Aマッソが“テレビ”に固執しない理由「売れてへんのやから、捨てるもんは何もない」

Aマッソのお二人

小学生時代からの幼馴染みでもある加納さん、村上さんで結成されたお笑いコンビ「Aマッソ」。近年、その尖った芸風がじわじわと注目を集めています。

テレビでの出演も徐々に増加しているお二人ですが、実は「テレビ」で求められていることに対して違和感を覚えることもあるそう。8月末に単独ライブを控える彼女たちに、テレビで求められることと自分たちの芸風のギャップ、女芸人という枠組みの中で仕事をする上で感じることなどについて伺いました。

テレビで求められることが、全てではない

お二人のコントで「進路相談*1」というのがありますよね。村上さんが将来の夢について相談する生徒役で、先生役の加納さんが偏見に満ちた発言で止めるネタの。このコントが注目され、テレビでも披露してほしい、というオファーもあると聞きました。

Aマッソ「進路相談」

ラーメン屋を開きたいという夢を持つ生徒と先生との掛け合いの中で、「『男女なんて関係ない』なんて言ってるのは大体女」といった加納さんの発言から、「Aマッソ」に関する話題になっていき、昨今の女芸人の立ち位置や、Aマッソが世間からどう見られているかを皮肉るコント。
(内容一部抜粋)
加納「Aマッソってお笑い芸人知ってるか? ああいう女芸人が一番嫌いなんや。見方わかれへんやろ」
加納「女芸人が最近がんばってる、みたいな言われとるがあれ嘘やぞ! テンプレートが蔓延してるだけじゃ!」
村上「先生は考え方が古いんです!」
加納「古くて結構! これが世論じゃ!」

加納 今、あれ(進路相談)が名刺代わりみたくなってしまっているんですが、それも恥ずかしいんですよ。だってあれ、単独ライブでふざけて、最後にこんなんどうかな? って作ったやつだから(笑)。

Aマッソ村上さん、加納さん

写真左から村上さん、加納さん

そうだったんですね! てっきり女芸人としての立ち位置に対する鬱憤を吐き出したネタかと思っていました。

村上 本心でやってると思われがちですけど、そうでもないです(笑)。

加納 ものすごく悩みを抱えてると勘違いされてしまって、「あれをテレビでやってくれ!」と言われて出るんですが、本音を言えば「え、そんな苦悩してる二人に見える? そこまで思ってないけど……」って。

なんというか、皮肉ですね。お二人のネタって基本的に容姿や性別は関係ないフラットなものが中心ですが、ほぼ唯一「女芸人」であることをフォーカスした「進路相談」のネタでテレビのオファーが来るというのは……。

加納 まっ……たく悩んでないしな、と思いながらやらなあかんから難しいんです。

村上 めっちゃ悩んでる感じでいかなあかんからね。

加納 本心は全然ちゃうからなぁ~。「今後もっと、女芸人代表としてどんどん女に噛みついてくれ」とか言われるんですが、それについては「ホンマに違う!!!」って思っていて。

うちらがやってるネタは、ただの「ボケ」でしかなくて「女を斬る」という目的でやってはいないんで。ライブと違って、テレビって「使いやすい、ちょうどいいことを言う」のが求められるんですよね。これライブで言うたらウケんのに、収録で同じこと言うと「変なこと言った」みたいな空気になることも多い。

でもそれは、ライブのハードルが低いっていうわけではないと私は思っていて。たぶん、そのコメントがテレビ的に「必要じゃないから」なんですよ。

番組がほしいコメントじゃないから。

加納 そうやと思いますね。とにかく分かりやすいことが大事で。ボケにもいろいろな種類があるのに、一個ちょっと考えさせるようなことを言っただけで、「不思議ちゃん」とか「独特やなぁ」で片づけられる。それって考えることを止める口実だと思うんですよ。

村上 深夜番組向いてそう、とかな。

加納 「深夜番組でやれ!」とか「自分のイベントでやれ!」とか、よう言われるわ~。いや、そこを経てここ来とんねん! なんでまったく違うことを求められんねん!

それをうまいことやれよっていう話なんですけど……できないんですよね~。MCから期待されている回答を言うのがワンテンポ遅れる(笑)。

ポーズをキメるAマッソのお二人

伺っていると、お二人ともめちゃくちゃ正直でスカッとしますね。

加納 あとは例えば、30代で結婚の話を振られたら、何らかのキャラをやらなあかんことありますよね。「(結婚)できなくて困ってるキャラ」なのか、「したいと思っていないし! というキャラ」なのか。

村上 めんどくさいですね(笑)。

加納 あれめっちゃめんどくさい。そのキャラの前提で喋りを振られるのがしんど~~~っていう。何も思ってないし、ほっといてくれ!

テレビのバラエティって、テンプレ的な役割ごとにキャスティングされていますものね。たとえ本人の本音とは違ったとしても、一定の年齢を過ぎた女性タレントは「結婚できなくてつらーい」という回答を求められがち。

村上 みんなの優しい嘘で番組はできあがっているんです。

女芸人に求められる「笑い」

そういう役割に基づいて、女芸人をやっていると例えばブスキャラとか、セクハラ的なこととかでいじられることってあると思うんですが、それについてはどうお考えですか?

加納 最近それが問題になることも増えましたよね。芸人だけじゃなくて世の中的にも。もちろん、この流れのおかげで救われている人も多いですからいいことなんですけど、個人的にことお笑いに関してはそういういじり方が一概に悪いと言えない部分があると思うんですよ。

というと?

加納 それをセクハラだと主張するには、もうちょっとそれ無しでもオモロならんといけないんじゃないか、と。

正直今は従来のいじり方が勝っちゃってるし、それで笑いをとっている女芸人も少なくないと思う。今後、女性の権利を勝ち得ていざ表に出てみて、笑いの能力が追い付いてなかったら、私やったら恥ずいなって思ってしまいますね。

Aマッソさん

それで言えば、まさにお二人は自分たちから進んで「女芸人」的なところで笑いを取りにいってはいないコンビですよね。

加納 そうですね。ただ、テレビに出るとどうにも……。どこにもポジションがないな、難しいな、と思いますね(笑)。そんなにテレビに出る機会が多いわけではないのですが。

やっぱりテンプレ的な動きをしないと、「深夜番組でやれ!」ってなってしまうんですね。

加納 はい(笑)。とはいえ、どうしたって女芸人的なことをやらなあかんことがあるのも分かっているので、そこは受け入れています。

そうなんですね。じゃあ、例えばMCからセクハラ的な振りをされたとしても割り切っていらっしゃる……?

加納 何にも思わないです。MCが機転を利かせてオモロくしてくれようとした可能性もありますし、それって笑いの種類のひとつやから。お笑いとしてのネタと、世の中における女性の人権の問題については、一緒にせんで、切り離して考えなあかんと思います。

最近ありがたいことに、ライブでMCをやらせてもらうことが増えたんですが、MC中って、もうとにかくその場をどうにかしなあかんとか、この子の良さを生かしたろうとか考えながらやるんですよ。そんな中で、後から考えたらごめん失礼やったなと思えど、その舞台を機能させる上での必要悪というのは正直あります。

村上 あるある。

加納 だからそれが「笑い」であれば否定はしないですね。

もちろん、芸風的にこの方向でいじられるのはかわいそうやな、アカンなって場合もあるので、その女芸人がどんな笑いを表現したいのか、しているのか次第ですよね。

ネアカすぎて悩まない二人

「思ってもいないことを言わされる」ことがしんどいな~と思うことはあれど、基本的には女芸人としての立ち位置に悩んでいるわけではないのが、すごいですね。むしろ……なんで悩まずに済んでいるんでしょう?

加納 悩めよな! 悩めっちゅうねん! なんでそんなに明るいっちゅうねん(笑)。

村上 なんで悩まずに済んでるんだろう……? 今それ言われてハッとした(笑)。

加納 求められたことをできなかった“給料泥棒感”についてはいつもほんまにごめんなさいって思ってるんですよ。「ああ、すみません……金だけもろて。何の仕事もしてないのに。せっかくキャスティングしてくれたのに……」って。

そんな中でも、「テレビに固執する必要はないし、違うと思ったら言ってくれてええから。でもテレビでできることがあるんやったら可能性を探ろう」とキャスティングしてくれるプロデューサーさんもいて、ありがたいんですけどね。

村上 まあ、二人ともめちゃめちゃネアカなんですよ~!

加納 もう基本なんも考えてないんですよ。そもそもコンビ組んだときも、(村上を指して)なんも考えてなかったから(小声)……、乗ってくると思って誘ったら、いけてん(笑)。

村上 就職しようとしてかまぼこ工場にインターンシップとか行ってたんだけど……、やめた(笑)。

加納 釣れたわ。テキトーなルアーで(笑)。

Aマッソさん

お二人は小学校の頃からの付き合いなんですよね。

加納 小学校5年生から同じクラスで中学まで一緒で、高校は別で。

村上 (加納を指して)ウチが行きたかった高校に行きました……。

加納 点が足らんかったんや、学力が(笑)。

村上 C判定やった(笑)。

加納 コンビ組んでからもう12年? ながっ!

村上 ながっ! めっちゃ仲良し(笑)。

苦手なことは苦手、と割り切れる強さ

10年コンビでやってこられて、これからどうしていこうと考えていらっしゃいますか?

加納 今はインターネット番組を二つやっていて、ライブなどのイベントがあって、それで稼げたらいいなと思っているので、もっと大きくしていくのが目標ですね。

やはりテレビよりもネットやライブなどのメディアの方が自分たちに合っているという感覚でしょうか?

加納 そうですね。苦手なことってもう苦手やからね。それにずっと向き合い続けるのも時間の無駄な気もして。

村上 繰り返しになりますけど、思ってもないことを言うのはどうしても苦手で(笑)。それよりは得意なことを伸ばしていった方がね。

加納 収録中に顔にも出ているらしく、カメラマンさんに「ちょっと変な顔してたね」って言われますから!

そもそも売れてへん芸人なんて捨てるもんないんやから、「ゴールデンに進出せなあかん」、「こうせなあかん」と我慢するよりも、得意なことやったらええがなと。

強い。

加納 テレビの道に進んでも、ネタを披露するみたいな番組は今はほとんどないし、現状ではゴールがママタレとかみたいになっちゃうしなぁ。それゴールなんかい、って。

でも、親世代は「今はテレビじゃないから」っていうのは理解できひんから、親は「いつ出んの?」とはずっと言ってきますけどね。「あんたら、テレビ出れてんの?」みたいな。

村上 YouTubeを見せて、「ここに出てます」とかね。

加納 今はテレビ以外にも活躍の場があるの、親には分からへんから。

とはいえ、影響力ではまだテレビが勝つことを考えると、割り切り方が潔いです。

加納 そういう部分での焦りはないんですけど、向こう2年くらいの間にどれだけネタを生めんねんっていう焦りはありますね。自分で納得いくものをいくつ作れるか。だって10年後、今より面白いネタは絶対書かれへんから。脳みそ的に。発想とかも、絶対に今の方がいいはずやから、今のうちに生めるだけ生んでおきたいんです。

村上 ウチも背負ってもらわなあかんからさ……。

加納 重たい(笑)。

ほがらかなAマッソさん

***
取材・執筆/朝井麻由美
撮影/小野奈那子
編集/はてな編集部

Aマッソ 第6回単独ライブ 東京・大阪で開催決定

Aマッソパンフレット

<公演概要>
第六回 Aマッソ単独ライブ「欄(おばしま)編集長の逆説」
○東京公演
日程:
2019/8/30(金)19:00開演
2019/8/31(土)13:00開演(追加公演)
2019/8/31(土)18:00開演
会場:東京・伝承ホール(東京都渋谷区桜丘町23-21)

○大阪公演
日程:
2019/9/11(水)19:30開演
2019/9/12(木)19:30開演
会場:大阪・HEP HALL(大阪府大阪市北区角田町5-15 HEP FIVE 8F)

チケット料金:前売3,800円(税込・全席指定)

お話を伺った方:Aマッソ

Aマッソさん

ワタナベエンターテインメント所属。幼馴染みの加納・村上でお笑いコンビ「Aマッソ」を結成、ネタ作りを担当する。キングオブコント2017でセミファイナル進出。また2016年、2017年連続でM-1グランプリのセミファイナリストに。
Youtube:Aマッソ公式チャンネル

*1:DVD『ネタやらかし』収録

宇垣美里「自分を嫌いになる場所にいる必要は、絶対にない」

宇垣美里さん

アナウンサー、コラムニスト、ラジオパーソナリティ、コスプレイヤーなど、さまざまな領域で活躍する宇垣美里さん。今年の3月には5年間務めたTBSを退職し、さらに活動の幅を広げようとされています。

火曜パートナーを務めるラジオ『アフター6ジャンクション』では、筋の通った言動から"宇垣総裁"の異名を取るなど、注目を集める彼女。常に他者からの評価にさらされる厳しい世界に身を置きながらも、なぜ宇垣さんは“自分“を見失うことがないのでしょうか? 正解探しをしていたという新人アナウンサー時代から、話題を集めた「マイメロ論」のその後、そして宇垣さんの思う「自分らしさ」などについて伺いました。

共演者の一言で正解探しをやめた

大学では国際政治学を専攻されていたそうですね。卒業後の進路は記者を志望されていたとか。

宇垣美里(以下:宇垣) もともと書くことが好きで、国語の成績がほかよりも良かったりもしたので、文章を書く仕事に就くのかなと漠然と考えていました。大学に入ってからは、世界の政治にまつわる勉強にも面白さを感じるようにもなって、これは記者だろうと。

記者からアナウンサーへ志望を変更されたのは、何かきっかけが?

