後悔したくない。だから南極に行くーー「悪魔のおにぎり」を生んだ調理隊員・渡貫淳子さん

渡貫さん

第57次南極地域観測隊の調理隊員として2015年12月から約1年4カ月、南極・昭和基地で生活した渡貫淳子さん。調理専門学校を卒業後、同校の日本料理技術職員としてキャリアをスタートさせ、退職後もさまざまな飲食店で料理の仕事を続けてきました。

出産後は家事と育児に勤しんでいたところ、新聞記事がきっかけで調理隊員という仕事に焦がれるように。粘り強く挑戦を重ね、40歳のとき*1、ついに選考に合格。女性としては2人目、お子さんがいる女性では史上初の調理隊員となります。

氷点下45.3℃、日本からの距離1万4,000kmという南極・昭和基地での単身赴任を選んだ理由、南極での生活、隊員の心とお腹を満たした「悪魔のおにぎり」誕生の背景などについて教えてもらいました。

「私、この人たちにご飯を作りたい」という思いでの挑戦

渡貫さんは南極地域観測隊の調理隊員として、41歳で南極に派遣されたそうですね。2009年に公開された映画『南極料理人』を観たこともきっかけと伺いましたが、どんなところにひかれたのでしょうか?

渡貫淳子さん(以下、渡貫) 一番は、南極に集う人たちの魅力ですね。堺雅人さんが演じた役の調理隊員になりたいというより、「隊員の皆さんと一緒に働きたい」「この人たちにご飯を作りたいな」って猛烈に思ったんです。

出産前は料理の仕事をされていたそうですが、それにしても、かなり大胆な方向転換ですね。

渡貫 そうですね。料理人として経験を積んでいくうちに、自分は星付きレストランのシェフになりたいわけではなくて、寮母さんや大家族のお母さんみたいな……日常に密接した料理を作る環境が向いているし、やりがいを感じるなって悟ったんです。南極観測隊の世界はまさに理想の職場そのものだったんです。なので、南極に憧れたというよりは、「職場」として考えていましたね。

ただ、調理隊員になったら1年あまり家族と離れ離れ。ご家族の理解も不可欠ですよね。

渡貫 はい。南極に行くにあたっては、きちんと正直な気持ちを伝えました。ダメと言わずに認めてくれたことに感謝していますね。

渡貫さん

3度目の正直で、念願だった南極地域観測隊の調理隊員に

とはいえ、すんなり一発合格とはいかず、年に1度の選考に2度落ちてしまった。心が折れそうになりませんでしたか?

渡貫 それはなかったです。まず狭き門だというのは分かっていたので、1度目で受かるとは思っていませんでした。それと、むしろ2度目に落とされた時に、エンジンがかかりましたね。諦めが悪い性格も相まって、逆に悔しさをバネにモチベーションが高まりました。

渡貫さんが合格されるまで、調理隊員として女性が参加をしたのは、過去にお一人しかいなかったようですが、性別や年齢の壁……といったものは感じましたか?

渡貫 少なくとも試験を受けている間は、そういったことはありませんでした。でも、性別について言えば、後になって知ったことですが、ある男性隊員の方が「女性が多いと自分たちの負担が増える」とおっしゃっていたそうなんですね。

うーん、それを言われてしまうとなぁ……。

渡貫 ただ、それも一理あるんですよ。南極での生活はどうしても力仕事と無縁ではいられません。確かに同じ力仕事をしても明らかな差があり、努力でカバーできることでもないですから、現実問題として、女性であることがウィークポイントになってしまうのかなとは思いました。そこで張り合っても仕方がないことなので、合格するために自分ができることを模索し続けました。

3年目、3度目のチャレンジで合格されたそうですが、何が勝因だったと思われますか?

渡貫 1度目は書類審査で落ちたのですが、何がいけなかったのか分析したところ、履歴書に実務経験しか書いていなかったんです。それで、2度目以降は「隊員にこんなご飯を食べさせてあげたい」といった、「自分が南極で何ができるのか」を書き足しました。3度目の挑戦でなぜ合格できたかは、本当のところは分かりません。

ただ、面接で必ず聞かれる「今回落ちたらどうしますか?」という質問に対して、間髪入れずに「来年もまたこの場に来ます」って答えていました。そう考えると、粘り強さが功を奏したのかもしれませんね。

「お腹を満たす」ではなく、「心を満たす」ことが大切

越冬期間の約1年間は、休みなく毎日3食を作ることになりますよね*2。不安を感じませんでしたか?

渡貫 いえ、調理自体への不安は一切なかったですね。社会人になってからほぼ調理の仕事をしていましたし、一箇所じゃなくて業種にこだわらずに興味のあるお店で働いていましたから、バリエーションにも自信がありました。

唯一の懸念点は、南極では食材の補給ができないこと。食材を運べるのは日本を出国する前、南極観測船「しらせ」に物資を積み込むときの1回だけ。そこで、越冬する30人ほどの食事を1年分まかなえる食材を全て持ち込まなくてはいけなかったんです。

どんどん食材は減っていくのみ、ということですよね。大変過ぎる……!

渡貫 本当に。なので、一度作ったカレーをドリアやスープにアレンジして飽きないようにしたり、見た目を変えたりする工夫が必要。そこは主婦としてのスキルが生きたかもしれません。

調理師それぞれの経験によって得手不得手があるものなんですね。

渡貫 調理隊員は1度に2人派遣されるのですが、私の相方さんはフレンチの料理人でした。基本的に、南極に派遣されるのは専門性を持った料理人ばかりです。ちなみに、観測隊は誕生日や季節の行事をしっかり祝う慣例があり、相方さんはパーティ料理を大きなお皿に盛り付けるのが抜群に上手で、勉強になりました。私は和食が専門なので、日本の家庭料理が得意でしたね。

渡貫さん

南極・昭和基地の厨房で調理をする渡貫さん

渡貫さんが南極生活の中で生ゴミを減らす工夫の一つとして考案し、テレビ番組で紹介された天かす・あおさのり・天つゆを使った「悪魔のおにぎり」はSNSでも反響を呼んでいます。これも、家庭料理を得意とする渡貫さんならではの料理だったそうですね。

渡貫 実は「悪魔のおにぎり」って、もとを正すと、天つゆや天かすを混ぜ込んだ「たぬきむすび」という静岡で親しまれていた食べ物なんです。ただ、SNSなどを通じてたくさんの人に受け入れられたのは、同僚の隊員が「悪魔のおにぎり」と名付けてくれたからだと思っています。同僚に感謝ですね(笑)。

その隊員さんは、南極・昭和基地で夜な夜な1人で除雪作業をしていて、絶望的な気持ちになりそうだったところ、渡貫さんが作った悪魔のおにぎりを食べて小さな幸せを感じていたとのこと。

渡貫 食事って、単にお腹を満たせばいいわけではなく、心を満たすことが大切だと思うんです。夜、孤独な作業にあたる隊員さんに対して、「夜食に何か食べてもらいたい」という作り手の思いが伝わったからこそ、幸せな気持ちになってもらえたんじゃないかなと。それは、南極だからということだけではないですし、高級食材や贅沢な料理でなくてもいいんです。

悪魔のおにぎり

悪魔のおにぎり

「心で食べる」からこそ幸せな気持ちになる。

渡貫 そう思います。私はどちらかというと何を食べるかよりも、みんなで同じ食事を、同じ時間に、同じ場所で食べることの方が重要だと思うんです。「同じ釜の飯を食う」じゃないですけど、仲間同士でしょうもない話をしながら食卓を囲む時間が必要です。実際、隊員たちもアイドルの話とか、帰還後の生活を妄想したトークとか、他愛もない会話ばかりしていました。

南極観測隊って「猛者の集まり」というイメージだったので、ちょっとほっこりします。

渡貫 そんなもんですよ(笑)。でも、自然体でいられるのは、やはり食事を囲んで生まれるコミュニケーションがあるからこそだと思います。「少なくとも私たちは同じ時間を共有している」という気持ちが一体感を生むのかなと。

大の大人でも、喧嘩はします

ただ、赤の他人が1年以上同じ場所で暮らすわけですよね。人間関係がこじれたり、喧嘩したりなんてこともあるんじゃないですか?

渡貫 私は喧嘩しましたよ(笑)。

えっ!

渡貫 最初はみんな遠慮しているんですけど、慣れてくると言いたいことを遠慮なく言うようになってくるんです。あの人のあそこが許せないとか、いろいろと出てくるわけです。

渡貫さん

でも、任期中は同じメンバーで過ごすわけですし、ずっとギスギスしたまま……というわけにはいかないですよね。

渡貫 ええ。ただ、私と一緒に滞在した越冬隊の平均年齢は大体40歳くらい。日本での職場だったら、すでに一定の地位を確立されている方もいるような年代です。そりゃぁ、プライドもあります。幼稚園児の喧嘩みたいに「ごめんねー!」「いいよー!」では済まないのが大変なところで(笑)。

面倒くさそう……ですね。

渡貫 確かに大人ならではの面倒くささはあります。ただ、やはり30人で助け合いながら毎日生活していると、やがて相手を理解してリスペクトする姿勢が大事だと悟っていくんです。ですから、お互いにいろいろと思うところはあっても、意識的に「ありがとう」や「助かった」は、きちんと言葉にして伝え合うようにしていましたね。

感謝の気持ちを伝えるのは、どこの職場でも、暮らしの中でも大切ですよね。ちなみに、渡貫さんが南極の生活を通して成長を感じたことはありますか?

渡貫 成長したかというと……してないかも(笑)。ただ分かったのは、日本での日常が無駄じゃなかったこと。職場での人間関係や家族との関係を大切に築いていくために自分が意識してきたこと、行動してきたことを生かせたとは思います。

南極生活とのギャップで、帰還後しばらくは苦しんだ

帰還後は、南極での生活と日本での生活のギャップが大きく、しばらく「南極廃人」なる状態になられたとか。

渡貫 かなり苦しかったですね。体調がとにかく悪くて、南極にいた頃は一定だった生理周期も不順になったり、身体のあちこち痛かったり、暑くもないのに汗をかいたり。いま振り返ると、身体の不調というよりも、どちらかというとメンタルがやられたんだろうなと。

どのように克服されたのですか?

渡貫 少しずつ現実を認めるというか、時間をかけて日本での日常に慣れていった感じですね。例えば、南極だと生活排水はルールに基づき処理するようになっていて、日本のように排水できないんです。そうした細かい生活方式ひとつとってもまったく違うことが、知らず知らずのうちに気持ちを苦しくしていたのかもしれません。

南極に行く前は「当たり前」だったことが、南極生活を経たことで「違和感」になってしまった……。

渡貫 なので、自分の中で「南極と同じように暮らせない現実」を消化するまで時間がかかりましたが、「同じように暮らせない」と諦めたことで気持ちが楽になり、いつの間にか体調も回復しました。

渡貫さんにとって、「南極」の魅力はどこにあると思いますか?

渡貫 ここまで南極に思い入れを持つ理由は、ペンギンでもなければアザラシでもなく、雄大な自然でもありません。やはり観測隊のメンバーとの毎日があったからこそ。それは人間関係の煩わしさも含めてです。もし、皆で同じ目標に向かって品行方正に頑張っていただけだったら、こんなにも思い出には残らなかったかもしれません。

ここまでお話を伺ってきて、渡貫さんは人生の「軸」をしっかりとお持ちだと感じたのですが、昔から強い意志や信念をお持ちだったのでしょうか?

渡貫 いや、南極地域観測隊を知るまではモヤモヤフワフワしてましたよ。料理は好きでしたが30歳を過ぎてからようやく「きっとずっと料理で食べていくんだろうな」と思ったくらい。それまでは、是が非でもやりたいようなことも特にありませんでした。それなのに、南極はのめりこんじゃったんですよね。南極に関してはなりふり構わず、すごいエネルギーを発揮できた。自分でも不思議なんです。

理屈ではなく、突き動かされるものがあったんですね。

渡貫 私は理論的に考えるタイプではないので、「後悔するかしないか」で決めただけなんです。後悔したくないから南極に行く、以上! みたいな(笑)。

渡貫さん

ただ、新しいチャレンジをしてみたいと思っても、自信がなかったり周りの声に迷ったりして、渡貫さんのように一歩踏み出せない人も少なくないはずです。

渡貫 もし迷いがあるなら、何もしなくていいと思うんですよ。無理にことを運ぼうとしてもいいことはないし、変に頑張って逆にストレスになるのは本末転倒なので。迷ったときはペンディング、でいいんじゃないかな。

なるほど。迷いがあるときはまだベストなタイミングではないのかもしれませんね。渡貫さんの考え方、生き様に励まされます。最後に、これからのことを教えてください。

渡貫 いまはご縁があった企業で、商品開発に従事しています。昨日はいろいろなタイプの卵焼きを焼いていましたね。私は料理のスキルでは一流のシェフに敵いません。なので「渡貫と一緒に仕事をしたい」と、人間として一緒に仕事をしたいと思ってもらえる人になりたいです。

ただ、南極にまつわるお仕事も引き続きやっていきたくて……。実のところ私のわがままで正社員ではなく準社員で働かせてもらっています。しばらくは商品開発をしながら、南極ではたらく素晴らしさを伝える人として活動したいですね。50歳を超えたら寮母さんにもチャレンジしてみようかな、なんて思っています。

* * *

著書『南極ではたらく かあちゃん、調理隊員になる』発売中

南極ではたらく:かあちゃん、調理隊員になる

第57次南極地域観測隊の調理隊員として過ごした南極での暮らしのことをつづった本著。南極へ向かうまでの準備や訓練のこと、限られた食料や設備の中で料理をする上でのポイント、南極生活で発見したエコロジカル&サスティナブルな料理術、南極生活の中で印象的だったできごとのほか、普段はなかなか知ることができない昭和基地の交通事情、建築物の様子なども紹介しています。

