「もし京都が東京だったらマップ」作者の岸本千佳さんが見つめる“街と仕事”

岸本さん

東京の丸の内は、京都でいうなら烏丸? ――2つの街を知る人なら、思わず「ああ、なるほど!」とうなずいてしまう「もし京都が東京だったらマップ」。2015年末にネットで公開されるとまたたく間に反響を呼び、翌年には同タイトルで書籍化もされました。作者の岸本千佳さんは、京都の不動産プロデュース会社「addSPICE(アッドスパイス)」の代表を務める不動産プランナーです。京都に生まれ育ち、東京で働いたのち再び京都に戻って独立した岸本さん。自身の職業を通じて、どんなふうに“街という生き物”と関わっているのでしょう。

建築家という夢を見失ったとき、世界一周の船旅に出た

岸本さんの肩書きは「不動産プランナー」。どんなお仕事なのでしょう?

岸本千佳(以下、岸本) まず、建物のオーナーさんから「この建物をどうにかしてほしい」というざっくりした相談を受けることから始まります。建物やオーナーさんに合わせてどんな使い方をするのか企画し、建築士さんや工務店さんとチームを編成してリノベーションを行います。チームの指揮者みたいな感じで、みんなの得意なことを引き出す仕事です。

建物のリノベーションをした後は、仲介も手掛けられているのですか?

岸本 そうですね。客付けから、建物の管理・運営まで一貫して行っています。私は大学卒業後に東京で不動産とリノベーションを手掛ける会社に就職したんですが、その頃の経験が京都に戻って独立してからも役立っていますね。東京では5年間で約40棟のシェアハウスを作り、物件の企画、入居者の仲介や管理を担当していました。

岸本さん

岸本さんが建築に興味を持ったのは、小学校4年生のとき。スペイン・バルセロナにあるサグラダ・ファミリアを写真で見たのがきっかけだったそうですね。

岸本 当時から「将来の夢は建築家」と決めていました。中高生の頃には、町家をリノベーションしたカフェに憧れて、「町家を改装する建築家になりたい」と思うようになりました。

なかなか渋い女子中高生ですね!

岸本 今思えばそうですね。「建築の道に進むんだ」と強く信じていたので、もともと文系だったのを一浪してから理転し、滋賀県彦根市にある滋賀県立大学環境建築デザイン学科に入学しました。ところが、「さあ、建築を学ぶぞ!」と大学に入ったら「あれ? もしかすると設計には向いていないかも?」って。

どうして、設計には向いていないと思ったんですか?

岸本 設計で食べていくには、適性も情熱も圧倒的に足りないと思いました。さらには、のんびりした彦根での学生生活にも閉塞感を感じてしまって。「これは外に出ないとまずいな」とお金を貯めて、大学2年生の夏にNGOが企画する世界一周の船旅に出ました。建築以外にやりたいことを見つけるなら、早い方がいいと思ったんです。

岸本さん

船旅の中では、新しい出会いや気付きはありましたか?

岸本 寄港地には最貧国と呼ばれるような国もあり、同乗者の中にはそういった地域での支援活動を希望する人たちもいました。一方で、もし私が建築家の世界に進むなら、付き合うのは家を建てるだけの財力のある人たちです。両極端な世界を比べたときに、どちらの世界にも積極的に関わるイメージを持てなくて。「私はどういう人を幸せにしたいんだろう?」と自問して、家や建物に関わる仕事の中でも「普通の人の暮らしを豊かにしたい」と、不動産の仕事に興味を持ち始めました。

より多くの人の暮らしを幸せにすることを考えたときに、不動産という仕事が選択肢の中に見えてきたんですね。

岸本 そうですね。「不動産の仕事をやりたい!」というよりは、自分のやりたいことをする手段として、不動産に一番可能性を感じたんだと思います。

独立して仕事をする街として「京都」を選んだ

東京の不動産ベンチャーに新卒で入社されたのは、どんな経緯だったんでしょうか?

岸本 就職活動は当初なかなかうまくいかなかったんですが、その間に短期で宅地建物取引士の資格を取得し、リノベーション業界の社長ブログやSNSをチェックして、自分と相性が良さそうだなと思ったら連絡するようにしていたんです。そんな中で、「新卒お断り」と書いている東京の不動産ベンチャーにダメもとで応募して採用されました。社会人1年目は、住む場所も仕事も初めてだし、仕事もめちゃくちゃ忙しかったから、毎日のように泣いていました。今でも、会社があった渋谷の道玄坂の方に行くと「あの頃、ここを歩きながら泣いて会社に戻っていたなあ」という記憶がよみがえります。

切ない思い出ですね……。京都で生まれ育った岸本さんにとって、東京はどんな街でしたか?

岸本 東京は、わりと肌に合いましたね。仕事では、シェアハウスだけでなくDIYできる賃貸の事業も立ち上げました。他にも、渋谷の街で学びの場を提供する「シブヤ大学」でスタッフとして活動したり、友人と同じアパートの隣室同士に住んでみたり、仕事以外の居場所作りもできました。

岸本さん

仕事もプライベートも充実していたのに、なぜ京都に戻って独立する道を選んだのでしょう。

岸本 「独立したい!」という野望があったわけではないんです。ただ、既存の建物を生かすリノベーションの仕事をしていると、同業の人たちから「京都出身なのに、何で京都でやらないの?」って結構な頻度で聞かれたんですよ。

京都には町家をはじめとして、リノベーションしがいのある古くて面白い物件がたくさんあるじゃないか、と。

岸本 確かに、京都の建物には魅力的なものがたくさんあると感じます。それに、リノベーション業界でいろいろな人と知り合っていくと「かなわないな」という人にもたくさん出会うわけです。そうすると、東京での自分の存在意義が感じられないというか、「東京では、自分がいなくても回っていくんだな」と何となく思い始めて。一方で、京都のリノベーション業界ではまだまだプレイヤーが少ない。

リノベーション業界で魅力的な素材があり、プレイヤーが少ない京都の可能性が見えてきたんですね。

岸本 そうです。京都に帰ろうと思ったのは、地元が好きだったからというよりは、仕事の可能性を感じたから。独立して仕事をする場所として、面白そうだから京都を選びました。

「もし京都が東京だったらマップ」はこうして生まれた

2014年1月、5年ぶりに戻ってきた京都での仕事はどんなふうに始まったのですか?

岸本 さすがに、京都でイチから仕事を作るのは難しいので、最初の1年間は京都市役所に勤めました。ちょうど京都市で空き家活用に関する条例が施行されるときだったので、空き家対策の部署で非常勤の仕事があったんです。週4日勤務で兼業も可という好条件で、京都の状況を把握できるという意味でもすごくありがたい仕事でした。

地元とはいえ、京都で働くのは初めてだったんですよね。「仕事する街」としての京都はいかがでしたか?

岸本 住んだり遊んだりする京都と、働く京都は全然違っていましたね。仕事の内容は東京と変わらないのに、物件の数が想定よりかなり少なかったりして、まるで違う仕事をしているかのような感覚でした。さらに、個人事業主として「addSPICE」を立ち上げたときは人脈もほぼゼロに近い状態。最初の7カ月くらいは「東京に帰った方がいいのかも」とずっと思っていました。勢いよく「京都で独立します!」と宣言するんじゃなくて、「ちょっと行ってきます」ぐらいにしておけばよかったって(笑)。

ちょっと後悔していたんですね(笑)。「京都でやっていけそうだ」と思えたのは、何かきっかけがあったのでしょうか。

岸本 京都に帰ってきて半年が過ぎた頃から、仕事で出会う人たちから派生する人脈と急につながり始めて。設計する人、工務店さん、デザイナーさんなどとのネットワークができて、自分のやりたい仕事がうまく回り始めた感覚がありました。

2015年末に岸本さんがブログで公開した「もし京都が東京だったらマップ」は、京都のさまざまなエリアを東京の地名に例えるというユニークな視点が話題になりましたね。その原型ができたのも同じ頃ですか?

岸本 そうですね。京都への移住を支援するプロジェクト「京都移住計画」で物件紹介をしていたんですが、京都のことをよく知らない人ほど、京都に対する幻想がスゴくて。リアルな京都とのギャップがあまりにも大きいというか……。仕事を辞めて移住するのは人生の一大事だから、ちゃんと現実を伝えて判断を委ねた方がいいと思って、原型となる地図を作って見せていたんですね。それが思いのほか反応がよくて。


もし京都が東京だったらマップ (イースト新書Q)

『もし京都が東京だったらマップ』(イースト新書Q)

「この地図をもっと多くの人に共有してみよう」とブログにアップしたんですね。

岸本 友達の友達くらいまでに知ってもらって、役に立ったらいいなと思って無料ブログに載せたら、思いのほかバズってしまったんです。「Yahoo!ニュース」に取り上げられて、日本テレビの「news zero」でも紹介されて。さらにはたまたまテレビを見ていた出版社から声が掛かって、本を作ることにもなりました。

本が出たことによって、お仕事にも変化はありましたか?

岸本 思っていた以上にありました。「京都を東京になぞらえるなんて」と、京都の人には嫌われるんじゃないかと思っていたんです。ところが、本を読んでくださった京都の老舗の会社さんからの引き合いが結構多くて。本質的な部分を理解した上で依頼していただいている感じがして、うれしいです。

仕事を入り口にして、また新しい街に居場所を作る

岸本さんは、自分が暮らす街をどうやって選んでいるんですか?

岸本 私個人としては、自分の身を投じて実験しているところがあります。居心地の良さよりも冒険心というか。東京では、シェアハウスにも住みましたし、部屋よりバルコニーが広い物件に住んだこともあります。京都でも「これから面白くなりそうな京都駅周辺」とか、「学生マンションが増え、街の雰囲気が変わってきている元田中(もとたなか)」とか、変化を肌で感じられるところに身を置くのが好きで。拠点を構えたり、住んだりする中で、小さな実験を繰り返しています。

不動産プランナーという職業ならではの選び方ですね。引っ越しを検討している人に対しては、いつもどんなアドバイスをしていますか?

岸本 人によっていろいろな基準があると思うので、まずは気になる街を歩いてもらいます。そこにいる人の服装、しゃべり方、好きなお店があるかどうか。自分の中で「良さそうだな」という感じがヒントになると思います。物件の購入を検討している人には、まずは賃貸で。住む時間の中で「ここが好き」という場所を見つけてから、本格的に探すことをおすすめします。

岸本さん

結婚・出産などを機に、住む場所や暮らし方、働き方を考え直す人は多いと思います。岸本さんご自身も、最近、和歌山在住のお相手と結婚されたそうですね。結婚を経て感じておられることはあるでしょうか。

岸本 結婚や出産を経た働き方というのは、今まさに私の中で隠れたテーマになっているんです。京都には、行きつけの店も、友達もできて、ものすごく居心地がよくて。最初は東京に帰りたいと思ったこともあったけれど、今ではすっかり京都を好きになってしまいました。だから、結婚して和歌山に行くことになったときは、「京都100%」でいられなくなることに拒絶反応が出てしまって、今までで一番しんどいと感じたくらいです。

今は、和歌山と京都のどちらを拠点にしているんですか?

岸本 今は、2拠点にして半々でやっています。私の場合は、やはり仕事が自分の大部分を占めていると思うんです。京都に帰ってきたのも、仕事を作るのに適していると思ったからです。それなら、和歌山に仕事を作ればいいと思ったんですよ。自分が和歌山にいたいと思える状況を作ってしまえばいいんじゃないかって。

なるほど。仕事があれば、その街にいる理由ができるということですね。

岸本 東京から京都に帰ったとき、仕事を通して仲間を作ることが、街に入っていく手段になりました。和歌山でも、そうしていくのが一番自分に合っていると思っています。また、和歌山という地方都市で仕事を作ることの面白さも感じています。今、結婚して子どもができて、仕事に戻りたいけれどフルタイムで働くのは難しいという悩みを抱えている女性は多いと思うんです。もし、和歌山で子育て中のお母さんに適したやりがいある仕事を作れたら、全国の地方都市で暮らしている女性たちを救う道筋になるかもしれない。そう思うと、和歌山が楽しく見えてきました。

結婚というライフステージの変化が、また新しい仕事を生み出しそうですね。

岸本 はい。これから数年かけて追いかける長期的な目標になりそうです。結婚や出産をきっかけに働き方を変えなければならないという、一見マイナスなことをポジティブに捉えたい。住まいを作る人はいろいろなことを経験した方がいいと思うので、そういう意味でも、住宅事業はまだまだ女性が参入できる分野なのかなと思っています。

取材・文/杉本恭子
写真/浜田智則

お話を伺った方:岸本千佳さん

著者イメージ

1985年京都生まれ。2009年に滋賀県立大学環境建築デザイン学科を卒業後、東京の不動産ベンチャーに入社。シェアハウスやDIY賃貸の立ち上げに従事する。2014年に京都で「addSPICE」を創業。物件オーナーから不動産の企画・仲介・管理を一括で受け、建物の有効活用を業とする。そのほか、改装できる賃貸物件の専門サイト「DIYP KYOTO」の運営、京都への移住を支援するプロジェクト「京都移住計画」の不動産担当、暮らしに関する執筆などでも活動している。著書に『もし京都が東京だったらマップ』(イースト新書Q)。
Twitter:@chicamo

次回の更新は、2018年11月28日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

60代でも働いている人はいるし、脚光を浴びるだけが仕事人ではない|タバブックス代表・宮川真紀さん

宮川真紀さん

今回、「りっすん」に登場いただくのは、合同会社タバブックス代表の宮川真紀さん。「おもしろいことを、おもしろいままに本にして、きもちよくお届けする。」をモットーに、リトルマガジン『仕事文脈』をはじめ、『かなわない』(植本一子著)や『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』(小川たまか著)など、話題の書籍を数多く手掛けています。

会社員、フリーランス、経営者と3つの異なる立場からキャリアを積み、2人のお子さんを持つシングルマザーでもある宮川さんならではの仕事観、そしてこれまでの決断について語っていただきました。

管理職を目指して会社に残るより、フリーランスとして編集を続ける

現在は、出版社「タバブックス」の代表を務められている宮川さんですが、意外にもキャリアの出発点は、外資系コンピューター会社の営業職だそうですね。

宮川真紀(以下:宮川) 私が就職した1985年は、ちょうど男女雇用機会均等法が制定された年。まだまだ女性は数年で仕事を辞め、専業主婦になるというのが主流の時代でした。ただ、私の両親はともに教師で、母親も定年まで普通に働いていた。だから、すぐに仕事を辞めるという発想がなくて、男女間の給与や待遇差の少ない外資系企業を選んだんです。まあ、2年ほどで転職してしまいましたが(笑)。

転職しようと思われたのは、なぜですか?

