『私たちは締め切りをなぜ守れないのか』という本が書店に並んでました。おっ、これを読めばもう締め切りに遅れることはないのか。そう思って本を開いてみると「締め切りは守らなければならない、のだろうか」の一文で始まります。

「……そうですよ」と思いながらも、続く第一章では「そもそも時間とは何かを明らかにする」とあります。これはえらいことになってきました。この本は時間の枠組みから考えていくつもりです。

読んでいくと、当たり前だと思っていた時間の考え方がみるみる変わってきました。すごい、これは時間についての本だったのか。

どうやら私たちが締め切りを守れないのは、「物語」を追い求めすぎる現代のせいだったようです。そして、現代には「遊び」が足りないとも。

書いたのは新進気鋭の哲学者でもあり自身が会社員でもある難波優輝さん。お話を聞きました。

話を聞いた人:難波優輝(なんば・ゆうき)

1994年、兵庫県生まれ。美学者、会社員。立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学サイエンスフィクション研究開発実装センター訪問研究員。神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程修了。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。著書に『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社現代新書)、『SFプロトタイピング』(共著、早川書房)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)、『性的であるとはどのようなことか』(光文社新書)など。

 

哲学をヒントに時間について考えよう

『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版/2025年)

──「なぜ君は締め切りを守れないのか」と私たちは問われますよね。この本では「まず時間について考えてみましょうか」と切り出すのでつい笑ってしまいました。

「なんで(守れないの)?」って、日常生活においては叱責ですよね。求められている答えは「すいませんでした」でしょうけれど、そこを文字通りにとって考えてみるのは哲学が得意とするところですね。

そこで「なぜ守れないのか」をよく考えたら「だって締め切りのほうが悪いんじゃないですか?」といった答えになる。

──締め切りの本? と思ったら、職場や我々の生活における「時間」についての本なんですね。

そもそも一般的に我々が思っている「時間」というのは、時計が発明された以降のもので、直線的に進む、いわば「時計時間」です。しかし、時計以前からも時間は存在していて、それは四季や自然にある程度左右される循環的な時間意識が強かったんですね。

(『なぜ人は締め切りを守れないのか』p37より 図1 前近代社会と近代社会における時間感覚の対比)

──昔はみな農耕をしながら繰り返し巡る時間感覚のなかで生きていたけど、今はそこが変わっているんだよという。

そうですね。時計の発明によって、四季や自然とは違うやり方で、直線的に時間を組み替えて数えていこう、という発想が広がったのだと思います。

 

私たちはプロジェクトという時間に生きている

──締め切りに追われる苦しさは、そんな直線的な現代の時間の枠組みから来ている。この時間の枠組みは「目的」を強く求めすぎてるんだ、ということですね。

そうですね。目的があるような時間の区切り方の代表が「プロジェクト」だと考えています。会社だけでなく、国家プロジェクトやアートプロジェクトなど、いまや何かしらの企画や活動がはじまるときには必ずプロジェクトが存在しますよね。

結果に向かって進んでいくように締め切りを作って……というプロジェクトの時計が、この200~300年ぐらいの歴史で多用されてきたんです。

『なぜ人は締め切りを守れないのか』帯より

──プロジェクトというもの自体、近代の発明なんだと書かれていて驚きました。

締め切りについて調べていたら論文があって「プロジェクトが誕生したのって結構最近なんやなあ」と自分自身も驚いたんですね。『ロビンソン・クルーソー』の作者がプロジェクトに関する本を書いているんですが、無人島に流れつき、そこで生活の基盤を整えて帰還を目指すあの話も、まさしくプロジェクト小説(※)ですよね。

※『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォーが書いた『プロジェクトについてのエッセイ』(Daniel Defoe, “An Essay upon Projects”/1697年)によるとプロジェクトが生まれたのは1680年、当時のイギリスはプロジェクト大流行中だったそう。ここで言われているプロジェクトとは、毎年恒例の稲刈りとかではなく、なにか新しい枠組みや考えに利益を求めて他人が投資するようなもの。当時は銀行や保険制度の設立などがあったそう。

ダニエル・デフォー

──プロジェクトは毎年の稲刈りとかではない、自分たちがやったことがなくてもっと巨大なものを成し遂げること。それを細かく分割して締め切りを作っている。これが会社で流れてる時間ですかね?

