3人の子どもの保活&引っ越し&転職活動の同時進行をほぼワンオペで乗り越えてみた話

 桜口アサミ
桜口さん写真

今年のひな祭りの様子

はじめまして。桜口アサミ(id:asami81)と申します。インターネットでは13年くらい前からasami81というハンドルネームでさまざまなサービスを使っています。

81って何だ、とたまに聞かれます。わたしは1981年生まれ。ハンドルネームをつけたとき「歳をごまかすような女になりたくない!」という、若いからこそ持てる意識高い系発想でつけてしまいました。最近は8月1日生まれということにしようかな、と考えています。

わたしは26歳のときに結婚し、すでに起業していた夫と地元の関西で2人暮らしでした。28歳のときに東京のネットベンチャーでメディア立ち上げメンバーに加わるため、わたしが東京へ単身赴任となり週末婚へ突入。

30歳になった2011年7月、長男出産。それを機に関西に戻り、在宅ワークを中心に仕事(正社員)をしていました。2014年1月に長女、2015年11月に次女を出産しています。

3人目の出産直前から、夫が仕事で東京や海外に行くことが増え、「ほぼワンオペ(1人育児)」がスタートしました。

そして現在。36歳となったわたしは東京で正社員として渋谷のベンチャー企業で働きながら、3人の子どもを引き続きワンオペで育てています(夫は基本週末に帰宅しますが、海外出張も多く、そのときは1ヶ月近く帰ってきません)。2017年に兵庫→東京へ引越したのですが、このとき実は転職活動・引っ越し・そして保活を同時進行で行っていました。今回は、このときの出来事を振り返っていこうと思います。

3人目出産。わたしの心境の変化「人と働きたい」

3人目を産んで1年数ヶ月がたった頃、そろそろ在宅ワークではなくどこかに本格復帰しようかなと考え始めました。その理由は「人と働きたい」

育児を優先できる働き方がしたくて正社員ながら在宅ワークでできる企業に所属していましたが、約6年間たつと、単純に人が恋しくなったのです。

夫は忙しく、あまりおしゃべりではないためわたしが求めるコミュニケーションが取れません。でも、不満を言っていても仕方がない。わたしも組織に戻って働くことができればコミュニケーション欲求も満たされるのでは? というのが動機でした。

家から通える大阪や神戸で職をリサーチしていたところ、ある日メッセンジャーでチャットをしていた友人から「東京においでよ」と言われました。最初は「子ども3人もいて、しかもワンオペで働ける会社なんてないでしょ。そもそも東京で育児なんてしんどそう」とわたしは言っていました。

しかし友人は「東京のWeb系企業の多くは人材不足。子持ちが不利にはならないよ。アサミのような経験者なら絶対にどこか決まるよ」と言うではありませんか。

「ならば探してみよう」と思い始めたが最後。もはや東京で仕事をしているイメージしか持てなくなったのです。「子どもを育てるなら自分の親も近い場所で」「都会よりも少し田舎で」という、謎の理想を持っていましたが、それよりも「やっぱりWebが好きだから、東京で働きたい!」という気持ちの方が大きくなっていきました。メッセンジャーでの会話から1週間後、すでに引っ越し先も探し始めていたわたし。

それに実際に転職先を探してみて、東京は非常に選択肢が多いということを痛感。オンラインでの転職活動をしていましたが順調に進み、Skype面接などで数社受け、東京で仕事を探し始めて3週間以内にはほぼ内定という会社が数社あった状況です。

とはいえ、当時は転職活動、引っ越し作業、子育て、仕事をほぼワンオペで同時進行していたので、目が回りそうな毎日(夫は海外出張中だったため、物理的にサポートが難しい状態でした)。毎晩睡眠時間は4時間ほどでした。在宅ワークじゃないと倒れていたかも……。

保活という一大プロジェクトが始まった

転職先を東京にするとして、問題は保育園です。

認可保育園の場合は原則、住んでいる地域にしか申込みができません。関西から引っ越す身としては「保育園が決まったら引っ越し(物件)を確定させたい」という思いがあったため「なんと厳しい……!」と感じました*1

そういうわけで、物件を決める前にまずは「できるだけ入園確率が高い地域を探す」というミッションが始まりました。仕事でいうとリサーチ段階です。「優先順位」「ToDo」を洗い出し、整理。

わたしの場合、まずは引っ越し先を都内への通勤が可能な神奈川・千葉付近か、23区内かで決めることに。

神奈川・千葉(補足:都内にも通える範囲の地域で「23区に比べると」という結果です)

  • 家賃→安い◯
  • 保育料→高い。2倍くらいする地域もある✗
  • 子どもの医療費無料期間→年齢制限や収入制限が厳しめ✗
  • メリット→車を所有できる△
  • デメリット→通勤時間が長い✗

23区

  • 家賃→高い✗
  • 保育料→安い。ただし、区によって価格差あり◯
  • 子どもの医療費無料期間→年齢制限や収入制限が緩い◯
  • メリット→通勤時間が短い◯
  • デメリット→車が所有できない△

補足:◯……個人的に非常にいいポイント/△……いいけどなくてもいいポイント/✗……個人的にだめなポイント

このように項目を洗い出し、◯が多い方の23区にまず絞ることができました。項目も、◯✗の結果も家庭によって異なると思います。

次に「保育園の入園確率が高い地域を探す」に移ります。ここでも、また項目を洗い出し同じような作業をしていきます。

  • 保育料
  • 新設予定の保育園がいくつあるか
  • 翌月の空き枠に対して申込み者数を教えてくれるかどうか

他にもたくさんありますが、最終的になるだけ◯が多い地域に入園申込みを行いました。

引っ越し前でまだ関西に住んでいたので、市役所経由での提出です。物件の契約書も同時に提出する必要があったため、地域を決めたあと、不動産屋さんで働いている友人に猛スピードで手続きを依頼し、間に合わせてもらいました(大急ぎで東京に物件内覧に行き1日で5件見てその中から今の家を決定)。


本当に、保活は仕事のプロジェクト進行と一緒です。

やるべきことを洗い出し、リサーチ、優先度、妥協点。それをメンバー(夫)と話し合い、クライアント(子ども)からのクレームも処理しつつ、最終的に皆が幸せになるところに着地させる……。

今、仕事に全力を出している保活前の方には「そのスキル、絶対に保活で活かせますよ!」と声を大にして言いたいです。

保活

保活をしていたときのメモ

全員、認可保育園に入園決定! 決め手は?

申込み期限ギリギリで滑り込みセーフ。無事に申し込めたことに一旦安堵(あんど)しましたが、決まらなかったらまた認可外保育施設を探さなければいけませんでした。

しかし、無事に3人とも認可保育園の入園決定通知が到着!

決め手としては以下の3つだと思います。

  1. わたしが在宅ワークとはいえ正社員で就業証明書があったこと
  2. 夫がほぼ不在であること(単身赴任証明書を会社から発行してもらいました)
  3. 子どもが3人いること

特に3つ目が大きいポイントであると考えています。保育園入園は加点制で、点数が高い人ほど入園確率が高くなります。その中に「きょうだいが在園児である場合」は加点される地域が多くあるようです。

特に新設された保育園の場合、4歳児以上の入園児童は比較的入りやすいと言われています。そのことから、長男(当時5歳)が合格し、それに伴い長女(当時3歳)も優先されたという流れかと推測しています。

とはいえ、やはり激戦と言われる1歳児クラスは難易度が高く、長男、長女2人が入園する保育園では空きがありませんでした。末っ子は別の小規模保育施設にお世話になることになりましたが、そこも認可保育園。自転車で送迎が往復2時間かかろうとも、認可保育園に入れただけで万々歳! と感じました。

保活でわたしが実際にやったことや使ったツール

保活が成功して思うことは、保活=情報戦ということ。単純にインターネットの検索力に比例して情報が入ると言ってもいいでしょう。

実際にわたしも少しでも疑問に思ったら検索したり、うまくいった人のブログを読んだりしました。1番よく見ていたものは以下の2つです。

  1. 区役所のホームページ(例:目黒区
  2. 東京保活

いくつか保育園の目星をつけて、物件を探す際には「保育園と物件の距離」を地図で比較したいという思いが出ました。そのときも検索して非常に便利なツールを発見。

googleマップで複数住所を一括表示 - 緑里庵

検索力というのは保活でもかなり役立ちました。しかし、検索力だけでは解決しない問題があります。じつは、各地域の保育園情報などは最新のものが全てインターネットに掲載されていないのです。

23区でいうと最新情報を持っているのは区役所。でも更新はだいたい月1回くらいです。

そこで電話の登場です。とにかく最新情報は電話をかけまくるしかありませんでした。「そんな大事な情報、ネットになくて電話で回答って、電話をしなかった人はすごく不利になるのでは……」という情報に山ほど出会いました。

困ったのは、同じ区に電話しているのに担当者によって回答が異なるというパターン。この場合も、質問を繰り返して正しい情報を手に入れるしかありません。

わたしは遠方からの引っ越しだったのでできませんでしたが、実際に区役所に通って情報収集して保活に成功した友人もいます。

ネット社会になったとはいえ、最新情報は電話や訪問で手に入れるしかない保活。仕事や育児で忙しいと非常に困難です。

1番辛いのは、これだけ頑張っても合格するかどうかは時の運、みたいなところがあります。仕事の方が頑張れば頑張るほど報われるよなぁ……と何度も思いました。

女性の社会進出が進んだ日本ですが、まだまだ育児は母親の役割という文化が根強く残っていると思います。世の中の働く母は疲れています。そして保活でも疲れます。

そんなに大変だったらもう働くのは諦めよう、となる人の気持ちも分かります。これは日本の生産性を下げていると言えるでしょう。

死なない・死なせない。そして「やらないこと」を決める

仕事をしながら、ほぼワンオペで3人の育児をしていると諦めないといけないことが増えるのは事実です。例えば平日にある子どもの習い事には通わせてあげられません。小学校お受験も難しいでしょう。毎日たくさんの絵本を読み聞かせてあげたくても時間がありません。

仕事をしながら全てを叶えようとすると母親である自分が倒れてしまいます。理想を高く持つと、現実とのギャップに苦しむことになります。子どものために、自分の身体も心も大切にしなければいけません。

