
2026年7月、気づけば今年も半分が終わっていた。あれ……私、この一週間、何をしていたっけ。
仕事をして、YouTubeを見て、Xを見て、寝る。たまに友達と飲みにいったり、遊んだり、それなりに楽しく過ごしている。でも、自分が何を感じてこの数ヶ月を過ごしていたか、うまく思い出せない。最近、何に幸せを感じて、何に怒り、悲しんだっけ?
「そうだ、そんなときは日記を書けばいいんだ!」……と、こんな感じで筆者は幾度となく日記にトライしては、一ヶ月が経ったくらいでいつも放置してしまう。とにかく日記が続かないのだ。
そしてまた気付けば時は流れ、あっという間に月日は巡る。
とりあえず仕事をして、ちょっとした隙間時間はドンデコルテの漫才のように「現実からスワイプ!」し続けていた筆者だが、最近どうにも時間の流れ方に違和感を覚えていた。毎日それなりに忙しく過ごしているはずなのに、振り返ると何を感じ、何を考えていたのかが思い出せない。
今回は、そんな悩みを哲学者の谷川嘉浩さんにぶつけてみた。
『増補改訂版 スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー携書)。ついつい不安や退屈をスマホで埋めてしまう、現代に生きる私たちの「孤独」や「時間の使い方」について考え直すきっかけを与えてくれる一冊
谷川さんは、累計11万部を突破した『スマホ時代の哲学』の著者だ。
『スマホ時代の哲学』には、自分のモヤモヤと地続きの問いが数多く書かれていた。だからこそ谷川さんに聞いてみたいと思った。“生きている実感”は、どうしたら取り戻せるのだろうか?

話を聞いた人:谷川嘉浩さん
1990年生まれ。京都市在住の哲学者。博士(人間・環境学)。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。著書に、『増補改訂版 スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー携書)、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)など。社会時評やカルチャー評論、エッセイなどで活動するほか、企業との協働も。ポッドキャスト「Ink & Think」「To the Lighthouse – 視点と生活のラジオ – 」更新中。
流れゆくSNSに“摩擦”を起こす?

━━私、日記を書こうとしても、いつも途中で諦めてしまうんです。どうしたら日記を続けられますかね?
そもそも、どうしてそんなに日記を書きたいんですか?
━━何か感情を残しておかないと、生きている実感がないというか……。気が付けば一日が終わり、一ヶ月が過ぎ、振り返ったときに何もないまま人生が終わってしまうような気がするんです。
なるほど。はるまきさんの日記を書きたい理由は、いまエッセイや短歌が人気を集めている説明になっている気がします。
エッセイや短歌を発信している人って、自分の生活や経験、日々の感情をしっかりと言葉にしていて、“生きている実感”を持っているように外からは見えると思うんですね。そこに惹かれる人が多いんじゃないかなと。
━━たしかにSNSって、他者からの情報や刺激をひたすら受け取っている状態ですよね。エッセイや短歌を書いている人たちとは、ある意味で真逆のことをしているのかも。それも“生きている実感”を持ちづらくなっている理由のひとつなんでしょうか。
ハルトムート・ローザ著『加速する社会』(福村出版)
では、昔の哲学者の言葉から、はるまきさんの悩みを紐解いていきましょう。たとえば、ハルトムート・ローザという社会学者の著書『加速する社会』に、テレビ好きの人が登場するんです。その人は、テレビを見て楽しいと思うと同時に、“虚無”を感じている。これって、いまでいうSNSと同じじゃないですか?
━━たしかに。SNSを見ていて何時間も経っていることに気づいたときは、かなり虚無になりますね。
ハルトムート・ローザは、これを「体験時間」と「想起時間」に分けて考えているんです。
体験時間というのは、“自分がどのように時間を感じたのか”ということ。たとえば、友達と遊んでいると、あっという間に時間が過ぎますよね。あっという間なのに、思い出せることがいっぱいある。想起時間は長いわけです。退屈なとき、これと逆のことが起きます。なかなか時間が過ぎないし、思い出せることがない。
一方、SNSを見ている時間は、同じようにあっという間に感じるのに、思い出せることはあまりない。体験時間は楽しい経験に似ているのに、想起時間が退屈な経験に似ている。だから虚無を感じるんです。
━━気がついたら「もう夕方!?」みたいな。しかも、SNSって結局は“他人のエンタメ”じゃないですか。自分の人生にはあまり関係がないというか。だから余計虚しく感じるのかも。

