「やめる」で思い悩むのを、やめた|岡田育

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誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、文筆家の岡田育さんに寄稿いただきました。

2年前に著書『40歳までにコレをやめる』を出版した岡田さんがその後さらにやめたのは、「“やめる”について思い悩み過ぎること」。

「ハイヒールをやめる」「化粧をやめる」など、著書で紹介したさまざまな「やめる」の中には、宣言通りやめたことも前言撤回したこともあるといいます。「やめる」は0か100かの大きな決断ではなく、スイッチをオン/オフするようなもの。その発想の転換が、心を少しだけ軽くしてくれました。

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「やめる」は「ズルい」?

39歳のとき、『40歳までにコレをやめる』というタイトルの本を出版した。シンプルライフに憧れつつ実際にはなかなかモノを捨てられない私が、せめて心の重荷だけでも手放して身軽に生きたい、と思って書いた本だ。ハイヒールをやめる、ポイントカードをやめる、お酌をやめる、敬語をやめる、年賀状をやめる、などなど、各章で宣言するテーマを考えるだけでも気持ちがスッキリしたものだ。

ところがこの本について、少なからず否定的な感想も受け取った。意外だったのは「そんなの真似できない」という声。「クルマの運転をやめるだなんて、自家用車しか生活の足がないうちの地元では、まず無理だ」と言われれば、それは確かにその通り。でも、私が個人的にやめた39項目を全部その通りに真似しろと書いたつもりはなかった。あなたの周囲にも、あなたなりの「やめられる」項目が見つかるはず。私の挙げた事例が、そのヒントになればと思ったんだけれどな。

そのうち、胸に突き刺さるような感想も見つけた。「みんなやめたくてもやめられないことだらけなのに、何でもかんでもやめてしまう人はズルい」「いろいろ我慢して真面目にやり続けてきた自分が、責められている気がする」といった声だ。著者の私は「ズルい」と言われてもへっちゃらだけれど、これってつまり、「みんながやめずにいることを私だけがやめたら、誰かに『ズルい』と責められそうなのが怖くて、できない」という苦しみの吐露ではないだろうか? だとしたら、そう書いた人たちを抱きしめてあげたくなる。

書店の売場には「やる」と「やめる」を奨励する本が溢れている。そのうち一冊を、私も書いた。やめた方がラクになれると頭でわかっていても、なかなかやめられないことがある。そんなつらさを抱えた人こそが、まさに想定読者だった。何でもかんでも全部「やれ」と押しつけてくる世間に反旗をひるがえそうぜ、そして無用の「やらねば」から解放されようぜ、と誘う本だったのに、やめられない人たちに「やめなければ」とプレッシャーを与えて「できない」気持ちにさせたのでは、本末転倒だ……、と考え込んでしまう。

決めた通りに生きられないからこそ

ところで私はひどく不真面目な人間なので、「やめる」さえも「やめる」ことがある。『40歳までにコレをやめる』に書いた項目の幾つかを、41歳の今も、やっているのだ。「もうダイエットはしない」とうそぶいたのに、最近めっきり贅肉が落ちづらくなり、適正体重オーバーが続いて慌てて運動を始めた。「もうハイヒールは履かない」 も一年のうち350日くらいは事実だけれど、たまにはおめかしもしたくて新しい9cmヒールを買ってしまった。極めつけは「日本に住むのをやめる」宣言だ。2020年から続く新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、米国ニューヨークの自宅はそのままに、年の半分近くを東京で過ごす二拠点生活が続いている。

言ってることとやってることが違うぞ! と怒る人もいるかもしれないが、私が不測の事態をあるがまま受け止め、人生設計を細かく仕切り直すことができたのも、「やめる」本を書いて気持ちを整理整頓しておいたおかげである。パンデミックで仕事が吹っ飛び、平穏な日常を脅かされ、移動の自由まで制限されると、誰だって無力さを痛感させられる。思い通りに「やりたい」ことが実現できないとき、己の核となる部分を支えてくれたのは、たった一人でもすぐに始められる、ささやかな「やめる」の積み重ねだった。臨機応変、我慢せずにルールを改訂して、さらなる「不実行」を自分に許したのだ。

ここで言う「やる」「やめる」は、0か100かの大きな決断ではなく、さながらスイッチをオン/オフするようなもの。電気を消してもスイッチそのものは消えずにそこに残るし、押せばいつでもまた灯りが点く。最新の照明器具には、もっと細かい色や明るさの調節機能も搭載されているかもしれない。今まで98%ギラギラに輝かせていた「やる」のエネルギーを、試しに23%くらいまで絞り込んでみる。オフィスフロア全体の蛍光灯を点けるより、手元のデスクライト一箇所だけに絞った方が集中力が高まることがある、あの感じだ。

いきなり全部をやめなくてもいい。例えば「化粧をやめる」を実践するとき、洗面台に並んだメイク道具を全部ゴミ箱にぶち込んで明日から突然「0」にする必要はない。在宅作業でリモート会議もない日は、洗顔保湿したままのすっぴんで働く。眼鏡を掛ける日はアイメイクを省略する。終日内勤でマスクつけっぱなしの日はファンデーションは塗らない。そんなところから薄化粧を始めると、ノーメイクで過ごす時間に慣れていく。「やめる」を「一時停止」、あるいは「保留」「ミュート」と捉えれば、いつでも好きなときに「再開」だってできるんだ、と少し心が軽くなる。できればその全てを、自分自身が下したポジティブな決断だと捉えていたい。