とにかく(自分は)死なない・(子どもを)死なせない。

これだけを目標にし、これがちゃんとできていれば良しとしよう、と日々言い聞かせています。

そのために、「やらないこと」を決めて、エネルギーを適切な場面で使うように心掛けています。

家事をする時間があるなら本を読みたい。わたしがいつも考えていることです。

本を読む以外にも、マッサージに行ったり美容院に行ったり、好きな映画を観たり漫画を読んだり。自分が好きなこと・自分にしかできないことを優先し、家事など外注できることは外注しています。

さいごに

地方から東京に引っ越して保活をするというパターンの人が、インターネット上ではあまり見つけられませんでした。ただ、周囲にも社会的にも、夫の転勤に伴い、子連れで引っ越すというケースは非常に多く見られます。

そういった家庭の多くが「奥さんが一度仕事を辞める」という選択肢をとっているんじゃないか、と思います。

保活というのがあまりに難易度が高く、認可保育園への入園可能性も低い。そういうイメージがあるため「やる前から諦めた」という友人もいました。

現状の日本は、保育園問題がまだまだ大きく、女性の社会進出は本格化していないと実感しています。子どもを産んでも当たり前に社会へ復帰できる、そんな社会が実現することを願っています。

まずは自分自身がこういった保活体験をネット上で発信することで、その一歩になればいいなと思います。

全ての女性が「母になっても仕事を続けるべき」とは決して思いませんが、「仕事をしたいけれど諦めている」という人が少しでも減る社会になるといいなと思います。

著者:桜口アサミid:asami81

manayaeko

asami81です。インターネットとお寿司が大好きです。
家事の外注など、「やらないことを決める」については、わたしが執筆したこちらのコラム記事も読んでいただけますと幸いです。
Blog:iGirl

次回の更新は、2018年4月18日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

*1:実際は物件確定していなくても申込むことは可能ですが、選考のための点数指数が非常に低くなり入園は困難です

誰もが“困難”を乗り越えていく。映画『ドリーム』『二ツ星の料理人』登場人物に注目

 真魚八重子

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当時の時代背景を色濃く表現した作品や、困難な環境の中奮闘する登場人物を描いた作品は数多くあるもの。今回は、映画評論家・映画ライターの真魚八重子さんにさまざまな困難にぶつかりながらも働いていく女性が登場する映画作品について、紹介していただきました。

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映画の主人公に選ばれるのは、多くの場合ユニークな個性と突出した部分を持つ人です。特に作品に登場するような人物は、普通の人間とはかけ離れているように感じられるかもしれません。しかし仕事内容の違いはあれ、何かを成し遂げるために働く作業や時間は、どんな人であっても変わらないものです。そういった女性を描いた映画を参考に、われわれも職場で力を発揮する方法を考えてみましょう。

黒人女性数学者の実話を描いた『ドリーム』

ドリーム

2017年に日本でも公開され、アカデミー賞でも3部門でノミネートされた『ドリーム』(セオドア・メルフィ、2016年)。NASAで最初期の宇宙ロケット計画に携わった、黒人女性数学者の実話を基にした映画です。

米ソ冷戦の真っ只中で、国をかけて宇宙開発に取り組んでいた時代。街では人種差別撤廃運動が起こりつつ、NASAでもいまだ、優秀な頭脳を持つ黒人たちが白人とは別棟で働くのは当たり前でした。その中で黒人女性のキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)は最も計算力に優れた人材として、宇宙特別研究本部に配属されます。

しかし、そこは白人男性ばかりの職場。唯一の白人女性は秘書で、主戦力の男性たちとは明瞭に立場や作業が異なっています。そんな中で、男性と同じ業務内容を行うことになったキャサリンは、入るなり同僚たちから白眼視されます。

選ばれた者と思っている男性集団の中に、同じ能力を持つ女性が入ってくると、男性たちはそれだけで水準が下がるような錯覚を抱きがちで、プライドが傷ついたりします。実際の平均能力ではなく、見栄えとして「女が入っているグループならその程度」というイメージを持つ男性は、どんな世界にでもいるものです。その上性差別がまだ当たり前の時代で、さらに有色人種となれば職場の圧力はいかばかりでしょう。

バスの座席やトイレが肌の色で分けられていた、差別も露わな時代。NASAにおいても白人だけの棟では、キャサリンは小用を催すたびに離れた有色人種用のトイレへ遠出をします。この描写は長めに何度も繰り返されるので、公開当時には「堂々と白人用トイレを使えばいいのに」という印象を持つ人もいたようです。

しかし染みついた社会のルールというのは、逸脱するには勇気が必要です。もし、われわれもキャサリンの立場であれば、白人用トイレに堂々と入ったり、尿意を催している状態で使用の交渉をしたりなど、そんな余地がないのは察しがつきます。それにもしキャサリンが白人用トイレを使っても、仕事を失うわけがないと保証できる人はいるでしょうか。黒人の、そして女性の立場は弱い時代であったゆえに、キャサリンは腹立たしさを感じながらも、習慣的にトイレの遠出を続けるのです。

キャサリンがまともに仕事をできるようになるきっかけは、宇宙計画で頭がいっぱいの、基本的に無頓着な上司アル・ハリソン(ケビン・コスナー)が、キャサリンの不審な振る舞いに気づいたためでした。計算をしてほしいときに度々、彼女が長時間の離席をしている謎。ハリソンがキャサリンのことを仕事にルーズだと誤解し怒鳴りつけた際、彼女はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまいます。

キャサリンが堰を切ったように訴えたのは、黒人女性への差別から、仕事をするための最低の環境も整っていない事実。キャサリンは同僚たちが取っている態度は果たして人として、同じ目的のために働く者としてふさわしいのかを、強い言葉で突き付けます。でもこの叫びは決して彼女が芯の強い人だからではなく、本当に切羽詰まった状態で、もはや避けて通れない事態になっていたためでしょう。

彼女の悲痛な声を聞いて、ハリソンは気に留めていなかった社会の慣習や、同僚たちの差別心や思いやりのなさによって、彼女が置かれた不利な状況にやっと気づきます。そして翌日、彼は建物内の差別的なプレートを取り外す振る舞いに出るのでした。

ヘンに人権主義な理由よりも、効率の悪さに端を発して、彼が差別の弊害や部下たちの狭量さに怒りを抱くのは、しっくりくる展開ですね。

職場の最終的な目的は、男女の立場に関係なく、良い形で仕事をやり遂げることなはず。差別やメンツに囚われている人が作業の邪魔をするのは、本当にもったいないことです。誰にとっても能力を発揮しやすい職場であるかというのは、すごく重要なことなのだと気づかされます。

責任感のある関係性『二ツ星の料理人』

二ツ星の料理人

ブラッドリー・クーパー主演の『二ツ星の料理人』(ジョン・ウェルズ、2015年)は、一度はドラッグ、酒などで失敗したシェフが再起をかける物語です。本作では、主要キャラの女性料理人エレーヌ(シエナ・ミラー)に注目してみましょう。

一流の料理人だったアダム・ジョーンズ(ブラッドリー・クーパー)は過去に道を誤り、一度は表舞台から姿を消した身。しかし再度修行を経て、改めて友人オーナーのトニー(ダニエル・ブリュール)に信用してもらい、ロンドンで店を構えます。

彼は他のレストランから、ソースを作る腕前が絶品の料理人エレーヌをヘッドハンティング。しかしアダムの横柄な態度が癇に障り、エレーヌは彼と度々反発し合いますが、なんとか互いに折り合いをつけて共に働くことになります。

エレーヌはダメ亭主と別れ、シングルマザーの料理人として暮らしています。もちろん仕事への情熱や高いプロ意識は持っていますが、娘をきちんと育てなければという志が一番の原動力。それでも料理人の仕事は肉体的にもハードで、娘に協力してもらう形でエレーヌはなんとか日々を過ごし、男性の多い厨房の中で、タフな働き方によって男性陣の中に違和感なく溶け込みます。

けれどもアダムは完全に料理中心の考え方で、店が軌道に乗るまではスタッフの誰にも私生活はないという態度。確かに、完璧主義の彼が作り出す料理は、見栄えも素晴らしく天才的な感性に溢れたものです。ただし秀でたシェフであることと、指導者として優秀であるのは別なんですよね。

エレーヌは子を育てる親として、我慢してはいけないラインを守ろうとします。エレーヌは「娘の誕生日はランチの仕事を休みたい」と申し出ますが、当然のようにアダムは却下。しかし彼女は従ったように見せつつ、厨房の仲間たちに不満を伝え、トニーの配慮によって母子は誕生日の時間を共有できるようになります。アダムはこの出来事で部下たちの総スカンを食らい、さすがにそういった気遣いも必要なのだと気づいていきます。

アダムは過去に自分が蒔いた種によってさまざまな報いを受けますが、必死に耐えて第二のまともな人生を進む努力を続けます。そんな彼の再起にかけた覚悟を察して、次第に仕事とプライベートの両面で彼を支えていくエレーヌ。

ヘッドハンティングされたことから分かるように、気難しいアダムにも料理人として認められるエレーヌは、まずは仕事のパートナーとしての絆があります。それに二人はドラッグや、ダメな生活に流れていく異性に苦しめられた過去があります。ドラッグを完全に断つのは、それまでの人間関係も清算すること。過去を断ち切ったアダムもエレーヌも、料理や娘にかけて生きているので、責任感のある関係性が漂ってきます。

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『ドリーム』のキャサリンも『二ツ星の料理人』のエレーヌも最初は社会の慣習や生活のハードさが立ちはだかって、自分の能力を十分に発揮できなかったり、家庭と仕事の両立に四苦八苦したりします。でもぶつかった壁を崩すためには、この二人のように周囲の理解を仰いで助けを求めることや、自分の軸となる平熱を保つのも重要。焦って我(われ)を忘れてしまうよりマイペースでいる方が、問題が生じたときにノイズとして気づきやすいし、どういう困難かを冷静に見極められるものです。困ったときはまずは頑張りすぎるより、心を落ち着けて普段通りの生活を意識的にキープしてみるといいのかもしれません。

著者:真魚八重子id:anutpanna

manayaeko

映画評論家。「映画秘宝」「朝日新聞」「文春オンライン」「ハニカム」「イングリッシュ・ジャーナル」等で執筆。著書に『映画なしでは生きられない』(洋泉社)『バッドエンドの誘惑〜なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか〜』(洋泉社)など。