宮川 たまたま好きだったモータースポーツの雑誌を出している出版社が社員募集していたんです。当時は転職のハードルも低くて、自然な流れで応募したように思います。そこでは広告営業に配属になり、間近で編集の現場を見ているうちに、自分もやりたいなと思うようになって。2年ほどで転職し、株式会社パルコの『月刊アクロス』編集部に移りました。7年ほど在籍し、書籍編集部に異動。その部署には8年間いて、トータル45冊ほどの書籍を作りました。

パルコに入られてから、編集者としてのキャリアをスタートされたんですね。実際に仕事をされてみて、何か理想と現実のギャップのようなものは感じましたか?

宮川 いや、私はもともと理想とかを持っているようなタイプではないので(笑)。『月刊アクロス』では、自分で企画も原稿執筆もやらせていただけたので、すごく良い経験になりましたね。書籍に異動してからは、既に有名な人というより、自分でミニコミを出している方や小さなギャラリーで展示をやっているアーティストの方などと本を作っていました。当時、パルコはセゾングループの一つでしたから、美術や演劇など幅広い文化を推進した、いわゆるセゾン文化の名残りがあり、比較的自由に仕事をさせてもらっていました。

宮川真紀さん

ただ、その後宮川さんは2006年にパルコを早期退職されます。そんな自由な環境だったにもかかわらず、どうして退職という道を選んだのでしょう。

宮川 20年ほど社会人生活を送り、もう会社員としては十分に働いたという実感がありました。あと、書籍編集という仕事は、会社に所属しなくてもやっていける仕事だと思ったんです。当時40代前半で、このまま会社に残れば部署の異動もあり、管理職としての仕事を期待される。そう考えたときに、フリーランスとして編集者を続けていきたいと思い、早期退職の募集があったときにすぐに手を挙げました。

決断は自己完結! 迷っていても誰かに相談しない

当時、宮川さんはまだ小さなお子さんをお持ちだったかと思いますが、どなたか自身の働き方に影響を与えたロールモデルにあたる方がいらっしゃったんでしょうか?

宮川 いや、誰かがいるから同じように、とは思わなかったですね。単純に、私がフリーランスとして働いてみたいなと。当時は、夫も健在で正社員でしたから、自分一人で稼がないと食べていけないという切迫感がなかったのかもしれません。夫が亡くなってからは、子どもたち2人を養うために自分が稼ぎ頭になりましたが。

自分だったら、不安で押しつぶされそうな気がします……。

宮川 私もだんだん気付いたんですけど、子育ては終わりが見えるものですし、あくまで一時的なもの。それに、国の制度をフル活用すれば、案外なんとかなりますよ。一人親支援とかベビーシッター補助制度とか、使えるものは使っていいんですから。

その後、2012年にはタバブックスを旗揚げされます。なぜ、フリーランスから起業という選択をされたのでしょうか。

宮川 フリーランス時代は、知り合いから編集を依頼されたり、自分で企画を持ち込んだりと、比較的順調ではありました。ただ、少しずつ出版不況と言われるようになり、企画が通りにくいなと感じるようになったんです。それと、同時期にひとり出版社というタイプの会社が出てきたのを見て、自分が出版元になって本を出すことができるのか、と思い挑戦してみることにしました。

かなわない

『かなわない』(植本一子著)

とはいえ、仰るように出版不況ですから、本が売れなかったらどうしようなど、不安に思われなかったんですか?

宮川 売れないものはしょうがないですからね(笑)。そのことを不安に思うよりも、もう本を作り始めちゃっていたから、途中で止めるわけにはいかない、という方が近いかもしれない。

宮川さんのご決断は、一貫して速く、迷いがないように思います。

宮川 昔から、「迷ってるから誰かに相談しよう」みたいな習慣がないんですよね。進路、結婚、仕事、全てにおいて事後報告です。それが全て正解だったとは思っていないんですけど、失敗したらそのときに考えればいいかなと。もちろん、誰かがアドバイスをくだされば、参考にはしますけど、それが決断を揺るがすまでのことは、これまでないですね。

年齢は将来の可能性を閉ざす理由にはならない

宮川さんは、現在50代でおられます。年齢を重ね、働き続けることに漠然とした不安を抱く人も多いかと思いますが、宮川さんは何か不安などありますか?

宮川 不安というより、いつまでこの仕事をするのかな、とは思います(笑)。ただ、あまり表に出ていないので知られていませんが、いろいろな場所で60代や70代でも自分らしく働いている方がたくさんいる。メディアは、キラキラした若手のキャリアウーマンばかりを取り上げがちですが、脚光を浴びるばかりが仕事人ではないですよね。

確かに、年齢を気にして将来の可能性を閉じてしまうのはもったいないですよね。

宮川 最近話題にあがる仕事に、ライターさん自身にすごく影響力のある「読モライター」があります。もしかしたら、若いうちだけの仕事と見る向きもあるかもしれませんが、「何かを書く」という本質は外さずに、仕事の取り組み方や露出の方法を変えれば、この先も全然成立するんじゃないかと思うんですよね。例えば、高齢者向けの道を探ってみるとか。これから高齢者の数はどんどん増えますから、そういう人がいれば参考にしたい人も多いと思うんです。

宮川さんが手掛けられているリトルマガジン『仕事文脈』では、多種多様な書き手の方が独自の仕事にまつわる体験をつづられています。世間一般にも、働き方が多様化の一途をたどっていますが、宮川さんはこの風潮をどのようにみていらっしゃいますか?

宮川 選択肢が増えているのはいいことですよね。例えば、『仕事文脈』に書いてくださった方に「ノマドナース」と名乗って働いている女性がいました。彼女はフリーランスとして、キャンプや登山客に付き添う救護ナースをしているのですが、自身も登山が趣味で自由に動ける時間を確保したいと、病院に所属しない働き方を選んだそうです。主流の働き方ではないかもしれませんが、少なくとも人がやっているからと同調することなく、試行錯誤して自分らしくいられる仕事をしているな、と思います。

仕事文脈 vol.12

『仕事文脈 vol.12』

自分ならでは、を掴みとった人は強いですよね。最後に、人生100年時代と言われて久しいですが、宮川さんはこれからのキャリアをどのようにお考えですか?

宮川 私の場合は定年もないので、働ける限りは働こうかなと思っています。ただ、今後はタバブックスを継承する、ということも考えていきたいなとは思っています。

よく先が分からないから不安だ、と言う人がいますけど、今の私たちが不便だと思っていることは、意外とそれに対応したサービスなり、プロダクトが生まれてくるんですよ。私自身が編集者として仕事をしていく中で、どんどん柔軟な働き方ができるようになった、という実感があるので。だから、未来に悲観ばかりするのではなくて、まずは今の仕事をしっかりやっていきたいなと思っています。

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/関口佳代

お話を伺った方:宮川真紀

宮川真紀さん

東京生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。株式会社パルコにて雑誌編集(月刊アクロス)、書籍編集(PARCO出版)を行う。2006年よりフリーランスの編集者として独立し、書籍企画・編集・制作、執筆(神谷巻尾名義)などの活動ののち、2012年8月にタバブックス設立、2013年6月法人登記し合同会社タバブックスに。

HP:合同会社タバブックス/Twitter:@tababooks

お知らせ:共働きをテーマにしたイベント「りっすんお茶会」を開催します

「りっすん」では、2018年11月25日(日)にイベント「りっすんお茶会」を開催します(※11月15日申込締切)。詳細は下記のリンクをご参照ください。
www.e-aidem.com

次回の更新は、11月14日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

女の子にも男の子にも、好きに未来を育んでほしい―― 『HUGっと!プリキュア』内藤圭祐さん・坪田文さん

内藤さんと坪田さん

(写真左から)内藤圭祐さん、坪田文さん

2004年放送の『ふたりはプリキュア』以降、毎年新シリーズが制作されているアニメ「プリキュア」シリーズ。初代から一貫して「女の子の憧れ」を描き続けてきました。2018年放送の最新作『HUGっと!プリキュア』では、「子どもを守るお母さん」や「仕事」を主軸に据え、子どもだけでなく子育て世代や働く大人にまで広く共感を呼んでいます。

「子育て」というテーマ設定に至った経緯やそこに込められた思い、また、大人からの反響をいかに受け止めているのか、プロデューサーの内藤圭祐さん、シリーズ構成および脚本を手掛ける坪田文さんにお話を伺いました。

一番大事にしているのは、子どもたちへのメッセージ

HUGっと!プリキュア

©ABC-A・東映アニメーション

『HUGっと!プリキュア』は「子育て」や「仕事」がテーマ。初代プリキュアのスタートから15周年の節目の作品ということで、過去に「プリキュア」に熱中していた“大人の視聴者”も意識されていたのでしょうか?

内藤圭祐(以下、内藤) そうですね。15周年ということで、昔のシリーズを見ていた人たちに再びプリキュアにタッチしてもらいたい、思い出してもらいたいとは考えていました。ただ、一番大切なのは、ターゲットである「3歳から6歳の女の子たち」を夢中にさせること。ですから、テーマ設定に関しても、15周年ということにはあまり縛られずに決めています。ここ数年のシリーズでは「プリンセス(2015年の『Go!プリンセスプリキュア』)」「魔法(2016年の『魔法つかいプリキュア!』)」「パティシエ(2017年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』)」など、さまざまなモチーフをテーマとして盛り込んできました。「お母さん」もそれらと同じく、子どもが憧れを抱く対象の一つだと考えると、プリキュアにマッチするのではないかと。

www.toei-anim.co.jp

「子育て」を描くにあたり、気を付けたことなどはありますか?