「自炊をやめる」と豪語したはずの私も、コロナ禍ロックダウン中はせっせとスーパーに通い、調理器具を買い足して窓辺で豆苗など育てながら、頑張り過ぎない「『自炊をやめる』をやめた」(?)生活を楽しんだ。反対に、このタイミングで便利なデリバリーやテイクアウト、家事代行サービスなどの活用に目覚めた人も多いのではないか。各家庭によって事情も予算もさまざまだろうが、長引くステイホームで「家事をやめる」省力化が今まで以上に注目を浴び、重視されるようになった。必要なものを選び取り、古くなったものを捨てて、都度「やる」と「やめる」を切り替えていく。そうして新しい生活様式を模索することについて、外野から「ズルい」だなんて言う人は、昔よりずっと減ったに違いない。

ラクになれるなら、「やる」でも「やめる」でもいい

やめたいことを好きにやめられない理由は何だろう? 暗黙のルールが敷かれているから? 一人だけ違う選択をすると周囲の目が気になるから? やりかけのまま途中でやめるのはよくないことだと親や先生に教わったから? でも実際のところ、私たちが自分の「やめる」スイッチに手をかけて、ごくごく私的なエネルギーを出力調整することを、誰も責めたりはしない。それが責められる社会であってはいけない、と思う。「熱があったら大事をとって仕事を休む」と同じくらい、自己判断こそが大切なのだ(つい最近まで、我慢して出勤する方が美徳とされた時代があったなんてね!)。

市中感染リスクが弱まり、ふたたび外出できるようになった時期、素敵なおばさまと知り合った。コーヒーをすすめたら「ありがとう、でもわたくし、良質な睡眠のために16時以降はカフェインを摂らないことにしているの」と断られる。美容と健康を維持するためのマイルールを貫いて、流されない。キリリとカッコいい80代の女性だ。ところが我々がお茶請けの菓子を広げ始めると、ややあってから「んー、やっぱり美味しそうだから私も飲んじゃおっかな?」とおどけた表情でコーヒーを追加注文した。じ、柔軟だな……とズッコケる。厳格な決まり事を、時にみずからの手で破壊する快感をも知っている。自分の生き方のスイッチを、全て自分で握っている。やっぱりカッコいい大人だった。

「16時以降にコーヒーを飲むのはやめる」習慣を守る人が、そのルールを破ったとして、それは「飲みたいときに飲みたいものを飲む」新習慣の始まりになるだろうか。あるいは「時刻に縛られるのをやめる」発想の転換とも表現できる。デカフェのメニューを置く喫茶店がもっと増えれば、大好きなコーヒーを飲みながら「カフェインの摂取をやめる」だって実現可能かもしれない。明日から「ハーブティーを飲む」を始めたっていいし、それが三日坊主に終わったら、少なくとも72時間は「コーヒーをやめる」を継続できたと達成感を味わえばいい。

長い人生、ずっと望んだ通りには生きていられない。加齢とともに「できない」ことだって増えていくからこそ、可能な範囲での「やる」「やめる」の自己決定権を、ますます大切に感じている。今よりもっとずっと自分がラクになれる方法を探す。変化を恐れずに、個人の意志を大切に、何か新しいことに自覚的に挑戦する。肩の荷が少しでも下りる方へ、つらさや苦しさが取り除かれて事態が好転する方へ、未来へ未来へ進んでいけるなら、その舵取りの掛け声は、「やる」でも「やめる」でも、どちらでも構わないのだ。

案外続く「やーめた」を増やす

ずっと続けていたことをふと思い立ってやめてみたり、逆に、今までやめていたことを諸事情により再開したり。それが楽しかったり、しんどかったり。毎日が、試してみないと分からない変化の繰り返しだ。自分だけの「やめる」スイッチを手元であれこれいじっていると、生きるのが少しラクになる瞬間に気づく。歩んできた道程にはたくさんの、案外長く続いた「やっぱりやーめた」があちこちに転がっていて、いくつかは後悔の味がするかもしれないが、ほとんどはすっきりと前向きな気持ちにさせてくれる。何でもかんでも好き勝手にやめる人は、ズルい? むしろ、そういう決まりなんだから、みんなが同じに合わせているんだから、と我々の主導権を奪おうとする連中こそ切り捨てるべきじゃないか……?

というわけで、かつて「やめる」本を書いた私が、時を経て今さらに実践しているのは、「やめることについて、過去の自分や周囲の他人と比べて、あれこれ思い悩み過ぎることを、やめる」である。「やめる」を怖がることはない。それは真っ暗な虚無へのダイブではなく、枕元の強過ぎる灯りをちょうどいい具合に落とすような行為だ。「やめられない」を気に病むこともない。あなたのスイッチはあなた自身が握っている、その確信さえ持てていれば、時には周囲の状況を見回して、ちょっとルールを曲げたって構わない。今夜はまず、「思い悩む」のスイッチをオフにして、ぐっすり眠ってみませんか。私にとって、あなたにとって、ちょうどよく絞られたそれぞれの薄灯りに照らされながら。

著者:岡田育

岡田育

文筆家。著作に『我は、おばさん』、『40歳までにコレをやめる』、『天国飯と地獄耳』、『ハジの多い人生』、『嫁へ行くつもりじゃなかった』、『オトコのカラダはキモチいい』(二村ヒトシ、金田淳子との共著)。推しミュージカル俳優は石川禅、鹿賀丈史と轟悠。
サイト:https://okadaic.net Twitter:@okadaic

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編集:はてな編集部