
東京・青山にあるライブハウス「月見ル君想フ」、そしてそのオーナーである寺尾ブッタさんは、台湾インディーズ音楽と日本の「架け橋」と呼べる存在だ。
たとえば世界最大級の音楽フェス「コーチェラ」に2024年、台湾のインディーズバンドとして初めて出演した落日飛車(サンセットローラーコースター)。彼らはそのはるか前の2016年に「月見ル」でライブを行い、今日の国際的な活躍の礎を築いている。
架け橋というからには一方通行では嘘になる。「月見ル」は台湾北部の都市・台北にも2014年に出店していて、この10年、日本の音楽を現地に紹介する役割も果たしている。今回はその台北店で、ブッタさんにお話を聞かせてもらった。
台湾の音楽には日本の音楽にはない特徴や魅力があるはずだ。そこには現地の風土や国民性などが反映されているかもしれない。音楽を入り口に台湾の“らしさ”を表現できたらというのが、取材前に意図していたことだった。
結論から言ってその期待は裏切られた。もちろんいい意味で。注目すべきは日本と台湾がいかに違うかではなく、むしろいかに違わないか。そのことが生む感動が、今日までのブッタさんを突き動かしていた。
「パラレルワールド」を見つけてしまった
月見ル君想フ台湾支店。一階のレストランではスパイスカレーとドリンクを提供し、地下のイベントスペースではライブや映画上映を行う
━━今でこそ落日飛車(サンセットローラーコースター)など世界的に活躍するバンドが台湾からも出てきていますが、「月見ル」を台北に出店した10年前はまだそういう状況ではなかったのでは?
そうですね。今でも国際的な知名度のあるバンドは数えるほどしかいないと思いますけど、10年前はそれどころか、日本で知られてるバンドすらほとんどいなかった。透明雑誌っていう先駆的なバンドがようやく紹介されたくらいのタイミングだったんじゃないかな。
━━そんな中、どうして台湾の音楽に注目することができたんでしょう。
当時は「月見ル」のスタッフとして制作の仕事をしつつ、自分のバンドもやっていて。「面白いことをやるにはどうしたらいいかなあ」とか、漠然と考えていた時期でした。
東京のインディーズシーンでは、一部で海外に目を向け始めるバンドも出てきていて、知り合いが台湾でライブやフェスに出演したとかいう情報も耳にするようになって。ちょうど透明雑誌の動きも目に入っていたし、自分たちも台湾に行って、ライブをするようになったんです。
━━最初はプレーヤーとして。
そうです。経験したことを「月見ル」にフィードバックできればとは思ってましたけど。で、実際に通っているうちに台湾のバンドの面白さを知り、つながりも増えていったことで、じゃあ東京に呼んでみようかという話になっていった感じです。
━━ブッタさんが感じていた「台湾のバンドの面白さ」って、どんなことだったんですか?
台湾という異国で、日本のそれとよく似たインディーズのエコシステムが存在していた。もうそれだけで嬉しくなってしまって。自分たちと同じようにライブハウスを生業にしている人がいたり、たくさんの若い人がギターを背負って歩いていたり。「たぶん大学のサークルでバンドを組んだりするんだろうな」みたいなことが肌で感じられて、すごく共感できたんです。
━━それはつまり、懐かしい感覚?
というよりは、「パラレルワールド」を見つけてしまった感じ。別の世界の人たちとのあいだに、好きな音楽とか好きなミュージシャンとか、たくさんの共通したストーリーを見つけることができて。日本のバンドの影響も受けているといった話を聞くと、誇らしい気持ちにもなるじゃないですか。過去の自分が肯定されているようでもあって、とにかく最高の気分でしたね。
だから自分の感じた面白さというのは、日本と比べてどうこうという話ではなく、ただ単に知らなかった外の世界を知って、視界がひらけた感覚。その後、台湾のバンドを日本に紹介していくことになるわけですけど、そうやって自分が感じた驚きや面白さ、感動をそのまま伝えればいいわけだから。変な話ですけど、簡単な仕事だなって思いました。
外からジャブを打つだけじゃダメだろう
台北月見ルが位置する永康街。周辺には大学とライブハウスが点在する
━━少し遡って、プレーヤーだったブッタさんが、そもそもなぜ「月見ル」のスタッフになったのかも伺いたいです。
もともとイベントを企画するのが好きで、いろいろやっていたんです。自分も出演者として絡みつつ、「このバンドとこのバンドを一緒に呼んだら面白そうだぞ」とか。そうしたらそれを見てくれていたライブハウスの方から「仕事してみないか」と声がかかって。「これは本当に天職だな」と思って、この世界に突っ込んでいきました。
━━ブッタさんが入った頃の「月見ル」は特段アジアンミュージックに強かったわけでは……
ああ、それはまったく。ただ、前オーナーは「旅のロマン」的なものをテーマにライブハウスを作られた方で、沖縄とのコネクションはありました。旅といえば沖縄じゃないですか。
━━今に近い風土はあったといえばあった。