坪田文(以下、坪田) こちらから子どもたちにこれが「正解」だと提示するような表現は、絶対にしたくないと思いました。子どもを産み育てるのは幸せなことだけれど、“それだけが女性の幸せ”というわけではない。子育てがテーマではありますが、「いろんな形があっていい」ということを伝えたいと考えています。

内藤 そこは、ここ数年のプリキュアが大事にしてきた「多様性」にも通じる部分ですね。また、作中では中学2年生の主人公・はな(野乃はな)が「はぐたん」という未来から来た不思議な赤ちゃんを育てますが、「子どもが子どもを育てる」ことになります。そこをいかに無理なく描くかについては、神経を使いました。中学生が1人で育てていたらリアリティーがないし、そもそも、はなが学校に行っている間はどうするのかと。そこで坪田さんに用意していただいたのが、プリキュアをサポートする妖精の「ハリー(ハリハム・ハリー)」というキャラクターです。ハムスターの姿から人間体に変身すると「イケメンかつイクメンになる」という設定なんですが、彼をはじめ、はなの家族や他のプリキュアたちも含めて「みんなで育てていく」という形になっています。

HUGっと!プリキュア

ハリーやプリキュアたちみんなで、はぐたんを育てている
©ABC-A・東映アニメーション

www.toei-anim.co.jp

まさに、助け合う育児ですね。そんなプリキュアたちの姿は、現代の「ワンオペ育児」の問題に対するメッセージのようにも思えます。

内藤 私や座古明史監督にも幼い子どもがいて、最近の社会の風潮に対して個人的に思うところはあります。ワンオペ育児もそうですし、“騒音”を理由に保育園が作れないとか、ベビーカーと一緒にバスに乗ったお母さんがいたたまれない気持ちになるとか。そういった社会全体にまん延する不寛容さに対し、もう少し温かくなればいいなと。ただ、『HUGっと!プリキュア』に関しては、特別にそこを意識しているわけではありません。もちろん、見た人それぞれに何かを感じてもらえればいいとは思いますが、ことさらに「大人社会へのメッセージ」を込めているわけではないんです。

坪田 社会への問題提起という意識は全くなくて、私たちがこの作品で届けたいのは「あなたが生まれてきたことは素晴らしい」というメッセージなんですよね。それがまず根底にある。その上で、子どもたちに「こういう社会をみんなで作れたら、ハッピーかもね」っていう幸せな図を見せられたらいいなと思っています。

坪田さん

男女関係なく好きなものを好きと言える、自由な社会に

では、もう一つのテーマである「仕事」についてお伺いします。今回、プリキュアの両親をはじめ大人たちが働くシーンも数多く登場しますが、いずれの仕事もポジティブに、また「かっこよく」描かれている印象があります。プリキュアたちの母親は、タウン誌の記者や女優、クレーンの運転士だったりしますね。

坪田 そこは座古監督がとてもこだわっている部分ですね。座古さんって本当に優しくて、とにかく“肯定の人”なんですよ。だからなのか、いろんな人、いろんな仕事の良いところを見つけるのがすごくうまい。今回もさまざまな職業の案を出していく時に、「これはかっこいいね!」「これもすごいね!」って肯定してくれて。あと、これは職業に限らずかもしれませんが、佐藤順一監督が「社会にはさまざまな人がいる。それが当たり前」とおっしゃっていることもありますね。私たちが生きる世界はカラフルなんだなと。

HUGっと!プリキュア

作中では、プリキュアたちもさまざまなお仕事にチャレンジする
©ABC-A・東映アニメーション

それで男女問わず多様な職業が登場するんですね。前期エンディング主題歌『HUGっと!未来☆ドリーマー』の歌詞にも、さまざまな職業が出てきます。

内藤 1つの道に縛られる必要はないし、いろいろなことをやっていいんだと、子どもたちの視野が広がるきっかけになればいいなと考えています。エンディング曲の歌詞についても、そんなイメージで作詞家さんにお願いしました。

歌詞の中には「エンジニア」など、いまだに“男性の仕事”というイメージが根強い職種も出てきますね。

坪田 男女関係なく、エンジニアやクレーンの運転士など、「何を選んでもいいんだ」と感じてもらいたいですよね。社会には今も、女性にとって生きづらい部分が残っているんだと感じます。例えばプリキュアを見ていた女の子が、この先成長してエンジニアになりたいと思っても、誰かに「女性なのに理系なの?」などと言われて悩んでしまうかもしれない。そんなとき、「そういえば昔見たプリキュアで『エンジニア』って歌ってたじゃん!」と思い出して、自分を肯定してもらえたらうれしいです。それが、今回のプリキュアをやっている目的の一つでもありますね。

どんな選択も、どんな生き方も肯定する。作品の根底に、そんな「愛」があるように感じられます。

坪田 そうですね。みんなの魂というか命は自由なんだよ、好きに人生を、未来を育んでいいんだよって。そこは、当初から変わらずスタッフ全員が共有していると思います。

内藤さんと坪田さん

職業の多様性もさることながら、今回は特に、男女の性差に対する固定観念を打ち砕くような、さまざまな価値観、生き方にも踏み込んでいるようにお見受けします。例えば、19話では「男の子だってお姫様になれる」というセリフが登場し、インターネット上でも話題になりました。

坪田 プリキュアは1作目から「女の子だってヒーローになれる」を体現してきましたが、同じように男の子だってかわいいものが好きだったり、お姫様になりたいという願望があったりしてもいいはずです。でも、実際にはまだそこまでは言い出せない空気がある。私、5歳の男の子の友達がいるんですけど、彼はプリキュアを見てくれているのに人前では「見てない!」ってかたくなに言い張るんですよ。理由を聞くと「男が見るもんじゃないから恥ずかしい」と。気持ちは分かるんです。だけど、ちょっと寂しいなって。

好きなものを好きと言える、自由な社会になってほしい。そんな願いも込められているんでしょうか?

坪田 そうですね。先ほどのエンジニアの話と同じく、お姫様に憧れる男の子が「だって、プリキュアで言ってたもん!」って、自分を肯定してくれたらうれしいです。

人生で大事なことは全て「プリキュア」に詰まっているのかもしれません。

坪田 そう。だから全人類に「プリキュア」を見てほしいと思っています(笑)。

HUGっと!プリキュア

©ABC-A・東映アニメーション

大人からの反響はうれしいけれど、左右はされないように

今回のシリーズは特に大人からの反響が大きいように思いますが、どのように受け止めていらっしゃいますか?

内藤 確かに大人の視聴者の方からの反響は届いていますが、だからといって作風を変えることは一切ありません。基本はやはり子どもたちに向けて、何を感じてほしいか、そこだけです。ただ、大人が見ても楽しい要素が詰め込まれていますので、ぜひ家族全員で見てもらって、親子の会話が弾むきっかけになったらうれしいですね。

坪田 私も、大人が見てくれるのはすごくうれしいです。師匠的な人からも「女の子向けのアニメをやるにしても、全人類の視聴に耐え得るものを作りなさい」と言われ続けてきたので、そこは意識しています。ただ、内藤さんが言うように、3歳から6歳の女の子に一番に届いてほしいという軸がぶれてはいけない。ですから、インターネットの反響に左右されないようにしようと思っています。ネットでバズったからといって、それが世論の全てではないと思うので。

実際、『HUGっと!プリキュア』に言及したブログなども多く、SNSでも広く拡散されています。それでも、そこは冷静に受け止めていらっしゃるんですね。

坪田 そうですね。「プリキュア」の記事にはてなブックマークがたくさん付いたりするとうれしく感じます。でも、実際の視聴動向などを見るとそこまで大人の視聴数が伸びているわけではないんですよ。現在、伸びているのは子ども。ですから、今作は大人向けだとよく言われますが、私たちの軸はぶれていないのかなと思っています。

内藤さん

15周年の集大成である映画にも期待

最後に、10月27日(土)から全国公開される『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』についてお聞きします。お2人が担当されているのはテレビシリーズですが、15年間の集大成でもある映画についてはどのような思いを抱いていらっしゃいますか?

内藤 今回は歴代のプリキュアが全員出る映画です。これまで歴史を紡いできた各監督、各プロデューサーが大切にしてきたキャラクターたちの中に『HUGっと!プリキュア』があるというのは、やはり感慨深いものがあります。当初は初々しかった『HUGっと!プリキュア』のキャストさんたちも、物語の進展やキャラクターの成長に合わせて結束力が高まり、いろいろなことを乗り越えて映画が完成しています。そして、15周年の並み居る先輩キャストたちの中心にいる。そんな姿を見ていると「みんな、よくがんばったね」って思いますね。

坪田 私も映画には直接タッチしていないんですけど、内藤さんが言うように脈々と受け継がれてきた作品の真ん中に自分が担当する『HUGっと!プリキュア』があって、がんばっているのはうれしいです。キャスト・スタッフ陣は大変そうですが、フレフレ、がんばれ~!って、応援しています。

内藤 シナリオなどは確認しているんですけど、一体どんな映像になるのか僕らも分からないので。いちプリキュアファンとして、楽しみですね。

内藤さんと坪田さん

プリキュア15周年記念映画、10月27日(土)公開

10月27日(土)公開の『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』は、歴代55人のプリキュアたちが総出演する、シリーズ15周年記念作品。プリキュアたちの大切な「想い出」を奪う敵・ミデンが現れ、『HUGっと!プリキュア』と初代『ふたりはプリキュア』が力を合わせて戦います。

取材・執筆/榎並紀行(やじろべえ)
撮影/小野奈那子

お話を伺った方

内藤圭祐さん
東映アニメーション所属の『HUGっと!プリキュア』プロデューサー。2014年から放送された『ワールドトリガー』のアシスタントプロデューサーを経て、2016年に『魔法つかいプリキュア!』、2017年に『映画 キラキラ☆プリキュアアラモード パリッと!想い出のミルフィーユ!』のプロデューサーを担当。
Twitter:@minerogenesis

坪田文さん
脚本家。2016年の『魔法つかいプリキュア!』、2017年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』にも脚本で参加し、『HUGっと!プリキュア』ではシリーズ構成を担当。ドラマ『コウノドリ』や映画『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』など実写作品も手掛ける。
Twitter:@tsubofumi

次回の更新は、2018年10月26日(金)の予定です。

編集/はてな編集部

ハロプロの作詞手がける児玉雨子。デビューのきっかけは高校時代に書いた小説

作詞家・児玉雨子

今回お話を伺ったのは、作詞家の児玉雨子さん。高校3年生で作詞家として活動をスタートして以来、「モーニング娘。」「つばきファクトリー」などハロー!プロジェクトのアーティストをはじめ、今注目の女性アイドルグループの楽曲を中心に詞を提供しています。順調そのものに思えるそのキャリア。しかし、本人は「ほぼ運だけでここまできた」と語ります。若くしてデビューしたがゆえの苦悩、現在の仕事、これからのことについて迫ります。

高校生で作詞家デビューは「運がよかっただけ」

もともとは高校時代に書かれた小説がきっかけで、作詞家への道が開けたそうですね。当時は、小説家を目指されていたんですか?

児玉雨子さん(以下:児玉) いえ、その頃は特に何も目指していませんでした。実は中学・高校の頃、遅刻や休みを繰り返してばかりでした。友達にも先生にも恵まれたのに、なぜかそうしないと心のバランスが保てないというか。出席日数が進級に響きそうになったとき、何とかして内面に抱えているものを発散させなきゃと、まず漫画を描こうと思ったんです。でも、絵を描くのが億劫になっちゃって(笑)。それで小説に方針転換して、高校2年生で文学賞に小説を出しました。

そこから作詞家デビューまでは、どのような流れで?

児玉 父の知り合いに静岡朝日テレビのプロデューサーがいて、『コピンクス!』という情報番組を担当していたんです。それで、私が小説を書いているというのを聞いて、Juice=Juiceのメンバー・宮本佳林*1ちゃんが歌う番組の主題歌『カリーナノッテ』の作詞に関わってくれないかと話をいただきました。高校3年生の時です。

高校生で作詞初体験、いかがでしたか?

児玉 相当焦っていたのか、正直当時のことはあまり覚えていません(笑)。ただ、その時は何も知らなくて、勝手にメロディを変えて「これにしてください」とか、図々しいこともしてしまって……。「女子高生のワガママだからいいや」と、なあなあで許してもらえてたみたいです。

作詞家・児玉雨子

そこから、インディーズアイドルの楽曲作詞、さらにはハロー!プロジェクトにも作詞家として携わられるようになったとか。若くして仕事ぶりが評価されたということですよね。

児玉 いや、これは謙遜でも何でもなく運がよかっただけだと思います。あと、"女子高校生""女子大生"の肩書きにブランド的価値があったからだなって。高い下駄を履かせてもらってたなあと。

肩書きで評価されるのは、気持ちがいいものではないですよね。

児玉 若かったおかげで機会に恵まれた反面、「若いのに凄いね」と、どれだけがんばっても全部「若いのに」でまとめられてしまうのがつらかったです。それと、どれだけミスをしても「若いから」で許されてしまうことは、自分のためにはならないな、と。大学在学中にもお仕事をいただけていましたが、「早く32歳の女になりたい」って思っていました。年齢を重ねた女性って、余裕があって素敵でかっこいいじゃないですか。

就活の失敗が作詞家としての覚悟に

「女子高生」「女子大生」の下駄がなくなってからが、ある意味本当の勝負だと思っていたんですね。

児玉 そうですね。"女子大生"の肩書きが外れたことで、仕事をもらえなくなったケースもありましたけど、「ブランドで見られていた仕事ならいらないや」って。それに、ブランドに関係なく今でも続いている人や、大学卒業後に出会った人には、何かしら結果で返したいですし。まだ20代半ばですけど、社会に出てからは、否が応でも書いたものだけで判断されるようになったので嬉しかったです。ここからが頑張りどきだなと思っています。

大学卒業後はそのまま作詞家になろうと考えていたのでしょうか? 就職するという選択肢はまったくなかったですか?

児玉 ギリギリまで悩んでいました。実際、エントリーシートも3社くらい出したんですよ。でも、全部落ちてしまって。たった3社でも、「社会から拒絶された……」と妙にショックを受けてしまったんです。それなら、いまもらっている作詞の案件を頑張ろうと。

作詞家・児玉雨子

当時、会社員への憧れはありましたか?

児玉 お昼休みに小さい財布を持ったOLさんを見ると「いいな~」ってなります。でも、結局3社落ちただけで諦めたから、その程度だったと思います。歌詞の修正は何度でもやれるのに(笑)。

街の喫茶店には作詞のヒントが転がっている

児玉さんは、どのように作詞をされるんでしょうか? プロセスを教えてください。

児玉 レーベルごとにも違うとは思いますが、私の場合はデモテープをいただいて、曲を聴きながら〆切までに作詞するケースがほとんどです。作曲家やディレクターによっては「詞のプロットが欲しい」と要望をいただくこともあるので、その場合はプロットを書いたあとにまとめ直します。楽曲にもよりますが、早ければ制作期間は1日も掛かりません。ただ、そこから修正を加えて1カ月くらい必要なケースもあります。

1日掛からないというのは凄いですね。

児玉 デモの音源から自然と言葉が出てくる感じですかね……。ただ、バーッと書いたあとに、メインのフレーズを検索してかぶらないように気をつけています。どちらかというと書いたあとの推敲に力を入れています。

「アイドルっぽい歌にしよう」と意識して作詞されることもありますか?

