資生堂のWebマガジン「花椿」で連載され、2018年12月に単行本化されたマンガ『ダルちゃん』(小学館)が話題となっています。主人公は、自分の居場所を作るため「普通」の“擬態”をする派遣OL・丸山成美こと「ダルちゃん」。作中では、ダルちゃんがさまざまな人と関わっていく中で、徐々に「普通であること」「本当の自分」について向き合うことに。「普通とは?」を問うストーリーは、今まさに「普通」に縛られ、生きづらさやつらさを感じる人たちの共感を呼んでいます。
OL経験もあるという、作者でマンガ家のはるな檸檬さんに、人間関係における擬態、そして「普通」という存在についての考えなどを伺いました。
小さい頃から周りに合わせて擬態していた
『ダルちゃん』(はるな檸檬/小学館)
ダルダル星人の「ダルちゃん」は、本当の姿を隠し「派遣社員のOL・丸山成美」として、周囲から浮かないよう苦手なストッキングやハイヒールを身につけるなど、普通の人間に見せるため“擬態”する努力を重ねている。
はるな檸檬(以下:はるな) 実は、私はダルちゃんとは違って、周囲になじめないことに悩んで擬態を覚えたわけではなく、もともと擬態がめちゃくちゃ得意だったんですよ。クラスのどのグループの子ともしゃべっていて、それを苦痛とも思っていませんでした。
はるな それが、そういう陰口のようなものから逃れるのもうまかったんですよね(笑)。めちゃくちゃ人を見ていて。なんとなくみんなの考えてることが分かるんです。だからどう立ち回ったらこの場がうまくいくか、みんなが気分よく過ごせるか、とかを察知するのが得意というか。誰かに必死になって取り入っていたわけではないんですけど、要領がよかったんだと思います。
学校どころか、3歳とかのもっと小さい頃から自分がそういうことをしている自覚がありました。「子どもは純粋だ」とか言ってる大人に対して「いやいやいやこっちはこんなに計算高いんだよ、純粋なわけねーだろ!」とか内心思っていたんですよ。
はるな 何かきっかけがあったわけでもなく、意識せず自然とやっていました。素の自分を出したらダメだと思っていましたし、欲しいものを欲しがっても、嫌なことを嫌だと言ってもいられない。「擬態しないと、生きるの無理でしょう」って。
はるな いや全然。むしろ、憧れる気持ちの方が大きかったです。カッケー! って。私結構、人のことを「すごい!」と思うところから入りがちなんですよね。
ただ、擬態をする上でまったく何も感じていないわけではありませんでした。マンガ家になる前、OLをしていた時代も多分私なりに擬態をしていたんですけど、派遣社員をもう辞めよう、と思ったタイミングでは結構限界が来ていた気がします。
まあ、擬態から逃れたいだけでなく「どうしても絵の仕事をしたい」など、いろいろ重なったんですけどね。退職直後、失業保険が出ていた1カ月は、とにかく「もう二度と会社に戻りたくない」という気持ちで最高に力を使ってマンガを描いていました。
煩わしさをなくすために作られた「普通」という概念
はるな OLをやっていたときに、「普通さー! こういうことやらなくない!?」が口癖の先輩がいたんですよ。それで当時から「なんなんだ、『普通』って」とずっと思っていてました。あなたが思う「普通」と、私が思う「普通」は違う。それなのに彼女は、みんなに共通する「普通」というものがある前提でした。私は「普通」って、存在しない幻のようなものだと思うんです。
はるな この世界に生きる全員が違う視点を持っていて、全員が違う基準で生きているのに、そこをみんな、あまりにも忘れてるんじゃないか、と。
例えば、まだ「結婚はするのが当たり前」とかありますよね。そういうものだ、となんとなく思われている。そんな考えじゃない人だって本当はたくさんいるのに、いくつかのサンプルから「世間一般の考えはこういうもの」とまとめる癖が、皆さん多かれ少なかれあるんじゃないでしょうか。それが平均だと勝手に思ってしまうんです。その方が、脳みそに負担がないから。
はるな そう、全員違う。でも、全員がそれぞれ違うと理解するのって、脳みそがめちゃくちゃ大変なんですよ。
はるな そうそう! ひとつひとつ考えて処理していくのがしんどいから、「普通はこう」とまとめた方がラクで。男性が50人、女性が50人いたら、男ってこうだよね、女ってこうだよね、と決めてしまう。「普通」というのは、そういう煩わしさをなくすために作られた概念なんじゃないかな。
