他人にも自分にも現実感が持てないその感覚、マンガを引用して説明します

2016.12.21

他人にも自分にも現実感が持てないその感覚、マンガを引用して説明します

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    みなさん、こんにちは。

    突然ですが、みなさんは世界にリアリティを感じてますか?

    私はあんまり感じてません。小さい頃からそうでした。見えている世界からニセモノっぽさが抜けませんでした。

    二十歳くらいの時に「それ、離人症じゃない?」と言われて、そういう言葉があることを知りました。それからは自分のこの状態を「離人症」と呼んでます。

    最初に辞書の定義を引用しておきますね。

     

    離人症(りじんしょう)

    自分自身や自分の行動、また外界などに対し、実感が伴わない状態。神経症・鬱病・統合失調症、極度の疲労時などにみられる。

    (出典:スーパー大辞林)

     

    これは、分かる人には分かるんですが、分からない人にはさっぱり分からない感覚のようなんで、この記事で説明してみたいんですね。いわば離人症のプレゼンテーション。

    そんなもんプレゼンしてどうするんだって気もしますが、これは私が小さいころから一番気になっていたことで、同時にいちばん人に伝わらなかったことでもあるんで、チャレンジしてみたかったのです。

     

    説明のために、マンガのシーンを三つ紹介します。フィクションの世界で離人症が大きく扱われることは少ないんですが、それでも商業レベルで流通しているマンガにそれらしき描写が見つかることがあるのです。読んでいて「この感覚だ!」と思った場面を引用します。

    具体的には、以下の三つの作品です。

    ・尾玉なみえ『脳酸球』

    ・いがらしみきお『I』

    ・井上雄彦『バガボンド』

    ちなみに今回の話は、前回の「人は2000連休を与えられると、どうなるか?」における第五部以降の話とリンクしています。ご参考までに。

     

    www.e-aidem.com

     

    尾玉なみえ『脳酸球』

    尾玉なみえの『脳酸球』は短編集です。そのなかにオマケとして1ページのエッセイ漫画が収録されています。そこで作者の幼少期のエピソードが紹介されています。

    状況はこうです。まだ小さい作者が一人でトイレに座っている。作者はトイレットペーパーの説明書きを読もうとするんですが、まだ漢字が読めないので、平仮名の部分だけを意味も分からずに読んでいる。

    「まりますからこれらのものさないでさい……」

    すると、徐々に「へんな気分」になってくる。

    そして以下の描写に続きます。

     

    f:id:premier_amour:20161218232909p:plain

    するとこんな感じになってきて…

    f:id:premier_amour:20161218233005p:plain

    2つの穴から外を見てる様な感覚になって…

    f:id:premier_amour:20161218233014p:plain

    ここにいることを不思議がらない自分を、しきりに不思議がって…

    (出典:尾玉なみえ『脳酸球』141ページの4〜6コマ目)

     

    「ここにいることを不思議がらない自分をしきりに不思議がる」という、この表現はまさにビンゴ。離人症における問いは「何故これまで、このことが気にならなかったのか?」という形で起こるのです。キッカケは「当り前が当り前でなくなる」ことなんです。

     

    このマンガ自体は8コマの短いものなので、この後は「おしりふいてトイレから出たら元に戻ってた」と終わるわけですが、これはまさに「離人症的な状態」の入口に立った瞬間を描写したものだと私は考えます。

    キッカケとなったのが「無意味な文字列を読むこと」だったのも重要です。文字をジーッと眺めていると、そこから「意味」が消えてしまう現象がありますが(「ゲシュタルト崩壊」というやつですね)、あれと同じことですね。言葉の世界から脱落したとき、人は離人症の入口に立つのです。

     

    いがらしみきお『I』

    いがらしみきおの「I(アイ)」は、全三巻のストーリー漫画です。

    この作品自体が離人症的なテーマを扱っているのですが、とくに第一話の冒頭で、露骨にこの感覚が描かれてます。

    主人公は医者の息子です。家庭は幸福そのものです。そこには「何不自由ない暮らし」があるのです。小学生の主人公はそんな日々を送りながら、夜になるたびに布団の中で自問自答しているのです。

     

    毎晩心臓のことばかり気にして、一睡もできないこともあった。自分は動かしているつもりはないのにいったい誰が心臓を動かしているのかふしぎでしょうがなかった。

    (『I』1巻15ページ)

     

    これは「肉体があることの違和感」とでも呼ぶべきものです。

    以前、この連載で書いたんですが、私は小学生の頃、脈拍や心拍数をはかるという行為が気持ち悪くて仕方なく、学校で「はかりましょう」と言われるたびにごまかしていました。それは、「自分の体」とされているものが、「自分の意志」と何の関係もなく勝手に動いていることへの違和感なのです。

     

    いがらしみきおの話に戻ります。第一話にはこんな感覚も描かれています。

    夜、主人公は家族といっしょに楽しくテレビを見ている。父親も母親も祖母も笑っている。まさに「一家団欒」を絵に描いたような幸せな光景です。

    その状況で、主人公は思うのです。

     

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    この人たちは誰なのだろう。

    (出典:いがらしみきお『I』第1巻16ページ)

     