児玉 あまり「アイドルだからこうしよう」とは考えないようにしていますね。年齢やイメージは多少意識しますが、「アイドル=こういう歌詞」と決めることはないです。それはアニメ方面で書くときも同じですね。あと、感覚なんですけど、例えば「恋愛系のメロディ」に「夢を追いかける系」の歌詞をつけてしまうと、ちぐはぐになってしまいます。特にアイドル好きの方って、曲をたくさん聴いているから違和感を見抜いちゃうんですよね。なので、デモテープの雰囲気から「歌詞の系統」はある程度決めています。

作詞家・児玉雨子

他にも、意識されていることはありますか?

児玉 「こういう内容のものが欲しい」というオーダーがあれば一応チェックしつつも、「書きたいように書く」ようにしています。昔は発注いただいた要望全てを叶えなきゃという気持ちがありましたが、そうすると、聞き手に届きづらい歌詞になることもあって。最近は発注書を斜め読みしている感じです(笑)。特にハロプロさんは長くお仕事をさせていただいてることもあり、ほぼお任せで書かせてもらっています。

作詞をする場所はどこが多いですか?

児玉 チェーンの喫茶店ですね。

個人店ではなく、「チェーン」じゃないとダメ?(笑)

児玉 ダメですね(笑)。中高生、大学生がたくさんいるような、塾や大学近くのチェーン店がいいです。そこにいる若い人たちの話に聞き耳を立てていると、歌詞のヒントになることもあるんですよ。

若者のリアルな会話が歌詞に反映される、と。

児玉 例えば、つばきファクトリーの『低温火傷』という曲の歌詞は、喫茶店にいたカップルにインスピレーションを受けて書いたんです。「この男、絶対に遊んでるよ」って心配になる男の子と一緒にいる女の子がマジで恋している顔をしていて、切なくて死にそうになって(笑)。

その男の子が来週スノボに行くって言うと、彼女は「へえ~いいね~行きたい~」ってリアクションするんですけど、明らかにスノボなんてやったことなさそうな真面目な女子だったんですよね。健気に話を合わせていて……。その時の会話と、そのやりとりから抱いた感情を反映しました。


つばきファクトリー『低温火傷』(Camellia Factory [Low-Temperature Burn])(Promotion Edit)

つんく♂さんの真似はできない! 「私らしい」歌詞を書く

ハロー!プロジェクトの方とのお仕事で印象に残っていることがあれば、教えてください。

児玉 いろんな現場の仕事をするようになって、「待って、私が初めて作詞した曲を歌ってくれた宮本佳林ちゃんって、めちゃくちゃ歌上手だったんだな……!」ということに気付きました。とにかくレコーディングが早くて、1、2回通しで歌ったらもうOKといった感じだったんですよ。いろんな方のレコーディングに参加して、「普通のレコーディングは、あんなに早く終わらないんだ」ということを知りました。決して他の方が下手なのではなく、彼女が異常にうまいんです(笑)。

ハロー!プロジェクトに所属するアイドルは皆さんパフォーマンス力が高いですよね(笑)。

児玉 ハロプロメンバーのレコーディングは、気付いたら終わっています(笑)。レコーディング現場で「歌いづらいから」とその場で歌詞を変更することって割とあるんですけど、ハロプロはあまり歌詞変更がなくて。メンバーみんな上手だから、何でも歌ってくれるんです。

作詞家・児玉雨子

ハロー!プロジェクトといえば、やはりつんく♂さんのイメージが強いです。ただ、一方で最近はつんく♂さん以外にさまざまなクリエイターが参加されています。その中で、児玉さんはどのように存在感を発揮したいとお考えですか?

児玉 私に求められているのは、楽曲に違うカラーを持たせることだと思っています。レジェンドであるつんく♂さんの真似はとてもできませんが、バリエーションの一つとして私を選んでいただけるのはとても光栄なことだと思っています。歌詞は「存在感を発揮したい」から書くものではないので、時代が求めているものを書きたいと思います。それが「私らしい歌詞」になれば、理想ですね。

作詞を手がけたものの中で「これは手応えがあった」と感じた楽曲はありますか?

児玉 最近だとつばきファクトリーの『今夜だけ浮かれたかった』はのびのび書けたな、と思います。デモはそこまで夏夏していなかったのに、「これは夏の曲だ! 夏じゃなきゃだめだ!」と感じた不思議な曲でした。


つばきファクトリー『今夜だけ浮かれたかった』(Camellia Factory[Only for tonight, I wanted to be playful])(Promotion Edit)

ご自身でハロプロとの相性のよさ、といったものを感じることはあるのでしょうか?

児玉 私が中高生の頃って、ちょうどAKB48グループが一番盛り上がっていた時期だったんです。その時に「僕」目線の曲が多いなという印象は持っていて。一方で、ハロプロって「私」目線の曲が昔から多いんですよ。私は一人称の歌詞を書くことが多いので、そういった面ではハロプロの曲となじみやすいのかな。ありがたいことに、すでに土壌がありました。

人生なるようにしかならないなら"ぶっつけ本番"の人生を

では最後に、これからのライフプランについて伺いたいです。

児玉 それは、まったく何も考えていないです(笑)。

おっと!それは、あえてですか?

児玉 というか、「なるようにしかならない」って常々思ってるんです。もしかしたら干されて、1カ月後に仕事がなくなっているかもしれないし。自分が何かを成し遂げたい、という気持ちもそんなにないんです。知らない誰かの代弁となる詞や、歌手が売れるきっかけになるものを少しでも多く書きたい、という方が強いです。実は、学生時代に教授から「アイドル向けの作詞家なんて浮き草仕事をしてないで、歴史に残る仕事をしなさい」って言われて……カチンときたんですよね。「今でいう『古典』は、当時の流行だぞ」って。

その反骨心が、児玉さんの原動力になっているのかもしれませんね。

児玉 はい! だから「浮き草上等! 私の浮力を見くびるなよ」っていう気概は持っているつもりです(笑)。だからこそ、場当たり主義かもしれないですけど、その時できることを全力でする、ぶっつけ本番の人生でいこうって思っています。

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
写真/関口佳代

お話を伺った方:児玉雨子さん

著者イメージ

1993年生まれ。2011年に情報番組『コピンクス!』(静岡朝日テレビ)の主題歌『カリーナノッテ』で作詞家デビュー。以来、ハロー!プロジェクト等のアイドルグループをはじめ、声優、アニメ・ゲーム主題歌を中心に作詞提供。2015年より「月刊Newtype」にて小説『模像系彼女しーちゃんとX人の彼』連載中。
Web:児玉雨子 – KODAMA Ameko –
Twitter:@kodamameko

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次回の更新は、2018年10月17日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:当時はハロプロエッグ(現名称:ハロプロ研修生)

やり方次第で“育児根性論”は脱却できるーー先輩ママ3人の「仕事と育児の両立」座談会

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(写真左から)小沢あやさん、桜口アサミさん、いまがわさん

子どもは……欲しいといえば欲しい。でも、今のところは「分からない」。

「母になること」に想像を巡らせてみても、目の前の仕事のようにリアルじゃない――とはいえ時間は待ってくれず、悩める時間には限りがあります。妊娠・出産は自分で完全にコントロールできるものではなく、難しい問題です。

仮に「子どもを産んでも働き続けたい」と思ったとしても、さまざまな情報を目にし「仕事と育児の両立って大変そう、不安」とネガティブな気持ちになってしまうことも少なくありません。

そこで、仕事で第一線を走りながら育児に奮闘している3人の座談会を実施。それぞれ悩みを抱えながらも出産をした彼女たち。いま思うこと、仕事との両立、パートナーとの関係までホンネで語っていただきました。

***

<<参加者プロフィール>>

桜口アサミさん(37歳)

桜口さん

オウンドメディア編集長、マーケター。26歳で結婚、28歳のときに関西から東京へ単身赴任。第一子の妊娠を機に関西へ戻り、30歳で出産。その後、関西で在宅ワークをしていたが、現在は東京で正社員として働いている。長男(7歳)、長女(4歳)、次女(2歳)の母。転職活動&保活&引越しを同時進行で行った経験談を寄稿したことも。

小沢あやさん(31歳)

小沢さん

フリーランスの編集者・ライター。音楽レーベルの営業/PRを経て、IT系スタートアップへ。正社員として働きながら、ライターとしても活動し、2017年8月に第一子を出産。2018年4月に会社へ復職後、しばらくしてフリーランスに。

いまがわさん(29歳)

いまがわさん

UIデザイナー。新卒で入社した会社の同期と27歳で結婚、28歳で第一子を出産。保活に苦戦した経験あり。夫はフリーランスのエンジニアで、自身はフルタイムの正社員。2018年9月中旬から一家でドイツに移住。

「いつか欲しい」とは思っていたけど、腹をくくったのは妊娠してから

早速ですが、皆さんが子どもを持つことをリアルに考えるようになったのは、いつ頃からでしょうか? また、もともと「子どもが欲しい」という思いはありましたか?

桜口(敬称略、以下同) 28歳後半までは「いつか欲しい」くらいの感じでした。でも、友人に「子どもって、欲しいと思った時にできるとは限らないよ」と言われたときにハッとしたんです。不妊治療をするにしても早い方がいいだろう、とまずは避妊をやめてみることにしたら、第一子を妊娠して。ここで腹をくくるしかないとなりました。

小沢 私も、「いつか欲しい」とは思っていましたが、タイミングは考えていなかったですね。残業・休日出勤が多い業界からIT企業へ転職したときに、「ここなら育児しながら働けるかも」と思ったことは覚えています。IT企業は業務ツールも充実していて、長時間オフィスにいなくても、リモートでできる仕事が多いですから。

転職されたことで、「子どもを持つ」人生が現実的になった?

小沢 そうですね。産みどきは自分がコントロールできるものではないけれど、「子どもを考えるのは、仕事が一区切りついてからかな」と思っていました。自分のキャリアにまったく自信がなかったので、育児で身動きがとれなくなるのが本当に怖かったんです。

いまがわ お二人とも、しっかり考えてらっしゃるんですね。私は、漠然と「31歳くらいで出産するのかな」……みたいな、ずっとぼんやりしたままで、妊娠をリアルに捉えられないままでした。なので、27歳で妊娠が発覚したのは想定外で。友人の中でも妊娠・出産が早い方だったので、できてから覚悟したのが正直なところです。

座談会イメージ

ちなみに、出産前後で、どんなことに不安を感じましたか?

桜口 出産前はどうなるか分からなさ過ぎて、不安だらけでしたね。というのも私は、第一子の出産が単身赴任中のときだったんです。「無事に産めるのか」というレベルから、どうやって仕事と両立させていこうかということまで、ありとあらゆる不安を抱えていました。結局、会社を退職して関西へ戻り、30歳で第一子を出産しました。

小沢 私も出産前は、とても不安でした。雑誌やWebメディアのニュースを読んでいると、「小1の壁」など、育児にまつわるネガティブな記事ばかりが目について。「子どもを育てるには、何枚の壁をブチ壊さないといけないんだ?!」って、考えこんじゃいましたね。

いまがわ 壁、ビビりますよね。赤ちゃんかわいい! という記事より、ネガティブな記事の方が記憶に残るので、子どもを持つことに対する漠然とした不安はありました。

小沢 保活(保育園に入るための活動)の壁もそう。「認可外保育施設に預けることになったら、いくら必要なんだろう?」と、経済的な不安もありましたね。実際に産んでみると「意外となんとかなるじゃん!」と、いい意味でのギャップがありました。

いまがわ 私は出産後の方が不安が大きかったかも。というのも、保活に本当に苦労して……。認可・認可外含めてさまざまな保育園に申し込んだのですが、全滅してしまったんです。

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小沢 東京の保育園事情は、本当に深刻です。わが家は認可外も含めて、広範囲で片っ端から申し込みました。結局、入園が決まった園の近くに引っ越しました。

桜口 地域によって、だいぶ変わりますよね。「小1の壁」に関しては、うちの場合は地域性によってだいぶ和らいだ感があります。いま住んでいる区では全ての小学校に学童があって、19時まで預かってくれるんです。

仕事のストレスは最小限に抑え、精神的栄養は子どもに残す

生活に子育てが組み込まれると、住む場所選びも一筋縄ではいかないんですね。では、仕事との両立についてはいかがでしょうか? 小沢さんは、出産後に会社を辞めてフリーランスになったんですよね。