次回の更新は、2018年4月4日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

ワーキングマザー生活10年を(割と赤裸々に)振り返る

 kobeni

「第一子を出産されて、今年でちょうど10年ですよね。この10年を振り返る記事を書きませんか」と、「りっすん」さんに言われるまで、私は一切気がついていませんでした。そうか……もう10年も、働くママやってるんだ。

最近は働くママとしてというより、ただのオタクとしての情報しかブログで発信していなかったので、本当に忘れていたのです。そもそも私は、「女性がもっと働きやすい世の中になってほしい」という願いを込めて、ブログを始めたのでした。なんて……意識が高いんだ……。

でもブログやTwitterでいろいろと発信しながら、実はリアルタイムでは言ってなかったことが、いろいろとあるような気がしました。子どもたちも大きくなって、今の私は「働くママ」としては、もうあんまり悩んでいません。せっかく機会をいただいたので、ざっくり10年を振り返りながら、印象に残ったことを今の言葉で語ってみたいと思います。

「会社はあなたのプライベートなんか、知ったこっちゃない」

私が最初に出産をしたのは2008年です。会社にはあまりお母さんの社員がおらず、というかそもそも、先輩自体があまりいませんでした。私が新卒で入社した2001年頃は、就職超氷河期の底みたいなときだったので、すぐ上の先輩や、すぐ下の後輩は、とても人数が少なかったのでした。

前に在籍していた部署は、私の育休中に会社都合で解散してしまいました。戻るところがなくなった私は、復職時に現場の制作職から、総務的な部署に配属となりました。復職前、男性が多く活躍している現場で彼らと同じ内容の仕事をしていたのに、復帰したら突然、その人たちのサポートをする(と私は感じていた)立場になったのです。

いくら子育てが大変だといっても、十分な話し合いもなく、これはないんじゃない? と思いました。私はその「やりきれない」という気持ちを、同じ部署に2年ほど早く配属されていた先輩ワーキングマザーに愚痴ってばかりいました。

そのとき、彼女に言われたのが、

「会社はあなたのプライベートなんか知ったこっちゃないんだよ。だから、私たちは、自分から『私は(ママだけど)これができます』と、アピールしていかなきゃいけないんだよ」という言葉でした。

私は正直、これにあまり納得できませんでした。いや、言ってることは間違ってない気もするけど。でも、仮に「会社」が人だとしたら、会社さん、なぜそんな偉そうなの……。私、これまで何年も、合コンにも行かず、ときには床で寝て会社さんのために働いてきたのに。私の人生における一大事=親になったこと、に対して「知ったこっちゃない」って、どういうことなの。

今思えば先輩も、私と同じくらい、やりきれなさを抱えていたんだと思います。

「母親だから」を理由にされるやりきれなさ

そんなある日、2人でランチをしていたら、先輩が言いました。

「誰かが見ていてくれて、(「復帰したらここの部署においで」って)声掛けてくれると思ったでしょう。ないんだよ。ビックリするぐらいないよね、そういうの」

そう、当時の私の会社は、「女性社員が子どもを産んだら、どんな人も自動的にこの辺の部署に置く」という、言ってみれば「機械的」な対応しかしていなかったのです。

この頃から、「母親が、育児を理由に思うように働けないのは、理不尽だ。差別ではないか」と思うようになりました。けれど2008年頃、Twitterで語気荒くこういったツイートをして、私は若干炎上していたように思います。「あなたが自分で子どもを産むことを選んだのだ。女性は関係ない。自己責任だ」という反応も、同じ女性からよく来ました。

しかし、私が女性で、母親で、結果的にはその属性を原因に、自分の希望する働き方や職種などを奪われた場合、それは本当に「私の選択だ」と言い切れるのでしょうか? 「女性は、結婚や出産をしたら退職する。あるいは仕事を大きく退くものだ」という価値観を前提としたシステムの中で、私のような価値観を持った人間のための選択肢がなく、最初から選べないようになっているだけじゃないのか?

今でこそ、「誰かの強い悪意があるわけじゃない。会社は、ビジネスを理由に合理的な仕組みで動いているだけだ」と思うことができます。でも当時の私は、私や先輩が「機械的に」扱われることで生まれるつらさに、どうしても我慢ができなかったのでした。

そんなとき、『迷走する両立支援』(太郎次郎社エディタス)という本に出会いました。そこには、当時の私と同じようなつらさを感じている人たちの丁寧なルポと、筆者からの強いメッセージが書いてありました。

自分が培ってきた能力を発揮し、生活とよべるだけの経済的基盤をもち、子どもや家族との暮らしの喜びを実感する。そんなあたりまえのことに、なぜ支援が必要な社会になってしまったのだろうか。


萩原久美子『迷走する両立支援』太郎次郎社エディタス, 2006年, pp.8-9

私はこの本から、「あなたのせいじゃない」というメッセージを受け取りました。その言葉があったことで、じゃあ理想はどうであるべきなんだろう。何がネックになっているんだろう。と、視野を広げて考えるようになりました。

内容もやる気も、なにもかも7割ぐらい

そこからは、現部署の課長や、別部署の先輩、独身の同期、果ては社長まで、いろいろな人と話をしました。そのとき思ったのは、会社(のシステム)は、「良かれと思って」私に、新しい仕事をあてがっている、ということでした。

もちろん、保育園のお迎えもあるし、労働時間が圧倒的に減るわけなので、これまでと同じようには働けません。それでも、私には「(復帰したら)こう働きたい」という意志が少なからずありました。そういう話をしても、今ひとつピンと来てない上長もいましたし、今同じことを言われたら、絶対コンプライアンス的にアウトだなという発言も受けましたが、そういう提言を自分から行い、私は元の職種に戻ることができました。

とはいえ、長男が1〜3歳頃の私は、いつも「7割」で仕事していたように思います。能力的にも、スタンス的にも。

「やらなくてはならない」仕事をこなすのに精いっぱいで、何かに大きくチャレンジをする余裕はありませんでした。長男は割と病気がちでしたし、胃腸炎やインフルエンザなどで、会社を1週間休むということもザラでした。課長に「リモート勤務ができれば……」と申し出たこともありましたが、「ハッ」とリアルに鼻で笑われたものでした。

なんとなく7割、の不完全燃焼感にも、だんだん慣れてきます。どうもやりがいが……と物足りないと思う気分は、ブログや同人誌、会社外の活動で埋めてみたりもしました。(そちらは、〆切をかなり長めに取ることができます。子どもの体調次第で、明日の予定も見えづらい身としては、そういったことがとても助かるのです)

7割に慣れて良かったのだろうか? と、今でもよく思います。ただ、当時は夫も遅くまで働かざるを得ないほど忙しい頃でしたし、初めての子育ては新鮮な驚きもたくさんありました。結果的には、7割ぐらいで良かったのかな。と今は思っています。

母が倒れ、父も倒れる

二人分の保育園の園便り。保育士さんがいつもたくさん様子を伝えてくれて、楽しみに読んでいました


7割とはいえ、好きな仕事と育児と趣味と……と「良いバランスかも」と思えてきた頃、2人目を妊娠しました。しかし、同じ年の秋、突然私の母の病気が悪化しました。

両親は地方に住んでいましたが、一人っ子である私の出産を機に、東京に越してきていました。しばらくは父にお迎えを頼んだり、母に夜ご飯を作ってもらったり、たくさん助けてもらっていました。そう、私は実は「実家カード」というやつを持ったワーキングマザー……になるはずだったのです。しかし越してきてから発覚した母の病気と、その急激な悪化によって、助けてもらうどころか私が彼らを助けなければならなくなりました。

思い出すのもつらいので、ちょっと足早に書きますが、一気に症状が悪くなった母が入院、治療に限界がきて在宅介護、父が速攻で介護生活に音を上げ、私が介護休職(妊婦なのに!)、また入院、長い「余命●ヶ月」、ついに看取り、お葬式……。

で、やっと落ち着いたら今度は自分の出産です。しかも、この、母の看取りを機に父の調子がおかしくなってしまいました。約1年後、次男の育休から復職する頃に、今度は父が入院してしまいました。

このあたりは本当につらかったです。父に引っ張られて私もおかしくなってしまい、ある日天井が回転するような感覚を覚えながら倒れ、しばらく傷病で休職しました。

考えてみればこの10年で、育児・介護・看護・傷病など、あらゆる制度を使って休んでは働き、を繰り返してきました。

こうした経験から学んだことは、「家族という仕組みは非常に脆い」ということです。トラブルもあまり予測できないし、代替も効きません。私の場合は、育児や介護の休業以外に、各種病院の先生やソーシャルワーカーさん、地域包括支援センターの方々にお世話になりました。会社は休職や復職の際に、上長や産業医の面談によるスムーズな復職を助けてくれました。家族だけでは解決できないことを、官民両方のサポートを経て、やっと乗り越えられたのです。

私たちは、オンとオフ両方の顔を持つ、生身の人間です。「職場に私情を持ち込まない」という考え方は、もうそろそろ改めた方がいいと思う。どんなに隠しても、同じひとりの人間である限り、公私はそれぞれに影響を及ぼします。

特に、直属の上長(一般的には「課長」になると思います)には、こういったライフイベントの変化に関する知識と、マネジメントで対応できる能力、そして可能であれば、寄り添って話を聴ける人間力があると、従業員が安易に心折れることなく、長く働き続けていく助力になるのではないか、と思います。

夫、会社を辞める

その後、父は長い長ーい入院生活を経て無事に回復し、長男とは5つ離れて生まれた次男もスクスク育ち、2年、3年と経ちました。2015年ぐらいからでしょうか、世の中が「共働きでも働きやすく」「長時間労働にNO」「リモートや在宅勤務を推奨しよう」といった風潮になってきました。私にとっては、追い風とも言えます。

あの頃、鼻で笑われたリモート勤務が会社にも徐々に浸透し、「マタハラ」「多様性」などの言葉も、ちょっと私が驚くほどになじみあるものになってきました。女性が育休明けに復職する率も高まってきているらしく、「働きたいなんてワガママ」「子どもを産んだお前の自己責任」と言われていたのが嘘のようです。

そんな中で、夫が会社を辞めました。

元々フリーランスになりたいと考えていた夫です。会社を辞めて、自宅にいることも増えました。多くの家事・育児の時間を、夫が担うようになりました。

ちょっと言いにくいことですが、「あれ、仕事と育児の両立がラクになったな……」と感じた理由として、夫がフリーランスになったことはとても大きかったです。世の中や会社が変わったことよりも、夫のライフスタイルが変わったインパクトが、わが家では圧倒的に大きかった。これは包み隠さず書いておいた方がいいかなと思いました。

試行錯誤で今の夫婦の形に

思えばこの10年、「夫が夜遅くまで働く、私の両親がお迎えとご飯。私がお風呂と寝かしつけ」とか、「私がお迎え以降を担当。夫は週に 1度」とか、「夫が週3、私が週2でお迎え」など、とにかくいろいろな両立スタイルを試してきました。最近は、フリーランスで収入が安定しない夫が家事育児を多めに、会社員の私はしっかり稼ぐ、時間もこれまでより少し仕事を多めで、みたいな形に落ち着いています。とはいえ私はこの10年で、体力的にも精神的にも、時短勤務じゃないとムリな人になってしまいました。今も、残業は極力しないようにしています。


夫が仕事に力を入れたくなるときも来るだろうし、私が会社を辞めたくなるときも来るだろうし。これからも我々夫婦の在り方は、その時々で変わっていくんだろうなと思います。

これは2015年頃の写真。仲良くケンカしな♪ という感じの二人

未来の話。「時間ではなく成果で」評価される時代が本格的に来たら?