はるな 同僚との飲み会などで「結婚はまだなの?」みたいなことは確かにあったなぁ。結構適当に「そうですね〜、どうですかね〜、どうしたらいいと思います!?」って逆に質問して相手に喋らせるとかしていました。心の中で「浅い質問するな〜」とかは思っていた気がします。
はるな 私はこういうことを言われたら、「雨が降ってきた」と思うようにしているんですよ。雨が降ってもいちいち傷つかないですよね。それと同じで、「あぁ~、どうなんですかねー!」とか適当に言っておいて流す。心は動かされず、無の状態になるようにします。「女性はこういうもの」などと言ってくる人がいたとして、その人はそれまでの人生経験など、そういう発言をするようになった背景があるはず。その人の過去にまで遡って全部にケチをつけるわけにもいかないな、と個人的には思っています。
はるな 相手のことって絶対に変えられないよなぁ、と思っていて。だから、そこにいちいちキリキリしない方が、個人の幸福度は高まるんじゃないかな。
はるな 今の世の中って、#MeTooなど、相手や社会が変わることを期待して、メッセージを強く発信するような流れがありますよね。それは本当に大事なことだと思っています。私もこの歳になって、次世代の人たちが苦しまないためにできることはやりたい、と強く思うようになってきました。
それとは別のところで、今この瞬間に自分で自分を守るのも同じくらい大事だと思っていて。これはきっと人によってやり方が違っていて、間違っていると思ったら目の前の人と逐一戦っていく方が自分の心を守れる人もいるのかもしれませんが、私の場合は、期待せずに、「擬態」をうまく使って流すのが一番合っているんです。それに、「なぜこの人はこういう考えになったんだろう?」と思うと考える材料になるので。考察対象として見ればどんな人も面白いです。
擬態は生きるためのツール。擬態を飼い馴らそう
はるな その通りで、擬態は「悪」ではないと考えています。
はるな どこまで擬態するかは自分で納得してやっていないと、きっと苦しくなってしまいます。そのためには何よりも、自分を知ることが大事です。自分は何に怒っていて、何に傷ついていて、何を求めているのかを分かっていないままだと絶対しんどいと思う。
『ダルちゃん』に出てくる、スギタさんとのくだりはまさに、ダルちゃん自身が自分の本音を無視してしまっているんですよね。なんだか違和感はあるけど、いいやって押し込めてしまって、結局ダルちゃんは苦しくなってしまっていました。
『ダルちゃん』(はるな檸檬/小学館)
職場の飲み会でのスギタとダルちゃんの会話。
はるな そうそう。擬態をしていることに対して、自分が腹の底から納得しているかどうかはすごく大事です。自分と全然考え方が違う相手に「あーあ」とは思うけど、ここで戦ってこの人を傷つけても仕方がないし、いっちょ擬態しとくか、という感じ。擬態って、ちょうどいいバランスで使いこなせれば、社会生活を営む上で便利ですから。
はるな 何よりも大事なのは自分の本心を無視しない癖をつけることなんですが、これは日記をつけて自分を見つめるのがオススメです。誰にも取り繕う必要のない、絶対に誰にも見せないと決めて、本音しか書かない日記を一年くらい毎日書いたら、だんだん自分のことが見えてくるんじゃないかな。
その上で行う擬態は、本当に単なる「ツール」でしかありません。当たり前のことですが社会にはいろいろな考えの人がいて、その場でお互い気分よくコミュニケーションを取れればいい、という場面もあると思うんです。どんなに嫌なことを言ってくる人でも、いいところだってあるだろうし。うまく擬態を使いこなしつつ、自分も納得できるいい塩梅を探すというか。
この上司ちょっと怖いけど、じゃあこっちは『プラダを着た悪魔』で悪魔のような上司の下で頑張る女性を演じたアン・ハサウェイになりきってみるか、とかね。そう思ってやると楽しめます、私は。でもやっぱりどうしてもムリ! と思えば粛々と別の居場所を探したらいいし。とにかく重要なのは「自分が自分の行動に腹の底から納得=“腹落ち”してるかどうか」だけ! 擬態も飼い馴らせれば、「便利なお芝居」のようなものだと思えるはずです。
お話を伺った人:はるな檸檬さん