確固たる思想はまだないけど、“場の力”だけは信じられると思った ツクルバ・中村真広さんのシゴトとルーツ(後編)
会員制コワーキングスペース「co-ba」をはじめ、空間やインターネット、コミュニティをデザインし、「場の発明」を続けている株式会社ツクルバの共同代表・中村真広さん。前編では、今求められている“場作り”のヒントを、中村さん自身のルーツを紐解くことで、探っていきました。前編はこちらをご覧ください。
後編では、2つの震災を機に中村さんが起こした行動と、「co-ba」を1年で10カ所も展開させた経緯、そしてツクルバが目指す未来について、お届けします。
今回のお相手:株式会社ツクルバ 代表取締役 中村真広
“場の発明カンパニー” ツクルバ代表取締役CCO。1984年生まれ、千葉県出身。東京工業大学大学院建築学専攻修了。不動産ディベロッパー、ミュージアムデザイン事務所を経て、2011年8月にツクルバを共同創業。
●ツクルバって?
2011年に会員制コワーキングスペース「co-ba(コーバ)」を渋谷に立ち上げ、現在では都内を始め、気仙沼や飛騨高山など全国におよそ10カ所を展開。さらに、首都圏の中古住宅をオンラインで紹介、販売する「cowcamo(カウカモ)」や、結婚式の二次会や歓送迎会、セミナーなどのイベントスペースを提供する「365+(サンロクゴプラス)」など、空間プロデュースのノウハウを活かした事業を主に展開しています。
阪神淡路大震災のとき「いい権力がほしい」と思った
建築を将来の仕事にしたいと思った一番のきっかけは、高校2年生のときに読んだ『黒川紀章ノート』。建築家の黒川紀章氏の思想や言論についてまとめた分厚い本で、当時地元の図書館で借りられる建築関連の本はこれしかなくてたまたま手にとったのだけど、僕にとって衝撃の一冊だった。彼は思想家でもあって、常に自分の思い描く思想を、建築を通して世の中に説いていくんです。「これが建築家なんだ」と思いました。
—思想を形にしていくことに、興味が湧いたということですか。
そうですね。僕、手塚治虫さんの『火の鳥』が大好きで、今でもバイブルなんです。手塚先生はもう亡くなっているのに、今なお自分の作品で多くの人に影響を与え続けている。すごいことですよね。その作品に込められた思想や哲学が、時空を超えていく。自分も何か、そういうものを残したい。なんていうのかな…僕、いい権力が欲しいんですよ。
–いい権力とは?
小学生のころに生徒会長をした話をしましたよね。当時、阪神淡路大震災が起きて、テレビ画面に映し出される震災の映像を見て、ものすごいショックを受けた。で、先生にかけあって募金活動をしたんです。このとき、僕は生徒会長でよかったと思ったんですよ。なぜなら、募金活動をしようとしたとき、すぐに行動を起こせる立場と環境があったから。こういう力が、いい権力なのかなって思います。もし有名バンドに所属していたら、CDの売り上げを寄付したり、ファンに呼びかけたりすることもできる。そういう影響力、人に伝えられる権力が欲しいと思ったんです。
–有名になりたいのではなくて、何かを伝える手段として“いい権力”、言い換えると影響力が欲しいということですよね。
そうですね、ジョンレノンが広告を利用したアートで反戦運動をしたような、自分の意見を世に問うアクションに憧れます。
–話が遡るのですが、阪神淡路大震災が起きたときに、ショックを受けて、行動を起こしたと。それはどう感じたことが、ボランティアに結びついたんですか。
朝、ニュースで中継を見ながら、フィクションか何かだと思いました。なんともいえない気持ちです。その感情をうまく処理できなくて、なんだかすごくもやもやとしました。だから、すぐに何かアクションを起こそうとしたわけではなくて、ただ漠然と、「何かしなきゃ」という感じでした。
元々、ボランティア活動に興味があったわけではないんです。学校の授業で、近所の養老施設に行っておじいちゃんおばあちゃんをお世話する機会があったんですけど、そのときは「うちにもじいちゃんばあちゃんいるし、まずは自分の家族に孝行しなきゃなぁ」って思って興味を持てなかった。でも、震災のときにボランティアをしようと思ったのは、テレビの向こうで起きていること、そこから受けた衝撃に対して、何か行動を起こしたかったからなのかもしれません。
