ペアで円滑にコミュニケーションするには? 二人だけの会社でバズを生み出す「企画デザイン 2時」に聞く

2時のお二人

特定の人とペアを組んだり、数人規模のチームで仕事をすることは、多くの職種であるのではないでしょうか。少人数チームでは意思決定がスピーディに行える良さがある一方で、場合によっては思ったことを直接相手に言いづらいなど、距離感に悩んでしまうこともありますよね。

今回インタビューをしたのは、代表の楢﨑友里さんと、プランナーの田中桃子さんの二人だけで運営する商品企画会社「企画デザイン 2時」。「うれしそうに判決を取ってきてくれる犬用のおもちゃ」や「物理RT、物理いいねができるライト」といった斬新な企画でバズを生み出し続けています。

前職からの同僚であるお二人は、ペアだからこそ「親しき仲にも礼儀あり」という絶妙な距離感を大切にしているそう。相手との接し方、アイデアが閉鎖的にならないための工夫など、少人数で仕事をする上で、円滑にコミュニケーションするためのヒントを伺いました。(※取材はリモートで実施しました)

二人だけの会社だから、全部自分たちで判断する

Twitterでバズっていた「勝訴」を掲げた犬用おもちゃなど、ユニークなアイデアがいつも話題になっています。あらためて「2時」という会社についてと、お二人の役割分担について教えてください。



楢﨑友里さん(以下、楢﨑) 2時は、いろんな企業さまの依頼を受けて、面白くて話題になる商品の企画立案からデザインまでを一貫して行う会社です。商品の企画・デザインは、プランナー兼デザイナーとして二人で担当しています。社内の役割としては、私がいちおう代表で、田中さんはいちおう会計。私、領収書を全部なくしちゃうくらい経理が苦手なんです……。

田中桃子さん(以下、田中) 税理士さんに「今回はこれがまだ提出できていませんよ」と注意されながら、名ばかりの会計をしています。

お二人で新しい会社をやろうと思った理由は?

楢﨑 私たちはもともと前職の株式会社フェリシモに入社して一年目に配属された雑貨ブランド「YOU+MORE!」で、バディとして7年間一緒に仕事をしました。そこでいろんな商品企画をしていたんです。

田中 企画に特化した仕事で「自分たちの力だけでどのくらい世の中を楽しくできるか」にチャレンジしてみたくて、修行のつもりで裸一貫飛び込んだという感じです。

楢﨑 フェリシモ時代からプランニングに関わる業務を手広く任せてもらえていたので、自分たちでもきっとできるという自信につながりました。ちなみに社名の「2時」には「時計の2時の方角『ななめ上』の発想を大切にする」という思いを込めました。

プランナーとしては、お二人それぞれどんな得意分野があるのでしょう?

楢﨑 私は派手なアイデアを考えるのが好きで、大きなコンセプトを立てるのが得意です。一方田中さんは、それを形に落とし込んでいくときのデザイン、柄を作ったり色合わせをしたり、仕上げのところがすごく上手ですね。

楢﨑友里さん
楢﨑友里さん
田中桃子さん
田中桃子さん

会社の規模が変わって、お仕事の内容も変わったのではないでしょうか。大変だなと思うことはありますか?

田中 あったと思うんですけど、なぜかすぐには浮かんでこないですね……。

楢﨑 会社設立1年目だから絶対にあるはずなんですが、二人ともだいぶ楽天的な性格なせいか、あらためて考えると「大変なこと? あったかなぁ?」って感じです。

会計も総務も法務も、全部自分たちで調べたり、詳しい方に聞いたりしてやらないといけなくなったのですが、「税金ってこうなっていたんだ!」とか、一つひとつ知るのが楽しいなとお互いに思っているところです。

大きい会社で働いていたときとは仕事内容や進め方なども変わったと思うのですが、一番変わったと感じることは何ですか?

楢﨑 やっぱり、自分たちで全部判断できるのが一番面白いですね。思い切ったこともしやすいですし、「スベっても全然いいや」みたいな感じで、作るものが変わったような気がします。

フェリシモでは作れなかったものが作れる、ということもあるのでしょうか。

楢﨑 フェリシモでNGだったというわけではないんですが、そもそも技術的に発想できなかったものを作れるようになったなと思います。

例えば、フェリシモで変わったアイデアにチャレンジする場合は、小ロットでOKな“縫製もの”を作る大前提があったので、ロットが大きい “型もの”と呼ばれるプラスチック製品を作る発想がなかったんですね。

2時を設立してから、新しいスキルを身に付けたいと思って3Dプリンタの勉強を始めて、「物理RT、物理いいねができるライト」や「cookieを有効にできるクッキー型」のような企画が生まれました。






親しき仲にも礼儀あり。相手への思いは「声に出す」

二人で会社を始めてから、あらためてお互いのコミュニケーションについて意識するようになったことはありますか?

楢﨑 前提として相性がいいのでコミュニケーションのエラーが起きたことがほとんどないのですが、それが当たり前だとは思わずに「親しき仲にも礼儀あり」というか、思い合っているのが分かるように声に出すのは大事だなと思います。長く一緒に仕事をしていると、だんだん言葉にしなくなることもあると思うんです。

私たちは一緒に仕事をするようになって8年目ですが、田中さんはちゃんと「ありがとう」と言ってくれたり、作業していたら「何か手伝えることはある?」と頻繁に声をかけてくれたり。「すごいね!」「いいね!このアイデア!」と、ちゃんと言葉にしてくれるんです。

田中 楢﨑さんとは一緒にいて自然体でいられる感じがあって、無理せずにいられるのが心地いいので、ずっとこのままでいられるのかなという気がしています。けんかとかも、全くしたことがないですね。「水、空気、楢﨑」みたいな感じで、もうなじみきっています。

楢﨑さんは面白いものを見つけるのが得意な人です。例えば、一緒にごはんを食べに行っても、おしぼり一つで1時間くらい遊べるような(笑)日常にあるもので妄想して楽しんじゃうので、それが自然とコミュニケーションになっていくんです。毎日二人きりでいても、「何を話そう?」と気まずくなることはありません。

おしぼり一つで1時間遊んじゃう楢﨑さんもすごいし、それを一緒に楽しんじゃう田中さんもすごいなと思います。

楢﨑 私はおしぼり一つで1時間遊んでいるんですけど、多分、一緒に笑ってくれる人がいるとそのモチベーションも全然変わってくると思います。

そうですね。ただ、業務上では笑ってばかりはいられないこともあると思います。円滑に仕事を進めるためのルールなどはありますか?

田中 出社したらラジオ体操をしながら、だいたい昨日あった出来事をお互いに話すのが毎朝のルーティンになっていて、仕事を始めるアイスブレイクみたいになっていますね。

楢﨑 業務上の役割分担では、相手が苦手そうなことは率先してやるようにしています。お互いに「これは苦手で嫌いな作業だろうな」と察し合って、仕事を取り合っています。

田中 楢﨑さんは私が苦手な作業を振らないので、いつもありがたいなと思っています。でも、結果的にその方が業務スピードもよくなるんです。

長年のペアではあっても、なかなか察するのが難しいこともあるのかなと思うのですが。

楢﨑 分からないときは単純に、「こういう業務は好きですか? やりたいですか?」と聞くようにしています。また、自分がどうしても苦手なときは「私よりは田中さんの方が向いていると思うのでお願いします」と自己申告して頼むこともあります。

どうしても二人とも苦手なことだったら「いやだー!」ってわーわー言いながら一緒にやっていますね(笑)。

2時のお二人
取材中も笑顔が絶えないお二人

お互いの発想を面白がりながらアイデアを膨らませる

2時では、バズる企画であることも大事にされていますね。どんなふうに商品を企画されているのですか?

楢﨑 「ツイ廃か?」というほどTwitterは見ていますね。Twitterは「誰が何に共感しているのか」を数値化している無料のツールなので、仕事柄使わない手はありません。

ただ、自分のタイムラインだけを見ているとどうしてもバイアスがかかってしまうので、関係ないワードで検索をしたり、知らない人の「いいね」欄を見たりして、多様な情報を得るようにしています。

バズるアイデアを生むために、日頃から意識していることはありますか?

楢﨑 アイデアには2種類あると思っています。一つは「犬用のおもちゃ」や「Cookieを有効にします」のクッキー型など、1秒でシナプスがつながってひらめくタイプのアイデア。もう一つは、テーマが決まっていて、例えば「うさぎ」だったら「はねるよね。ふわふわだよね、ふわふわのものってなんだろう?」と転がしてこねるタイプのアイデアです。

ひらめくタイプのアイデアの方が、すごく爆発力があってバズりやすいんです。それを出しやすくするのは、結局のところ「考える時間の量」なのかなと思います。クリエイティブに携わる人の中には、オンとオフを切り替えるのが大事だという人もいると思いますが、私の場合はずっとスイッチをオンにしていて、焼き切れてどこかが勝手に光るようになっている感じなのかなと。さっき挙げた犬用のおもちゃやクッキー型も、土曜日の昼下がりなどオフの時間にひらめくことが多いです。

思いついたアイデアは、どこかにメモして溜めているのでしょうか。

楢﨑 スマホのメモ欄に何スクロールもできるくらい溜まっていますね。見返すと「何このメモ?」っていうものがけっこうあります。えっと……(メモを見る)「ぎょうざのペガサス」とか書いてあります。たぶん、羽根つきぎょうざのことだと思うんですよ。馬に翼が生えていたらペガサスになってかっこいい。羽根が生えたぎょうざにも何か名前をつけたらどうか、と思ったのかな……?

田中 私は「動き回るものにマッサージチェアをつけろ」って書いてあります。ちょっと何のことか分からないですね……あとは「シルバー楽団、入れ歯のカスタネット」とか「チャンピオンベルトの待ち合わせ場所」とか?

楢﨑 えっ、どういうこと??(笑) ベルトたちの待ち合わせ場所!?

田中 なんか集まってきたみたい、チャンピオンベルトたちが(笑)私は楢﨑さんのように奇想天外なアイデアはあまりないので……。

いやあの、今のアイデアはけっこう奇想天外でした! ファンタジーがありますね。

楢﨑 田中さんのアイデアってめちゃくちゃ変なんですよ! 私のアイデアは奇想天外に見えて、一応自分の中ではロジックがあって成立しているのですが、田中さんのアイデアは予定調和を壊してくるんです。そんな「どういうことですか?」ってまずツッコミたくなるシュールなアイデアも絶対に必要だと思っています。

田中 面白いなと思っても、何の商品にしたらいいか分からないものも多いので、最近は口に出して楢﨑さんに言うようにしています。

楢﨑 田中さんも、私が意味の分からないアイデアを出すと「面白い!」と言って笑ってくれるんです。だから、何か思いついたら田中さんに見せたくなっちゃうんですよね。

面白いと感じることが一致していて、アイデアを一緒に膨らませたり、仕上げをちゃんとしてもらえたりする。これは、ペアでお仕事をする上ではめちゃくちゃ大事な感覚なんじゃないかと思っています。

二人だけでアイデアを出し合っていると「これでいいのかな?」と迷ったりすることはありませんか? 例えば、第三者の意見を聞きたくなることはないのでしょうか。

楢﨑 仕事柄、商品のリリースまで情報を出せないこともありますし、たくさんの人に意見を聞いたらそれだけ答えが返ってくるので迷ってしまいます。今のところは、自分たちの感覚だけでやる方が、私たちの場合はうまくいく可能性が高いかなと思っています。

田中 でも、Twitterで投稿した後に、いただくリプライに書かれているお客さまの意見は勉強になりますね。自分たちでは気づかないところを言ってもらえることがあるので、参考にすることがあります。

相手と「合わない」と感じたら、自分を変えてみる

自由に面白さを追求できる一方で、世の中のニーズとずれたり「これは売れるのか?」という企画になってしまったりすることはありませんか?

田中 私たちはあきんど(商人)な部分も持ち合わせているので、「面白いけど売れないだろうな」ということはわりとシビアに見ちゃっていますね。

楢﨑 そうですね。二人とも芸大・美大出身なんですけども、自分が表現したいことと世の中のニーズのギャップに苦しむアーティストタイプではないんです。売れるということは、それだけ多くの人が喜んでくれた証だと思うので、「反響があってなんぼ」と思っているところはあります。

社訓は「絶対に調子に乗らない!」だそうですね。

楢﨑 そもそもあまり調子に乗るタイプではないのですが、一瞬でも調子に乗った発言をしたかなと思ったときにはお互いに、「今、調子に乗ってないかな?」って確認しています。調子に乗った者の末路は悲惨だと思うので。別な言葉で言い換えれば「うまくいったときも基本は忘れない」ということでしょうか。

2時の社訓
2時の社訓

お二人の相性の良さも2時の強みなのだなと思います。ただ働く人の中には、相性がよくないと感じる人と組まなければならず悩んでいる人もいるのではないかなと。お二人の場合、仮にもしそういう場面になったら、どうやって対処されますか?

楢﨑 正しいと思うことは人それぞれだなと思うんです。私はそのやり方は正しくないと思ったとしても、相手のやり方を変えるための説得にパワーを使うのはもったいない。それなら、「こうしたらうまくいくかも?」と考えて、自分を変えるようにすると思います。うまくいかないときは、相手を変えようとするのではなく自分が変わる、ということを信条にしています。

田中 そういう機会はこれまで少なかったのですが、もしあったとしても私は聞き流す能力が高い方なので、ふわふわふわ〜っと受け入れるタイプですかね。何でもかんでも受け止めるのではなく、よける。「万が一、相性が悪い人に出会ったら逃げてもいいよ」と自分に言ってあげています。

確かに、自分を変える方が楽かもしれません。でも、クリエイティブに関わる部分では譲れないところもありませんか?

