「普通」になれず悔しかった社会人生活の中で、エスカレーターが教えてくれた「楽しむ」ことの大切さ

 田村美葉

エスカレーターの収集と分類という、謎の趣味を10年ほど続けています。

インターネットの世界では、ほとんどの場合、「エスカレーターの人」として認知されている私ですが、ふだんはエスカレーターとは何も関係ない仕事についており、その社会人生活もなんだかんだと10年を超えました。

今から10年ぐらい前の秋ごろ、大学4年の私は、薄暗い教室に集まった大勢の後輩たちに向けて、「就職活動成功体験談」を語っていました。他の登壇者に比べて明らかに見劣りする自分の内定先に引け目を感じながらもそんな大役を引き受けたのは、所属する研究室の中から1人代表を出すように言われ、単純にその時点で就職が決まっている人が私しかいなかったためです。

10人以上いた同級生たちの進路は、院への進学、他大への進学、留学、就職留年、単なる留年、ミュージシャンになる、まったく不明、など自由気ままで、文学部をストレートに4年で卒業して就職する、という私のような人は少数派でした。

この10年、いつもそのときの「就職する」という選択が本当に「成功」だったのか、問われている気がしていました。第一線で活躍する方々と比較して私が語れることなんてなんにもないな、と思いながら、また「仕事について語る」という大役を引き受けてしまった今、あらんかぎりの虚栄心でもって語ったあの頃よりは少し正直に、私の「体験談」をお話ししたいと思います。

怒られると泣いてしまう病気

会社の帰り道、夜のオフィス街で静かにゆっくり動き続けるエスカレーターに、よく癒やされていました

普通の会社で普通の社会人生活をスタートした私は、自分が「普通ではない」ことに直面してとても悩みました。具体的には、怒られると泣いてしまう“病気”に罹患(りかん)していました。

プライドが高いとか、承認欲求の塊とか、自己肯定感が低いとか、別の言葉でも言い換えられますが、なんにせよその病気は、社会人としては致命的です。なぜなら、すべての行動原理が「できるだけ怒られないこと」になるから。

怒られるのが嫌だから、電話がとれないし、アポがとれないし、ミスの報告ができないし、嘘をつくし、責任重大な仕事から逃げたい。友達もいない。最終的には、特に怒られるわけでもない評価面談で、毎回泣いていました。

「普通の社会人」になって生きていくことに、なんとなくつまらなさを感じていたはずなのに、その「普通」にすらなれない自分に、とてもがっかりしました。そして、「普通」になりたくて仕方がありませんでした。

「“普通”に考えたらわかるよね」「社会人だったらそれぐらいは”当たり前”でしょ」「なんでそんなこともできないの」

そういうちょっとした言葉に、私は普通じゃないんだ、私は社会人失格なんだ、こんな私には生きている価値もない……と、気軽に絶望する毎日でした。

他人の「普通」に合わせて生きる虚しさ

それでもどうにかこうにか、社会人生活を続けていると、10年もすれば私にはできないと思っていた「普通」のことができるようになってきました。

ヤバいと思ったらまず電話する。ミスをしたら即座に謝る。わからないことは質問する。ちゃんと頭を下げて人に依頼する。わからなかった「普通」をひとつひとつ分解し単純な動きにして、意識して繰り返す。そうやって、ぎこちなくともなんとか、まずまず、というレベルまでは来れました。

新入社員を教育する立場になって初めて、これらは「できて当たり前のこと」ではなくて、「できなくても当たり前のこと」だったなぁと感じたし、できるようになった自分が嬉しくもありました。特別な技術が必要な専門職や営業職ではなく、その間を取り持つディレクション的な立場になることが多く、「自分は調整のプロフェッショナルになれるなぁ」と思うこともよくありました。デスマーチ的な無理めの課題を粛々とこなしていくのは、わりと得意なのではと思います。

そんなふうに自分に自信がつく一方で、評価面談では相変わらず泣いていました。「10年後、何をしていたいですか?」という当たり前の質問に、答えることができませんでした。

自分のやりたいことは押し殺して、妥協だらけで仕事を回しているうちに、自分の本当の気持ちがいつの間にか、まったく見えなくなっていました。それなのに、「やらなくてはいけないこと」にばかりよく気が付くようになって、「本当は苦手なこと」ばかりがどんどん得意になっていく。他人の評価だけが死ぬほど気にかかり、不安でいっぱいでした。

そして30歳を迎える頃になると、結婚と出産が「女の人生のやらなくてはいけないことナンバーワン」にのしあがってきました。どうにかこうにか「普通の社会人」になれたと思ったら、今度は「普通の女」にならなきゃいけないのかと思ったら、なんだか一気に力が抜けていきました。

自分が必死になって登っていた山が間違いで、遠くから「おーいそっちじゃないよ」と言われた気分でした。「だったら最初から言ってよ!」と叫びそうになって初めて、他の人の「普通」に合わせて生きることに大きな虚しさを感じました。