業種によるとは思うんですけど、多くの場合、そのイメージです。営業職とかだと「この季節が来たから、お得意さんにご挨拶に行こうかな」みたいなプロジェクトというよりは自然寄りな時間もあると思うんですけど。でも、会社における活動の中心はプロジェクトのように思いますね。

──そうではない時間として、自然のサイクルが軸となる農村の時間が例に出されてました。でも、そこにも「稲刈り」というプロジェクトがあるんじゃないかな? と思ったんですが。

時間の責任がこちらにあるかどうかが、プロジェクトとそうでないものの大きな違いという感じがします。「雨が全然降らないから収穫はまだだな」とかは、自然寄りな時間だと思います。

その点でいうと、例えば町の和菓子屋さんなんかは、基本的には「朝あれやって昼これやってお店閉めて終わり」みたいな毎日のサイクルがあるでしょうし、現代でもそういうプロジェクト的ではない働き方も多いですよね。プロジェクト時間の方は、視覚的には、ガントチャートを思い浮かべるとイメージしやすいかもしれません。

いわゆるガントチャート。見てるだけでクラクラしますが、現代を生きるわれわれの毎日は実質こんな感じなのでは(Tdadamemd, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

──明確な線引きがあるわけじゃなく、いくつかの時間が入り混じっているイメージですかね。また、本の中では締め切りが悪なのではなく、メリットも描かれます。締め切りのおかげで今やっていることが輝くような。テスト前の勉強時間に部屋の掃除にはまっちゃうみたいなことですかね……。

締め切りのメリットはもちろんあると思います。自分はいつもプロジェクト的締め切りというと「文化祭」を思い出すんですね。文化祭って「みんなで折り紙を貼って巨大なモザイクアート作ろうや!」みたいな「絶対にできへんやろ」みたいなプロジェクトをしますよね。でも、その締め切りに向けてみんなで一生懸命やるなかでの輝きってあると思うんですよ。仕事は文化祭ほど楽しくないわけですが。

自分は本を書く締め切りを自分で設定してやるのが好きなんですけど、それは締切といい関係を結べているなと思いますね。つまりプロジェクト的な締め切りといっても、そのなかで自主性を握り続けられるのであれば、ハッピーなこともありそうな気がします。

 

どうすれば遅れた人にイライラしないのか

──そして「断言してもいい、プロジェクトは遅れるものだ」と力強くありました。

プロジェクトはいろんな人が参加してるから遅れますよね。例えば台風が原因で遅れるのだとしても、「台風が来ることを見越して準備しろよ」みたいに、時間を管理する責任が一人一人の人間に覆いかぶさってくる特殊な感じがプロジェクトにはあると思うんです。

──もっと自然に合わせた時間の枠組みだと、イライラしたりしなくて済むんでしょうか。

「春が来るのが遅いから怒る」というのはできないでしょうね。人間が作ったスケジュールに合わせると「誰かが悪い」ことになってしまうから、いろんな人がイライラしている。

でも、そもそも「合わせられない事情」が一人一人あるわけです。「締め切りって合わせられへんもんやな」「じゃあどうしよう」と頭を使っていかないといけない。そういう態度になるべきだと考えています。

──私の話ですが、いつも約束に決まって20分ぐらい遅れてくる人がいて、わかってるのにイライラしてしまうんですよね。

われわれ日本の文化が時間に厳しいというのはありますよね。中国の知人が言うには、中国では電車に時刻表がなくて、ホームに行って初めて「次は15分後」とかわかる。そんなふうだと、仕事でも20分ぐらいは「まあ電車逃したんやろ」と誰も気にしないらしいんです。

日本は精緻なダイヤで運行してるから「一人一人が意識してたら時間なんか調整できるやろう」と思う人が多いですよね。

でも、例えば車椅子の人の場合、エレベーターを使おうとしたら先客がいてずっと待つ、ということがある。つまり、実は「時間を合わせられる」というのは、元気だったりハンディキャップがなかったり、時間に合わせる能力が高かったりする人に限っての話なんです。そういう人が、たまたま多くを占めているだけですよね。

一方、時間に合わせられないのは、その人が悪いわけじゃなくて「エレベーターが混んでいる」とか、小さな理由になってくる。なので時間を合わせられる人にはいいけど、合わせられない人にはどんどん負担が大きくなる社会になっている、と自分は思うんですね。

──「とにかく時間どおりに来いよ!」の社会だと、車椅子の人が時間ぴったりに来るには負担がめっちゃ大きいですよね。

とはいえ、自分も目の前の人が1時間遅れたら「どないしてん!」となりますけど(笑)。それも理由があるかもしれませんし、そんな時により大きな視点で「あの人もまあ大変やしな」と思えたら、ちょっと大人な感じがして格好いいなと思っています。

 