宇垣 アナウンサーって、全然身近な仕事に見えないじゃないですか? だから、自分には縁遠い仕事だと思っていて、そもそも選択肢になかったんですよね。ただ、もともとテレビは好きだったので、記者になるならテレビ局がいいなとは思っていました。

転機は、テレビ局の就活セミナーに参加したとき。セミナーのひとつにアナウンススクールがあったんですけど、参加してみたら楽しくて(笑)。どうせ受かる確率は低いんだから、それならどちらも受けてみようと。キー局の中ではTBSアナウンサーの試験がどこよりも早いんですけど、結果的に最初に内定をいただけたので入社を決めました。

宇垣美里さん

TBS時代は、バラエティやワイドショーを中心に活躍されていた印象ですが、理想と現実にギャップは感じませんでしたか?

宇垣 本当は報道の仕事がしたくて、海外派遣も希望していました。ただ、自分が求めていることと、求められているものにはギャップがあるなと。ひとつは自分で思っているよりも、自分の見た目が子どもっぽく、可愛らしい部類に入り、報道向きではない顔をしているらしいということ。それはテレビでは大事なことで、ルックスと発言内容に違和感があると伝わるものも伝わりませんから、入社直後に「あぁ、私は報道には行けないんだ」と悟りましたね。

悔しいですけど、努力では乗り越えられない壁ですよね。

宇垣 でも、納得はできました。諦めではなく、「いまは無理だけど年齢を重ねて、落ち着きや説得力が増せばチャンスもあるかな」と割り切れたというか。というのも、アナウンサーという職業は、自分が主体的に仕事を選ぶというより、「あなたにはこれがいい」と周囲から勧められたものが、結果として一番合っていると思うんです。もちろん、どうしても自分の信念と異なる場合は断ることも大切だと思いますが、バラエティやワイドショーに呼ばれたときは、「合っていると思われているなら、とりあえずやってみよう」と素直に受け入れられたんですよね。

アナウンサーはプレッシャーも多い仕事だと思います。最初は大変なことも多かったのでは?

宇垣 そうですね。最初はすごく正解を探してしまうところがあって、常に「なんて言えば喜んでもらえるだろう?」「どんなリアクションを取るべきだろう?」と考えていました。わりと受験をがんばった人にありがちのような気もするんですけど、何かと最適解を求めてしまうというか。通勤時の服装ですら、先輩方に「何を着るべきですか?」とよく質問していたのを覚えています(笑)。

宇垣美里さん

アナウンサーという仕事に限らず、相手の期待に応えようと求め過ぎてしまうことってある気がします。

宇垣 そうですよね。それで、私の場合は当時担当していた番組のMCの方に「あのとき、なんて言えば良かったのでしょうか?」とよく相談していたんです。そうしたら、あるとき「お前はいつも正解がなんだったのか聞くけど、正解なんかないから自由にやれ。正解を求めようとすること自体が怠惰で、思考停止だ。正解は自分で作り出せ」と言われて目からウロコが落ちて。

かっこいい……。

宇垣 その言葉によって、正解探しの呪縛から解放されたような気がします。実際にその方は、私が生意気なことを言ったり、その方と異なる意見を言ったりしても、「それが本心から出た言葉なら」と喜んでくださって、本当に助けられました。

自分を嫌いになる場所からは軽率に離れる

そんな素晴らしい共演者の方もいる一方で、心無い言葉を投げかけてくる人も中にはいると思います。そんなとき、宇垣さんはご自身のことをサンリオのキャラクター「マイメロディ」だと思いこむことで、つらさを回避されるという「マイメロ論」を提唱されましたね。

宇垣 イラッとくる一言ってあるじゃないですか。飲み会での「お酌しろ」とか、「彼氏作れよ」とか。内心、うるせえな!って感じですけど、そこでいちいち食ってかかっていたら、こっちの体力が持たない。だから、自分にマイメロを憑依させて、「私はマイメロだよ〜☆ 難しいことわかんなーい」って思うことで、目の前のことを無力化するという(笑)。

宇垣美里さん

無力化ってすごく大事なことですよね。理不尽な言葉を正面から受け止めてしまい、心が苦しくなる人も少なくないと思うので。

宇垣 私は、「自分を嫌いになる場所にいる必要は絶対にない」と思っています。人生にはいろいろなことがあって、嫌な思いをすることや、どうしてもうまくいかないこともたくさんある。でも、そういう苦しいときにできることは、自分が好きな自分でいることだけだと思うんです。

もし自分を嫌いになるような場所にいるなら、軽率にそこを離れればいい。私が怖いのは、人に嫌われるよりも何よりも、自分が自分を好きでいられなくなることなんです。自分を好きでいられなくなること以上のマイナスなんてないから。

おっしゃる通りだと思います。ただその一方で、以前宇垣さんがラジオで「受け流してしまったこと」に対しての悔しさをお話しされていたことも印象に残っています。

宇垣 つい最近のことなんですけど、囲み取材をしていただいているときに、いきなり全く関係のない恋愛の質問をされたことがあって。そのときは笑って受け流しちゃったんですけど、楽屋に戻ってから受け流した自分のことが許せなくて、しばらく悶えていました(笑)。

おそらく、その場を丸く収めるという点では正解の対応だったと思うんです。でも、あまりにも無遠慮な質問だと思いますし、全然令和っぽくない! 質問された相手がどんな気持ちになるか、もっとさまざまな可能性を想像するべきだと思うんです。それなのに、私はそれを笑って流したことで、その質問を是とすることに加担してしまった。激しく後悔しましたね。

宇垣美里さん

なんと答えたかったですか?

宇垣 「答える必要ありますか?」ですかね。いずれにしても、「私はその質問が好きではない」「答えたくないからというだけではなく、誰に対してもその質問をすることが許されると思ってほしくない」という気持ちを伝えたかった。ときには受け流すのではなく、NGの意思表示をすることも大切だなと最近は思います。もちろん、言える人が言えばいいだけで、みんながみんな「本音を言うべき」とは思いませんが、私は比較的心が強い方ですし、それを否定できる立場にもあったので。

なかなか本音を言えず、苦々しい思いをされている方もいると思いますが、宇垣さんのような考えを持っている人の存在に救われる方もいると思います。

宇垣 所詮、私は泡沫のような存在ですが、主張すべきところは主張できればと思っています。ちなみに恋愛質問の件は、連載コラムに書いて発散しました(笑)。

「書いた言葉」だけは自分を裏切らない

宇垣さんは連載コラムやフォトエッセイなど、文才も注目を集めています。文章を書くことの面白さはどんなところでしょうか?

宇垣 私は、「書いた言葉」が一番正確に自分の考えを伝えられると思っています。言葉を口にするとニュアンスがうまく伝わらなかったり、怒ってないのに怒っていると誤解されたり、勢いで思ってもないことを言ってしまったりしますよね。でも、文字に起こして、誰かに読んでもらうまでに推敲を重ねる中で、一番確かな自分の声が見えてくる。書いた言葉だけは、少なくとも自分を裏切ったことは一度もないです。

発表するしないにかかわらず、もともと書くことはされていたんですか?

宇垣 自分の想いも含めて、何かを言語化するのが好きなんです。言葉にすると色や形ができるというか、感情が把握できるようになるんです。なので、日記もつけていますね。例えば、舞台を見に行った感想とか、書かないと何が良かったのかも分からないから、なるべく言葉にするようにしています。刹那的な想いも残せば永遠になるので、あの時こう思ったとか書き残しながら振り返って読んでいます。

宇垣美里さん

ちなみに、ブログやTwitterは利用されていないですよね。何か理由があってのことでしょうか?

宇垣 毎週コラムがあるので、思ったことはそこに書けばいいと思っているのと、不特定多数に何かを公開したいという欲がないんですよね。変に自分のイメージを固めたくないし、「こういう人でしょ?」と言われたら真逆なことをしたくなる性分で(笑)。だから、ずっと「どんな人なんだろう」と思われる、謎の人でありたいんです。ある意味、カテゴライズに抗う一つの方法というか。

イメージが固定化されてしまうと、ほかの可能性が広がらなくなりがちですよね。

宇垣 それこそ私がTBSを辞めた理由の一つに、「何にもなりたくなかったし、何でもやりたかった」というのがあるんです。実のところ、いま肩書きにも悩んでいます。アナウンサーはアナウンサーなんですけど、文章も書くし、コスプレもするし……どうしましょう(笑)?

「本当の私」に対する執着がなくなり、これからもっと自由になれる

ちなみに宇垣さんと言えば、化粧品好きなことでも知られています。

宇垣 睡眠時間が2時間で、ゾンビみたいな顔でもメイクさえすれば生気を帯びられるなんて、メイク最高じゃないですか(笑)? ピンク系のときは優しく、青系の時にはキリっとクールビューティみたいに、メイクによって自分の性格が変わるような気がするのも楽しくて。誰かのウケを狙うとかいう発想ではなく、完全に自分のために楽しんでいますね。

アナウンサーという職業柄、メイクに配慮を求められることもあるのでは?

宇垣 そうですね。やはりあまりに派手なメイクは、視覚ノイズになってしまうと思います。ただ一方で、その中にも一つ抜けポイントをつくることもありました。例えば、自分の好みの赤めのアイブローにしてみたり、グリーンのマスカラをつけてみたり。ちょっとしたイタズラごころもありましたが、そうすると「だって今日まつげ緑だし!」ってギリギリのところで自分を支えてくれるんですよね。

宇垣美里さん

メイクの話にも通ずるかもしれませんが、宇垣さんは「自分らしさ」とはどのようなものだと思いますか?

宇垣 私は、自分らしさって相対的なものだと思っているんです。絶対的な自分らしさなんてなくて、多面的なもの。だから、自分を映す鏡である他者がいないと自分は存在できないと思っています。いまこの場でインタビューを受けている私、テレビに出ている私、友人といる私、家族といる私、全て違っていて当たり前だし、全てが自分だと思っています。

自分一人で唸っていても、自分らしさが見つかるわけではないと。

宇垣 そうですね。そういえば、TBSの内定が出たばかりの頃、「ぶりっこキャラ」って書かれたんですよね(笑)。最初はびっくりしましたけど、その記者さんから見たらそうだったんだろうなと。ただ、それを"私の全部"として引き受ける必要はないと思っています。

今は、「自分という人間を好きに切り取ってもらえればいいや」と達観しています。私をこう見てほしいとか、本当の私はそんな人間じゃないとか、そういった執着がなくなりました。

最後に、今後について考えていることを率直に教えていただけますか。

宇垣 まだ明確なことは分からないし、別にそれでいいとも思っているのですが、常にもっと広いところには向かっていきたいなと。最近、周りの人から、「30歳になったら肩の荷が降りて楽になるよ」とめちゃくちゃ言われるので、本当かな?と思いながらも、楽しみにしています(笑)。30代に突入したら、もっと自由になれるのかな、それっていいなって思っています。

宇垣美里さん

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/小野奈那子
編集/はてな編集部

お話を伺った方:宇垣美里(うがき みさと)さん

宇垣美里さん

1991年生まれ。兵庫県出身。同志社大学卒業後の2014年、TBSに入社。『あさチャン!』『炎の体育会TV』『サンデージャポン』などに出演し、2019年3月に退社。現在はフリーランスとして、アナウンサー、コラムニスト、ラジオパーソナリティなど幅広く活動中。著書に『風をたべる』(集英社)がある。
HP:オスカープロモーション

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“腐女医”で漫画家・さーたりさん「中途半端でも諦めない。後悔が自分を突き動かす原動力」

さーたりさん

オタクな外科医「腐女医」を名乗るさーたりさん。医師、3人の育児に奔走する母、“お医者さんの日常”を描き出すコミックエッセイの著者、アニメオタクとたくさんの顔を持ち、その日常をつづるブログは各方面から反響を呼んでいます。

肩書きだけ見れば、自分のライフスタイルを楽しんでいるバリキャリを連想しがち。しかし、さーたりさんのコミックエッセイやブログから垣間見えるのは、ときに女性であること、母でいることに悩み苦しみながら、泥臭く人生を切り拓いていく姿。そこに親近感を抱く人も多いはずです。

とはいえ、フル回転の日々を送るさーたりさん。何が彼女をそこまで突き動かしているのか、仕事とプライベートで大切にしていることは何なのか。心のうちを語っていただきました。

人生には限りがある。だからやりたいことは全部やる

医師の専門分野の中でも、外科医は特にハードな印象があります。なぜ外科医を選ばれたのでしょうか?

さーたりさん(以下:さーたり) 大学時代にいろいろな科で実習を積んだのですが、その中でも外科が楽しかったんです。ダイレクトに命と向き合う手術にとてもやりがいを感じたので、自然と外科を志すようになりました。

仕事(外科医と漫画家)・プライベート(3児の母)・趣味(アニオタ)と多忙な日々を過ごされているさーたりさんですが、1週間どのようなスケジュールで動かれているのでしょうか?

