それまで感じなかった「自分のキャリアに対する焦り」を覚え始めた。

デザイン業界の知見も増えてきたことから、自然と同年代のデザイナーと自分を比較するようになっていた。「もっとあれもこれもできなくちゃいけないのに!」と常にヒリヒリとした焦りを感じ、とにかく自分のスキルアップになりそうなセミナーには手当り次第に積極的に参加した。

今思えば自信がなかったのだと思う。焦りは確かに私を貪欲にし、知識やスキルの習得スピードを早めてくれたが、常に気持ちは落ち着かなかった。

そんな焦る私に対して、当時の上司から「まずは一歩一歩を積み重ねていこう。その先にできることが広がるはずだよ。」とアドバイスを受けた。その言葉を信じ、愚直にできることを積み重ねることで、確かに少しずつだがやれることは広がっていった。人と比べてもしょうがなく、その人はその人なりのキャリアを積み重ねている。私は私のキャリアを積み重ねていくだけなんだと思うようになり、徐々に焦りは消えていき、いい意味で落ち着いてキャリアと向き合うことができるようになっていった。

業種・職種が変わっても、その経験は積み重なっている

看護師からデザイナーになってもうすぐ7年になる。

制作会社に飛び込んだ頃の私は、「私には何もない……」と自分を卑下することもあったが、看護師時代の経験が今の仕事に「生きていない」なんてことはない、と今は思う。ハードスキルであるデザインの知識・技術はもちろん重要だが、ソフトスキルは意外と看護師時代に培ったものが生きていたと思う。

例えば、こんなソフトスキルだ。

  • 多職種の中でハブとなり働くコミュニケーション力
  • クリティカルシンキングでユーザー(患者)を観察する力
  • ユーザー(患者)目線でサービス(看護行為)を見つめ直す目線
  • 常に現場の業務改善を提案・実行する力

制作会社の頃、先輩に「よく気が付きますね!」と褒めてもらったことがあった。本当にこれでいいのかな?とデザインを何度も見直して、もっといい表現を提案できた時だった。相手の視点になって見直すスキルが生きたと感じた瞬間だった。ハードスキルはまだまだでも、培ったソフトスキルは確かに武器の一つとなっていた。

そして私の場合、本当にやりたいことは、看護師時代に感じていたやりがいのあったことと共通していた

思えば看護師の頃、正確なタイムスケジュール管理よりも看護計画を企画してリハビリの専門家や患者さんと一緒に取り組むことにやりがいを覚えていた。看護の力でサポートすることで、患者さんの持っている力を引き出し、できることを増やしていくことが楽しかった。四肢麻痺の患者さんがリハビリ器具と自分の力でご飯を食べれるようになった瞬間は作業療法士と患者さんと涙を流して喜んだ。

デザイナーになっても、ユーザーの目標達成のために、デザインや技術の力でやれることを増やし、手助けできることがとても楽しかった。本当にやりたかったことはデザインという手段ではなく、誰かのできることを増やすためのサポートをすることだった。

今まで積み上げてきたものを信じることで、どんなことにもチャレンジできる

異業種・異職種転職に不安や焦りがある気持ちはよく分かる。もちろん、努力が必要なことも多いが、本当にゼロからのスタートだろうか? 誰しもが、これまでのキャリアで身に付けたものはきっとなにかあるはず。

こう思えるのは、看護師時代の経験が私の礎となっていたことに気づけたから。また、自分が本当にやりたいことを見つけたことで、今まで以上に頑張れる自分と出会えた。頑張りが空回りして焦ることもあったが、やりたいことに打ち込めている自分が一番好きな自分だ。

今できることから少しでも前に進めているのなら、できるようになったことに目を向けて、一歩一歩を積み重ねていく。そうすることで少しずつ自信も持てるようになる。キャリアは後からついてくるはずだ。

もし、全く別の仕事に興味があるけれど、不安が大きかったり、迷ったりする人は「今できていること」に目を向けるとちょっと気持ちが落ち着くかもしれない。

これから先、またやりたいことが変わるかもしれない。けれど、自分の本当にやりたいことと向き合い、今までの積み上げてきたものを信じることで、どんなことにもチャレンジできると信じている。

編集:はてな編集部

「今とは違う仕事」をすべきか迷ったら

転職した経験談
「天職」からの「転職」
する・しないの正解はない はたらく女性4人が語る「転職」事情
する・しないの正解はない はたらく女性4人が語る「転職」事情
「ここを辞めたら次はない」呪縛を解いたら、半端じゃなく気持ちが前向きになった
「今の会社を辞めたら次はない」なんてことはない。呪縛を解いたら、半端じゃなく気持ちが前向きになった
雇用形態にこだわらない
雇用形態にこだわらない|あゆお
「薄い」経験でも、積み重ねていけばいい。武器を持たないライターの私が残したもの
「このままの働き方でいいんだろう?」と悩んだら。武器を持たないライターが積み重ねたもの

著者:meme(成沢彩音)

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クリエイティブな仕事がしたい思いで看護師からデザイナーへ異業種転職。広告業界でグラフィックデザインを3年経験した後、スタートアップへ転職しUIデザイナーへ転向する。現在は株式会社ココナラでプラットフォームの体験設計やUIデザインに携わる。「ユーザーさんの"出来る"を増やしたい」という思いを胸に日々デザインを行っている。
Twitter:@memedsn

「やめる」で思い悩むのを、やめた|岡田育


誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、文筆家の岡田育さんに寄稿いただきました。

2年前に著書『40歳までにコレをやめる』を出版した岡田さんがその後さらにやめたのは、「“やめる”について思い悩み過ぎること」。

「ハイヒールをやめる」「化粧をやめる」など、著書で紹介したさまざまな「やめる」の中には、宣言通りやめたことも前言撤回したこともあるといいます。「やめる」は0か100かの大きな決断ではなく、スイッチをオン/オフするようなもの。その発想の転換が、心を少しだけ軽くしてくれました。

***

「やめる」は「ズルい」?

39歳のとき、『40歳までにコレをやめる』というタイトルの本を出版した。シンプルライフに憧れつつ実際にはなかなかモノを捨てられない私が、せめて心の重荷だけでも手放して身軽に生きたい、と思って書いた本だ。ハイヒールをやめる、ポイントカードをやめる、お酌をやめる、敬語をやめる、年賀状をやめる、などなど、各章で宣言するテーマを考えるだけでも気持ちがスッキリしたものだ。

ところがこの本について、少なからず否定的な感想も受け取った。意外だったのは「そんなの真似できない」という声。「クルマの運転をやめるだなんて、自家用車しか生活の足がないうちの地元では、まず無理だ」と言われれば、それは確かにその通り。でも、私が個人的にやめた39項目を全部その通りに真似しろと書いたつもりはなかった。あなたの周囲にも、あなたなりの「やめられる」項目が見つかるはず。私の挙げた事例が、そのヒントになればと思ったんだけれどな。

そのうち、胸に突き刺さるような感想も見つけた。「みんなやめたくてもやめられないことだらけなのに、何でもかんでもやめてしまう人はズルい」「いろいろ我慢して真面目にやり続けてきた自分が、責められている気がする」といった声だ。著者の私は「ズルい」と言われてもへっちゃらだけれど、これってつまり、「みんながやめずにいることを私だけがやめたら、誰かに『ズルい』と責められそうなのが怖くて、できない」という苦しみの吐露ではないだろうか? だとしたら、そう書いた人たちを抱きしめてあげたくなる。

書店の売場には「やる」と「やめる」を奨励する本が溢れている。そのうち一冊を、私も書いた。やめた方がラクになれると頭でわかっていても、なかなかやめられないことがある。そんなつらさを抱えた人こそが、まさに想定読者だった。何でもかんでも全部「やれ」と押しつけてくる世間に反旗をひるがえそうぜ、そして無用の「やらねば」から解放されようぜ、と誘う本だったのに、やめられない人たちに「やめなければ」とプレッシャーを与えて「できない」気持ちにさせたのでは、本末転倒だ……、と考え込んでしまう。

決めた通りに生きられないからこそ

ところで私はひどく不真面目な人間なので、「やめる」さえも「やめる」ことがある。『40歳までにコレをやめる』に書いた項目の幾つかを、41歳の今も、やっているのだ。「もうダイエットはしない」とうそぶいたのに、最近めっきり贅肉が落ちづらくなり、適正体重オーバーが続いて慌てて運動を始めた。「もうハイヒールは履かない」 も一年のうち350日くらいは事実だけれど、たまにはおめかしもしたくて新しい9cmヒールを買ってしまった。極めつけは「日本に住むのをやめる」宣言だ。2020年から続く新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、米国ニューヨークの自宅はそのままに、年の半分近くを東京で過ごす二拠点生活が続いている。