取材・執筆/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/松倉広治

お話を伺った方:渡貫淳子さん

著者イメージ

1973年生まれ。伊藤ハム株式会社商品開発研究室所属。「エコール辻東京」卒業後、同校日本料理技術職員に。出産後は一児の母として家事・育児に奮闘する日々を送ってきたが、一念発起して南極地域観測隊を目指す。3度目の挑戦で合格を果たし、2015年12月から2017年3月までの間を南極・昭和基地で過ごす。2018年6月に放映されたテレビ番組で、南極生活の中で生み出した「悪魔のおにぎり」が反響を呼ぶ。2019年1月には南極での生活をつづった『南極ではたらく かあちゃん、調理隊員になる』(平凡社)が発売された。

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次回の更新は、2019年3月13日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:文科省発表時。日本出発時は41歳

*2:南極観測隊には一緒に日本を出国し先に帰還する「夏隊」と、夏隊が帰還されたあとも滞在を続ける「越冬隊」があり、夏隊も滞在している時期は海上自衛隊の給養員と呼ばれる人が主に食事を用意する

マンガ『1122』渡辺ペコさんの結婚観 「何でも、夫婦ふたりで取り組める人を選ぶ」

渡辺ペコさん

マンガ『1122』(講談社)の作者・渡辺ペコさんにインタビュー。

主人公は結婚7年目の一子(いちこ)と二也(おとや)。仲良しだけどセックスレスというふたりが選んだ「公認不倫」を軸に、「いい夫婦とは?」を問いかける本作。

渡辺ペコさんが作品に込めた想いやご自身の結婚生活、多様性が生まれつつある「結婚」についての考えなどを伺いました。

「誰と、どうやって生きていくのか」を描きたい

渡辺さんの作品は『1122』のほかにも、『にこたま』(講談社)の同棲カップルなど、「付き合いが長くなった男女間の感情のズレ」を軸にした物語が多い印象を受けます。

渡辺ペコさん(以下、渡辺) テーマとして意識しているわけではないんですが、これまでの題材を振り返ってみると、「パートナーシップ」や「家族の多様性」に触れることが多いですね。もともと、恋愛など感情がウァーッと動く、ドラマチックな物語をつくるのが得意ではないんです。もっと生活のベースとなる、「誰と、どうやって生きていくのか」を描きたくて

『1122』も、「過激な不倫モノではなく、あくまで夫婦の物語」という気持ちが強いと、過去のインタビューで語られています。

渡辺 そうですね。今作では主人公である一子と二也のほか、二也の不倫相手である専業主婦・美月と志朗の夫婦についても描いていますが、それぞれのキャラクターの魅力的なところもきちんと見せたいと思っています。

美月の不倫は、彼女だけの問題じゃないと思うんです。美月の夫・志朗は、モラハラっ気がある人で、美月には不倫に至るまで、夫への不満の積み重ねがあった。そういった夫婦関係の歪みも、きちんと物語にしたかったんです。

『1122』 (C)渡辺ペコ/講談社
http://morning.moae.jp/lineup/692

主人公の一子・二也夫婦は、ふたりで生きていくことを前提として「家庭外恋愛OK」の契約をしています。ふたりのように、事前に結婚生活について取り決めることを、渡辺さん自身はどう思いますか?

渡辺 相手に対しての思いやりが次第に欠けて、なあなあになってくることってありますよね。それぞれの欠けている部分を話し合って、補いながら「わたしたちはこうしようね」と契約するのは、悪いことではないんじゃないかと思います。

例えば「どこからが不倫か」という認識が夫婦間で異なる問題とか、あると思うんです。渡辺さんは、どこまで具体的に言語化するべきだと思いますか?

渡辺 日常会話でも「これは嫌」の意思表明をしたり、ガイドラインを作ったりするべきなのかもしれないですね。わたし自身、そうできたらいいなとは考えるけど、「踏み込み過ぎて、変な空気になると嫌だな」と思って、実際には曖昧(あいまい)にしています。みんな、そういう感じなのかもしれないですね。

ネットは、いろんな人の意見を知ることができる

夫婦間の悩みって周囲に共有しづらくて、インターネットが拠り所になっている人も、きっと多いと思います。渡辺さんの作品にも、一子が深夜にネット検索する様子が描かれていたり、「はてな匿名ダイアリー」や「発言小町」など、具体的なワードがたくさん出てきたりしますよね。作品づくりにあたって、ネットの情報も参考にしているのでしょうか。

渡辺 普通に生きていると、周りは価値観が近い人ばかりになってしまうので、ネットは意識的に見るようにしています。この作品を描く前は「発言小町」をずーっと眺めていました。するとある日、専業主婦の方が「旦那さんが仕事関係の女性と食事に行ったことですごく傷つきました」みたいなことを投稿していて、びっくりしたんです。

食事だけだと……ちょっと判断が難しいですね。まさに「どこからが浮気か問題」。

渡辺 でも、「それは完全にアウトです」なんてコメントがたくさんついていて。「夜、女性とふたりでご飯を食べる=NG」っていう結論が出たことに衝撃を受けましたね。ネットを作品作りの参考にしているわけではないんですが、そういう自分では分からない、いろんな人の気持ちや意見を知ることができるのが面白いと感じます。

『1122』 (C)渡辺ペコ/講談社

渡辺さんの作品は、キャラクターの職業や生活水準など、細かい設定がリアルですよね。このあたりは、ご自身の経験が生きているのでしょうか。

渡辺 わたしはデビュー前に会社員経験がありますが、向いてなくてすぐ辞めちゃったので、あんまり生きてないかな(笑)。最初は書く前にいろいろ調べたりしていましたけど、結局自分で設定を考えることが多いですね。今は自営業なので、一子(フリーのWebデザイナー)みたいにフリーランスの人の方が描きやすいのかもしれないです。でも夫婦ふたりともフリーランスだと世間から共感を得られないかなと思って、二也は会社員の設定にしました。

「結婚」の契約ハードルは高過ぎる

渡辺さんがいま「結婚」や「夫婦」について考えていることを教えてください。

渡辺 不倫は、当事者たちだけに問題があるというよりは、結婚自体の契約ハードルがとても高いことも背景にあるんじゃないかなと感じることがあります。生活、男女関係、性交渉……全部ひとりのパートナーでまかなって満足できる人だけではないですよね。

独身時代の渡辺さんは「結婚」という契約にナーバスになることはありませんでしたか?

渡辺 夫には悪いけど、ありましたよ。結婚したことがないから、契約の本質もどんなものか分からなかったし。若いと、自分自身の性格もまだ分からないじゃないですか。そんな状況で、他人とユニットを組むことに臆病だったんです。自分の輪郭が曖昧なときに、「結婚」という定められた枠に入って、自分を保てるのか不安でした。

若い頃は、本来の自分を取り繕って交際関係を続けていたことも多かったです。でも、本来の自分ではない状態を好きな人と結婚して無理して頑張っている状態がずっと続くなんて、とゾッとしちゃって。「わたし、こんな擬態みたいなこと続けるのやだな」って。

今のパートナーとは、プロポーズを受けて結婚したのでしょうか。

渡辺 どうだったかなあ。彼は比較的「メジャー」な感覚の持ち主なので、結婚を「当然するもの」だと考えていたみたいです。わたしは姓を変えることには抵抗がなかったけど、「ひとりの人とタッグを組んで一生やっていけるのか?責任が重いな……」とは思っていました。結果的にはよかったし、なんとかなっています。

結婚への気持ちを前向きに切り替えられたきっかけは?

渡辺 わたしの両親が、結婚生活に失敗しているんです。なので、もともと夫婦生活に幻想を抱いていなかったのが大きいかもしれないです。夫とも相性がよかったので、安心感など享受できるポイントが多かったんです。あとは何より自分がのびのびいられたことですかね。

社会が変わる過渡期だからこそ、多様な考え方を描きたい

『1122』 (C)渡辺ペコ/講談社

最近は、同意の上で複数のパートナーと関係を持つ「ポリアモリー」や「未婚の母」など、多様な恋愛・家族のかたちを受け入れる流れが少しずつできていると感じます。渡辺さんは、いまの社会の流れをどう思いますか。

渡辺 メディアが既存とは少し違うスタイルを紹介したり、自身のスタイルを語ってくれる人が増えたりしてきたのはよいことですよね。ただ、実際は難しいところもあるのかなと。例えば、未婚のままの出産も認められるべきではあるんだけど、現状は母子家庭は厳しい状況ですよね。経済的にとか。

サポートする制度はあっても、経済的にも社会的にも「しんどい」と感じる方はいらっしゃいそうですよね。

渡辺 そうですね。母親もネットワークをつくるコミュ力とか、頼れる人を夫以外につくることが必要になるけれど、全員ができることかというと、難しいですよね。でも、これから選択肢が増えていくと、もっとゆるやかになっていくのかな?

ちょうど、過渡期なのかもしれませんね。渡辺さんは自身の作品の中で「性の多様化」や「自由なパートナーシップ」を描く際、「これは炎上しそうなテーマかもしれない」とか、臆病になることはありますか?

渡辺 否定的な意見に引きずられることはないですね。ただ『1122』については、不倫に対する嫌悪感を抱く人や、「夫婦なのに婚外恋愛なんてあり得ない!」という意見は、最初に想像していた以上に多かったです。

ほかにも、少し前と流れが変わったことといえば「女性が性について語ってもいい」という空気が生まれてきていると感じます。『1122』では、一子が女性向け風俗店を利用したことを友人に報告するシーンが印象的でした。

渡辺 女性がオープンに話せる環境、本当にいいなと思うんです。一方で、男女ともに性に興味が薄い人もいますし「男だからガンガン攻めていくべきだろう」というのは違う。作中では、性別にかかわらず、いろんな考えの人を描いていきたいと思いますね。

仕事、結婚、家事、出産。何でも「ふたり」で取り組める人を選ぶ

渡辺さんは、月刊連載をしながら子育てもされています。マンガ家としてのキャリアを考える上で、「出産」の選択に悩んだことはありませんでしたか。

渡辺 よく「子供は若いうちに生んだ方がいい」と言われがちですが、わたしは不妊治療を経て、3年前、39歳のときに子どもを生みました。自分の場合は、年齢を重ねてから生んでよかったなと思うんです。もちろん、肉体的には若い方がいいけれど、まだ仕事や精神が安定していないうちは「育児で自分に制約が出たとしても、子どものせいにしないでいられるか」という、自信が持てなかったんです。

実際に子供が生まれて、仕事と育児のバランスはどうでしたか。

渡辺 うちの場合は、夫が育児に対して主体的に動いてくれたんです。私が親を頼れないので、会社員ですが6カ月の育休を取ってくれました。でも今思うと、子どもが生まれてしばらくは、彼に負担が寄っていましたね。家事代行は使ってたけど、ベビーシッターサービスは使わなかったので、もっと「外」を頼ってもよかったのかな? と思います

当時、外部サービスに頼れなかったのはなぜですか?

渡辺 夫婦ともに心のどこかで「まだいける」と思っていたんです。私は在宅仕事だし、子どもは生後3カ月から保育園に入れていましたし、「四六時中ずっと自分で面倒を見なきゃ」とは思っていなかったんですけどね。「大変」が日常になって、感覚がまひしていたのかもしれません

社会が変わってきたとはいえ、まだまだ「結婚・出産で思うように働けない」と悩みを抱く方が多いです。そういった方たちがうまく折り合いをつけるためには、どうすればいいでしょうか。

渡辺 何でも、ふたりで取り組める人を選ぶことかなあ。出産に関しては、まずはパートナーに相談してフォローしあうことですかね。仕事をしながら子どもを育てるのって本当に大変だし、どうしても女性に負担がいきやすい。その前提を共有できる人と結婚した方がいいと思います。そこから説明するの超面倒なので。

話し合いって、仕事なら利害関係があるから冷静になれるけれど、家族だと難しいこともありますよね。

渡辺 大事なことを語りかけたときに、自分と同じ熱量で相手が返してくれるかは分からないですからね。テンションの違いが後を引いたりして……。

『1122』 (C)渡辺ペコ/講談社

家事や育児をやってほしいときに「うまく旦那さんをおだてて」なんて、下手に出ることをテクニックとする傾向もありますが、どう思いますか?