世の中には「たくさん働けば残業代がもらえる」とか、「昇進するためには実質、かなり残業しないと無理」という会社も、まだまだ多いと思います。でももし、「少ない労働時間で高い成果を出すと高評価」な企業ばかりになったら、世の中はどう変わるんでしょうか?

2016年秋頃、NHKで「マミートラック」を扱う番組が放映されていました。

「マミートラック」とは、子育てを理由に昇進に縁がないキャリアコースとなる、責任や負荷の低い仕事に限定される……といった状況が、陸上のトラックを走るようにぐるぐると続いてしまう状態を指します。

SNSの感想を見ると、「残業できないのに昇進して稼ぎたいなんて、ワガママだ」といったコメントもありました。ああ、久しぶりに見た、この「働く母はワガママ」という言葉。けれど私の理解では、その番組に出てきたお母さんは「私は残業できないけど昇進して稼ぎたいんです」とは言っていませんでした。

かつての私が望んだように、「自分の、これまでのキャリアを活かせる職種で、部署で、子どもを持ったあともまだまだ成長していきたい」と言っているだけなのです。

もし、ここに、「時間ではなく成果で評価」ができ、「急な病欠など家庭の事情にも対応できる」企業が名乗り出たら? そこで働くお母さんが、時短勤務をしながらでも、高い成果を出すことができたら? そんな成果を買われて彼女が「昇進した」としても、まだ、「働く母はワガママ」でしょうか……?

仕事と育児の両立の焦点は「ケア(配慮)」から「(ケアだけでなく)フェア(機会均等)」へと、大きくシフトしていってほしいと、私は思っています。

「どう子育てし、どう働きたいか」は、一人一人違う

ここまで振り返ってきたのは私の10年ですが、同じ10年でも、まったく別の過ごし方をしてきたワーキングマザーも、たくさんいると思います。

特に「子どものために、どのくらいの時間・パワー・その他もろもろを注ぎたいか」は、これまでたくさんのお母さんお父さんに会ってきましたが、本当に人それぞれ・夫婦それぞれだなあと思います。同じ保育園に通わせていても、「早く帰って家族全員そろって自宅で夕食を食べたい」親も「延長保育を使ってギリギリまで働きたい」親もいます。子どもを幼稚園に通わせたいから、在宅勤務を選ぶ親もいます。子どもが小学校に上がるタイミングで復職を考えている親もいるし、仕事を辞めるつもりの親だっているのです。こういった微妙な差異を、怖がらないで認め合う勇気が大事です。

もしあなたがこれから「親になる」としても、会社で目の前に座っている先輩と、まったく同じ親になる必要はないです。あの人のようにできないと思ったら、その人が掻き分けて作った道の、ちょっと横に脇道みたいなものを作って、そろりそろりと歩いても別に良い。「私は、『ほんとうは』こういう風に生きたい」という気持ちをないがしろにせず、できるだけ心の声に耳を傾ける。夫や上司など、自分の周囲の人に、その気持ちについて粘り強く話す。そうやって、自分が一番心地よいと思う「仕事と育児」のバランス、自分のスタイルをつくっていけば良いのだと思います。

10年を振り返ってみると、スピードは必ずしも早くはないものの、世の中は確実に、良い方向に向かっているんだと感じています。あの頃は、そんな未来があるとは思えていなかったなあ。いい10年になって、本当に良かった。まだ道半ばな気もしますが、次の世代のために、これからもぼちぼちやっていきます。いっしょに、ぼちぼち、がんばりましょう。

著者:kobeni

kobeni

会社員兼ブロガー。仕事は広告やwebの制作職です。「kobeniの日記」にて、仕事と育児の両立などをテーマに文章を書いています。

次回の更新は、2018年3月14日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

子供の視野も大人の日常も「もう一歩広げる」マンガのすすめ

 堀越英美

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2女の母として抱いた「多くの女児がピンク色を好むのはなぜか」という疑問から現代女児カルチャーを考察した『女の子は本当にピンクが好きなのか』を執筆するなど、フリーランスライターとして活躍する堀越英美(ほりこし ひでみ)さんに、よくあるジェンダー観やキャリア観とは違う価値観を子供にも大人にも伝える「ためになるマンガ」を紹介していただきます。


『女の子は本当にピンクが好きなのか』という、ジャンルとしては女子キャリア教育に属する本を出版したため、娘たちにはどのような教育をしているのかと問われることがよくあります。いつも返答に詰まります。子供であっても他人。他人を思ったように導こうとするとストレスが溜まりますし、自分自身もアルバイト、契約社員、正社員、フリーランス、派遣社員、またフリーランスと行き当たりばったりな経歴であるため、子供の模範には程遠いからです。ただ、長女は最近こんなことを言うようになりました。「お母さんはいいなあ。あんないいお父さんと結婚できたんだからさあ」

なるほど、これなら教え導いてあげられるだろう。キャリア女性向けメディアにも、「女性が結婚後も仕事を続けるためには夫選びが重要!」といった文章がよく載っているではありませんか。しかし女性が小さい頃から接するであろう少女マンガなどの恋愛フィクション作品では、登場する男性キャラクターが美化されがちで、その後のパートナー選びに与える影響も大きいのではないかと感じます。今、母として、妻として、そして女として伝えたい。恋愛マンガを読みすぎるな、と。

少女マンガや乙女ゲームの中の「オレ様オラオラ王子」や「ドS腹黒メガネ白衣男子」、「壁ドン・顎クイ男子」などのキャラクターは、物語に起伏をもたらしてくれますが、共に生活を営むパートナーにはおよそ不向きです。「君が興味を持つものはすべて壊してしまいたくなる……」と闇の深いセリフを吐きながら仕事の大事な資料を引き裂いてヤギのエサにされては困りますし、寝かしつけたばかりの赤子を壁ドン・顎クイで起こされてしまっては、就労どころか就寝さえおぼつかなくなります。「雨に濡れた猫を助ける不良」より「猫にも人間にも親切な真人間」に惹かれてこそ、はたらく女性のQOLも上がろうというものです。

とはいえ、「パートナー選び」「キャリア教育のため」を理由として我が子から恋愛フィクションを遠ざけるというのも、リベラリズムの観点からは考えもの。さまざまなタイプの作品に触れることは大事です。

そこで提案。

オラオラ王子・壁ドン男子が登場する作品よりも、もっと面白くてためになるマンガをたくさん与えれば、子供への影響は相殺され、さらに視野が広がるのでは?

我が家では実際に、「子供でも読めそうな大人向けのマンガ」を購入し、親子で共有しています。中には、小学生の子供が何度も読み返してボロボロになってしまったものも(冒頭の写真参照)。

以下にご紹介するのは、子供と一緒に大人も楽しめ、知らない世界のことを教えてくれるマンガ、または既存のジェンダー観・キャリア観とは異なる価値観を提示してくれるマンガです。子供と一緒に、大人もマンガで学んでみませんか?

ロシア人と結婚した日本人女性から見た「ロシア料理」とは?──『おいしいロシア』(イースト・プレス)

『おいしいロシア』(イースト・プレス)
『おいしいロシア』シベリカ子(イースト・プレス)

読んだ子供がさっそく「スィルニキ作りたい!」(スィルニキはカッテージチーズに小麦粉などを混ぜて焼くだけ)と言って材料を買いに走った、ロシア料理メインのコミックエッセイ。おいしそうなロシア料理のレシピとロシア生活の小ネタが満載です。

ロシア料理といっても、たまたまロシア人と結婚した普通の日本人女性がロシア滞在中に作りやすい方法でアレンジしたレシピなので、日本で入手できる材料でほぼ再現できます。子供でも作れる簡単なものもいくつかありますし、「毛皮を着たニシン」という異世界感あふれるケーキ風の魚料理などもあるので、親子で一緒に料理をするきっかけにもなりそう。クマの姿で登場するロシア人の夫とのやりとりもハートフルです!