言ってることとやってることが違うぞ! と怒る人もいるかもしれないが、私が不測の事態をあるがまま受け止め、人生設計を細かく仕切り直すことができたのも、「やめる」本を書いて気持ちを整理整頓しておいたおかげである。パンデミックで仕事が吹っ飛び、平穏な日常を脅かされ、移動の自由まで制限されると、誰だって無力さを痛感させられる。思い通りに「やりたい」ことが実現できないとき、己の核となる部分を支えてくれたのは、たった一人でもすぐに始められる、ささやかな「やめる」の積み重ねだった。臨機応変、我慢せずにルールを改訂して、さらなる「不実行」を自分に許したのだ。

ここで言う「やる」「やめる」は、0か100かの大きな決断ではなく、さながらスイッチをオン/オフするようなもの。電気を消してもスイッチそのものは消えずにそこに残るし、押せばいつでもまた灯りが点く。最新の照明器具には、もっと細かい色や明るさの調節機能も搭載されているかもしれない。今まで98%ギラギラに輝かせていた「やる」のエネルギーを、試しに23%くらいまで絞り込んでみる。オフィスフロア全体の蛍光灯を点けるより、手元のデスクライト一箇所だけに絞った方が集中力が高まることがある、あの感じだ。

いきなり全部をやめなくてもいい。例えば「化粧をやめる」を実践するとき、洗面台に並んだメイク道具を全部ゴミ箱にぶち込んで明日から突然「0」にする必要はない。在宅作業でリモート会議もない日は、洗顔保湿したままのすっぴんで働く。眼鏡を掛ける日はアイメイクを省略する。終日内勤でマスクつけっぱなしの日はファンデーションは塗らない。そんなところから薄化粧を始めると、ノーメイクで過ごす時間に慣れていく。「やめる」を「一時停止」、あるいは「保留」「ミュート」と捉えれば、いつでも好きなときに「再開」だってできるんだ、と少し心が軽くなる。できればその全てを、自分自身が下したポジティブな決断だと捉えていたい。

「自炊をやめる」と豪語したはずの私も、コロナ禍ロックダウン中はせっせとスーパーに通い、調理器具を買い足して窓辺で豆苗など育てながら、頑張り過ぎない「『自炊をやめる』をやめた」(?)生活を楽しんだ。反対に、このタイミングで便利なデリバリーやテイクアウト、家事代行サービスなどの活用に目覚めた人も多いのではないか。各家庭によって事情も予算もさまざまだろうが、長引くステイホームで「家事をやめる」省力化が今まで以上に注目を浴び、重視されるようになった。必要なものを選び取り、古くなったものを捨てて、都度「やる」と「やめる」を切り替えていく。そうして新しい生活様式を模索することについて、外野から「ズルい」だなんて言う人は、昔よりずっと減ったに違いない。

ラクになれるなら、「やる」でも「やめる」でもいい

やめたいことを好きにやめられない理由は何だろう? 暗黙のルールが敷かれているから? 一人だけ違う選択をすると周囲の目が気になるから? やりかけのまま途中でやめるのはよくないことだと親や先生に教わったから? でも実際のところ、私たちが自分の「やめる」スイッチに手をかけて、ごくごく私的なエネルギーを出力調整することを、誰も責めたりはしない。それが責められる社会であってはいけない、と思う。「熱があったら大事をとって仕事を休む」と同じくらい、自己判断こそが大切なのだ(つい最近まで、我慢して出勤する方が美徳とされた時代があったなんてね!)。

市中感染リスクが弱まり、ふたたび外出できるようになった時期、素敵なおばさまと知り合った。コーヒーをすすめたら「ありがとう、でもわたくし、良質な睡眠のために16時以降はカフェインを摂らないことにしているの」と断られる。美容と健康を維持するためのマイルールを貫いて、流されない。キリリとカッコいい80代の女性だ。ところが我々がお茶請けの菓子を広げ始めると、ややあってから「んー、やっぱり美味しそうだから私も飲んじゃおっかな?」とおどけた表情でコーヒーを追加注文した。じ、柔軟だな……とズッコケる。厳格な決まり事を、時にみずからの手で破壊する快感をも知っている。自分の生き方のスイッチを、全て自分で握っている。やっぱりカッコいい大人だった。

「16時以降にコーヒーを飲むのはやめる」習慣を守る人が、そのルールを破ったとして、それは「飲みたいときに飲みたいものを飲む」新習慣の始まりになるだろうか。あるいは「時刻に縛られるのをやめる」発想の転換とも表現できる。デカフェのメニューを置く喫茶店がもっと増えれば、大好きなコーヒーを飲みながら「カフェインの摂取をやめる」だって実現可能かもしれない。明日から「ハーブティーを飲む」を始めたっていいし、それが三日坊主に終わったら、少なくとも72時間は「コーヒーをやめる」を継続できたと達成感を味わえばいい。

長い人生、ずっと望んだ通りには生きていられない。加齢とともに「できない」ことだって増えていくからこそ、可能な範囲での「やる」「やめる」の自己決定権を、ますます大切に感じている。今よりもっとずっと自分がラクになれる方法を探す。変化を恐れずに、個人の意志を大切に、何か新しいことに自覚的に挑戦する。肩の荷が少しでも下りる方へ、つらさや苦しさが取り除かれて事態が好転する方へ、未来へ未来へ進んでいけるなら、その舵取りの掛け声は、「やる」でも「やめる」でも、どちらでも構わないのだ。

案外続く「やーめた」を増やす

ずっと続けていたことをふと思い立ってやめてみたり、逆に、今までやめていたことを諸事情により再開したり。それが楽しかったり、しんどかったり。毎日が、試してみないと分からない変化の繰り返しだ。自分だけの「やめる」スイッチを手元であれこれいじっていると、生きるのが少しラクになる瞬間に気づく。歩んできた道程にはたくさんの、案外長く続いた「やっぱりやーめた」があちこちに転がっていて、いくつかは後悔の味がするかもしれないが、ほとんどはすっきりと前向きな気持ちにさせてくれる。何でもかんでも好き勝手にやめる人は、ズルい? むしろ、そういう決まりなんだから、みんなが同じに合わせているんだから、と我々の主導権を奪おうとする連中こそ切り捨てるべきじゃないか……?

というわけで、かつて「やめる」本を書いた私が、時を経て今さらに実践しているのは、「やめることについて、過去の自分や周囲の他人と比べて、あれこれ思い悩み過ぎることを、やめる」である。「やめる」を怖がることはない。それは真っ暗な虚無へのダイブではなく、枕元の強過ぎる灯りをちょうどいい具合に落とすような行為だ。「やめられない」を気に病むこともない。あなたのスイッチはあなた自身が握っている、その確信さえ持てていれば、時には周囲の状況を見回して、ちょっとルールを曲げたって構わない。今夜はまず、「思い悩む」のスイッチをオフにして、ぐっすり眠ってみませんか。私にとって、あなたにとって、ちょうどよく絞られたそれぞれの薄灯りに照らされながら。

著者:岡田育

岡田育

文筆家。著作に『我は、おばさん』、『40歳までにコレをやめる』、『天国飯と地獄耳』、『ハジの多い人生』、『嫁へ行くつもりじゃなかった』、『オトコのカラダはキモチいい』(二村ヒトシ、金田淳子との共著)。推しミュージカル俳優は石川禅、鹿賀丈史と轟悠。
サイト:https://okadaic.net Twitter:@okadaic

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編集:はてな編集部

「元気になりたい」と思わなくていい。「これなら私もがんばれる」働き方を見つけた|ねむみえり

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誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、ブロガー・ライターのねむみえりさんに寄稿いただきました。

ねむみさんがやめたのは周囲の人と同じような「元気」であろうとすること。

学生時代から「心身ともに健康である」といった文言を目にすると「自分は当てはまらない」と感じたというねむみさん。大学卒業後も、いわゆるフルタイムで働く周囲の人の様子を目にし劣等感を抱くこともあったそうです。

その後、「これなら私もがんばれる」という働き方を見つけたねむみさん。しかし、その行動が思わぬ結果を招くこととなり、徐々に「元気」という向き合い方への変化がありました。

***

「元気になりたい」というのが、私の口癖だ。

地球の重力が狂ったのかと思うぐらい体が重かったり、外が怖いと言ってベッドの上で動けなくなる日がある。そうなると、楽しみにしていた友人との飲み会や、舞台やお笑いライブなどのイベントも諦めざるを得ない。

