
いまの時代、「会社を継ぐ」ことに悩む人は多いのではないでしょうか。
このご時世、ひと一人働いて食べていくだけでも大変。ましてや自分の意思で作られたわけではない会社を継ぎ、事業やスタッフすべてを背負っていくなんて相当なハードモード!
さて、そんな「会社を継ぐ/継がない」のテーマですが、「一部だけ継ぐ」という選択肢もあるのでは?というのが本日のお話です。

話の舞台は、ふぐの名産地である山口・下関。1992年に創業したふぐの加工会社「河久」は、2023年に幕を下ろすことになりました。
創業者の息子は自身が立ち上げた会社もあり、父の会社をそのまま継ぐことは叶いませんでした。しかし、その一部である「ふぐ魚醤」の事業を継承したのです。

サラリーマンを脱サラし、「河久」を立ち上げた父・望月俊孝さん(写真左)と、「河久」の魚醤事業を受け継いだ息子・望月重太朗さん(写真右)
フグ加工会社の創業者でありながら研究者としての一面を持つ父と、デザイン領域で活躍しながら食文化の探求も行う息子。そんな一風変わった経歴を持つ二人は、家業の継承やお互いの歩んだ道へどのような思いがあったのか? そして、なぜ「一部だけ継ぐ」事業承継に至ったのか?
会社の歩んできた道をたどりながら、それぞれの思いについて話を聞きました。
<話を聞いた人>
望月俊孝……食品会社でサラリーマンとして働いたのち、1992年に38歳で独立。ふぐの加工販売や飲食事業、ふぐに関する研究開発を行う「河久」を立ち上げる。2023年、「河久」を閉業。
望月重太朗……武蔵野美術大学卒。広告代理店勤務ののち、デザインR&Dをテーマにサービス・プロダクト開発、デザイン戦略開発、クリエイティブ教育の開発などを行う「REDD inc.」を創業。現在は武蔵野美術大学の非常勤講師を務めるほか、「試行」名義でローカル価値を発掘した実験的商品の開発/販売も展開中。
私大東京一人暮らし×3=フグで独立!

写真右:ジモコロ編集部の柿次郎
柿次郎:お父さんは38歳の時に独立されたそうですけど、もともとフグにまつわるお仕事をしてたんですか?
俊孝さん:いや、全然フグとは関係ない冷凍食品の加工メーカーで課長をやっていて。営業も開発もやらせてもらって、10年くらい働いていたかな。将来的にも、会社のほうからゆくゆくには工場長にするという話をもらっていて。
柿次郎:完全に出世コースですね。なのになぜ独立を?
俊孝さん:それが、工場長になれるのは50歳になったらと言うんです。当時38歳だから12年後やね。
柿次郎:確約をもらっているとはいえ、だいぶ先の話ですね。
俊孝さん:息子が3人いて、なんとなく勉強もできそうだし、みんな大学に入っていくよなと思って。ただ、一番上の重太朗が当時小学生。工場長になれるのが12年後だと、ちょっと遅いなと。
柿次郎:大学には間に合わない! 子ども3人の大学までの学費って、なかなかな額ですよね。

俊孝さん:そうなんです。もっと稼がなければいけんしっていうので独立を決断して。
柿次郎:子どもたちのため、学費のためのフグ事業。
俊孝さん:実際、息子たちは3人とも東京の私立大学に入ってね。
柿次郎:全員私立! めちゃくちゃお金かかってる!
重太朗さん:だいぶお世話になりましたね。
俊孝さん:息子たちは年も近いから、ある時は3人とも東京にいるんだけれども、みんな別々に住んでいるわけ。親からしてみたら、一緒に住んでくれやと思うけど。
柿次郎:たしかに。そして東京の家賃×3ってやばくないですか? それに仕送りも?
俊孝さん:そうね。なんぼお金があったらいいんだみたいな感じだよね? でもね、俺は若かったから、仕事のやりがいにもなるよね。
重太朗さん:いや、ほんと頭が上がらないな……。
フグは景気に左右される食べ物⁉︎