小沢 「子どもが産まれたから仕事をセーブするの?」と聞かれるんですが、違うんです。むしろ「子どもができたから、もっと稼がねば!」と働き続ける気満々。ただ、育休が終わって復職してみると、想像以上に会社と子どもだけの生活になってしまいました。個人で受けたい仕事もたくさんあるのに、断らざるを得ないこともあって、うずうずしていたんです。

「今の働き方って、ベストなのかな?」と考えている間に会社の組織変更があり、「かける迷惑を最小限にして辞めるなら今だ!」と勢いでフリーランスになりました。今は、業務委託で複数の企業とお仕事をしています。正社員を辞めるのは怖かったけれど、この働き方もしっくりきていますね。

桜口 自分がいかに柔軟に動けるかの土台をつくるのは、大事かもしれませんね。私の場合は、会社が育児に協力的じゃなくなったら即辞めてやる、くらいの気持ちでいます。

だって、“精神的栄養”は子どもに絶対残したいじゃないですか。そう考えると仕事で1ミリもストレスを溜めたくない。ワガママかもしれませんが、嫌なことは嫌ってはっきり言います。それでクビになっても、自分で生きていこう、別の会社を選んでやろう、と思います。

桜口さん

小沢 育児って時間は割かれるけど、ネガティブなことばかりではないと思うんです。仕事の稼働時間も制限されるけど、一層効率よくしようと思えるし、「土日と深夜で巻き返すぞ!」みたいな、無茶な働き方もしなくなりましたね。

いまがわ 確かに、取捨選択は上手になるかもしれないですね。

桜口さんは第一子を出産される際に一度退職されたとのことでしたが、その後仕事はどうされたのでしょうか。

桜口 仕事はしたいと思っていましたが、育児を優先したいとも考えていたので、在宅ワークできる企業にジョインしました。

ただ、40歳くらいまで在宅ワークを続けようと思っていたのですが、3人目を産んでから「そろそろチームで働きたい」と思うようになってきて。昔からインターネットが大好きだったこともあり、IT系の企業が多い東京で働きたくなったんです。ちょうど夫も東京での仕事が増えてきたので、転職と合わせて家族で引っ越すことになりました。

正解はない「妊娠報告のタイミング」

皆さん、妊娠されてから産休・育休に入るまでの働き方はいかがでしたか。

いまがわ 私は、妊娠してから産休までの間がちょっとしんどかったかも。上司には早めに伝えていましたが、妊娠したことを職場の同僚に言い出しにくかったんですよね。

それはなぜでしょうか?

いまがわ ちょうど大きなプロジェクトに関わっていて、忙しい時期に妊娠が重なってしまったので、心苦しくて知られたくなかったというのが正直なところです。運良く妊娠中も不調になることもなく働けていたので、お腹が大きくなったのもしばらく隠していましたね。お荷物扱いにされたくないというか。

小沢 妊娠を申し訳ないと思ってしまう、という気持ちは何となく分かります。

妊娠報告のタイミングは、働く女性にとっては悩みどころだと思います。「安定期に入ってから」「妊娠初期」など、タイミングはいくつかあると思いますが、妊娠中の体の状態は本当に人それぞれなので、「これが正解」というのもないですし……。

小沢 安定期に入る前でしたが、すぐ上司に報告しました。体調不良がひどかったのですが、お休みをいただくこともできました。理解してもらえたのはありがたかったですね。早めに報告した方が、会社も産休・育休中の人材配置や採用を先回りして検討できるのではないでしょうか。

いまがわ 今となってはですが、いつ体調が急変するかも分からないので、同僚にも早く報告すればよかったな。

桜口 私が第一子を出産したのは7年前ですが、全ての企業ではないにしても、出産育児の寛容度はかなり向上しているなと思います。「社員にとって働きやすい環境を考えるのは当然だよね」という雰囲気が、社会に広がっているのはいいことだなって。

小沢 世間は意外と優しいし、今後はリモートワークができる企業も増えてくるはずです。いい時代になってきている感じはありますよね。


便利サービスは積極的に活用し、育児根性論から脱却

皆さん、共働きでいらっしゃいますが、パートナーは育児や家事に協力的ですか?

いまがわ 協力的ではありますが、気が回るタイプではないので、家では私がプロジェクトマネージャーで、夫は外注さんとして忠実に任務を遂行してもらえるように道筋をつくるようにしています。

桜口 もはや仕事みたいな割り切りも必要ですよね。うちの夫は仕事が忙しくて、第三子を出産してから約2年半くらいワンオペ状態のような時期もありました。ただ、パパ抱っこ面談みたいなのにちゃんと来てくれたり、育児に協力的だったりと「子どもが好き」というのを知っていて、ちゃんと土台があったので、許せたんだと思います。

小沢 わが家の場合は、よく私が怒られています。夫に「Twitterより、先にお皿洗いしてよ!」と言われちゃうことも(笑)。もともとは、私が主体で家事をしていたのですが、今は逆転しましたね。つわりや体調不良で動けなくなったときに、徹底的に家事をしなかったので、その状況を見て責任感が芽生えたのかもしれません。

桜口いまがわ 夫さん、素晴らしいです!

桜口 つまるところ夫が“やらないこと”に対してのストレスを感じちゃうときりがないですよね。逆に、夫が“やること”のストレスがないものに目を向けて、有り難みを感じた方がいいというか。極端ですけどモラハラとか暴力とか、仕事を辞めろって強制してくるとか。そこを“やられる”と、パートナーシップが破たんしますからね。“やらないこと”は、アウトソーシングで補填するという選択肢もありますし。

小沢 最近は、手ごろなサービスも充実していますもんね。家事も、すべて外注に踏み切るのは難しいけれど、スポットで利用できたらいいですよね。

UberEatsなどの出前サービスやECもどんどん便利になっていますし、デジモノもそう。ネットサービスやガジェットを効率よく使えば、育児根性論から脱却できるということも実体験から分かりました。育児自体は思い通りにいかないけれど、オペレーションは効率化できる。お金はかかるけれど、精神的安定を買う感覚でいます。頑張り過ぎて息切れするのが、一番怖いです。わが家は実家を頼れない核家族なので、割り切りも必要なのかなって。

いまがわ それが理想ですよね。

いまがわさん、小沢さん

産む前から気負い過ぎない方がいい

ここまでお話を伺ってきて、皆さんやはり、妊娠・出産にあたりさまざまなことを考え、仕事でもプライベートでも自分らしい選択をされてきているんですね。

桜口 子どもを持ってからも仕事を続けたい、という人にとっては、仕事が忙しくて一緒にいられないことに罪悪感を持ってしまうという声も耳にします。でも、自分だけで育てているんじゃなくて、学校や社会にも育ててもらえるんだよと伝えたいですね。親は、「とにかくあなたのことをめちゃくちゃ愛してる」と、しっかり伝えることが役目なんじゃないかなと。

小沢 育児中は自分の行動に制限がかかるのは事実ですが、それを恨み節みたいにはしたくないんです。そのためには、自分が自由でいる状況を創造しないとなって。子どもと私のキャリアプランは切り離して考えたいし、子どもは自分の人生の歯車ではないので。育児は思い通りにならないからこそ、「私、こんなに頑張っているのに!」と考えないようにしようと思っています。

いまがわ 出産育児で仕事のブランクを心配する人もいますが、私の場合はいざ復帰してみるとガッツリ仕事に関われたので、いい意味で裏切られました。スキルを磨く努力さえしておけば、子どもがいてもキャリアは自ずとついてくると思います。9月から海外へ移住しますが、向こうへ行っても、また仕事をしたいと思っていて。子どもがいても、新しいことに挑戦する姿勢は今後も持ち続けたいです。

とはいえ、実際には出産前から考えすぎて不安が払しょくできない人もいると思います。

桜口 私も、実際に妊娠するまでは漠然としか考えていなかったですし、出産前の方が「母であろう」とかいろいろ気負い過ぎていた感がありました。なので、心配になったり、不安になったりする気持ちも分かるんですよね。

いまがわ いざその状況になったら考える、くらいでもいいと思います。実際、私は妊娠してから今後の人生設計について考えるようになったので。

小沢 普通にOLとして働いていても転勤や異動のリスクはあるのに、なんで赤ちゃんに対してだけビビっていたんだろう? と今では思います。10ヶ月くらい気持ちを切り替える時間があって、その間にいろいろと作戦を練ることもできる。不安は尽きませんが、あんまり思い詰めず、楽な気持ちでいるのがいいかもしれませんね。

座談会

取材・文/末吉陽子(やじろべえ)
撮影/関口佳代


※座談会参加者のプロフィールは、取材時点(2018年8月)のものです

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次回の更新は、2018年10月10日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

「こだわりを持たない」ことにこだわるプロデューサー、福嶋麻衣子が常に考えること

もふくちゃん

今回「りっすん」に登場いただくのは、もふくちゃんこと福嶋麻衣子さん。アイドルグループ「でんぱ組.inc」の生みの親として知られるもふくちゃんですが、今に至るまでに紆余曲折があったのだそう。インターネット黎明期からイチ早く動画配信をし、出版社勤務を経て、秋葉原でディアステージ、MOGRAのオープンに携わり、ゼロから店舗やアイドルを育ててきたもふくちゃんに、働き方や人生論を伺いました。

ネット黎明期に月5万の自宅サーバーを立てて動画配信

福嶋さんは「もふくちゃん」の名前で紹介されることも多いですが、「もふくちゃん」はインターネット黎明期から発信されていた頃のハンドルネームなんですよね。まずは当時のお話からお伺いさせてください。

福嶋麻衣子(以下、福嶋) もう13年くらい前ですね。まだYouTubeなどの動画共有サービスが浸透していなかった頃に、「これからは絶対に動画の時代が来る!」と強い確信を持っていて。それで、誰よりも先にやろうと思って、当時通っていた芸大の卒業制作として「喪服の裾をからげ」というWebサイトを作って動画配信をしました。一応、音楽系の学部だったんですが、芸大ってそこらへん自由なので。

今で言うユーチューバーの走りのような?

福嶋 そうですね。当時の言葉でネットアイドルという紹介のされ方もしていたと思います。でも、今とは比べものにならないくらい小さな配信で、同時接続人数がマックス50人とかなんですよ。1ヶ月5万円払って自宅サーバーを立てたのに。

え、5万円も! 月5万円って大学生にとっては相当な大金ですよね!?

福嶋 たぶん芸大にいた影響が大きいんですよね。いい作品を作るには、かかるお金も時間も労力もとにかく膨大で。作品制作のために徹夜を繰り返すだけでなく、必要なら作品代に何十万円もかけるなんて芸大生にとっては当たり前で、自分のことは二の次。だからパンの耳をかじるくらい貧乏なんですけど、それは作品を優先しているからなんですよね。だから、アルバイトしながら必死にでしたが、5万円のサーバー代もポンと出しちゃえる感覚があったんだと思います。

アキバのメイド喫茶仲間とディアステージをオープン

大学卒業後はどうされたのでしょうか?

福嶋 動画配信を見て下さったアートギャラリーの人からお声がかかったんです。アーティストとして呼ばれたんだと思って喜んで行ったのですが、全然そういうのではなく、スタッフとして働いてほしいという話で(笑)。でも、そこでの体験はめちゃくちゃ面白かったですね。時代はまさに「ヒルズ族」が世に出てきた頃。彼らやコレクターの方々へ絵画を売るギャラリーの仕事で、作品納品の際は「これがお金持ちの住まいかー!」と感動していました。一方で、私自身は貧乏だったので、ボロボロのシェアハウスに住んでいて。もう天と地ですよ!

一日の落差がすごいですね。

福嶋 今は「シェアハウス」って言葉があるからちょっとオシャレに聞こえますが、当時はそんな言い方なかったですからね。「カオスな家」とか「ゴミ溜め」とか、そんな扱いでしたよ。住んでいた家が、某週刊誌の「日本の底辺事情」みたいな特集に取り上げられたくらいです(笑)。

そうだったんですね(笑)。

福嶋 そうこうしていたら、芸大つながりで出版社の方と知り合って、雑誌編集やウェブ周りのことをして働くことになりました。当時からポップカルチャーやアイドル関連のことをやりたい気持ちがあったので、近い世界のことを学べるいい環境でしたね。同時期くらいに並行して、仲間と一緒に秋葉原のディアステージも始めました。2007年頃だったと思います。

もふくちゃん

ディアステージは、のちにでんぱ組.incなどのアイドルが誕生するライブスペース&バーですよね。最初は友達と一緒に趣味感覚で始めたということでしょうか?

福嶋 はじめは、本当に同人的でした。この頃ってメイド喫茶全盛期で、まだまだアイドルも今のようなブームになっていなくて。メイド喫茶とAKB劇場が同じビルにあって、でもまだメイド喫茶のほうが知名度があった気がします。その後の時代を象徴する建物やコンテンツがどんどん出てきた時期でした。

メイド喫茶ブームによって、それまでアキバ=電気街のイメージだったのが、アキバ=メイドというイメージが強くなったのを覚えています。

福嶋 そのカルチャーが大好きで、毎週末アキバのメイド喫茶を巡っていたんですよ。芸大つながりの友人とかもだんだんアキバに興味を持ち始めていて、面白いお店や、面白い人を紹介してもらって。そういうアキバカルチャー好きの仲間たちが「アイドルとメイド喫茶を掛け合わせたら、俺たちの理想のメイド喫茶が生まれる」とか「毎日、路上ライブをやりたい」とか話していて。それが、ディアステージへとつながっていくという。

めちゃくちゃ楽しそうな立ち上げですね! 当時はどんな人たちがディアステージで歌ってたのでしょう?