「申し訳ないのですが、動けないので別日にさせてください」という連絡をベッドの中で丸くなりながらするたびに、自分が元気であればよかったのにと思う。

しかし私の中には、明確な「元気な私」像がない。

今までの人生を思い返してみても、「この頃は元気だったな」という時期がないのだ。

漠然とした「元気になりたい」という目標を掲げて試行錯誤を繰り返し、「あれ、私今結構元気なんじゃない? 仕事も沢山できるし!」と思ったことがあった。ただこの時は、これからまさか不調の谷に真っ逆さまに落ちていくとは予想もしていなかった。

あの時「元気」だと思っていた状態は、本当はただ「無理」をしていただけだったのだ。

「心身が健康であること」という壁

心にぼんやりとした不安が鎮座し始めたのは中学3年生の頃。まず教室に入れなくなり、学校に行っても向かう先は保健室で、最終的に不登校になった。中高一貫校に通っていたため、高校に進学することはできたが、並行して通院していたし、出席日数に怯えていた。

そんな状態でも興味を持っていたのが、学校が主催する「海外研修」だ。英語も学べて、その土地の文化にも触れられる。ある程度の学力は必要とされたが、勉強すればできないこともないだろう。

そうやって詳細が書いてある紙に目を通していていると、応募条件の項目で立ち止まった。

「心身が健康であること」。

なるほど、健康か、と思った。身体的にも精神的にも不安がない状態、つまり、正真正銘元気であることが、ここでは求められているのだなと理解した。


体力に自信はないけど、風邪をひくことはあまりないから、身体は大丈夫。問題は心だ。心の問題で通院している自分には、どうやってもクリアできない条件だった。

もしかしたら「心身が健康であること」というのは、人によっては些細な条件なのかもしれない。さっと目を通して何事もなく終わる条件なのかもしれない。ところが私にとっては、あまりにも大きな壁だった。何事かの募集要項を読むたびに「心身が健康であること」と書かれているのを見つけると、まるで「あなたのような人には関係のない話です」と突っぱねられた気持ちになった。

「私には関係ない、何故なら私は健康でないから」と思うたびに、心のどこかがギュッと締まった。しかし、そうやって諦めるしかなかった。健康でないのはどうしようもなく事実だったから。

ちゃんとできないことへの劣等感

不登校状態からどうにかこうにか大学まで卒業して、その先に待っていたのは社会だった。大学に通うので精一杯だった私は、就職活動はほとんどしなかった。大学の先輩の紹介でアルバイトとしてライターを始め、そこから職場を転々としていくのだが、週5で8時間、いわゆるフルタイムで働くということがどうやってもできなかった。

世の中の人は愚痴を言いながらも、ちゃんと社会人として働いているのに、自分はそれができない。どうして私は他の人みたくちゃんとできないんだろう、という強い劣等感にさいなまれ続けた。

「ちゃんとする」というのは私の中で繰り返し唱えられてきた言葉で、簡単に言えば、社会人としてのスタートラインに立つ、ということだ。このスタートラインに立つためには、世間が求める「元気」が必要だと考えていた。例えば、毎日会社に行ける「元気」。あるいは、塞ぎ込んで動けなくなることがないような「元気」。

しかし私にはその「元気」がない。人間としてどこか欠落しているんだ、だから今まで一度もちゃんとできたことがないのだ、と深い闇に沈んでいくようだった。

せめて社会人としてまっとうに働けるぐらいの最低限の元気が欲しいと思い続けている間に、ひょんなことからフリーランスのライターとして活動することになった。そして2020年になると、クライアントのオフィスに行くこともあったが、緊急事態宣言を境にすべての仕事がリモートに移行した。

これは私にとって、思いがけない環境の変化だった。玄関を出るのが怖い、電車に乗るのが怖い、オフィスの人の声が怖いなど、とにかく外の世界がストレスフルで、それによって体力も気力も奪われていたのだが、リモートで仕事をすることで私のなけなしの元気を蝕む要因から離れることができた。

これなら、外に出る元気はなくても、家で仕事をするレベルの元気があればいい。私はこの状態を「省エネ」と呼んでいた。外に出なくていい分、家での仕事ははかどったのだが、この「省エネ」は使い方を間違えるととんでもないことになるのだと、後々思い知ることになる。

「元気」の基準が分からなくなった日

2020年の夏ごろから、徐々に気持ちが塞ぐ時間が増えていった。父親を亡くしたのは大きな原因だったのだと思うが、世の中で一般的に指定される忌引休暇の期間を過ぎても、仕事に完全に戻れる状態までは回復しなかった。それでも、せっかく自分に仕事を振ってもらっているのだからと、ベッドの中でパソコンを抱えながら、ものを書いていた時期もあったのだが、常に強い眠気と抑うつに悩まされて思うように進まなかった。

そこで、長くお世話になっているカウンセラーの先生に提案されたのが、「午前中フリータイム制度」だ。理想の自分は動きたいと思っているのに、現実の自分は頭の中にもやがかかり動けないことで自己嫌悪に陥っていた午前中を、最初から何もしない時間にして、午後から仕事ができるように準備する。理想の自分と現実の自分との折り合いをつけたのだ。

もちろんフリーランスだからこそできることかもしれないが、理想の自分と現実の自分との間で苦しんでいた私にとって、この制度はとても役に立った。

人よりも働ける時間が少なくなることへの焦りはあったが、そもそも午前中に自己嫌悪に陥って何もできていなかったので、この制度を導入しても、働く時間に変わりはなかった。むしろ、午前中に無駄な精神的な疲れを感じずにすむので、午後に仕事を始めると、スムーズにタスクをこなせた。

私は徐々に回復し、2020年が終わる頃にはすっかり元気になっていた。と言うよりも、元気になり過ぎていた。

2021年になってから、ありがたいことに仕事が増えていた。常にやることを抱えていたのに、空白の時間が怖かった。今が頑張り時なのかもしれないと思い、「午前中フリータイム制度」をやめて、朝から晩まで仕事をしているうちに、日付の変わり目を無視するようになった。時間の融通がきくフリーランスという身分が、自分を内側から壊していった。

外の世界と関わりを持つのは、仕事のためのチャットとメールぐらいで、それ以外の力を持っているタスクに全振りしていた。最初は自分の元気を温存するためだった「省エネ」と称した働き方は悪い方向に暴走していたのだが、渦中の私はまったく気にもとめず、連日エナジードリンクに頼るなど、暴走に加担していた。

恐ろしいことに、私はこの時、自分のことを元気だと思っていたのだ。もともと、自虐として「私は体が壊れる前に心が壊れるから、体調はあまり崩さない」ということをよく言っていたのだが、これが完全に裏目に出てしまった。

不眠や頭痛、息苦しさなど、身体に不調が生じているのにもかかわらず、心は壊れていないから、という理由で身体の不調を見て見ぬ振りをしていたのだ。

忙しかったらこういうこともあるのだろう、そういう身体の不調を抱えても仕事をするのが社会人なのだろう、と本気で思っていた。これが、私が欲しかった、社会人として求められる「元気」なはずだと。

その結果、5月のある日、心が折れた。明け方まで仕事をしていて、部屋が薄明るくなっているのを感じた時、「あ、もう無理だ」と思った。長年自分の心の不調と付き合ってきたけれど、こんなにも突然に、そして完全に心が折れたのは初めてだった。

元気でなくても、生きていればいいのかも

心が折れた結果、パソコンを開くことすらできなくなってしまったので、ベッドの中からスマホで謝罪と休養に入る旨のメールを送った。最初は1ヶ月程度の休養のつもりだったし、仕事を完全にストップさせるのが恐ろしかったので、少しだけ仕事を残して細々とやろうと思っていたのだが、全くできない上に、身体の不調もひどくなってきていたので、休養の期間を何度も延ばすことになってしまった。

顔面が不随意で動くので、常に痛みを感じ、強いストレスになっていた。精密検査をしても原因は不明で、このまま治らないのではないか、このまま何もできずに、家に引きこもる生活に戻ってしまうのではないかと、心のさらなる不調にもつながっていた。もう自分はダメなのかもしれないと思いつめた結果、主治医に入院を打診されるところまで心が壊れてしまっていた。

こんなつもりじゃなかった、というのは渦中から出てからしか分からないことなのだ。私が「元気」だと思っていた状態は、明らかに「無理」をしていた。もう私は元気で何でもできる! というのは誤った認識で、はたから見れば、切り立った高い崖の先に向かってスキップをしているようにしか見えなかっただろう。

入院するといつ出てこられるか分からなかったので、オンラインで行っていたカウンセリングを対面に戻し、週1で通院して、不調から回復していくことに決めた。今まで自分に何が起きていたのか、どこからこうなってしまったのか、これからどうしていけばいいのかを毎週見つめ直す作業を、今でも継続して行っている。