柿次郎:けど、いざ独立するぞといって、そんなにすぐできるものなんですか?
俊孝さん:いや、準備期間はあったね。フグを取り扱うためには免許が必要なんだけど、それには3年間の実務経験が必要。だから独立するまでのあいだ、サラリーマンとして9時から17時まで勤務して、夕方に少し寝て、夜中の1時から翌朝の8時までフグの会社で仕事をさせてもらう生活をしてました。
柿次郎:鉄人すぎる働き方だ…! 重太朗さん、知ってました?
重太朗さん:知らなかったですね……。
柿次郎:息子の知らない父の努力が。ちなみに独立するのはフグの事業というのは決めてたんですね。
俊孝さん:下関で独立するんだったら、フグを使えばかなり宣伝効果もあるし、他の魚を作るよりも付加価値が高いなと思って。
柿次郎:実際、独立して最初からうまくいったんでしょうか。
俊孝さん:そうなのよ。最初から軌道に乗ってしまったので、今後もよくなる感じがあったんだけど。世の中はそう甘くなくてね、競争にもなるし。
柿次郎:やっぱり一筋縄では行かない?
俊孝さん:右肩上がりで順風満帆に行くということはないので。やはり景気の動きもあるし、フグの値が上がって下がってを繰り返してね。
柿次郎:一番悪かった時期はどのあたりなんですか?
俊孝さん:リーマンショックの時期が一番下だったかねえ。
柿次郎:それはみんなお財布の紐が固くなって…?
俊孝さん:そう、フグは世の中の景気そのものが悪いと一番煽りを受ける食べ物なのよ。
柿次郎:へー!!

重太朗さん:フグって日常で食べるというより、仕事の会食や、ハレの日に外食するものじゃないですか。会社の経費や人のお金で食べることが多いから、不景気になるとフグを食べる機会も減ると。
柿次郎:そう考えると、フグって面白い食材ですね。ハレの食べ物だ。
俊孝さん:逆に狂牛病のBSEの問題があったじゃない? その時はフグの需要が増したのよ。贈答品に牛肉を使えないから、その代わりの高価な贈り物としてフグが最適だったみたい。
柿次郎:牛の次はフグ!
俊孝さん:贈り物にもできる、高級な食べ物というのはあんまりないからね。偉い人に渡して文句を言われないのは、フグが一番いい。それか牛肉の高いやつ。
柿次郎:風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな話だ。
儲かるだけじゃつまらない! 研究者肌の血筋
重太朗さん:良かった時期といえば、フグ刺しぶっかけ丼がすごく当たったよねえ。
柿次郎:ぶっかけ丼?
俊孝さん:ご飯を乗せた丼にふぐの刺身をのせて、ポン酢をかけた料理。もともと僕が免許を取るために通っていた工場で、加工の際にでるフグの端っこなんかを集めて、賄いで食べているわけよ。そんな感じで僕らもよく食べていたんだけど。

柿次郎:美味しそう!
俊孝さん:その頃にうちの会社でも研究所を作って、フグの研究をするようになってたんです。そこへ学生たちが来た時にぶっかけ丼を出してあげたら、それ以降、毎回ねだられるようになって(笑)。
重太朗さん:他ではなかなか食べられないメニューだろうしね。
俊孝さん:その反応を見て、これは商品化したら売れるなと。だからヒントはいろいろなところにあるよね。

下関にある唐戸市場の一角で営業していた、河久の食事処
柿次郎:今、研究という話がありましたけど、フグの加工業と飲食業以外にも?
俊孝さん:100坪くらいの研究所で、東京大学とフグの共同研究をしてたんです。

柿次郎:東京大学がフグの研究! どういう内容だったんですか?
俊孝さん:フグの遺伝子の勉強、研究をしたいと東大の先生から相談があってね。
柿次郎:遺伝子。
俊孝さん:人間のゲノムって32億あるんだけど、フグって8分の1の4億しかないの。それだけ数が少ないのは脊椎動物の中でフグだけなんですよ。だから、フグの遺伝子を解析できたら、人間にフィードバックしたときにすごく有効な資料になる、ということで。
柿次郎:人間にフィードバック?
俊孝さん:実は、人間とほかの生物のDNAって大差がないんですよ。実際、ノーベル賞を受賞したシドニー・ブレナーという生物学者が同じような研究を開始したりしていて。
柿次郎:へえ〜。じゃあ、そこでは今も研究を?
俊孝さん:もうその研究は東大にお返ししました。
柿次郎:本当にいろいろなことをやっていたんですね。
俊孝さん:お金儲けもしたいけど、社会的貢献もしたいわけよ。やっぱり、せっかく独立したんだから、大学とかの研究機関と一緒にやって新しいものができれば、社会の役に立てるわけでしょう。
柿次郎:そういえば重太朗さんも自分の会社ではR&D、企業との研究開発を事業としてやってますよね。
※R&D……「Research and Development」の略称で、日本語では「研究開発」の意味
重太朗さん:そうなんです。今まであんまり意識してなかったんですけど、似てますよね。