渡辺 対等なふたりの生活のことなのに「気分良くさせて」とか「おだてて」とか、意味分からないですね。もちろん、人として感謝は大事だけど。そんなの必要ない、大人の人を選べばよいと思います。

一方で専業主婦の方は「わたしが全部やらなきゃいけない」と思ってしまう方もいると思います。背負い込まないためにはどうしたらいいでしょうか。

渡辺 お金が満たされていても、精神的に支え合う関係性がないとしんどいですよね。家庭の問題って、全て個人でどうにかできるものではないと思うんです。例えば、夫の帰宅時間は勤めている企業の環境が影響する。男性女性かかわらず、仕事をコントロールしながら、みんなが柔軟に働ける環境が必要では。個人にしわ寄せがいくだけの状況は健全ではないと思います。

家事・育児・仕事って、それぞれに向き不向きがある。女性だから家事適性があるというわけではないし、男性だから仕事が好きなわけでもないし。得意なことにお互い注力できる夫婦関係が築けたら、よいですよね。

取材・文/小沢あや
撮影/小野奈那子

お話を伺った方:渡辺ペコさん

渡辺ペコさんプロフィール北海道出身。2004年『YOUNG YOU COLORS』にて『透明少女』でデビュー。以後、女性誌を中心に活躍。繊細で鋭い心理描写と絶妙なユーモア、透明感あふれる絵柄で、多くの読者の支持を集める。 青年誌初連載となった『にこたま』(講談社)は、三十路手前の同棲カップルの現実を描き、大きな反響を呼んだ。 現在連載中の『1122』は、マンガ大賞2019にノミネートされるなど各メディアで注目を浴びている。
その他の著書に『ラウンダバウト』『ボーダー』(集英社)、『変身ものがたり』(秋田書店)、『昨夜のカレー、明日のパン』(原作 木皿泉/幻冬舎)『おふろどうぞ』(太田出版)などがある。
Twitter:@pekowatanabe

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次回の更新は、2019年2月27日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

『コンビニ人間』著者・村田沙耶香「普通に見える人たちも、じっくり話すと変なところがある」

『コンビニ人間』著者・村田沙耶香インタビュー

『コンビニ人間』で第155回芥川賞を受賞された、小説家の村田沙耶香さん。村田さんの小説には、周囲にうまく溶け込めず「普通でいること」の圧力にさらされる主人公がたびたび登場します。そんな小説を書いている村田さんは、「普通」とどのように向き合ってきたのでしょうか。

「落ちればいい」と思いながら就活していた

村田さんが小説『授乳』でデビューされたのは、23歳のときですよね。まずは、デビューまでの経緯を教えていただけますか?

村田さん(以下、村田) 大学生の頃、文学学校に通いながら小説を書いていたんです。4年生になって就活を一応始めはしたんですが、小説を書き続けたかったので内心「落ちればいい」と思っていて……。

自分が不器用な性格だと分かっていたから、就職したら小説を書くのをサボってしまうかもしれないと思ったんですよね。そんな気持ちで就活していたので当然と言えば当然なんですが、1社を除いて全社不採用になって。

その1社にひとまず就職しよう、とはならなかったんですね。

村田 私が就活していた頃は、ちょうど就職氷河期と言われていた時期で、ただでさえ内定をもらうのが難しかったんです。ただ、その会社では、最初の面接に行った時点で「あなたたちは全員合格です」って言われて(笑)。帰り道、同じ面接に来ていた知らない就活生同士で「ここ絶対やばいよね?」「やめた方がいいよね?」と話し合って。

小説を書いていることは家族に言っていなかったので、「1社しか受からなかったから、バイトしながらゆっくり仕事を探そうと思う」と両親には伝えました。就職氷河期だということは両親も分かっていたので納得してくれて。それから1年間くらいフリーターをしながら小説を書く生活を続けて、新人賞でデビューしたという感じです。

『コンビニ人間』で芥川賞を受賞された際、村田さん自身も作中の主人公・古倉恵子と同じように現役でコンビニ勤務をされていたのが話題になりましたよね。受賞後すぐに専業小説家になろう、とは思わなかったんですか?

村田 小説家って、食べていけない仕事だと思っていたので……。特に純文学で売れるのは難しいといわれる世界だし、芥川賞をとったとしても食べていける人はごくわずか、というのを耳にしていたんですよね。

それに、文学学校で教えていただいていた宮原昭夫先生が、「小説家とは人間の職業ではなく状態だ」とおっしゃっていたのも印象的で。「状態」なら基本、食べられない世界なのもしょうがないのかなと(笑)。今は両立が難しくて専業になっていますが、今後お金に困ったらまたバイトをしたいなと思っています。

「普通でいなければ」という子ども時代の強迫観念

『コンビニ人間』著者・村田沙耶香インタビュー

代表作の『コンビニ人間』をはじめ、村田さんの書かれる小説には、結婚や出産、正社員として働くことなど、いわゆる「普通」の生き方を周りから求められて戸惑う主人公が多く登場しますよね。村田さんは、「普通」という言葉にどんなイメージを持たれていますか?

村田 子どもの頃は、「普通」という言葉にすっごく苦しめられていたと思います。大人しくて過剰に泣き虫な子どもだったので、幼稚園で「沙耶香ちゃんがまた泣いた」と同級生に言われると、それを聞いて余計泣いてしまったりして。あんまり泣くから、小学校に入るときに幼稚園の先生から連絡がいったみたいで、「あなたが泣き虫の村田さんね」って初対面の担任の先生に言われたのを覚えています(笑)。

だから小学校では絶対泣かないぞと思って頑張ってたんですけど、先生がちょっときつい言い方で他の子を叱っている、みたいな状況があるともう泣きそうになっちゃうんですよね。教室で泣いたら騒ぎになってしまうので、廊下とかトイレで隠れて泣いて。すぐに泣くのは「普通」じゃないと思っていたので、普通の子になりたい、と憧れていた気がします。

周りから「普通の子でいなさい」と言われたようなことがあったのでしょうか?

村田 直接誰かにそういうことを言われたわけではないんですが、強迫観念のように「普通でいなければ」「ちゃんとしていなければ」という気持ちがあったのかもしれないです。私はニュータウンで育ったのですが、同時期に、同じように建てられた家がずらっと並ぶようなところで、そこに住む人たちも大体似たような家庭環境でした。すごくお金持ちの子やすごく貧乏な子もいない、「みんな同じ」といった感じで、「工場」みたいな環境なんです。同級生も、真面目でコミュニケーションをとるのが上手な子が多くて。

そんな中で育ったので、普通に学校を卒業して、普通に大人にならなきゃいけないって思っていた気がします。中学生くらいまでは、その強迫観念がすごく強かったですね。

似たような境遇や性格の子どもが多い中で育つと、その中からはみ出すのが怖くなってしまうのかもしれないですね。村田さんがその強迫観念から逃れられたのは、どうしてですか?

村田 高校生くらいになるとみんなバイトとかし始めて、学校以外の友人ができますよね。学校の外の世界が見えるようになって、少しラクになったんじゃないかな……。

確かに、中学生くらいまでは、学校が世界の全てのように感じていたような気がします。

村田 でも、もっと本当の意味でラクになれたのは、大人になって小説家の友人ができてからかもしれないです。「沙耶香がどんなに変でもそれが沙耶香だし、そこが好きだよ」と受け止めてくれるようになりました。小説を書いているときは「この話変じゃないかな」と考えることは一切ありませんでしたが、プライベートの中でも、どう思われるかを恐れなくて済むようになりました。これには本当に救われましたね。

「普通の人」なんて実はいない、と思う

小説家の友人ができてからラクになった、ということですが、それはいわゆる変わったタイプの方が多かった……ということでしょうか?

村田 確かに、小説を書いてる人は個性的な人がたくさんいますが、どちらかというと、大人になっていろんな人と喋るようになって気づいたのは、一見「普通」に感じる人たちも、じっくり話すとすっごい変なんだなということ。大好きな友人の作家の女性が「人間は可愛い」ってよく言うんですが、本当にそうだなって。一人ひとり違う面があって、そこが可愛い。そのまなざしってすごく素敵だなと思います。人間を好きになり、怖くなくなったのも、ラクになった理由のように思います。

幼馴染に、いわゆる「普通」の人生を送ってきた女の子がいるんですけど、その子、前に一度スタバに入ったら、サンドイッチの中に嫌いなビーンズが入ってたらしいんです。彼女、それで頭にきたみたいで、その日以来ずっとスタバを呪い続けてて。私が「スタバで仕事してるよ」とかLINEしただけで、「私はまだスタバを許してないから」って返事がくるんですよ。

スタバに非はないのに!

村田 そうなんです(笑)。でも、ずっと怒っているのがなんだか愛おしくて。彼女は自分のことを平凡だって言うんですけど、このエピソードを切り取るとすごく変じゃないですか。変で、でもそこが好きだし、って思います。

『コンビニ人間』著者・村田沙耶香インタビュー

そんなお話を聞いていると、本当は「普通の人」なんていないのかもしれない、と思えてきます。

村田 そうかもしれないですね。例えば「日本橋のOL」とか「新橋のサラリーマン」とか、ぱっと思いつくような人物像の枠の中にいる人を見ると、なんとなく安心して「あの人は普通の人」って言ってしまっているだけなのかもしれないですよね。

ある友人が、会社の人間関係の中で恋バナをしなければいけない状況に陥って、「今付き合ってる人がインド人で」と話したら、一気に色物キャラになって、好奇心でいろいろ聞かれて悲しかったそうなんです。恋人が外国人っていうだけで、普通じゃない人みたいに扱われちゃうんだな、とそのとき思って。

でもたぶん、「あの子変だよね」って言っている、いわゆる「普通」側の人にもどこかしら変なところはあるんですよね。そういう部分の話って隠されてしまいがちだけど、仲のいい人がそういう面を取り出して見せてくれるとうれしいはずで……。そういうのを、いわゆる普通って呼ばれる枠組みの中にいる人たちの間でももっと見せ合って、「私たち、普通だけど変だね」って仲良くなれたらいいのになって思うんです。

冷凍保存された無数の「違和感」

村田さんは大人になったことで「普通」の圧力から解放された、とのことですが、周囲から「〜〜すべき」「〜〜するのが普通」といったプレッシャーを感じる機会はまだまだ多いように思います。そういった価値観の押しつけには、どう対処していけばいいと思いますか。

村田 そうですよね。私自身、バイト友達との飲み会とかがあると、「結婚どうなの?」って話によくなります。そういうとき、きちんと真摯に説明したり、ハラスメントだと感じたときにその場で闘ったり怒ったりした方がいいとは思うんですけど……あまりにそういうことが多いので、面倒くさくてつい適当にごまかしてしまってますね。そういう自分が、世界を苦しいまま次世代に明け渡してしまうんだという後悔があります。

たぶん、その場では思考停止して自分を守っていても、自分の中になにかしら思うところはあって、それが小説の主人公からブワーッと出てきているんだと思います。

『コンビニ人間』著者・村田沙耶香インタビュー

『コンビニ人間』、それに最新作の『地球星人』の主人公も、周囲からの圧力に屈して、一度は「普通」の生活を送ろうと奮闘しますよね。

村田 小説の中では、登場人物が勝手に動いてストーリーを進めるという感覚が強いんです。『コンビニ人間』も、社会にうまく溶け込めなかった主人公が思いがけない行動をとってしまいますし……。「このまま終わったら地獄だな」と思いながら書いていたんですが、もしかしたら心の中で「この状況をどうにか乗り越えてほしい」と願っていたのかもしれません。

小説を書く際に、世間への怒りや違和感が原動力になることはありますか?

村田 これまではずっと、「怒り」というのがよく分からなかったんです。いい子でいなければいけない、と思っていた子どもの頃の強迫観念がずっと消えなくて、大人になってからも、負の感情を人に対して抱いてはいけないと思っていて。嫌だなと思った感情を分析していくと、最終的には「人はなぜ人を嫌うのだろう?」みたいな根源的な問いになるので、その頃にはもう怒りじゃなくなってるんですよね。

でも、もしかしたら怒り……というよりも静かな違和感のようなものが自分の中に冷凍保存されていて、書くときにその気持ちを思い出しているのかもしれないな、とこの前気づきました。

静かな違和感、というと?

村田 例えば、私はサラダとかを取り分けるのがすっごい下手で、トマトばっかりのお皿もあれば、葉野菜ばかりのお皿もある……みたいになっちゃうんです。なんならみんな自分でやればいいって思うんですけど、ある飲み会で、「村田さんってサラダ取り分けたこと一切ないよね、そういうことできないと嫁に行けないよ」って言われてシーザーサラダを取り分けさせられたことがあるんです。

地獄のような場ですね……。

村田 やったらやったでそれぞれのお皿のバランスがすごく悪くなっちゃって「下手だね」とか言われて……。そのときは「なんかちょっと違和感があるな」くらいの気持ちで家に帰って寝ていたんですけど、そういう記憶が小説を書くときに解凍されて、小説の中の嫌な場面として登場したりしているのかもしれないですね。そういうものが、自分の中に無数にあるので。

『コンビニ人間』著者・村田沙耶香インタビュー

いまもどこかでシーザーサラダを取り分けさせられている人たちへ

村田さんの中で冷凍保存された「違和感」を反映した小説は、まさに世間でいわれる「普通」や「こうすべき」と悩む方にとって救いとなるような言葉がたくさんあるように思います。

村田 私の小説を読んでくださった若い女の子が、泣きながら書いたっていう手紙を送ってくださったりすることがよくあるんです。私たちの世代がこれまで、古い価値観を人に押しつけられたときに笑ってごまかして逃げてきたせいで、いまも若い女の子が同じ目に遭ってるかもしれない……。それこそ、どこかでシーザーサラダを頑張って取り分けさせられてるかもしれないって思うと、本当に辛いんですよね。私もそういうとき、笑ってごまかしてしまうことがいまだにあるので、よくないなと思っています。

本当は声を上げるべきだと分かっていても、その場の空気を壊したくなくて我慢してしまう、という人はきっと多いですよね。

村田 もっと自由になってほしいって思います。私は誰しもが変だと思っているので、変な趣味や考え方がもっと自由に交わされる世の中になってほしいです。いまはインターネットもあるから、昔よりはたぶん、友人が見つかりやすい時代ですよね。私もTwitterとかInstagramの面白いアカウントとか、よく見ているんです。パイプの写真だけをずっと載せてるアカウントとか……(笑)。そういう自分だけの謎の世界をすぐに公開できて、それを共有する仲間を見つけられるっていうのがSNSはすごくいいなって思います。

確かに、現実のコミュニティに息苦しさを感じている人たちにとって、インターネット上で趣味のつながりを作ることは救いになるかもしれません。

村田 そうですね。変なことに限らず、自分が好きなことって、人生の中の宝物だと思うんです。それに熱中している時間って人生の奇跡みたいな瞬間なんじゃないかと思うので、「普通じゃないからやめろ」みたいな言葉に惑わされる必要はまったくないと思います。

好きなことをしているときの自分を愛してほしいし、私はせめてこれからも小説を書いていくので……。人生って短いから、死ぬときに「いろんな人に従った奴隷みたいな人生だったな」って思うんじゃなくて、「楽しかったな」って思ってほしいです。

『コンビニ人間』著者・村田沙耶香インタビュー

取材・執筆/生湯葉シホ
撮影/関口佳代

お話を伺った人:村田沙耶香さん

著者イメージ

2003年、「授乳」で群像新人文学賞・優秀作を受賞しデビュー。2009年『ギンイロノウタ』で野間文芸新人賞、2013年『しろいろの街の、その骨の体温の』で三島由紀夫賞、2016年『コンビニ人間』で第155回芥川龍之介賞受賞。2018年8月には『地球星人』(新潮社)を発表。

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次回の更新は、2019年2月22日(金)の予定です。

編集/はてな編集部

芸人とロボットエンジニア、2つの顔を持つカニササレアヤコさんが「熱くなれる瞬間」

カニササレさん

芸人のカニササレアヤコさん。平安装束をまとい、笙(しょう)という雅楽器を用いたネタをひっさげ、2018年は『R-1ぐらんぷり2018』決勝にも進出した若手の注目株です。

そんな芸人としての活動のほか、ロボットエンジニアとしての顔も持つカニササレさん。活動の傍ら、会社員として現在も週5で働いています。

どちらも本業であり、それぞれに楽しさがあるというカニササレさんに、2つの道を歩むに至った経緯、両立を叶えるための職場選び、さらには多忙な中でもやりたいことをやりきるための心得などについて伺いました。

両立のため、独学でプログラミングを始める

芸人でありロボットエンジニアでもあるというカニササレさんですが、普段の大まかなスケジュールを教えていただけますか?