実は、このシステムで回復することを決めたきっかけの1つに、応援している芸人さんである、かが屋の加賀翔さんが、体調不良による休養から戻ってきたということがある。

とある番組で、「繊細そうだから、バラエティとかでイジられるのしんどくない?」と聞かれた加賀さんが、そんなことない、と否定した上で、「病気ヤロウとか言われたいです」と発言していたのだ。

正直に言うと、私はこの言葉に驚き、笑い、救われた。こんなに面白い回復の仕方があるのだ、と思った。早く元気になって仕事に戻らないと、という無意識に感じていた焦りが消えて、しっかり自分自身に向き合う時間をとってあげようと決めた。こんなにも分かりやすく視界がひらけて、世界に色がつくことってあるんだ、と感動してしまった。

2021年の夏をまるっと休養に充てた結果、原因不明の顔面の不随意運動も治まり、仕事も休養以前のレベルではなく、少し落としたところで復帰できている。時々塞ぎ込むこともあるけれど、それはもう長年連れ添っている私の性質だから仕方がない。むしろ、「すごく元気! 何でもできる!」と思って暴走し始めないかを見張っている状態だ。

今は「午前中フリータイム制度」は一旦やめている。仕事への関わり方を休養後に見直し、制度化しなくても起きた瞬間に「何かがおかしい」と感じたら、大丈夫になるまでちゃんと休むということができるようになった。しっかり休むことが仕事のクオリティを上げることにつながるということを身をもって体験したからこそ、制度を導入しなくてもよくなった。

***


最近は、仕事をしている時間と睡眠時間を記録したり、自分の独り言を気にしながら、無理をしていないかチェックしている。「よく分かんなくなってきた」や「自分が足りない」と言い始めたら、少し無理をし始めているサインなので、業務時間や量を調整するようになった。

今私は、「元気?」と聞かれた時に、「まあまあかな」や「ぼちぼち」と返すようにしている。それは、自分が元気であるかどうか自信がないということもあるが、元気という状態は常に維持されるものではないと考えているからだ。さっきは元気だった、でも2時間後に元気かどうかは分からない。本当はそれでいいはずなのに、この社会は、常に元気であり、健康であることを要求してくるように感じる。でも、何をもって健康というのか。身体と心は一人ひとり違う。その人によって「健康」と感じる状態は異なるはずだ。

そして元気か元気でないか、ということを考えた時に、元気である方がいいということは分かるのだけれど、社会の求める元気のレベルが、自分には合わないかもしれないということは大いにあるはずだ。私もそうだった。

ここでもきっと、折り合いが必要なのかもしれない。社会の求める元気ではなく、自分の手の届く範囲の元気を指標に、日々を過ごしていく。


もう二度と、元気になり過ぎて心を折らないように。


著者:ねむみえり

ねむみえり

1992年生まれ、東京出身のライター。エッセイやインタビュー記事、書評などを主に執筆してます。本や演劇、お笑い、ラジオなどが好き。 Twitter:https://twitter.com/noserabbit_e
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編集:はてな編集部

仕事や将来へのなんとなく不安な感情を和らげる「最高の一日」を描く方法|古性のち

文と写真 古性のち

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忙しさに追われ毎日を過ごしていると、ふと「私はなんのために頑張っているんだろう?」と思ってしまうことがあります。「このままでいいのだろうか」という漠然とした焦りや不安は、多くの方に覚えがある感情なのではないでしょうか。

写真家・コラムニストの古性のちさんも、そんな苦しさを抱えてきたひとりです。幼い頃から集団生活になじめず、「組織に属さないで個として生きていく」を目指してさまざまな職を経験してきた古性さん。しかし、晴れて独立を果たしても言いようのない不安や焦りは消えず……。そんなときに出会ったあるワークショップが、働き方や生き方の道標になったといいます。

人生を見つめ直し、自分が何を欲しているのかに気付くきっかけとなった古性さんの体験を書いていただきました。

***

私は今、岡山の港町と東京の、それぞれの場所に拠点を構えながら生活している。
五感を思いきり開いて創作をしたくなったら海の側の岡山の家へ。
今はやりのものに触れたり、誰かと会いたくなったら東京へ。
滞在の割合基準は毎月なんとなく半分ずつを目安にしているけど、それも、自分の心が今どちらを心地良いと感じるかに合わせて変えている。

そんな私の生活を「なんだか漫画のようですね」と面白がってくれる人もいれば「それって将来家庭を持ちたくなったらどうするんですか?」と自分ごとのように心配そうにしてくれる人もいる。「今は良いけれど、老後のためにお金は貯めておいた方がいいですよ」と真剣にアドバイスをくださる方もいる。

私はそれらの言葉を真摯に受け止めつつも、心の真ん中とは違う場所にそっと置いておくようにしている。もちろんありがたいし、きっといつか、自然とぶつからなければいけなくなる問題もあるだろう。

でも今一番大事なのは、この瞬間「私が私の人生に納得感を持っていて、満足しているのか」なのだと思う。

今世は有限だ。私が私としてこの世界に存在できる時間は、自分が思っているよりもたぶんずっと短い。そう考えると、他人の物差しを自分の人生にあてがって、比べたり、悩んだりうらやましがっている暇は、正直ない。

「今の自分の働き方や人生に満足しているか」と聞かれたら、まだまだ控えめだけれど、YESと答えられると思う。

だけれどそんな私もほんの数年前まで、謎の焦りと、名前の付けられない不安の間で戦って、悩んで、揺らぎながら毎日を送っていた。

「何者かにならなければ、上手に呼吸できる日はこない」と思っていた幼少期

小さな頃から、それはそれは面倒くさい子どもだった、と思う。
私が私の親だったら、日々頭を抱えていただろう。

毎日過呼吸になるほど泣きわめきながら乗せられる幼稚園バスは、私にとって地獄行きの乗り物だった。到着してしまえば諦めがつくものの、みんなで歌を歌ったり折り紙を折ったりする時間は退屈で、何故こんな小さな所に閉じ込められ、自由に外にも行けず、決められた枠組みの中で過ごさなければいけないのかが分からなかった。

小学校に上がり、幼稚園時代から感じていた居心地の悪さはさらにエスカレートする。

理由がはっきりしない沢山のルールを押し付けられることが増え、なんのために覚えるのかも分からない授業にもひたすら気持ち悪さを感じて、「何でこれをやらなきゃいけないんですか?」と疑問を解決するべく先生に質問するたび、私に返ってくるのは欲しい答えではなく「困った問題児」や「先生に反抗ばかりする子」という名前のラベルばかりだった。

ひとつひとつ丁寧に理由を知り進んでいきたい私にとって、集団生活というシステムが根本的に肌に合わなかったのだと思う。学校が楽しい、と笑う友人たちはうらやましいほどにみんな眩しくて、いつもいつも泣きそうだった。

あの頃の記憶は、今も頭の隅っこの方で、ざらざらとした感触を残している。

早く大人になりたかった。

だけれど、年齢を重ねるにつれ理解したのは、結局大人になり多くの人が所属する「会社」という場所は学校生活の延長線上にある、ということ。この学校という場所は、他人と折り合いをつけながら一緒に生きていく、いわゆる社会性を身につける訓練をする場所だったことに気づいた時には絶望した。

ならば、そこからのはみ出し者はどうすれば良いのか。

単位ギリギリでなんとか卒業を迎えた高校生の私がたどり着いた答えは、「特別な何者かになって、会社ではなく個として生きていける力を持つこと」だった。

そこにしか自分の生きる道はないと思ったし、このシステムから外れることができれば、この気持ちの悪い生きづらさや不安からさよならできると思った。

そんな思いを持って私が卒業後に最初に選んだ職は美容師。「はさみ1本あれば世界中、好きなところで生きていけるに違いない」と思って選んだ職だ。

20代前半から中盤は、私はさらに「自分が心から好き、と感じる職で特別な何者かになれること」を求め転職を繰り返す。美容師から始まり、Webデザイナー・ライター・フォトグラファーと興味のありそうな職はがむしゃらに、片っぱしから試した。

その後、念願だった「組織に所属せず一人で生きていく状態」が叶ったのは20代半ば。「ライター兼デザイナー兼フォトグラファー」というまるでキメラのようになった肩書きで、フリーランスとして独立を果たした。