さーたり 大学病院で外来と手術を週2日、クリニックで簡単な手術と内視鏡、超音波などの検査を週2~3日。漫画家としての活動は子どもが寝た後か、クリニックが早く終わってお迎えまでの隙間時間にコツコツと描いています。最近は寝ないと次の日がキツくなってきたので、睡眠時間はなるべく確保するようにしています。さらに、その合間に趣味のアニメで癒やされている感じですね。ちなみに、今は『マクロスΔ』(マクロスデルタ)にはまっています。

そんなに! その原動力はどこから湧いてくるんですか?

さーたり 以前、若くして重病にかかった、ファッションが大好きな女性患者さんに「やりたいことやらなくちゃ、もったいないよ」と言われたことが大きいですね。医師の仕事にやりがいを感じていたものの、「自分が本当にやりたいことって何だろう」と考えるようになったんです。主治医を受け持ってから1カ月半で彼女は亡くなったのですが、その言葉の重みを10年たった今でも思い出します。なので、医師も漫画家も母もアニオタも、全部やりたいことだから、とことんやろうかなって。

さーたりさん

人生は有限だからこそ、やりたいことを諦めないということですよね。

さーたり そうですね。また、結婚して間もない頃、交通事故に遭ったことがあるんです。入院と自宅療養を経て仕事に復帰したのですが、重いものを持ったり緊張したりすると手が震えるようになってしまい、しばらく手術ができずに休んだ時期がありました。その時には「外科医としては終わりなのかな」とも思いました。

でも、いま仕事を辞めては悔いが残ると思いましたし、出産もしたかった。それまでは多忙のあまり思考停止していましたが、休んだ数カ月の間に自分の人生を考えることができました。不本意な休養ではありましたが、やりたいことと向き合う時間を作れたことは大きかったです。

第1子の出産は31歳の時とのことですが、妊娠・出産について真剣に考えるようになったのは、事故の後ですか?

さーたり はい。それまでは子どもが特別好きというわけでもなく、どうしても欲しいという感情はありませんでした。いつかはと思いながら、「まだ時間はあるかな」くらいの認識で、正直あまり考えていなかったんですよね。どちらかというと、子どもができたらやりたい仕事ができなくなると思ってためらう気持ちもあり、先延ばしにしていました。でも、事故と療養期間を機に真剣に向き合うようになりましたね。

医局では初の妊婦ドクターだったそうですね。大変なことも少なくなかったのでは。

さーたり 妊娠期間や育休明けには大きな手術には携われませんでしたが、手伝いなど自分がやれることを少しずつ見つけるようにしていました。勤務時間は短くても、できることは少なくても、事故で仕事をしたくてもできなかったどん底の時期よりはマシだと思っていました。子育てと医師の両立をするにはペースダウンせざるを得ない部分もありますが、長い目で見ればきっと復帰できるし、完全なブランクでなければ仕事をつないでいけるのではと考えました。

自分が選んだことなのに苦しい──“中途半端”を許せるまで

30代に入ると仕事もノッてくる頃ですね。特に女性の場合、妊娠に対しては、ある程度リミットがあると分かっていても、仕事が充実していると考えるのを先延ばしにしがちかもしれません。

さーたり 私もそうでした。結婚も「30歳まではしなくていいかな」と、先延ばしにしていたんです。でも、当時付き合っていた現在の夫に「まだ一人前になっていないのに結婚している暇はない」という話をしたら、「じゃあいつ一人前になるの? 1年後、2年後も、もしかしたら10年後も一人前じゃないかもしれないよ。それなら早い方が良いんじゃないの?」って言われて。確かにそうだなと。

それはハッとさせられる問いかけですね。

さーたり その結果として結婚を決意し、子どもにも恵まれましたが、自分の役割すべてを完璧にできているわけではなく、「つらいなぁ~」と思うこともあります。2人目が生まれて仕事を休んだ時には、4年半くらい大きな手術に関われない時期がありました。すべて自分で選択してきたことですが、その間に医師としての経験を積んでいく夫や同期を横目に、悔しさと苦しさから一人で涙したこともありました。

少なからず後悔もあったのですね。

さーたり はい、4年半のブランクについては後悔しています。細々とでも何か続けていれば、違った今があったんじゃないかと。なので、欠けてしまった時間を取り戻すことが、今やりたいことをやるモチベーションの一つになっています。そうはいっても、仕事も漫画も子育てもすべて100%できているわけではなく、中途半端です。でも、例えば子育てであれば、子どもとずっと一緒にいられない分、一緒にいるときはたくさん構うようにしようと思っているんです。だから、中途半端なものも悪くないかなと。

完璧にこなすより、「中途半端でも後悔しない」道を選ぶと。

さーたりさん

さーたり 私の行動原理はそうですね。いろいろな人から「なんでそこまで頑張れるの?」ってよく言われますけど、かつての後悔があるからこそ「もっと頑張っていればよかった」と思うのが嫌なんですよね。とはいえ、今でもブログは休みが続いている状態だし、漫画の書籍化にあたっても締め切りを延ばしてもらっているし……。でも、もっと気楽に、力を抜いて「できることをやろう」とは思っています。

ただ、中には踏み出す勇気が持てず、モヤモヤしている人もいるかもしれません。

さーたり 何かを積み重ねていれば自分の後に道ができるので、ゴールが見えないとしても、開拓することに不安を持たなくていいと思うんです。もし目の前の道が見えなくて心許なさを感じているのであれば、1回ゴールを定めてからそこへの距離や道筋を考えて積み重ねていくと、気持ち的には楽なのではないかと思いますね。

仕事でも趣味でも「いつかやれる」ことを見つけ続ける

ご夫婦そろって医師とのことですが、育児の分担はどうされているのですか?

さーたり 夫は歩み寄ってくれる人ではありますね。夫の両親も共働きだったので、「女性が仕事を持っているのは当たり前」だと思って育ってきたのも大きいのかもしれません。最近は夫も勤務形態を変えて当直もしなくなったので、比較的時間にゆとりを持って家事や育児をしてくれるようになりました。でも、私が産休の時は、ほぼ私に全振りでした。「3人目が欲しい」と言われた時に「この状態でやっていけるのか?」と詰め寄ったら、「頼り過ぎてた」と反省してくれましたけど。

共働き家庭で女性に負担がかかり過ぎないようにするためには、パートナーの協力が不可欠ですよね。

さーたり 協力し合うためには、パートナーと対等な立場で話し合えるかどうかが、やはり大事だと思います。最近は、子どもと私が一緒に寝てしまうことが多くて、夫となかなか話す時間がないのですが、「最近あまり夫と話せていない」と気づいた時には、夫に「私が寝てしまっても起こして」と頼んで、夜にお酒を飲みながら話したり、それぞれのスケジュールを照らし合わせたり……それは意識的にやっています。

知らず知らずのうちに夫婦のコミュニケーションが取れなくなる状況を回避しているんですね。お話を伺っていると、行動と感情をきちんとコントロールされていてすごいなぁと感じます。

さーたり でも、今はこんなふうに言っている私も、仕事ですごく疲れて帰ってきて、育児がしんどいなと思った時に、「仕事を辞めよう」「休みたい」と考えることはあります。でも、10年後に自分がどうしていたいか考えると、いきなりは方向転換できない。なので、そのために今は踏ん張って10年後の自分につなげようと、懸命に気持ちを持ち直しています。

さーたりさん

今のさーたりさんは、10年後にどんなゴールを設定されていますか?

さーたり 第3子が中学生になるので、子育ても一段落します。時間は取れるようになるはずなので、もう少し外科医として手術に重きを置きたいと思っています。今は大学病院にも復帰していますが、外科医は常勤じゃないと執刀医になれないんです。患者さんの手術後も担当医として責任が取れる状況でないといけないので。10年後はフルタイムの常勤で、手術も自分で執刀するのが理想です。

多忙な日々の中で何が自分にとっての幸せなのか、仕事とプライベートのどちらに重きを置くべきなのか、迷ったり分からなかったりする方も多いと思います。でも、さーたりさんのお話を聞いていると、時に立ち止まって考えることも大切なんだなと思いました。

さーたり 大事なのは、その時々に「やりたいこと」があるかどうかだと思います。湧き出るようなモチベーションはなくても、「いつか夢中になれるようなことを見つけておこう」と調べることから始めてみるのもいいかもしれません。仕事でも趣味でも、今はできなかったとしても、ゆくゆくはモチベーションに変化するはずです。それを繰り返していると、自分にとっての幸せが何かを見つけるきっかけにもなるのかなって。

さーたりさんにとって、医師のお仕事に加えて漫画を描くことも幸せにつながっていますか?

さーたり そうですね。私にとっての幸せは夢を持つこと。仕事だけでなく夢はいくつあっても良いし、支えになるものです。漫画家の手塚治虫さんは医師免許を持っていて、「僕には医者と漫画の2つの夢があって、どちらかがダメになっても片方があるから」ということをおっしゃっていたそうです。

漫画家の仕事については、最初のうちは趣味の延長としての副業だと思っていました。ですが、編集や印刷など漫画に力を注いでくれる方や、漫画を読んで応援してくださる読者の方もいるので、「果たして“副業”と呼んでしまっていいのだろうか」と最近考えています。どちらもおろそかにせず、医者も漫画家も自分の仕事として大事にしていきたいですね。

取材・執筆/末吉陽子(やじろべえ)
編集/はてな編集部

お話を伺った方:さーたりさん

さーたりさん

医学部を卒業後、外科医を志し早数年。専門は消化器外科、時に肝臓・胆道・膵臓、移植外科。同期の夫と結婚し出産。現在3人の娘を絶賛子育て中。『聖闘士星矢』『幽☆遊☆白書』『忍たま乱太郎』などを愛好している。

ブログ:腐女医が行く!! 〜外科医でママで、こっそりオタク〜
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20代で抱いた人生の不安は、40代から怖くなくなった|『あした死ぬには、』作者・雁須磨子

『あした死ぬには、』第1巻

太田出版のWeb漫画サイト「Ohta Web Comic」で連載され、2019年6月に待望の第1巻が出版された『あした死ぬには、』(太田出版)が、40代女性を中心にじわじわと話題になっています。

映画宣伝会社に勤め、ハードワークをこなす42才独身の主人公、本奈多子(ほんな・さわこ)に訪れた突然の変調。病気や更年期障害、お金の不安や体力の衰え。20代、30代を必死に駆け抜けてきた多子、そして同世代の友人、知人たちは変わりゆく自分自身をどう受け入れ、生きていくのか……。そんな「40代の壁」をリアルに描き出す本作の作者・雁須磨子(かり・すまこ)さんに、40代女性の働き方や、ご自身の考え方についてお話を伺いました。

20代の頃に想像した「人生で怖いこと」は、40代になったら怖くなくなった

あした死ぬには、』の主人公・多子は、忙しい中で自身の身体や内面の変調について葛藤しています。主人公の不調も、主人公の友人で高校時代の同級生・小宮塔子(こみや・とうこ)が約20年ぶりの社会復帰に戸惑う姿も、両方「あるある」とうなずいてしまいます。

雁須磨子(以下:雁) ありがとうございます。漫画では、ストーリーも登場人物も、基本的に自分から遠く離れた距離には置かないようにしています。自分が想像できない物事は描けないんです。会社でバリバリ働く主人公の多子と、早くに結婚して既に子育てが一段落した塔子という、対照的な環境にいる二人も、どこか自分と似ているからこそ気が合っているのかもしれません。

登場人物のモデルとなった方はいらっしゃいますか?

 特定の人ではなく、取材した内容と自分が想像することを組み合わせて人物像を作っています。キャラクター設定を考えるのは非常に楽しいですね。もし私が専業主婦で、今から働きに出るとしたら、どんなことを思うのだろうって。

40代女性にとってはどちらのキャラクターも共感できると感じます。この作品を描こうと思ったきっかけを教えてください。

 私は非常に怖がりなんです。20代の頃から、割と先のこと……具体的には病気や老後のことばかり考えていたんですよ。とにかく、年を取って「死」に向かっていくことが不安で仕方なかった。先日、30代前半の頃の担当編集さんにお会いした際に、当時の私はいつも「『死ぬまでにお金がいくらかかるか』に関する漫画を描きたい」って言っていたと聞きました。

でも実際に40代に突入してみたら、当時「怖い」と考えていたことが、それほど怖くなくなっていることに気づきました。そこで気持ちが少し楽になった。20代~30代の女性が不安に思うであろうことに対し、「少し安心できるようになった状況を描けたらいいな」と考えたのが、『あした死ぬには、』が生まれたきっかけです。

もちろん、40代になって、自分でも全く予想していなかった部分でしんどさを感じることもあります。その部分も含めて40代女性の心情を描いていきたいと考えました。

漫画の中の40代女性たちが語る細々したエピソード、例えば「忙しいのに貯蓄金額が増えず、死ぬのも生きるのも怖い」「自分の年齢は“おばさん”だと分かっていたはずなのに、いざ本当に呼ばれたら傷ついてしまった」など、とてもリアルに感じます。登場人物の心情はどのように描いているのでしょう?