–助けなきゃ、力にならなきゃというのはもちろんだけど、まずは自分が衝撃をうけたことや、それによってもやもやしていることを解消したいというのが最初の原動力だったわけですね。
そうですね。そもそも僕、何かもやもやすることがあるときに、行動を起こしているのかもしれない。
–中村さんが行動を起こす原動力が“もやもやした気持ちを解消すること”にあって、そのためにはものごとを動かせる相応の立場に身を置いていることが大事なんだ、と、震災ボランティアを通じて感じたということですね。
はい。だから、まずはいい権力が必要だと。それと、何か自分の主義主張につながる思想を持つべきだと思った。建築を志した高校2年生のころは考古学にも興味があって、ピラミッドとか、権力の象徴を反映したものが今に至っている感じが好きだったんです。建物には、書物と同じように作った人の思想が染みついている。そういうことを黒川紀章の本を読んで気づいたんです。思想を持って、アウトプットしていくことに、将来の可能性を見出せたんでしょうね。
—「自分に確固たる思想があったわけじゃないけど、それを持つべきであろうと思った。それが僕の興味のある方向で実現可能なら、自分の思想がまだよくわからなくても、今はとにかくこの道に進もう」ということですね。
その道が、ツクルバ創業に至るわけですね。先ほどもお話されていましたが、ツクルバの前身になったカフェを会社員時代から作っていたとのことでしたよね。
カフェを立ち上げたとたん 東日本大震災が起きた
2011年2月に、念願叶ってカフェを立ち上げました。ところが、翌月に3.11の大地震が起きて、カフェの貸し切り予約が全部キャンセルになった。もう大ピンチですよ! さらに悪いことは重なるもので、震災の2日後、僕は肺気胸で入院したんです。二週間、管で繋がれる日々を過ごしました(笑)。いや、笑えないですよね。でもそこで初めて自分と向き合う時間ができたんです。
—どんなことを考えていたんですか。
やっぱり、もんもんとしたんですよ。このまま会社にいるのか、カフェをやりたいのか。これ以上、大きいチームでクリエイションしていくことに意味があるのかなって。で、余震に揺られながら、「よし、カフェをやろう。会社を辞めてまずはフリーランスだ」と決意したんです。
–震災の直後に会社を辞めるって、勇気のいる行動だと思います。決め手はなんだったんですか。
もう見切り発車ですね。たぶん震災が起きただけだったら決断できなかったかもしれないです。それより、体を壊したことのほうが大きかったですね。当時26歳で、生まれてこのかた入院なんてしたことがなかったので衝撃だったんですよ。自分で思っているよりずっと早く身体が衰えていくんじゃないかって。それに世の中どうなるか分からないし。
同時にカフェも、もっと盛り上げようと思った。踊る舞台はあるんだ、あとは踊るだけだと。それを村上に言ったら、「じゃあオレも会社辞めるわ。一緒にやろう」って言い出したので、ちょっと、男気を見せられたというか(笑)。
日本にもオープンな コワーキングスペースを
—その後、会員制コワーキングスペース「co-ba shibuya」を立ち上げるわけですね。
村上と一緒にツクルバを創業するまで、フリーランスのデザイナーとして活動していました。ただ、いざフリーになってみると、経理から営業から全部自分でやらなければならなくて、やり方がよくわからない(笑)。ということは、当然同じ悩みを持っている人は多いだろうということで、各々の得意分野で苦手なことを補い合えるコミュニティが集うような場所を作りたいと思った。そこで都内を中心にシェアオフィスを見学して回ったんです。
ところが、どこも会員のスペースが壁で仕切られていて、交流が生まれにくい雰囲気だった。もっといい場所はないかなとネットで検索しているうちに、“コワーキングスペース”なる言葉を知ったんです。どうやら、アメリカの西海岸にはコワーキングスペースがたくさんあって、そこからtwitterやInstagramのようなすごいウェブサービスが生まれているらしいぞ、しかもみんなパーカー羽織ってウッドデッキでPCをカタカタやってやけにクールだぞと(笑)。早速、村上とカリフォルニアに渡り、そこでインプットしたことを元にco-baを立ち上げました。
–東京にコワーキングスペースをつくる上で、日本人向けにローカライズした部分は何かありましたか?