でも、一概にSNSがよくないというわけでもないんです。たしかにSNSは“他人のエンタメ”かもしれませんが、自分の受け取り方次第では、そこに“摩擦”を生むこともできるんです。
━━摩擦、ですか?
極端な例ですが、たとえばYouTubeの動画を学校の授業のようにノートをとりながら見ると、めちゃくちゃ記憶に残ると思うんです。まあ、そんなことをやる人はあまりいないですけどね(笑)。
博報堂ケトルを作った嶋浩一郎さんという方は、Twitterの黎明期に、面白い投稿をノートにとりながら見ていたそうです。私が初めて会ったとき、「Twitterってどうやって見てるの? 追いつかないんだけど」と嶋さんに聞かれて、そういうSNSの見方をする人がいるんだなと驚いたんです。
━━すごい。タイムラインの情報を流し見するのではなく、ちゃんと受け止めるってことですね。
そうなんです。私の言っている“摩擦”は、受け流したり消費したりするのではなく、ちゃんと手間をかけて受け止めるようなイメージです。自分のなかで摩擦を起こせば、SNSも他人のエンタメではなくなる。
ノートをとるということは、自分の心や頭の認知のリソースを使って参加しているわけです。さらに対面だと、その摩擦が起きやすい。対面している相手は無視しづらいですからね。一方のオンラインは都合よくスルーもできますし、自分に影響を与えない範囲でサッと見ることもできますから。
━━すごくツルツルの状態でSNSを見てましたね……摩擦が大事なのか!
私たちの“日常の細部”は面白い
━━これはまた別の悩みなんですが、面白いと思った映画や漫画の魅力を、上手く説明できなくて……。「何がどう面白かったのか」を伝えるのが苦手なんです。もしかしてこれも、みずから参加して、受け取りにいっていないからなんでしょうか?
それも日記の書き方につながってくる話だと思います。たとえば一日をざっくり捉えると「仕事して飯食って寝る」という日記になる。なんだか日報みたいですよね(笑)。そうじゃなくて、もっと一日のなかの細部に注目すると、同じような日でも違って見えるんです。
これは映画や漫画も同じで、細かいところに注目して、自分なりに言葉にすると、面白さがもっと分解できるかもしれません。
バトル漫画を例に挙げると、だいたいの話は「主人公たちが協力して、敵を倒した」と、ざっくりまとめられちゃいますよね。恋愛ものは「主人公と相手がくっついたり離れたりする」。でも、これではあまりに抽象的だし、それこそ虚無な感想です。
むしろ大筋とは関係ない場面でふと引っかかったセリフや、何気なく歩いているシーンの空気感など、「なぜか気になった」という部分に注目してみる。そのほうが、自分なりの感想になりやすいんです。
━━「なんか引っかかったな」くらいの感覚でいいんですね。
そうそう。日記も同じです。スーパーで小松菜とチンゲン菜のどちらを買うか迷ったとか、いつもよりコーヒーが苦かったとか、電車で見た広告が変だったとか……。その程度の細部でもいいんです。
たとえば学生時代を振り返っても、そういうどうでもいい細部を意外と覚えていたりしませんか? 卒業式や学園祭のような一大イベントの思い出はもちろんあるけれど、放課後のどうでもいい瞬間とか、何気ない友達とのやりとりも、妙に記憶に残っている。
なんなら、そのときに感情が揺れ動いていなくてもいいんです。とにかく日記などで細かく言葉にして残しておくことで、あとで見返したとき、その細部に意味が生まれることもあります。

━━日記って、感情の揺れや動きを残すものだと思っていました……。
もちろんそれも大事ですが、感情が動いたからといって記憶に残るとも限らないんですよね。それに、自分では大したことないと思っている瞬間が、意外と他人の心に残ることもあります。
━━たしかに、SNSでたまたま流れてきた人の日記が、なぜかすごく心に残るときがあります。
人間は、人間の細かな部分に関心があるんでしょうね。社会学者の岸政彦さんは、東京や大阪などさまざまな場所で、その土地に暮らす人たちの生活史を集めて本にしているんですが、とても面白くて。
その人にとっては特別でも何でもないような人生の話が延々と続くのですが、読み進めているうちに、なんだかしみじみしてくるんですよね。「あぁ、人生だな」って。
岸政彦著 『東京の生活』(筑摩書房)
━━人生の滋味……! そんな風に、細部を残しておくこと自体に価値があるんですね。
そう思います。また、SNSで発信するメリットもあると思いますよ。誰かから反応があると、自分の日常に意味を見出せるかもしれない。また、読んでくれる存在がいるということは、日記を書くモチベーションにも繋がるはず。自分ひとりで考え続けるというのは、大変なことですからね。
ただ、他者の“反応”に依存しすぎないように注意が必要です。よりたくさんの反応をもらうことが目的になったら、それはもう日記を書く意味を見失いかねないので。
「本来の自分」って、カッコつけてない?