『あした死ぬには、』第1巻 第3話 84ページより
(C)雁須磨子/太田出版(以下同)


 割と思い付きですね。友達と会って話して、その時に思い付いて、担当の方とも話し合って、パッと描いていく。例えば1話目で、主人公の多子が、夜に突然心臓がドキドキして脈が速くなり「このまま私は死んでしまうんだ……」と恐怖におののくシーン。あれは自分の身に本当に起こったことなんです。


『あした死ぬには、』第1巻 第1話 24ページ『あした死ぬには、』第1巻 第1話 25ページ
『あした死ぬには、』第1巻 第1話 24、25ページより

20代、30代で感じる不安と、40代で感じる不安とは性質が変わってきますよね。

 その時に「あ、私はいつ死んでもおかしくない」と、「死」をとても身近に感じたんですね。20代は病気と老後のことばかり考えていたと言いましたが、「死」のイメージは「あの角を曲がったらきっとトラックにはねられて死ぬんだ」という妄想のようなもので、現実離れしていました。40代で意識するようになった「死」はもっとリアルだった。そんな私自身の体験や心情をそのまま作品に使っています。

20代の頃は未来への選択肢が多くありますしね。また、自分の生き方の中で選択肢を1つ選ぶと、それ以外の可能性が全部なくなってしまうように感じるかもしれません。

 若い人には「リア充への道」「一人で突き進む道」……その他にもいろいろ選べる、そして捨てられる。選択肢があり過ぎて、選んではみたものの「自分にとって何が本当の正解なのか分からない」という悩みも生まれます。また、選択肢がいっぱいあるからこそ、別の選択肢を捨てるつらさはあると思います。

何かを選択する必要がある場面で悩んだことはありますか?

 自分の場合、積極的に何かを選ぶことはしていませんでした。意識的に何かを選び取ったり、目の前の選択肢から何かを外したりしたことは、あまりないんです。自然に、赴くままに行こうっていう感じで……。

そして、選んだり選べなくなったりしているうちに年月がたち、「あっ、自分の手元にはこれが残ったんだ」と気づいて(笑)。残されたものが少なくなり、選ばざるを得ない状況になっていくんです。とはいえ、その選択肢は自分と相性が良いから残ったわけなので、全く悪いことではなく、悲観することでもないのですが。

人生の選択肢が減ることで気持ちが落ち着くこともある

20代~30代と今の40代で、大きく変わったことがあれば教えてください。

 30代の頃に、漫画を描くのを辞めてもっと一般的な職に就こうかと考えたこともあります。けれど、そんなタイミングで親が事故に遭ったりしてバタバタしているうちに、その考えもいつの間にか消えていって、自分の手元に残ったのが「漫画を描くこと」だけになった。そのためか、この頃は苦痛を感じることが少なくなりました。

それは他の選択肢が減った結果でしょうか?

 体力が衰えていくという要因も大きいですね。無理がきかなくなって、かつてできていたことができなくなる。そうなると、自分がやることを絞っていかざるを得なくなってくるんです。

私はかつて、断ることが非常に苦手でした。20代~30代の頃は体力があるから、いただいたお仕事を全部受けてしまって、後で何日も徹夜が続くことになって大変なことに……という状況ばかりでした。

20代~30代では、ある程度のことは無理をすればできてしまうと考えてしまいますね。

 30代までは疲れていても無理をして突っ走れちゃったり、徹夜もできちゃったりするんです。物理的な理由がないと仕事を休めませんでしたね。

その頃は、誰にも有無を言わせず休める方法がなくて、先ほど言った「突然トラックが……」のような、自分以外の要因で事故に遭うことを願うこともありました。「事故で漫画を描く腕だけが動かなくなって、後遺症は残らない。そんな絶妙なけがの具合で動けない状態がしばらく続いて、みんながあきらめた頃に完治して、復帰できたらいいな」って。

会社にお勤めの方なら、「深夜に、誰もけがすることなく、会社と書類とパソコンだけが燃えてしまえばいいな」……というような都合の良い妄想をしてしまいそうです。

 本当にそういう感じですね。

どのようにして断る力を身に付けたのですか?

 今では、体が勝手にシャットダウンしてしまいます。40代になったら体力が落ちて、仕事を全部受けるという無茶ができなくなりました。そういう状態になってようやく「できないことをできないと言えるようになった」んです。断る力を身に付けることができてからは、精神的には非常にラクになれました。

誰かに相談したりはしなかったのでしょうか。

 ある日、自分の働き方について考えて、「私のような苦行は誰もやってない」と気が付いたんです。それで、同業者はどんな働き方をしているんだろうと思って、いろいろ見回してみたのですが、残念なことにロールモデルがいませんでした。

会社に勤めている方であれば、スマートな有給休暇の取り方、角の立たない仕事の断り方などを、同僚や先輩の立ち居振る舞いを見ながら学べる場合もありますよね。けれど、私はずっと一人でやってきたから、すぐには分からないんです。



『あした死ぬには、』第1巻 第3話 94ページより


そういった場面で、どう対処することが多いですか? まさに同じ状況にあった登場人物の塔子は、20年以上会っていない主人公の多子に手紙を書くという選択をしました。

 私は、近い友人へ即座に連絡しています。外付けハードディスクぐらいの速さで(笑)。

そんなに速く!? 手紙以上のスピードですね。

 「早く共有しないと!」「自分とハードディスクを同期しないと!」という勢いで連絡します。そういう時はまず、解決方法を求める前に、自分の状態の報告から始めます。「今、自分はモヤモヤしていてよいのか?」という根本から。よく相談する友人にはたいてい「どっちでもいいんじゃない」と言われますが。でも、そういう即レスを含め、他の方からのアドバイスは大事に聞いています。

「生き方のシフトダウン」がうまくできるように伝えていきたい

多子の同僚は個性的なキャラクターばかりですが、特に後輩で根回しの上手な三月(みつき)はいいですね。先輩の多子の言動を上手にコントロールしています。多子も、かつては三月のような元気な20代だったのかな、と思います。

 そして、多子は20代の働き方のまま40代に突入し、自分自身にくじかれていく……。その部分を丁寧に描きたいなと思っています。ずっと同じ働き方を続けていくことは難しい、でもつらくなった時期でも状況に応じて自分がラクになる働き方は必ずあるということを伝えたいです。

働き方を変える必要性について、30代の早いうちに気づいてゆるやかに変化できている人もいれば、主人公の多子のようにうすうす気づいていながら、ギリギリまで変えられずにいて、ある日ポキっと折れてしまう人もいますね。



『あした死ぬには、』第1巻 第4話 105ページより


 計画的にシフトする人も多いですよね。主人公はちょっと頑張り過ぎちゃっていて、この間まで頑張れていたのに、ある日突然頑張れなくなってしまい、そんな自分が情けなくて余計落ち込んでしまう……。

そして、ふと周囲を見回してみると、他の人は自分なりの働き方を徐々に考えていたことにようやく気づくわけですね。

 そういう状況を想像すると、自分だったら本気で泣いちゃうと思います……。でも、そこで思い切り泣いて吹っ切っておかないと、後々まで引きずっちゃいますしね。

結婚や出産など人生が変わる大きなイベントを体験したり、大きなアクシデントが若いうちに起きたりすると、頑張り過ぎちゃう人でも「変える必要がある」ことに気づけるんですよ。

でも、割と健康な体で、仕事にやりがいがあって、毎日が楽しくって、特にライフスタイルを変えるような出来事もなくて……という状態が40代まで続いてしまうと、自身の不調に気づくことができない。だからいきなりのシフトダウンができなくて、突然「大変なことが起きた」状態になってしまいますよね。

20代や30代の人から見ると、多子のような働き方はどう感じられるのでしょう。

 20代~30代の人たちと話していると、人生に対する考え方が40代とは全然違うと感じることがあります。彼女たちは自分たちより上の世代のしんどさを、SNSやWebなどを通じて見てしまっているんですね。「このような働き方を続けるとあのような困難に突き当たる」という事例がたくさんある状況下で、実際に体験しないうちから危機感を持っていると思います。

確かに目にする情報が多過ぎて、当の40代が体験する以上に大変だと思われているかもしれません。

 それでも、「ラクになることも多いんですよ」と言いたいです。

自分たちの頃の20代~30代はSNSが今ほど普及していなくて、手探り状態で自分の人生を歩いてきた。だから、「40代になった時の自分」として思い描く像がぼんやりとしていたんですよね。

今の20代~30代の方々は、ある程度シミュレーションする材料があって、どんな人生になるか大方の予測が立っている。とても堅実な方法ですが、それはそれで結構しんどいんじゃないかなと思います。「一回失敗してしまったら人生終わり」と思ってしまっている方も多いかもしれない。「実はそんなことでもないんだよ」ということを伝えていきたいですね。

これから漫画の登場人物たちが何に悩み、どう解決していくのか、展開が楽しみです。

 これからも多子・塔子の2人の歩みに寄り添っていければいいなと思っています。『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)というバラエティー番組がありますよね。あの番組に「しくじった人」として出演する「講師」の方たちの中には、しくじってもやり直せると言ってくれる方もいます。『あした死ぬには、』の読者の方にも、20代、30代、40代の皆さんにも、「何度でも人生やり直せる」と思ってもらえるといいなと思います。

取材・文/浦島茂世
編集/はてな編集部

お話を伺った方:雁 須磨子(かり すまこ)さん

雁須磨子さん

福岡県出身。1994年に『SWAYIN' IN THE AIR』(「蘭丸」/太田出版)にてデビュー。BLから青年誌、女性誌まで幅広く活躍。2006年に『ファミリーレストラン』(太田出版)が映像化。『幾百星霜』(太田出版)、『どいつもこいつも』(白泉社)、『つなぐと星座になるように』『感覚・ソーダファウンテン』(講談社)、『胸にとげさすことばかり』(大洋図書)など、著書多数。最新作に『うそつきあくま』(祥伝社)。

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落語家と僧侶。二つの顔を持つ露の団姫が追い続ける「叶えたい夢」

露のさん

露の団姫(つゆの まるこ)さんは上方落語協会に所属する落語家。そして、天台宗の僧侶でもあります。高校卒業ののち露の団四郎師匠に入門し、落語家として活躍をしながらも、2012年に比叡山行院での修行を経て、正式な僧侶にもなります。テレビやラジオ、高座で活躍しながら、仏の教えを広めるための活動もおこなう団姫さん。

今回、団姫さんが落語家と僧侶を目指すようになったきっかけや修行時代のこと、「異宗教結婚」でもあるご家族のお話、そして二つの肩書きを持つ彼女が追う「夢」についても伺いました。

「自分の特技を生かすことが一番」と進んだ落語家への道

団姫さんは「落語家」「僧侶」と珍しい肩書きを二つお持ちですが、普段どのような活動をされているか教えていただけないでしょうか。

露の団姫(以下:団姫) 落語家としては、普段は上方落語専門の寄席「天満天神繁昌亭」で古典落語を演じるのがメインの活動になります。「僧侶」としてはイベント開催などでみなさんの悩み相談を受けたり、お話をしたりしていますね。それと、落語家兼僧侶として、仏教の教えを取り入れ創作した“仏教落語”を通じて、布教活動もしています。

www.hanjotei.jp

なるほど。まずは、落語家を目指すきっかけからお聞きしたいと思います。

団姫 もともと子役の活動をしていたんです。そのとき、お芝居で人を楽しませる喜びを知って。特に「笑い」に興味を持ち、生業にしたいと高校在学中に吉本興業の養成所へ入所しました。でも漫才のセンスや若い世代に向けた笑いを作り出す技術は私にはなかったんですね。

ちゃんと自分の持ち味に沿った笑いを追求したいと考えたとき、「落語」が思い浮かんだんです。落語好きの父の影響で、幼少期から落語に親しんでいたのもあったと思いますね。高校卒業後、上方落語の露の団四郎に入門をしました。

露のさん

高校を卒業して、すぐに入門したんですね! 「あれになりたい」「これを仕事にしたい」と夢見ていても、どこかで諦めてしまったり、別の仕事に就いたりする人も多いと思うのですが、団姫さんは高校卒業後、いわば「世の中の大枠」から外れることに不安はなかったんでしょうか。

団姫 全然なかったですねー! 父が「元祖フリーター」を自称するくらいに自由な人間で。ラーメン屋、パン屋、塾の先生……とさまざまな職を渡り歩いていました。その中で常に「仕事は自分の特技を生かすのが一番」と話していたので、就職を考えたことはなかったですね。子役時代から、「人を笑わせる」ということに向いていると言われてきたので、これが私の進むべき道なんだろうなと。

では、ご家族からは応援されていたんですね。

団姫 そのかわり、学校の先生にはものすごーく反対されました。当時、私の在学していた高校は進学率を伸ばしたい時期だったんですね。最低でも専門学校には進学してほしい。大学に行ってから入門すればいいやん、って口すっぱく言われましたよ。でも固辞し続けました。ただ、担任の先生が実は若い頃に講談師を目指していたらしくて、こっそりと「学校は反対だけど、俺はお前を陰ながら応援してるからな!」と、唯一学校で背中を押してくれました。

高校卒業後、その年の生徒たちがどんなところに進学したか一覧表で出るじゃないですか。「国立大学3、私立大学50……」って。その中で、たったひとつ「その他」の項目があったんです。それが私(笑)。

落語家になる、と決意をしても「落語家のなり方」はあまり知られていないように思います。入門までどういった情報収集をしていたか教えてください。

団姫 私の場合、まずは落語家が書いている本を片っ端から読み漁ってました。当時はインターネットも全然普及していなかったので、情報を得る手段はアナログだったんですよ。あとは、実際に寄席に行く。「団四郎師匠の所へ弟子入りしたい」と決めてからは、ひたすら入門のお願いをする、という感じでした。

「腹をつくる」ことが落語家になるための修業の核

繁昌亭

落語家になるための修業って、なんだか想像がつきませんが、どんな内容か教えていただけないでしょうか。

団姫 2008年に修業を終え独り立ちするまでの約3年間、大師匠である二代目・露の五郎兵衛の自宅で住み込み修業をしていました。毎朝4、5時に起きて、掃除洗濯炊事の全てを任されます。大師匠の病院通いにもお付き合いをして。夜になるとおかみさんは「私に構わんと寝えや」と声をかけてくれましたけれど、兄弟子からは「おかみさんも師匠と同じ立場やで」とキツく言われていましので、おかみさんが寝られるまで起きていました。

それは万年寝不足だったのでは……。

団姫 そうなんですよ。修業中はとにかく寝たかったです(笑)。正直修業中は一切、自分の時間は取れません。家事、炊事だけでなく、公演がスムーズに行えるよう、裏方仕事なども行います。テレビも新聞も見る時間がなかったので、いまだに懐メロを紹介する番組で「ピンとこない曲だな」と思ったら、修業期間中にはやった曲ってことも。ものすごく浦島太郎状態でした。

そんなに忙しくて、演目を習う時間はあるのでしょうか?