アメリカ人はコミュニケーションの敷居が低いから、コーヒーを入れているだけで「ハーイ」なんて声をかけてくるけど、日本人にはなかなか難しいですよね。なので、月に一度は会員同士で交流会を開くなど、ある程度介入して会員同士のコミュニケーションを円滑にさせる必要があると思いました。
あとはデスクも工夫して、集う人たち、つまり共同体にアイデンティティが生まれるようなデザインにしたかった。co-ba shibuyaのデスクは、樹のイメージです。枝葉に分かれた先に、それぞれのデスクがある。全員で一つの樹を共有しているようなイメージでデザインしました。
—オープンは震災後の秋ですよね。勝算はあったんですか。
当たったらコワーキングスペースとして継続、ハズレたらイベントスペースとしてやっていこうと思っていましたね。ただ、ティザーサイトを作った時点でSNSでかなり拡散されたことと、クラウドファンディングの「CAMPFIRE」に掲載したらかなり好評だったんですよ。クラウドファンディングがまだ黎明期で話題になりやすかったのと、SNSも今ほど一般化せずIT系の人たちが多かったような頃で、わりと好意的に受け止めてもらえたのが大きかったです。
–あの時期になんでお金が集まったと思いますか。
震災直後で心細い時期だったからこそ、人が集まる場所を具現化させることが求められていたんじゃないかと思います。もっというと、コミュニティに属すことで得られるアイデンティティをみんな欲していたんじゃないか。おかげさまで先行募集した会員枠も埋まり、2011年12月に無事オープンしました。
co-baを全国各地へ 「自立型」で展開
—co-baは現在、全国に約十カ所展開中とのことですが、これだけ猛スピードで展開できたのはなぜでしょうか。
つい最近、飛騨高山にもオープンしました。まだまだ増やして、全国47都道府県にco-baを作りたいと思っています。co-ba shibuyaを立ち上げてからの2年間は、横展開は難しいかなと思っていたんです。そうしたら、co-ba的なことをやってみたいという相談を受けるようになり、パートナーシップになってくれるオーナーを募るようになりました。少しずつ仲間を集めて、各地のオーナーさんと共にブランド力を高めていきたいと考えています。
ここ数年で、全国各地で遊休不動産をリノベーションする流れが活発になっていて、co-baを立ち上げたときのことをセミナーなどでお話させていただく機会が多いんです。そのときに「co-baをやりませんか」と声をかけると、手を挙げてくれる人がチラホラいて、結果ひと月に1カ所のペースで増えていきました。
—どういった人が手を挙げるのでしょうか?
元々自分で事業をやっていて、空いているスペースで何かやりたいとか、既に声をかけたいメンバーがいるとか、そういう人が多いです。あとはビルオーナーさんですね。やりたいと言ってくれた人には、まず「co-baはまだまだ発展途上で、ブランド力もないので、co-baを看板にして、初めから集客を見込めるわけではありません。ただ、メリットはユーザーにとってもオーナーさんにとっても、横のつながりができること」ということをまずお話しするようにしています。
—オーナーになる人の適正はどのように見極めているのでしょうか。そこのハンドリングが難しい印象があります。
まず、自分で空間デザイナーやグラフィックデザイナーを集めてもらいます。これはお題でもあって、地元でそれくらい人を巻き込める熱量がないと、コワーキングスペースを運営していくのは難しいと思うんですね。そこは必要な適正といえるかもしれません。
実際、各地のオーナーさんはとても魅力的な人が多くて、郡山のオーナーさんはベテランの公認会計士で、若手にも信頼が厚い。気仙沼の方は活動的で、全国を一人旅して気仙沼に惚れ込んだそうで、本拠地として構え復興支援もしています。みんな常に先頭を走っていて、どんどんフォロワーが増えていくような人たちですね。
—co-baを運営していくうえで守るべきコンセプトは何ですか。
デザインは地産地消するとか、チャレンジする人を応援する場所にするとか、全部で5つあります。それ以上は口出ししません。その地域の人たちに任せ切ったほうが、それぞれの特性が出て面白いんですよね。それが結果的に、各地域にローカライズすることにも繋がっていく。僕らはco-baを作りたい人をサポートするスタンスでやっているので、地元の人から「東京モンがいきなりきて何かつくっている」というような反発を受けることもありません。あくまでツクルバが主体にならないことが大事ですね。