あの時の安堵感は忘れられない。幼少期から感じていた気持ち悪さとおさらばした後の自分の人生を考えると、興奮で眠れないほどだった。

ここまでくれば私は大丈夫。念願だった形で「何者か」になり、一番のネックだった組織からも開放され、もう何も怖くないと思った。

だからこそ、1年たっても言いようのない不安や焦りにいつも追いかけられていることを、初めは目をつぶって、見ないふりをしていた。

「何者かになる」という夢を叶えたのに、自分の人生に自信が持てない。 結婚をし子どもがいる同じ年の友人、ゆっくりと自分のキャリアを積み上げる人、新たな挑戦を胸に世界へ飛び出していく人、全ての他人が必要以上に眩しく見え、焦り、不安になる。うらやましくて、そわそわする。

もっとお金を稼がねば。もっと仕事をしなければ。良い恋愛をして、結婚しなければ。他人に素敵だと思われなければ。

じっとりした名前の付けられない感情は、ゆるやかに日々の私の精神を蝕んでいき、思い描いていた「何者かになった先の姿」とは程遠い精神状態で、だけれど涼しい顔を作りながら毎日暮らしていた。

自分の欲求を知るために「理想の一日」を書き出して気付いたこと

そんな日々を送りながら「まあでもみんな何かを抱えて、我慢しながら生きているんだから」と聞き分けの良い大人のふりをして生きていた頃、「朝起きてから夜寝るまでの理想の一日を考えてみよう」というワークショップと出会った。

内容は「ノートを開き、自分が思う理想の一日を朝から夜まで書いてみる」というとてもシンプルなもの。講師は心理学を専門に学んでいる女性で、「言葉にできない焦りや不安に、名前をつけるきっかけを作りましょう」と添えられていた募集文がその時の私の心にとても響いた。

対面式のワークショップで、当日集まったのは年齢も性別もバラバラの6人。
各々、黙々と自分の理想の一日を書き出していく。

形式はなんでも良かったので、パソコンを開き、物語調にカタカタと打ち込んでいく。自分はどんな朝を迎えたいのか、どんなふうに眠りたいのか。何をしている時が幸せなのか。「どんな状態が幸せだと感じるのか」を言語化する行為は、心がゆっくりと凪いでいくとても不思議な感覚だった。

静かになっていく心と一緒に、その時私の頭の中でコトンと、確かに何かの音がした気がした。

あの、じっとりした名前の付けられない感情は「自分の本当に欲している人生が分からないことへの不安や焦り」だったのだ。

頭の中で聴こえた音はたぶん、ずっと正体不明だった感情にやっと名前がついた音だった。

「何者か」になって組織から解放されることだけを目指し、そのあとはただ漠然と「幸せになりたい」と願いながら、先の見えない真っ暗な道を手探りで走っていたのだ。

どう考えたってそんなの、不安にしかならない。上手に走れないし、なんなら暗闇の中でぽっとたまたま現れた光に「これだ!」と思って無条件に飛びついてしまうかもしれない。

目指すものを見失わないために「最高の一日」を考える


家に帰り、ノートを開いて読み返しているうちに、もっと事細かに書いてみたら、具体的な理想の人生が見えてくるのでは、と思い立った。

そこで、この「理想の一日をノートに書く」に、自分ルールを加えてみることにした。

まずは、とにかく細部まで書くこと。

例えば「朝早く起きる」ではなく、どこで・どうやって・何時に起きるのか。家は海沿いなのか、山沿いなのか。はたまた持ち家なのか、賃貸なのか。隣にいるのは夫なのか、猫なのか、それとも一人なのか。それらを、頭をフル回転しながら書く。

書き終わったら、今度は現在の生活と理想の生活にそれぞれ分けて箇条書きにしていく。最後に、現在の生活を理想に近づけていくにはどうすれば良いかのアイディアを書き出していく。

机の上にはお気に入りの珈琲とお菓子と、耳にはお気に入りの音楽を引き連れて、疲れたら適度に休憩を挟みながら、黙々と書いていく。それらを書き終える頃には気づけば8時間以上経過していて、心も体も頭も、もうクタクタだった。

心の奥底から一生懸命絞り出した私の「理想の一日」は、笑ってしまうくらい現実とはかけ離れているのに、心はとても清々しかった。

初めて自分の「本当に欲しいもの」と向き合えたような気がした。

当時書いた私の「理想の一日」(状態も含む)の一部は以下。ここでは分かりやすく箇条書きにしているけれど、書き方は自分の肌に合うやり方を選んでもらえるとうれしい。ちなみに私は普段は「物語調」でまとめている。

・朝7時にお祈りの声と一緒に目を覚ます
・家はネパールの湖の側。1Kの賃貸に住んでいる
・窓際にはいつも切り花が飾ってある
・世界中で自由に写真を撮り、エッセイやコラムを書く仕事をしている
・自分のプロダクトを持っている。お茶や文房具に関するものだとなお良い
・一緒に五感を開いてくれるパートナーがいる
・自由な会社で、信頼できる仲間と働いている
・夜21時からは読書タイム。30分間はゆっくりと本を読む時間をとる
・23時にはふかふかの真っ白なベッドで眠る


このワークショップは、定期的に行う「最高の一日を考える」という個人ワークとして私の中の定番になった。今でも、半年に一度たっぷり一日休みを取り、ノートに書いたりやパソコンでカタカタと打ち込んだりしている。(以下の記事などでは、具体的な私の「最高の一日」の書き方と、現在の生活を理想に近づけていくにはどうすれば良いかのアイディアを書き出していくまでのやり方をまとめているので、気になる方はぜひ)



「特別な何者かになる」ではなく「自分の特別を知っている」ことの大切さ

理想の中には、既に叶っていることも、夢物語のように感じるほど遠くにあるものもある。初めてワークショップに参加した日からゆっくりと時間をかけて、生活の一部へと変わっていったものもある。

例えば毎日ふらりと何となく立ち寄るコンビニで、お菓子やら珈琲やらに使っていた500円を、部屋に飾る一輪の花に使うことを変えた。花が一輪あるだけで、部屋の中がぱっと明るくなる。毎日帰ってきた時に自然と目に入ると、心がふんわりと軽くなる。



何度「最高の一日を考える」を書いても登場する「朝早くに起きて本を読むこと」も少しずつだけれど、日常化している。慌ただしい毎日の中で、予定より30分だけ早く起きて、駅までの通り道にあるカフェでページをめくるようになった。本はいつも、毎日にちいさな発見をくれる。

今までは「何者かにならなければ」を原動力に、ただがむしゃらに仕事をしていた。だけれど最高の一日を考えるようになったことで、自然と「仕事」という言葉への価値や見え方が変わり、仕事で「自分がどんなことをしたいのか」が徐々に分かるようになってきた。細々とだけれど、苦手な部分は助けてもらいながら、自分のプロダクトも作り始めている。

結婚についても、「最高の一日」の中にパートナーの存在が出てくることはあったけれど、別に「絶対に結婚をしたい」というわけではないことに気付いた。それからは、周りの人をゆるやかに、心から祝福できるようになった気がする。

人生全体に、なんだかゆったりと余裕が生まれた。

もちろん焦りや不安がゼロになったわけではないけれど、私にとって、暗い道を照らしてくれたこのワークショップと出会えたことが人生の転機になった。

自分の理想的な状態、つまり自分の“特別”を知っている状態は、他人の人生を無駄にうらやんだり、選べずに迷い、疲弊してしまう時間から解放してくれる。同時に「このままで良いのか」と悩んで立ち止まってしまうことも、私は減った。

私の「最高の一日」は、年齢を重ねるたび少しずつ変化をしている。
だけれどその中で絶対的に変わらないものもある。
そういうものを手放さず、きちんとどれだけ未来に連れてゆくことができるかで、人生の豊かさは変わるのだと思う。

今私は、過去一度手放してしまった「組織の中で働く」にもう一度向き合うフェーズにいる。自分の理想の一日を考えてみたときに「信頼できる仲間と働く」というのを求めていることに気付いたからだ。

所属している会社は、出勤時間も勤務地も決まっていない。私自身は個人の仕事も並行していたり、岡山と東京の2拠点生活をしていたりする状態だが、それでも「仲間」と「組織」で働く自分もいる。最高の一日を考えなければ、こうした決断もできなかったように思う。


「なんだか感じている不安」には、ちゃんと名前がある。
「なんだか感じている焦り」にも、ちゃんと解決方法がある。

「人生、流れに身を任せて」も悪くはないけれど。

薄暗い道で立ち止まっている人にこそ、「理想の一日」を考える方法を試してみてほしい。私がそうだったように、きっと小さな光の道標となって、人生を照らしてくれるはずだ。



著者:古性のち

古性のち

写真家・コラムニスト。岡山と東京の二拠点暮らし。SNSでは美しい日本語と写真を編んでいます。2020年からBRIGHTLOGG,INC取締役。共著に「Instagramあたらしい商品写真のレシピ」。三度の飯より猫が好き。