団姫 修業イコール演目を習う、と思われがちなんですが、そうじゃないんですよ。演目を習うのなんて月に2、3回あればいい方。それも、家事をこなす合間に師匠の動きを見極めて「今やったらいけそう!」ってタイミングで師匠に滑り込みます。

ええ……!? 落語家になるための修業をしているのに。

団姫 そもそも修業中は、半人前以前の状態。落語をすることが仕事ではないんです。ただ、師匠のもとで過ごすからこそ、師匠の生き様、落語家としての「生き方」を近くで見ることができますよね。師匠とお話していて、どういう出来事が師匠に降りかかって、それをどんなふうに切り抜けたのか……。師匠の体験談をもとにした「物事はこう考えたらいいんや」っていう発見があるんです。

それと、「腹をつくる」っていうのが一番大切な修業で得ることだと思います。

マイク

「腹をつくる」?

団姫 ええ。修業中って、本当にしんどいことが多いんです。毎日師匠からは怒られるし、寄席の楽屋では「●●師匠のお茶の温度は60度」なんて細かいことも覚えないといけません。そして理不尽なことも山ほどあります。その中で耐え忍ぶといいますか、仮に心でブチ切れていたとしてもグッと腹に収める。そんな「ココロの受け皿」を一番に学ぶんです。

だって落語家として稼いで、ご飯を食べていこうと覚悟したんですから。理不尽なお客さんがいても笑顔であしらわなきゃいけません。そんな腹を持っていないとプロとしての落語家は務まりません。

落語家は「職業」、僧侶は「生き様」

落語家として独り立ちされたのが2008年。では、僧侶になったのはいつのことでしょう?

団姫 天台宗で得度*1したのは2011年ですね。「春香(しゅんこう)」という法名をいただき、比叡山での修行を終えて正式な僧侶になったのが2012年になります。

私、高校生の頃ですかね。1年くらいずっと心が落ち込んでいたことがあって、端的に言うと「死にたい」と思っていたんです。

ええ!?

団姫 詳細は伏せさせていただきますが、とある事件に巻き込まれて、ずっと死にたい、死にたいと。肉体的にも、精神的にもボロボロだったのですが、すでに出会っていた法華経*2に救われました。

法華経はざっくりいうと「お釈迦様の慈悲と教えは永遠で、常に私たちを応援し、悟りへと導いてくださる」というお経です。そんなお釈迦様ですから、私というちっぽけな一人ですら、自殺してしまったら悲しまれるだろうなと思い、死ぬのをやめました。お釈迦様の救いは、一人もその掌からこぼれ落ちることはありません。全ての人が対象なのです。

仏教、ひいてはお釈迦様に救われた私は、生きる活力をいただきました。そこで、今度はこの教えをいろんな人に伝えていきたいと思ったんです。落語家になったこともそうなんですが、やっぱり修行をちゃんとしなければ人に伝えることはできないと思っていたので、僧侶になろう、という選択は私にとって自然なことでした。

あえて言うなら落語家は「職業」で、僧侶は「生き方」です。それに、現代のお坊さんの多くは別に職業を持っているんですよ。私がたまたま落語家だったというだけで。

露のさん

ただ、出家される直前、団姫さんは天満天神繁昌亭が主催する「繁昌亭大賞」の繁昌亭輝き賞を受賞されるなど、落語家として十分活躍されていたかと思います。修行期間、落語家としての仕事はお休みになりますよね……。

団姫 修行中に私のことが忘れ去られたらどうしようかなと不安に思うことはありましたね。 それと、出家について幸いにも家族や師匠は快諾してくれたのですが「売名行為として僧侶の肩書きが欲しいだけじゃないのか」と言われることもありましたし、修行先となる比叡山でも、簡単にOKはもらえませんでした。

それでも初志貫徹で修行をされて、僧侶になった。僧侶になる前後で落語家さんとしてのお仕事に変化はありましたか?

団姫 落語家も芸能界ですし、席の取り合いです。 実際、修行があけてすぐは仕事の量が減りました。単純に「お坊さん」をどう扱ったらいいのか困ったということなんだろうな、と今では思いますが。

特に落語の先輩方から「前座」としてのお仕事の依頼はかなり少なくなりました。 やっぱり前座って、 後から出演する人を引き立てる役回り。キャラクター的には使いにくいですよね。

確かに……。

団姫 ただ、近所の喫茶店のマスターが「自分で仕事が取れる」「先輩から使ってもらえる」「公演のチケットを売るのがうまい」のどれか一つでも満たされれば、落語家は一生食べていけるってアドバイスをくれたんです。

私は、先輩に前座として使ってもらいたいから落語家になったわけじゃではありません。もし僧侶である肩書きが「使いにくい」とされるのであれば、自分で落語会を開催すればいいんだ、と思うようになりました。ありがたいことに今では仕事の幅も広がっていますし、僧侶であることを落語のマクラ*3にすることもあります。

異教徒との結婚生活は「それはそれ、これはこれ」

ご家族のお話もよろしいでしょうか。団姫さんの夫はクリスチャン。「異宗教結婚」と伺いました。

団姫 そうなんですよ。夫の豊来家大治朗は太神楽曲芸師ですが、プロテスタントのクリスチャンでもあります。芸風も信仰もまったく違う、人生の相方です。名古屋の寄席で一緒になった時に知り合いました。

大治朗さんはどんな方ですか?

団姫 一言でいえば「優しくおっとり」。夫婦生活はうまくやっていると思います。2014年には子どもも授かり、今は夫とお互いのスケジュールを確認しながら「できるひとがやる」で子育てをしています。

団姫さんは、大治朗さんの信仰についてどう捉えているのでしょう。

団姫 例えば夫が週末にかけて出張に行くとして、近くに夫の宗派に合う教会はないかな? と一緒に探すような仲。互いの宗教は「そこはそれ、これはこれ」と考えているので、宗教が原因で喧嘩をしたことはないですね。

夫は毎週末には日曜礼拝に行く比較的熱心なクリスチャンですけど、互いに理解しあって生活しています。

露のさん

とはいえ、仏教徒とクリスチャンの結婚となると、反対の声も多そうです……。

団姫 めちゃくちゃ批判はありましたね……!「何を考えているんだ」なんてことも言われました。ただ、私や彼を知る人からの反対がなかったのはうれしかったですね。

そもそも多くの人は、宗教それ自体を「よくわからないから不安」なんだと思います。

団姫 かもしれませんね。正直、うさんくさいと思われることもあります。ただ、私の場合は仏教徒、夫の場合はキリスト教徒ですが、いずれにしても心のよりどころを持ち「おかげさま」の気持ちを忘れずにいることが豊かに生きる秘訣。なので、信仰をお互いに持っていることは良いことだと思います。

ただ、「どうしても宗教に対して抵抗がある」という方は、神仏でなくても、おばあちゃんが大好きな人ならおばあちゃんへの「おかげさま」でも良いと思います。仏様でも人間でも、誰かひとり、自分が悲しい顔をさせたくない大切な人がいれば、真っ直ぐに生きることができると思います。

人々が集う場所をつくりたい

いろんな立場を持つ団姫さんですが、将来的なゴールというのはあるのでしょうか。

団姫 ゴール……。そうですね、やっぱり落語家としては「名人」を目指したいです。僧侶としては「自殺をなくす手助けをしたい」。

「自殺」にフォーカスを当てるのは何故でしょう。

団姫 先程も少しお話しましたが、僧侶を目指そうと思ったきっかけが、まさに私自身お釈迦様の教えによって自殺を踏みとどまることができたから。心の支えは神様でも仏様でも、それ以外の何かでもいいと考えていますが、僧侶として迷ったり苦しんだりする人たちの悩みを聞ける場所をつくりたいと思っています。それで、生きることを捨てないでいてくれたら。

そこで落語会もできたらいいですね。笑いながら「生きる」を話したり共有できたりすれば。落語家として、僧侶としてのゴールにむけた「人の集う場所」をつくりたいですね。

団姫さんは自分らしく、自分の使命を実現させているとお話を聞いていて感じます。ただ、全ての人がそんな生き方ができるか、というと難しいのでは、と思ってしまって……。

団姫 どうしようもなくなったら、逃げてもいいと思います。お釈迦様も「逃げる」ことを否定されていません。場合によっては、まずは避難することが大切です。逃げずに向き合おうとして心身を削られて、結果死んでしまってはいけませんから。

「仏様もこう言っておられるんだし」と気軽に構えてみてほしいですね。ちなみに私は昔、すごーく緊張しいだったんです。人前に立つとお腹が痛くて。こんなんで落語家になれるのかって。

でもね、諸説あるんですが、お釈迦様の死因って食中毒らしいんですよ。あのお釈迦様でも腹痛に倒れるんです。だったら私がお腹痛くなるくらいどうってことないって。そう思えると、何だか楽になるでしょう?

露のさん

取材・文/おかん(ヒラヤマ)
撮影/浜田智則
編集/はてな編集部

お話を伺った方:露の団姫(つゆの まるこ)さん

露の団姫さん

1986年生まれ。上方落語協会所属の落語家。高座の他にもテレビ・ラジオで活動中。3年間の内弟子修業を経て主に古典落語・自作の仏教落語に取り組んでいる。2011年、天台宗で得度。2012年、比叡山行院で四度加行を受け正式な天台僧となる。年間250席以上の高座と仏教のPRを両立し全国を奔走中。
Web:はなしの屑篭 - 落語家 露の団姫(つゆのまるこ)公式ホームページ

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*1:仏教における僧侶になるための出家の儀式

*2:仏教の代表的な経典。天台宗、日蓮宗などが経典としている

*3:噺の本題に入る前に話される導入のこと

普通って何だろう?『ダルちゃん』著者・はるな檸檬は、“擬態”をツールとして活用していた

はるな檸檬さん

資生堂のWebマガジン「花椿」で連載され、2018年12月に単行本化されたマンガ『ダルちゃん』(小学館)が話題となっています。主人公は、自分の居場所を作るため「普通」の“擬態”をする派遣OL・丸山成美こと「ダルちゃん」。作中では、ダルちゃんがさまざまな人と関わっていく中で、徐々に「普通であること」「本当の自分」について向き合うことに。「普通とは?」を問うストーリーは、今まさに「普通」に縛られ、生きづらさやつらさを感じる人たちの共感を呼んでいます。

OL経験もあるという、作者でマンガ家のはるな檸檬さんに、人間関係における擬態、そして「普通」という存在についての考えなどを伺いました。

小さい頃から周りに合わせて擬態していた

『ダルちゃん』(はるな檸檬/小学館)

ダルダル星人の「ダルちゃん」は、本当の姿を隠し「派遣社員のOL・丸山成美」として、周囲から浮かないよう苦手なストッキングやハイヒールを身につけるなど、普通の人間に見せるため“擬態”する努力を重ねている。

「ダルちゃん」第1話 | ダルちゃん | 花椿 HANATSUBAKI | 資生堂

『ダルちゃん』の中で、学校や会社などその「場」になじむため周囲に合わせる“擬態”をする主人公の姿に共感した読者は多いのではないかと思います。この“擬態”は、はるなさんご自身の経験ですか?