均等に分配するのは平等ではない

──本の中で「ケイパビリティ・アプローチ」という考え方が紹介されてますね。同じ金額をみんなに配っても、同じ幸福度が得られるとは限らないという。

交通費に同じ3万円を渡したとして、車椅子の人は移動の大変さが全然違うので、同じ旅行や移動ができるかというと、そうじゃないわけです。なので、車椅子ユーザーの人には3万円プラス、タクシーチケットを渡すとか、その人の可能な能力に従って富や幸せを分配しようというのが根本にある考え方ですね。

平等と公平の違いの図。【Equality(平等)は「全員に同じ待遇・資源」を与えること、Equity(公平)は「個々の状況に合わせて調整し、結果の平等を目指す」こと】画像は interactioninstitute.org より

──均等な分配=平等ではない。

はい。お金を同じだけ渡して「はい終わり」というわけにはいかない、というのがポイントなんです。

例えば出勤のために8時に家を出なきゃならないとして、保育園に預けなきゃいけない人は8時前からやってる保育園を探して延長料を払わないといけない。そんな風に「みんな同じ8時間労働だよ」となっても「いや、全然違うでしょ」となる。

いまの社会は「じゃあ時短で働いていいですよ」となってますけど、短くなった分のお金はもらえない。8時間働くことと6時間働くこと、単に労働時間をお金に換算することは平等なんだろうか? というのはずっと考えてます。

──たしかに。いまの社会で見過ごされてる点かもしれないですね。

「そんなの配慮が大変じゃないか!」とも言われそうですけど、そこは配慮したらいいんじゃない?と思いますね。全員で楽できるような社会にしたい、と本を書きながらよく考えています。そういうことを普通に考えられる社会のほうが、まともな気がします。

──著書の中に、ファッション雑誌で描かれるような3時間睡眠で子育てと仕事を両立するスーパーママ像が出てきますよね。

そういう人もいるかもしれませんが、それって才能の話だと思うんですよ。単に「時間をやりくりするのが得意な人」なのであって、「家の中をきちんと整理整頓するのが得意な人」と一緒じゃないかな。この社会は、たまたま「時間だけ」まっすぐ揃えられる人が称賛されますよね。

この「なんで時間だけ?」というのはさっきのプロジェクトの話につながります。私たちの世界がプロジェクトという概念をベースにしているから、時間の整理をする人が偉いことになってる。でもそれはたまたま流行っただけです。

それって「お皿を5つも棒で回せる」人のすごさのように、そこまで尊敬するもんでもないのではと思いますね。逆にいつも20分遅れてくる人も、「皿回しが不得意なだけ」ではと。

 

いまは「物語」と「ゲーム」が求められすぎている

『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社現代新書/2025年)

──難波さんは『物語批判の哲学』というご著書もSNSで話題になってました。すべてのことに意味や目的があるんだ、といった考え方や言い方がありますが、これを「物語的」だとしている。今って物語が求められすぎてるんですかね?

「物語」と「ゲーム」かなと考えています。さっきのスーパーママだと難しい課題ミッションをどんどんクリアしていくような感じです。

起業家精神の話などで感じる「うまく世の中を発掘してやり抜いていく方がかっこいい」というゲーム的な世界観が今の日本にはあるんじゃないかと思いますね。その遊び方をこっちに押し付けられても困る。

──物語とゲームは、難波さんが人生や人における物事への姿勢として5分類してるやつですね(ゲーム、ギャンブル、パズル、おもちゃ、物語)。「遊び」の5分類として紹介されてましたが、これは生き方ではないんでしょうか?

結局、人って人生をいろんなやり方で遊んでいると思うんです。「遊び」と言うとまったくルールがない遊びだけをイメージすると思うんですけど、でも「私はこう夢があって……」という物語を語るのも語りの遊びだろうし、ゲーム的な遊びもある。

仕事も苦痛なものとされてますけど、一種の遊びな気がするんですよね。例えば、上司のハンコをスタンプラリーみたいに回して、押すときはちょっと傾けて押すとか。どう見ても遊びにしか見えないんですよ(笑)。確定申告も「パズル遊び」が好きな人が作った遊び。

それがルールだというけど、絶対楽しんで作られたりしているものばかりだと思うんですよね。真面目な顔をしている人ほど遊んでいると思うんです。

──遊びというと楽しいイメージですけど、そうでないものも入れると全部「遊び」だろと。なんかやりはじめた意味のないこと、というか。

そういう意味で人生は遊びで、仕事も普通の生活も遊び。今の世界は、ゲームベースの遊びや物語ベースの遊びをスタンダードにしている。「プロジェクト的な締め切りに頑張って間に合わせて見事クリア!」という楽しみ方をベースにしようとしているなあと思ってるんです。でも、ほんとはいろんな遊び方があるんですよね。

──今、みんなキャリアについて「あれをクリアしてこれをクリアして」という語り口で語りますよね。この5分類を見た時に「あー、いるいる」という感じがしたんです。

といっても、この5分類は現代に特有というわけではなくて、人類がオギャーと生まれた時からずっとこの5つぐらいの遊びをやってきていると思うんです。それぞれの人にレーダーチャートがあって、めっちゃギャンブル好きな人とかほどほどな人とかそれぞれにある。

──「ナラティブ」という言い方も流行ってますね。「我々は世界に目的があって生きてるんだ」という見方のために物語があるんですかね?