おいしいロシア 単行本告知 | Matogrosso

「学問の適性にY染色体の有無は関係ないと思うんです!!」──『決してマネしないでください。』(講談社)

『決してマネしないでください。』(講談社)
『決してマネしないでください。』蛇蔵(講談社)

ハードコアな科学実験に明け暮れる理工系の学生たちと共に科学史を学べる理系ギャグマンガ。主人公は奥手な男子学生ですが、「学問の適性にY染色体の有無は関係ないと思うんです!!」と回りくどく女子をエンパワメントするセリフを発してくれるナイスガイです。常に着ぐるみを着用して本棚の裏に住んでいる物理学科首席の女子学生も登場するので、「女に理系は不向き」というジェンダーステレオタイプの刷り込みも避けられそうです。巻末には実際に子供がマネできる楽しそうな科学実験が紹介されており、夏休みの自由研究にももってこいですね。

何より、学習マンガとしてとても丁寧に作られているのに、絵柄もギャグセンスも今どきの子供好みなのがありがたいです。同じ作者による『日本人の知らない日本語(KADOKAWA/メディアファクトリー)も本書も、うちでは子供が読み込みすぎてデッロデロのボッロボロです。

決してマネしないでください。 / 蛇蔵 - モーニング公式サイト - モアイ

留学先のルームメイトはサウジアラビア女子──『サトコとナダ』(講談社)

『サトコとナダ』(講談社)
『サトコとナダ』ユペチカ(講談社)

アメリカの大学に留学した日本人のサトコが、サウジアラビア出身のムスリム女性・ナダとルームシェアして友情を育んでいく姿を描いた4コママンガ。異国で暮らす2人の女子大生のほのぼのガールズトークで、何かと偏見を持たれがちなイスラム教のしきたりも楽しく学ぶことができます。

日本人から見ると息苦しそうなニカブ(イスラム教徒の女性が着用するベール)ですが、女性が容姿で判断されがちな世界でも「女として対応を変えられることはない」「ニカブを着てると無敵の気分よ」と語るナダに、なるほど一理ある……と納得してしまいます。

さらに考えさせられるのが、ワンピースを手に「かわいすぎて私が着ちゃいけないような気がして」と日本人らしい遠慮をするサトコに、ナダが「どうせ知り合いしか見ないから大好きな服を着るわよ」「サトコって服装自由なのに/私よりよっぽど不自由ね」と突っ込むくだり。ムスリム女性の価値観が、幼い頃から性的対象としてジャッジされる中で自分を客体化しすぎてしまうアメリカやアジアの女子の不自由さを照射します。子供も「布をぐるぐる巻きにしている人への認識が変わった」と感動していました。

「自分で選ぶより親が釣り合いのとれた結婚相手を選んでくれるほうが楽」だというナダの結婚観は、私たちの中になんとなく刷り込まれている「世界で一番好きになれる運命の相手と出会って結婚するのが幸せ」というロマンティックラブの価値観も相対化してくれるでしょう。

『サトコとナダ』ユペチカ | ツイ4 | 最前線

細胞の擬人化! 萌え系細胞の活躍ぶりを見よ!──『はたらく細胞』(講談社)

『はたらく細胞』(講談社)
『はたらく細胞』清水茜(講談社)

人間の体内にいる細胞を擬人化し、細菌やウイルスとの戦いをバトル風に描いた免疫系学習マンガ。免疫系の仕組みについて学ぶのは、将来「首ひねりマッサージで免疫力アップ」「免疫力を高める〇〇水」といった怪しい健康ビジネスにひっかからないためにも、とても有益です。主人公は前髪で片目が隠れている系のぶっきらぼうイケメン「白血球(好中球)」とボーイッシュなドジっ子ガール「赤血球」で、見た目のかっこよさも子供をひきつけているようです。そのほか、

  • メガネイケメン司令官「ヘルパーT細胞」
  • 無邪気なやんちゃ美少年「B細胞」
  • ツインテール美少女「好酸球」
  • 鉈で細菌を殺傷しまくるメイド服姿の「マクロファージ」
  • 黒髪ロングの白衣美女「マスト細胞」
  • 優しく応援して免疫細胞を活性化してくれる癒やし系お兄さん「樹状細胞」
  • 強力な防御壁となる幼女軍団「血小板」

……など、あらゆる細胞が萌えキャラに。性別・年齢を問わない多様な人材(細胞だけど)が人体を守るという目的のもとに協力し、さまざまな危機を乗り越えていく姿は、変化に富む環境に対応するにはダイバーシティが重要であることを再認識させてくれます。親としても、肺炎球菌の怖さ(1話)やムンプスワクチンのありがたさ(13話)などは知っておきたいところです。

はたらく細胞|月刊少年シリウス|講談社コミックプラス

電子工作が得意な女子大生のアキバ系マンガ──『ハルロック』(講談社)

『ハルロック』(講談社)
『ハルロック』西餅(講談社)

おしゃれにも友達作りにも興味がなく、ひたすら電子工作にのめり込む女子大生・向阪晴が奇想天外な発明であれこれ解決していくアキバ系ギャグマンガ。女子力を磨く気配が一切ないヒロインが、天才小学生「うに先輩」や主人公に分解されたい工業高校生らと共に、不在中に猫がやっていることをツイートする「猫Twitter」などの電子工作で人々を助け、将来を切り開いていく姿は、女の子だってマイペースに好きなことを追求していいのだと子供たちを勇気づけてくれます。家庭で入手しやすいRaspberry Pi(ラズベリーパイ)やArduino(アルデュイーノ)といった電子機器が登場するのも、親しみやすくてありがたいです。

このマンガを読んだ直後、子供(当時小2)が「お母さん! ハルロックみたいな電子工作やりたいよ! 電気のこと勉強するよ! 手始めにスタンガン作ってお母さんを倒したいから実験台になって! ところでスタンガンって何?」とテンションだだ上がりになっていたことを、つい昨日のことのようになつかしく思い出します(実行能力がなくてよかったです!)。

ハルロック / 西餅 - モーニング公式サイト - モアイ

著者:堀越英美

堀越英美

1973年生まれ。出版社、IT関連企業などを経てフリーに。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』(ele-king books)。翻訳書に、テクノロジーや空想の 世界を親子で共有するための指南書『ギークマム 21世紀のママと家族のための実験、工作、冒険アイデア』(共訳、オライリージャパン)がある。2女の母。

次回の更新は、2018年2月28日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

仕事は大変だし、働くのはしんどい。でも自分を肯定する部分を見つけてみる|カレー沢薫

絵と文 カレー沢薫


「仕事はあってもなくてもどれでも地獄」

おそろしくネガティブな言葉に聞こえるかもしれない。しかしこれは、仕事のことでメンタルが最高潮に悪いとき、いつも自分を励ますために言っている言葉だ。

どれも地獄なら、今はどれかの地獄からは解放されている、一番マシな地獄にいるのだ、と。

ただ、「誰も励ましてくれる人がいないから出てしまった言葉」とも言えるので「地獄」とか言い出す前に、励ましてくれる人がいる者は先にそっちに行った方がいい。

「働く」のは基本的にしんどい

現在私は、日中、一般企業の正社員として事務員をしながら、夜や休日はこのような執筆業をしている。結婚もしているが、とても主婦業をやっているとは言えない状況なので、ここでは置いておく。そして、その前には、かなり長期間の無職も経験した。

無職、会社員、フリーランス、そしてダブルワーク……さまざまな業務形態を経て、気づいたことは一つ。「仕事はあってもなくてもどれでも地獄」という冒頭の、あれだ。

  • 朝起きて会社に行くのがきつい
  • 仕事が忙しくてきつい
  • やりがいゼロできつい
  • フリーランス故の不規則で不安定な生活がきつい
  • 如実に他人との実力差がわかってきつい
  • 才能のなさがきつい

そして、それらすべてを辞めれば、収入がなくてきつい。

だが、みんな、そうである。

これは、「生理痛つらい」というつぶやきに「俺もさっき急所ぶつけたんだぞ」という異次元からやってくるクソリプのような、いわば「みんなも大変なんだから、お前も我慢しろ」ということではない。

何が言いたいかというと、「仕事はきつい」「大変だ」と感じている人の方が多いのではないか、という話である。

もちろん「仕事が楽しい、生きがいだ」という人もいる。心から仕事が楽しいという人も存在するのだ。それは、とても素晴らしいことだ。しかし、そういう方は、某曲の歌詞からすれば「セロリが好きだったりする」側の人である。

つまり、全体から見ると「少数派の貴重なご意見」である。そのご意見は間違っていない。しかし賛同する必要もない。

「あなたはそれ(仕事)が好きで何より、だが私はどうしても好きになれそうにない。だから仕事は必要だからやることとして、生きがいは別で探すよ」でいいのだ。問題は、「いやあなたも好きになれよ、生きがいを感じろよ」という風潮があるということだ。

世の中、輝いている人ばかりではない

「女性が輝ける社会」

現在しきりに言われていることであるが、女性が輝きやすい社会かというと否である。電源は貸せねえから、自力で光れよ、と言われているのが実情だ。虫か。

しかし「女性が輝ける社会」を提唱される以上、世の中は輝いている人をモデルケースにしてくるのである。

輝きづらい社会で輝いている人、というのは、雪でグラウンドが全然使えなくて練習どころじゃなかったけど甲子園で優勝した人、みたいなものであり「すごい人」なのだ。

それを見て自分も輝きたいと思うのもいいことだ。問題は「輝けていない自分はダメなのでは」と思ってしまうことだ。

できる人基準にしようとするのはよくない。小学生のときにバク転ができないことを教師に延々叱責され、その理由が「クラスに1人できる奴がいるのにお前ができないのはおかしい」だったら、たまらないだろう。

よって、まず輝いている人を見て、劣等感を覚えるのは止めよう。その人が特別なだけで自分は大多数のその他大勢なだけである。

肯定する部分を見つけてみる

そうは言っても、そんなの無理だと思うかもしれない。実は、なんと、私も無理だ。よって、私がやっている、自己肯定法を紹介しよう。

まず、上を見る。上と言っても、嫉妬も起きないほどの神様級ではいけない。むしろ「嫉妬しか起きない上」を見よう。私で言えば、作品が100万部売れたりアニメ化したりするような人だ。皆さんも、同級生で成績も大差なかったのに、今大活躍している奴とかを思い浮かべよう。

そして自分と比べる。つらい、才能がない、努力が足りない、努力が足りないとしたら、怠けているからだ、甘えているからだ。実の祖父でも特別な存在である孫に甘くてクリーミィなキャンディ「ヴェルタースオリジナル」をあげないレベルでダメだ(分からない人は検索)

そうして底までいってしまうとある思いが湧き上がってくる。

「そうは言うても、自分かて、わりとやっとるわ」と。

ブチギレだ。何にキレているのかは不問だ、虚像にキレるのはよくあることだ。確かに100万部は到底売れていないけど、仕事はまだある。火をつければ燃える本だって出せた、親戚が「面白い」と褒めていたと人づてに聞いた、屋根のある家に住んでいる。息をしている、していないとしたら、息もしていないのに生きているのがすごい、という怒涛の自己肯定が始まるのだ。