はるな檸檬(以下:はるな) 実は、私はダルちゃんとは違って、周囲になじめないことに悩んで擬態を覚えたわけではなく、もともと擬態がめちゃくちゃ得意だったんですよ。クラスのどのグループの子ともしゃべっていて、それを苦痛とも思っていませんでした。

小学校や中学校の頃って、ひとつのグループにいないといけない暗黙のルールがあるというか……、「あの子なんなの?」とか言われませんでしたか?

はるな それが、そういう陰口のようなものから逃れるのもうまかったんですよね(笑)。めちゃくちゃ人を見ていて。なんとなくみんなの考えてることが分かるんです。だからどう立ち回ったらこの場がうまくいくか、みんなが気分よく過ごせるか、とかを察知するのが得意というか。誰かに必死になって取り入っていたわけではないんですけど、要領がよかったんだと思います。

学校どころか、3歳とかのもっと小さい頃から自分がそういうことをしている自覚がありました。「子どもは純粋だ」とか言ってる大人に対して「いやいやいやこっちはこんなに計算高いんだよ、純粋なわけねーだろ!」とか内心思っていたんですよ。

すごい子どもですね(笑)。

はるな 何かきっかけがあったわけでもなく、意識せず自然とやっていました。素の自分を出したらダメだと思っていましたし、欲しいものを欲しがっても、嫌なことを嫌だと言ってもいられない。「擬態しないと、生きるの無理でしょう」って。

そこまで完璧に擬態していると、自分と真逆の、本音を出す人に対してイラッとはしないですか?

はるな いや全然。むしろ、憧れる気持ちの方が大きかったです。カッケー! って。私結構、人のことを「すごい!」と思うところから入りがちなんですよね。

ただ、擬態をする上でまったく何も感じていないわけではありませんでした。マンガ家になる前、OLをしていた時代も多分私なりに擬態をしていたんですけど、派遣社員をもう辞めよう、と思ったタイミングでは結構限界が来ていた気がします。

まあ、擬態から逃れたいだけでなく「どうしても絵の仕事をしたい」など、いろいろ重なったんですけどね。退職直後、失業保険が出ていた1カ月は、とにかく「もう二度と会社に戻りたくない」という気持ちで最高に力を使ってマンガを描いていました。

煩わしさをなくすために作られた「普通」という概念

ダルちゃん

『ダルちゃん』には、「普通はこうしない」「普通はどうするものなんだろう?」など、「普通とは?」に関する描写が多く見られます。「普通」について、はるなさんご自身はどうお考えですか?

はるな OLをやっていたときに、「普通さー! こういうことやらなくない!?」が口癖の先輩がいたんですよ。それで当時から「なんなんだ、『普通』って」とずっと思っていてました。あなたが思う「普通」と、私が思う「普通」は違う。それなのに彼女は、みんなに共通する「普通」というものがある前提でした。私は「普通」って、存在しない幻のようなものだと思うんです。

存在しない幻。

はるな この世界に生きる全員が違う視点を持っていて、全員が違う基準で生きているのに、そこをみんな、あまりにも忘れてるんじゃないか、と。

例えば、まだ「結婚はするのが当たり前」とかありますよね。そういうものだ、となんとなく思われている。そんな考えじゃない人だって本当はたくさんいるのに、いくつかのサンプルから「世間一般の考えはこういうもの」とまとめる癖が、皆さん多かれ少なかれあるんじゃないでしょうか。それが平均だと勝手に思ってしまうんです。その方が、脳みそに負担がないから。

本当は100人いたら考え方なんて100通りあるけど。

はるな そう、全員違う。でも、全員がそれぞれ違うと理解するのって、脳みそがめちゃくちゃ大変なんですよ。

100人分、処理しなきゃいけないですからね。

はるな そうそう! ひとつひとつ考えて処理していくのがしんどいから、「普通はこう」とまとめた方がラクで。男性が50人、女性が50人いたら、男ってこうだよね、女ってこうだよね、と決めてしまう。「普通」というのは、そういう煩わしさをなくすために作られた概念なんじゃないかな。

はるな檸檬さん足元

はるなさんが会社員生活で擬態をしているとき、「普通」という概念に合わせなければならないことはありましたか?

はるな 同僚との飲み会などで「結婚はまだなの?」みたいなことは確かにあったなぁ。結構適当に「そうですね〜、どうですかね〜、どうしたらいいと思います!?」って逆に質問して相手に喋らせるとかしていました。心の中で「浅い質問するな〜」とかは思っていた気がします。

そう思っていてもその気持ちを隠せるのがすごいです……。

はるな 私はこういうことを言われたら、「雨が降ってきた」と思うようにしているんですよ。雨が降ってもいちいち傷つかないですよね。それと同じで、「あぁ~、どうなんですかねー!」とか適当に言っておいて流す。心は動かされず、無の状態になるようにします。「女性はこういうもの」などと言ってくる人がいたとして、その人はそれまでの人生経験など、そういう発言をするようになった背景があるはず。その人の過去にまで遡って全部にケチをつけるわけにもいかないな、と個人的には思っています。

確かにそうですね。逆に何か言ったら、こちらの「普通」を押し付けることにもなりかねない……。

はるな 相手のことって絶対に変えられないよなぁ、と思っていて。だから、そこにいちいちキリキリしない方が、個人の幸福度は高まるんじゃないかな。

お話を伺っていると、はるなさんは他者や社会に「期待をしない」を徹底されていらっしゃいますよね。

はるな 今の世の中って、#MeTooなど、相手や社会が変わることを期待して、メッセージを強く発信するような流れがありますよね。それは本当に大事なことだと思っています。私もこの歳になって、次世代の人たちが苦しまないためにできることはやりたい、と強く思うようになってきました。

それとは別のところで、今この瞬間に自分で自分を守るのも同じくらい大事だと思っていて。これはきっと人によってやり方が違っていて、間違っていると思ったら目の前の人と逐一戦っていく方が自分の心を守れる人もいるのかもしれませんが、私の場合は、期待せずに、「擬態」をうまく使って流すのが一番合っているんです。それに、「なぜこの人はこういう考えになったんだろう?」と思うと考える材料になるので。考察対象として見ればどんな人も面白いです。

擬態は生きるためのツール。擬態を飼い馴らそう

「擬態」って、本音を出せなくてどうしようもなくて行う、ネガティブなものだと思っていたのですが、はるなさんはどちらかというと、意識的に“使っている”感じがします。

はるな その通りで、擬態は「悪」ではないと考えています。

ただ、擬態すること自体が苦痛に感じる人もいるように思うんです。

はるな どこまで擬態するかは自分で納得してやっていないと、きっと苦しくなってしまいます。そのためには何よりも、自分を知ることが大事です。自分は何に怒っていて、何に傷ついていて、何を求めているのかを分かっていないままだと絶対しんどいと思う。

『ダルちゃん』に出てくる、スギタさんとのくだりはまさに、ダルちゃん自身が自分の本音を無視してしまっているんですよね。なんだか違和感はあるけど、いいやって押し込めてしまって、結局ダルちゃんは苦しくなってしまっていました。

『ダルちゃん』(はるな檸檬/小学館)
職場の飲み会でのスギタとダルちゃんの会話。

ただその場を取り繕うだけの擬態と、自分の本音を分かった上で必要に応じてする擬態とは、全然違うんですね。

はるな そうそう。擬態をしていることに対して、自分が腹の底から納得しているかどうかはすごく大事です。自分と全然考え方が違う相手に「あーあ」とは思うけど、ここで戦ってこの人を傷つけても仕方がないし、いっちょ擬態しとくか、という感じ。擬態って、ちょうどいいバランスで使いこなせれば、社会生活を営む上で便利ですから。

その「ちょうどいいバランス」を身に付けるためには何をするのがいいのでしょう?

はるな 何よりも大事なのは自分の本心を無視しない癖をつけることなんですが、これは日記をつけて自分を見つめるのがオススメです。誰にも取り繕う必要のない、絶対に誰にも見せないと決めて、本音しか書かない日記を一年くらい毎日書いたら、だんだん自分のことが見えてくるんじゃないかな。

その上で行う擬態は、本当に単なる「ツール」でしかありません。当たり前のことですが社会にはいろいろな考えの人がいて、その場でお互い気分よくコミュニケーションを取れればいい、という場面もあると思うんです。どんなに嫌なことを言ってくる人でも、いいところだってあるだろうし。うまく擬態を使いこなしつつ、自分も納得できるいい塩梅を探すというか。

この上司ちょっと怖いけど、じゃあこっちは『プラダを着た悪魔』で悪魔のような上司の下で頑張る女性を演じたアン・ハサウェイになりきってみるか、とかね。そう思ってやると楽しめます、私は。でもやっぱりどうしてもムリ! と思えば粛々と別の居場所を探したらいいし。とにかく重要なのは「自分が自分の行動に腹の底から納得=“腹落ち”してるかどうか」だけ! 擬態も飼い馴らせれば、「便利なお芝居」のようなものだと思えるはずです。

はるな檸檬さん

取材・文/朝井麻由美

お話を伺った人:はるな檸檬さん

はるな檸檬さん

1983(昭和58)年、宮崎県生れ。漫画アシスタントやOLを経て2010(平成22)年、宝塚ファンを題材にした「ZUCCA×ZUCA」にて漫画家デビュー。その他の著書に、『れもん、よむもん!』『れもん、うむもん! ――そして、ママになる』『タクマとハナコ』などがある。

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次回の更新は、2019年5月22日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

「女将なんて想像もしてなかった」老舗旅館を託された夫婦が取り組んだ“働き方改革”

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神奈川県鶴巻温泉の旅館「元湯 陣屋」(以下:陣屋)。その4代目女将が宮崎知子さんです。夫と共に経営を引き継ぐことになったのは今から10年前の2009年。宮崎さんは突如、創業100年を超える老舗の舵取りを託されることになりました。

就任当時は10億もの負債を抱え、半年後には倒産しようかという窮状。そんな崖っぷちから、わずか3年で経営を立て直した宮崎さん。さらに、週休3日制や有休完全消化など、従来の旅館業ではあり得なかった働き方改革にも取り組んでいます。

古参の従業員からの戸惑いや反発もあったなか、宮崎さんはどのように老舗旅館の変革を成し遂げたのでしょうか? 苦闘の日々について伺いました。

サラリーマンの妻から、いきなり「女将」へ

宮崎さんが陣屋の女将に就任された経緯を教えてください。

宮崎知子(以下、宮崎) 2009年の10月に陣屋の事業を先代から継承し、夫が社長、私が女将に就任しました。義父が急逝し、義母が体調を崩してしまったことで、急きょ長男である夫が継ぐことになったわけです。当時、私は2人目の子供を出産した直後。産後2カ月で、女将として仕事を始めるような状況でしたね。

本当に急な話だったんですね。夫の富夫さんも当時はサラリーマンで、旅館を継ぐ予定ではなかったとか?

宮崎 夫はもともと本田技術研究所のエンジニアでした。大学も理系の学部で大学院まで進学し、そのまま本人の希望通りエンジニアとして好きな研究の仕事に従事していましたから、義両親も当初は息子に陣屋を継がせることを想定していなかったようです。私もあくまで「ホンダの社員」と結婚したつもりでおり、まさか夫が旅館を継ぎ、私が女将になるなんてことは全くの想定外でした。

しかも、当時の陣屋には10億円もの借金があり、半年後には倒産するかもしれないという厳しい状況だったそうですね。

宮崎 商売をしているので借入金があるのは普通ですが、額が尋常ではありませんでした。というのも、義父が当時は上場企業の社長も兼務していたため、その信用力ゆえに高額な借り入れができたんです。でも、義父が亡くなり、その後ろ盾がなくなったことで金利を上げると言われたら、おそらく半年で焦げ付くだろうという状況でした。

夫婦共に旅館業未経験で、しかも莫大な借金もある。そんな崖っぷちの状況の中で、「継ぐ」という決断に踏み切れたのはなぜですか?

宮崎 雇用している従業員もいますし、ほったらかしにするわけにはいきません。もちろん、当初は売却も考えました。ただ、リーマンショック後ということもあり、どこも条件は非常に厳しかったです。運営権を買っていいというベンチャー企業もありましたが、経営権だけを譲渡し、破綻の責任はこちらが被るというもので、極端な話「明日不渡りになります。すみませんでした」と突き放される可能性もあるわけです。

それなら、まだ自分たちでやった方がいいだろうと。経営がダメになったとしても、幕を引くのなら自分たちで……と考えました。うまくいかない可能性の方が高いと思いましたが、やるからには最善を尽くそうと。

宮崎さん

「情報共有のIT化」と「マルチタスク化」を目指す

就任当時、最も大きな課題は何でしたか?

宮崎 現場の従業員はとても一生懸命なのですが、それが生産性に結び付いていませんでした。根本の原因は、情報の伝達が全て紙のメモや資料の受け渡しによるやりとりだったため、従業員同士の連携がうまくとれていなかったことです。

何でも紙に書きコピーして配るといったやり方だと、同じことを何度も繰り返し書いたり、新しい情報が更新されるたびにメモをしたりしないといけませんよね。それに、スタッフが何十人もいると、ちゃんと全員がメモをしてくれているとも限りません。結果、言った・言わないの押し問答に無駄な時間が割かれたり、それによって従業員の間に殺伐とした空気が流れたりと、あまりいい状況ではありませんでした。

旅館業において共有されるべき情報とは、どんなことが挙げられますか?