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編集/はてな編集部

「しっかりしている自分」にこだわるのをやめた|むらたえりか

 むらたえりか

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誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、ブロガー・ライターのむらたえりかさんに寄稿いただきました。

むらたさんがやめたのは「『しっかりしている自分』であろうとする」こと。

幼い頃から「何でも自分ひとりでできる」人でありたいと思い、社会人になってからもその意識が大きかったというむらたさん。しかし、それ故に仕事を抱え込み過ぎたことで心身の不調をきたし、休職をすることとなります。

そんな休職期間中に気付いたことは「しっかりしている」状態の捉え方の曖昧さ。また、何でもひとりでできるようにすることが必ずしも「しっかりしている」=「責任感がある」ということではないこと、そして、ときには周囲に「頼る」ことの大切さでもありました。

***

電車内やスーパーで大泣きしている幼い子を見かけると、ときどき「ああ、いいなあ」と呟きそうになる。30代半ばにもなって。何かを訴えて大声をあげるこどもに憧れる自分に、その度に驚く。

幼い頃のわたしは泣かないこどもだったらしい。ひとりで本を読んでいることが好きで、下の妹弟たちの面倒を見ることも嫌がらず、ずいぶんと扱いやすい子だったそうだ。わたし自身も大人たちに「いい子だね」「もうお姉さんだね」と言われることを望み、うれしく思っていたようなおぼろげな記憶がある。「ひとりで何でもできるように」と父に繰り返し教育され、そうありたいと思っていた。

けれど、そうやってずっと心の支柱となっていた「ひとりで何でもできるように」が崩れてしまった。それは、病院でうつ病・抑うつ状態と診断されたときだった。

「しっかりしているわたし」を手放せなかった

2020年のはじめにうつ病・抑うつ状態と診断され、その夏から休職をしている。会社のせいではない。「ひとりで何でもできるように」が行き過ぎた結果、自分で抱えきれる仕事量を大きく見誤り、また仕事についても私生活についても誰にも相談ができず、いよいよ限界を迎えてしまった。

思えば、地元の宮城県から東京に出てきたときから無理をしていたのかもしれない。知り合いも頼れるひとも少ない土地で、わたしの「ひとりで何でもできるように」の意識は次第に大きくなっていった。

そして、「できません」と言わずに仕事を引き受ける扱いやすいわたしを、過去に所属していた会社の上司たちもいくらか重宝してくれていたように思う。それがたとえ、家に持ち帰って朝の5時までかけてできた仕事でも、寝ていないとか朝までがんばったなどとは職場の誰にも言わなかった。仕事量に文句を言うこともなかったし、ありがたいとさえ思っていた。だから、これくらいは当たり前にできるひとなのだと思われていたのではないだろうか。

抱え込みがちな点を気にしてくれる上司や同僚もなかにはいたけれど、本人が平気そうにしていて仕事もあがってくるものだから、深くは踏み込んで来なかった。

以前勤めていた広告制作会社では、自分の仕事はもちろん、後輩の仕事のフォローや修正まで自分でしてしまっていた。転職して書籍の編集の仕事をするようになってからは、ライター職や校正職の経験から、自分で文章の修正や校正までおこなうようになっていた。他にも自分でも気づいていない部分で「自分でできることは自分でしてしまおう」と抱え込んでいたものがあったはずだ。

いまでは、そんな仕事の仕方は良くないと分かる。仕事はひとりでおこなうものではない。ひとを頼ったり相談したりした方が、周囲も安心するし、気にかけてももらえる。でも、渦中にいるときには気づけなかった。「ひとりで何でもできるように」と思い込んでいたし、そんなわたしを上司や親が「しっかりしている」と見てくれている評価を手放したくなかったからだ。

「いいなあ」と思ったあの涙を初めて流した日

病院で休職を勧められたときに感じたのは、安堵の気持ちとそれを上回る挫折感だった。「ひとりで何でもできるように」という支柱が崩れ、また「しっかりしている」という評価も諦めなければいけない。職場のひとたちにも親にもそんな自分を見せるのがつらくて恥ずかしくて堪らなかった。

ただ、尊敬している上司に病気の報告と休職の申し出をしたとき、そのひとの前でボロボロに泣いてしまい、何か憑き物が落ちたような感覚があったのを覚えている。

最初は涙を堪えていた。目が潤んできたのを感じて、でも大人だから、わたしはお姉ちゃんだから、それを溢してはいけないと思った。けれど、上司が「あなたはひとりでもできるひとだと思って何でも任せてしまっていた。もっと気にかけてあげれば良かった」と言ってくれたのを聞いたら、溜めていた涙があふれて止まらなくなった。出会って数年の上司には申し訳なかったけれど、その言葉はきっと、わたしが幼少期からずっとずっと大人に言ってもらいたかった言葉だったのだと思う。

さまざまな感情と記憶が立ちのぼり熱くなった頬に大粒の涙が絶え間なく落ち続けるのを感じながら、これがわたしがこどもの頃に流したかった、「いいなあ」と思っていたあの涙だと思った。

休職中に振り返った自分の働き方

わたしの職歴を振り返ると、フリーランスと会社員を行ったり来たりしている。絶対にフリーランスで成功したいとも、絶対に会社員でいなければいけないとも思ってはいなかった。とにかく忙しくて、どちらが自分に合っているのか、どちらが自分の生きたい道なのか、自分で判断する時間も経験も足りていなかったのだ。

フリーランスライターとしてお世話になっていた編集者の方は、ずっとフリーランスとして活動していくことを勧めてくださっていた。わたしの性質にも合っていそうだし、もっともっと書くべきひとだと言ってくださった。それをうれしく思いながらも、上司の前で大泣きするまで会社員でいようとしたのには理由がある。またしても、「しっかりしている」という評価を手放せなかったからだ。

フリーランスでいるときよりも会社員でいるときの方が、親は安心していた。転職して会社に勤めると報告すると、うれしそうなメッセージを返してくる親への配慮の思い。そして、「やっぱりお姉ちゃんはしっかりしているね」という言葉。それを思うと、フリーランスとして働いていく選択から距離を取りたくなってしまった。

また、東京でフリーランスとして活動していくにあたって「何者かにならなければいけない」というプレッシャーを感じてもいた。広告業界や出版業界で働いているなかで、大きな目標や高い志を持った同世代にたくさん出会ってきた。彼らにとって東京は夢を叶える場所、あるいはその礎になる場所である。本当は葛藤もあったのかもしれないが、わたしにはその明確さが眩しく感じられた。

彼らに影響を受けて、わたしも「こんな大きな仕事がしてみたい」とか「自分の本を出版したい」などと目標らしきものを掲げてみた時期もあった。大きな目標があるように見せれば「しっかりしている」ように見えるのでは、と感じていたのかもしれない。それが本当に心からやりたいことだったのか。そう自問することができたのは、休職期間に入ってからだった。

むらたさんイメージ画像

「しっかりしている」の曖昧さに気づく

休職期間に入るとき、自分がうつ病・抑うつ状態であることや休職していることを、あまり隠さずにいようということだけ決めていた。上司の前でこどものように大泣きしたときの、あのさらけ出した感覚に何かがあると感じていたからだ。

しっかりしていないと思われることは、責任感がないとか頼りにならないと思われることに似ている気がして怖かった。それでも、自分の状態・状況を隠さずに伝えたことでわかったのは「しっかりしている」と「責任感」は違うということだった。

休職期間中、体調やメンタルが少し回復してきた頃に、知人の飲食店の手伝いをさせてもらえることになった。そこでは、わたしと同じようにメンタルの不調に悩むひとも働いていた。不調があるからといって、わたしはその子を「しっかりしていない」とは思わなかった。むしろ、仕事をキッチリとこなして柔軟な対応もでき、仕事のできる責任感のある素敵なひとだと思った。

また、休職期間中に出会ったひとのなかには、わたしが自分の悩みや状況を話すことで「実は自分にもこういう悩みがあって」と相談したり頼ったりしやすくなったと言ってくれるひともいた。以前からの知り合いで、わたしが休職したことによって離れていってしまったひともいる。けれど、わたしの状態を知った上で、それでもわたしを頼ってくれたり支え合おうとしてくれたりするひとが周囲にいる、いまの環境の方がずっと気持ちが楽だ。