カニササレアヤコさん(以下、カニササレ) 基本的には会社員として週5日フルタイムで勤務して、終業後や休日などを中心に芸人として活動しています。平日に番組収録やイベントがあるときは有給休暇をもらって、という感じですね。

芸人としてのお仕事も少しずつ増えていると思いますが、両立が厳しくなってきていませんか?

カニササレ それまであまり使わなかった有給がまだ残っていますし、上司が融通をきかせてくれるので、今のところはなんとかなっていますね。とても恵まれた職場環境だと思います。実は現在の会社は2社目なんですが、芸人の活動や趣味を続けていくために、休みがとりやすそうな会社に転職したんです。

休みがとりやすそうな会社って、どう見分けるんですか?

カニササレ 私の場合は転職活動のときに「残業時間」と「社員さんのSNS」をチェックしました。転職サイトなどで「月平均残業時間20時間以内」を検索条件に入れて、ある程度のめぼしをつけます。で、そこで働いている人たちのSNSなども分かるようであれば見て。長期休暇で海外旅行をしているなど、余暇を充実されているような人が多ければちゃんと休める会社なんだなって、個人的に判断していました。

カニササレさんは、早稲田大学文化構想学部を卒業されていますよね。文系ご出身で、なぜエンジニア職を選んだのでしょうか?

カニササレ あまり時間に縛られず、比較的フレキシブルに働けるイメージがあったからです。エンジニアなら芸人とも両立できるんじゃないかなって。独学で勉強したり、高校の同級生でプログラミングができる子がいたので、教えてもらったりしていました。

カニササレさん

会社員モードのカニササレさん

では、1社目からエンジニア職で?

カニササレ そうです。ただ、1社目は副業が禁止だったんですよ。大学時代の就活は「とりあえず食い扶持を得よう」と、受かったところに入ればいいやという感じで決めてしまったんです。だから芸人の活動をあまり大っぴらにはできなくて……。大学時代から所属していた芸能事務所も辞めました。

「お笑い」は一番熱くなれるもの。でも、エンジニアも続けたい

2社目に転職してからは、芸人としてバリバリ活動を始めたんでしょうか?

カニササレ いえ、当初はせいぜい半年に1回お笑いライブに出るくらいでしたね。好きでやっていることなので「売れたい」とかもあまりなくて、趣味でもいいかなって。そんな感じでゆるっと活動してたんですけど、大学時代のお笑いサークル仲間が「面白いんだから自信もちなよ!」と背中を押してくれたこともあって、2018年のR-1に出ることにしたんです。

それで、いきなり決勝進出。勝ち上がっていくときの心境は?

カニササレ もう信じられなくて、嬉しいよりも驚きのほうが強かったです。決勝進出が決まったときは夢の中にいるんじゃないかと……。

カニササレさん

着替えていただきました

2018年はR-1以降、憧れの番組だったという『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』(フジテレビ)にも出演するなど、芸人として飛躍への足掛かりをつかみました。

カニササレ 中学生の頃からお笑い芸人を目指してやってきて、いろんな種を蒔いてきたのがようやく実り始めた感じがします。自分の中で一番熱くなれるのがお笑いなので、このまま少しずつ芸人の仕事の比重を増やしていけたらいいなと思っています。ただ、会社員としての仕事も芸人も、どちらも本業だと考えているので、可能な限り両立していけたらいいですね。

会社ではロボットエンジニアとして、「Pepper(ペッパー)」のアプリ開発を行っているとのことですが、具体的にはどんなお仕事なのでしょうか?

カニササレ ペッパーに言わせたいこと、やらせたい動きをプログラミングして送り込む、「ペッパーの脳内を操る」仕事です。

なるほど。ロボットエンジニアはどんなところが魅力ですか?

カニササレ 最先端の技術に関わることができ、さまざまな新しいガジェットの情報が入ってくるのが魅力ですね。あとは、エンジニアって内にこもる職業と思われがちなんですけど、コミュニケーションロボットを作るのって「人に向いている」仕事なんですよ。

ペッパーがときどき変なことを言って、それに反応することで思わぬコミュニケーションが生まれる。そんなふうに誰かと喋っているシーンを想像しながら、ペッパーに何を言わせるか考えるのも楽しいです。

ちなみに、2017年にご結婚されていますが、パートナーはカニササレさんの芸人と会社員の両立について、どんな反応ですか?

カニササレ 応援してくれていますね。夫は日本人なんですけどイギリス育ちで、イギリスでは芸人(コメディアン)ってすごく地位が高くて尊敬されているみたいなんです。だから、当初から『芸人すごいじゃん!』という感じで好印象でした。夫は「女性のお笑い芸人がブスとかデブとか、美人とか、そういうのを求められるような時代はもう終わるから、君がその筆頭になればいいよ」と言ってくれています。

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「お笑いサークルが面白かった」から早稲田大学へ

幼少期のことをお聞きしたいのですが、雅楽や平安時代をモチーフにした“雅”なネタから察するに、もしや高貴な家柄なのではないかと……。

カニササレ 全くそんなことはなくて(笑)、父は教師で母は専業主婦という家庭で、特別に裕福だったわけではありません。雅楽に関しても私が小学生の頃に母が「篳篥(ひちりき)」という雅楽器を趣味で始めて、それに影響されて笙に興味を持ったのがきっかけです。音がとにかく素敵なんです。

ただ、やりたい習い事は何でもやらせてくれる両親でした。当時習っていたのは、ピアノ、書道、ドラムやスポーツチャンバラなどですね。今もそうですが、色んなことに興味を持つ子どもだったみたいです。

「お笑い」も、その一つだったんでしょうか?

カニササレ いえ、実は小さい頃はお笑いを熱心に見ていたというわけではなかったんですよね。

では、芸人を志すようになったきっかけは?

カニササレ 中学校の文化祭で友達とコンビを組んで漫才をやったのが凄く楽しくて、それからずっと続けている感じですね。高校生になってからもお笑いの大会に出たり、お笑い研究会を立ち上げたりして。月1回のライブと、年2回の大会のために漫才やコントのネタを作り続けていました。

当時、同じ舞台に立っていた人の中には、現在プロとして活躍されている芸人さんもいるとか。

カニササレ はい。M-1グランプリ14代目王者・霜降り明星の粗品さんがピンでやられていたり、「平成30年度NHK新人お笑い大賞」で優勝したGパンパンダさんなどがいて、阿佐ヶ谷の舞台とかに一緒に立っていました。今活躍されている方は当時から格が違いましたね。

中でも私が衝撃を受けたのは、同い年のパーマ大佐。それはもう、引いちゃうぐらい面白かった……。当時は現在メインでやられている歌ネタではなくフリップネタをやられていて、すごくしゃべりが達者なのでものすごくウケてました。2018年のR-1の予選のとき久しぶりに再会できて、嬉しかったです。

その後、早稲田大学に進学されます。進学先に早稲田を選んだ理由は?

カニササレ お笑いサークルが一番面白いと思ったからです。「お笑い工房LUDO(ルード)」という有名なサークルで、尊敬する1つ年上のGパンパンダさんも所属されていたので、追いかけていこうと。

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大学選びもお笑いが基準だったとは……。

カニササレ 両親や先生は、私がお笑い芸人を目指していることに対して思うところがあったかもしれませんが、「とりあえず早稲田に行くならまあいいか」という感じでしたね。

早稲田の「LUDO」はメディアで活躍する芸人も多数輩出していますが、やはりレベルは高かった?

カニササレ すごかったです。高校時代とは比べものにならないくらい。Gパンパンダさんはもちろん、みんな面白くて。個人的に好きなのは、後輩でまだ学生なんですけど「ホットパンツマン」です。私が尊敬する、なかやまきんに君さんと同じ系統で、ずっと笑って見ていられる、平和で明るいお笑いなんですよね。

ホットパンツマン……チェックしてみます。ちなみに、カニササレさんは当時どんなネタを?

カニササレ 私は……かなり迷走してました。ラーメンズさんかぶれの世界観コントみたいなのとか、雑学を面白く教えます、みたいなフリップ芸とか。あとは、中性洗剤の被りものをして酸性洗剤と混ざる「中性洗剤コント」とかですかね。伝わらないですよね……(笑)、すみません。

その後、自分にしかできないネタをやろうと思って雅楽や「笙」を取り入れてみたらわりとウケがよかったので、それからキャラが定着しました。

今日もお持ちいただいていますが、ネタで使われている「笙」ってかなり高価なものなんですよね。

カニササレ 一番安いので10万円くらいです。これとは別にもう1本あって、そっちは母が大学の入学祝いにプレゼントしてくれました。「入学祝い、イタリア旅行と笙とどっちがいい?」と聞かれて、迷わず笙を選んだくらい好きですね。笙は聴くのも吹くのも楽しいんですよ。時々演奏会などにも出演しています。

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笙を吹くカニササレさん

趣味が多いと、毎日楽しいことだらけ

カニササレさんは学生時代からすでに「学業とお笑いの両立」を実践していたんですね。当時から忙しいのが普通というか、苦にならないタイプだったんでしょうか?

カニササレ そうだと思います。お笑い以外にアルゼンチンタンゴ音楽サークルの幹事長もしていたので、けっこう忙しかったですね。アルゼンチンタンゴが週3回、お笑いサークルが週1回、大学2年生からは芸能事務所のお笑い養成所にも通い始めました。

ただ、ずっと休みなしでやっていたら体力が持たなくなってしまって……。以降は月に1~2回は何もせず家でダラダラと過ごすようになりました。今も毎月必ず、何の予定も入れない日をあえて作るようにしています。意識して休まないと、気付けば予定をびっしり詰め込んでしまうので。

趣味も本当に多彩ですもんね。笙やタンゴ演奏以外にも、ピアノ、バイオリン、登山や乗馬もやられるとか。

カニササレ 趣味が多いと、毎日楽しいことだらけなんですよ。毎月のように何かしらの趣味のイベントがあるので、あれも行きたい、これも行きたいとなってしまうんです。だから、趣味がこれ以上増えたらちょっと危ないですね。

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人生を全力で楽しんでいる感じがして羨ましいです。では、最後に芸人、エンジニアとしての今後の目標を教えてください。

カニササレ 芸人としては、ものまねをさせていただいている雅楽師の東儀秀樹さんにいつかお仕事でお会いできたら嬉しいです。演奏かバラエティか、いずれかの形でご一緒できたらと思います。エンジニアとしては、いつか自分でロボットを開発したいです。プログラムだけじゃなくて、物理的なハードの部分からアイデアを出してイチから作ってみたいですね。

あと、これは完全に趣味なんですけど、いつか「笙」を自分で制作したい! 以前に笙の職人さんにお会いして内部を見せていただく機会があって、それ以来ずっとやってみたくて。聴く、吹くだけじゃなくて自分で作れたら最高に楽しいな、と思っています。

取材・文/榎並紀行(やじろべえ)
撮影/小野奈那子

お話を伺った方:カニササレアヤコさん

カニササレさんプロフィール1994年、神奈川県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒。フリーの芸人を経て、現在はサンミュージックに所属。「R-1ぐらんぷり2018」ファイナリスト。特技はプログラミング、ロボットエンジニアリング、絶対音感で何でもすぐ弾ける。趣味も多彩で、笙やピアノ、バイオリンからモンゴル乗馬までこなす。
Twitter:@Catfish_nama

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次回の更新は、2019年2月6日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

カーレンジャーが好きすぎて「戦隊の助監督」になった荒川史絵が叶えた目標と新たな野望

荒川さん

1975年に放映開始した『秘密戦隊ゴレンジャー』にはじまり*1、およそ40年の歴史を誇るスーパー戦隊シリーズ。特撮ヒーロー作品の代表格として知られる「戦隊」において、女性で初めて監督を務めたのが荒川史絵さんです。高校生の頃『激走戦隊カーレンジャー』に憧れ、映像系の大学を経て特撮の道へ進んだ荒川さん。助監督としてさまざまな戦隊シリーズに関わり、2015年に『烈車戦隊トッキュウジャー』のVシネマ作品『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー夢の超トッキュウ7号』にて監督デビューを果たします。

仕事がどんなにつらくても、目標になかなか手が届かなくても、戦隊を嫌いになることはなかったという荒川さん。好きを仕事にし、大きな夢を叶えるまでの道のりについて伺いました。

高2の夏、突如「戦隊ヒーロー」に開眼

まず、荒川さんが戦隊に本格的にはまったきっかけを教えてください。

荒川さん(以下、荒川) 高校2年生の夏に『激走戦隊カーレンジャー』を、たまたまテレビで見たことがきっかけです。最初はなんとなく眺めてたんですが、エンディングテーマで流れた『天国サンバ』の歌詞が気になったんですよ。

激走戦隊カーレンジャー……1996年3月〜1997年2月まで放送された特撮テレビドラマ。『秘密戦隊ゴレンジャー』から数えると20作目のスーパー戦隊シリーズ。自動車会社に勤める5人の若者が「激走戦隊カーレンジャー」となり、宇宙の暴走族「ボーゾック」の悪巧みを阻止するために「クルマジックパワー」を使い戦っていく。作品のモチーフは「車」。敵が「5対1は卑怯」と言い放ったり、普段は会社員として過ごすカーレンジャーたちの給料を公開したりと、シュールな物語が展開される。リーダーであるレッドレーサーは、自動車会社ペガサスのテストドライバー陣内恭介(演:岸祐二)が変身する

というと……?

