長野と東京を行ったり来たり。私の「RPG的二拠点生活」

 ナカノヒトミ
富士山

2017年3月からフリーライターとして活動している私は、地元・長野県を拠点にしながら、たまに上京するという二拠点生活を送っている。

普段は実家からほど近い祖母の家(説明するとちょっと複雑なので割愛)に暮らし、東京に行った際は恋人や友人宅にお邪魔させてもらう、というスタイル。

今回は、約3年間の会社員時代を経てフリーランスになった私が二拠点生活をするようになるまでを振り返ってみたいと思う。

東京への強い憧れ

長野県に生まれ、小・中・高とほぼ県外に出たことがなかった私は東京に憧れていた。父が出張で六本木ヒルズに行くことを知ると、興奮してヒルズのショップガイドをプリントアウトしてこの店に行ってこいとせがむような娘だった。

高校卒業後、浪人していた私は、一足先に大学生になった友人がmixiでつぶやく「渋谷で飲み」「原宿で買い物」といった地名に触発されながら受験勉強に励んでいた。新しいものがいち早く手に入り、どんな文化も最先端にある東京は、憧れの場所。

浪人時の息抜きと言えば、当時テレビで放送されていた『爆笑レッドシアター』や『エンタの神様』などのお笑い番組だった。「大学に受かって上京したら『ルミネtheよしもとにお笑いを観に行く』」ことが勉強のモチベーションにもなった。

東京の景色

一浪を経て、東京の大学へ進学することが決まった。ようやく手に入れた東京への切符。最新の情報・文化が集まるこの東京を楽しみきるには、4年間という大学生活は短すぎる……。大げさかもしれないが、それほど東京に憧れていたのだ。

念願のお笑いライブや、買い物に旅行と東京での大学生活4年間をとにかく謳歌し、周囲がリクルートスーツに身を包み始めても「スーツを着て行う就職活動はしない! 時間と労力のムダだ」と斜に構えていた私。言うまでもなく、続々と内定をもらう友人に圧倒的な差をつけられていた。

そして、大学卒業間近の12月。「おっと、大学卒業して4月からどうするんだっけ?」とようやく慌てだした。

人と足並みをそろえたくないけど、レールからはギリギリ脱線したくない。私はそういう人間なんだと思う。

ようやく始めた就職活動。インターネットに掲載された求人情報の一つに、目が留まった。

「長野県出身の社長」「地元に関わる仕事ができる」「渋谷勤務」


その求人は、魅力的だった。渋谷勤務でありながら、地元に関わることができるから。なるほど渋谷が本社で、長野県内に支社があるようだ。直感的に面白そうだと思い、事業内容はよく見ずに設立3年目のベンチャー企業に迷わずエントリーした。面接をパスして晴れて内定をもらったのは2月。滑り込みだが4月からは社会人として働くことが決まった。

社会人1年目、心はまだ学生気分だった

「あれだけ東京に憧れていて、どうして地元に関わる仕事を?」

私の選択にそう思う人もいるかもしれない。確かに自分でも不思議なのだが、「大学を卒業しても長野に戻らず、東京で働こう!」と思いつつも、どこかしら「地元に戻らない後ろめたさ」みたいなものを感じていたのだと思う。

もともと地元が嫌いで東京に飛び出したわけではなかったし、盆と正月に帰ると、実家のおいしいご飯があって、気の置けない友達と集まり昔話に花を咲かせることができる。スピード感のある東京に比べると、時の流れがゆるやかに感じる地元は心地よい。

特にやりたいことがあったわけでもなく、ただ漠然と東京で働ければいいと考えていた私の職業選択は、「いつでも自分を受け入れてくれる地元を守りたい」というささやかな地元貢献の表れだったのかもしれない。

長野の野菜を売る

私が入社した会社では、新卒を受け入れるのが初めてだった。新人研修はなく、「やって覚える」スタンス。入社1日目からとにかくトライアンドエラーを繰り返した。メールのやり取りや電話番から、イベントの企画・運営まで。何のスキルもなく社会人になった私は、次々と降ってくるタスクに自分なりに向き合っていた。仕事が終わって渋谷・道玄坂を上って1人帰宅する度に、社会人になったことを実感していた。

でも、心はまだふわふわとしていたんだと思う。

そう感じるようになったきっかけは、入社して最初に携わった大きな仕事でもある、長野県産のアスパラを東京で販売するマーケットの企画。長野県出身で首都圏の大学に通う学生たちと一緒に野菜を販売する、というものだ。