つまり、現状いくらダメに見えても肯定する部分はいくらでもあるということだ。

もし今の仕事がダメだと思ったら、まず改めて現状を見つめた方がいい。そこからでも遅くはない。そして本当に肯定する部分が何も見当たらなかったときは、未練なく次を探そう。

だが、次を探すとき、世間から「仕事で輝け」と言われるのが無理難題なように、自分も「次は自分を輝かせてくれる仕事」と、仕事に対して過剰な期待をしてはいけない。そうしないとどこにいっても永遠に「ココジャナイ」感を感じることになる。

「今よりマシな仕事」まずはそのぐらいのオーディションテーマでいいのだ。

地獄は天国につながっている

しかし、転職をして環境がよくなったとしても、そこに楽しさややりがいを見つけられるかは別であり、例えば「前よりマシな地獄」「社会保険完備福利厚生の行き届いた定時で帰れる地獄」に来ただけで、働くこと自体をだるいと思う気持ちはなかなか消えないと思う。

よってまずは、仕事自体を無理に楽しもうとする、より「仕事で自分が何を得ているか」を考えた方がいい。「得がたき経験」とか「絆」とかしゃらくさいものでなくていい。むしろそれしか出てこないときは、やりがいという言葉ばかり先行している可能性があるので、まず今の仕事が業務量に比例した賃金になっているか冷静になって振り返ってみよう。そしてその金を何に使っているか考えよう。

私の場合ソシャゲ(ソーシャルゲーム)のガチャだ。ガチャで推しが出たときの感動は筆舌に尽くし難いし、なぜ推しを手に入れられたかというと「出るまで回した」からであり、なぜ回せたかというと「出るまで回す金があった」から。つまり「働いていたから」だ。

仕事はあってもなくてもどれでも地獄、だがその地獄が何らかの天国につながっていると思えば、決して悪い地獄ではないのではないか。

働いていて「しんどさ」を感じたら

「みんな頑張っているから」と無理を重ねた私が、自分を大事にするようになるまで
「みんな頑張っているから」と無理を重ねた私が、自分を大事にするようになるまで
成長を求め続けて疲弊。私に必要だったのは「傷つけない」働き方
成長を求め続けて疲弊。私に必要だったのは「傷つけない」働き方
現状維持、充分すごくない?「自分のできること」を見つめ直してみた
現状維持、充分すごくない?「自分のできること」を見つめ直してみた

著者:カレー沢薫

カレー沢薫

漫画家、コラムニスト。2009年『クレムリン』(講談社)でデビュー。主な著書に『負ける技術』(講談社文庫)、『ブスの本懐』(太田出版)など。
Web:カレー沢薫のHP
Twitter:@rosia29

編集/はてな編集部

「普通」になれず悔しかった社会人生活の中で、エスカレーターが教えてくれた「楽しむ」ことの大切さ

 田村美葉

エスカレーターの収集と分類という、謎の趣味を10年ほど続けています。

インターネットの世界では、ほとんどの場合、「エスカレーターの人」として認知されている私ですが、ふだんはエスカレーターとは何も関係ない仕事についており、その社会人生活もなんだかんだと10年を超えました。

今から10年ぐらい前の秋ごろ、大学4年の私は、薄暗い教室に集まった大勢の後輩たちに向けて、「就職活動成功体験談」を語っていました。他の登壇者に比べて明らかに見劣りする自分の内定先に引け目を感じながらもそんな大役を引き受けたのは、所属する研究室の中から1人代表を出すように言われ、単純にその時点で就職が決まっている人が私しかいなかったためです。

10人以上いた同級生たちの進路は、院への進学、他大への進学、留学、就職留年、単なる留年、ミュージシャンになる、まったく不明、など自由気ままで、文学部をストレートに4年で卒業して就職する、という私のような人は少数派でした。

この10年、いつもそのときの「就職する」という選択が本当に「成功」だったのか、問われている気がしていました。第一線で活躍する方々と比較して私が語れることなんてなんにもないな、と思いながら、また「仕事について語る」という大役を引き受けてしまった今、あらんかぎりの虚栄心でもって語ったあの頃よりは少し正直に、私の「体験談」をお話ししたいと思います。

怒られると泣いてしまう病気

会社の帰り道、夜のオフィス街で静かにゆっくり動き続けるエスカレーターに、よく癒やされていました

普通の会社で普通の社会人生活をスタートした私は、自分が「普通ではない」ことに直面してとても悩みました。具体的には、怒られると泣いてしまう“病気”に罹患(りかん)していました。

プライドが高いとか、承認欲求の塊とか、自己肯定感が低いとか、別の言葉でも言い換えられますが、なんにせよその病気は、社会人としては致命的です。なぜなら、すべての行動原理が「できるだけ怒られないこと」になるから。

怒られるのが嫌だから、電話がとれないし、アポがとれないし、ミスの報告ができないし、嘘をつくし、責任重大な仕事から逃げたい。友達もいない。最終的には、特に怒られるわけでもない評価面談で、毎回泣いていました。

「普通の社会人」になって生きていくことに、なんとなくつまらなさを感じていたはずなのに、その「普通」にすらなれない自分に、とてもがっかりしました。そして、「普通」になりたくて仕方がありませんでした。

「“普通”に考えたらわかるよね」「社会人だったらそれぐらいは”当たり前”でしょ」「なんでそんなこともできないの」

そういうちょっとした言葉に、私は普通じゃないんだ、私は社会人失格なんだ、こんな私には生きている価値もない……と、気軽に絶望する毎日でした。

他人の「普通」に合わせて生きる虚しさ

それでもどうにかこうにか、社会人生活を続けていると、10年もすれば私にはできないと思っていた「普通」のことができるようになってきました。

ヤバいと思ったらまず電話する。ミスをしたら即座に謝る。わからないことは質問する。ちゃんと頭を下げて人に依頼する。わからなかった「普通」をひとつひとつ分解し単純な動きにして、意識して繰り返す。そうやって、ぎこちなくともなんとか、まずまず、というレベルまでは来れました。

新入社員を教育する立場になって初めて、これらは「できて当たり前のこと」ではなくて、「できなくても当たり前のこと」だったなぁと感じたし、できるようになった自分が嬉しくもありました。特別な技術が必要な専門職や営業職ではなく、その間を取り持つディレクション的な立場になることが多く、「自分は調整のプロフェッショナルになれるなぁ」と思うこともよくありました。デスマーチ的な無理めの課題を粛々とこなしていくのは、わりと得意なのではと思います。

そんなふうに自分に自信がつく一方で、評価面談では相変わらず泣いていました。「10年後、何をしていたいですか?」という当たり前の質問に、答えることができませんでした。

自分のやりたいことは押し殺して、妥協だらけで仕事を回しているうちに、自分の本当の気持ちがいつの間にか、まったく見えなくなっていました。それなのに、「やらなくてはいけないこと」にばかりよく気が付くようになって、「本当は苦手なこと」ばかりがどんどん得意になっていく。他人の評価だけが死ぬほど気にかかり、不安でいっぱいでした。

そして30歳を迎える頃になると、結婚と出産が「女の人生のやらなくてはいけないことナンバーワン」にのしあがってきました。どうにかこうにか「普通の社会人」になれたと思ったら、今度は「普通の女」にならなきゃいけないのかと思ったら、なんだか一気に力が抜けていきました。

自分が必死になって登っていた山が間違いで、遠くから「おーいそっちじゃないよ」と言われた気分でした。「だったら最初から言ってよ!」と叫びそうになって初めて、他の人の「普通」に合わせて生きることに大きな虚しさを感じました。

私にとってずっと大切だった、「自分が楽しければ、それでいい」という言葉

自分で言うのもなんですが、私は結構がんばるタイプだと思います。怠惰でやる気にムラがあるのは事実だけれど、そういうときですら、がんばっていない自分に罪悪感がある。何かができないとき、うまくいっていないときは、いつも精神的に不安定になってしまう。

そういういろんな問題があって、今は、がんばっていたディレクションの仕事から完全にはずれて、代わりに半ば趣味で続けていた「文章を書く仕事」のみを会社で担当させてもらっています。

そんなありがたい境遇にいながら、それでも私は傲慢なことに、今でもずっとモヤモヤしています。後輩が、私がやっていたときよりぐんぐん成果をあげていたり、Facebookで知人が結婚や出産を報告していたり。自分より「がんばっている人たち」を見るといつも胸がぎゅっと苦しくなって、つらい。私は結局何も達成できていないまま、苦手なことから逃げて楽しいことをやっているだけなんじゃないか、という気がしてきます。

そんな絶望しがちの人生で、どうしようもなくなったとき、私にはいつも思い返す言葉があります。その体験は、かれこれ小学生時代にまでさかのぼります。

ある日、休み時間にサッカーで遊んでいたとき、自分に回ってきたパスが上手に受けられず、「私、いないほうがいいよね……」と同じチームの男の子に何気なく話したことがありました。そのとき、その子は「自分が楽しければ、それでいいんだよ」という言葉をくれました。

結果が出せなくて、今までやってきたことが全部無駄だった気がして、泣いてしまう夜にその言葉を思い出し、「でもまぁいっか、楽しかったし」と思えたことが、今までどれだけ、私の救いになってきたことでしょう。

エスカレーターが教えてくれた、大切なこと

正直に言って、エスカレーターの収集と分類にのめりこんだのは、うまくいかない仕事からの「逃げ道」としての部分が大きかったと思います。

ただ、エスカレーターを好きでいることは、奇跡的なまでに「自由」なことでした。誰かと競い合わなくてもいい。「普通」を気にしなくてもいい。目標もないし、そもそも、なんの役にも立たない。でも楽しい。ただ楽しくやっているうちに、テレビ出演もしました。ライターとしての仕事を初めていただいたのもエスカレーターを通じてでした。だけど、それは決して、私にとっての「目標」ではなかった。

今だって、特に本を出版したわけでも、さほど有名な人になったわけでもありません。ライターとしてのお仕事だけで食べていくことすらできていない。おそらく、それを「目標」だ、「夢」だと考えてやっていたら、私はまた、他の人たちと比較して、どうして私はうまくいかないんだろう、もしかして、エスカレーターっていう題材が悪いんじゃないか……ライターとしての才能がないんじゃないか……とか、うじうじ悩んでいたんではないかと思います。