楢﨑 確かに、クリエイティブ、特にアイデアに関しては譲れないこともあるので、できる限り、話し合いたいなとは思いますね。

最後に、これから2時としてしてみたいチャレンジ、作ってみたい商品について聞かせてください。

楢﨑 会社としての目標は、「面白い商品企画会社といえば2時だよね」と、日本中で誰もがぱっと一番に思い浮かべるような会社になることです。今後やりたい分野としては、アイデアの力で地域を活性化すること。「魅力はあるけれどどうやって話題を作ればいいか分からない」と困っている地方自治体の方たちに、アイデアを提供できればと思っています。企画の力で話題を作って地域の魅力を伝え、人が集まって商品が売れるから魅力的なお土産になる、という一気通貫の事業をやってみたいです。

田中 フェリシモ時代に、私たちが大好きな三幸製菓さんのお菓子「雪の宿」のパジャマを作らせてもらったことがあります。ほかにもたくさんある、二人が好きな食べ物のメーカーさんとのコラボもしてみたいです。

取材・文:杉本恭子
編集/はてな編集部

悩みの尽きない「人間関係」問題。解消のヒント

お話を伺った方:「企画デザイン 2時」楢﨑友里さん/田中桃子さん

2時

楢﨑 友里さんと田中桃子さんによる、商品企画を専門に行う、京都の企画デザイン会社。株式会社フェリシモで7年間ユーモア雑貨の商品企画に携わった企画とデザインのスキルを生かし、バズる商品企画を生み出し続けている。

時計の2時の方角「ななめ上」の発想を大切に、世の中を楽しくするモノやコトを生み出すことをコンセプトにしている。

公式サイト:企画デザイン2時 Twitter:@niji_2oclock

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価値観の違う人は「敵」じゃない。文学者・荒井裕樹さんと「言葉」から他人との向き合い方を考える

荒井裕樹さん記事トップ写真

最近、ちょっとしたSNSの言葉や同僚の発言にギョッとしたことはありませんか。

ここ数年、大きく社会や政治状況が変化するなか、自分と異なる価値観に出会うことも増えたように思います。コロナ禍、そうした状況に疲れや息苦しさを覚えた経験のある人も少なくないのではないでしょうか。

昨今の言葉を巡る社会状況を「非常事態」だと語るのは、障害者文化論を専門とする日本文学者・荒井裕樹さん。「分かりやすい言葉」に溢れる現状に警鐘を鳴らします。

荒井さんのお話を通じて、私たちの身の回りに溢れる「言葉」から他者との向き合い方について考えました。

※取材はリモートで実施しました

SNSの言葉に脊髄反射しない

荒井さんは著書『まとまらない言葉を生きる』のなかで「言葉が壊れてきた」と綴り、「分かりやすさ」ばかり重視されるようになっている風潮に警鐘を鳴らされていました。改めて、近年の言葉をめぐる社会の変化をどのように見られていますか。

荒井裕樹さん(以下、荒井) ここ10年近く、政治自体が「イベント化」していると感じています。そのときどきで話題になりやすい政策が、一貫性や事後の検証もなしに次から次へと乱発され、消費されて忘れられていく。そういった政治の影響もあって、私たちの考え方そのものも「イベント思考」になってきていると思うんです。大局的なビジョンや理念より、そのときどきの話題性や瞬間的なインパクトが重視されてしまう。私たちが日々の暮らしで使う言葉もそういった風潮に影響を受けていると感じていて、とても危惧しているところです。

そのときどきの話題性やインパクトばかりが重視されてしまうという空気は、特にSNS上の言葉を見ていて強く感じます。荒井さんは、SNSを中心とするインターネット上の言葉についてはどうご覧になっていますか?

荒井 やっぱり、サイクルが早いですよね。情報収集がしやすいことは大きなメリットだけれど、ネットで集められる情報量って、ひとりの人間が処理できる情報量をゆうに超えている。だから、なにかネット上で炎上や大きな事件が起きたときも、そのできごとに傷つけられた人がそれにずっと囚われ続ける一方で、そうでない人はインターネットの早いサイクルに取り込まれて次から次へと忘れていきますよね。そのギャップに戸惑います。

荒井さんご自身が、普段、SNSとの付き合い方や距離の置き方でなにか意識していることってありますか?

荒井 私はSNSをやっていないんですが、たぶん自分の仕事の広報という意味では、本当はやった方がいいんですよね。だから担当編集さんにいつもごめんなさいって思ってるんですけど(笑)。

ちょっと変な言い方ですが、「自分にとっていちばん責任の持てる言葉の発し方」というのが、私にとっては「本を書くこと」なんです。私は自分の師匠にかつて言われた「学者の言葉に時効はない」という言葉を大事にしているんですが、本は5年、10年たっても残るものなのでいちばん責任がとりやすいというか。時間はかかるけれど、本もSNSのように人と人をつないでくれるものなので、一冊ずつ大事に書いていきたいな、と思っています。

ただ、どのような事件が起きているのかとか、情報収集のためにSNSも見ることは見ますよ。でも、なるべく瞬時になにかを言おうとはせず、ひと晩は置いて考えるというのを意識しています。

ひと晩は置く……。どうしてでしょう?

荒井 そうしないと、脊髄反射の言葉しか出てこなくなってしまうと思うので。日々暮らしていると「いまはそれについて語れない」とか、「言葉がまとまらない」と思うことってたくさんあるじゃないですか。私の場合は、なにかについて自分の考えがまとまるまでに、長いもので年単位の時間がかかることもあります。1冊の本を書くのに、自分のサイクルとしてはだいたい5年くらいかかる。自分が発していて苦しくない言葉のサイクルってあると思うので、それをなるべく自分では守るようにしています。

『まとまらない言葉を生きる』表紙写真
最新作『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)

そのサイクルは人によって違いそうですよね。必要があってSNSはやっているけれど、SNSの速さに合わないという人も実際には多いような気がします。

荒井 私が接している学生からも「SNSがしんどい」という話はよく聞きます。ただ、SNSってすでにある種のインフラと化しているので、それなしに生活するのも現実的には難しいですよね。

自分にとってしんどくない言葉のサイクルは人によって違うのに、自分がその話題について語りたいかどうかもよく分からないまま、SNSの速いサイクルのなかでなにかを発してしまっているような状況なんでしょうね。いま、SNSにないものは存在しないかのように扱われてしまうとも感じます。

作家の方など、個人として活動している方にとっては、特にそのサイクルに置いていかれる怖さもあるのかなと思うのですが……。荒井さんはいかがですか?

荒井 30代の前半くらいまでは、話題にならないと自分の文章を読んでもらえないんじゃないかとか、本が売れないと次のチャンスがないんじゃないかみたいなことを強く思ってましたね。ただ、ここ3~4年で「もういいや」って腹が据わりました(笑)。

なにかきっかけがあったんでしょうか?

荒井 特になにがあったというわけではなく、徐々にですね。1日のなかで、学校で働いて、子育てをして、自分なりに納得のいく原稿も書いて……となると、それ以上のことにはあんまり手が回らない。だとしたらどこかでなにかを諦めなくちゃいけないから、得意じゃないことの優先順位は下げようと思うようになったのかもしれないです。

もちろん、社会のことを考えるのが仕事なのでSNSを無視するわけにはいかないんですが、自分にとってバランスを保てる付き合い方やサイクルが、なんとなく分かってきたかなという感じです。それまでに時間はかかりましたけど。

考え方の違う人は必ずしも「敵」ではない

ここ数年、コロナ禍やそれに伴う政治状況などをきっかけに、職場や家庭など、ふだん同じコミュニティにいる人たちとも考え方の違いが明らかになる機会が増えたように感じています。ちょっとした雑談のなかで「この人とは分かり合えないかもしれない」と感じてしまうようなことが増えたのかなと。

荒井 「分断」「断絶」という言葉が現代社会を表すキーワードとしてよく使われますよね。分断という言葉には敵と味方のふたつに分かれるようなイメージがあると思うんですが、実際は分断というよりも、小さな切れ目がいろいろなところに入っている亀裂型社会なんだと思うんです。これまでもこうした亀裂はあったんでしょうけど、何となく見ないようにして取り繕ってきたものが、コロナ禍をきっかけに露わになってしまったのかなと思います。

特にコロナに関するトピックは他者の行動が自分にも影響を与えるからか、これまでは目を向けなくても付き合っていられたような家族や友達との考え方の違いに気づいてショックを受けた、という話も周りからよく聞くのですが。

荒井 自分と似ているような気がしていた周りの人たちとの感性や考え方の違いに、コロナをきっかけに気づいた人ってたくさんいると思います。ただ、自分と違う人ってたくさんいるんだけれど、自分と違う人が全員「敵」なわけではないですよね。いま、相手を「敵認定」するハードルって、かなり低くなっていませんか?

分かります……。ちょっとした一言だけですぐに敵認定して、距離を置いてしまうというか。

荒井 例えば、私はマンションに住んでいるんですけど、住人の方とすれ違ったときの挨拶の仕方って人それぞれなんですよね。すごく丁寧な方もいれば、軽く頭を下げるだけの方もいる。でも、それぞれの背景の違いを考慮せず、「挨拶とはこうすべきものだ」という他者への期待みたいなものを強く持ち過ぎると、それに合わない人を敵認定しがちなのかもしれませんね。もちろん、自分の生活や尊厳を危うくするような価値観とは闘うことも必要なんですが、基本的には人それぞれ背景や価値観ってバラバラなのが当たり前なので。

確かに、他者の置かれている状況や身体状況が自分基準になってしまっていて、他の人にも同じ振る舞いを期待してしまう部分はあると感じます。「自分だったらもっとこうするのに」という。どうやって向き合えばいいんでしょうか。

荒井 うーん、どうすればいいんでしょうね……。私にも明確な答えがあるわけじゃないんですが。ただ、自分で自分にムチを打ってがんばろうとするメンタリティって、「自分はこんなにがんばってるんだから、周りもこのくらいして当たり前だ」と他者に矛先を向けてしまうことにつながりやすいですよね。

私自身がもともとそういう人間だった自覚があるので分かるんですが、こういう性格ってやめようと思ってもすぐにやめられるわけじゃない。でも、少なくとも、自罰感情と他罰感情ってわりとリンクしているということを知っておくだけでも、少し楽になれるのかなと思います。他者に対する態度が自分にも返ってきてしまうというサイクルにいま自分がいるんじゃないか、と気づくだけでも逃げ道ができるような気はします。

荒井裕樹さんインタビュー写真

荒井さんの場合は、そういうご自分の性格をどうやって変えてこられたんだと思いますか?

荒井 障害者運動家の方々が典型ですが、「自分とぜんぜんちがう人たち」と付き合ってきたことで変わってきたんじゃないかと思います。あとは子育てを経験したことも大きかったかもしれない。子どもってどうしたってこちらの思い通りにならないですし、絶対的な他者ですよね。だから自分のものさしで相手のことを測れないときもあるというのが徐々に分かってきたというか。ある程度時間をかけて、着込んでいたものを1枚ずついろんな人たちに脱がしてもらってきたような気がしています。

自分の中に降り積もる言葉から社会を考える

荒井 あと、私からひとつ提案したいというか、こういうのは試してみてもいいのかな、と感じていることがあるんです。これまでの話は、SNSの言葉や他者の言葉、つまり自分の外側にある言葉のことが中心だったと思うんですが、言葉って実は自分の内側にも溜まっていくものなんですね。人ってそれぞれの境遇や環境に応じて、全然違った言葉を使っているものです。

……あの、「夕方」って聞いて何時くらいを思い浮かべますか?

私は17時くらいですかね。

荒井 夕方が何時くらいかって、わりとばらつきがある気がするんです。例えば「夕方までに原稿送ります」と私が言っていて18時に原稿を送ったら、Aさん(担当編集さん)は怒りますか?

取材に同席していた編集Aさん いや、翌日の1時くらいまでは大丈夫ですね。そういう締切を設定しているはずなので。

やさしい(笑)。

荒井 (笑)。夕方ってそれぞれの人の生活スタイルや、季節によっても違うんですよね。15時くらいから夕方の雰囲気を感じている人もいれば、19時でも「まだ夕方だ」と思う人もいる。その言葉ひとつとってもこんなにずれがあるのに、私たちはなんとなく言葉が通じているかのようにやりとりして生活している。だから、自分のなかにはどういう言葉が降り積もっていて、自分はどういうふうに言葉を使いやすい人間なのかというのを考えて生きていくのはいいことなんじゃないかと思います。

私は、障害者運動家の方に「荒井は社会がこうだとか経済がこうだとか、大きい主語で喋り過ぎだ」「なんで自分がつらいなら自分がつらいって言わないんだ」と随分言われてきました。自分に降り積もった言葉の使い方を指摘していただいた経験は大きかったと思います。この時代、一歩立ち止まってそういうことに目を向けてみてもいいんじゃないかと思うんです。

なるほど、確かにそういう自分の言葉遣いって、人と関わるなかで気づくことが多いように思います。荒井さんがいま日常的に意識されている、自分の言葉の使い方ってあったりしますか?