━━私の友達に、日記を書くとき「自分に対して取り繕ってしまう」という人がいました。日記を公開してるわけでもなく、見るのが自分だけでもそうなっちゃうみたいで。
人間は、自分に対しても取り繕う生き物ですからね。日記は、書いている自分と同時に、その日記を読んでいる自分もいます。そうした“読者の自分”が恥ずかしがってしまう、というのは全然あり得る話です。
ただ、これは悪い話ではないんです。いい文章を書くために客観的な視点は必要ですし、「恥ずかしいな」「嫌だな」と自分に対して感じることは、自分が変化したり成長したりする原動力にもなります。また、恥ずかしいと感じるのは「自分はこうありたい」という理想があるということなのかもしれません。
━━たとえば仕事でミスした日は、改めて自分を客観視してしまうのがいやで、日記を書きたくないと思ってしまいます。これって結局、本当の自分を書けていないってことなんですかね。
うーん、私はそもそも、「本当の自分」という考え方自体に少し慎重になったほうがいいと思っています。
━━日記って自分を理解したり、向き合うために書くんじゃないんですか?
人間は、置かれている環境やタイミングしだいで、思うことや考えることも変わりますよね。職場の自分と、家族の前での自分は違うはず。
人はそもそも多面的であって、自己啓発本などによくある「自分の心の声に耳を傾けよう」というアドバイスは、そうした多面性を無視してしまっている気がするんです。
自分のなかで、いろんな声が聞こえてくる状態が“悩む”ということです。いろんな考えが頭のなかで衝突しているから、悩んでいる。その状態を丸ごと、「自分」として捉えた方がいいんじゃないでしょうか。
━━「本当の自分」を決めてしまうと、ほかの選択肢が消えてしまうんですね。
しかも「本当の自分」には、少し理想が入っている気がしませんか?
━━そうかもしれません。自分の嫌な部分より、好きな部分や自信のある部分を思い浮かべている気がします。
それが本当の自分だとしたら、ちょっと大変ですよね。人付き合いがめんどくさいな、と思うのも自分だし、人間のことが好きだなと思っているのも自分。このふたつは矛盾しているかもしれませんが、そのどちらも自分だと思えるほうがいいんじゃないかな、と私は思います。日記は、自分を「本当の自分」に限定するためのツールというよりも、複数の自分を行ったり来たりするためのツールだと思った方がいいのかもしれません。
━━そのほうが生きやすいかもしれませんね。
「常時接続」の時代に、「答え」まで時間をかける

『スマホ時代の哲学』カバー見返しより
とくにSNSが発達してからは、発信した瞬間に他人からすぐにリアクションが返ってくる“常時接続”の時代になっています。それは、自分が人からどう見られているのかを、簡単に試行錯誤できてしまうということ。だからこそ、「自分はこれなんだ」と決めつけないことが大事になってくるんです。
━━スマホを触っていると、解決策がすぐ見つかりますよね。私も最近はすぐChat GPTに聞いちゃいます。
AIに聞く前に、一度自分で考えてみる癖はつけたほうがいいと思います。
たとえば友達と喧嘩して、その後の接し方に悩んだとして、そもそも正解なんてないですよね。いくつも選択肢があるし、そのいくつもの選択肢を持っておくことが、人生には必要なはず。
でも、AIはすぐにそれらしい答えを返してくれる。「これが答えに違いない」とパッて飛びついてしまうことが常態化してしまうのは興ざめですよね。「谷川との仲直りの方法をAIと相談したんだけど」って友達に言われたら、流石に距離を置く気がする。
━━とくに人間に関する悩み、気をつけた方がいいかもしれませんね。相手との関係性や、積み重ねてきた時間、相手の多面性を一番知っているのは、AIではなくて自分ですし。
問題に向き合って決断するのは結局、自分ですからね。時間をかけて悩んだからこそ、決めたことに納得できるような気もします。ときには諦めがつくこともある。
私は大学で働いていますが、たまにすごく長時間の会議があって。参加しているときは本当に楽しくないんですけど……。
━━(笑)。
でも、その時間って、みんなで一緒に“諦める”時間なのかもしれないですよね。あまりその選択肢を選びたくないけど、そうせざるを得ないときとか、そのダラダラした時間をかけて、みんな受け入れているのかもしれません(笑)。
━━いまは隙あらばスマホを見て暇を潰せますけど、いっけん「暇」な時間の使い方も大事なのかもしれないですね。変わっていく心に時間をかけるというか。ちょっとした待ち時間にもスマホがないと耐えられなくなっているので。