ただ、そんなことは、どうでもよいことなんです。

時々、エスカレーターのサイトを見て、「これ、自分で全部、撮りに行ったんですか?」と驚かれることがあります。もちろん、そうです。そうでないと意味がない。現地でそれに出会ったときの、人には説明しにくい自分だけの感動が、「エスカレーター収集」という趣味を、そして私の人生を支えているから。

そういうふうに思えるようになったことは、私にとって最大の幸運でした。あんなに逃げていた仕事も、「認めてもらいたい」という気持ちが強すぎて、仕事それ自体に打ち込むことの楽しさをいつしか忘れていたことにも気付きました。

誰かと競い合うことではなく、誰かに認めてもらうことでもなく、何の意味もなく何かに没頭することの楽しさを、私はすべて、エスカレーターに教えてもらいました。

それが何の役に立つのかなんてどうでもいい。ひとつひとつ、目の前にあることに夢中になること。ひとつひとつ、ちゃんと「楽しい」と思えるやり方を選ぶこと。

今だって迷いまくりだし、これが答えだ!なんて言うつもりはぜんぜんないけれど、仕事でも大切なのは、自分が「楽しい」かどうかなんじゃないか、という気がしています。

何につながるかは謎でも、ひとつひとつ、自分が楽しいと思う方法で、妥協せずに取り組みたい。自分の気持ちを押し殺して最短距離を行こうと無理にがんばるより、ただ夢中で、楽しんでいるときのほうが、ひょんなことから思いがけずよい話がやってきたりもするものです。結果とか、夢とか目標とかそんなものは、成り行きで叶えればいいのだと思います。何も成し遂げていない私が、今、正直にお話できるのはそんなところです。

あの日、小学生だったあの子のように、いつも心からのまっすぐな言葉を、大切な誰かに届けられるひとでありたい、と思います。

著者:田村美葉 (id:tamura38)

田村美葉

1984年生まれ、石川県金沢市出身。東京大学文学部卒。会社員。 日本でおそらく唯一ぐらいのエスカレーター専門サイト『東京エスカレーター』を運営、「高架橋脚ファンクラブ」の会長職を務めています。
http://www.tokyo-esca.com

長野と東京を行ったり来たり。私の「RPG的二拠点生活」

 ナカノヒトミ
富士山

2017年3月からフリーライターとして活動している私は、地元・長野県を拠点にしながら、たまに上京するという二拠点生活を送っている。

普段は実家からほど近い祖母の家(説明するとちょっと複雑なので割愛)に暮らし、東京に行った際は恋人や友人宅にお邪魔させてもらう、というスタイル。

今回は、約3年間の会社員時代を経てフリーランスになった私が二拠点生活をするようになるまでを振り返ってみたいと思う。

東京への強い憧れ

長野県に生まれ、小・中・高とほぼ県外に出たことがなかった私は東京に憧れていた。父が出張で六本木ヒルズに行くことを知ると、興奮してヒルズのショップガイドをプリントアウトしてこの店に行ってこいとせがむような娘だった。

高校卒業後、浪人していた私は、一足先に大学生になった友人がmixiでつぶやく「渋谷で飲み」「原宿で買い物」といった地名に触発されながら受験勉強に励んでいた。新しいものがいち早く手に入り、どんな文化も最先端にある東京は、憧れの場所。

浪人時の息抜きと言えば、当時テレビで放送されていた『爆笑レッドシアター』や『エンタの神様』などのお笑い番組だった。「大学に受かって上京したら『ルミネtheよしもとにお笑いを観に行く』」ことが勉強のモチベーションにもなった。

東京の景色

一浪を経て、東京の大学へ進学することが決まった。ようやく手に入れた東京への切符。最新の情報・文化が集まるこの東京を楽しみきるには、4年間という大学生活は短すぎる……。大げさかもしれないが、それほど東京に憧れていたのだ。

念願のお笑いライブや、買い物に旅行と東京での大学生活4年間をとにかく謳歌し、周囲がリクルートスーツに身を包み始めても「スーツを着て行う就職活動はしない! 時間と労力のムダだ」と斜に構えていた私。言うまでもなく、続々と内定をもらう友人に圧倒的な差をつけられていた。

そして、大学卒業間近の12月。「おっと、大学卒業して4月からどうするんだっけ?」とようやく慌てだした。

人と足並みをそろえたくないけど、レールからはギリギリ脱線したくない。私はそういう人間なんだと思う。

ようやく始めた就職活動。インターネットに掲載された求人情報の一つに、目が留まった。

「長野県出身の社長」「地元に関わる仕事ができる」「渋谷勤務」


その求人は、魅力的だった。渋谷勤務でありながら、地元に関わることができるから。なるほど渋谷が本社で、長野県内に支社があるようだ。直感的に面白そうだと思い、事業内容はよく見ずに設立3年目のベンチャー企業に迷わずエントリーした。面接をパスして晴れて内定をもらったのは2月。滑り込みだが4月からは社会人として働くことが決まった。

社会人1年目、心はまだ学生気分だった

「あれだけ東京に憧れていて、どうして地元に関わる仕事を?」

私の選択にそう思う人もいるかもしれない。確かに自分でも不思議なのだが、「大学を卒業しても長野に戻らず、東京で働こう!」と思いつつも、どこかしら「地元に戻らない後ろめたさ」みたいなものを感じていたのだと思う。

もともと地元が嫌いで東京に飛び出したわけではなかったし、盆と正月に帰ると、実家のおいしいご飯があって、気の置けない友達と集まり昔話に花を咲かせることができる。スピード感のある東京に比べると、時の流れがゆるやかに感じる地元は心地よい。

特にやりたいことがあったわけでもなく、ただ漠然と東京で働ければいいと考えていた私の職業選択は、「いつでも自分を受け入れてくれる地元を守りたい」というささやかな地元貢献の表れだったのかもしれない。

長野の野菜を売る

私が入社した会社では、新卒を受け入れるのが初めてだった。新人研修はなく、「やって覚える」スタンス。入社1日目からとにかくトライアンドエラーを繰り返した。メールのやり取りや電話番から、イベントの企画・運営まで。何のスキルもなく社会人になった私は、次々と降ってくるタスクに自分なりに向き合っていた。仕事が終わって渋谷・道玄坂を上って1人帰宅する度に、社会人になったことを実感していた。

でも、心はまだふわふわとしていたんだと思う。

そう感じるようになったきっかけは、入社して最初に携わった大きな仕事でもある、長野県産のアスパラを東京で販売するマーケットの企画。長野県出身で首都圏の大学に通う学生たちと一緒に野菜を販売する、というものだ。

企画に携わっていた半年間は楽しかったが、その先に自分のスキルアップした姿を想像できず常にやきもきしていた。大学生と関わる時間が長かった分「社会人になったものの、スキルも肩書きもない。大学生と何が違うんだろう。私は何者なのだろうか」と思うようになった。早く何者かになりたくて仕方がなかったのだ。

「ライター」という肩書きを与えられ、長野へUターン

ふわふわとしていた私に転機が訪れたのは、入社1年目の12月。会社でWebメディアを立ち上げることになり、突如「ライター」の肩書きが与えられたのだ。実力はさておき、何者でもなかった自分に名乗れるスキルが備わる余地ができたことが嬉しかった。就業後、都内のライター関連のイベントに参加しては、士気を高めていた。

が、しかし。突如長野への異動が決まった。

いきなり告げられた長野行きをすぐには受け入れることはできなかった。まだまだ東京で暮らしたかったし、ライターという肩書きをもらえたのは、私の心に火がつくことだったからだ。「東京のライター」になりたかった。とはいえ、就職活動の時と同様、レールからは脱線したくない私は、まだ会社を離れるという道を選択できなかった。

思えばこれが私の二拠点生活のスタートだった。

社会人1年目の終わりとともに長野に戻ってきたが、やはり東京への未練は残っていた。その証拠に多いときは毎週末、東京に足を運んでいた。表立った理由は、興味のあるイベント(主に趣味のもの)や飲み会(同業者や学生時代の友達と)への参加がメインだったが、本心は東京とのつながりが絶たれてしまうことが怖かったのだ。

あまりにいつも東京にいるので、都内で会う人に長野へUターンしたことを知らせると驚かれた。長野にいながらも、心はいつも東京にある状態。誰に対して怒るわけでもなく、いつか東京に戻ってやる! と燃えていた。

東京の景色

しかし、徐々に長野での生活にも慣れ、社会人2年目の後半になってくると東京に行く回数も落ち着いてきた。地元に新しさを感じるようになったからだ。長野では、ライターとしてさまざまな人を取材した。長野を移住先に選び雑貨屋やカフェを営む人や、地元に根付いた商店街の活性化に力を入れる人がいることを知った。今まで「東京がいい」と外を向いていた心も「長野もいいな」と内側を向くようになった。

社会人3年目からは、副業として外部のWebメディアとも仕事をさせてもらうようになった。そして、どこでも地元メディア「ジモコロ」で父を取材したことがきっかけで、約3年間勤めていた会社を辞め、フリーライターになることを決めた。個人事業主として自分のやりたいことを体現する父に憧れた、衝動的な独立だった。

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二拠点生活 = RPG

フリーライターになってもうすぐ1年、長野に戻って3年が経とうとしている今、私はまだ地元にいる。

収入が安定しないフリーランスになったため、長野を拠点とすることで生活コストが抑えられるリスクヘッジという側面もある。ただ、収入が安定したら東京に行くかと言われたら、分からないというのが今の正直な気持ちだ。

私にとっての二拠点生活はロールプレイングゲーム(RPG)のようだ。

長野が案件という名のモンスターがいる「フィールド」だとしたら、東京は「宿屋」であり「武器屋」なのである(例えが悪いが)。また闘えるように、とHPを回復するために行き来している。だから往復すればするほどレベルアップできると思っている。


少し前の私は、長野に定住することで東京のスピード感に追いつけなくなるのではないかと焦っていた。しかし、別に一つの拠点に決めきる必要はないと思った途端、気持ちが楽になった。長野に拠点を置いて、東京にたまに行くことが、フリーランス1年目を終えようとしている私にとっての最適解だ。現在、月どれくらいの頻度で東京に行ったら調子よく仕事ができるのか、チューニングを行っている最中である。