そうだと思います。物語は「目的」と「因果関係」という二つのパーツでできています。「りんごが落ちたのは重力があるから」というのは因果関係ですよね。因果関係を説明するだけでは物語っぽくないんですよね。

これを昔のギリシャの人は「愛によって落ちた」と言うんですよ。愛する者同士は惹かれ合う。りんごは地球と惹かれ合っているから落ちたのだ、と。ちょっと物語っぽくなってきますよね?

── 一気になってきます。

私たちって因果関係だけだと味気ないわけです。「生まれた、ご飯食べた、子供できた、死んだ」という因果関係に「この子のために生まれてきたんだな」という目的が加わると、ちょっと人を縛り付ける物語になっていくわけですよね。

政治家だったら「安倍元首相の遺志を継いで」とか、アイドルだったら「武道館に行くための物語」を語る。人は物語が大好きなのでそこにどんどん人が参加していく。

でも、5分類のどれが一番偉いとかはないと思うんです。人によって好き好きが違うし、時代によっても違う。古代ギリシャだったら政治家をくじで決めていた。ギャンブルが重要だった世界ですよね。今は政治家それぞれの物語込みの投票で決めているわけです。

──今はたまたま物語の時代なだけ。

自分が大事にしたいのは、どれか一つの遊び方が世界を染め上げていくと悪いことが起きる、という感覚です。腸内細菌でも善玉菌も悪玉菌もほどほどにいないといけない。物語菌やゲーム菌が多すぎると働きすぎて人が死んでしまうとか、物語だけで政治が行われるデメリットがある。そのバランスをうまく回復したいというのが目論見ですね。

自分はおもちゃ的遊びの基準で生きてますが、そうした自分から見ると、他の遊びは全部ちょっとずつつまらないんです。ギャンブルは真剣すぎるし、物語は意味語りすぎるし。

でも世界にはギャンブルの人もいて、おもちゃ的遊びを「真剣さが足りないよね」とか言う。そうやって批判し合う世界が健全だなと思います。全員がプレイヤーで遊びの中で互いを和気藹々と文句言い合っている世界がいいのにな、という世界観ですね。

──なぜみんなこんなに「物語、物語」と言ってるんだろうと。

いまは世の中において「合理性」や「ちゃんとすることが偉いんだ」という世界観になっているから、物語やゲームが流行っている気がしますね。

ギャンブルって適当じゃないですか。自分は競馬が好きなんですけど、展開予想をしても外れるし、適当に名前で買っても当たる。物語やゲームであれば、スキルアップしてちゃんと勝てるようになるとか、「今、何のためにこれをやっているのか」が説明できる。

──まあギャンブルにおける「運」って、ロジックはないですもんね。あくまで運でしかない。

例えば恋愛においても「ちゃんとした恋愛」が求められている気がします。マッチングアプリで共通の好きなものを確認して、とギャンブル性を減らしていっている。

つまり、合理性や理性で説明できることが物語とゲームの根幹にあると思うんです。恋愛なんて何の理由もないけどノリで一緒になっているわ、ということばかりじゃないですか。でも今は「ちゃんと説明できないと、人間としてまともじゃない」という世界観が強い。

──無駄とか「これ何の意味があるの?」というものが嫌われてますよね。

フィクションの物語の中には「無駄」ってあんまり存在しない。すべての登場人物に意義がある。人生は意味のないものだらけのはずなのに、因果関係を目的に従って整理していってる。それは人生の意味のなさに「向き合う遊び方」が訓練できていないと思うんです。

自分は「日本国民が競馬をするようになったらもうちょっといい社会になるんじゃないかな」といつも思っています。ああいった適当さや無意味さを愛せるようになったらいいのに、というのは、おもちゃ箱からこの世界を見ていて思うことですね。

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全編パンチライン……!! これで締め切りを守れるようになるのかと思いきや、時間の考え方は解体されていくし、現代の生きにくさを看破してくるすごい本でした。なんか生きにくいんだよな~というところはすでに思想や哲学界隈で話されていることなんですね。頼りたい、今後も!