荒井 ふだん意識しているのは、家でパートナーになにか頼むときは「きちんとお願いする言葉」を使うようにしていることですかね。男性が女性にものを頼むときに、ぞんざいな言葉を使っていいと自分の息子に感じてほしくないんです。職業柄、いろんな世代の子どもたちと接するんですが、ある年頃になると「女性には気軽にものを頼んでいい」「女性は手伝ってくれるのが当たり前」と思っている男の子が一定数出てくるような気がしています。でも、それはまったく「当たり前」じゃないんです。誰かにものを頼むときは、性別年齢関係なく「お願いする言葉」が必要なんです。大人の日常的な言葉の使い方が次の世代にも影響を与えてしまうと感じているので、そこは心がけています。

確かに、子どもって本当に大人の言葉遣いをよく見ていますよね。

荒井 やっぱり、大人の言葉のあり方が社会に降り積もって、次の世代を作っていくことになると思うんです。教育現場に立っていて、教員の言葉遣いが荒かったり人への態度が横暴だったりすると、そういうあり方がクラスのなかで許容されてしまう空気ができていくのを感じるんですね。世の中に荒っぽい言葉が増えたのも同じようなもので、その一因は政治家の言葉が荒っぽくなっているからだと思うんです。

いま、言葉をめぐる状況がかなり緊急事態というか、非常事態のなかで私たちは生きています。そこはひとりの学者として、強く警鐘を鳴らしたいところです。政治家の言葉の横暴さと空虚さを私たちがきちんと噛みしめれば、じゃあ本当はどんな言葉が望ましいのかという問いが生まれてくると思います。

どんな言葉を求めているのかというのはそのまま、どのような暮らしや社会を求めているのか、ということにつながりそうですね。

荒井 そうですね。自分の本のなかで、社会が「安易な要約主義」に陥っているという言葉を使ったのですが、日常生活のなかでもそういったキャッチフレーズ化された言葉を押しつけられやすい社会になってきているので、自分なりの言葉に噛み砕けない限りはその言葉を信用しない、という姿勢も大切なのではないかと思います。

要約って「ここが大事ですよ」とまとめるような行為ですが、なにを大事と思うかって本来は人によってバラバラなはず。それを勝手に決めつけられるような空気って、私は息苦しいししんどいと思います。だから、なにか大きな言葉を前にしたとき、その言葉が自分にとってしっくりくる意味で使われているかどうかを疑ってみることが必要なのかなと。「言葉の画素数を上げていく」という表現を私はよく使うんですが。

画素数を上げる、というのは?

荒井 例えば、「怒り」という言葉は最近「怒っているだけじゃなにも変わらない」というようなネガティブな意味で使われることも多いと思うのですが、それには個人的にモヤモヤしているんです。「怒り」と「憎悪」って違うもので、怒りというのは相手と一緒に生きていくことを前提とした感情のように思うんですね。私も自分の子どもや学生には怒ることもありますし。でもいま特にネットの世界で飛び交っている「憎悪」は、相手の存在自体を拒絶する態度で、それは社会を壊すものだから許容できない。

だから「怒り」は本当に使わない方がいい言葉なのかとか、「ダイバーシティ」って最近すごく使われるけれど本当にその言葉でいいのか、とか。そういうふうにいちいち立ち止まって考えることを、私自身これからも意識していきたいと思っています。


取材・文:生湯葉シホ (@chiffon_06
編集:はてな編集部

周囲との関係性にモヤモヤしたら

お話を伺った方:荒井裕樹さん

荒井裕樹さんのプロフィール写真

1980年東京都生まれ。二松學舍大学文学部准教授。専門は障害者文化論、日本近現代文学。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。著書に『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)、『車椅子の横に立つ人――障害から見つめる「生きにくさ」』(青土社)、『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)などがある。

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周囲が求める“らしさ”に囚われない。『ケムリが目にしみる』著者と考える、「正しさ」と「自分」の向き合い方

飯田さんトップ画像

周囲の発言や行動に違和感を抱きつつも、その場の“空気”に合わせてしまうことはありませんか。その時はやり過ごせたとしても、徐々に自身の心をすり減らし、しんどさを覚えてしまうことも少なくないはずです。

飯田ヨネさんの漫画『ケムリが目にしみる』は、周囲の反応に流され、つい合わせてしまう主人公・葉山かすみを中心に、「正しさ」について自問自答していく作品。かすみは「女の子が入れたお茶の方がおいしい」という上司の発言や、同僚との調和を求められたとき、違和感を抱いても飲み込んでしまう毎日を過ごしています。

そんな息苦しさは、彼女にとって「正しくない」ことである煙草を吸うわずかな時間にだけ忘れられます。しかし一方で、喫煙マナーを守っていたとしても「煙草なんて体に悪い」「お金もかかるし臭いもつく」という世間からの目も重々承知しており、喫煙者であることを会社の同僚にはひた隠しにしています。

喫煙に限らず、社会的な「正しさ」に順応できない自分にコンプレックスを感じたり、さまざまな「らしさ」の狭間で悩んでしまう人は多いはず。『ケムリが目にしみる』の著者・飯田ヨネさんに、そんな「正しさ」や「らしさ」との向き合い方をテーマに伺いました。

求められる「らしさ」に応えてしまっていた会社員時代

『ケムリが目にしみる』の主人公・事務員の葉山かすみは、周囲に意見を合わせてしまいがちでいつも息苦しさを感じている人物。その場の空気に従うことが「正しい」と捉えるかすみにとって、唯一、煙草を吸うときにだけそんなストレスから解放されるという描写が印象的ですが、こういったキャラクターを主役にした作品を描こうと思われたのはどうしてだったんでしょうか。

飯田ヨネさん(以下、飯田) 実はこの漫画の原型となった読み切り作品があるんですが、その作品では主人公が男性のエンジニアで、女性の事務員が陰でこっそり煙草を吸っているのを知って交流を深めていくというストーリーでした。その読み切りを読んでくれた編集さんが「これを連載にしましょう」と提案してくださって。

連載化の際に「女性の生きづらさを描いてほしい」とも言っていただき、それなら女性同士の連帯を描く漫画にストーリーを変更しよう、と思ったんです。そこで相手役の女性キャラクターだったかすみを主人公に据え、『ケムリ〜』が生まれました。

ケムリが目にしみる作中カットケムリが目にしみる作中カット

男性社員から女性としての役割を求められたり、同僚女性が話す噂話やデリケートな話題への同調圧力にモヤモヤしつつも、それに合わせることで「正しく」あろうとするかすみ。それ故に感じる息苦しさは、煙草を吸うという彼女にとって「正しくない」ことをしているときだけ解放される。喫煙者であることを職場には内緒にしている。(C)飯田ヨネ /芳文社

お試し読み | 「ケムリが目にしみる」飯田ヨネ

もともとは男性が主人公だったんですね。ちょっと意外でした。

飯田 漫画家になる前に3年半ほど開発会社でエンジニアをしていて、男性が多い環境だったので、男性を主人公にした方が描きやすかった、というのもあるかもしれません。

あと私は煙草を吸わないのですが、当時の職場に喫煙者の方が多く、喫煙者同士のコミュニティになかなか入っていけないことに悔しさや、ずるさのようなものを感じてしまうことなどもあって。『ケムリ~』には、そういう当時の経験や実感を反映させています。

作中で描かれるかすみの会社や、同僚の牧村が過去働いていた会社は、女性社員がお茶出しをさせられたり意味もなく打ち合わせに呼ばれたり、飲み会などもかなり多そうだったりと、わりと古い体質の職場に見えました。このあたりにも実体験が反映されていたりするんでしょうか……?

女性だから、という役割を求められることに違和感を抱く
(C)飯田ヨネ /芳文社


飯田 読者の方からも「いまどきこんな会社なかなかない」って言われるんですが(笑)、勤めていた職場は、わりとこういう空気でした。終電帰りや休日出勤も常態化していたし、チーム内で女性は基本私ひとりだったので、「女の子がいた方がいいから」という理由だけで打ち合わせに呼ばれることも多かったですし。

ただ、その頃は社会人として忙しく働く自分に酔っていたようなところもあって……『地獄のミサワ』っぽい感じでしたね。「いやー参ったわ、明日も休日出勤だわ」みたいな。だからそういう状況には、当時はさほど悩んでいませんでした。

では、そういった状況に違和感を覚えるようになったのは、職場を辞められてからですか?

飯田 そうですね。会社で働いていた頃は……男性と同じように忙しく働けていたり、打ち合わせの場にも多く参加できていたりすることで、正直に言えば「私はうまくやってる」みたいな優越感さえ抱いていた気がします。いまはそんなことはない、と分かるのですが。

会社を辞め、漫画家になって環境が大きく変わったことで、当時は女性として抑圧を受けていたという感覚がようやく芽生えたんだと思います。『ケムリ~』もそういう抑圧を意識しつつ描いた作品なのですが、振り返ると、私自身も人に対して抑圧する側に立っていたところがあったな、と反省しています。

飯田さん自身も、というと?

飯田 それこそ同期に対して優越感を抱いていたというのも態度に出ていたかもしれないし、自分がお酒にわりと強かったので、飲み会が苦手な同僚に対して無神経な振る舞いをしたこともありましたし……。『ケムリ~』の連載を終えてから時間がたったことで心境の変化もあって、当時は私も男性社会を内面化していた部分があったな、とようやく自覚できるようになりました。

今読み返すと、自分の理想とする面やいい面を女性キャラクターに、悪い面を男性キャラクターに振り分けているようなところもちょっとあるように感じますね……。そこは本当に、フェアじゃない描き方だったなと思っています。

確かに作品を描き終えてから時間がたつと、テーマへの向き合い方も変わってきそうですよね。読者の方からは、これまでにどんな反響がありましたか?

飯田 『ケムリ~』は『まんがタイムオリジナル』という男性読者の方が多い漫画雑誌に掲載されていたんですが、連載中は読者の方からの反応がほぼなくて……(笑)。それはそれでしんどかったのですが、人の目を気にせず描けたという点ではよかったかもしれないですね。

それに、男性誌で描いたからこそ、女性の生きづらさやフェミニズムといったテーマに普段あまり関心を持たない層にも読んでいただけたのかもしれないな、と今となっては思っています。プロモーションも全然しなかったので、これはたぶん単行本になってもあんまり反響ないだろうなと思ってたんですけど(笑)、単行本化してからはありがたいことに思いのほかたくさんの感想をいただけていて。「共感した」という女性からの声が多いですが、ときどき男性からもポジティブな意見をいただけて、どちらもとてもうれしく思っています。

「現代的な正しさ」は、描こうと思えば手癖で描けてしまうけれど

ケムリが目にしみる作中カット
牧村(画像左)との出会いで、かすみは徐々に自分の本心と向き合うように。そして、声を上げるようにもなっていく
(C)飯田ヨネ /芳文社

作中で、主人公のかすみは「自分」を見つめていくことで世間が押しつけてくる「正しさ」や「らしさ」から徐々に解放され、「正しくない」自分のことも認めることができるようになっていきます。飯田さん自身は、世間から求められる「正しさ」や「らしさ」について、どのようにお考えですか?

飯田 少し極端な例かもしれませんが、例えば、今は煙草を吸うことに対して「体にも悪いし副流煙もあるし、吸わない方がいい」という価値観が多数派だと感じますし、それは正しいことだと思うんです。ただ、昔はもっと喫煙率が高く、わりとどこでも吸う方も多かったですよね。そういうふうに「正しさ」って時代や環境によって変化していくので、そこに無理やり自分を合わせようとすると息苦しさを感じてしまうこともあると思います。

ただもちろん、社会のなかで生きていくためにはある程度、今の価値観に順応していく必要もありますから、自分と社会の「正しさ」の落としどころをどうにかして見つけていくのが現実的だと思っています。その落としどころを見つけるためには、自分が心から望んでいることや、自分にとって「これは譲れない」ということにまずは目を向ける必要があるのかなって。

「こうした方がいい」「正しい」とされる事象は色んな要素が組み合わさっていることも少なくないと思います。その価値観に対し全てを受け入れないといけない、というよりはそれに対し自分はどう感じるか、この部分は分かるけど、この部分はちょっと自分と違うな、といったことを考えるのが大切なのかもしれません。

忙しい毎日の中にいると、自分がなにをしたいのか、なにが自分にとって譲れないことなのかが分からなくなってしまう人もいそうだなと思うのですが、飯田さんの場合はどうやってそれに目を向けていますか?

飯田 私の場合は、漫画を描く作業が自分の感じていることを振り返るいいきっかけになっているかもしれません。それ以外だと、どうするといいんだろう……。

『ケムリ~』の作中だと、かすみは、自分の思ったことをはっきり言うことができる牧村というキャラクターに出会ったことで徐々に変わっていきますよね。自分とは違う価値観の人や、声を上げようとしてくれる人に出会うこともそのきっかけになりうるのかな、とふと思いました。

飯田 確かにそうですね。……今思い出したんですが、会社員時代に、会社の社長が飲み会で「女性を雇うのはコストだ」って言ったことがあるんです。私は当時それを聞き流して、まあ社会ってそういうもんかって思ってしまってたんですが、その社長の発言にすごく怒っていた同期の女の子がいて。

彼女は結局その後会社を辞めてしまったんですけど、当時、どうして連帯して状況を変えていこうと思えなかったんだろうと後悔しています。『ケムリ~』の終盤でかすみが職場の改革に乗り出しテレワークの導入を提案するという展開は、当時の自分が本当はしたかったことを描いているんだろうなって。あれほど怒っていた彼女の記憶がなかったら、その展開もなかったかもしれないです。

ケムリが目にしみる作中カット
育休復帰後、思うように働けず悩んでいた同僚と声を上げるかすみ。作中では自分を認めていくことで、既存の正しさを自らの手で変えていく様子が描かれる
(C)飯田ヨネ /芳文社

そういう経験って、確かにあとから思い出して後悔することが多い気がします。飯田さん自身は、かすみのように周囲から期待される「正しさ」や「らしさ」で悩まれた経験はありますか?