もしかしたら今後、結婚を機に拠点を変えるかもしれないし、都内の企業で働き始めるかもしれない。それでも、二拠点生活は続けていきたいと思っている。

著者:ナカノヒトミ

ナカノヒトミ

1990年長野県生まれ。2017年3月に約3年間勤めていた会社を辞めフリーライターに転身。どこでも地元メディア「ジモコロ」などウェブメディアを中心に執筆を行う。ストーリーを感じるもの、小さいものが好き。

Twitternote

次回の更新は、2018年1月17日(水)の予定です。

編集/はてな編集部

「好き」を本業にしなくても、人生は楽しい 肩書きを分散させてゆるふわと働く

 ひらりさ

「仕事」について書くことを頼まれたときに、私、ひらりさの仕事を一体どう紹介していいのか、いまいちよく分からない。

「渋谷にあるIT系ベンチャー企業で働いています」

「編集・ライターをしています」

「先日『浪費図鑑』という本を出した、同人サークル『劇団雌猫』のメンバーです」

全部が全部、私だ。「毎日寝て暮らしたい」と思っていたのに、気がつけば肩書きは3つになっていた。そして、この3つはお互いに多少は関係しつつも独立したものであると私は思っている。

東日本大震災が、進路転換のきっかけだった

なぜ、肩書きが3つになったのか。それは本当に「成り行きで……」としか言いようがない。

まず、最も大きな収入源であり、本業といえるのが会社員業。

2度転職して今が3社目だが、一貫してIT系ベンチャー企業で働いている。別に大学時代から「やっぱ時代はIT系ベンチャーだぜ」と思っていたわけではなく、本当は弁護士になろうとしていた。

けれど、2011年3月に発生した東日本大震災を機に「明日死ぬかもしれないのに、数年先を見据えて黙々と勉強し続けるのは無理だ!!!」と自分の中で何かが臨界点に達し、弁護士の他に興味があった出版・マスコミ業界に舵を切って、Webメディアの立ち上げ準備をしていたベンチャー企業に社員1号として入社した。

その後、社員は増えていったが、周囲は社会人経験のある中途入社の先輩ばかりで、入社1〜2年くらいは本当に怒られ通しだった。「新卒 1年経っても 怒られる」とかでググっては、Yahoo!知恵袋に同様のお悩み相談が寄せられているのを見て「私だけじゃない……よかった……」と安心していた。

それでもベンチャー企業で働くのは結構性に合っていたようで、その後もベンチャー畑を突き進んでいる。

次に、フリーランスで請け負っている編集・ライター業。

こちらは、新卒1社目でWebメディアの編集をしていた縁から声を掛けてもらえるようになった。徐々に新しい媒体からの依頼も増えていき、今でも継続している。自分がインタビューしたいマンガ家さんを媒体に提案してWebに載せてもらったり、媒体から依頼を受けてまとめた企画が紙の雑誌に載ったりと、月に2〜3案件のペースで進行中だ。これまでやってきた仕事内容についてはサイトでまとめている。

最後に劇団雌猫。

「なんなんだよそれは」となる方も多いと思うが、こちらは2016年に友人たちとノリで始めた同人サークルだ。知人たちに声を掛けて「浪費」に関するエピソードを寄稿してもらった同人誌『悪友』がおかげさまで好評となり、後に『浪費図鑑 ―悪友たちのないしょ話―』(小学館)として書籍化。いろいろなインタビューや企画の依頼も舞い込むようになった。

同人サークルとしての活動(冬コミ、12月31日に出ます!)にとどまらず、メンバーでわいわいと新しい企画を仕込んでいる。現在の私の生活では重要な活動の一つになっていて、LINEグループ上で毎週のように定期ミーティングも行っている。

blog.hatenablog.com

それぞれについてざっと説明してみたが、完全に成り行きゆえの3足のわらじなのがお分かりいただけただろうか。自分でも自分のことが結構不安だ。

しかしインターネットだとヘラヘラして見えるのか、あるいは「IT」「ベンチャー」「ライター」といった言葉によってキラキラ補正がかかるのか、「ひらりささんのように好きなことを仕事にしたい」「やりたいことを仕事にしていてうらやましい」といった悩みや感想を寄せられることも少なくない。たしかにそう見えるかもしれないが、どうしてもやりたいものや好きなことを頑張って引き寄せたのかというと、ちょっと違うなあと思う。

本当にやりたかったのは「BLの編集」


3足のわらじとはいえ、旅行を楽しむ時間もある。こちらは、毎年訪れている台湾・台北での1枚

前述の通り、私は弁護士になろうと考えていた。法科大学院への入学を予定していたのだが、大学の卒業間際に考え直し、出版業界を目指すことになる。就職留年の危機に見舞われながらも進路を変えた理由は、「ボーイズラブ(BL)小説の編集者」になりたかったからだ。当時の私はとにかく大量にBLを読み込んでいたし、毎日BLのことを考えて暮らしたいと本気で考えていた。

けれど、実際に就職したWebメディアは、20〜30代の男性ビジネスマンがメインターゲットのビジネス・カルチャー媒体。ビジネスの「B」とボーイズラブの「B」は限りなく同一だと私は思っているが、かといって新卒未経験のペーペーが「BL小説載せたいです!」というわけにもいかない。「編集」という職種は願望と一致していたが、ずばりぴったり好きな分野かというと全然違った。

それでフラストレーションが溜まったか? というと、そんなことはなかった。

むしろ思い入れの強すぎない分野に携わる方が、客観的な視点や新鮮な視点を持つことができた。それまで自分の興味関心外だった分野のことも知ることができ、結果的によかったかも……と感じられたのだ。仕事に慣れてきてからは自分の趣味に寄せた記事も担当したが、それも本分としてはビジネス・カルチャー系の媒体だという認識だからこそ、新しい切り口でやれたという気がしている。

周囲にはBLやアニメ、マンガが私以上に好きで、実際にBL編集部やアニメ業界で働いている知り合いなどもたくさんいる。それはそれで毎日楽しそうなのだが、私の場合は、好きなことそのものを仕事にしない方が性に合っていたと今は確信している。だって、仕事ってやっぱり仕事なのだ。

ある人気作品においてトラブルが起き、それが世間で話題になったとき、「もう素直な気持ちであのアニメを見ることはできない……」と悲しむファンを何人も見た。非常に痛ましい話だと思ったものの、この件について感情のままにあれこれとネットで発言できるのは、仕事としてその作品に携わっていないからこその特権ともいえるだろう。もし自分の業界でそのようなトラブルが起きたなら、感情を飲み込んだ状態で仕事をし続けなければならない。

もちろん飲み込む覚悟をもって「好き」と心中する人も尊敬しているけれど、私は自分の「好き」に対して吐き出せるファンとしての権利を大切にしたいし、「好き」だからと過重労働に身を置いている人を見ていると、まるで「好き」を人質に取られているようだ……と心配にもなる。

その「仕事」におけるスタンダードが自分にとって適切かどうかを見極める上では、その業界を「好き」すぎない方がいいとも感じる。実際に私は、嫌な仕事をやっている人よりも、「好き」を仕事にしたために頑張りすぎて体調を崩した人を多く目にしてきた。

「天職」につく必要は、全然ない

では、仕事に「好き」はまったく必要ないかというと、そうではない。「仕事は純粋にお金のため」「趣味で浪費するために仕事をしているだけ」と割り切れる人はともかく、仕事に関わるジャンルや業務内容に対して、ある程度の興味を持てる方が絶対にパフォーマンスはよくなるだろう。

ただ、仕事を選ぶときに「好き」を一番の判断基準にする必要もない。自分の趣味嗜好とスキルにぴったり合う「天職」を探すのではなく、「私に向いている仕事は他にもいろいろあるかもしれないけれど、とりあえず今はこれをやってみよう」くらいのマインドの方が、人生はうまくいくんじゃないかと思う。

アニメのクールが変わればジャンルを乗り換えるオタクがいるように、「好き」って結構細かく変わるし。

そして、私が現在3足のわらじを履いているのは、ファンとしていろいろと吐き出せる距離感を保ちつつ「好き」に関わろうとした結果である。

「会社員業>>>>編集・ライター=劇団雌猫」くらいのバランス感で3つの“仕事”をこなしているわけだが、後者の2つについては、「楽しくやれる」範囲を心掛けている。何か1つのものに打ち込んでいる人から見れば、私がやっていることは「仕事」ではなく「趣味」の範疇(はんちゅう)とすらいえるかもしれない。自分としても完全に「仕事」かというと、たしかに「半分仕事・半分趣味」みたいなところがある。

とはいえ、SNSが発達した時代に生きているおかげで、こうして中途半端に見える人間にも仕事を持ち掛けてくれる人がいるので、楽しくお金を稼げている。「好き」を仕事にしたいと思うなら、まずは「好き」を趣味として盛り上げていき、人の目に留まるのを待つというのも、一つの手なのではないかと思う。

「明日死ぬとしても、今これをやっていていいの?」を自分に問い掛けて

……と、とっても偉そうに言ってみたが、3足のわらじ生活はまだまだ試行錯誤の途上だ。スケジューリングにはかなり気をつけ、休息も重要なタスクとして組み込むようにしているが、それでも体調を崩してしまうことはあるし、精神的にいっぱいいっぱいになって、ワーッと他人に愚痴ってしまうこともある。まだまだ会社員として未熟な部分が多いのを3社目にして実感しており、ひとまずは本業でのスキルアップを第一にしている。

また、肩書きを3つに分散しているからこそ、1つで悩んでいるときに別の2つが息抜きとして機能することも多い。私にはパートナーも子供もいないけれど、その分、仕事と趣味とその結果の成果物が、大きな心の支えになっている。

現在、28歳。これから人生の優先事項がどう変わっていくかは分からない。それこそパートナーができたり子供ができたりすれば、3足のわらじを整理すべき日も来るだろう。逆にわらじが増えていき、個々の肩書きもなくなって、「何やってんのかよく分からない人」になる日も来るかもしれない。未来のことは分からないけれど、「明日死ぬとしても、今これをやっていていいの?」を基準に、これからもゆるふわと労働していきましょう。

著者:ひらりさid:zerokkuma1

ひらりさ

平成元年生まれ。酒とBLを主食とする腐女子にして、同人サークル「劇団雌猫」メンバー。
ブログ:It all depends on the liver.
Twitter:https://twitter.com/sarirahira

次回の更新は、12月27日(水)の予定です。

編集/はてな編集部