福嶋 元メイドとか、アキバに通っていたオタク女子が多かったです。「歌手になりたい」とか「アイドルになりたい」とか様々な夢を持った子たちが集まってきていました。ただ、ステージと言っても名ばかりで、ガムテープでバミって「ここからここまでがステージです」となってるだけだったんですけど(笑)。このディアステージがオープン3ヶ月くらいですごく盛り上がって、ちゃんとやりたいという思いが強くなって、出版社を辞めてディアステ一本に絞ることにしました。

小3にしてBASICを操っていた

でんぱ組.incはどのような経緯で誕生したのですか?

福嶋 ディアステ立ち上げ当初から働いてくれていた未鈴ちゃん(古川未鈴)から、アイドルユニットをやりたい、と相談されたんです。未鈴ちゃんはずっとアイドルになりたくて、でも挫折も味わってという経験もあったから、どうしてもやりたい強い思いがあったんですよね。私はアキバポップや電波ソングが好きだったので、そういう楽曲を歌うユニットならいいかも、と私と未鈴ちゃんのお互いの思いからでんぱ組.incが生まれました。

dempagumi.tokyo

福嶋さんは動画配信をしていた頃、ご自身でも顔出しをされていたかと思うのですが、自分がアイドルとして出る側になる選択肢ってありましたか?

福嶋 動画配信はあくまで「最新の技術を使って配信をしたい」というのが目的で、そもそも私、出るよりも作る側のほうが好きなんですよ。それは昔からで、高校生の頃、音楽系の高校に通っていながら、JavaScript(プログラミング言語の一つ)を組むアルバイトをしていて、将来はプログラマーになりたいと思っていたくらい。中学生の頃はHTML(Webサイト制作に必要な言語のこと)の作成支援サイトを作っていました。テキスト装飾に必要なタグを用意して、「コピペしてね」とかやってましたね(笑)。

うわ、懐かしい!(笑)

福嶋 さらに遡ると、小学3年生でBASIC(プログラミング言語の一つ)を学んで、夏休みの自由研究でBASICを使ってゲームを作りました。

えっ! すごい! 小3で!

福嶋 たまたま、昔から家にパソコンがあったんですよ。ただぼんやりと家にある機材を勝手に使っていただけで、世の中にどんなコンピューター関連の仕事があるのか全然知らなかったんですが、知ってたら早くからそっちの路線に行っていたかもしれません。

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まだ家庭にパソコンがあること自体が珍しい時代ですよね。小3でそこまで本格的にやっていた人はなかなかいないですよ……。

福嶋 今思えば、小3でBASICやっている女子として親がもっと売り出してくれたらよかったのに(笑)。高校ではピアノをやっていたんですが、ピアノ大嫌いでしたもん。エラーになったときにちゃんと考えると答えを導き出せるプログラミングと違って、ピアノって正解がないから。それでパソコンに逃げていたのかもしれません。

まあ、アイドルプロデュースもプログラムみたいに入力したら言うこと聞く、というものでもないから難しいんですけどね。

素材を活かしたアイドルのプロデュース方法



でんぱ組.inc「でんでんぱっしょん」MV【楽しいことがなきゃバカみたいじゃん!?】

それこそ最初はノウハウも何もないですよね。そこは本当に手探りで?

福嶋 物販の売り方すら知らなければ、衣装や振り付けを外注できることも知らなかったレベルです(笑)。振り付けなんて最初はメンバーが全部自分でやっていましたし。毎日現場にいるようにして、ほかのアイドルライブにもたくさん行って見て盗んで、ほとんどのことを外注せずに自分たちで手作りして……、完全にDIYでした。

プロデューサーの仕事をやっていくうちに心掛けるようになったポイントって何かありますか?

福嶋 これは人によって様々かと思うのですが、私は素材を活かすようにしています。自分の理想通りに内容を詰めていくというよりも、目の前の女の子を見て、この子たちを輝かせるなら延長線上にこういう未来が見えるな、と。例えば、当初はでんぱ組.incに関しては普通の恋愛の歌詞にするのはちょっと違うよね、と思っていて。でんぱ組.incの子たちはオタクだから、恋愛じゃないんですよね。オタクの子って恋愛の話よりも自分の萌えとか好きなものとか、とにかく趣味の話をしたがるから。

確かにそうですね。

福嶋 彼ピッピが、みたいな歌詞じゃダメなんですよ。自分のことを語る歌詞にして、聞いた子たちが励まされたり、背中を押されたりする歌詞が、グッとくるなと思ったんです。

グループ全体に関しては、素材を活かすために、後付けで足りない要素を継ぎ足して補強するようにしています。アキバが当時は「ダサい」と見られていたから、あえてファッション系に寄せていくとか。

どの要素が足りないかは、どうやって見定めているのでしょう?

福嶋 マーケティング、というと嫌な言葉ですけれど、そういうのを考えるのが結構好きなんです。もともとシミュレーションゲームオタクで、「シムシティ*1」から始まり、あらゆるシミュレーションゲームをやってきているのですが、それと似たような感覚でやっています。このアイドルを好きな人は、どんな生活をしていて、どんな服を着て、休日はどこに出かけるんだろう、とその人の一日の過ごし方をかなり細かくシミュレーションするんです。

こういう一日を過ごすお客さん相手なら、グループにこの要素を入れればよさそうだ、とか?

福嶋 そうそう。あと、ドライブしたり、電車に乗ったりしているときに、人の家の中をめちゃくちゃ見るんですよ。どんな間取りで、どんな照明で、こういう家にはどんな人が住んでいるんだろう、とか。モノレールなんかは最高に好きですね。マンションの様子が見えるので、窓に張り付いてガン見します(笑)。

へええ~! それは全然興味がないタイプの人の家でもってことですよね。

福嶋 私、嫌いなものがないんですよね。自分と全然違うタイプの人でも、その人の生態を知りたくなっちゃって。昔から飽きやすくて、一つのものを追いかけるのが向いてなかったんですよ。雑誌も、アウトドアしないのに「山と渓谷」を読んだり、園芸しないのに「趣味の園芸」とか読んだり。園芸界では今これがブームなのか、なるほど、みたいな。

お話を伺っていると、あの要素が足りない、とか、マーケティングが、とか、めちゃくちゃ冷静にグループを見ていらっしゃいますよね。でも、何もないところから育ててきたコンテンツの場合、思い入れもあってなかなか冷静な目線を持つのが難しくはないでしょうか?

福嶋 それはすごく意識しているんです。グループを好きになるのも大事なんだけど、一方であまり入れ込みすぎないようにして、第三者的な冷めた目線を常に持つようにしています。知らない人が見ても、何か少しでも面白いと思ってもらえるものにしないといけないので。

「こだわりを持たない」というこだわり

fukushima

働く上で何かこだわりって持っていらっしゃいますか?

福嶋 こだわりはなくて、むしろ、「こだわりを持たない」ことにこだわっている……のかもしれない(笑)。いくら年間スケジュールを立てて、ここでシングルを出して、と売り出そうとしても、アイドルという人間を扱う仕事なので、イレギュラーなことも出てくるし、計画は平気で全部崩れますからね。アイドルだけでなく、発注するクリエイターやスタッフの人たちに対しても、みんなが働きやすいように、自分は常に柔軟でいようと思っています。レタッチ一つでも、クリエイターさんが働きやすいと思ってくれていると、キランッてかわいくしてくれるんですよ(笑)。

レタッチにも差が出るんですね(笑)。

福嶋 クリエイターって、お金じゃなくて"気持ち"の人たちだと思うので、彼らがいかにこのプロジェクトを好きかが大事で。気持ちの入った作品ってやっぱりあるんですよ。そういう仕事ってやっぱりお客さんにもちゃんと伝わります。

本当に大事な人間関係って、自分が自然体でいること

こうして時系列で伺ってきて、福嶋さんは淡々と語っていらっしゃいましたが、よく考えたらすごい話がいくつもありましたよね。貧乏生活から出版社の社員になったのに、その安定をあっさり捨ててディアステージ一本に絞ったのとかも、勇気のいることだったのではないでしょうか?

福嶋 それが、全然リスクとか考えたことがなかったんですよね。大学で講義をしたことがあって、そのときも「起業って怖くないですか?」とか「リスクが……」とかよく聞かれたんですが、もともとが何もない貧乏生活から始まったから、失うものが何もなくて。一文無しになってもあの時代に戻るだけだし、あれはあれで楽しかったし、と思っている節があります。

ここまで成功された今もなお、その感覚でいるのはすごいですね……!

福嶋 基本的に色々なことに執着がないのかもしれません。もちろん、今一緒にやっている仕事上の仲間は大事にしますが、仕事にしろプライベートにしろ、何が自分にとって幸せかを常に考えています。だから、一緒にいても幸せな時間を過ごせない相手なら、無理に関係を続けなくてもいいかなって。ワガママな考えだけど、それでいいと思うんですよ。私は一度きりの人生、一秒たりともそういう無意味な我慢をしたくないから。

確かに、友達やコミュニティ、職場など、ストレスを溜めながらも現状にしがみつこうとする人は多いかもしれません。

福嶋 本当に大事な人間関係って、自分が自然体でいることで、気づいたら自然に一緒にいる、という人たちだと思っています。現状を失ったとしても、いざとなったらそこらへんに生えてる草を食べればいいかなって思っているので(笑)。アウトドア雑誌を読んでいるおかげで食べられる野草には詳しいので、何とかなります!

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取材・執筆/朝井麻由美
撮影/関口佳代

お話を伺った方:福嶋麻衣子さん(もふくちゃん)

もふくちゃん

東京都出身。ライブイベントスペース「秋葉原ディアステージ」やアニソンDJバー「秋葉原MOGRA」を立ち上げ、アイドルプロデューサー、音楽プロデューサーとして「でんぱ組.inc」「虹のコンキスタドール」などを手がける。

Twitter:@mofuku

次回の更新は、2018年9月12日(水)の予定です。
※2018年9月5日19:50ごろ、記事の一部を修正しました。ご指摘ありがとうございました。

編集/はてな編集部

*1:都市経営シミュレーションゲーム「シムシティシリーズ」の第1作目

お洒落に「我慢」はしなくていい 心地よく着けられるアクセサリーを作る|小野桃子さん

onomomoko

「ファッション全体の中で、薬味的な存在になれるもの」「身に着けていて心地よくいられるものを作る」と語るのは、鮮やかな色使いと、繊細なつくりが人気のアクセサリーブランド「LAMEDALICO(ラメダリコ)」のデザイナー・小野桃子さん。2006年にブランドをスタートさせて以来、見ているだけでときめくアクセサリーを数多く発表してきました。デザインと製作、販売まで全て小野さんが手掛けています。

もともとは趣味だったというアクセサリー作りがなぜ仕事になったのか、どうして10年以上ブランドを続けてこられたのか。その答えを探ります。

ブランドのスタートは「流されるがまま」

特徴的な名前ですが、ブランド名の「LAMEDALICO(ラメダリコ)」はどういう意味なんですか?

小野桃子(以下:小野) 名前が小野桃子(おのももこ)なので、5文字かつ、最後を“こ”にしたくて。あとはネットで検索したときに埋もれてしまわないように、造語にすることを決めました。濁音が入っていると耳に残りやすいと聞いたこともあったので、キラキラ光るラメとメダルを組み合わせて、「LAMEDALICO」としました。

LAMEDALICOはデザイン、製作、販売の全てを小野さんお一人で手掛けているそうですね。どういう経緯で始まったのでしょう?

小野 29歳のとき、金沢にある金箔屋さんでコンサルティングをしている友人に声を掛けてもらったのがきっかけです。金箔を使ったアクセサリーを作れる人を探していて、私が趣味でアクセサリーを作っているのを知っていたため、軽い感じで話を振ってもらって。当時は専業主婦で、ときどき雑誌のライターをするくらいだったので、(お店に)置いてくれるなら作ってみようかなという感じでした。今ではWebでの販売を中心に展開しています。

最初は成り行きというか、声を掛けられるままに進んでいった感じなんですね。

小野 流されるがままでした。ただ、同じ頃に友人がギャラリーを始めることになって、そこに一週間展示したことで方向性が決まったような気がします。ブランド名を付けてロゴを作って、ギャラリー展示の準備を進めていくと、どんどん形になっていくんです。その後Webでの販売を始めましたが、最初は人がお金を払って私の作ったアクセサリーを買ってくれることにびっくりしてしまって。うれしいけれど、ちょっと怖さも感じました。

怖さ?