荒川 「キックはやさしくしてね」とか「ラーメンおごっちゃうからたまには負けたりしてね」とか、“悪の戦闘員目線”の歌なんです。「なんだこれ、面白い!」と思って、翌週からちゃんと見るようになり、気付けばハマっていました。

歴史ある戦隊シリーズの中でもカーレンジャーはやや異色……というか、変わった作品として知られていますよね。斬新な設定・演出は当時の子どもたちの度肝を抜いたように思います。

荒川 そう、そこが魅力でもあるのですが……当時としてはちょっと早すぎたのかもしれませんね。ツッコミどころが満載で、今ならSNSで話題になりそうですけど。

でも、荒川さんは夢中になった。どんな点が特に魅力だったんでしょうか?

荒川 長くなるけど、いいですか?

お願いします。

荒川 まず、カーレンジャーは変身前と変身後の姿との「リンク率」がすごいんです。戦隊作品の多くは戦う時だけ変身して、物語の部分とか、重要なお芝居はすっぴん(変身前)の状態でやることが多いんです。でも、カーレンジャーは変身した姿のままで普通に日常に溶け込んでいて、その状態で芝居をしているシーンが多くて。そのおかしさがたまらなく好きで。

それから、全体的にコメディタッチなんですけど、そのうちの2割くらい、すごく熱いシーンがあるんですよ。そもそもコメディ的な演出も狙っていないというか、カーレンジャーの世界ではそれがかっこよかったり、正義だったりする。傍から見たら、だいぶおかしいんですけどね。そのギャップみたいなものも、大好きです。作品をどんな視点で楽しむかは人によって異なりますが、私はこのあたりにやられました。

荒川さん

特に印象深いシーンは?

荒川 たくさんありますが、あえて挙げるなら第32話の『RVロボ大逆走!』という回ですね。レッドレーサーがリーダーとしての自覚を持てと言われて暴走するシーンが一番好きです。あとは、終盤で陣内恭介(レッドレーサー)があえて変身せずにゾンネット(敵役である宇宙暴走族ボーゾックの女性幹部)への愛を語るシーンも最高です。

「戦隊史上初の女性監督」の座は、誰にも渡したくなかった

カーレンジャーを好きになったことで、「戦隊を作る人」になろうと考えたわけですか?

荒川 そうですね、何かしらの形で関わってみたいと思いました。ちょうど進路を決める時期で、国語と英語は得意だったので文系に進もうと考えていたのですが、社会が苦手で……。それで、国語と英語だけで受験できる映像系の大学に行き、東映に入って特撮の仕事をしたいと。

特撮の仕事といっても美術やカメラマンなどいろいろあると思いますが、最初から監督を目指していたんですか?

荒川 最初に興味を持ったのは音響ですね。効果音や音楽をつける仕事です。カーレンジャーの劇伴は佐橋俊彦さんという方が作っているのですが、それがまた良いんですよ。カーレンジャーって、劇伴がものすごくかっこよくて……。

ただ、撮影録音のコースは数学が必須だったので諦めました。数学、全然できなかったんです(笑)。造形や衣装、メイクなんかも、ぶきっちょなので難しいだろうなと。得意なものがなかったのですが、実は特別な技術がいらない「助監督」なら自分にもできるんじゃないかと思ったんです。それで、いずれは監督を目指せたらいいなと、最初はそれくらいの気持ちでした。とりあえず、特撮の現場に行ければいいかと。

ちなみに、「助監督」はどのような業務を担当するんでしょうか?

荒川 会社や作品によって異なりますが、私が関わっていた作品の場合は「監督の演出補佐」という感じですね。監督一人に助監督3~4人という体制が基本で、映画のやり方に近いと思います。助監督は主にフォース、サード、セカンド、チーフといった序列があり、新人はフォースないしサードから入って小道具などを担当します。セカンドはメイクや衣装の管理を担当しつつ、現場を回すための補佐ですね。チーフはスケジュール管理がメインです。

私の場合はフォースからのスタートでした。本当にたまたまご縁があって、東映の戦隊チームに入れてもらえることになり、大学4年生の夏くらいからちょこちょこ現場へ行くようになったんです。何も分からないまま、カチンコを叩いていました。初めて関わったのは、『百獣戦隊ガオレンジャー』*2の劇場版でしたね。

憧れの現場。楽しかったでしょうね。

荒川 はい。キャラクターを生で見られたり、アクションシーンに興奮したり、現場に行くのは楽しかったです。……でも、仕事自体は激務で、ただただしんどかったです。当初は何度も辞めようと思っていて、新人の頃から2~3年くらいはあまり良い思い出がないですね(笑)。

荒川さん

それでも辞めなかった。

荒川 正直なところ、辞めるタイミングを逃し続けました(笑)。当時、戦隊を作るチームって基本的に1チームしか稼働していなくて、ひとつの回が終わったらすぐさま次の回と切れ目のないスパンで作っていかないといけなかったんです。ただ、現場に入った当初、女性スタッフが少なかったこともあってか、「荒川さんがいて助かりました」と女性キャストの方に言われることもあって。そういった声もあり「もうちょっと頑張ってみるか」とがむしゃらに食らいついていたら、ずるずると時間がたっていて、気付けば20代後半になってましたね。そのあたりからは、もう半ば意地になって頑張っていたように思います。

意地……ですか。

荒川 はい。せっかく何年も頑張ってきて、怒られ続けてきて、ここで辞めたら悔しいじゃないですか。辞めるにしても、何かしらの形で名前を残してからにしようと……。そういう意地ですね。で、この頃くらいから「そういえば、戦隊で女性が監督をした作品ってなかったよな」ということに気付き、「私が最初になってやる!」と思うようになりました。2008年くらいかな。

そこで、目標ができたんですね。

荒川 ここまでやってきたんだから、「戦隊史上初の女性監督」の座を他の人に取られてたまるかと。それだけは絶対に達成してやろうと思いました。

監督デビューしたのは2015年。監督を本気で目指すようになってから7年後でした。

荒川 その間、同期は続々と監督デビューしていて、落ち込むこともありました。やはり女性が監督をするのは難しいのかなと。「女だから監督させないんですか?」って直談判したこともあります。でも、前例がないから会社としても悩ましかったのかなと思うんです。約40年にわたって先人たちが築いてきた歴史を崩すわけにはいかない、そういう空気も感じていました。

激務に加え、なかなか目標に届かないもどかしさもある。つらい状況の中、戦隊そのものが嫌いになったりすることはありませんでしたか?

荒川 それはなかったですね。やっぱり私は現場でキャラクターを見れば元気になりますし、自分が関わった作品の放送を見れば「かっけえじゃん!」と思えて、私がやっていることも多少は役に立っているのかなと感じられましたので。周りのスタッフの皆さんも優しかったですし。

私が信じる「かっこいい」を撮る

そんな中、助監督をされていた『烈車戦隊トッキュウジャー』のVシネマ作品『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号』で、ついに監督デビューを果たされます。当時の状況を教えてください。

荒川 当時はいったん戦隊を離れて、仮面ライダーシリーズの助監督をやっていました。その時にトッキュウジャーのチーフプロデューサーだった宇都宮孝明さんから電話がかかってきて、「今度Vシネマやるから頼むわ」と。私はチーフ(助監督)をやってくれという意味だと思って、「いいですよ、監督は誰ですか?」と聞いたら「君だよ」って。……そんな感じで、わりとあっけなく(笑)。本当にありがたかったです。

烈車戦隊トッキュウジャー……2014年2月〜2015年2月まで放送された特撮テレビドラマ。キャッチコピーは「勝利のイマジネーション」。高い想像力・イマジネーションを持つ者として認められた5人が、敵を迎え撃つ戦士・トッキュウジャーに選ばれ、戦っていく。作品のモチーフは「列車」。主人公のライト(トッキュウ1号)は、志尊淳が演じる

その時の心境は?

荒川 びっくりしすぎて、実感があまり湧きませんでした。もちろんうれしいんですけど、どこか他人事というか、不思議な気持ちでしたね。ただ、これが最初で最後の機会かもしれないから、絶対面白い作品にしようと。前例がなかったこともあってか、女性が監督を務めることに対しネガティブな意見を耳にすることもありましたけれど、そんなの知らんよ!って感じで、思い切りやらせてもらいました。

外部の声は気にせず、自分が見たいもの、面白いと思うものを作ろうと。

荒川 そうですね。脚本の段階から意見を取り入れていただき、自分が好きな監督やシリーズのセオリーにのっとりつつ、やりたいことは全てできたと思います。もう、楽しかった思い出しかないです。「子ども向けだから」というのも変に意識はしていません。私自身がかっこいいと思うもの、熱いと感じるものを作ればいい、ととにかく自分を信じました。

荒川さん

今思えばありがたい、自由に「好き」と言える環境

荒川さんTwitterより

荒川さんは現在、フリーランスとして活動されています。現在の主なお仕事について教えていただけますか?

荒川 『牙狼<GARO> -魔戒烈伝-』という特撮ドラマの助監督や、『絶狼<ZERO> -DRAGON BLOOD-』の監督をやらせていただいたり、最近までは中国の特撮ヒーローの仕事などをしていました。あと、たまに東映作品に助監督として入ったり、刑事ドラマの現場に行ったり、いろいろですね。

今は、2019年1月からスタートしたドラマ『トクサツガガガ』の特撮パートで、キャラクター担当に近いことをしています。

トクサツガガガ(1) (ビッグコミックス)

原作は丹波庭によるマンガ。『ビッグコミックスピリッツ』にて連載中

トクサツガガガは「隠れ特撮オタク」の女性が主人公。職場の同僚などには特撮好きであることを隠していますが、荒川さんはカーレンジャーを好きになった高校生の頃、それを周囲に明かすことにためらいはなかったですか?

荒川 私の場合は、隠さなきゃという感覚はまったくなかったですね。友達にも普通に「カーレンジャー面白いんだよ」って話していましたし、学校の休み時間にはカーレンジャーが載ってる子ども雑誌を熟読してました。同級生がファッション誌を読んでいるのと同じ感覚で、かっこいいシーンを切り抜いて喜んだり(笑)。それでも特に周囲から浮いたりせず、平和でした。

親御さんにも、特に咎められなかった?