宮崎 例えば、旅館に到着されたお客さまの情報は、接客のご案内係やフロントが最初に取得します。本来はそこからスムーズに全従業員へと拡散されるべきなのですが、フロント係はチェックインやお客さまをご案内する業務があり、共有がどうしても後回しになる。すると、接客の夕食係や清掃のスタッフは、ギリギリまで出てこない情報にやきもきします。素早く情報が共有されていれば、先回りして準備しておけることもありますからね。

接客係の従業員はホスピタリティが高いからこそ、自分の裁量で仕事をコントロールできないことに大きなストレスを感じてしまうんです。

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そこで宮崎さんたちが取り組んだのが、iPadを使った情報の見える化。2010年には独自の予約システム「陣屋コネクト」も開発し、システムにログインすることでお客さまデータを含めたさまざまな情報を、全従業員が可視化できるようになったそうですね。

宮崎 情報の格差がなくなったことで、指示待ちの人間が劇的に減りました。また、システムの導入と並行して着手したのが、従業員の「マルチタスク化」です。それまでは「布団を敷く係」「部屋へ案内する係」など自分の持ち場のみをこなす形だったため、人数は多くても、そのリソースを十分に活用できていませんでした。各々の専門領域は磨かれていくものの柔軟性がなく、例えばフロントがチェックインで忙しい時間帯にもかかわらず、手すきの人間が出てしまうような状況だったんです。

そこで、マルチタスク化が重要になってくると。例えば清掃係が接客もできるようになれば、チェックインに客が集中した時でも、フロント業務をサポートできますね。

宮崎 はい。まれに20組のご予約中15組のお客さまが同じ時間に集中していらっしゃるなど、フロントが恐ろしく多忙になることがあるのですが、そんな時でもパニックにならず質の高いサービスを提供するためには、従業員のマルチタスク化は欠かせません。

iPadでつぶさに状況を共有し臨機応変に手助けを要請できる仕組み、そしてマルチタスク化によって、館内のマンパワーを適切に采配できるようになりました。

決めたルールを曲げず、分かってもらえるまで伝え続ける

就任当初は高齢の従業員の方も多かったそうですね。デジタルデバイスになじみのない方も当時は多かったように思います。情報共有のIT化を浸透させるためにどのようなアプローチを行いましたか?

宮崎 とにかく、ひたすら伝え続ける。これだけですね。確かに、高齢の従業員に「陣屋コネクト」のシステムを使ってもらうのは苦労しましたし、本当に慣れてもらうまで2年以上はかかったと思います。それでも、丁寧に伝えていけばちゃんと使えるようになる。ただ、それには同じことを30回くらい聞かれても、笑顔で対応する根気が必要です。

それまでのやり方に慣れた従業員の方からは、反発の声も上がったのでは?

宮崎 もちろん不満や戸惑いの声はありました。ただ勤怠管理もシステム上で行う仕組みにしてからはログインして出勤ボタンを押さないと給料が発生しないため、全従業員が使うようになりました。他にも、各種申請書類も社内SNSを介して受理するルールを作り、当初は半ば強制的にシステムを使ってもらうようにしていましたね。

紙の申請書類は頑なに認めなかったので、反発を受けたり、時には泣かれてしまうこともありました。でも、そこで受けとってしまうと抜け道の前例ができてしまいます。申請書類のフォーマットは問わないし、数行の箇条書きでもいいから、新しいルールに則ってくださいと。そこは強い気持ちで、絶対に曲げませんでした。

なぜそれをやる必要があるのかということも、理解してもらう必要がありますね。

宮崎 そうですね。現状はうまく情報共有ができていないためにお客さまにご迷惑をおかけしていること、また、そもそも経営状況がピンチで、今までのやり方を大きく変える必要があることも包み隠さず伝えていました。当初はあまりその切迫感が伝わっていなかったようですが、私たちが従来のやり方を次々と変えていったことで従業員にも「他人事じゃない」という意識が芽生えていったように思います。

もちろん私たちの方針を受け入れてもらえず、残念ながら退職に至るケースもあれば、変革を快く引き受け、業務の範囲をどんどん広げてくれる従業員もいました。本当に歯車がかみ合い始めたのはここ数年ですね。それまでは日々トライ&エラーの繰り返しでした。

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今は「陣屋コネクト」のシステムを外部の旅館やホテルなどにも販売しているそうですが、どんな狙いがあったのでしょうか?

宮崎 陣屋コネクトを使い始めて数年がたち、現場もそれなりにシステムを使いこなせるようになってきました。一方で、こなれてきたがために現場から改善要望が上がらなくなってしまったんです。エンジニア出身の夫としては、陣屋コネクトはまだまだ未熟なシステムで、ブラッシュアップする余地はあると考えていたようです。

そこで、外部の方にも使っていただき、忌憚のない意見や要望を吸い上げることでさらにシステムを発展させられますし、それがひいては陣屋のサービス向上にもつながると考えました。当初は夫がキャンピングカーで地道に全国を回って営業し、現在はホテルや旅館、結婚式場など300以上の施設でご利用いただいています。

旅館業では例のない、週休3日制

さまざまな改革が実を結び、就任3年目の2012年には黒字化を達成。その後、週休2日制を取り入れています。ともすれば、黒字化の勢いをそいでしまうかもしれない決断に踏み切った理由を教えてください。

宮崎 疲れてしまって……。就任から3年間ほとんど休みがなく、気が休まることがありませんでしたから。それに、合理性、生産性を突き詰めるなかで疲弊しながら頑張ってくれた従業員の方々にも、何らかの形で報いたいと考えていました。賃金も少しずつ上げてはいましたが、黒字化したばかりで財政的にもまだまだ脆弱でしたので、十分に還元できているとは言えない状態。ならばせめて、お休みを増やそうと。そこで、2014年から週休2日制を取り入れ、2015年に有給休暇の完全消化、2016年には週休3日制へと移行しています。

従業員の皆さんは、どんな反応でしたか?

宮崎 満場一致で喜んでくれました。せっかく黒字化したのに大丈夫かと、メインバンクの担当さんは心配されていましたけどね。

宮崎さん

実際には大丈夫どころか、さらに利益が上がったそうですね。

宮崎 週休2日制を取り入れた初年度こそ売り上げが頭打ちになりましたが、翌年から順調に回復し、利益については問題なく推移しています。というのも、もともとお客さまが少なかった火曜と水曜を定休日にしたため、売り上げが大きく落ちることはなかったんです。

ただ、火曜を休みにしても月曜日にも宿泊を受け入れると誰かが火曜日に出勤をしないといけなくなる。そこで、2016年からは月曜日も休みとした週休3日制にしました。月曜日はランチまでは実施していますが、丸2日は休めることになります。

まとまったお休みがとれることでプライベートの計画が立てやすかったり、生活のリズムを整えやすいという効果もあって、結果的に労働意欲や生産性が増したようにも感じます。

宮崎さんご自身は、生活や働き方に変化はありましたか?

宮崎 子供の幼稚園の行事に参加しやすくなりましたね。じつは上の子の時にはほとんど参加できなくて、幼稚園のこともよく分かっていませんでした。それでも、周囲の保護者さんたちが優しい方ばかりで、たまにお会いしたときに園の状況や子供の様子などを事細かに教えてくれたんです。その恩返しのためにも、週休2日制になったタイミングで、幼稚園で毎年開催しているフェスティバルのリーダーを引き受けました。最初の一年は、全ての定休日をそれに捧げましたよ。

せっかく休みができたのに、今度はプライベートで多忙に……。

宮崎 そうですね(笑)。でも、そういう幼稚園の活動って、どうしても専業主婦や専業主夫の方に負担が偏りがちなんです。逆に働いている人も、他の方にお願いばかりしている負い目を感じてしまうこともあると思っていて。そこで、仕事をしながら幼稚園の行事に参加できるやり方を確立したいという思いもあり、引き受けることにしました。

具体的には、どんなことを実践されたのでしょう?

宮崎 最も重視したのは、最初に決めたスケジュール以上は絶対に活動日を増やさないこと。そのためにも、途中で余計な制作物を増やすことはやめましょうと。なるべく負荷をかけず、決められた日程の中で可能な内容に収めることが大事だと考えました。

同時に、フェスティバルをよりよいものにするためのアイデアもみんなで考えていきました。例えば、それまでは一方通行だったバザーの順路を変え、いろんなお店を自由に回遊できる配置にして収益性を高めるといった試みですね。

あとは、それまでは手順書がなかったので、次の保護者さんたちの参考になるよう私たちのやり方をパワポの資料にまとめたりもしました。使う・使わないは別として、とりあえず困った時の助けになればということで。

旅館だけじゃなく、フェスティバルも改革したわけですね。何事も、課題を見つけて改善するのがお好きなのでしょうか?

宮崎 いえ、決して楽しくはないんですけどね(笑)。ただ、何事も合理化したい性格ではあるかもしれません。デパートで買い物するときも、一番上の階から同じ通路を通らずに無駄なく買い物するプランを考えるのはけっこう好きです。

最後に、今後の展望について教えてください。

宮崎 やはり、従業員が働きやすい環境を整えることが何より重要です。現状は「女将さんまだまだです。もっとやってください」と思っている人がたくさんいると思いますし、働き方や賃金を含めた労働環境をより良いものにしていかなければなりません。

また、陣屋のような単体の旅館は転勤や大きな人事異動がないため、人がマンネリ化しやすい。そこで、常に新鮮な気持ちで仕事に向かえる場を作ること、新しいチャレンジを続けることも経営側の役目です。今、陣屋コネクトを通じて全国の旅館や観光施設とリソース交換をしているのも、今までになかった旅館の価値を生み出すヒントになっているのではないかと思います。

宮崎さん

取材・執筆/榎並紀行(やじろべえ)
撮影/小野奈那子

お話を伺った人:宮崎知子さん(「陣屋」4代目女将)

陣屋

2009年より夫・富夫さんと共に「陣屋」の経営立て直しを図る。2010年にはクラウド型旅館・ホテル管理システム「陣屋コネクト」を導入し、2012年に黒字化を達成。2014年には週休2日制、2016年には週休3日制を実施し、さまざまな働き方改革に取り組んでいる。

元湯 陣屋

陣屋

神奈川県 鶴巻温泉の老舗旅館。部屋ごとに趣向の異なる露天風呂付き客室もあり、日帰り入浴も楽しめる。東京・箱根の中間地の鶴巻温泉駅から徒歩5分とアクセスも抜群。将棋名人戦の舞台としても知られている。
Web:鶴巻温泉 元湯 陣屋

※宮崎知子さんの「崎」は立つ崎(たつさき)が正式表記となります

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次回の更新は、2019年4月26日(金)の予定です。

編集/はてな編集部

還暦を迎えた打首獄門同好会・junko「いくつになっても頭を振りたいし、騒いでいたい」

junkoさん

2004年に結成されたスリーピース・バンド、打首獄門同好会。少し怖い印象を持ってしまうバンド名だけど『布団の中から出たくない』や『日本の米は世界一』といった、くすりと笑えてストレートなメッセージを鳴らす「生活密着型ラウドロックバンド」として人気を集め、2018年3月には初の日本武道館公演を成功させました。このバンドのベーシストとして活躍するのがjunkoさんです。長い髪を振り乱しながら激しいプレイを繰り広げる彼女が還暦を迎えたと2018年末のイベントで発表された時にはファンはもちろんネット上でも大きな話題となりました。

「特に年齢を隠してきたわけでもないけど、公表していなかった」というjunkoさん。40代後半で加入したこのバンドでの活躍は還暦を迎えてもなおパワフルで、年齢を知った多くのファンの間にもjunkoさんに対する憧れやリスペクトが止まりません。

「年齢」というものに対してためらうことなく、バンド活動や自らの音楽スタイルを貫いている彼女に、その考え方や向き合い方などを聞いてみました。

きっかけは「事務所の契約書」

昨年末のライブでjunkoさんが還暦を迎えられたということが発表され、ネット上でも大きな話題となりました。こうした反響は想像されていましたか?

junko うちのバンドのリーダー(大澤敦史)は企画や演出の才能がすごくある名プロデューサーなので、今回の年齢公表を含むイベントに関しては彼にネタとしてお任せしていました。なので面白くはなるんだろうなとは思ってたんですけど(笑)、こんなに話題にしていただけると思っていなかったです。

年齢を公表するタイミングに関してはどのくらい前からバンド内で話をしていたのでしょうか。

junko 武道館公演が終わった時点(2018年3月)で59歳で、そこから少し休息期間があって。お休み明け最初の仕事の時に「12月で60歳なんで公表しましょうか?」という話が出ました。かたくなに隠していたわけでもなかったので公表することは良かったんですけど、「自分は良くてもバンドにとってはどうなんだろう?」というのは考えましたね。すごい歳の離れた60歳のメンバーがいることがこのバンドにとってどう転ぶのかな? という心配がありました。

それ以前にメンバーの皆さんに自分の年齢を告げるタイミングがあったそうですが、その時に「年齢を理由に辞めさせられるかも」と思っていたのも、バンドにとってどうなんだろう? という心配だったからなのでしょうか。

junko そうですね。その時はすでに50歳を過ぎていたのですが、事務所の契約書に本当の年齢を書かなきゃいけないということがあって。ここで言わないとな、と思ったんです。