「しっかりしていない」と「責任感がない」「頼りにならない」は、同じ括りだと思っていた。休職やうつ病というわたしにとっての挫折は、そうした烙印であるとも。

しかし実際は、休職やうつ病は自分の状況であり、性質とは違う。状況が変わって、自分の理想どおりにしっかりできなくなってしまったとしても、わたしのなかにある「ちゃんと仕事をしたい」とか「話を聞いて、サポートできることがあればしたい」という思いを見つけてくれるひとはいる。そして、そういう思いのことを、他者は「責任感がある」「頼りになる」と感じてくれるのかもしれない。

しっかりしていない「何者でもない自分」だから見えてくるもの

1年以上の休職を経た現在、ようやく自分のやりたいことや、向いている仕事について落ち着いて考えはじめられるようになった。まだはっきりと答えが出ているわけではないけれど、周囲に相談しながら、どんな形なら長く生き生きと働いていけそうかを模索しているところだ。

「しっかりしなきゃ」という幼少期からの思いは、もっと詳細に言葉にするならば「大人から見て『しっかりしている』ように見えなければいけない」というプレッシャーだったのだと、いまは思う。「しっかりしているね」と思われたい気持ちへの名残惜しさがないわけではないが、わたしはもう大人だ。誰かにこう思われたいという生き方から、自分はこう生きたいという主体的な感覚へのシフトにチャレンジしてみたい。

そのためには「何でも自分でできるように」というやり方ではうまくはいかないことも分かった。知人の飲食店の手伝いも、いまいただいている執筆の仕事も、その仕事とわたしの性質との接点を見出してくれた他者のおかげでできている。わたしに何か良いところがあると思ってくれた誰かを、わたし自身も信じ、頼りにして、それに報いたいという気持ちで向き合っていく。漠然とした誰かからの評価ではなく、仕事をする相手のためにと最小の関係を大切にしようとすると、おのずと意欲的に仕事ができるようになってきた。

「自分ひとりで」ではなく「頼る」のも一つの強さ

何でも自分でやろうとか、ひとりでもしっかりしなければいけないと思ってがんばっていた自分を否定はしたくない。それだけ気を張って生きていたのだ。でも、それはひとりで抱え込んで自分を守り、他者を信用しないことにつながってしまっていた。

いまは、意識的に知人、友人や編集者の方の意見を聞くようにしている。また、悩んでいることやどうしたらいいか迷っていることも、些細なことでもひとに聞いてみるように心がけている。そんなわたしをダメなひとだと言うひとはいまのところいない。逆に、もっと頼っていいんだよ、と快く言ってもらえるようになった。

最近でも、電車やスーパーで大泣きしているこどもを見かけると「ああ、いいなあ」と思うことはまだある。でも、そのあとに、上司の前で大泣きしたあの日の自分と、上司の言葉を思い出す。「しっかりしている自分」という支柱は折れてしまったかもしれないけれど、しっかりしていない自分でも「支えてあげたい」と思ってくれるひとがいる。自分でこだわっていた部分とはまったく違う、他の良いところを見出してくれるひともいる。失ってしまったからこそ、そうした他者のありがたみをより感じられるようになった。

失うこと、やめることで、新しく変わっていける。新たに得られたその考え方は、これからもわたしの背中を押し続けてくれると思う。


著者:むらたえりか (id:ericca_u)

むらたえりか

ライター。ドラマ・映画レビュー、インタビュー記事、エッセイなどを執筆。中高生時代に出会ったハロプロ、タレント写真集、韓国映画などを愛好し続けている。宮城県出身、1年間の韓国在住経験あり。
Blog:静かなお粥のほとりから

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編集:はてな編集部

平日の夕飯作りを楽に。働く人のためのライフスタイル別「ホットクック」活用レシピ3つ|阪下千恵

 阪下千恵

ライフスタイル別のホットクック活用3レシピ

皆さんこんにちは。『毎日のホットクックレシピ』『忙しい人のホットクックレシピ』(日東書院本社)など、シャープの自動調理鍋「ホットクック」のレシピ本を書いている、料理研究家の阪下千恵です。

ホットクックといえば、材料を切って鍋に入れてスイッチを入れて待つだけでさまざまな料理ができる、忙しい人にぴったりな調理家電。しかしせっかく買ったものの「ほぼカレーマシーンになっている」とか、「買ったけど最近使ってないな……」とか、うまく活用できていない人もいるかもしれません

ホットクックはカレーやシチューなどはもちろんですが、普通の鍋で作るには手間のかかる煮込み料理からパパッとできるごはんもの、さらには炒めものや汁物まで、さまざまな料理に対応しています。

コロナ禍で家で過ごす時間が増え、さらに在宅ワークの普及もあり家でごはんを作る機会が増えた今こそ、働き方やライフスタイルに合わせてフル活用すれば、毎日の自炊をグッと楽に、さらにレパートリーも増やしてくれます。

今回は働く人のライフスタイルと調理の仕込みがしやすいタイミングに合わせて、「朝ごはんのついでに仕込む」「昼休み中に仕込む」「帰宅後にパパッと作る」という3つのパターンで、平日の夕飯に活用しやすいレシピを用意しました。さらには、もっとレシピのバリエーションを増やしていける「使いこなしのコツ」もあわせてご紹介します。

ホットクックは持っていないけど気になっている人、購入検討中の人も、ホットクックが家にあるとこんなふうに活用できるんだと、記事を読みながらぜひ想像してみてください!

朝ごはんのついでに下準備をすれば、帰宅後すぐできる「豚のレモンクリーム煮」

豚のレモンクリーム煮

まずは朝、朝食やお弁当を用意するついでに5分~10分ほどの時間があれば下準備ができる「豚のレモンクリーム煮」です。

忙しい朝に仕込むなら、こんなふうに切る材料が少ないメニューがぴったり。材料を切って、調味料を計量して冷蔵庫に入れておけば、帰宅後は全てをホットクックに入れてスイッチを押すだけで完成します。

簡単なのに、レモンのさわやかな酸味と生クリームのコクで、ちょっと特別感のある味わいです。

豚のレモンクリーム煮の材料(4人分)

  • 豚薄切り肉(又は生姜焼き用肉):400g
  • 玉ねぎ:1/2個
  • マッシュルーム:4~6個(1パック)※しめじやエリンギなどでもOK
  • レモンの薄切り:3~4枚(または市販のレモン汁:大さじ1~1・1/2)
  • 塩:小さじ1/3
  • こしょう:少々
  • 薄力粉:大さじ1・1/2
  • A
    • 生クリーム:150ml
    • 酒(あれば白ワイン):大さじ1
    • バター:10g
  • パセリみじん切り(あれば):適量

豚のレモンクリーム煮の材料

豚のレモンクリーム煮の作り方

  • 1.豚肉に塩、こしょう、薄力粉をまぶす。くっつかないよう、少しずらすようにして並べて食品用保存袋に入れるか、バットなどに並べてしっかりと密封する。(もしくは、豚肉はパックのまま保存しておき、作る直前に塩、こしょう、薄力粉をまぶしてもOK。薄力粉は直前に振った方が肉同士くっつきづらいというメリットがあるが、自分が楽な方でよい)
  • 2.玉ねぎは薄切りにする。マッシュルームは汚れをふいておく(変色を防ぐため、あとで加熱の直前に割く)。野菜類を保存袋に入れる。生のレモンを使う場合は、それも保存袋に入れる。
  • 3.Aは合わせて器に入れ、1、2と一緒に冷蔵庫に入れておく。保存方法は、バットにまとめて並べたり、保存容器に入れたりとお好みの方法で。

豚のレモンクリーム煮の材料をセットしたところ

  • 4.調理する直前に1と2を冷蔵庫から取り出し、ホットクックの内鍋に入れる。マッシュルームは軸から手で2等分に割いて入れる。加熱すると肉がくっつきやすいので、肉と肉の間に野菜とマッシュルームを挟むようにして交互に並べるとよい。上からレモン、Aを加える。

豚のレモンクリーム煮の材料を鍋に入れたところ

  • 5.ホットクックのふたの内側にまぜ技ユニットを付け、メニューから「自動調理→煮物→野菜→白菜のクリーム煮 約20分」を選択し、スタートボタンを押して加熱する。加熱後、肉の火の通りが弱いときは5~7分延長する。出来上がったら器に盛り付け、お好みで刻んだパセリをかける。

豚のレモンクリーム煮の加熱後

👉長時間の保温には適していないレシピなので、このように材料の下準備だけ先にして冷蔵庫に入れておき、食べるタイミングに合わせて調理を開始しましょう。

また、実はこのレシピは「朝時間がない」という方でも大丈夫! 休日や時間があるときに材料を切って、調味料と一緒に冷凍保存OKのチャック付き袋に入れて冷凍しておけば、自家製の「冷凍ミールキット」としても使えます。帰宅後、袋ごと流水で少し溶かしてほぐし、ホットクックに入れて、後は同じようにスイッチを押すだけ。冷凍されていた分、合計調理時間は少し長くなりますが、同じキー操作で時間はホットクックが自動で調節してくれるので安心です。