飯田 読者の方からときどき、私の漫画に対して「価値観が現代的」とか「きっと作者もやさしい人なんだろう」と言っていただくことがあるんです。とてもありがたいなと感じる反面、そういった感想と自分自身との乖離にはいまだに悩んでしまいますね。

私は実際に、女性差別のような社会の理不尽に対してはすごく怒りを感じるタイプではあるんですが、一方で、保守的で古臭い面も自分のなかにはいまでもあるのを自覚しているので……。

かすみが煙草を吸い続けることがまさにそのひとつだと思いますが、なかなか変われない部分や譲れない部分は誰にでもありますよね。

飯田 そうですね、一から十まで現代的な価値観に順応することってできないと思うので、誰しもそうやって、自分の変われない面にも折り合いをつけながら生きていくものなんじゃないかなって思います。……言ってしまえばたぶん、いまの価値観で「現代的」とか「ちゃんとアップデートされてる」って褒めてもらえるようなことって、描こうと思えば手癖で描けると思うんです。

実際に自分のなかで納得はしていなくても、表面的に合わせることはできるということですか?

飯田 そうですそうです。でもそうやって「今の価値観」や「現代的な正しさ」に表面だけ合わせた作品って、出したそのときは褒めていただけるかもしれないけど、自分のなかで本当に納得できていない限り、世間の評価と実際の自分との乖離に悩んでしまうだけじゃないですか。

だから私の場合は漫画を描いていくなかで、「今度はこうしてみよう」「やっぱりこっちじゃなかったな」というように、トライ&エラーを重ねながら自分の意思を探っていっているような感覚があります。そういうふうに自分の本心に誠実でいることでしか、自信ってついていかないと思うので。

なるほど。自分が納得いくまでトライ&エラーを重ねること、本当に大事ですね。

飯田 そうやって見えてきた自分の本心って、「今の価値観」とは合わなかったり、ぜんぜん正しくなかったり、カッコ悪いものかもしれません。でも、そういう自分を認めることで初めて、自分自身と今の社会とをすり合わせた行動や表現ができるようになっていくんじゃないかと思います。

ケムリが目にしみる作中カットケムリが目にしみる作中カット
「正しさ」に縛られなくなったことで、息苦しい現実が変化していったかすみ
(C)飯田ヨネ /芳文社

「うらやましい」「悔しい」と感じている自分をまずは認める

『ケムリ~』を拝読していて特にリアルだなと感じたのが、かすみの同僚の女性が、先輩の結婚の知らせを受けた際に「私に何も変化がないうちに前に進んでいる人を見ると不安になる」とかすみに語るシーンでした。自分自身は「今のままでいい」と思っていても、周囲のライフステージがどんどん変化していく様子を見るとなぜか焦りを覚えてしまう人は多そうだな、と思って。

飯田 そうですよね。私自身、結婚願望が強いタイプではないんですが、友達が結婚してしまって前のように遊べなくなったりすると、「このままでいいのかな」ってふと思うこともありますし。

そういうふうに感じたときって、飯田さんはどうしていますか?

飯田 うーん、難しい……。例えば、私は「いつか結婚したいとは思ってるんでしょ?」って言われると「そんなことない」と反論したくなるんですが、一方で、自分のなかには確かに「ひとりは寂しい」という思いもちょっとはあるなってこの頃気づいたんです。

そういうふうに感じている自分がカッコ悪いと長年思っていたんですが、最近はもう、自分にはそういう面もあるというのをまず認めようと思っていて。自分のダサい部分や目を背けたくなるような部分も受け入れよう、とは言わないまでも、そういう部分の存在を自覚する必要はあるのかなって思うようになりました。

結婚・出産といった周囲の変化に限らず、仕事面でも同じように、「あの人の漫画はあんなにヒットしてるのに……!」って思っちゃうこともありますし。

仕事の場合、「あの人はあんなに評価されているのに、どうして自分はされないんだろう」という嫉妬心も芽生えがちですよね。

飯田 すごくありますね、そういう気持ちは……。「人は人、自分は自分」って思うのも大事なことだけど、実際にはそう思えるときばかりじゃないですよね。本当はすごく気にしているのに、無理に「気にしてない」と思い込もうとすると、抑圧された感情が攻撃的な形で出てきてしまうこともあると思うんです。

それならいっそ、人と比べてしまって悔しがっている自分、落ち込んでいる自分の存在を認めて、そう言ってしまった方が健全じゃないかって思います。「こんなにいいもの作ってるのに、なんで評価されないんだ!」って(笑)。

『ケムリが目にしみる』(2)
(C)飯田ヨネ/芳文社

確かに。「悔しがっている自分」を認められずにいると、その感情が他人への攻撃性につながってしまうことがある、というのもその通りですね。

飯田 『ケムリ~』のなかに楠というキャラクターが出てくるんですが、彼は最初、自分の恋人である女性が自分より優秀であることが許せないんです。でも、それでプライドが傷ついてしまう自分はダサいという自覚もあるので、「女性は男性よりも楽して生きているんだ」と考えることで自分を正当化して「正しい」と捉えようとする。

彼は物語の後半でそういう自分のコンプレックスを認められるようになったことで、ようやく自分を変えていくために動けるようになるんです。だから、そういうふうに「悔しい」とか「許せない」という気持ちに正面から向き合うことって大事ですよね。

作品の終盤では、楠は「僕は彼女を尊敬している」とはっきり言うことができるキャラクターに変わりますよね。自分のそれまでの価値観や振る舞いを問い直し、自分を変えていきたいと思ったとき、その一歩を踏み出すのってなかなか難しいなと思います。楠を見習いたいなと……。

飯田 なかなかできないですよね。私は最近、自分の描いた漫画の最新回が公開されたとき、SNSで「読んでください!」ってちゃんと言っていこう、と思うようになったんです(笑)。いままでは、自分の作品を「面白いのでぜひ読んでください!」って言う方に対して、よっぽど自信があるんだな、私にはできないなって思ってたんですよ。

でもよくよく考えてみたら、そういうふうに言える人のことが、ただ私はうらやましいんだって気づいて。だったら恥ずかしがってないで、「読んでぜひご感想ください! ファンレターの宛先はこちらです!」ってどんどん言っていった方がいいなって思うようになりました。YouTuberの方って「高評価お願いします!」って動画の最後に毎回言うじゃないですか、あの精神すごく大事だな、見習わなきゃって。

……そういうふうに、できそうなことからちょっとずつやっていこうかな、って私も思っています。

取材・文:生湯葉シホ(@chiffon_06
編集:はてな編集部

自分の本心と少しずつ向き合うために

お話を伺った方:飯田ヨネ

飯田ヨネ

漫画家。2016年デビュー。過去作に『給食の時間です。』(小学館)、『ケムリが目にしみる』(芳文社)、『今度会ったら××しようか』(KADOKAWA)。現在『つんドル! ~人生に詰んだ元アイドルの事情~』(原作・大木亜希子さん/祥伝社)連載中。最新2巻が2022年1月に刊行予定。

やりたいことへの道筋は柔軟でいい。カフェから寿司職人へと夢を切り替えた、週末北欧部のchikaさん

週末北欧部

「いつかはこんなふうになりたい」という目標や、やりたいことを持っていても、それをかなえるための具体的な行動に踏み出すのは、なかなか難しいものです。自分なりにやっているつもりでも「これでいいのかな?」と不安になっている人もいるでしょう。

そんなとき大事なのは「やりたいことの本質」をまず見極めることなのかもしれません。

人気ブログ「週末北欧部」のchikaさんは、学生時代の旅行がきっかけで「将来はフィンランドでカフェを開きたい!」という夢を持つように。しかし夢の実現に向かって行動する中で、フィンランドでの寿司職人を目指すことにしました。

カフェと寿司、というと一見かけ離れているように思えますが、chikaさんの中では「自分らしい生き方と働き方を両立できる」という、一貫してブレない軸があります。chikaさんがそのことに気付いたのは「自分が本当にやりたいこと」を探すために、たくさんの寄り道をした経験からでした。

やりたいことを探したり目指したりするための道筋は、何通りあってもいいはず。面白い寄り道をしたことで、想像以上のキャリアにつながったというchikaさんのお話を伺ってみましょう。(※取材はリモートで実施しました)

就職2年目での転職で、自分には「本当にやりたいこと」がなかったと気付いた

chikaさんは、会社員として働きながら、「週末北欧部」としてブログや漫画の執筆、北欧イベントの開催をされています。現在は、いずれフィンランドで暮らすために寿司職人の修業をされているそうですね。そもそも、なぜ「フィンランドで暮らしたい」と思うようになったのでしょうか。

chikaさん(以下、chika)  フィンランドは、小学生のころからサンタクロースのいる国ということで興味があったんです。就活前に旅行してみることにして、クリスマスの時期に1カ月ほど滞在したらすごくハマりました。初めて日本以上に住みたいと思えた国だったんです。

フィンランドの人には、お互いに「好きなことをしていることを尊重し合う」みたいな文化があって。親友と過ごしているときのように、沈黙が続いても心地よく過ごせるんですね。私自身田舎育ちで、みんなと違うと浮いてしまう経験もしていたからこそ、尊重と無関心の間くらいの距離感でいられるフィンランドを好きになったのだと思います。

chikaさん
chikaさん

就職活動が始まったときも「フィンランドで働きたい」と考えられたそうですね。

chika そうなんです。就職サイトで「フィンランド」と検索してもまったくヒットしなくて(笑)。最終的には、日本を拠点にしつつ北欧に関われそうということで、ネットで見つけた小さな北欧系の音楽会社に入社しました。その会社のスタッフは、私を含めて数名だけ。私は、北欧系のアーティストのイベントを全国のコンサート会場に売り込みにいく営業を担当しました。ただ、この会社は私が就職して2年目でこのままだとなくなってしまうという状況になり、転職活動をすることになりました。

就職2年目で会社がなくなるというのは大事件ですよね……。転職するときは、どんな仕事をしようと思っていたのですか?

chika そのときは北欧以外に関わりたいことが本当にありませんでした。すると、登録した人材会社との面談の中で「うちの会社を受けませんか?」と誘われたんです。

その面接で「好きな北欧に携わりたかっただけで、自分が何をしたいかは考えていなかったでしょう」と厳しいことを言われて「その通りだな」と思いました。好きな北欧に関われる会社に入社することがゴールだったので、その先で「自分は本当は何がやりたいの?」という部分がなかったんだと気付いたんです。

なので、次は本当にやりたいことや夢を持っていない自分を変えたいと思って。当初は3年半の期限付き契約社員で入社したのですが、「この期間をやり切ったら絶対に次にやりたいことが見えるから」という面接官の方の言葉を信じて入社しました。ここでやらなかったら変われない気がしたんです。つらいときは前職でやり切れなかったことを思い出したりして、自分を奮い立たせました。

やりたいことを見つけたいなら「選択肢」を増やせばいい

入社してから、「本当にやりたいこと」を見つけるまでにはどんなプロセスがあったんですか?

chika 当時の上司から「いろいろやってみて選択肢を増やしてみたら?」と言ってもらい、思いついたことを片っ端からチャレンジしました。最初は「将来、1年のうち3カ月くらいフィンランドで暮らせたらいいな」と思い、「だったら働き方を自分で選べる自営業がいいな」とライフスタイルから発想してみました。

まずは、「ブロガーとして収入を得られるのでは?」とブログを始めてみたり、ヴィンテージ雑貨のWebショップを始めてみたりしましたが、いずれも自分らしさを出すことがなかなか難しかったり、相手の反応が見えにくいことが自分に合わないと感じて、長くは続きませんでした。

このふたつの経験を通して、私にとって仕事とは「誰かのまねではなく自分らしさが生きること」「目の前の人が喜ぶ顔が見られること」が大事なんだと気付きました。その後に始めたカフェ修業ではどちらもぴったりハマり、「日本で北欧カフェを開きたい」と思うようになりました。

なぜ、そこでカフェで修業しようと思われたのでしょう。

chika フィンランドはコーヒーの国民ひとり当たりの消費量が世界一になることもあるほど、コーヒー文化が盛んな国なんです。それに音楽会社のときから、日本にいながらも北欧文化を発信する仕事には魅力を感じていました。

また、修業をしたカフェのオーナーさんが季節ごとのメニューをどんどん変えていく人で、ひとつとして同じ仕事がないんだなと思えたし、自分が作ったものを目の前のお客さんが喜んでくださるのもすごくうれしくて。