小野 「こんなものにお金を払ったのか」と、あとで後悔させてしまったらどうしようって、すごくドキドキしました。ひとりきりで始めたブランドなので、最初は客観的な視点で見ることができなくて、商品としての基準を満たしているのか自信が持てなかったんだと思います。リピートで買ってくれるお客さまが出てきて、ようやく「気に入ってもらえたんだな」って安心できました。今は客観視できるようになって、自分の中の製品開発部が「これは商品としてアリ、これはかわいいけど修正が必要」と厳しくジャッジしています(笑)。

ブランドがスタートしてからもう12年になるんですよね。今でこそ手作りのアクセサリーを販売する人はたくさんいますが、12年前はあまり多くはなかった気がします。

小野 そうですね。私自身LAMEDALICOを始める前までは販売目的ではなく、趣味で作ったものを友人にあげていました。ただ、モノ作り自体は中学生の頃から好きで。今日履いているサンダルの石も自分で付けたんですけど、ワンピースや靴にちょっとしたパーツを付けたりっていうのは昔からやっていました。

アクセサリー作りは独学でやってこられたんですね。

小野 はい。作ってみて、失敗して、次はこうしよう……っていうのを繰り返しています。一応高校を卒業してからデザイン学校に入ったんですけど、その時はあまり勉強しなかったんですよね。服飾の専攻だったのに、未だにパターンも引けない(笑)。

小野さんの足元

取材日、小野さんが履いていたサンダル

「お洒落は我慢」なんてしなくていい

アクセサリーを作る上で心掛けていることはありますか?

小野 コーディネートの中で、薬味的な存在になれるものを作ること。主役になるわけではなくて、でも着けていると気持ちが変わるし、ラフな格好をしていても、手もとや耳もとがちょっとキラッとしているとかわいい。そういう役割を担えるアクセサリーでありたいですね。この間ミョウガを食べていて、目指すところはここだなって思いました(笑)。

なくても成立するけれど、あったらグッと味が引き立つという意味では、確かに薬味とアクセサリーには共通点がありますね(笑)。インスピレーションはどこから?

小野 「花鳥風月部」って呼んでいるんですけど、お花を見たりお香を作ったり、そういう雅な活動を友人とやっていて。2018年の春は梅や桜の開花を追いかけて、いろいろなところに行きました。その期間中はアクセサリー作りの作業は進まないけれど、一段落した後に「こういうのが作りたい」ってイメージが湧くんです。遊んでいたように見えて、自分の中に蓄積があるというか。

例えば桜や梅を見たら、どういう形でアクセサリーに反映されるんですか?

小野 お花が綺麗だからお花の形の何かを作ったとしても、本物には絶対に勝てない。だからお花を入れるカゴの形のペンダントトップを作ってみたり、お花をイメージした色使いをしたりといった感じですね。例えば金糸ブレスレットに桃の形の石を使ったり、アヤメの色合いをイメージして青と緑の石を組み合わせたり。

言われてみれば……!

小野 他にも、金色の星が連なるチェーンと青のシルク、緑のタッセルで作ったネックレスは、尾形光琳の「燕子花図屏風」という絵の色が元になっています。金の屏風に青い燕子花(カキツバタ)と葉っぱが描かれていて、すごく好きなんです。

アクセサリー

和風ではないけれど、確かに同じエッセンスを感じますね。アクセサリーでお洒落を楽しんでもらうために、作る上で意識していることはありますか?

小野 「身に着けていて心地よくいられるものを作ろう」っていうのは意識しますね。例えば重いアクセサリーはあまり長く着けていられないから、できるだけ軽くするようにしています。あとは金属が直接肌に当たるのが嫌で。ネックレスの首に当たる部分をシルクにしたり、ピアスの裏側の耳に直接触れる金属部分に革を貼ったりと、なるべく肌に優しくできればと思っています。金属アレルギーの方もいますし、私自身、特に夏場は金属を直接肌に着けたくないので。

「おしゃれは我慢」って言いますけど、我慢しなくていいように作っているんですね。アクセサリーになじみがない人もチャレンジしやすそうです。

小野 普段アクセサリーを着けない方には金糸ブレスレットをオススメしたいです。細身のブレスレットはシチュエーションを選びません。それに、着物の帯などの刺繍に使う細い金の糸に天然石を通し、かぎ針で編んで作っています。手首にふわりと寄りそう感じがとても軽やかなので、負担なく着けてもらえると思います。

ネックレスやピアスと違って自分で見える位置にあるので、ちょっとした時にブレスレットを見て心が休まったり、「キラッとしてうれしいな」って気分になったりしてくれたらいいですね。

金糸ブレスレット

LAMEDALICOの定番アイテム・金糸ブレスレット

キラッとしたものに「ときめく気持ち」を共有したい

LAMEDALICOはどういう気持ちを込めて作っているんですか?

小野 キラッとしたものに、キュンとときめく気持ちを共有したいと思っています。「今日は疲れたな」「今週は冴えなかったな」っていう時に見て、うれしくなってくれたらいいなって。アクセサリーには天然石を使っているんですけど、私はあまり石の意味をスピリチュアルに考えることはしなくて。石は石で、意味がなくてもすごく綺麗。メッセージを込めずに、ただ綺麗なものとして私は見たいし、買ってくれる人にも、ただ綺麗であることを楽しんでもらえたらと思っています。

アクセサリーを着けてほしいっていう気持ちはあるけれど、それよりもキュンとしてほしいという想いが先にあるんですね。

小野 もちろんいっぱい使ってほしいし、「糸が切れそうなので直してください」って送られてきた*1アクセサリーが使い込まれているのを見ると本当にうれしい。でも、あまり使わないけれど、たまに出して「綺麗だな」って見てくれて、キュンとしてくれるのも同じくらいうれしいですね。私自身、結構前に作ったアクセサリーを久しぶりに着けて、「あぁ、これやっぱりかわいいな」って思うこともあるんですよ。アクセサリーを買ってくれた人もそういうふうに感じてくれたらいいなと思います。

小野さん

金糸ブレスレットをはじめ、LAMEDALICOのアクセサリーは全て小野さんの手作り。定番アイテムもあるものの、基本は一点物ですよね。作りは繊細ですし、細かいディテールにまでこだわっているのが分かります。こだわり過ぎて、作っていてつらくなってしまうことはないのでしょうか?

小野 手間を掛けること自体は苦にならないですね。もともと繊細なアクセサリーが好きだし、むしろ「もっとこうしたい」というイメージのクオリティーまで到達しない時が一番苦しい。繊細さを残しつつも、強度をどう保つのか。中途半端な仕上がりになることの方がよほどつらくて、両者のバランスにはいつも悩まされています。あとはもっと面白いものが作りたいのに、どんなものが作りたいのかが見えない時期はちょっとしんどいですね。同じものを繰り返し作るだけになってしまうと、楽しくなくなってしまうんですよ。スランプというか。

そういう時はどうするんですか?

小野 頑張って作ろうとしないで、気持ちが戻ってくるまで待ちます。無理をしても楽しくないし、手も動かない。その代わり、勢いが付いているときは手を止めずに、ちょっと無理をしてでもやります。

うまくいかない時は思いきって休んだ方がいいと思う一方で、逃げているのでは? と後ろめたい気持ちにもなる。そんな葛藤を抱いてしまいそうな……。

小野 すごく分かります。でも、モヤモヤを受け入れるしかないのかなって思うんです。そういうときに材料を出してみても、結局何もせずに片付けて、余計に悶々としてしまうんですよ。雑誌やネットでアクセサリーを見ても、「なんで私はこういうかっこいいものが作れないんだろう」「こういうアクセサリーの方がいいのかな」って気持ちがぶれてしまう。だからモヤモヤしてダメな時は、「今はそういう時期だな」って諦めます(笑)

無理せずに休んでいるうちに、調子が戻ってくる?

小野 そんな気がします。私、2月末の誕生日の直前に毎年落ち込むというか、低調になる傾向があって。その時期はジタバタしないようにしているのですが、特に今年は"花鳥風月活動"に没頭したのがよかったんですよ。梅が咲き始めて春の兆候が見えてくる、その芽吹きの波に乗って、徐々にテンションが上がって調子が戻っていきました。

もしLAMEDALICOをやっていなくても「作る」人生だったと思う

今ではネットで手作りのアクセサリーを販売している人はたくさんいますが、そういう中でどうして12年も続けられているのだと思いますか?

小野 なぜでしょうね……。「辞めないから」としか言いようがないかな。まだ全然やり切ってなくて、もっともっとできることがあるんじゃないかって思っているんです。新しいアクセサリーを作り終えて、それが一番新しいもので気に入っているんだけれども、だからといって気が済むわけではない。別の材料を見たり何かイメージが湧いたりすると、また新たな何かを作りたくなるんです。だから辞めたいと思わなくて、辞めないから、これまで続いているんじゃないですかね。

今後作ってみたいと考えているものはありますか?

小野 シルバーやゴールドなど、金属を使ったジュエリーの製作をもっと掘り下げてみたいと思っています。金糸のブレスレットのように素材を見て選びながら頭の中でデザインが固まっていくようなこれまでのアクセサリー製作とは違い、金属はどのようにでもできる素材で、その分立体的なデザイン力が必要。それがまだまだ自分には足りていないと思うし、難しさを感じています。難しいと感じるから、まだまだ続けたいという気持ちが湧くんだと思います。

根本にあるのはアクセサリーを作るのが好きっていう気持ちなんですね。

小野 はい。アクセサリー作りを嫌だと思ったことがなくて、そういう意味では私は果たして仕事をしているんだろうか? っていう気持ちになることはあります(笑)。もちろん楽しいところに行くまでにやらなきゃいけない面倒な下準備はあるんですけど、それにしても好きなことしかしていない感覚がありますね。

アクセサリー

もしコンサルタントの友人に「アクセサリーを作らない?」と声を掛けられていなかったとしたら、どんな人生だったと思いますか?

小野 もしLAMEDALICOをやっていなかったとしても、料理やお菓子作りなど、何かしら作ることをやっていたと思います。それ以外の仕事はあまりできないんですよ(笑)。

"作る"が核にあるんですね。

小野 そうだと思います。お花一つとっても、見るのが好きな人もいれば、その花について調べるのが好きな人、育てるのが好きな人など、さまざま。私は、花が咲いた後の実を加工したいんです。家に梅の木があるんですけど、梅の実をどう食べたらおいしいかを調べて、作って、食べるところまでをやるのが楽しいんです。何かしら手を動かしたくなるタイプみたいなので、今後もアクセサリー作りは続けていきたいですし、何かを作るということをずっとやっていくんだと思います。

取材・執筆/天野夏海
撮影/関口佳代

お話を伺った方:小野桃子 さん

profile

「LAMEDALICO(ラメダリコ)」デザイナー。デザインから製作、販売までを全て一人で行なっている。LAMEDALICOはブランドのWebショップで購入可能。不定期で展示会も開催している。
Web:LAMEDALICO/Twitter:@lamedalico
Instagram:@lamedalico

次回の更新は、2018年9月5日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:LAMEDALICOでは金色銀糸、本金糸のアクセサリーの修理を受け付けている

「好き」を仕事にするには覚悟が必要ーー街を愛する文筆家・甲斐みのりさん

甲斐さん

今回「りっすん」に登場いただくのは、文筆家の甲斐みのりさん。情報誌などでのライターを経て、文筆家に転身。街歩きや旅、クラシックホテル、お土産、パンやお菓子と執筆ジャンルは多岐にわたります。

甲斐さんの執筆の根底にあるのは、街への愛。街を歩き、旅をして、その街を形作る建物や人、お店などへの愛をつづります。本を書く上で心掛けていることや、好きなことを仕事にすることについて、語っていただきました。

肩書きが「ライター」だと書きたいことを書けなかった

甲斐さんは、街歩きや建築、お菓子、手土産など、さまざまなジャンルの本を執筆されていますが、どのようにして今の文筆家という形で働き始めたのでしょうか?

甲斐みのり(以下、甲斐) 最初はライターとして情報誌でお店などの取材をして書いていました。

今のお仕事である「文筆家」と違うのはどういった点ですか?

甲斐 あくまでも“私の場合は”という前提でのお話ですが、ライター時代は自分の書きたいことが書けず、それでかなり苦しい思いをしました。お店の取材をして、私が素敵だと思ったことについて書いても、お店がPRしたい部分と違っていたのか、原稿を公式サイトなどに載っているのと同じ文章に手直しされてしまうことがあるんです。

せっかくの取材がもったいない……。

甲斐 お店選びに自分の意見が反映されていた訳ではなかったので、取材先と自分自身の相性というのもあったのだなと今は思います。本や雑誌作りの流れを知ることができて勉強にはなったのですが、本当に伝えたいことが伝えられない、というジレンマがありました。だから、自分の名前や責任で、自分の好きなものを紹介する本を作りたい、とずっと思っていたんです。

書籍イメージ

自分の好きなものについて書く作家になる、というのは、ライターにとって憧れであり、ひとつのゴールでもあると思うのですが、何かそのルートに乗るきっかけはあったのでしょうか?