荒川 うちの親ものんきな人なので、あなたが好きならいいんじゃないって感じでした。心の中では、何か思うところがあったのかもしれないですけどね。受験の年になっても「後楽園ゆうえんち*3にカーレンジャーショーを見にいきたい!」とか言ってる娘に対して、そんな場合じゃねえだろ、くらいは思っていたのかもしれない。でも、少なくとも「いい歳して恥ずかしいでしょ」とか、「男の子が見るものでしょ」とか、そういうことを言われた記憶はありません。

年齢や性別に関係なく、好きなものを好きと言える環境だったんですね。

荒川 そうですね。今思えば、恵まれていたのかもしれません。だから、特に疑問を持つことなく特撮の道へ進めたのだと思います。好きなものを否定されたり、からかわれたりする環境だったら、どうなっていたか分からないですね。

荒川さん

人が何を好きだろうと、ほっといてほしいですけどね。

荒川 そうなんですよ。でも、世の中、けっこうほっといてくれない(笑)。私は男の子向けの戦隊が好きだけど、プリキュアもセーラームーンも好きです。「なんでも好き」じゃ駄目なの? と思うことはありますね。

いつか、「カーレンジャー」の監督を……

最後に、これからの目標を聞かせてください。

荒川 やっぱり、戦隊シリーズの「本編」の監督をやりたいですね。今、私の同世代がメイン監督をガンガン担当している中で、自分の状況と比較してしまってしょんぼりしたりもしますが、いくつになってもいいから達成したいです。

あと、いつかやってみたいのはカーレンジャーのVシネマ。もう終了してから20年以上たっちゃってますけど、あのカーレンジャーのノリならしれっと復活しても許されるような気がするので。その2つの野望を叶えないことには、引退できませんね。

取材・文/榎並紀行(やじろべえ)
撮影/関口佳代

お話を伺った方:荒川史絵さん

荒川さんプロフィール1979年生まれ。2001年『百獣戦隊ガオレンジャー』から特撮(主に戦隊シリーズ)の現場で働くように。2015年『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー夢の超トッキュウ7号』で監督デビュー。
Twitter:@bon_ranger_

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次回の更新は、2019年1月23日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:シリーズ第一作目とした扱われる作品については、『バトルフィーバーJ』をカウントされることもあるが、本記事ではゴレンジャーを第一作目とカウントし記載する

*2:2001年〜2002年に放送された、東映制作の特撮テレビドラマ

*3:現名称:東京ドームシティアトラクションズ

する・しないの正解はない はたらく女性4人が語る「転職」事情

集合イメージ

キャリア形成にあたり、転職は重要なカード。やりがいや収入、異業種へのチャレンジなど、転職願望の背景は十人十色ですが、いずれも現状を打破したい、未来をよりよいものにしたいという思いが根底にあるはずです。

また、もともとは転職願望がなくても、周囲がステップアップしている様子を見て、自分も一度は転職した方がいいのかも……と漠然した不安に駆られる人もいるかもしれません。そこで今回は、転職経験者と未経験者の女性4名に集まっていただき、それぞれの転職にまつわる経験談や考えを語ってもらいました。

***

<<参加者プロフィール>>

Mさん

Mさん(38歳)/転職経験あり
社会人15年目。メーカーのIT系部署の企画職。転職経験は3回、入社半年で辞めたことも。現在の職場は4社目で、勤続10年を迎える。30代に入り一人旅や登山が趣味に。

Nさん

Nさん(28歳)/転職経験あり
社会人5年目。正社員として働いていたデザイン会社を退職し、現在はWeb系企業の事務職。転職経験は2回。新卒で入社した会社から事務職としてキャリアを積む。

Rさん

Rさん(33歳)/転職経験なし
社会人11年目。テレビ番組制作会社のディレクター。転職経験はないものの、職場環境への不安から転職エージェントへの登録など、転職活動の経験はある。

Oさん

Oさん(23歳)/転職経験なし
社会人1年目。IT系企業のビジネスエンジニア。就職活動では「プライベートの時間が確保しやすい風土があるか」を重視。ジャニオタ歴12年、最近はK-POPアイドルにも傾倒中。

人間関係に疲れるも、職場でリセットされるのも不安

最初に、Rさんからお話を伺いたいのですが、転職経験はないものの、転職を何度も考えたことがあるとか。それはなぜでしょうか?

Rさん 私はディレクターとしてニュース番組をメインに担当しているのですが、テレビ局ではなく制作会社の社員として働いています。いろいろな現場に派遣されるので業務量も千差万別なんです。大変な現場だと徹夜が続くこともあったり、上司の一存で夜遅くまで飲みに付き合わされたりと、ちょっと不満が溜まることも多くて……。

いきなりヘビーなお話でした。それでも踏みとどまった理由とは?

Rさん 悩んでいる時期に、別会社に勤めている同業の人に話を聞く機会があって。そしたら、うちの会社は残業代も出るし、業界のなかでは割と待遇もいいことが判明したんです。そうこうしているうち、異動で環境が向上したのと、やっぱり仕事自体は好きなので、今に至ります。

Mさん 私は半年で辞めた会社が毎日深夜まで働いて、金曜日は朝まで……みたいな環境だったので、早々に根をあげましたね。

Rさん それは正解だと思います。私の会社では定期的に異動があると分かっていたので何とか持ちこたえられたのかな、と思いますし、そうじゃなかったら本気で転職活動をしていたかもしれません。実際、過酷を極めていたときには鬱っぽくなっていて、電車のホームでふらつきながら「もうだめだ」みたいなことがありましたから。

一同 えー! それやばいですって!

Nさん 私は真逆で、これまで2回転職していますが、定時であがる人生を続けてきた人間なんです。デザイン事務所の事務職として働いていた頃は、デザイナーは夜遅くにクライアントから直しがきて、深夜まで仕事をする――の繰り返しだったので、自分だけ安全地帯にいるようで申し訳なさを感じて、こんなんでいいのかなと思ったことはあります。

Oさん 私はまだ1年目ですが、チームの皆さんがちゃんとフォローしてくれて、本当にいいメンバーに恵まれているなと思います。深夜残業が発生することもありますが、このご時世、こんなに人柄のいい人たちばかりの職場ってなかなかないよなと思って。本当に運がいいと思っているので、このチームにどれだけいられるかばかり考えています。これがもし別のチームに飛ばされて、メンバーが変わると転職が浮かんでくるのかなぁと。

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転職理由のホンネで圧倒的に多いのは「人間関係」とも言われますよね。ちなみに、人間関係に難を抱えて転職した方はいらっしゃいますか?

Nさん まさに私ですね(笑)。前職は社長含めデザイナーが9割の職場で、私だけ事務職だったんです。なので、仕事で悩みを抱えたときとか、判断に迷うときに相談できる相手がいなくて。人間関係が嫌というよりは、疲れてしまって辞めました。同じ職種の人が複数いたり、人事異動があるような大きな会社だったりしたら、また違っていたかもしれませんが、そのときは環境を変えようとしか判断できませんでしたね。

Mさん 人間関係は難しいですよね。人事異動が珍しくない会社だったら、とりあえず異動の希望は出してみて、それでもダメだったら、転職を考えてみてもいいかもしれません。

Oさん 私はできれば一つのところで長く働き続けたかったので、就活のときに人間関係はかなり重視していました。私にとって何より大事なのは趣味のオタク活動。プライベートな時間を仕事で邪魔されるのは嫌だなと。「休日に社員でピクニックとか無理です」みたいなことは面接で伝えていましたし、その価値観を分かってくれる会社であれば、同じような考え方の人が集まっているはずだし、サバサバした人間関係が築けそうと思っていました。

すごい、就活時点で「こう働きたい」というビジョンを持っていて、それを伝えられるなんて、しっかりされてます……!

Nさん 転職すると人間関係はいちから築かないといけないので、それはそれで大変ですからね。特に不満がなければ、同じ会社に留まることでの「人間関係の楽さ」というのもあると思います。あと、キャリアアップのための転職ならアリですが、業種や職種を変えるような転職だとキャリアがリセットされて下っ端からのスタートになる可能性もありますし……。

Oさん リセット! 転職するデメリットについて考えたことがなかったので新鮮です。

Nさん 新卒入社で勤続年数が長い友人は、その会社でしっかりキャリアを積んでいますし、部下を持つ人もいます。部下がね~という話をされると、謎の焦りが生じることもしばしばです。でも、Oさんのようなエンジニア職はスキルが評価されると思うので、職種を変えない限りそれまでの経験がゼロになることはなさそうです。

Mさん 確かに職種を変えるといろいろなことがリセットされがちですよね。私は最初に勤めたのが占い本をつくる出版社で、占いコンテンツばかりを手掛けていたので、「企画」と「女性向けコンテンツ」という2つの軸をぶらさずに転職先を選んできました。転職にあたっては、経験を生かせる職場かどうかを意識していたかもしれません。

Nさん 個人的に、職種を変えるなら第二新卒までなのかなというイメージがあります。私は今28歳。これからは己の経験だけが武器になるフェーズに入っている気がするので、漠然とした不安はあります。というか不安でいっぱいです!

転職を考える上で「年齢」がついてまわる部分もありますよね。

Mさん 私は未経験ジャンルに挑戦するんだったら、30歳までかなと、なんとなく感じていました。同じ職種であれば、30歳を超えても大丈夫だと思うんですけど。ある程度、新しいことにチャレンジするなら20代のうちかなって。

Rさん 実はテレビ業界以外だと出版や広告に興味があって、ふんわりと転職を考えたこともありました。でも、新卒じゃないと転職のハードルが高い業界だな、と思って具体的には動けていません。さらに、今33歳なので、年齢的にも転職をしていないということは、一生この業界にいるのかな……と感じています。

あと、私自身に社会的な常識が身に付いていない気がするというか……テレビ業界、特に制作会社って服装もジーパンにパーカーですし、この歳から全然違う雰囲気の業界に入って、なじめるのかどうかみたいな不安もありますね。

Mさん 私自身はこの10年転職をしていませんが、趣味を持つ前の20代の頃は「こんな会社にいつまでもいていいのか」という飢餓感のようなものがあったかもしれません。だから、わりと短いスパンで転職していたように思います。ただ30代に入って一人旅や登山という趣味を持ったことで「仕事で成果をあげる」ことの優先順位が下がった感じがします。ちょっとぐらい嫌なことがあっても「でも休みを取れるからまあいいや」と考えて割り切れるようになったのかな。だから、私の場合は年齢というよりは、趣味を持ったことで仕事に対しての優先順位の付け方が変わったことが、転職する・しないに関係しているかもしれないです。

同じ職場で長く働く難しさを実感することも

では、結婚や出産などライフイベントとの兼ね合いはいかがでしょうか。ライフイベントとのバランスを考え、働き方を変える・転職を考えられたことは?

Mさん 今の会社は旧態依然としたメーカーの風土が残っていてるように思います。女性は長く働いても基本出世は難しい。逆に早く結婚して子どもを産んで、時短でそこそこのパフォーマンスで勤めることはできますし、それが勝ち組的な見られ方をするところがありますね。なので、勤め続けることはできると思いますが、働き方は変えないといけないかもしれません。

Nさん 私はそういったことをあまり考えていなくて……。ただ、今の職場環境はとても合っているので、この職場でできるだけ続けたいな、と思っています。でも今の会社では長く在籍している女性がおらず、ロールモデル的な人がいません。そうした意味での不安はあります。

Oさん 私は、同じチームの直属の先輩が、社内恋愛を経て同僚と結婚されているんですけど、お互いバリバリ仕事しているのでいいなって思ってます。しかも、私と同じくバリバリのオタクで、すごく要領がよくて毎日定時で帰るのに生産性がとても高くて評価されているという。実は私も、今社内に好きな人がいるので、模範にしたいです。

Rさん そんな先輩がいたらいいですよね。私は逆にすごく優秀な女性ディレクターが、結婚してから別の仕事に回されてしまって。上司にも子どもが生まれたらどうなるか、とちらっと聞いてみたんですけど、「時短になると一番忙しい時間帯に現場にいられないから事務職になるだろうね」と言われ、ちょっとモヤっとしましたね。

Nさん ワークライフバランスを求めて転職するにしても、具体的に「こんなサポートをします」と明示している企業って少ない気がします。制度は書かれていても、「蓋をあけてみたら」なんてこともありそうで。

Rさん 私は子どもが欲しいと思っているので、年齢的にもそろそろちゃんと考えなければなりません。ただもし子どもを持つことになったら、現状だと今の仕事を続けるのは、なかなか難しいよな……とも思っています。

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モヤモヤしている人は職務経歴書を書いてみるのもあり

転職をぼんやり考えながらも、まだ行動に移していない人は何からはじめればいいと思われますか?

Mさん 友人の中にも会社の愚痴が多かったり、転職したいと話したりする人がいます。でも、結局はずるずると働いているので、どうアドバイスしたらいいのかなといつも悩んでしまうんですよね。転職にはパワーが必要ですし、不満を持ちつつも会社に残る気持ちも分かるので……。

Nさん 「なんとなく転職」を考えているけれど、特に行動に移していないという人は、とりあえず転職サイトやエージェントに登録してみる、くらいでいいんじゃないかな。とにかくまずは自分のスキルや求めていることを棚卸したり、客観的に自分の能力を測って相談に乗ってくれる人に会いに行ったりした方がいいと思います。本当に転職するとして収入はどう変化するかとか、辞めてからのことが見えるんですよね。

Mさん 職務経歴書を書いてみると、自分のキャリアを客観的に見つめることができるんですよね。今はネットで探せば書き方も載っていますし、書いてみると自分の現在地が分かるような気がします。

Rさん 転職未経験者から見ると、転職経験者の皆さんはやっぱり身軽ですし、視野が広くてうらやましいなと思いますね。私はどうしても、今の会社しか知らないので、ここでどれだけやっていくかというのが前提になってしまいがちです。転職するときには、それまでの経歴が評価されて、その上で「自社に必要だ」と思われているわけですから、すごいなと。

Nさん 実際に動いてみないと分からないことってたくさんありますしね。モヤモヤしていたり、将来の展望が持てなかったりしたら、転職活動してみて自分の価値を測ってみるといいと思いますよ。そうすると、もしかしたら今の会社の良さに気づいて、前向きに踏みとどまることもできるかもしれないですし。

Oさん 私はまだ入社して間もないですし、今の職場が気に入っているので、できれば定年まで勤めあげたいと思っています。でも、長い社会人生活で何が起きるか分からないので、今回の座談会で知った転職のメリット・デメリットをしっかり胸に刻みたいと思います。



取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/小野奈那子

※座談会参加者のプロフィールは、取材時点(2018年11月)のものです

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次回の更新は、2018年12月28日(金)の予定です。

編集/はてな編集部

藤村シシンさんの古代ギリシャ愛を深掘り 「私、アポロンに操を立てる」

藤村シシンさんの古代ギリシャ愛「私、アポロンに操を立てる」

古代ギリシャ・ギリシャ神話研究家の藤村シシンさんは、大学院を卒業後『古代ギリシャのリアル』を出版。最近ではNHKカルチャー講座の講師や、『アサシンクリード オデッセイ』の解説などでも知られています。高校生の頃『聖闘士星矢*1』と出会い、この道を選んだ藤村さんですが、好きなことを仕事にするまでにはかなり危ない橋を渡り続けてきたのだそう。今回は藤村さんのご自宅でインタビューを敢行。古代ギリシャの文献やグッズ、オブジェに溢れた部屋で、古代ギリシャ・ギリシャ神話愛から働き方についてまでを伺いました。

浮気ばかりするギリシャ神話の神々

本日はよろしくお願いします。……衣装がすごい! それは何の格好ですか?