というのもかつて、コワーキングスペースの運営を依頼されたものの、お互いの思いがぶつかりすぎて失敗した苦い思い出があって(笑)。誰かと場所づくりをするには、こうあるべきだというイメージを持ちすぎてもダメだと思ったんですよ。co-baのビジョンに共感してくれる人に、自力でやってもらうのが一番いいなと思いますね。
—各地域の個性を引き出ししつつ、その土地に合った「co-ba」に落としこんでいくイメージでしょうか。
そうですね。もちろん僕らで内装などのデザインを受注することもあるんですけど、あくまで「半仕上げ」を心がけています。半分の余幅がそこの個性に繋がるんじゃないかなと。
例えばco-ba shibuyaの上の階に「co-ba library」というシェアライブラリーを作ったんですが、僕らは本棚だけ作って本はユーザーさんに入れてもらうようにしたんです。すると本棚に置いてくれた本のラインナップでユーザーさんの顔がなんとなく見えてきて、お互いのコミュニケーションにつながっていく。本棚はあくまでコミュニケーションの呼び水なんです。図書館という形式に友人の家で本棚をのぞく面白さを加えてみるなど、既にあるスペースの見方を変えて、編集していくのが、僕らの仕事でもあると思っています。
“思いの伝播”で 世界を進化させたい
—では最後に、今後の展望を教えてください。
これまでどおりの空間プロデュース・デザインをのお仕事を受けつつも、これからは今ある3つの自社事業、会員制コワーキングスペースの「co-ba」、人の集まる機会と場所を提供する「365+」、中古住宅のオンラインマーケットである「cowcamo」に絞ってもっと深堀りしていきたいです。
衣食住じゃないけど、co-baで働くスペースを提供し、イベントや食事をする場所として365+があり、住む場所をcowcamoで探してもらうというような、あらゆる領域の場作りに関わりたいですね。それぞれのサービスを使うことで与えられるメリットを増やしていくためにも、ひとつひとつを成長させていくこと。手を広げすぎるとブレるのでまずはこの3つを育てていきたいと思っています。
–それぞれが大きくなれば相乗効果で「いい権力」がうまれそうですね。現時点での、中村さんの思想ってなんですか。
それを言語化しようとして、年末に村上と色々話し合いました。ツクルバのミッションとして、「場の発明を通じて、欲しい未来をつくる」ということを掲げていて、僕は「場」というものは人の想いが伝播するときの媒介役になると信じています。例えばセミナー会場でトークをするゲストがいて、その人の想いが会場中の人に伝わる。その人の想いが伝わるときの、キュッとした熱狂。会場のデザインも大切だし、運営の振る舞いや、参加する人々の心の持ちようも大切。そういういろんな要素を掛け合わせることで、ひとつの場ができるんじゃないか、と。
—磁場のようなものですか。
そう、磁力があるところに砂鉄を落とすと場らしきものが見えてくるんですけど、磁力線があるだけでは見えてこない。目に見えなくても、たしかにそこに磁力が存在するような「場」をつくっていきたい。
—中村さんは“場の力”らしきものを発見して、それをひとつの信念というか指針にしている。自分たちの確固とした思想が何なのかまだはっきりと分からないけど、“場の力”だけは信じられるから、ここを軸にしていけばぶれないはずだと考えた、ということですね。
人が想いを伝えたり、交換したりするような磁場が生まれれば、それが実空間でも情報空間でも特にこだわりはありません。例えば「cowcamo」は情報空間を舞台にしているけど、インターネット上にも「場」は生まれるはずだから。
僕らが生きているのは、なにかを成し遂げて歴史に伝説が残るというような、偉人の時代じゃない。でも革命家じゃなくても、人に想いを伝えることはできるし、そこには“想いの伝播”があると思う。
その“想いの伝播”で進化していくような世界を目指したいです。想いを伝えるには場が必要だから、それを作っていくのが、現時点で僕が目指していることです。
–中村さんが今後、どんな思い想いを形にしていくのかとても楽しみです! ありがとうございました。
執筆・構成:小野田弥恵
ライター。スタジオジブリPR誌「熱風」、宇野常寛氏メルマガ「PLANETS」でインタビューを担当したり、アウトドア誌で執筆したりしています。先日、占い師に「天職はイタコ」と言われました。色々見えててすみません。
企画・編集・撮影:徳谷 柿次郎
ジモコロ編集長。大阪出身の32歳。バーグハンバーグバーグではメディア事業部長という役職でお茶汲みをしている。趣味は「日本語ラップ」「漫画」「プロレス」「コーヒー」「登山」など。顎関節症、胃弱、痔持ちと食のシルクロードが地獄に陥っている。 Twitter:@kakijiro / Facebook:kakijiro916