企画に携わっていた半年間は楽しかったが、その先に自分のスキルアップした姿を想像できず常にやきもきしていた。大学生と関わる時間が長かった分「社会人になったものの、スキルも肩書きもない。大学生と何が違うんだろう。私は何者なのだろうか」と思うようになった。早く何者かになりたくて仕方がなかったのだ。

「ライター」という肩書きを与えられ、長野へUターン

ふわふわとしていた私に転機が訪れたのは、入社1年目の12月。会社でWebメディアを立ち上げることになり、突如「ライター」の肩書きが与えられたのだ。実力はさておき、何者でもなかった自分に名乗れるスキルが備わる余地ができたことが嬉しかった。就業後、都内のライター関連のイベントに参加しては、士気を高めていた。

が、しかし。突如長野への異動が決まった。

いきなり告げられた長野行きをすぐには受け入れることはできなかった。まだまだ東京で暮らしたかったし、ライターという肩書きをもらえたのは、私の心に火がつくことだったからだ。「東京のライター」になりたかった。とはいえ、就職活動の時と同様、レールからは脱線したくない私は、まだ会社を離れるという道を選択できなかった。

思えばこれが私の二拠点生活のスタートだった。

社会人1年目の終わりとともに長野に戻ってきたが、やはり東京への未練は残っていた。その証拠に多いときは毎週末、東京に足を運んでいた。表立った理由は、興味のあるイベント(主に趣味のもの)や飲み会(同業者や学生時代の友達と)への参加がメインだったが、本心は東京とのつながりが絶たれてしまうことが怖かったのだ。

あまりにいつも東京にいるので、都内で会う人に長野へUターンしたことを知らせると驚かれた。長野にいながらも、心はいつも東京にある状態。誰に対して怒るわけでもなく、いつか東京に戻ってやる! と燃えていた。

東京の景色

しかし、徐々に長野での生活にも慣れ、社会人2年目の後半になってくると東京に行く回数も落ち着いてきた。地元に新しさを感じるようになったからだ。長野では、ライターとしてさまざまな人を取材した。長野を移住先に選び雑貨屋やカフェを営む人や、地元に根付いた商店街の活性化に力を入れる人がいることを知った。今まで「東京がいい」と外を向いていた心も「長野もいいな」と内側を向くようになった。

社会人3年目からは、副業として外部のWebメディアとも仕事をさせてもらうようになった。そして、どこでも地元メディア「ジモコロ」で父を取材したことがきっかけで、約3年間勤めていた会社を辞め、フリーライターになることを決めた。個人事業主として自分のやりたいことを体現する父に憧れた、衝動的な独立だった。

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二拠点生活 = RPG

フリーライターになってもうすぐ1年、長野に戻って3年が経とうとしている今、私はまだ地元にいる。

収入が安定しないフリーランスになったため、長野を拠点とすることで生活コストが抑えられるリスクヘッジという側面もある。ただ、収入が安定したら東京に行くかと言われたら、分からないというのが今の正直な気持ちだ。

私にとっての二拠点生活はロールプレイングゲーム(RPG)のようだ。

長野が案件という名のモンスターがいる「フィールド」だとしたら、東京は「宿屋」であり「武器屋」なのである(例えが悪いが)。また闘えるように、とHPを回復するために行き来している。だから往復すればするほどレベルアップできると思っている。


少し前の私は、長野に定住することで東京のスピード感に追いつけなくなるのではないかと焦っていた。しかし、別に一つの拠点に決めきる必要はないと思った途端、気持ちが楽になった。長野に拠点を置いて、東京にたまに行くことが、フリーランス1年目を終えようとしている私にとっての最適解だ。現在、月どれくらいの頻度で東京に行ったら調子よく仕事ができるのか、チューニングを行っている最中である。

もしかしたら今後、結婚を機に拠点を変えるかもしれないし、都内の企業で働き始めるかもしれない。それでも、二拠点生活は続けていきたいと思っている。

著者:ナカノヒトミ

ナカノヒトミ

1990年長野県生まれ。2017年3月に約3年間勤めていた会社を辞めフリーライターに転身。どこでも地元メディア「ジモコロ」などウェブメディアを中心に執筆を行う。ストーリーを感じるもの、小さいものが好き。

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次回の更新は、2018年1月17日(水)の予定です。

編集/はてな編集部