はい。昔からライブハウスには横の連携のようなものがあって、地方のバンドがツアーに出るときには、そういう伝手を頼ることが多かったんです。
「月見ル」もなるべく受け入れていくというスタンスで、中には海外から出演希望のメールが送られてくることもあって。そのほとんどは欧米のバンドでしたけど、2011年の東日本大震災以降は、台湾のバンドからメールが来るケースも出てきていたと思います。
━━復興支援で日本と台湾の距離が近づいたことも関係しているんですかね。
だと思います。いわゆるメディアやマスコミも台湾をもっと取り上げようという空気になっていたし。透明雑誌がフィーチャーされたのもその流れと無関係ではなかったのかな。それと並行するように自分が現地へ行くようになって、ロックやポップスだけでなく、ワールドミュージックに分類されるような原住民のアーティストも含めて幅広く、積極的に招聘していくことを始めました。
でもしばらくすると、台湾のものを一方通行的に日本へ紹介するだけじゃなく、その逆のこともやりたいなという気持ちがむくむくと起きまして。現地の知り合いに頼りつつ、イベントを開催したりもした……んですけど、こっちはうまくいかなかったですね。
━━あら。台湾は親日の印象だから、てっきりうまくいったものかと。
思ったよりも難しかったですね。台湾で知られている日本のバンドはやはりメジャーどころが多くて。でも、こちらは東京のライブハウスとしてまだまだ台湾で知られていない良いバンドを紹介したいと思ってやってるので、そりゃあそうかという感じですけど。
でも一度始めたことだし、なんとか続けたいじゃないですか。そのためには、やっぱり外からジャブを打っているだけではダメだろう、と考えました。自分が難しいながらも、なぜ台湾のバンドを招聘して成り立たせることができるのかと言えば、自分の会場でやっているからです。だとすれば、台湾にも絶対に拠点が必要なはずで。
━━それで台北店出店へとつながっていくわけですね。でも、ブッタさんはほぼ時を同じくして東京店の運営も引き継いでいるじゃないですか。これはどういうことだったんですか?
台湾に通っていた当時、前オーナーを台湾に連れて行って、「台湾どうですか」「台湾店できたら自分やりますよ」ってプレゼンしていたんです。そうしたらまず東京の「月見ル」で独立しないかというお話をいただいて。そこからは自分でも驚くような速さでことを進めていきました。会社を立ち上げて、独立して、現地事務所を作って、その半年後にはレストランをオープンして。
━━普通に考えて、並行して進めるのは相当に大変そうですけど。
「もう一回やれ」と言われても無理ですね。勢いだけで突っ走ってた部分もあったかもしれませんが、モチベーションは常に満タンでしたね。
当時は震災の余波もあってライブハウスの運営自体も大変でしたけど、なんとか持ちこたえていたら「台湾」という新たな世界とつながることができた。さらには別の国の人たち、特にアジアの国の人と仕事ができるというのは「夢の一つが叶った!」「趣味と仕事がついに重なった!」みたいな感じで。なんというか、興奮冷めやらぬ感じでした。
音楽が国境を超えて自由に行き来できる未来
━━そこから今日に続く、本格的に台湾と日本の音楽をつなぐ活動が始まったわけですね。
いやー、紆余曲折はすごかったですけどね。
━━たとえばどんな苦労がありました?
台湾でのお店の運営がまず大変で。収入のベースとなるレストランもなかなか集客が伸びず、併設したライブハウスも騒音トラブルで警察沙汰になったり。あとは日本と台湾における仕事へのスタンスの違いにも相当悩まされました。
━━どこかでいい方向に転じるきっかけのようなものが?
ライブハウスの方は、こだわりが強すぎて視野が狭くなっていたので、お声がけいただいた仕事はなるべく受けていくことにして、少しずつ広がっていきました。
━━最初は尖っていたけれど。
それはもう、かなり鋭角に。やはり東京でライブハウスをやっていると、相当なこだわりを持たないとやっていけない部分もありましたから。でもそのテンションではうまくいかなかったので「来るもの拒まず」というスタンスに変えたんです。
それで何かが劇的に改善したというわけではありませんが、3年目に入る頃から徐々につながりが増えていって、「日本でライブをやりたいんだけど」みたいな相談を受けることも出てきました。
落日飛車(サンセットローラーコースター)との出会いもそうした流れの中にありました。2016年当時彼らは、台湾のアンダーグラウンドではすでに知られた存在でしたけど、日本ではまったくの無名。そんな彼らが日本でツアーをできる環境を整えるにはどうすればいいかと考えて、見よう見まねでレーベルを立ち上げました。
━━それが現在も続く「Big Romantic Records」。
そうです。それがそこそこうまくいったことで、徐々に引き合いが増えていって。
━━駆け足で聞いただけでもさまざまな苦労があったことが伺えますね。でもそれから10年を経て、今では日本と台湾の架け橋という存在に。ご自身としても相当な達成感があるのでは?