甲斐 ひとつの転機となったのは、東京に出てきたことです。最初は、大阪の芸大を卒業後、東京に出たいと思いながらもやっていける自信もなくて、京都で編集やイラストのスクールに通っていました。ほかにも、フリーペーパーの制作に参加したり、イベントに足を運んだり。そのつながりで、出版関係の仕事をするようになりました。

京都を選んだ理由は何かありますか?

甲斐 もともと京都への憧れがあって、住んでみたかったんです。昼は出版関係、夜は祇園の料亭で働く生活をしていたある日、東京の編集者さんと知り合って、「本を出したいなら東京に出てきなよ」と背中を押されて。当時はインターネットもまだ電話回線でキュルキュルキュル……ってつないでいたような時代ですから、何かをするにはまず東京、でした。そうして、その1ヶ月後には東京に出ていましたね。

行動力がすごいですね! それはおいくつくらいの頃ですか?

甲斐 25歳くらいだったと思います。最初の本『京都おでかけ帖~12ヶ月の憧れ案内』(祥伝社)を出したのが29歳で、それまではしばらくライターをやっていました。あるとき、ずっと「本を出したい」と言い続けていたのが功を奏して、一気にお声掛けいただけた時期があって。『京都おでかけ帖』のほかにも別の京都本と、お菓子の本を同時進行で抱えることになったんです。

そんな偶然ってあるんですね。

甲斐 それで、3冊出したタイミングで、肩書きを「ライター」から「文筆家」に変えたんです。でも、そうすると、いわゆるライター仕事が減ってしまい、生活面は一時的に苦しくなりました。

それはライター業界でよく耳にします。ライターから「作家」へ転向したときの"あるある"ですよね。ライター仕事はもうやらないと思われて発注が減るという。

甲斐 でも、肩書きを変えた結果いいこともあって、「文筆家」と名乗り始めると、それまでのように文章を直されなくなったんです。「自分」を主語にした「私はこう思う」という文章をやっと書けるようになりました。

住んでいる人ほど、自分の街のいいところに気付きにくい

甲斐さんの著作は、旅、お菓子、クラシックホテルなど、ジャンルが多岐にわたっていますが、どのようにしてテーマを選んでいるのでしょうか?

甲斐 どれも私が「好き」と思っているものを本にしています。一見ジャンルがバラバラに見えますが、全てに通じる大きなテーマは「街が好き」なんです。最初に出した『京都おでかけ帖』はその原点になっていて、京都の街の中にある、お菓子や建築、老舗のお店やお土産、宿泊、食、あらゆる自分の好きなものを詰め込んで作りました。以降に出している本も、例えばお菓子の本なら、「街が好き」で、その中で「お菓子」だけにスポットを当ててみる、とか、そういうことなんです。

なるほど。「街」をいろいろな側面で切り取って本を作っているんですね。

甲斐 地方取材をすると特に感じるのですが、住んでいる人ほど自分たちのいいところに気付きにくいんですよね。皆さん、「自分の街は田舎で何もない」とおっしゃっていて。取材をしながらその街の素敵なところを地元の方に伝えて、本や雑誌でいいところを取り上げることで、だんだん自分の街に自信を持ってくれます。その様子を見るのが、この仕事をやっていて楽しいことのひとつです。

甲斐さんはいつ頃から「街」に興味を持ち始めたのでしょうか?

甲斐 小さい頃からずっと好きでした。幼少期から20代前半くらいまでの間にずっと追いかけていたことが今、本になっているんです。小学生の頃、親の指示で家族旅行の旅行記を自由研究としてつけていました。どんなものを食べて、何を買って、どういう場所へ行ったのかを、細かくノートやスクラップブックに記録するんです。当時は面倒だなあと思っていたんですけど、それが結果的に習慣になって、今の仕事の資料としても役立っています。

インターネットがなかった頃の資料って、個人の記録頼みなところがあって、貴重ですよね。

甲斐 特に私の場合、昭和時代の昔ながらのパンとか、お菓子の包み紙とか、そういうジャンルが好きなので、ほかの人の研究というのがほぼなくて。ずっと集めている包装紙なんかは、場所も取るし、何度も捨てようかと思ったのですが、後世のためにという使命感もだんだん生まれてきて捨てられないんです(笑)。

ジャンルがニッチゆえに、先行研究がないんですね。

甲斐 お店にすら、「そんな古いの残ってない」と言われることも少なくないですし、閉店したお菓子屋さんもたくさんあります。当然、ほかの人が書いた本もないので、調べるには自分の足で巡るしかない。民俗学の研究をしているような感じです。

お店取材にしても、地方のお店だとネットに何も情報が載っていなくてたどり着くのにも苦労しそうです。

甲斐 そうなんです。『朝・昼・夕・夜 田辺めぐり』という、和歌山の田辺市を紹介する無料配布の観光案内冊子も作っているのですが、ネット検索してもお店の情報は出てこず、グルメサイトなどにも全然載っていなくて。自治体の皆さんと一緒に店を巡り、ネットで検索すらできない基本的なデータをまとめ、紹介してもいいかをその場でお願いしてまわりました。

無料の観光案内冊子

原稿を書くときは加点法。本を作る上で心掛けていること

本や雑誌でお店をとりあげるとき、何を意識して選んでいらっしゃいますか?

甲斐 評論家の植草甚一さんや作家の池波正太郎さんの街歩きの本が好きで、昔それを読みながら京都の街を歩いていたんですが、何十年も前に書かれた本なのに、まだ本に出てくるお店があることに驚きました。植草さんや池波さんが紹介するお店は息が長くて、結果的には老舗と呼ばれるようになっていたんですね。私もそういう、この街でこの先もずっと続いていくような、安心感のあるお店を紹介したいと思っています。

地元の人に愛されているようなお店とか?

甲斐 はい。書籍では特に、「その街に根付くお店」というのを意識しています。雑誌やWebでは、その季節に合ったものや、届ける読者層が決まっていることも多いので、それに合わせてお店選びをしています。

では、いざ書く段階になった際に心掛けていることはありますか?

甲斐 全て加点法で見るようにしているんです。お店だけでなく、お菓子やパンにしても、味のことを細かく言い出したら、意見や好みが分かれるようなものも正直あります。例えば私が紹介するのは、昭和時代から売られているレトロなパンとかなので、天然酵母を使ったこだわりのパンとかと比べると、味の面ではどうしても甘さが強過ぎたり、高カロリーだったり……となってしまう。ただ、紹介すべき素敵なところはほかにもたくさんあって、味のことだけではなくて、それ以外のいいところもたくさん見つけて書いています。それに私、そもそもパンやお菓子という「存在」そのものが好き過ぎて、「味だけが全てではない!」と思ってしまうんですよね(笑)。

愛がすごい! 甲斐さんに紹介してもらったお店や商品は幸せですね。

甲斐 あるお菓子を食べに行ったときに、あまりに個性的な味で、その場にいた取材チームがみんな微妙な表情をしたんですが、私はその味を微笑ましく思えて笑みがこぼれた、なんてこともあったんですよ。それでもそのお菓子はちゃんと長く売れていて、街の人に愛されていて、売っているお店のおじさんがいて、常連さんがいて。お店のおじさんに取材をして、嬉しそうに話してくれたら、それだけで楽しくなります。

ははあ、なるほど。

甲斐 お菓子を紹介しているのに、包装紙やお店のおじさんについてばかり書いていることもあるので、たまに「味について全然書かれていない」などと言われます(笑)。でも私、そういうのを全てひっくるめて好きなんですよね。原稿を書くときは、そのどこを切り取るか、というだけの話で。

お菓子やパンそのものというより、周囲にあるものも含めたストーリーがお好きで、そういうのを紹介したいと思っていらっしゃる、ということでしょうか?

甲斐 まさにそうです。それに、何かを批判したところで、それがそのお店や商品の欠点かと言われると、そうとも言い切れません。例えば、京都にかなりお年を召されたおばあちゃんがやっていた喫茶店があって、その店ではコーヒー1杯に30分以上待つのが当たり前なんです。常連さんは、「今日は60分待った」「自分は70分だった」と自慢げに話していて、「待つ」というのが面白い要素になっているんですよ。

へえー! 待ち時間がアトラクションのようになってるんですね。

甲斐 そのことを知らずにひょいっと店に入ったら、一時間待ってもコーヒーが出てこないのはたしかに欠点になるかもしれません。ですが、常連さんたちにとってはそれこそが間違いなく愛されるポイントになっています。だから、どんな欠点も捉え方次第なんですよね。欠点を長所として加点法で捉えられた方が生きている上でラクだし楽しいよって私は思います。

好きなものを好き、と言うのが不安だった

ここまでお話を伺っていて、好きなものに対する愛がとにかく広く深いことに驚きました。

甲斐 でも実は私、はっきりと自分の好きなものを主張できるようになったのって、30代になってからのことなんです。高校生くらいまでは、好きなものを人前で堂々と好きと言えないことも多くて……。これを好きと言ってしまったら、周りになじめなかったり、時代遅れと思われたりするかな、と思うこともありました。最近までうっすらその感覚はあって、2年前に出した『地元パン手帖』(グラフィック社)も出すまでは不安で不安で……。

地元パン手帖

そうなんですか!? この本、めちゃくちゃ素敵ですよ! 昔ながらのパンをこうして並べてみると、すごくかわいいんですね。

甲斐 これを出したとき、ブームになっていたのは天然酵母やこだわりの製法のパンばかりだったんですよ。だから、時代に逆行したパンの本を出したら批判されることもあるのかな……って心配もありました。こういう昭和レトロなパンを好きで買い続けてたら、以前、友達に不思議な目で見られたこともあったんですよね。「みのりは今どきのパンは買わないから」とか「それ、味はおいしいの? カロリー高くない?」などと言われたことも(笑)。

自分が好きなものに対して、センスがおかしい、みたいな目で見られるとつらいですよね。

甲斐 「味だけでは語れない日本の歴史が、物語が、地元パンには詰まっているんだ!」とパンへの愛情を注ぎ、本を出すからにはいいところが伝わるように書く自信はありました。でも、そう言いながらも心の中では「批判されることもあるかもしれないな……」と不安で仕方なかったです。実際は、蓋をあけてみたらとても好評で。この本を出したくらいからやっと、自分の好きなものについて堂々としていなければ、そのものに対しても失礼だと思うようになりました。

好きなことを仕事にする上で必要なこと

最後に、正直な話、いくら好きでも本を作っているうちに嫌になることってありますか? 甲斐さんの本って、資料がなかったり、地方の小さなお店だと向こうが取材慣れしていなかったり、一冊作るのがめちゃくちゃ大変なのではないかと思いまして……。

甲斐 本当に大変ですね。何冊作っても慣れることはないし、緊張感も伴います。100円のパンを食べてみたくて、交通費3万円かけて山奥まで行くこともありますし、取材依頼をするのも苦労が絶えません。「取材などと言いながらお金を取るんだろ」と電話口で怒鳴られたり、電話を切られてしまったりなんてことも、未だにあります。どうしても載せたいお店があっても、許可をいただけないことも。本が出てから「あの店が載っていない」という読者からの感想をいただくときは、そのほとんどが掲載の叶わなかったお店なんです。

あるあるすぎる……。

甲斐 よく誤解されがちなのは、好きなことを仕事にしているけど、イコール、ラクなわけではないんですよね。おいしいものやかわいいものを取り上げているからか、端から見るとラクで楽しく見えてしまうみたいで。でも、嫌になるということもないですね。

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好きなことを仕事にすると嫌いになるからやめた方がいい、という人もいますよね。

甲斐 たぶん、好きなことを仕事にするには、「覚悟」が必要ということなんだと思います。

覚悟。覚悟がないまま好きなことを仕事にすると、嫌いになってしまうかもしれない、ということでしょうか?

甲斐 人それぞれではありますが、仕事にするほど好きなことは簡単に嫌いになれないからこそ大変なんじゃないかな。好きなものを詰め込んだ本が出来上がると幸せですが、幸せだと思う瞬間の何十倍も、つらいことだってあります。苦しいことをたくさん背負って、その100分の1くらいが一冊の本として世に出ているわけです。だから、好きなことを仕事にしたいならば、「楽しい」以外の部分を見て、想像して、覚悟をしておく必要がある、と私は思います。

経験していないとなかなか実感がわかないかもしれませんが、そうですね。

甲斐 私自身、本を書くことについて、覚悟してます、努力してますって、もう恥ずかしげもなく言っているんですけれど(笑)。それが、好きなことを仕事にする、ということなんだと思うんです。

取材・文/朝井麻由美
撮影/小野奈那子

お話を伺った方:甲斐みのり さん

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文筆家。静岡出身。大阪、京都と移り住み、現在は東京にて活動。旅、散歩、お菓子、手みやげ、クラシックホテルや建築、雑貨や暮らしなど、女性が好み憧れるモノやコトを主な題材に、書籍や雑誌に執筆。著書は『地元パン手帖』『お菓子の包み紙』(ともにグラフィック社)、『歩いて、食べる 東京のおいしい名建築さんぽ』(エクスナレッジ)など40冊以上。
Web:Loule/Twitter:@minori_loule

次回の更新は、2018年8月29日(水)の予定です。

編集/はてな編集部