カフェなら、自分らしさを生かすことも、目の前の人が喜ぶ顔を見ることもできる。自分らしい生き方と働き方が両立できると思えました。

「同じ苦労をするなら」と、カフェから寿司へ大転換

その後、「日本で北欧カフェを開こう」から「北欧でカフェを開こう」へと考えを変えられましたね。

chika カフェ修業も3カ月ほどたつと、オーナーさんの苦労も見えてきて。そこで「どうせ苦労するなら好きなフィンランドで思いっきり苦労しよう」とひらめいたんです。どうせなら“苦労対効果”が高い方がいいんじゃないかと。「もっと大変な道になるけど、絶対にその価値がある!」とワクワクしたのを覚えています。

そこでフィンランドでの開業について調べてみると、就労ビザの壁が高かったんです。でも「寿司職人」は現地での求人もあるし、日本人であることも生かせるし、ビザも比較的取りやすいということを知りました。



同じ飲食業でもカフェと寿司はかなりかけ離れていますよね。目指すところを変えることに葛藤はありませんでしたか?

chika 葛藤はあまりなかったですね。もともとカフェを選んだのも、コーヒーやカフェが好きだからというよりは、自分らしい働き方と生き方を両立できるからでした。

私にとって自分らしさとは、自分なりの経験や思いを踏まえて好きな場所で生きていくことだと考えています。そんな自分らしさが価値になり、目の前の人が喜んでくれる仕事ができるなら、手段については強いこだわりはなかったのだと思います。

早速、寿司学校を見つけて平日夜に開講する3カ月のコースに入学することにしたんですが、学校側の都合で申し込んだコースが中止になってしまったんです。

思い切って寄り道したことで、迷いがなくなった

寿司学校に申し込んで、やっと夢へ一歩を踏み出そうとしたのに、出鼻をくじかれてショックだったと思います。

chika はい。最初はビザ突破が主な理由でしたが、そのときは寿司職人はとても素敵な職業だと思うようになっていたので、さすがに落ち込みました。そんなとき会社の先輩から「海外勤務の選抜試験があるから受けてみたら?」と電話がかかってきたんです。締め切り15分前だったのですが、5分で申し込みをしました。その後、無事に社内試験を合格して、中国・広州に約1年間赴任することになりました。

即断だったんですね! 北欧でも寿司でもない、中国勤務を選べたのはどうしてですか?

chika ひとことで言えば「面白そう」と思えたからですね。また、寿司学校に入れず次のステップに進めないまま、今まで通りの仕事や生活をただ過ごすことへのもどかしさもありました。

道は見えているのに先に進めないジレンマの中、今という時間をどう過ごすかを決めるのはすごく勇気が必要だったと思います。結果的に、中国勤務という“寄り道”はどんな経験になりましたか。

chika 中国勤務が決まったとき、この1年を夢のモラトリアム期間にしようと決めました。すでに5年間夢を追い続けて「まだできていないのか」と自分を責めてしまうこともあったので、一度白紙にして「何でも選べるよ」と自分に自由を与えてみる期間にしようと思ったんですね。あのとき、一度夢を手放して距離を置いたからこそ、やっぱり自分の夢が好きだと思えたし迷いがなくなったのかもしれません。

中国では言葉が通じず、自分のキャリアの主軸である営業は言葉が変われば太刀打ちできないという儚(はかな)さを知りました。でも同時に「何でも楽しんで生きていける」という自分のたくましさも知りました。

「若いからこそできる」と言われる仕事もある中で、年齢を重ねることを価値にしたい、世界中どこにいても自分の経験によって目の前にいる人を幸せにしたいという自分のキャリア観が、より明確になったんですね。寿司職人はその全てがかなうし、フィンランドに行ってもなんとかなるだろうと、自分への信頼度が高まる1年にもなりました。

これからも、自分だったら絶対に選べない選択肢が不意に与えられたとき、それを面白いと思えるなら思い切って選びたいと思います。




寄り道や予想外の経験も、掛け合わせれば価値につながる

帰国された今、今後の働き方についてはどのように考えておられますか?

chika 最近は、新しく「書く仕事」という道も考えるようになりました。中国勤務をしたことで、海外系のキャリア経験者として『COSMOPOLITAN』のWebサイトでのコミックエッセイ連載のお話をいただいたんです。

2020年には2カ月間入院することになり、会社の仕事も寿司学校も休んだんですが、入院中はベッドの上で過ごす時間が多かったため、この連載だけは執筆できました。



また、入院中の時間を使って、以前から書こうと思っていた「マイフィンランドルーティン100」をブログで書き始めたら、出版社から書籍化のお話をいただきました。結果的に、入院したことによって、新しく作家活動という軸を見つけることにつながったんですね。自分が望む望まないにかかわらず、起きた出来事は何かしらプラスになることもあると感じています。


入院中に執筆も

以前、ブロガーとして収入を得られないかと考えてブログを始めたときは、自分にしか書けないものをうまく見つけることができずに挫折してしまいました。でも今は、中国や北欧での体験を含め、自分の経験を生かして書きたいことが増えました。

今は、ゆくゆくはお寿司半分、作家半分というライフスタイルが自分に合いそうだなと思っています。それは、先ほどお話しした「年齢が価値になり、世界中どこにいても自分の経験で人を幸せにできる」というスタイルのひとつになりそうです。

今は新型コロナウイルスのことがあるので状況を見つつ、近い将来フィンランドに移住したいと考えています。

長年にわたって夢を追いかける中で、焦ったり不安になったりすることもあったのではないかと思います。そういうとき、chikaさんはどう対処していたのですか?

chika ひとつは、まず始めてみること。目指している仕事に就いていなくても、バイトをしてみたり何かを学び始めたりして、「いつかやります」ではなく「今やっています」という状態で人に会えるようにしたいと常々思っていました。もうひとつは、不安や焦りがあるときはその原因をじっくり考えて、先回りして不安要素をなくすことです。

私は夢見がちなリアリストなところがあるんです。例えば、フィンランドで失敗しても大丈夫なくらい貯金してみようとか、帰国することになっても転職できるように今の仕事をがんばろうとか。漠然とした不安を抱え続けるのではなく、「準備しているから大丈夫だよ」と自分を安心させられるようにしています。だから、今もまだ「時間がかかっても、失敗しても大丈夫」と思えているのだと思います。

すごく先のゴールは設定しているけれど、その道筋は綿密に決めすぎないという柔軟さが、大きな夢を実現することにつながっているのかなと思います。

chika キャリアの道筋は、ひとつのことに向かって突き進む「山登り型」、流れに沿ってやりたいことを見つけていく「川下り型」などさまざまなパターンがあると言われています。私の場合は、ゴールは決まっているけれど、登ったり降りたり、斜めに動いたり自由な道筋を選ぶ「ジャングルジム型」なのだと思います。


ジャングルジム型のキャリア

今となっては、寄り道に思えたことも、むしろ唯一無二の近道だったんだと確信をもって思えています。



最後に「なんとなくやりたいことはあるけれど、今やっていることがそれにつながっているかどうか分からない」と不安な人に向けて、chikaさんからアドバイスをお願いします。

chika どんな経験も、必ずその人ならではの価値になります。「今、本当にやりたいことと関係ないことをしているな」と思っていても、実はその経験が他の人にはない価値になり、思わぬ形で「やりたいこと」につながる可能性があります。自分が望む最終的なゴールさえイメージできていれば、そこに向かうまでの行動は柔軟に考えていいんだと、これまでの経験で感じてきました。

それに、ひとつのことを極めるのも大事ですが、いろんな経験を掛け合わせることで「自分にしかないキャリアができる」という考え方もあると思っておけば、すごく面白い人生になるんじゃないかと思います。

取材・文:杉本恭子 編集/はてな編集部

これまでと違う環境で「働く」上で大事なこととは?

お話を伺った方:chikaさん

chika

北欧好きをこじらせてしまった会社員。フィンランドが好き過ぎて12年以上通い続け、ディープな楽しみ方を味わいつくした自他ともに認めるフィンランドオタク。現在はいつかフィンランドで寿司店を開くことを目標に、平日は会社員をしながら、週末は寿司職人の学校に通っている。2021年9月24日に初の著書『マイフィンランドルーティン100』(ワニブックス)を刊行。

ブログ:週末北欧部 Twitter:@cicasca Instagram:@cicasca

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仕事のモヤモヤは、お酒と漫画で消化する。漫画家・コナリミサトさんの“気持ちのゆるめ方”

コナリミサトさんアイキャッチ画像

日々の仕事を通じて感じた疲れやモヤモヤ、うまく解消できていますか? 中には、そういったマイナスの感情をどうやってリセットすればいいか分からず、毎日溜め込んでしまっている──という人もいるかもしれません。

『凪のお暇』や『珈琲いかがでしょう』などで知られる漫画家・コナリミサトさんの作品であり、2021年にドラマ化もされた『ひとりで飲めるもん!』は、「ひとり飲み」を通じて日々の仕事の疲れをリセットしたり、仕事の悩みや不安を整理したりする主人公・紅河メイの姿が描かれています。作者のコナミさん自身も、ひとりで「飲むこと・食べること」などを通じて日々のモヤモヤを解消しているそう。

今回は『ひとりで飲めるもん!』の制作背景とともに、コナリさん自身の「仕事で感じたモヤモヤ・イライラの解消法」について、オンラインでお話をお聞きしました。

作中の主人公のように、食を通じて仕事の疲れを癒やす

コナリさんの漫画『ひとりで飲めるもん!』は、周囲からバリバリのキャリアウーマンに見られている主人公・メイが、ひとり飲みの時間を通じて仕事の疲れやモヤモヤを吐き出す様子を描いています。本作は、どのようなきっかけで生まれたのでしょうか?

コナリミサトさん(以下、コナリ) チェーン店のような大衆的な場所でひとり飲みをする女の子の話が描きたい、というのがまずあったんです。私自身、もともとチェーン店でひとりでのんびり飲むのが好きで、こういうことをネタにできたら面白いかもしれないと思って。

作中カット

「ひとりで飲めるもん!」1軒目より
(C)コナリミサト /芳文社

コナリさんはチェーン店でいうと、どんなお店に行かれるんですか?

コナリ 例えば「すき家」とか「松屋」みたいな牛丼や定食のお店で飲むのも好きですね。すき家は、実はうなぎが毎年進化していてすごいんです。松屋は、以前話題になった「シュクメルリ」が本当に好きで……期間限定だったんですが、レギュラー化してほしいって思いました。

飲み屋さんでいうと、高円寺にある「大将」っていう焼き鳥居酒屋がすごく好きですね。

大将、いいですよね、私も好きです!

コナリ 大将はマカロニサラダが最高なんですよね……あと、個人的におすすめなのがフードコート飲みなんです。

フードコートって学生さんや家族連れの方が多いイメージで、あんまり「飲む」イメージがなかったです。

コナリ フードコート飲みのよさ、あんまり知られていないと思うんですよ! いまはコロナの影響でちょっと難しいんですが、フードコートって本当に老若男女がおしゃべりをしている場なので、他人の存在を感じられるんですよね。近くのテーブルのお客さんたちの気配を感じながらごはんを食べたりするのが好きなんです。

確かに、楽しそう……!

コナリ 私、そういうスポットを探しながら常に街を歩いているというか、新しい飲みスポットを開拓するのがすごく好きで。風が気持ちよくて、そんなに混んでいない場所だと特にいいですね。デパートの屋上とかも好きですし。

ひとり飲みをするタイミングは『ひとりで飲めるもん!』のメイと同じく、ひと仕事終えた後が多いんですか?

コナリ そうですね。ただ、お酒は大好きなんですが「ネーム作業をしている期間は飲まない」って決めているんです。だから、ネームが上がったり原稿作業が一段落した日にする「雑な晩酌」がすごく幸せで……。もちろん外食も好きなんですけど、疲れている日の夜は、雑なごはんくらいがちょうどいいんですよね。

「雑な晩酌」というと、パパっとできるおつまみのようなイメージですか?

コナリ そうですそうです。お豆腐に塩をかけただけのものとか。最近はまってるのは、マキタスポーツさんがラジオで紹介されていた「10分どん兵衛」。それをさらにアレンジしたのが雑誌に載っていて。カップうどんのどん兵衛の縁ギリギリまでお湯を入れて、10分寝かせて麺をゆるゆるにしてから食べるっていう。小さいサイズのカップうどんって、おつまみにちょうどいいんですよ。

そういう、冷蔵庫と部屋を行ったり来たりするだけで済んで、お腹いっぱいになったらそのままお布団にダイブできるくらいの雑さがお気に入りなんです(笑)。その瞬間のお酒を目指して、毎日仕事を頑張ってます。

(写真左)最近は豆腐にごま油と味の素をかけたものにハマっているそう。
(写真右)10分どん兵衛には七味をどばっとかけて食べるとのこと
(画像提供:コナリミサトさん)

外ではバリバリ仕事をしつつ、飲むと「ほぐれる」人を描きたかった

『ひとりで飲めるもん!』はお酒好きなコナリさんの実感が反映された作品だったんですね……! 主人公・メイのキャラクターはどのように考案されていったのでしょうか?

コナリ メイは、いろいろな友人の合体系、という感じかもしれません。私の周囲には仕事をバリバリ頑張っている友人が多いのですが、外ではしっかりやっているんだろうけど、一緒にお酒を飲んだりごはんを食べているときは緊張がほぐれてフニャフニャな感じになってくれる子が結構いて、それがすごくいいなあと思うんです。みんな世代的にもどんどん出世したり責任のある立場になっていったりしているんですが、飲むと昔のままというか。

作中では、メイはチェーン店で食べたり飲んだりしてリラックスしたときに頭身が縮むキャラクターとして描かれていますよね。まさにあんなイメージですか?