柿次郎:血筋なのかな。ちなみに俊孝さんのお父さんはどんな人だったんですか?
俊孝さん:僕の父親は大阪商科大学の商学部を出て、理化学研究所の社員をしていたね。研究ではなく、経理だったけど、結構物事を深く考えるタイプで、何かひとつ質問をしたら、説明が終わるまで大体3時間。
柿次郎:めちゃくちゃ研究者気質の人ですね。
俊孝さん:あとひいおじいさんは商才もある人で、『海賊と呼ばれた男』という歴史小説にも出てくるんよね。小説の主人公・出光は石油で財をなすんやけど、その油を入れる缶を作っていたのがうちのひいおじいちゃん。
重太朗さん:へえ……それは知らんかったな。
柿次郎:結構すごい話してますね!
俊孝さん:ひいおじいさんは大阪の出身だったんだけど、若い時に長崎に遊学して、商売の機運にいいからと下関に引っ越してきたよね。ハイカラな人生よねえ。
柿次郎:わざわざ下関に出向かなくても、大阪とか長崎もじゅうぶん都会のような。
俊孝さん:地理的に下関というのは本州の端っこなので、中国大陸に向かう際の経由地として栄えるわけね。人の流れも多いから、門司港にも出光ができたように、当時あの辺りにはいろいろな商業の機運があったのよ。
重太朗さん:下関は人の往来が盛んだったから、経済も文化も栄えた。アインシュタインやチャップリンも下関に来てたんですよね。
柿次郎:喜劇王のチャップリン!? チャップリンもフグ食ってるんですかね。
俊孝さん:……さすがに怖がって食ってないと思うけどね(笑)。
受け継がれし「食と社会貢献」の遺伝子
柿次郎:お話を聞いてると、重太朗さん自身も経営者ですし、受け継がれるものを感じます。
重太朗さん:僕は東京の大学まで行かせてもらったのに、家業を受け継がないで、全然違う道を選んだ。だから、とにかくその道でちゃんと立派になることが、自分ができることかなと思ったんですよね。
柿次郎:実際、就職した会社で活躍して、その後独立してですもんね。
重太朗さん:さっき親父が「金儲けもいいけど、社会貢献もしたい」って話をしてたじゃないですか。あれ、僕も本当にその通りやなと思っていて。

重太朗さん:金を稼ぐなら、会社員として働き続けて、そこで役員になった方が安定する。けれど、クリエイティブやデザインというものを求めている人は世の中にいっぱいいる。それを届けるためには会社にいたままではできないなと思って独立したのが38歳の時だったので。
柿次郎:ちなみに俊孝さんが独立したのって?
俊孝さん:38歳の時やね。
重太朗さん:意識してなかったけど、同じ年齢なんですよね。
柿次郎:すごい偶然!
重太朗さん:昔から、よく親父には「まっとうなものを食え」という話を親父からされてたんですよね。食べ物って、自分の体を作るものだし、ちゃんと丁寧に作られたものをちゃんと選んで食べることが大事だと。
その思想が根本にあるので、生産もあって、加工もあって、流通があって、いろんなプレイヤーが日本中にいる食の領域に何か関わりたいなと思って、今の活動があります。

重太朗さんが手がける食関連のプロジェクトのひとつ「翠茎(すいけい)茶」。本来は廃棄されるアスパラの茎を焙煎して、美味しいお茶に生まれ変わらせて販売している。生ゴミの削減に繋がるほか、福祉施設の利用者が農作業やアスパラ茶の加工に関わるなど、食を通じて社会課題の解決へとアプローチしている
柿次郎:めちゃくちゃ影響受けてる。
重太朗さん:海外のカンファレンスでセミナーをさせてもらう機会があって、日本の発酵の変化の歴史になぞらえて、魚醤の話も入れて発表したんです。そしたら、ものすごく評判がよかったんですね。
それで2023年の3月に親父が会社を閉じたと聞いて、会社を引き継ぐことはできないけど、あの魚醤は絶対になくしちゃだめだろうと。もし魚醤の事業だけでも受け継げるなら、自分がやりたいと思ったんです。
柿次郎:ここで継業に繋がるんですね!
この魚醤を無くすのは、社会にも地域にももったいない