ホットクックが加熱している間は、余裕があればその間にもう一品サラダや副菜を作ったり、もしくはお風呂に入ったりと、ゆったりと時間を使えます。

在宅ワークの昼休み中からじっくり仕込む、味の染みた「おでん」

おでん

コロナ禍の影響もあり、在宅ワークがメインとなった方も多いですよね。自宅勤務なら、昼休みに仕込んでそのまま調理開始することも可能。せっかくなので、手間は少なく、長時間煮込むことでおいしくなる煮込み料理や、作ってしばらくおいた方が味が染みておいしい料理などにチャレンジしましょう。ホットクックは自動的に食材の火の通り具合を見て火加減を調節してくれるので、中まで味が染みたおいしい煮込み料理が作れます。

今回ご紹介するのは、秋冬にぴったりな「おでん」。市販の白だしを使えば手軽に作れて、下ゆで無しでも柔らかくて味が染みた大根や練り物のおいしさは格別です。夕飯にはもちろん、家飲みのお供にもぴったりです。

おでんの材料(4人分)

  • 大根:1/3~1/2本(約500g)
  • じゃがいも:2個
  • こんにゃく:小1枚
  • 焼きちくわ:2本
  • さつま揚げ:4枚
  • 結び早煮昆布:4~6個
  • ウィンナー:4個
  • 卵:4個
  • A
    • 白だし(10倍濃縮タイプ):70ml
    • 水:4カップ

おでんの材料

おでんの作り方

  • 1.大根は皮をむいて厚さ2㎝の輪切りにする。じゃがいもは皮をむき、水にさっとさらして水気を切る。ちくわは斜め半分に切る。こんにゃくは三角形になるよう4等分に切り、表面に浅く5mm幅間隔で格子状に切り込みを入れる。(またはおでん用のこんにゃく、玉こんにゃくでもOK)
  • 2.ホットクックでゆで卵を作る。卵と水1/2カップを内鍋に入れ、自動調理キーの「ゆで卵」で加熱する。約15分でスイッチが切れるので、冷水に取り、殻をむく。

ゆで卵

  • 3.ホットクックの内鍋に1の大根、こんにゃく、結び昆布、練り物、じゃがいも、ゆで卵の順に入れて、Aを注ぐ。水位線の下になるよう水分量は調節する。(ウィンナーは味が抜けてしまうので、できれば後で加える)ゆで卵もあまり固くしたくない場合はここで入れず、一旦冷蔵庫に入れておく。

おでんの材料を鍋に入れたところ

  • 4.「自動調理メニュー→煮物→おでん」で加熱する。約1時間5分でスイッチが切れる。ウィンナーは、残り時間10~5分前になったら一時停止して加えるか、もしくはスイッチが切れた後に加えて5分延長する。(ゆで卵を冷蔵庫に入れていた場合も、このタイミングで加える)
  • 5.食べるタイミングで器に盛り、お好みで練りがらしを添える。

おでんの加熱後

👉じゃがいもやウィンナーは、お子さんのいるご家庭にもおすすめの具材。煮崩れを防ぐためにはメークインなどを使うか、もしくは大きめのものを丸ごと加えるといいでしょう。加熱後に、半分に割って取り分けます。

具材は材料に挙げたもの以外でもお好みでOKですが、鍋の容量を超えないようにし、膨らみやすい練り物の入れ過ぎにはご注意を。特にはんぺんなどはだしを吸うと膨らんでふきこぼれの原因となるので、ホットクックで作る場合は入れないようにしてください。

昼休み中に仕込んでおくレシピとしては、おでんのほかに煮豚、ビーフシチュー、ブイヤベースなどのメニューも、ホットクックでの加熱時間は長いものの鍋に入れるまでの準備は簡単なのでおすすめです。

帰宅後すぐできる「トマトリゾット」は、ごはんを炊いていないときにも!

トマトリゾット

最後は、朝や昼間に仕込む時間がなく、帰宅後に短時間で完成させたい人におすすめの「トマトリゾット」です。

リゾット、パスタなどのメニューは、短時間でできる上に「主食がない!」という時に大助かりのメニュー。特にリゾットは、フライパンなどで生の米から作るのはハードルが高いのですが、ホットクックなら失敗なしで20分前後で完成します。

トマトリゾットの材料(2~3人分の作りやすい分量)

  • 米:1合
  • ベーコン:3枚
  • ブロッコリー:6房
  • A
    • トマト水煮缶(カットタイプ):200g
    • 水:2カップ
    • コンソメ(顆粒):小さじ3
    • にんにくすりおろし(又はみじん切り):小さじ1
    • オリーブ油:大さじ1
  • 塩、ブラックペッパー、粉チーズ:各適量

トマトリゾットの材料

トマトリゾットの作り方

  • 1.米は洗ってざるに上げて水けを切り、内鍋に入れる。
  • 2.ベーコンは2cm幅に切り、ブロッコリーは小房に分け、1に加える。さらにAも加える。

トマトリゾットの材料を鍋に入れたところ

  • 3.「自動調理メニュー→煮物→米→トマトリゾット(約20分)」で加熱する。
  • 4.スイッチが切れたら塩で味を調え、器に盛り、粉チーズとブラックペッパーをかける。

シーフードトマトリゾットの加熱後

👉ベーコンの代わりにハムやウィンナーでも、ブロッコリーの代わりに冷凍ミックスベジタブル、アスパラ、いんげんなどでもOK。

スピード仕上げのためには、切る手間が少ない食材やカット野菜などを活用するのもおすすめです。

ホットクックで作れるレパートリーを増やす、使いこなしのコツ

ホットクックを活用するには、とにかく最初に「調理機能別に、一度はいくつかの料理をレシピを見ながら作ってみる」のがおすすめです。最初に使わないまま時間がたってしまった機能は何となく分からないまま、その先も使わずに終わってしまう、というのは、調理家電ではよくありますよね。

ホットクックは「普通の鍋に比べて水分量が少なくて済む」という特徴があるため、レシピ通りではなく自分なりのアレンジを加えて使いこなそうとすると、加減がなかなか分からないものです。なので、何度か公式レシピやレシピ本の料理を作ってみて、加熱時間や機能の特徴をつかんでみてください。

例えば、一度は作ってほしいものは、以下のラインアップです。

  • 野菜の水分のみで長時間煮込んで作る無水カレー
  • 野菜スープ、ポタージュなどのスープ類
  • 肉じゃが、筑前煮などの煮物系
  • 煮豚など、長時間煮込む料理
  • ホイコーローなどの炒め物
  • パスタ
  • リゾット
  • (余裕があれば)ケーキ、蒸しパン類
  • そのほか、予約調理メニュー(公式レシピからお好みのものを)

いろいろな機能を使っているうちに、ホットクックの特徴や、材料、調味料、水分、使う自動調理キーと加熱時間の特徴がだいぶ理解できるはずです。

特に、意外と使えるので活用してほしいのが「炒める」機能と「蒸す」機能です。

炒める機能は煮物や煮込みなどのキーで調理するときよりも、高温でしっかり混ぜてくれるのが特徴です。あまり水分を出さずに調理したい炒め物などに使えます。

蒸す機能はホットクックの内鍋に水を入れ、上に付属の蒸しトレイを乗せて蒸し器やせいろのように使います。野菜、肉、魚、なんでも蒸して下ごしらえしておくと、サラダ、和え物、スープの具などにアレンジしやすいおかずの素ができます。蒸すことで、おいしさもアップしますよ!

***

シャープの公式サイトでも新しいレシピが随時更新されているので、お好みのレシピを検索してみるのも良いですし、困ったら私の著書も参考にしてくださいね。

忙しい日々の夕飯作りを楽にしてくれるのはもちろん、献立のバリエーションも豊かなホットクック。ぜひ、おうちごはんを充実させて、毎日を乗り切るパワーにつなげてみてください。

編集/はてな編集部

テレワーク中の食事、できるだけ手間をかけないために

著者:阪下千恵

阪下千恵

「家事の効率化と家族間シェア」をテーマに活動する料理研究家・栄養士で2児の母。ホットクック、ヘルシオなどの調理家電、片付け、弁当、子供クッキング、糖質オフレシピなど、著書多数。2021年12月には、新刊『ホットクックで作るときめきアジアごはん』(日東書院本社 )も発売。

Twitter:@chie_sakashita Instagram:@chiesakashita YouTube:料理研究家 阪下千恵のMIKATA KITCHEN