コナリ そうですね! 1990年代のアニメって、コミカルなシーンになったときに突然汗の粒が大きくなったり、走っているときに足がぐるぐると渦巻きになったりするじゃないですか。子どもの頃ああいった表現が好きだったので、自分の漫画のキャラクターにもさせたいなあと思って。メイの場合は食事とお酒で分かりやすく「ほぐれている」のが表現できそうだと思い、ここぞとばかりにああいう描き方にしてみました。

作中カット

周囲が思わず見とれてしまうような雰囲気を持つメイが、チェーン店でのひとり飲みのときにだけ「ほぐれる」様子(「ひとりで飲めるもん!」5軒目より)
(C)コナリミサト /芳文社

なるほど。作中のエピソードに関しても、周囲のご友人のお話を参考にされたりすることもあるんでしょうか?

コナリ 会社員あるあるみたいなエピソードの場合、友人の話を参考にさせてもらうことはわりとありますね。例えばメイの同期が転職してしまうエピソードなどは、同期の転職が決まって寂しいけれど引き止めるわけにはいかないし……という話を友人から聞いて、そこから着想しました。

自分の本心をさらけ出せる瞬間があることの大切さ

コナリさんご自身が特に気に入っているエピソードってありますか?

コナリ 会社を辞めようか悩んでいるメイが、劇場に映画を観に行くお話が気に入っています。女戦士が登場する映画を観て、「じゃあ、私はこれからどうしよう?」と自問自答するエピソードです。

映画を観た後、メイは「冒険」として普段ならあまり行かない高級ディナーにも挑戦していましたよね。そして、その後すぐにチェーンの回転寿司店に入り直し、食べ&飲みながら自分の進む道を再確認するという。ここでもメイ自身が本心をさらけ出せるような「ひとり飲み」の時間が大切なものであることが伺えます。

作中カット

高級寿司を食べた直後に入ったチェーン店での気軽さに癒やされながら、自分の今後について見つめ直すメイの様子(「ひとりで飲めるもん!」18軒目より)
(C)コナリミサト /芳文社

コナリ そうですね。メイは結局「このままこの会社に残って働くことがいまの私にとっての冒険だ」という結論にたどり着くんですが、あれ、我ながらいいせりふだったなと思っています。

「冒険」ってどうしても新しいところに飛び出していく際に使われがちだと思うんですが、必ずしもそれだけじゃないよなあという思いがあって。『凪のお暇』が会社を辞めるお話だったので、「でも、残るのも冒険だよな」と心のどこかでずっと思っていたのかもしれないです。

作中カット

「ひとりで飲めるもん!」最終軒より
(C)コナリミサト /芳文社

確かに新天地に向かうことばかりが「冒険」と呼ばれがちだけれど、残って、その地で挑戦を続けることも「冒険」ですよね。コナリさんは、漫画家になる前に会社員をされていたことがあると伺っているのですが、会社を辞めようか迷ったご経験ってあったりしますか?

コナリ 雑貨屋さんの店員をしていたことはあるんですけど、自分にはちょっと合わないなと感じて、わりとすぐに辞めてしまったんですよね。それ以降はいろんなバイトをかけもちしながら漫画を描いていたのですが、実は28歳くらいのときに漫画家を辞めようかすごく悩んだことがあって。つらい時期だったのでもはや記憶から抹消されかけているんですが……。

えっ、そうだったんですね。そのときはどうして悩まれていたんですか?

コナリ 私、デビューからずっと、全っ然売れてなかったんです。同じくらいの時期にデビューした周囲の漫画家さんたちがどんどん売れていっているのを目の当たりにして、もう私にはこのまま続けるのは無理かもしれないなと思ってしまって。

それでも続けようと思えたのはなぜだったんでしょう。

コナリ どうしてだろう……身もふたもないですが、他にできることがなさそうだったからというのが大きいかもしれないです。いろんなバイトを経験する中で、自分のミスが全員の連帯責任になってしまったりするような環境を経験して、これは自分には向かないなと。

漫画の仕事って、うまくいってもそうじゃなくても、全部自分のせいにできるのがいいところだと思っていて。だから、すごく迷ったけど結局描き続ける道を選んでしまいました。確か、その直後に描いた作品が『珈琲いかがでしょう』だったんじゃないかな。

モヤモヤは、作中の「面白いエピソード」にして消化する

話題を戻しますが、お聞きしていると、コナリさんにとって「飲むこと・食べること」は日々の疲れやモヤモヤをゆるめるための大事な日課なんだなと感じます。もし、それ以外にも大切にされている「気持ちをゆるめる」ための方法や習慣があれば、教えてください。

コナリ 仕事でいま行き詰まっているなあと感じるときは、サウナとジョギングでリフレッシュするようにしています。サウナは、タナカカツキさんの漫画『サ道』を読んだのがきっかけではまりました。水風呂の存在を知れたのがデカイです。モヤモヤしているものを手放せる感じがするというか、スカッとできるので好きですね。

ジョギングは1年くらい前から運動不足が気になってやり始めたんですが、筋肉もつくし、半強制的に脳が休まるような感じがいいなって。ネームがどうしても思いつかないとき、なにか別のことを考えよう……と思って走ってみたら、たまにいいアイデアが浮かんだりもするので、最近はわりとよく走っています。もちろん、どうしても浮かばないときもあるんですけど……。

作品のアイデアがどうしても浮かばないときって、どうされているんですか?

コナリ とにかく散歩をしますね。ただ、最近は暑くて外を歩くのもなかなかつらいので、家や仕事場の中を歩き回ったりしています。

漫画家さんの中には、担当編集さんと相談を重ねることで作品を作り込んでいくタイプの方もいらっしゃいますよね。コナリさんはあまりそういったことはされないのでしょうか?

コナリ 私はあまり編集さんとじっくり相談しつつ作っていくというタイプではないかもしれません。むしろさっきお話ししたように、お酒を飲みながら友人の話を聞いたりしているときに作品の原型ができていく方だと思います。

お酒の場で自分の悩みをようやく言語化できたり、「いまのせりふは〇〇のキャラに言わせよう」と考えたりしているので、コロナ禍になって気軽に飲みに行けない現状が本当につらいんですよ……。現実世界で言えなかったことやモヤモヤしていることをお酒の場を通してエピソードにし、それを漫画という形で消化しているようなイメージなんです。

なるほど。お酒の場と漫画を通じて日々のモヤモヤを消化していらっしゃるんですね。

コナリ そうですね……穏やかな言い方じゃないかもしれないですが、モヤモヤ・イライラしたことは漫画の中でできるだけ面白い話にすることで復讐している、というか(笑)。私は愚痴を人に聞いてもらうときは「面白おかしくすること」がせめてものエチケットだと思う方なので、漫画に描く際にもあまり生々しいエピソードにならないよう、一旦時間を置いて、激情に流されないようになった頃に少しつまんで出す、というのを心がけています。……あっ、それから、ひとりで飲みながら落書きする時間も日々の癒やしのひとつかもしれないですね。

落書き! お仕事以外の時間にも絵を描かれるんですか?

コナリ ひとり晩酌しながら落書きするの、大好きなんです。さすがに仕事中は絶対にお酒は飲まないようにしてるんですが、そうじゃない時間はいくらでも飲みながら描けるので楽しいですよ! ほろ酔いで、自分の漫画のキャラのエロい絵とかを描くこともあります(笑)。本当にあっという間に時間が過ぎるので、やっぱり描くのが何より好きだなあと思いますね。


取材・文:生湯葉シホ 編集:はてな編集部

『ひとりで飲めるもん!』 発売中

『ひとりで飲めるもん!』書影

芳文社刊

紅河メイはコスメ会社の広報部に勤務する28歳。仕事もできて、スタイル抜群。 憧れる人も多いが、やっかみも多い。そんな彼女の密かな楽しみは、チェーン店。 それも居酒屋ではなく、チェーンの丼店、ラーメン店、カフェで食事をとりながらさくっと飲むこと。 働く女性に贈るちょいグルメストーリー。

▶ひとりで飲めるもん!

お話を伺った方:コナリミサトさん

コナリミサト

漫画家。2004年デビュー。『凪のお暇』(秋田書店)、『黄昏てマイルーム』(KADOKAWA)、『燃えよあぐり』(小学館)連載中。2019年に『凪のお暇』、2021年に『珈琲いかがでしょう』『ひとりで飲めるもん!』がドラマ化したことでも話題に。

Twitter:@konarikinoko

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「じぶん」の感情を尊重したら、相手に本音を伝えられるようになった|マンガ家・ペス山ポピー

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで

上司や同僚から理不尽な言動を受けたとき、「嫌だな」と感じても、笑って受け流してしまい相手に本音を伝えられなかった経験はありませんか。

自分の本音を他者に隠してしまう背景には、自己肯定感の低さから自身の考えや感情を尊重できず、空気を読みほかの人の要求に応えることばかりを優先してしまう、という側面がありそうです。

マンガ家のペス山ポピーさんも、子どもの頃から自己肯定感が低く、本音を隠してしまう自分に悩んできた一人。しかしエッセイマンガ「女(じぶん)の体をゆるすまで」の執筆を通じて、トランスジェンダー(Xジェンダー/ノンバイナリー)である自身の性自認への悩みや、過去に体験したアシスタント現場でのセクハラ・パワハラに向き合うことで、ようやく自分の感情を認めることができ、少しずつ本音が口に出せるようになってきたそうです。

そんなペス山さんに「自分の感情を尊重し、本音を相手に伝えるためのヒント」を伺いました。

※取材は新型コロナウイルス感染対策を講じた上で実施しました

本心を隠す自分は、自分に対して“不誠実”だった

「女(じぶん)の体をゆるすまで」の連載が終わり、上下巻で単行本化されるということで、まずは、連載本当にお疲れさまでした。

ペス山ポピーさん(以下、ペス山) ありがとうございます。

本作ではご自身のセクハラ・パワハラの体験や性自認についてなど、ペス山さんの「からだ」そして「こころ」について描かれていますが、そもそも、どうしてこういったテーマで作品を描こうと思われたんでしょうか?

ペス山 ここに向き合わないと、次に進めない」と思ったからです。アシスタント現場でセクハラ・パワハラを受けたのは2013年ごろとかなり前の出来事なんですが、ずっと向きあう気になれなくて。

きっかけは、前作(『実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』/新潮社)でも描いた交際相手の存在でした。かなりモラハラ気質というか、差別的な言動をぶつけてくる人だったんです。

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで

私はトランスジェンダーということもあり、極力自分が傷つかないようマイノリティーな側面がある人としか付き合いをしてこなかったんですが、初めて付き合った“ノンケ”の男性がそういう人で、衝撃を受けて。

そこで初めて「性差別」というものに目が向くようになって、ようやく過去のセクハラ・パワハラにも向き合おう、と思えるようになりました。どちらの出来事も「自分という存在がぞんざいに扱われている」という点において、差別の仕組みは同じじゃないですか。

元交際相手から受けた差別的な言動がきっかけとなり、自分の中で「封」をしていた過去の理不尽な出来事に触れることができたと。向き合うことを避けていた記憶と対峙するのは、つらくありませんでしたか。

ペス山 実は、描いているときは過去に起きたことを整理しているような感覚で、わりと平気だったんです。むしろ描くことでちょっと楽になる感じでした。

それを聞いて、少しホッとしました……。「女(じぶん)〜」の執筆を開始するまでは、自分の感情や本心をどう扱っていましたか。

ペス山 不誠実だったな、と思います。私は小学生6年生のころ、男の子のような格好をしていて、周囲からは「女なんだから……」と言われていました。そのたびに傷ついて。

傷つかないためにはイカれた格好をするしかない、と思い高校生の頃からずっとゴシックファッションに身を包んでいました。前髪は鬼太郎みたいに斜めで。

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで 高校入学からしばらくゴス時代は続いた
(C)ペス山ポピー/小学館

したい格好じゃないのに、あえてゴシックファッションを選んでいたと。

ペス山 そうなんです。本当は男の子のようなファッションを選びたかったけれど、それは自分の「核心」なので、否定されたら傷つく。だったら「なんで黒づくめなの?」と聞かれる方がマシで……。

学校には毎日遅刻するし、先生にはキレるし、本当にやばい生徒で(笑)。周りからは自由な人間に見えていたかもしれませんが、自分が好きな格好はできていないし、自分を否定してくる相手には暴言を吐いてしまうし、外面にも内面にも不誠実だったと今は思います。

「暴言」は自分の本心をさらけ出す、とはまた違うのでしょうか。

ペス山 相手に嫌なことを言われて、私も相手の悪いところを言って、それってただ相手を傷つけているだけで、本心を出してはいないじゃないですか。

自分に自信がないから“イキって”たんですよ。イキることで自己肯定感の低さをマヒさせているというか、ずっと“演技”をしているというか。聡い友達にはバレてたと思います。

自信がない、自己肯定感が低いという自覚はその頃からあったんですね。

ペス山 客観視できたのは、大人になってからなんです。

20歳くらいの頃、母親に「あなたは子どものときから『勉強くらいできないと生きてる価値ないから』と言ってたよ」と教えてもらったことがあって、そのときにようやく「私って子どものころから自己肯定感が低かったんだ」と初めて客観視できました。

セクハラを受けたときにも、本質的なこと、自分の核心に関わることであればあるほど向き合えなくなって、なにも言い返せなくなってしまう自分の性格を痛感しました。

マンガとカウンセリングを通じて自分の「本心」に向き合えるようになった

「女(じぶん)の体~」の最終回には「最近喋るとき、本音にたどり着くまでに一拍待つようになった」とありましたが、この変化にはなにかきっかけがあったんですか?

