大阪から世界へ!日清食品「チキンラーメン」の地元を巡る|企業の民俗学

2018.10.18

大阪から世界へ!日清食品「チキンラーメン」の地元を巡る|企業の民俗学

私たちの身近な商品を作る企業は、どんな地域で生まれ、どのような背景があって今に至るのか? 民俗学者の畑中章宏さんが探っていく新連載「企業の民俗学」、第1回は日清食品が生まれた地・大阪府池田市を訪れます。

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    はじめまして。民俗学者の畑中です。

     

    民俗学者というのは、お祭りやしきたり、ならわしの意味や起源について調べたり、お化けや妖怪について研究するのが主な仕事です。かといって民俗学者は、古臭いことばかり考えているわけではありません。

     

    去年の夏、『21世紀の民俗学』という本を出したのですが、その本ではポケモンGOや自撮り棒、アニメの“聖地巡礼”のような、ゲームや商品、現象について流行の原因を探ったり、「それが本当に新しいの?」といった視点からアプローチしています。

     

    「ジモコロ」のこの連載で始めようとするのは、私たちがふだん口にしたり、使っている商品を製造する企業が、どんな地域で生まれ、どのような背景があって今に至っているかというものです。こうした取り組みはあまり前例がありませんが、ここでは「企業民俗学」と名づけておきたいと思います。

     

    第1回は、「チキンラーメン」や「出前一丁」、「カップヌードル」や「日清焼そばU.F.O.」、「日清のどん兵衛」といったインスタントラーメンで知られる日清食品です。

     

    かつては“田舎”だった「チキンラーメン」のふるさと

    インスタントラーメンの歴史は、大阪府池田市の小さな小屋から始まりました。

     

    池田市といっても京阪神地区以外の人には、ピンとこないかもしれません。大阪の梅田駅から阪急宝塚線の急行で約20分、北西には宝塚歌劇場で有名な宝塚があり、南側には伊丹空港があります。阪神間のベッドタウンのひとつで、古くから交通の要衝として発展してきた街なのです。

     

    1958年、日清食品の創業者・安藤百福(ももふく)が、池田市の借家に住んでいたとき、裏庭に建てた“研究小屋”で、世界で初めてのインスタントラーメン「チキンラーメン」を発明しました。

     

    10月1日からは、NHK朝の連続テレビ小説で、百福とその妻・仁子(まさこ)をモデルにした『まんぷく』が放映されています。この番組でも今後、当時の池田が描かれることでしょう。

     

    池田市は1939年、大阪府内6番目の市として市制を施行して誕生。当時の人口は3万5494人でしたが、50年代後半頃から、市内の公設団地への入居が始まり人口が増加。現在の推計人口は10万人に超えています。

     

    大阪市内で生まれ育った私など、「池田」と聞くと、上方落語の「池田の猪買い」や「牛ほめ」を思い浮かべます。落語では猪がいたり、猟師がいたり、牛小屋があったりと“田舎”のイメージが強い。

     

    地元でも「落語のまち」をアピールしていて、池田駅の北側、歩いて8分ほどのところには、2007年にオープンした「落語みゅーじあむ」(池田市立上方落語資料展示館)という施設もあります。

     

    カップヌードルミュージアム 大阪池田へ

    池田駅から南へ歩いて約5分。閑静な住宅地の中に、レンガ色の立派な建物が現われ、「チキンラーメン」の袋を手にした安藤百福の銅像が出迎えてくれます。

     

    ここが1999年、インスタントラーメン発祥の地に設立された「カップヌードルミュージアム 大阪池田(設立時の名称は、インスタントラーメン発明記念館)」です。なんと入館料は無料!