2010年に発売された河久の「トラフグ魚醤」(写真左)と、河久を立ち上げた頃の俊孝さん
柿次郎:お父さんとしては、この魚醤を残したかったんですか?
俊孝さん:そうやね。ありがたいよね。息子たちもそれぞれ立派に仕事をしてるのは素晴らしいことやと思いますよ。それに、あの魚醤はいろんな人が協力してくださって生まれたものやから。

俊孝さん:例えば、国立民族学博物館の館長をされていた石毛直道さん。石毛先生の『魚醤とナレズシの研究』という本がきっかけで魚醤を作り始めたんだけど、魚醤の完成時には先生が奥さんと下関に来てくれて、みんなでどんちゃん騒ぎして(笑)。
開発の時には、東大の渡部終五先生という方にも相談してね。魚醤って本来は内臓を使って作るんだけど、フグは内臓に毒があるから、いかにそれを使わずに作るか、というのを話し合って決めたりね。
柿次郎:すごい方たちの力を借りて生まれた魚醤だった。
俊孝さん:それを俺がやめると言ったときに、重太朗が継ぎたいと言ってくれて。会社をくれという話ではなくて、開発した魚醤のエスプリ(※精神)をくれと言うので、それやったらいい話だなと。

重太朗さんが受け継ぎ、完成させた魚醤「潮醤(うしおしょう)」。真ふぐの魚醤に加えて、連子鯛(れんこだい)の魚醤も新たに開発した
柿次郎:なんで重太朗さんは魚醤の事業を継ぎたいと思ったんですか?
重太朗さん:まあやっぱり、とにかくうまいんですよ。抜群にうまいから。
柿次郎:それは大事ですね。うまいから残したかった。
重太朗さん:それに、調味料ってその地域の食文化や風土をつくるもの。この魚醤を無くすのは、世の中にとっても、地域にとってももったいないと思ったんです。
柿次郎:なるほど。それで魚醤の事業だけ継承した、っていうのが面白いですよね。お父さんの会社を丸ごとではなく。
重太朗さん:僕だけでは難しくて、魚醤を一緒につくってる畑水産の畑さんが親父の会社のスタッフと施設の一部を受け継いでくれてたのは大きいですよ。それがないと、いくら継ぎたいと思っても難しかったと思います。

下関でふぐ専門卸問屋「畑水産」を営む畑 栄次さん。俊孝さんと元々のビジネスパートナーで、重太朗さんとともに魚醤「潮醤」の開発を行った
柿次郎:ある意味、畑さんとも一緒に継いだというか。
重太朗さん:会社をそのまま受け継いで残すんじゃなく、会社がつくった”文化”を残すってことかもしれないですね。同じ地域の畑水産って会社が親父の会社のエッセンスを受け継いだり、息子の僕が事業の一部だけを受け継いだり。そういう事業承継も、選択肢の一つとしてあっていいんじゃないかなと。
柿次郎:今の時代に合ったやり方だと思いますね。全部は無理でも一部だけ、そして地域の人とスクラムを組んで受け継ぐやり方もある。可能性あると思うな〜。

重太朗さんが受け継ぎ、初めて仕込んだ魚醤を父子で味見する様子
柿次郎:ちなみに今後の魚醤の展開は?
重太朗さん:まずはお披露目として、つい先日クラウドファンディングを立ち上げました。この魚醤自体がオープンイノベーション的というか、色んな人の知恵を集めて伝統を残していく面もあるので、そういうところも含めて知っていってもらえたら嬉しいです。
柿次郎:この魚醤が、また新たな下関の食文化をつくっていったら面白いですね。
俊孝さん:そうなったら面白いよね。まあ、頑張ってください。
おわりに
会社の事業ひとつとっても、長年そこに関わってきた人の、そして地域の歴史や文化が刻まれています。そうした積み重ねを、事業を継いで次世代に繋いでいく。それは一人では難しくても、地域の人たちでタッグを組めば実現できることもある……そんな希望を感じた取材でした。
父子のストーリーから生まれたふぐ魚醤「潮醤」、取材後に試食させてもらったんですが美味しかったです。魚醤によくある独特のクセがなく、やわらかい味と香りなんですが後から後から何重にもなった豊かな味わいが追ってくる。下関で培われてきたふぐ文化を感じる奥深い味でした。気になった方は公式HPからぜひチェックを!
構成:しんたく
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この記事を書いたライター
株式会社Huuuu代表。8年間に及ぶジモコロ編集長務めを果たして、自然大好きライター編集者に転向。長野の山奥(信濃町)で農家資格をGETし、好奇心の赴くままに苗とタネを植えている。




