ペス山 「一拍待つ」というコミュニケーションができるようになったのは、カウンセリングに通ったことが大きかったかもしれないですね。自分が受けたセクハラの被害については全て描ききった、じゃあ描いたことを自分の口で話せるだろうかと試してみたくて、カウンセリングに行ったんです。

カウンセラーさんにワーッと一方的にしゃべってみて気付いたんですが、私の場合はただ心の動きの表面をなぞってるだけで、話した内容の3割くらいは“いらない話”をしていたんです。だから、自分の本音にたどり着くまで「待つ」方がいいんじゃないかなと。

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで 最終回で描かれた自身の変化
(C)ペス山ポピー/小学館

カウンセリング、行ったことがないとハードルが高い場所のように感じてしまう人も多そうです。自分に合った場所を探すのも難しそうな印象があるのですが、ペス山さんはどうやって探したんですか?

ペス山 私の場合は、信頼している知人がおすすめしていたカウンセリングルームに行きました。性被害をテーマにしたオンライン講座なども開催していたところだったので、それにも参加した上でよさそうだなと思って実際に足を運んで。

やっぱりプロの聞き手は圧倒的に「待ってくれる」ので、自分の気持ちをなかなか話せない方は、カウンセラーさんに頼ってみるという選択肢もおすすめしたいです。

カウンセリングはある程度お金がかかってしまう一方で、お金を払っているからこそなにを話しても聞いてもらえる、という安心感はありそうですよね。

ペス山 そうですね、知り合いや家族に対して同じように話してしまうと、場合によっては一方的な言葉の暴力のようにもなってしまうので。聞く技術を持ったプロは安心できますよね。

カウンセラーさんと話をしたことで、ふだん自分がいかに本音に目を向けず、目くらましみたいな会話をしているかに気づかされました。だから、日常会話でも場を和ませるためにサービスしようとか、笑ってもらおうとか、そういうの一旦やめてみようと思ったんですよね。

人に笑ってもらえると、やっぱりうれしいじゃないですか。でもそれってスナック菓子みたいなうれしさで、続けているとやめられなくなっちゃうんです。

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで

過剰にサービスしないこと、大事ですよね。一方で会社や学校のようにいろいろな人たちが集まる場だと、空気を淀ませずに会話をすることが求められがちです。「一拍待つ」ことで生まれる間が怖くなってしまう方もいそうだなと。

ペス山 その怖さは、会社で働いている方には絶対ありますよね……。私の場合は正直、編集さんや親しい人たちとしか話さないから「一拍待つ」というコミュニケーションができている、という側面はあると思います。だからまずは、親しい人に対してだけ「本音にたどり着くまで待つ」をやってみてもいいかもしれません。

……あと最近思ったんですけど、大御所女優ってすっごく間を空けてゆっくりしゃべる方が多いじゃないですか。でも誰も怒らないし、そんなに気にもしてませんよね、たぶん。だから同じように、ちょっとくらい間があってもよくない? と思って(笑)。

確かに……!

ペス山 会話の間もそうですけど、不当な扱いを受けたり嫌な気分になったりすることがあったときも「自分が岩下志麻さんだったら、こんな扱いを受けて受け流すはずないだろう」と考えるといいのかもしれない(笑)。

まずは「〇〇さんだったらどう返すだろう」と理想の姿を考えてみることから始めてみて、いずれ「◯◯さん」の部分が自分自身になれば、最高ですよね。もちろん、訓練は必要だと思うんですけど。

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで

そうして自分の本心を尊重できるようになったら理想的ですよね。「マンガ」や「カウンセリング」を通じて、ペス山さんが尊重した「本心」は何だったのでしょう。

ペス山 私の場合はやっぱり「性自認」だったと思います。今まで自分を抑圧してきた性自認という大きな本心を解き放てたことで、ほかの本心に対する「鍵」も芋づる式にゆるんできた、という感覚があります。

なるほど。では、自分の本心を尊重するのが苦手な人にアドバイスをするとしたら、何と声をかけますか。

ペス山 そうですね……他者に対してと同じくらい、自分に対して誠実になろうとしてみてほしいです。私も最近知人に言われてハッとしたんですが、自分のことは二の次なのに、他者に対しては誠実でいようとする人がすごく多いと思うんです。

それが「善きこと」とされているけれど、そうではないと思うから。

“じぶん”を尊重できたことで、大幅な描き直しにも踏み切れた

「女(じぶん)〜」の執筆を通じて自分の本音に向き合えたとのことですが、作品では自分の本心を全て悩みなく描けたのでしょうか。

ペス山 どんな描き方をしたらいちばん読者に伝わるか、には悩みましたが、描くこと自体に悩んだことは……うーん、あったかな……。

編集担当チル林さん(以降チル林) 近くにいた私から見ると、悩んでるなあと思うことはたまにありました。

連載時は毎回、ネームを見て2人で相談しながら細部を詰めていたんですが、描きたいことがネームに表れてるときと、ベールに隠されて核心が見えないときがあって。「ペス山さん、いちばん描きたいことって本当にこれ?」と確認したことは何回かあったよね。

ペス山 確かに、なかなかネームが通らないときはありましたね。そういうときってだいたい自分で通らないだろうなって分かってて、チル林さんとしゃべってなんとかしてもらおうって思ってる(笑)。

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで

そういうときは「ペス山さんが本当に描きたいこと」が見つかるまで2人で粘るんですか?

ペス山 そうですね。なんなら、描き終わったあとにようやく本音にたどり着けて、単行本化に合わせて大きく描き直した回もあります。例えば性自認をテーマにした6話は、連載時と単行本とでタイトル、話の構成、内容などが大きく変わっています

連載当初、コメント欄が荒れてしまい、私の性自認に対して口を出してくる人のことが怖くなってしまって。私の性自認はずっと揺らぐことなくトランスジェンダー(Xジェンダー/ノンバイナリー)なんですが、それに対して何か言われるのが怖くて、6話ではまるで性自認に迷いがある人のように自分のことを描いてしまったんです。

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで 左はWeb掲載時版、右は描き直した単行本版の一部
(C)ペス山ポピー/小学館

あとから、他者の納得を得るために描いてしまった話だと気づいて、連載の最終回執筆と並行する形で、単行本分を描き直させてもらいました。単行本の内容は「自身の性別に違和感を感じている自分」がしっかり描かれていると思います。

コメント欄が差別的・暴力的なことを書く人たちによって荒らされ、編集部がコメントを承認制に変更したのは、ネットでも話題になりました。すごく毅然とした対応だったと感じます。

ペス山 そうですね、チル林さんはじめ、編集部の対応は本当にありがたかったです。

承認制にしてもらってからはいろいろな意見をいただけるすごくいい場になったし、読者の方からの声をきっかけに自分の本心に気づかされることも増えたと思います。

『女(じぶん)の体をゆるすまで』のコメント欄について | やわらかスピリッツ

執筆を通じて、ペス山さん自身にたくさんの変化があった作品かと思いますが、周りの人から変化を指摘されたことはありますか?

ペス山 ずっとお世話になっているマンガ家さんに「本当に変わったよな」と言われました。あまりにもいろいろ変わったみたいで、どこがどう変わったかは言ってくれなかったんですが(笑)。

チル林 でもペス山さん、本当に変わったよ。出会った頃はもっとお笑い芸人みたいで、自分のエピソードをおもしろおかしくしゃべってくれる感じだったもん。話すスピードもすごくゆっくりになったと思う。

ペス山 ああ、やっぱりそうだったんだ……! 身近な人たちがそう言うってことは、本当に変わったんだと思います。

痛みを感じやすい人もそうでない人にも、最低限の「靴」がほしい

作中にゼラチンさんというお友達が出てきますが、彼女は理不尽な出来事やハラスメントを受け流すことが得意な人物として描かれています。自分の気持ちに向き合わず受け流そうとする人のことを、今のペス山さんはどう感じていますか。

ペス山 作中でも描きましたが、彼女がこれまで受けた被害について「特になにも感じてない」と言われたときは、正直驚きました。

でも、そうだよな、こういう人もいるよな、と今は思います。私はたまたま自分の内面と向き合うことが得意だったからエッセイマンガを描けたし、カウンセリングのなかでも結構ハードとされている心理療法を選んだりもできたんですが、誰にでも当てはまるわけではないとも思うので。

マンガ家・ペス山ポピーに聞く、自分の感情や本音を認めて、向き合えるようになるまで 学生時代からの友人、ゼラチン
(C)ペス山ポピー/小学館

エッセイマンガは確かに、特にハードなアウトプット方法だと感じます。

ペス山 私からは逆に、ゼラチンのように受け流すのが上手な人の方がハードに見えてるんですよね。

でも、彼女は「A面」を見せるのが得意な人だと思うから、急に「B面」を見せろ、苦手なことをしろなんて言えない。私たちは陸生植物と水生生物くらい違うのかもしれないなと思います。でもこの前も2人でシン・エヴァを観に行きましたよ。

考え方が違っても、長く付き合える関係っていいですね。作中では、痛みをなかったことにしている人も、そもそも痛みをあまり感じない人も確かにいると認めた上で、歩き続けるために「全員分の靴が欲しい」「だから描くのだと思う」とも描かれていました。

ペス山 うん、痛みをあまり感じない人がいるにしたって、そもそも最低限(の靴)がそろってないじゃんって思うんです。

理不尽な言動を許す世間の空気をなくしたり、社会的な制度を整備することは、最低限必要ですよね。最後に、ペス山さんはエッセイマンガを通じて自身に向き合ってきましたが、今後はどういう作品を描いていきたいと考えていますか。

ペス山 将来のことはまだなにも分からないけれど、たぶん、描きたいものが出てきたらまた描くんだろうなと思います。エッセイマンガは、ネタが切れるからああしようこうしようと、作品に合わせて生きると本当に滅ぶので……。

だから、これからも自分がやりたいことをやれる形でやっていきたいですね。人生を徐々に凪にしていこうと思ってます、描くことで

取材・文/生湯葉シホ
写真/関口佳代
編集/はてな編集部

『女(じぶん)の体をゆるすまで』 著:ペス山ポピー

『女(じぶん)の体をゆるすまで』書影

小学館刊

自身が生まれもった体を恨み、漫画も描けなくなったペス山さんが己の過去、友人、親と対峙しつつ、「女(じぶん)の体をゆるすまで」を描いた、話題のジェンダー・エッセイコミックが上下巻同時発売。

▼ 詳細:女の体をゆるすまで 上 | 小学館

お話を伺った方:ペス山ポピーさん

ペス山ポピーさん

マンガ家。2017年に自身の性的嗜好を描いたエッセイ「実録 泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。」(新潮社)でデビュー。2020年から約1年をかけて、Webサイト「やわらかスピリッツ」で「女(じぶん)の体をゆるすまで」を連載した。

自分の気持ちと向き合うためのヒント

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計画は「決め過ぎない」でもいい。自分の"好き"と向き合い続けたキリン研究者の仕事観

郡司芽久さん記事トップ写真

日々の仕事のなかで具体的な目標や計画を立てることは大切です。しかし、一度立てた計画にこだわり過ぎると、ときに息苦しさを感じることもあります。例えば、目標を意識するあまり、もともと楽しかったことがつらいものに変わってしまったり、思わぬ発見に気付かなくなってしまったり。

動物の解剖を専門にする郡司芽久さんは、世界でも珍しいキリン研究者。もともと「キリンが好き」という気持ちが高じて研究者の道を選び、10年近い年月をかけて数十頭のキリンの解剖を経験したのち、キリンの首にまつわる研究で博士号を取得したという異色の経歴の持ち主です。

研究を重ねるほどにキリンへの気持ちが高まっているという郡司さんは、これまで計画や目標とどのように付き合ってきたのでしょうか。計画を決め過ぎないことの大切さ、目先のトレンドに惑わされないための考え方など伺いました。

※取材はリモートで実施しました

キリンを愛する学生が解剖学に出会うまで

郡司さんは子どもの頃からキリンが大好きだったそうですね。実際にキリンの研究者の道を志すようになったのは、大学生のときに聴講されたシンポジウムがきっかけだったとお聞きしています。

郡司芽久さん(以下、郡司) 大学1年生のときに出席した大学の生命科学シンポジウムがきっかけです。「生き物の右と左はどう決まるか」「南極のアザラシはどうやって生きているか」など、幅広い分野の先生たちがそれぞれの視点からすごく楽しそうに研究の魅力を話されていました。そのあと、シンポジウムの懇親会で先生方とお話ししていたら、最終的には研究室にも連れて行ってくださり、マウスを使った遺伝子研究の様子を見せていただいたりして。そのとき初めて研究者って楽しそうだなと思いました。

研究の道に進むとしたら対象はキリンにしたい、というのは当時から思われていたんですか?