     

    エントランスホールから展示スペースに入ると、正面に木造の質素な小屋が建っています。この小屋は、百福が「チキンラーメン」を開発した当時の研究小屋を再現したもので、屋外を含め忠実に再現されているのです。「チキンラーメン」試作の苦心と工夫を、リアルに感じることができることでしょう。

     

    館内は、「安藤百福とインスタントラーメンの物語」、「インスタントラーメン・トンネル」「世界のインスタントラーメン」などテーマごとの展示物が充実。

     

    さらに、自分で小麦粉をこね、味付けをして「チキンラーメン」を作る「チキンラーメンファクトリー」(要予約・有料)や、カップを自由にデザインし、お好みのスープと具材を選んでオリジナルの「カップヌードル」を作れる「マイカップヌードルファクトリー」(予約不要・有料)の体験コーナーもあります。

     

    闇市の光景がインスタントラーメンを生んだ

    1910年に日本の統治下であった台湾で生まれた安藤百福は、繊維事業などで成功したものの、戦災で事業は全て灰になってしまいました。太平洋戦争後には製塩事業や学校の設立など、新しい事業を手がけるも、57年には経営を任されていた信用組合が破綻し、無一文になります。

     

    そして当時住んでいた、池田市呉服(くれは)町の借家の裏庭に小屋を建てて、家庭で簡単に食べられるラーメンの開発に取り組み始めるのです。

     

    麺作りに関して全くの素人だった百福は、道具や材料を自力で集め、試作品を作っては捨てるといった作業をくり返しました。そして1年間にわたって研究を続けた末、ようやく完成しました。

     

    百福が、インスタントラーメンの開発に取り組んだのは、終戦直後に梅田駅裏手の闇市で、寒空のもと、1杯のラーメンを食べるために並ぶ長い行列を目のあたりにした経験があったからだと言います。

     

    「一杯のラーメンが、こんなに人々の気持ちを引きつけている。日本人は本当に麺類が大好きなんだ」。百福は屋台の行列を見て、そこに大きな需要が暗示されているのを感じたのでした。

     

    こうして、1958年8月25日に世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が発売されます。「チキンラーメン」は当時、お湯を注ぐと2分で食べられることから「魔法のラーメン」と呼ばれました。

     

    古代に技術者が渡ってきた地域

    ところで、百福が「チキンラーメン」を発明した池田市呉服町は、近くにある呉服神社に地名の由来になっています。阪急宝塚線の高架沿いに参道がのび、駅から歩いて3分ほどでご神域に着きます。

     

    この神社は、応神天皇の時代に、機織・縫製技術を得るため呉の国に派遣された猪名津彦命が連れ帰った4人の姉妹のうち、ここに住みついて機織・栽縫の技術を伝えた、呉服(くれはとり)と穴織(あやはとり)を祀っています。しかも絹や布を指す「呉服(ごふく)」という言葉も、この地名がもとになっているという説があるんだそうです。

     

    古代に最新の技術者が渡来して住んだところで、斬新な製品が発明されたのも、なにかの縁かもしれません。

     

    普及の影には阪急百貨店とダイエーあり

    百福が苦心の末に完成した「チキンラーメン」は、梅田の阪急百貨店で、500食が試食販売されました。値段は85g入りで1袋35円。うどん玉1個が6円、普通の乾麺1個が25円の時代に、かなり高い値づけです。それでも湯をそそぐだけでラーメンができあがるので、主婦たちが「魔法のラーメン」と言って、500食はあっというまに売り切れたといいます。

     

    ところが食品問屋に持ち込むと、比較的高価な「チキンラーメン」の仕入れを問屋は渋りました。それでも食べた人から、好評の声が続々と届き、問屋への注文が殺到したんだそうです。

     

    「チキンラーメン」が発売された1958年は、スーパーの「ダイエー」が、チェーン展開し始めた年でもありました。

     

    創業者の中内功が、第1号店「主婦の店・大栄薬局店」を京阪・千林駅前の千林商店街(大阪市旭区)に開店したのが1957年9月23日。翌年の12月、神戸市に三宮店を開店したのをきっかけに、チェーン店を広げていったのです。

     

    「スーパーマーケット」という新しい流通システムにより、商品を大量販売するルートが全国に開かれていったのです。またダイエーでは、「チキンラーメン」は卵とともに特売品となることが多かったといいます。

     

    1957年頃というと、高度経済成長の真っ只中。核家族や共働き家族が増え、お湯を注ぐだけですぐ食べられ、保存が効き、また栄養価の高かった「チキンラーメン」は、主婦層に受け入れられていきました。