    家族という「最初の人間関係」がうまく飲み込めていないのです。

    再度強調したいのは、作中の家族が「典型的な幸せな家族」だということです。これが「問題のある家庭」だったならば、「この人たちは誰なんだろう?」という問いは、「こんなにも僕にひどいことをする人たちは誰なんだろう?」という問いにスライドしていくのです。それは「本当の親は別にいるんじゃないか」という思考にもつながるかもしれません。

    「強烈な不幸」もまた現実感を喪失させるのですが、「完全な幸福」のほうが離人症を生み出しやすいと私は考えます。この主人公は申し分のない幸福の中で、ただただ「この人たちは誰なんだろう?」と疑問に思っているのです。

     

    いがらしみきおには、『みんなサイボー』(『ガンジョリ—いがらしみきおモダンホラー傑作選』収録)という短編もあります。ここでは反対に、「問題のある家庭」が描かれています。「強烈な苦しみ」の中で、主人公は「みんな細胞にすぎないのに」という考えに取り憑かれていくのです。この作品に関しては、また別の機会に取り上げてみたいと思います。

     

    井上雄彦『バガボンド』

    興味深いのは、尾玉なみえにしろ、いがらしみきおにしろ、マンガに離人症めいた描写が登場するときは「幼少期の回想」という形になることです。次は井上雄彦の『バガボンド』から引用しますが、これもやはり「幼少期の回想」です。

     

    コミックス32巻、武蔵が少年期を回想するシーン。武蔵はひとりで山におり、夜空の星を見ています。そのうち、「身体から魂が抜けていくような感覚」がおとずれます。武蔵は、自分の身体を別の自分が上空から観察しているかのような状態に入りこむのです。そして、武蔵は問いかけます。

     

    あれ……? 何で……この姿…… 何でこのかたち……?

     

    やはり、問題は「人間という身体の枠」なのです。武蔵は「自分の身体の形」の根拠のなさに直面しているのです。

    武蔵はこの時の感覚を、友人である又八に次のように説明します。

     

    俺が俺じゃなくなったような 俺が体から離れて俺を見てるような感じになった ボワワ〜と

    一回じゃない 時々あるんだ

    そこにいる俺は まるで初めて見る他人みたいに立ってる 何か借り物のような奇妙な——

     

    尾玉なみえの漫画では、「体から意識が分離するような感覚」が描かれていました。いがらしみきおの漫画では、心臓が動いていることへの違和感が描かれていました。そしてここでも、肉体と外界の「境界線」の根拠のなさが描かれているのです。

     

    ところで、『バガボンド』で描かれる武蔵の幼少期は悲惨なものです。宮本村という山奥の小さな村で、武蔵は「鬼の子」として周囲の人間から憎まれ、疎まれているのです。それは「濃密な意味の世界」と言ってもいいものです。

    他人から憎しみを向けられ、自分もまた人々を憎む。武蔵は自分に暴力を振るう父親を憎み、自分を厄介者として扱う村人たちを憎みます。そんな日常を生きる武蔵にとって、フッと意味が消える瞬間は「救い」となるのです。

    だからこそ、離人症の感覚を体験した武蔵は思うのです。

     

    ほんとは誰も恨まなくていい——

     

    そこには「誰かを憎んでいる自分」も「憎しみを向ける相手」もいないからです。濃密な意味の世界から、フッと離人症の世界に入ったとき、それが「救い」のように感じられることもあるのです。

    この意味で、尾玉なみえ・いがらしみきおの事例と、井上雄彦の事例は微妙に異なっています。前者の場合、そもそも「意味の世界」にしっかりと参入できていない。しかし井上雄彦の場合、「意味の世界」にがんじがらめになった少年が、「救い」として離人症の世界に入っているのです。

     

    ナンセンス系ギャグと離人症

    尾玉なみえといがらしみきおは、どちらもナンセンス系のギャグ漫画家です(もっとも、現在のいがらしみきおをギャグ漫画家とは断言しにくいのですが)。そして井上雄彦はもちろんストーリー漫画家です。

     

    これは私の仮説ですが、ナンセンス系のギャグ漫画家は、「人間関係の世界」にしっかりと参入できていないのです。だからこそ、人間たちの言動、社会のルール、当り前のように使われている言葉、そのひとつひとつが「冗談」のように見えるのです。

    それでも作家が無理やり社会と関係を結ぼうとするとき、「ナンセンスギャグ」が生まれるのです。これは、離人症の問いに直面することを避けるための、一種の防衛反応と呼んでもいいものなのです。

     

    一方、ストーリーマンガ家は、「人間たちの濃密な意味の世界」をストレートに描きます。井上雄彦の場合、『スラムダンク』や『リアル』はまさに「人間ドラマ」であり、そこに離人症の問いはありません。

    そして『バガボンド』もドラマではあるのですが、徹底的にテーマを深めていった結果、人間ドラマの世界から脱落しそうになっているのです。この漫画には「自分の肉体の状態をしつこく観察する」という描写があるのですが、それが離人症的な感覚の発見につながったのではないかと思われます。

    以上です。

     

    離人症の感覚を描いていると感じたマンガを三つ紹介してみました。

    とりあえず、今回はこのへんで終わりにします。

     

    尾玉なみえ短編集 脳酸球 (シリウスコミックス)

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    I【アイ】 第1集 (IKKI COMIX)

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    この記事を書いた人

    上田 啓太
    上田 啓太

    京都在住のライター。1984年生まれ。居候生活をつづったブログ『真顔日記』も人気。

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