どうだろう。自分では架け橋というほどではないかなと思ってますね。台湾では「日本のいいバンドを紹介してくれる存在」として、ある程度認知されているとは思いますが、日本で知ってくれているのはごく一部の人たちだけですよ。ほとんどの日本人は台湾のバンドになんて興味ない。そこには日本と台湾の、ちょっと公平ではない感じがありますね。自分の思い描く理想にはまったく達していないなって。
━━理想というのは?
音楽と音楽をする人がもっと分け隔てなく、自由に行き来できるような環境を整えたい、そのサポートをしたいと思ってやってきました。インディーズの音楽はどうしたって万人に届くものではない。でも、そんな中でも各国のインディーズミュージシャンとファンが連帯できたら、どうにか収入の幅を広げて、音楽で生活していけるようになるんじゃないかと。
そのことは巡り巡って、世間から見れば豆粒でしかない「月見ル」のようなライブハウスが生き残ることにもつながるかもしれない。そういう希望を思い描いているんです。
━━なるほど。
かつての台湾では「バンドは30歳まで」という空気が支配的でしたけど、今は30歳を超えてキャリアを重ねるバンドも増えて、音楽業界がより豊かになってきていて。そういうことを積み重ねた先に、各国のインディーズバンドがぐるっとアジアを回るツアーを打てるようにでもなったら、なんとなく面白そうじゃないですか?
記号に頼るのではなく、その人の音楽を感じたい
━━ここであらためてお聞きしたいんですが、ブッタさんから見た台湾音楽独自の面白さってどのあたりにあるんですか。ここまではどちらかというと音楽「シーン」の面白さを伺ってきたと思うんで、そうではなく、音楽それ自体の面白さも聞ければなと。
音楽自体の面白さか……。これはどうしても大雑把な話になっちゃいますけど、台湾の方がゆるいというか、等身大の感じがします。ゆったりとしていて、気取りがない。音楽自体もそうですし、ライブも、ミュージシャンの放つ雰囲気もそう。ちょっと売れている人でも「隣の兄ちゃん」みたいな。そういう肩肘張らない空気感が心地よかったですね。
━━温暖な気候や国民性も関係しているんですかね。
それもあると思います。日本人の細部へのこだわりはもちろんよさでもあるんだけど、それが足を引っ張ることもある。台湾に来るとそういうところがないんです。とにかくおおらか。それが最高だなと思いました。一緒に働いていくうちに、だんだんとそのゆるさに耐えられなくもなっていくんですけどね(笑)
でもさっきも言ったように、自分が台湾に来て「面白い!」と感じたのはそういうことではなかったかなあ。むしろまったくの異国に、日本で自分が見たり経験したりしてきたのとそっくりなバンドカルチャーが存在していた。そのことに驚きと感動と面白さを感じたので。
━━関連してお聞きするんですが、文化が自由に交流することで、土地土地にもともとあった固有の良さが薄れて同質化してしまう、といった問題についてはどう思いますか。ローカルのお店が全国展開した途端に味気なくなってしまう、みたいなことも実際にあると思うんですけど。
確かに洗練されていってしまう面はあるかもしれないですね。自分も昔はその土地固有のものに強いこだわりがあったので、そういう懸念があることはわかります。原住民音楽なんかに惹かれていたのはそういうことだったと思うし、いわゆるワールドミュージックと呼ばれる音楽が好きでしたし。その土地の音楽にはその人たちが持つオリジナリティや民族的なものが反映されていて然るべきと思ってました。
━━「昔は」ということは、今はまた違う考えになっている?
うん、難しいですけどね。台湾の音楽に対しては皆さん、台湾らしさのようなものを期待するけれど、じゃあ日本のバンドが必ず日本特有の民族的な記号をまとっているのかと言えば、実際はそうではないじゃないですか。むしろそういうものを取っ払ったような音楽も結構やっていたりする。だから今はどっちでもいいなって。タイのバンドがタイの伝統楽器を使っていたらそれを推しますけど、シューゲイズをやっていたとしても、それはそれで等しく推す。そこにはあまりこだわりはないです。
━━そうなんですね。
一切文化的なバックボーンのないものをやっていたとしても、いいものはいいので。またそこにあえて民族楽器を絡めるというのも、それはそれでいい。だからなんでもいいんですけど、「その土地固有の」というところを過度にクローズアップするのはまずいんじゃないか、ステレオタイプのようなものを助長してしまうんじゃないかと考えるようになっています。
━━ああ、それはとても大事な視点ですね。ブッタさんの真摯な姿勢を感じるというか。
いやいや、さっきも言ったように、僕も最初はワールドミュージック好きとして台湾の音楽に興味を持った部分もあったので。「聞いたことない音楽、最高!」と言ってディグるような感じだったから。
━━考えが変わったのには、何かきっかけが?