     

    テレビCMで、お茶の間の味へ

    「チキンラーメン」が大ヒットした要因には、マスメディアの積極的な活用もあります。
    日清食品は、「チキンラーメン」発売の翌年から新聞広告を打っていましたが、それ以上に力を入れたのは、急速に普及が進むテレビでした。

     

    テレビ番組のスポンサーになりコマーシャルを制作。「イガグリくん」「ビーバーちゃん」「オリンピックショー・地上最大のクイズ」などの番組を提供し、「チキンラーメン」の知名度を高めていったのです。

     

    1962年生まれの私の世代では、毎日放送(MBS)制作の人気番組、「ヤングおー!おー!」を思い浮かべます。1969年に放送を開始したこの公開バラエティ番組は、71年10月から日清食品の一社提供でした。

     

    初代司会は桂三枝と笑福亭仁鶴で、初代の進行役はMBSアナウンサーの斎藤努。番組提供を読むときのキャッチコピーは「おいしさは世界のことば」で、テーマ音楽の「ハッピーじゃないか」は、「カップヌードル」のCMソングにも使用されていました。

     

    また日清食品のCMに出演していたタレントやCMソングを歌っていた歌手のゲスト出演も多く、ピンク・レディーの「UFO」は、すでに発売されていた「日清焼そば U.F.O.」のCMソングとしてアレンジされています。

     

    池田はモダンな町でもあった

    池田市は、阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇場、東宝を創業した実業家、小林一三(こばやし・いちぞう)が住んでいた場所でもあります。阪急百貨店の梅田本店は、先に述べたように、「チキンラーメン」が試食販売されたところでした。

     

    また、池田駅の南部エリアは小林一三によって、宝塚線開通と同時の1910年に都心通勤用の郊外分譲住宅地の先駆けとして開発された地域なのです。

     

    「チキンラーメン」は、京阪神でも、下町というより新興のモダンな住宅地で開発されました。「チキンラーメン」が発売当時、ほかの麺類より比較的高価だったと言いましたが、「カップヌードル」も、袋麺が25円の時代に1食100円でした。

     

    また「カップヌードル」は、発売翌年の1972年2月に起こった浅間山荘事件がきっかけで爆発的にヒットしました。雪の中で山荘を包囲する機動隊員が、湯気のあがる「カップヌードル」を食べている映像が全国へテレビ中継され、「あの食べ物は、なんだ」と問い合わせが殺到し、火がついたように売れ出したそうです。

     

    「チキンラーメン」も「カップヌードル」も、手軽さだけではなく、斬新さとユニークさ、「少し高くても食べてみたい」という人々の好奇心によって広まっていったのかもしれません。

     

    チキン味のスープの秘密

    「チキンラーメン」のチキン味は、日清食品が世界に進出するにあたって、大きなプラス要因になっています。ヒンズー教徒は牛を食べないし、イスラム教徒は豚を口にしない。しかし、鶏を食べない国は少ないからです。

     

    百福がスープの味をチキンにしたのには、実はこんなエピソードもあります。

     

    百福の家では、庭で飼っていたニワトリを調理して食べていたのですが、調理中のニワトリが突然暴れ出すところを見たため、息子さんは好物だった鶏肉を口にしなくなってしまいました。

    ところがある日祖母が作った鶏ガラスープは、喜んで食べる。それを見た百福は、ラーメンのスープをチキン味にするアイディアが浮かんだんだそうです。

     

    全米オープンを制したテニスプレーヤーの大坂なおみは、日清食品の所属。日清食品の国際性と先見性はこういったところにもみられるのではないでしょうか。

     

    イラスト=てぶくろ星人(Twitter

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    この記事を書いた人

    畑中章宏
    畑中章宏

    小さな神様や妖怪、盆踊りやどんど焼、AIや心霊写真、バッハやホッピーに心を騒がせる民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』『天災と日本人』『ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか』『「日本残酷物語」を読む』『蚕』ほか多数。最新刊は『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)

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