私は年齢のことはどうでも良かったんですけど、そういうメンバーを抱えることで「ふたりは大丈夫?」「もしダメだったら切って」っていう気持ちだったんですよね。

年齢を聞いた時のおふたりの反応ってどうでしたか?

junko その時に「私、アラサーじゃないんだよ」って言ったら「うんうん」「もうちょっと上?」みたいな感じで。「アラフォーでもないんだよ」って言ったら「え、どういうこと!?」となり、本当の年齢を知ったら爆笑しただけ。後は何も気にしてなかったんです。

私だったらそんな年齢のメンバーがいたら「ライブとか大丈夫なのかな」とか「この先あと何年やれるのかな」とか考えると思うんですけど、あのふたり、何も気にしてないんですよ。そこがすごいな、ありがたいなと思いました。歳を聞いて爆笑して終わり(笑)。

そうだったんですね。junkoさんがこのバンドに加入された時は47歳だったそうですが、そういうことを話さないままバンドって始まるものなんですね。

junko もともと別のバンドをやっている時からの友人同士だったので、特に年齢を教え合うようなこともなく、何歳なのかお互い分からないままうやむやに数年過ごしていました。だからもし事務所の契約とか何もなかったら今も知らせないままだったかも。

junkoさん

「junkoさんお誕生日会」というイベント(2018年12月)で、くす玉が割れて「祝・還暦」の文字があらわれた時にファンの方もネタだと思ったとか。確かにjunkoさんの激しいプレイ・スタイルを見ていると、にわかには信じがたいです。

junko 自分ではずっとこの演奏スタイルでやってきたので、その延長線上でしかないんですけどね。

ちなみにご自身が音楽に目覚めた頃、思春期にはどんな音楽を聴かれてたのでしょうか。

junko 幼稚園からピアノを習っていたのでずっと音楽には触れてきていました。ロックは中学2年生の時に――その当時ですとディープ・パープルや、ユーライア・ヒープというバンドが特に人気を集めていて。個人的にはユーライア・ヒープの方が好きで、聴いていましたね。

あと、たまたまうちにフォークギターがあって、弟と一緒にフォーク・デュオみたいな遊びをしていました。だからバンドではないにしろ、広い意味での音楽はずっと生活の中にありました。弟と離れて暮らすようになって自然とフォークデュオは解散し(笑)、高校生の時には学校を抜け出してフィルム・コンサートを観るのが好きで。そこでレッド・ツェッペリンとかを見て「絶対にバンドをやりたい!」と思ったんです。

実際にバンドでベースを弾くのはいつぐらいから?

junko 大学生になって軽音部に入ってからですね。そこで初めてベースを持って。

その頃(1970年代後半)の日本ではアンダーグラウンドな盛り上がりはあったものの、ロックバンドを実際にやっている人は今のように多くなかったですよね。

junko 私、実は日本のロックが全然分からなくて。いわゆる(第二次)バンドブームとかイカ天*1が放送されていた頃も、とっくに大学を卒業していましたし。

そうなりますよね(笑)。なんかすごい新鮮です。

junko イカ天ブームのずっと前から既に結構長くバンドをやっていたので、応募しようかという話もあったんですよ。私がいたバンドは出ませんでしたが、知り合いのバンドは出場したり、応募していました。

好きなものをやめるって何だろう?

ちなみに大学を卒業されてから就職は?

junko 就職も決まっていたんですが、結局しなかったです。音楽で食べていきたいとか、そういうことは思っていなかったんですけど、就職したら、たぶん今までみたいには音楽ができなくなるだろうなと思って。ちゃんとした大学に通っていたし、周りのみんなも普通に就職したこともあって、親には心配されました。

就職せずに、いざバンドをやるぞとなった当時はどんな毎日だったのでしょうか。

junko その頃はまだ全然、学生バンドの延長くらいでしかなかったです。『ロッキンf』*2などの雑誌に知り合いが載り始めて、自分のバンドも東名阪ツアーなんかやり始める感じになったのは、28〜29歳くらいのときかな。たぶんX JAPANとかがまだライブハウスでやっていた時期で、その時から私も頭を振りながらライブをしていました。

大学卒業から結構、間が空きましたね。

junko そうですね、20代のほとんど、何していたんだろ(笑)。バンドがしたかった、ただそれだけで。だからバンド活動がしやすいバイトなどをその時々でしながら生きてきました。かといって絶対に有名になりたい! これしかない! とも思っていなかったし。その時々でやりたいこともいっぱいあって。別にバンド一直線ってわけでもなかったのでダラダラしていましたね。

でも30歳のとき、私だけが上京して他のメンバーはついてこなかったということもありました。当時北海道を拠点にしていたんですけど、それはたぶん、プロを目指して、というよりも、もっと生活の中でバンドというものに重きを置きたかっただけなんです。

30歳で上京。「若気の至り」とはなかなか言いづらい年齢のように思います。

junko うん、私の人生ってこうですよね(笑)。自分の年齢の時間軸がおかしいんだと思います。みんながこのくらいの年齢では終わっている(経験している)ようなことを私はずいぶん後になってやっていたりする。

junkoさんは40代になった時にギャルを始めたということですが、何かきっかけのようなものがあったのでしょうか。

junko たまたま私がしたいファッションとギャル文化が合致しただけだと思います。若い頃はそこまでファッションに興味がなかったんですけど、40代になって急に。

90年代後半、ALBA ROSAとかLOVE BOATとかがはやった頃でしょうか。

junko そうです。自分の好きなアイテムがギャル・ファッションの中にたくさんあったので、時代の流れに乗りました。昔からココナツとかハイビスカスとか、そういう柄は好きでしたね。

junkoさん

時代や流行が変わっても貫いている。

junko やめようとも思わないです。むしろ好きなものをやめるって何だろう? って思いますね。何でもそうです。やめる理由ってあるのかな? って。

年齢にしてもそうで、一般的にこの年齢になったらこれは似合わないかなとか、そんな風潮があることも分かります。昔、親にも「ある程度の年齢になったらちゃんとしたものを着ないとダメだよ」って言われたことがあるんです。でも、その意味が分からなかったし、今も「別にちゃんとしていなくても、自分が好きだからいいや」って思います。

人生終盤かもしれないけど、変わる気がしない

還暦を迎えたjunkoさんがパワフルにバンド活動をしていく上で体力的なケアだったりはどうされているのでしょうか。

junko 思うのは、好きなスタイルで音楽がしたいってことなんです。いくつになっても頭を振っていたいし、騒いでいたい。そうするためには? って考えたら、それなりに体力が必要なのも分かるので、そのための努力はします。なので、あんまり苦労は感じていないです。

足もすごい上がりますもんね。

junko そうですね。何年か前、ステージから落ちて骨折した時に、それでもライブの予定があったので骨折したままやっていたら初めて腰痛を経験したんです。たぶん骨折した足をかばって動いているうちに腰を痛めたんだろうと。

骨折したままライブをするのもすごいです。

junko そこで腰痛は良くないってことになって、格闘技を習い始めたんです。キック・ボクシングなんですけど、体力もつくしキツイし、相当いいですね。学生時代にバスケットをやっていたこともあって、自分を追い込んで体力づくりをするのが好きで。そういうMっ気なところが昔からあります(笑)。

junkoさん

マイペースな反面、すごくストイックな部分もあるんですね。

junko すごくいい加減にだらだらしてるくせに、好きなことはほんとに好きで仕方がないから、そのためにはものすごい努力はします。ギャル服を着たいから、いくつになっても体型がみっともないことにならないようにしようとか。全て、好きなことをするためです。

何かを始めようとする時に自分の年齢のことを気にしたりする方も多いと思うんですが、junkoさんはそういうことで悩んだり躊躇したりしないんですね。

junko それは全くないですね。そりゃあ60歳なので本当に、シワもあるし、たるみだってあります。それを周りの人に見せるのは自分でも嫌なので、どうにか取り繕うくらいの努力はします。年齢と対峙しても、好きなものは好きなので。

すごい。好きという器の中に自分自身をちゃんと当てはめていくみたいな、そういうやり方なんですね。

junko 好きとなったら何も見えないんですよね。だからワガママだと思います。普通だったら好きを閉じ込めて生活したりするんだろうなって。

そういうバランスは取ってこなかった?

junko うーん、自分の好きをここまで貫かなかったら、親ももうちょっと安心していたかなとは思います。父が何年か前に亡くなったのですが、死ぬ間際に「ちゃんとした人と結婚して、こういう人生を本当は歩んでほしかった」みたいなことを言われて。親孝行しなかったな、ごめんね、と思いました。

ただ、自分の子供が好きなことをし続けてくれるのもまた、ひとつの親孝行だなとも思います。

junko だといいですね。母が武道館ワンマンとお誕生日ライブに来てくれたのですが「良かったよ」って言ってくれて。それで父のことは自分の中でチャラにしました(笑)し、そういう姿を見せられて良かったなと。

人生の時間軸は30年くらいズレているかもしれない


打首獄門同好会 「YES MAX」(2019年3月6日に発売された『そろそろ中堅』に収録)

打首獄門同好会としての活動は、いかがですか。

junko 楽しいです。この歳だったら普通経験できないことが経験できているような気がします。もうちょっと皆さん、静かな生活をしているのかな。同世代の友人があまりいないので分からないですけど。

一般的には還暦で仕事も一区切りして、これからゆっくり過ごしてね、なんてお祝いされる人も少なくないように思います。そういう感じじゃないですもんね、すごくアグレッシヴ。

junko 自分でもそういう感じは全くないですね。人生80年だとするとほんとに終盤なんですけど、なんだか全然変わる気がしないです。よっぽど大怪我するとか……大怪我しても私たぶん復活するんですよ(笑)。だからあんまり将来に危機感がないんです。

先程も「人と比べると人生の時間軸がズレている」とおっしゃってましたが、それが今、功を奏しているのかも。

junko そうかもしれない。30年くらいズレているかも。寿命は分からないけど、しわくちゃになってもギャル服はやめないです!

好きなことってずっと好きで居続けられたらいいと思うのですが、人生では時にそれを諦めなきゃいけないのかなと思う局面にもなったりする。それを乗り越える力がきっとjunkoさんにはあったんだろうなと、お話を聞いていて思いました。

junko 自然とこうなりました。好きなことをするために嫌なことを避けてきたので、人生としては全然お手本じゃないし、むしろ「そんなんで良いのか」って感じだと思うんです。ワガママに生きてきたので、そりゃ父も怒りますよ。

周りの人と比べないっていうのも大きいんでしょうね。人生こうじゃなきゃいけないみたいな型に自らはまることもなく。

junko それは全く無いですね。もう人それぞれですから。私はたまたまこうだけど、そうじゃない人はそれでいいし。もし何かで悩んでるんだったら「好きなことやれば?」としか言えないですね。

あと実は普通に一般のお仕事もしていて。本当に忙しい毎日ではあるんですが、全部で生活のバランスを取るのが好きなんです。

職場で働いている自分もあって、バンドもしていて、そのふたつがあって良いバランスになっているんですか?

junko やりたいことにいろいろと手を出すので、格闘技のトレーニングも、5年前から習っているタヒチアンダンスもやめたくない。ある人に「OLと格闘技とダンスとバンド、どれかひとつやめたら?」って言われたことあるんです。でも、どれもやめる気がしないし、何ならもっとやりたいです。

そういう性格的な部分も含めて今のjunkoさんを作り上げている感じがしますね。どういう60代を過ごしたいと思っていますか。

junko 還暦のお祝いをしてもらいましたけど私にとっては節目でもないと思っています。20代だろうが60代だろうが何の変わりもない。好きなことをずっとしたいだけです、ここから先も。目標とかもありません。目標があるのは体重だけ(笑)。数字フェチなので毎日必ず体重計に乗ります! 後は、もう少し歳を取ったらサーフィンをやりたいかな。

この先にサーフィンをされるんですね!

junko 前に中途半端にかじって、全然やれていないので、また再開できたらいいなと。ボードの上でやるサップヨガというのにも興味があるので挑戦したいと思っています。

junkoさん

気になるあの人の仕事観

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取材・執筆/上野三樹
撮影/関口佳代
編集/はてな編集部

お話を伺った人:junkoさん(打首獄門同好会)

本人

大澤敦史(Gt)、河本あす香(Dr)と共に生活密着型ラウドロックバンド「打首獄門同好会」メンバーとして活動中。2018年の12月20日に開催された「junkoさんお誕生日会」で「還暦を迎えた」事実を発表し、バンド界に激震が走る。現在結成15周年を記念した「獄至十五」プロジェクトが進行中。2019年3月にはミニアルバム『そろそろ中堅』を発売し、同月からは47都道府県をまわる「獄至十五ツアー」が開催中。
Web: 打首獄門同好会公式サイト
結成15周年特設ページ:打首獄門同好会 |獄至十五 特設ページ
Twitter:@uchikubigokumon

 

*1:注:『三宅裕司のいかすバンド天国』の通称。1989年2月〜1990年12月にかけて放送された

*2:注:1976年に創刊された日本の音楽雑誌