私にとってずっと大切だった、「自分が楽しければ、それでいい」という言葉

自分で言うのもなんですが、私は結構がんばるタイプだと思います。怠惰でやる気にムラがあるのは事実だけれど、そういうときですら、がんばっていない自分に罪悪感がある。何かができないとき、うまくいっていないときは、いつも精神的に不安定になってしまう。

そういういろんな問題があって、今は、がんばっていたディレクションの仕事から完全にはずれて、代わりに半ば趣味で続けていた「文章を書く仕事」のみを会社で担当させてもらっています。

そんなありがたい境遇にいながら、それでも私は傲慢なことに、今でもずっとモヤモヤしています。後輩が、私がやっていたときよりぐんぐん成果をあげていたり、Facebookで知人が結婚や出産を報告していたり。自分より「がんばっている人たち」を見るといつも胸がぎゅっと苦しくなって、つらい。私は結局何も達成できていないまま、苦手なことから逃げて楽しいことをやっているだけなんじゃないか、という気がしてきます。

そんな絶望しがちの人生で、どうしようもなくなったとき、私にはいつも思い返す言葉があります。その体験は、かれこれ小学生時代にまでさかのぼります。

ある日、休み時間にサッカーで遊んでいたとき、自分に回ってきたパスが上手に受けられず、「私、いないほうがいいよね……」と同じチームの男の子に何気なく話したことがありました。そのとき、その子は「自分が楽しければ、それでいいんだよ」という言葉をくれました。

結果が出せなくて、今までやってきたことが全部無駄だった気がして、泣いてしまう夜にその言葉を思い出し、「でもまぁいっか、楽しかったし」と思えたことが、今までどれだけ、私の救いになってきたことでしょう。

エスカレーターが教えてくれた、大切なこと

正直に言って、エスカレーターの収集と分類にのめりこんだのは、うまくいかない仕事からの「逃げ道」としての部分が大きかったと思います。

ただ、エスカレーターを好きでいることは、奇跡的なまでに「自由」なことでした。誰かと競い合わなくてもいい。「普通」を気にしなくてもいい。目標もないし、そもそも、なんの役にも立たない。でも楽しい。ただ楽しくやっているうちに、テレビ出演もしました。ライターとしての仕事を初めていただいたのもエスカレーターを通じてでした。だけど、それは決して、私にとっての「目標」ではなかった。

今だって、特に本を出版したわけでも、さほど有名な人になったわけでもありません。ライターとしてのお仕事だけで食べていくことすらできていない。おそらく、それを「目標」だ、「夢」だと考えてやっていたら、私はまた、他の人たちと比較して、どうして私はうまくいかないんだろう、もしかして、エスカレーターっていう題材が悪いんじゃないか……ライターとしての才能がないんじゃないか……とか、うじうじ悩んでいたんではないかと思います。

ただ、そんなことは、どうでもよいことなんです。

時々、エスカレーターのサイトを見て、「これ、自分で全部、撮りに行ったんですか?」と驚かれることがあります。もちろん、そうです。そうでないと意味がない。現地でそれに出会ったときの、人には説明しにくい自分だけの感動が、「エスカレーター収集」という趣味を、そして私の人生を支えているから。

そういうふうに思えるようになったことは、私にとって最大の幸運でした。あんなに逃げていた仕事も、「認めてもらいたい」という気持ちが強すぎて、仕事それ自体に打ち込むことの楽しさをいつしか忘れていたことにも気付きました。

誰かと競い合うことではなく、誰かに認めてもらうことでもなく、何の意味もなく何かに没頭することの楽しさを、私はすべて、エスカレーターに教えてもらいました。

それが何の役に立つのかなんてどうでもいい。ひとつひとつ、目の前にあることに夢中になること。ひとつひとつ、ちゃんと「楽しい」と思えるやり方を選ぶこと。

今だって迷いまくりだし、これが答えだ!なんて言うつもりはぜんぜんないけれど、仕事でも大切なのは、自分が「楽しい」かどうかなんじゃないか、という気がしています。

何につながるかは謎でも、ひとつひとつ、自分が楽しいと思う方法で、妥協せずに取り組みたい。自分の気持ちを押し殺して最短距離を行こうと無理にがんばるより、ただ夢中で、楽しんでいるときのほうが、ひょんなことから思いがけずよい話がやってきたりもするものです。結果とか、夢とか目標とかそんなものは、成り行きで叶えればいいのだと思います。何も成し遂げていない私が、今、正直にお話できるのはそんなところです。

あの日、小学生だったあの子のように、いつも心からのまっすぐな言葉を、大切な誰かに届けられるひとでありたい、と思います。

著者:田村美葉 (id:tamura38)

田村美葉

1984年生まれ、石川県金沢市出身。東京大学文学部卒。会社員。 日本でおそらく唯一ぐらいのエスカレーター専門サイト『東京エスカレーター』を運営、「高架橋脚ファンクラブ」の会長職を務めています。
http://www.tokyo-esca.com