藤村シシン(以下:藤村) 特に決まったモデルはいなくて、古代ギリシャの一般的な女性の格好です。

部屋にも置き物やオブジェがたくさんありますね。これは……柱?

藤村 柱です(笑)。演劇か何かで使ったもので、Twitter経由で「柱欲しそうな人がいるよ」って私のところまでまわってきました。ちなみにこれは、私が一番愛しているアポロンの石膏像です。(机の上に置いてあるアポロンの石膏像を手に取る)

アポロンはギリシャ神話に登場する神、ですよね? どういうところが好きなのでしょうか?

藤村 良さを一言で語るのが難しいなぁ! 好き過ぎてもはやどこが好きなのかが分からなくなっていて。でも私、最初はギリシャ神話の中でアポロンが一番苦手だったんですよ。

藤村シシンさんの古代ギリシャ愛「私、アポロンに操を立てる」

アポロン像を見つめる藤村さん

へええー。アポロンってどんな存在なんですか?

藤村 音楽の神で、疫病や医術の神でもあって、あと、哲学の神、理性の神、光の神とか、とにかくマルチで。

マルチな神!

藤村 いろいろな神でありながら、自分が美しいことを分かっているナルシストで、女性に対しても強引に迫るんです。例えば、私が今かぶっている月桂冠(げっけいかん)もアポロンにまつわるものでして。アポロンが恋をしたダフネという女性がいるのですが、この人、最終的に月桂樹になるんですよ。

月桂樹になる……?

藤村 ギリシャ神話の話です。アポロンが「僕と結婚してよ~」ってダフネを追いかけて、ダフネは追いつかれそうになります。すると、ダフネはアポロンに触られるのも嫌なので、触られるくらいだったら自分を植物に変えて死んでしまおう、と月桂樹になるんです。それを見たアポロンは、「キミが僕の恋人になれないんだったら、せめて僕の冠になってくれ。僕の美しい髪を永遠に彩る冠として付き添ってくれ」と。

こうしてアポロンは、月桂樹(ダフネ)を冠にして、ずっとかぶり続けるわけです。これ、自分がダフネだったら、すごく嫌じゃないですか? 樹木になってまで逃げた男性の頭に永遠に居続けなきゃいけないんですよ!

めちゃくちゃ嫌ですね……。

藤村 ダフネだって、「お前の頭を飾るために樹になったわけじゃねえよ」って思っているはずです。アポロンがあまりに独善的だから最初は嫌いだったのですが、調べていくと実はこれ、後付けで作られた設定だということが分かって。もともとのアポロンはもっと高潔な神だったんです。そのギャップで好きになりました。

藤村シシンさんの古代ギリシャ愛「私、アポロンに操を立てる」

月桂冠を身に着け取材に応じてくださった藤村さん

人の間を伝わるうちにアポロンのキャラが変わっちゃったんですね。

藤村 ギリシャ神話って結構そういうのが多いんですよ。例えば、ゼウスっていう最高神は浮気しまくります。でもこれにも理由があって。

ゼウスに限らず、神話に出てくる神って浮気しがちなイメージがあります。

藤村 そう! 神のくせに倫理が欠如していますよね。しかもギリシャは一夫一妻制ですからね。でも実は、ギリシャの各地域の人々が「自分の祖先はゼウスだ」と言いたいがために、そうなってしまっているんですよ。「ゼウスという最高神がもうけた子が、俺たちの祖先だ! 俺たちは神の血を引いているんだぜ!」とみんながあちこちで一斉に言い出したせいで、ゼウスが浮気しまくっているような形で言い伝えられてしまったんです。

そうなんですか! ゼウスからするといい迷惑ですね。

藤村 「浮気してないしてない!」って言いたいかもしれないですよね(笑)。

古代ギリシャの哲学と倫理崩壊のギャップに熱中

藤村 結果的に、浮気ばかりして倫理が崩壊しているような神話が語られていながら、古代ギリシャでは哲学や数学が盛んで、そのギャップもまた面白いんですよ。古代ギリシャにハマった最初のきっかけは高校生の頃に見た『聖闘士星矢』というアニメだったんですが、調べていくうちに古代ギリシャそのものの面白味に熱中していきました。

古代ギリシャの哲学者や数学者というと……?

藤村 ソクラテスにアリストテレス、プラトン、ピタゴラス、医術だとヒポクラテスなんかもいます。

そうそうたるメンバーですね。

藤村 で、高校生だった私はそのまま受験の選択科目を日本史から世界史に変えるという暴挙に出ました。先生にはめちゃくちゃ止められましたけどね。日本史選択である程度授業も進んでいましたし、暗記科目を途中で変えるのはリスクしかなくて。先生には「日本史で受験をして、大学に行ってから世界史をやることもできる」と言われたんですが、今好きになったから、今からやるのが一番いいのだ! という感じで。

藤村シシンさんの古代ギリシャ愛「私、アポロンに操を立てる」

受験の世界史って、ギリシャ以外にもたくさん覚えなきゃならないのに……。

藤村 ギリシャって教科書で言うと全体の3ページくらいですからね(笑)。結局最後まで世界史が受験の足を引っ張っていました。

私、思えば結構そういう危ない橋を渡り続けていて……史学科でそのまま大学院まで進んだんですが、これ、「ゆるやかな自殺」って言われてるんです。

!? どういうことでしょうか?

藤村 理系の院卒は研究職や技術職といった就職口が比較的あるんですが、文系の院卒というとかなり進路が限られているんです。研究職として食べていければ一番いいものの、席が空いてないから相当厳しい。だから念のために教員免許を取っておくのが当たり前の世界で。でも、私は絶対教員には向いていないと思っていたのもあり、最初から退路を断つために、教員免許は取らなかったんです。教授には「えっ! 何それ! 自殺!?」って言われました(笑)。

「卒業したらどうするの?」って?

藤村 そうそう。でも、昔から毎朝早く起きたり、責任のある仕事だったりっていうのは自分には無理だと思っていたんですよ。だから結局そのまま就活もせずに卒業して。

何か別の仕事をして稼ぎつつ、古代ギリシャやギリシャ神話の研究は趣味として続ける……という選択肢もありますが、本職にしたい気持ちが強かったのでしょうか。

藤村 私、多分「これ(研究)が自分の仕事になる!」という変な確信があったんですよね。この道以外で生きようとも思っていなかった、というのもあると思います。大学在学中から個人で発信していたのをSNSで運よく見つけてもらえて、2015年に本(『古代ギリシャのリアル』)を出させていただいたのをきっかけに仕事の幅も広がりました。

古代ギリシャのリアル

古代ギリシャのリアル(実業之日本社 )

結果、今はこの活動一本で生計を?

藤村 そうですね。本を出すまでは違うバイトもしていたのですが、今はこれだけで。結果的になんとかなっていますけど、こうして振り返ると全然計画性がないように聞こえますね……! ヤバい!

牛を殺して盛り上がる古代ギリシャの祭儀を再現!

本を出したことから、どのような仕事につながっていったのでしょう?

藤村 NHKの講師をやったり、イベントをやったりしています。イベントでは「アポロン生誕祭」と題して古代ギリシャの祭儀を再現したこともあります。

どんな祭儀なんですか?

藤村 祭壇で牛を殺して、みんなで賛歌を歌って、市民たちとめっちゃ盛り上がる、みたいな祭儀で。これを実現するにあたって、まずは歌ってくれる人をTwitterで集めたんです。最初から「牛を殺して祭儀をしたいんですよ」なんて言うとビビって誰も寄ってこないだろうと思って、まずは古代ギリシャの楽器と楽譜をTwitterに載せて「この楽譜、読める人がいればいいのにな~」ってツイートして。

匂わせ系ツイート!(笑)

藤村 そう、匂わせたんですよ。我こそは楽譜を読めるというTwitter民がリプライしてくれると踏んで。それで、リプライくれた人たちを集めてオフ会をして、その場で「祭儀をやりたいから、楽譜を読めて歌える皆さんには古代ギリシャ語で聖歌隊をやってほしい」とスカウトしたんです。それで、その人たちに牛の役をやってもらったり、歌ってもらったりして、無事祭儀を再現できました。

藤村シシンさんの古代ギリシャ愛「私、アポロンに操を立てる」

祭儀でも使用する竪琴

最近では、古代ギリシャが舞台のゲーム『アサシンクリード オデッセイ』(アクションゲーム『アサシン クリード』シリーズの最新作)と公式コラボをされて話題になっていましたよね。どんな経緯で関わるようになったんですか?

藤村 2018年の初めくらいから、次の『アサシンクリード』の舞台が古代ギリシャだということは情報として入っていたんです。前作は古代エジプトが舞台で、古代エジプト勢の中では考証もしっかりしていて、世界観もよかったと評判で。だから、「次はギリシャなんだ!」とすごく楽しみにしていたんですよね。

「古代エジプト勢」って言うんですね。

藤村 やっぱり古代ギリシャ勢と一緒で、古代エジプト勢みたいなのもいるんです。でもエジプトの方がずっと先輩なので、先輩だと思っているんですが。

歴史上の先輩?

藤村 そう、歴史上の先輩ですね。古代ギリシャ人も、古代エジプトのことは学問も進んでいる国で先輩だと思っています。

で、たまたま『アサシンクリード』の広報の方から「コラボで仕事をしませんか」とお声がけがあって、関わらせていただくことになりました。普通に買おうと思っていたゲームのお仕事だったので、これは嬉しかったですね。

ubiblog-jp.com

古代ギリシャのおかげで嫌いだった科目も楽しめる

好きなことを仕事にされることでの発見は何かありましたか?

藤村 最初はギリシャ以外のことは一切やりたくないと思っていたし、ずっと古代ギリシャのことを考えて生きていくと思っていたんですよ。ただ、調べていくうちに、それ以外の知識もどうしても必要になってくるんですよね。それこそ、英語が分からないと、洋書で調べ物ができなかったり、竪琴持って歌う人が出てきて音楽のことを勉強しないといけなかったり。古代ギリシャ人の料理に関する文献もあって、私も実際に作ってみるんですが、それには家庭科の知識が必要になってきます。

完全に古代ギリシャの勉強だけをしていればいいわけじゃないんですね。

藤村 でも、やっているうちに、周辺の知識を得るのも楽しくなってきたんです。それこそ、私は昔、音楽が嫌いだったんですけど、高校時代にあれだけ苦手だった音楽を、古代ギリシャのおかげで楽しんで学べるようになりました。古代ギリシャの中に、全ての科目が入っていて、そういう知識がないと古代ギリシャのことを本当に理解することができないと分かるので、学ぶモチベーションも上がります。

当時「こんな勉強がなんの役に立つんだよ!」って言ってましたが、高校時代に必要なかった科目は一つもないんですよね。ちゃんとやっておけばよかったし、あのときあんなに勉強が楽しくなかったのはなんでだったんだろう! と思います。

結婚の圧力に対し、真顔で「私、アポロンに操を立てる」

逆に、この仕事をしていることでの苦労はありますか?

藤村 強いて言えば、親戚からの目ですかね。親戚で集まったときに、「どこどこの○○ちゃんは立派に就職して、結婚していて子どももいて」「結婚もせずにプラプラして」などと言われるんですよ。「せめて恋愛くらいしなよ」とか。

嫌だなぁ……。

藤村 でも、ひとついい手があって。真面目な顔で「私、アポロンに操を立てる」って言うと、「こいつもうダメだ」って思って引いてくれるんですよ!

(笑)。

藤村 もう冗談じゃなく、真顔で「アポロンじゃないとダメ!」「神が好きなんですよ!」って言うと、サーッと引いていくので、オススメです。もちろん演技じゃなくて、私は心からのマジで言っているから効力があります。

ちなみにご両親は、活動に対してどんな反応を示されているのでしょうか?

藤村 最初……それこそ『聖闘士星矢』にハマって進路変更する! と言い出した頃とかはそりゃ心配していましたね。ただ、今となっては「育て方がよかったな」みたいな雰囲気になっています(笑)。

今後の目標は何かありますか?

藤村 たくさんあります! 例えば、神殿を建てたいですね!

神殿!?

藤村 だって神殿建てたことあります!? ないでしょ!?

えっ、いや、ない、ないです!

藤村 やっぱり、パルテノン神殿なんかはギリシャの神髄なんですよ。人間が見上げたときの目の錯覚をきちんと考えて柱の太さを考えられていて、そういうの、やってみたくないですか!?