それもSNS時代の悩みですよね。昔、『恋空』というケータイ小説作品が流行したんですけど、知っていますか?
━━懐かしい! めちゃくちゃ世代です。
その物語の冒頭で、主人公のミカに男の子から「明日の放課後、話そう」というメールが来るんです。しかし、ミカはそのメールに返信をしない。これって、何重にもおかしくて。
現代の感覚で見ると、まず「いまメールで送ったら」という感じですし、返信をしないミカに対して、男の子は催促しない。その代わりに、次の日、学校でミカに直接「なんで返信しなかったの?」と聞きに来る。この一連のやりとりって、すごく牧歌的ですよね。
━━なんか……時間の使い方が独特ですね(笑)。でも、昔はそうだったのかも。
これはいまとは違って、みんな“ラグがある”という感覚が前提にあったからなんだと思います。そんな時代と比べると、現代のコミュニケーションがいかにリアルタイムか浮き彫りになりますよね。本当はこれくらい悠長になれた方が、みんな楽だと思う。
━━とはいえ「明日からスマホ断ちをします!」なんて絶対に無理だし、SNS時代の私たちはどうしたらいいですかね?
スマホを触りたいときに触って、隙間時間を活用したくなるのは、ある程度しょうがないと思います。ただ、スマホを触りたいと10回思ったうちの1回くらいは、その時間を別のことに使ってみてもいいんじゃないでしょうか。
散歩をするとか、日記を書くとか、本を読むとか。別に生産的なことでなくてもいいんです。ただ、すぐに答えや刺激が返ってこない時間を持ってみる。
━━答えや刺激が返ってこない時間、ですか。

現代は、何か疑問が浮かんだらすぐ検索できるし、AIに聞けば整理もしてくれる。便利な時代です。でも人間にとって本当に大事な問いって、そんなに簡単には答えが出ないものなんですよ。
「自分はどう生きたいんだろう」とか、「この選択でよかったんだろうか」とか、「自分は何を大切にしているんだろう」とか。そういう問いは、すぐ答えが出ないからこそ意味があると思うんです。
━━いままで私は、答えがわからない時間を「暇」だと思っていたかもしれません。
日記も、日々の細部を残していくうちに「自分はこんなことを考えていたんだな」と後から見えてくる。だから日記は、自分を発見するためのものではなく、自分の変化を見守るためのものなのかもしれませんね。
━━“生きている実感”って、劇的な出来事のなかにあるわけじゃなくて、自分の細部に目を向けることから始まるのかも。
おわりに
仕事が終わった帰り道、試しに今日一日の“細部”を思い出してみる。
緊張する案件を終えた次の日だったから、上機嫌で愛犬の前で変なダンスを踊ったら、困った顔をされたっけ。
友達に遊びに誘われたけど、やることとか行く店とか結局自分が全部決めることになったの、ちょっとモヤモヤしたな。
たまに行く立ち食い蕎麦屋で、食べた食器を下げるのか下げないのか悩んでいる人がいた。店のマイルールって初見だとよくわかんなくて怖いよね。わかる〜。
どれも、大きな感情が揺れ動いたわけではない。なんでもない私の日常のひとコマだ。ただ、思い出せる程度にはまだ心に引っかかっている出来事だ。取材前の私だったら、「だからなんだ?」と思っていたかもしれない。
でも、この“細部”は、どれもその瞬間の私がたしかに見て、感じたものだった。
人生はこんな「なんでもない時間」がほとんどの割合を占めている。そのなんでもない時間を見過ごさずにいることこそが、「私は今日を生きていた」という感覚につながるのかもしれない。
執筆:はるまきもえ
編集:友光だんご
イラスト:Loose Drawing
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この記事を書いたライター
93年生まれ。フリーライター。調理師学校、栄養士学校を卒業後、北海道からノリで上京。デパ地下惣菜会社で5年間勤務し、店長を経てなぜか今はライターに。暇さえあればYouTubeとTikTokを見る。映画と漫画とアニメが好きな広く浅いオタク。今日も勢いで生きている。







