実際にこっちのバンドと対等にやっていきましょうという中で、自然と。悔しいですけど、やっぱり欧米のバンドの影響やシステムというのは強大だから、そういうものに憧れてバンドを始めたというケースがほとんどだと思います。
たとえば「オアシスに憧れてギターを始めました」というようにね。そういう彼ら彼女らと付き合っていくうちに、それはそれで尊重したいと思うようになったんじゃないかな。そういう衝動に駆られてバンドをやっているというだけで最高。結果としてそれがいい曲なら最高。それそのままを日本の皆さんにも聞いてもらいたいと今は思ってますね。
━━ローカルの取材に臨む中で以前「絶対に面白い人を掘り当ててやる!」という感じで意気込んでいたら、「お前は開拓者じゃないだろう。その人はそこにいるんだから」と先輩に諭されたことがあって。もしかしたら同じ問題意識だったのかもと思いました。
そうそうそう。自分も台湾に来たくらいのときにはやはりそういうモードがあって、嗜められましたよ。いろいろなことに触れていく中で、そんなわかりやすい記号に頼るんじゃなくて、ちゃんとその人の音楽を感じるべきだ、となっていったんだと思います。
言葉の壁を超え、伝える努力から逃げたくない
━━普段ローカルのプレーヤーから言葉を預かっている身として、今日のお話はいろいろと身に染みました。
言葉も難しいですよねえ。言葉といえば、僕も最近ちょっと考えていることがあって。以前は「海外に向けて音楽をやるなら歌の意味というより表現で勝負すべき」「言葉が通じないとか関係ない。魂で伝えようぜ」と、わりと強く思っていたんです。でも、海外でも妥協せず、どうにかして歌詞の意味を伝えようと努力しているアーティストの姿を見て、ちょっと違ったかも、と思うようになりました。
歌詞をスクリーンに投影したり、それが技術的に難しいとなったら、翻訳した歌詞をプリントしたものを配ったり。そういう努力を惜しまない姿勢は、やはりいいな、と。歌詞の内容を分かった上で音楽を聴くと、伝わり方が異なってくる感覚は自分自身にもありますし。だとしたらライブハウスとして、その部分でやれることをやりたいなと。
━━アーティスト任せではなく、ライブハウス側としてもできることを。
考えてみれば、自分たちがこれまでやってきた仕事のほとんどは翻訳なんですよ。外国のモノを新たに伝えるということで、歌詞カードだったりプロフィールだったり、あるいはニュースだったり。自分が今「架け橋」のように言ってもらえているのだとしたら、それはつまり、大量に翻訳をしてきたことを指してのことだと思うので。
━━ああ、言われてみれば。絶対に必要な作業ですもんね、フライヤーにしてもホームページにしても。
「音楽は言葉を超えて伝わるもの」という考えは大前提として今もあるんですけどね。歌詞にグッとくる。その人の文学性とか創作に触れて感動する。そういうこともちょっと諦めたくないな、と。まだ試行錯誤の途中なんですけど。
━━先ほどの「環境を整えることでフラットに行き来できるようにしたい」というお話に通じる姿勢だなと感じました。
うん。言語の壁を取り除くことで、川は自然に流れていく、みたいに思ってますね。でもすごく分厚い壁というか、途方もない作業でもあるので。普通はバカらしくてやらないでしょうけど。
━━日本と台湾の音楽の違いや、台湾らしさのようなものを探ろうと思って臨んだ取材でしたが、実際に伺えた内容はそれとはある意味正反対。でもそこに大切なポイントがあると思いました。にしても大変なことを10年もずっとやってきて、ブッタさんは疲れることはないんですか? あるいはいい加減飽きたなー、とか。
飽きることはないんですよ。なぜって、毎日こんなにいろいろな音楽と接することができているから。まあ紆余曲折はあったし、これからもあるでしょうけど、毎回毎回の現場は最高なので。そこに救われていますね。「趣味と仕事が重なった」と言ったけど、そのときの気持ちのまま、全力でやって全力で楽しむことはできているのかなと思います。
取材:日向コイケ/写真:鄭弘敬