うーん……。神殿を建てるからには、今後は建築技術を学んでいかないとですね。

藤村 そこは、祭儀イベントをやったときみたくTwitterで石を運んで削る動画をアップします。そして「う〜ん、一人で神殿建てるの難しいなぁ。誰か一緒に神殿建ててくれる人いないかな〜?」って匂わせていくことにします。でも石って高いからなぁ……。最終目標かもしれません。死ぬまでには建てたいですね。

藤村シシンさんの古代ギリシャ愛「私、アポロンに操を立てる」

取材・文/朝井麻由美
撮影/関口佳代

お話を伺った方:藤村シシンさん

藤村シシンさん作家、古代ギリシャ・ギリシャ神話研究家。高校のときに見たアニメ『聖闘士星矢』の影響でギリシャ神話にハマって以来、古代ギリシャに人生を捧げることになる。NHKカルチャー教室講師。古代ギリシャ総合体験型エンターテイメント「古代ギリシャナイト」主催。
Twitter:@s_i_s_i_n

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次回の更新は、2018年12月12日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:テレビアニメ化もされた、車田正美によるマンガ。作品の題材としてギリシャ神話が用いられている

「もし京都が東京だったらマップ」作者の岸本千佳さんが見つめる“街と仕事”

岸本さん

東京の丸の内は、京都でいうなら烏丸? ――2つの街を知る人なら、思わず「ああ、なるほど!」とうなずいてしまう「もし京都が東京だったらマップ」。2015年末にネットで公開されるとまたたく間に反響を呼び、翌年には同タイトルで書籍化もされました。作者の岸本千佳さんは、京都の不動産プロデュース会社「addSPICE(アッドスパイス)」の代表を務める不動産プランナーです。京都に生まれ育ち、東京で働いたのち再び京都に戻って独立した岸本さん。自身の職業を通じて、どんなふうに“街という生き物”と関わっているのでしょう。

建築家という夢を見失ったとき、世界一周の船旅に出た

岸本さんの肩書きは「不動産プランナー」。どんなお仕事なのでしょう?

岸本千佳(以下、岸本) まず、建物のオーナーさんから「この建物をどうにかしてほしい」というざっくりした相談を受けることから始まります。建物やオーナーさんに合わせてどんな使い方をするのか企画し、建築士さんや工務店さんとチームを編成してリノベーションを行います。チームの指揮者みたいな感じで、みんなの得意なことを引き出す仕事です。

建物のリノベーションをした後は、仲介も手掛けられているのですか?

岸本 そうですね。客付けから、建物の管理・運営まで一貫して行っています。私は大学卒業後に東京で不動産とリノベーションを手掛ける会社に就職したんですが、その頃の経験が京都に戻って独立してからも役立っていますね。東京では5年間で約40棟のシェアハウスを作り、物件の企画、入居者の仲介や管理を担当していました。

岸本さん

岸本さんが建築に興味を持ったのは、小学校4年生のとき。スペイン・バルセロナにあるサグラダ・ファミリアを写真で見たのがきっかけだったそうですね。

岸本 当時から「将来の夢は建築家」と決めていました。中高生の頃には、町家をリノベーションしたカフェに憧れて、「町家を改装する建築家になりたい」と思うようになりました。

なかなか渋い女子中高生ですね!

岸本 今思えばそうですね。「建築の道に進むんだ」と強く信じていたので、もともと文系だったのを一浪してから理転し、滋賀県彦根市にある滋賀県立大学環境建築デザイン学科に入学しました。ところが、「さあ、建築を学ぶぞ!」と大学に入ったら「あれ? もしかすると設計には向いていないかも?」って。

どうして、設計には向いていないと思ったんですか?

岸本 設計で食べていくには、適性も情熱も圧倒的に足りないと思いました。さらには、のんびりした彦根での学生生活にも閉塞感を感じてしまって。「これは外に出ないとまずいな」とお金を貯めて、大学2年生の夏にNGOが企画する世界一周の船旅に出ました。建築以外にやりたいことを見つけるなら、早い方がいいと思ったんです。

岸本さん

船旅の中では、新しい出会いや気付きはありましたか?

岸本 寄港地には最貧国と呼ばれるような国もあり、同乗者の中にはそういった地域での支援活動を希望する人たちもいました。一方で、もし私が建築家の世界に進むなら、付き合うのは家を建てるだけの財力のある人たちです。両極端な世界を比べたときに、どちらの世界にも積極的に関わるイメージを持てなくて。「私はどういう人を幸せにしたいんだろう?」と自問して、家や建物に関わる仕事の中でも「普通の人の暮らしを豊かにしたい」と、不動産の仕事に興味を持ち始めました。

より多くの人の暮らしを幸せにすることを考えたときに、不動産という仕事が選択肢の中に見えてきたんですね。

岸本 そうですね。「不動産の仕事をやりたい!」というよりは、自分のやりたいことをする手段として、不動産に一番可能性を感じたんだと思います。

独立して仕事をする街として「京都」を選んだ

東京の不動産ベンチャーに新卒で入社されたのは、どんな経緯だったんでしょうか?

岸本 就職活動は当初なかなかうまくいかなかったんですが、その間に短期で宅地建物取引士の資格を取得し、リノベーション業界の社長ブログやSNSをチェックして、自分と相性が良さそうだなと思ったら連絡するようにしていたんです。そんな中で、「新卒お断り」と書いている東京の不動産ベンチャーにダメもとで応募して採用されました。社会人1年目は、住む場所も仕事も初めてだし、仕事もめちゃくちゃ忙しかったから、毎日のように泣いていました。今でも、会社があった渋谷の道玄坂の方に行くと「あの頃、ここを歩きながら泣いて会社に戻っていたなあ」という記憶がよみがえります。

切ない思い出ですね……。京都で生まれ育った岸本さんにとって、東京はどんな街でしたか?

岸本 東京は、わりと肌に合いましたね。仕事では、シェアハウスだけでなくDIYできる賃貸の事業も立ち上げました。他にも、渋谷の街で学びの場を提供する「シブヤ大学」でスタッフとして活動したり、友人と同じアパートの隣室同士に住んでみたり、仕事以外の居場所作りもできました。

岸本さん

仕事もプライベートも充実していたのに、なぜ京都に戻って独立する道を選んだのでしょう。

岸本 「独立したい!」という野望があったわけではないんです。ただ、既存の建物を生かすリノベーションの仕事をしていると、同業の人たちから「京都出身なのに、何で京都でやらないの?」って結構な頻度で聞かれたんですよ。

京都には町家をはじめとして、リノベーションしがいのある古くて面白い物件がたくさんあるじゃないか、と。

岸本 確かに、京都の建物には魅力的なものがたくさんあると感じます。それに、リノベーション業界でいろいろな人と知り合っていくと「かなわないな」という人にもたくさん出会うわけです。そうすると、東京での自分の存在意義が感じられないというか、「東京では、自分がいなくても回っていくんだな」と何となく思い始めて。一方で、京都のリノベーション業界ではまだまだプレイヤーが少ない。

リノベーション業界で魅力的な素材があり、プレイヤーが少ない京都の可能性が見えてきたんですね。

岸本 そうです。京都に帰ろうと思ったのは、地元が好きだったからというよりは、仕事の可能性を感じたから。独立して仕事をする場所として、面白そうだから京都を選びました。

「もし京都が東京だったらマップ」はこうして生まれた

2014年1月、5年ぶりに戻ってきた京都での仕事はどんなふうに始まったのですか?

岸本 さすがに、京都でイチから仕事を作るのは難しいので、最初の1年間は京都市役所に勤めました。ちょうど京都市で空き家活用に関する条例が施行されるときだったので、空き家対策の部署で非常勤の仕事があったんです。週4日勤務で兼業も可という好条件で、京都の状況を把握できるという意味でもすごくありがたい仕事でした。

地元とはいえ、京都で働くのは初めてだったんですよね。「仕事する街」としての京都はいかがでしたか?

岸本 住んだり遊んだりする京都と、働く京都は全然違っていましたね。仕事の内容は東京と変わらないのに、物件の数が想定よりかなり少なかったりして、まるで違う仕事をしているかのような感覚でした。さらに、個人事業主として「addSPICE」を立ち上げたときは人脈もほぼゼロに近い状態。最初の7カ月くらいは「東京に帰った方がいいのかも」とずっと思っていました。勢いよく「京都で独立します!」と宣言するんじゃなくて、「ちょっと行ってきます」ぐらいにしておけばよかったって(笑)。

ちょっと後悔していたんですね(笑)。「京都でやっていけそうだ」と思えたのは、何かきっかけがあったのでしょうか。

岸本 京都に帰ってきて半年が過ぎた頃から、仕事で出会う人たちから派生する人脈と急につながり始めて。設計する人、工務店さん、デザイナーさんなどとのネットワークができて、自分のやりたい仕事がうまく回り始めた感覚がありました。

2015年末に岸本さんがブログで公開した「もし京都が東京だったらマップ」は、京都のさまざまなエリアを東京の地名に例えるというユニークな視点が話題になりましたね。その原型ができたのも同じ頃ですか?

岸本 そうですね。京都への移住を支援するプロジェクト「京都移住計画」で物件紹介をしていたんですが、京都のことをよく知らない人ほど、京都に対する幻想がスゴくて。リアルな京都とのギャップがあまりにも大きいというか……。仕事を辞めて移住するのは人生の一大事だから、ちゃんと現実を伝えて判断を委ねた方がいいと思って、原型となる地図を作って見せていたんですね。それが思いのほか反応がよくて。


もし京都が東京だったらマップ (イースト新書Q)

『もし京都が東京だったらマップ』(イースト新書Q)

「この地図をもっと多くの人に共有してみよう」とブログにアップしたんですね。

岸本 友達の友達くらいまでに知ってもらって、役に立ったらいいなと思って無料ブログに載せたら、思いのほかバズってしまったんです。「Yahoo!ニュース」に取り上げられて、日本テレビの「news zero」でも紹介されて。さらにはたまたまテレビを見ていた出版社から声が掛かって、本を作ることにもなりました。

本が出たことによって、お仕事にも変化はありましたか?

岸本 思っていた以上にありました。「京都を東京になぞらえるなんて」と、京都の人には嫌われるんじゃないかと思っていたんです。ところが、本を読んでくださった京都の老舗の会社さんからの引き合いが結構多くて。本質的な部分を理解した上で依頼していただいている感じがして、うれしいです。

仕事を入り口にして、また新しい街に居場所を作る

岸本さんは、自分が暮らす街をどうやって選んでいるんですか?

岸本 私個人としては、自分の身を投じて実験しているところがあります。居心地の良さよりも冒険心というか。東京では、シェアハウスにも住みましたし、部屋よりバルコニーが広い物件に住んだこともあります。京都でも「これから面白くなりそうな京都駅周辺」とか、「学生マンションが増え、街の雰囲気が変わってきている元田中(もとたなか)」とか、変化を肌で感じられるところに身を置くのが好きで。拠点を構えたり、住んだりする中で、小さな実験を繰り返しています。

不動産プランナーという職業ならではの選び方ですね。引っ越しを検討している人に対しては、いつもどんなアドバイスをしていますか?

岸本 人によっていろいろな基準があると思うので、まずは気になる街を歩いてもらいます。そこにいる人の服装、しゃべり方、好きなお店があるかどうか。自分の中で「良さそうだな」という感じがヒントになると思います。物件の購入を検討している人には、まずは賃貸で。住む時間の中で「ここが好き」という場所を見つけてから、本格的に探すことをおすすめします。

岸本さん

結婚・出産などを機に、住む場所や暮らし方、働き方を考え直す人は多いと思います。岸本さんご自身も、最近、和歌山在住のお相手と結婚されたそうですね。結婚を経て感じておられることはあるでしょうか。

岸本 結婚や出産を経た働き方というのは、今まさに私の中で隠れたテーマになっているんです。京都には、行きつけの店も、友達もできて、ものすごく居心地がよくて。最初は東京に帰りたいと思ったこともあったけれど、今ではすっかり京都を好きになってしまいました。だから、結婚して和歌山に行くことになったときは、「京都100%」でいられなくなることに拒絶反応が出てしまって、今までで一番しんどいと感じたくらいです。

今は、和歌山と京都のどちらを拠点にしているんですか?

岸本 今は、2拠点にして半々でやっています。私の場合は、やはり仕事が自分の大部分を占めていると思うんです。京都に帰ってきたのも、仕事を作るのに適していると思ったからです。それなら、和歌山に仕事を作ればいいと思ったんですよ。自分が和歌山にいたいと思える状況を作ってしまえばいいんじゃないかって。

なるほど。仕事があれば、その街にいる理由ができるということですね。

岸本 東京から京都に帰ったとき、仕事を通して仲間を作ることが、街に入っていく手段になりました。和歌山でも、そうしていくのが一番自分に合っていると思っています。また、和歌山という地方都市で仕事を作ることの面白さも感じています。今、結婚して子どもができて、仕事に戻りたいけれどフルタイムで働くのは難しいという悩みを抱えている女性は多いと思うんです。もし、和歌山で子育て中のお母さんに適したやりがいある仕事を作れたら、全国の地方都市で暮らしている女性たちを救う道筋になるかもしれない。そう思うと、和歌山が楽しく見えてきました。

結婚というライフステージの変化が、また新しい仕事を生み出しそうですね。

岸本 はい。これから数年かけて追いかける長期的な目標になりそうです。結婚や出産をきっかけに働き方を変えなければならないという、一見マイナスなことをポジティブに捉えたい。住まいを作る人はいろいろなことを経験した方がいいと思うので、そういう意味でも、住宅事業はまだまだ女性が参入できる分野なのかなと思っています。

取材・文/杉本恭子
写真/浜田智則

お話を伺った方:岸本千佳さん

著者イメージ

1985年京都生まれ。2009年に滋賀県立大学環境建築デザイン学科を卒業後、東京の不動産ベンチャーに入社。シェアハウスやDIY賃貸の立ち上げに従事する。2014年に京都で「addSPICE」を創業。物件オーナーから不動産の企画・仲介・管理を一括で受け、建物の有効活用を業とする。そのほか、改装できる賃貸物件の専門サイト「DIYP KYOTO」の運営、京都への移住を支援するプロジェクト「京都移住計画」の不動産担当、暮らしに関する執筆などでも活動している。著書に『もし京都が東京だったらマップ』(イースト新書Q)。
Twitter:@chicamo

次回の更新は、2018年11月28日(水)の予定です。

編集/はてな編集部