郡司 そうですね。ずっと好きでいられるものってなんだろうと考えたときに、大好きな生き物のなかでも特に好きなキリンかもしれないと思ったんです。ただ、研究の潮流で言えば、当時はもう生物学の本流は分子生物学*1で、生き物を一個体や群れの単位で扱うような研究は下火になってきていたんです。しかも鹿や猿のような身近な動物ならまだしも、キリンの研究をしている方というのは本当にいなかった。だから先生方に「キリンの研究ってどうやったらできますか」と相談しながら、道を模索しているような状態でした。

郡司芽久さん記事インタビュー写真1

結果的に「解剖学」という分野をご専門にされたのはなぜだったんでしょう?

郡司 解剖学であればキリンの研究ができそうだったから、というのがほとんど全てです。大学1年生の秋に、さまざまな動物の遺体を動物園から引き取って解剖されている遠藤秀紀先生という解剖学を専門とする教授に出会いました。この研究室ならばキリンの研究ができそうだ、とその先生のゼミに入ったのが始まりですね。「キリンが好きでたまらないのによく解剖できたね」ってよく言われるんですが……。

それはちょっと気になりました。ゼミに入って最初に体験したコアラの解剖の時点で楽しかったと本に書かれていましたが、怖さはなかったのかなと。

郡司 あまり怖さはなかったですね。私の本を読んでくださった方から「キリンをもっとじっくり見てみたくなった」とうれしい感想をいただくこともあるんですが、私自身が解剖に魅力を感じたのも近い欲求だと思っていて。

コアラの解剖をしたときも、「そうか、こんな体の構造をしているからあんなふうにずっと木にしがみついていられるんだ」というのが分かり、コアラについてより深く知ることができたという感覚があったんです。だから私個人の考えで言うと、動物って解剖するとより好きになるんですよ。

なるほど……そう言われてみると、動物の体の構造は図鑑や動物園の看板などの説明を通してしか知らないなと感じます。

郡司 そうですよね、みなさんそうだと思います(笑)。生きている動物を対象にした研究って、人間がさわればさわるほどその生き物にストレスがかかってしまうし、人間にとって危険な場合もあるので、基本的には触れるのはNGなんです。でも解剖の場合は、もう亡くなっているのでさわりたいだけさわれる。頭はどのくらいの重さか、足はどのくらいの長さか……といったことを、知識としてだけでなく五感を使って体感することができるのは、解剖のいちばんの面白さだと思いますね。

目的や計画を「一から十まで決め過ぎない」ことの意味

郡司さんはこれまで数十頭のキリンの解剖に携わってきて、その多くは博物館に標本として収められています。たくさんの標本を作る理由として、博物館に根付く「3つの無(無目的・無制限・無計画)」という理念を紹介されていましたが、ビジネスの場面では計画や目的を強く求められることもあるだけに新鮮でした。

郡司 博物館のコレクションを作る主な目的って、言ってしまえば博物館をいつか利用する「未来の人」のためなんです。実際にいま私も、100年前に集められた骨格標本を使って研究をさせてもらったりすることもあります。同じように、100年後の人が使う可能性を踏まえてコレクションを収蔵しようと思ったら、できるだけたくさんのものを集めておくしかないんですよ。いま当たり前にいる生き物も、100年後には絶滅危惧種になっている可能性だってあるわけですから。

確かに、いまは身近な動物でもいつか絶滅危惧種になったりしたら、「どうしてあんなにたくさんいたときに遺体を残しておかなかったんだ」と未来の人に思われてしまいそうですね。

郡司 実際にそういうケースってよくあるんです。例えば奄美大島には、いまは天然記念物になっているアマミノクロウサギという日本固有のウサギがいます。100年前には島全域にすごくたくさん生息していたことが分かっているのに、その時代の標本って日本全体で数えるくらいしか存在しない。

そうなると、できない研究や検証できない仮説が出てきてしまうんですが、当時の人たちからしたら、「こんなにたくさんいるウサギより、もっと珍しい動物を集めた方が役に立ちそう」ってことだったと思うんです。だからいまの私たちの価値基準では動かずに、博物館はあらゆるものを集め、あらゆる可能性に備えておく必要がある

たぶんそれって、自然史博物館などの標本に限らず、身近な本などでも同じですよね。いつでも手に入るかなと思って処分してしまった本が絶版になってしまってもう二度と手に入らない、というような話はどこにでもあって、いまの私たちの価値観や目的意識だけで遠い未来のことを判断してはいけない、という。

郡司芽久さん解剖風景写真 骨格標本の計測風景。並んでいる骨を一つずつ中央の銀色の計測器(ノギス)で測り、紙に記録していきます

研究についてもそれに近い部分があるのでは、と想像しているのですがいかがでしょうか。

郡司 研究の場合は、博物館の理念とは少し違う部分もあります。私たちは公費を使って研究をしているので、当然ですが「無目的・無制限・無計画」ではさすがに通用しなくて、何年か先を想定して提出する研究計画書というものが存在します。そこでおそらく研究者の多くは、ある程度のヒントというか、複数の弱い証拠のようなものを手がかりにして、「こういうことをしていけば、いずれ大きな証拠が掴めるのではないか」という仮説から研究計画を立てている気がします。

ただ、明らかにしたい大きな目的は当然あるんですが、その目的を達成するための要素だけに縛られないようには気をつけています。つまり、「このデータが得られさえすればこの研究は終了」というふうには思わず、「この実験のついでにここも観察してみようかな」と考えるようにはしているかもしれません。

だから、一から十まで目的や計画を決め過ぎない、ということは確かに意識していますね。実際、研究を進めるなかで、まったく予想もしていなかったことが起き、それが別の研究に発展していくこともあります。

あえて目先のトレンドは追いかけない

郡司さんは、キリンの研究という国内でも専門家がほとんどいなかった分野に飛び込まれたわけですよね。「この研究が本当にうまくいくのか」「いつ成果が出るのか」という不安を感じることもあったのではないかと思うのですが、いかがですか。

郡司 性根が楽観的だからかもしれないんですが、実はそういうことはあまりなかったんですよね……。私は大学院に5年いたので、院生時代に同い年の友達はすでに社会人3年目くらいになっていて。周りの人たちを見ていて、いわゆる3年離職率って本当に高いというのを実感したんです。転職したりワーホリを利用して海外に行ったり、なかには病気になって療養したりしている人もいて、友人たちがそういう人生の節目に立っているのを見たら、「安定した生き方」なんてないんじゃないかと思いました。

だから、どんな道を選んだとしても不安定な要素は消せないのだとしたら、これさえやっていれば自分は幸せだということを仕事に選んだ方がハッピーなんじゃないか、というのが研究者を目指していたときの正直な気持ちだったと思います。

『キリン解剖記』書影 『キリン解剖記』ナツメ社
キリン博士に至るまでの道のりがまとめられている著書

例えば研究者として評価されるということを考えると、冒頭に述べられていた分子生物学など、いわゆる「トレンド」の研究を行ったり、成果の見込みやすい分野で教授にテーマをもらったりといった道もあったのではないかと思います。郡司さんは、そういった選択が頭をよぎったことはありませんでしたか?

郡司 そうですね。当たり前ですけど、トレンドって変わるんですよね。特に研究の世界だと、実際に研究を始めてから世の中に報告されるまでにタイムラグがありますし、今のトレンドを追っても自分が研究者として独り立ちするときにはトレンドが変わっている可能性も高い。だから博物館的な考え方かもしれませんが、トレンドはなるべく意識せず、自分の関心から研究を進めようというのはありました。

あとは、身近にたまたまトレンドに近い領域で研究をしている友人もいたのですが、絶対にかないそうにないな、ということもありました(笑)。トレンドになっているということは、研究人口も多く競争が激しいわけですよね。逆に、キリンなどのニッチな分野では競争というよりも、一緒にこの分野を盛り上げていこうという意識が強かったりする。このあたりも、あまり流されなかった理由の一つかもしれません。

確かに人気のある分野だと競合が多いのはビジネスの世界でも同じかもしれません。自分の関心から研究を進められていたとのことですが、これまで研究が嫌になったことはありませんか。解剖はなかなかハードだと拝読しました。

郡司 大きな動物の解剖が立て続くことがたまにあって、そういうときは確かに大変ではあります。動物がいつ亡くなるかは誰にも分からないので、偶然同じタイミングで遺体が届くこともまれにあるんです。キリンの解剖を10日間やったあとにサイの解剖を1週間やる、とか……。そういうときはもうただただ体力が消耗するんですが、それでもなおキリンの解剖だけは、どんなタイミングで入ってきても嫌だなあと思ったことがないですね。

いつきても嫌じゃないんですか。すごい……!

郡司 すごく疲れているときに「これからワニが5頭きます」という連絡が入ったりすると、「ワニ5頭かあ……」みたいな気持ちになっちゃうこともあるんですよ。もちろんちゃんとやりますし、いざ解剖を始めるといろいろな発見があって楽しくなってくるんですが。ただ、キリンに関してはエンジンがかかるまでの時間が他の動物と明らかに違うんですよね。

(笑)。

郡司 日常生活のなかで、「私は本当にキリンだけが特別に好きなんだろうか?」「なんでこんなにキリンにこだわるんだろう?」って思うことはよくあるんです、ほかにも好きな生き物はたくさんいるので。でもキリンの解剖が入ると、やっぱり自分にとってキリンは特別なんだなって実感します。

「すぐに役立つ研究」だと思われなくても

お話をお聞きしていると、郡司さんは本当に純粋な「好き」を突き詰めていまの研究にたどり着かれたんだろうなと感じます。著書のなかにも、宇宙物理学者の先生に「郡司さんも私も、子どもの心のままで大人になれて幸せですね」と言葉をかけてもらったというエピソードがありましたね。

郡司 その先生はブラックホールの研究をされている方で、私の何を見てそういうふうに言ってくださったかは分からないんですが……なんとなく「好き」という気持ちをそのまま感じられている人が、先生のおっしゃる「子どもの心のままで大人になれた」人なのかな、と思っています。

自分の気持ちを軸にして物事を判断するのって、大人になればなるほど難しくなるじゃないですか。子どもの頃の「好き」って周りの視線をまったく意識していなかったと思うんです、石が好きとか虫が好きとか。でも、大人になってくると「こういうのが好きだと格好いいと思われそう」みたいな余計なことを考えてしまったり、周囲の声を左右されたりすることも増えてくると思うんです。

郡司さんの場合は、指導教員の先生が当時を振り返って、「郡司は止めても聞かなかった」とあとからお話しされていたそうですね。

郡司 私にはキリンの研究を止められた記憶がないので、先生か私のどちらかの記憶が間違っていることになるんですけど(笑)、周りの声を気にしないっていうのも時には大事かもしれないなとは思います。

それに、人に言われて選んだことって、うまくいかなかった場合その人のせいにしてしまいがちじゃないですか。でも、自分で決めたことであればうまくいかなくても、ある程度自分で折り合いをつけられるんじゃないかなと思うんです。

ただ、そうして自身の「好き」が高じて選んだ研究テーマにもかかわらず、著書の最後には類似の着眼点を持った研究が立て続けに発表されてきていると書かれていました。今後、郡司さんの研究が他分野で応用されることも増えると思いますが、現時点では将来的にどんな分野に生かされることがありそうだとお考えですか。

郡司 例えばいまも医療分野の方と一緒にキリンも人間もかかる病気の研究をしたり、新しいロボットを作ろうとしている方と共同研究をしたりしていて、いろいろな可能性は感じているんですが……実はつい最近気づいて、個人的にちょっとショックを受けたことがあって。

おそらく「基礎研究は、すぐに何の役に立つのかは分からなくても、いろいろな可能性をもつ大事なものだ」と言う研究者の方って多いと思うんですね。遠い未来に、なんだかよく分からなかった基礎研究の成果が、ある病気を治すことにつながるとか、人間の生活が劇的に楽になることにつながるかもしれない。それに、もっと広い意味で人間の生活が豊かになることも「役に立つ」ことに含まれる、とも思います。日常生活をほんのすこしだけ楽しくしてくれるような「トリビア」的な研究だって、「役に立つ」の一つの形なんじゃないかなあと、私自身はずっとそう思ってきました。

でも、いざこういう例がありますと言おうとしたときに、「役に立ちそう」とすぐに思ってもらえそうな医学とか工学への応用例ばかり毎回挙げてるな自分、と……。

なるほど……。ビジネスの分野でも、分かりやすい成果ばかり強調してしまうことは少なくないかもしれません。

郡司 もちろん、医学とか工学とかで役に立てるとしたらうれしいんですよ。でもそれって、「結局なんの役に立つの?」という目に何度も晒されて傷ついてきた研究者の防御反応でもある気がするんです。

分からないことを分かることに変えたい、という好奇心がどんな研究の根本にもあると思うんですが、公費を使って研究するとなったら、やっぱり「私たちの生活がこんなふうに変わります」ということが求められます。そこで自分の研究が「役に立たなそう」と思われると傷つくんです。だから、医学や工学への貢献といった分かりやすい例を挙げて納得してもらいたいという気持ちが出てくるし、それはすごく分かります。

でも一方でそれが、「役に立つ研究」ってこういうものですよ、という先入観を増進させてしまっている気もするんです。「医学や工学への応用だけが、『役に立つ』の形ではない」と思っているのに、「役に立つ研究」の例にはそういったものばかり挙げてしまうって、矛盾してるかもしれない。最近、そんなふうに思うようになったんです。

ありがたいことに、私の研究を知って「キリンを見る目が変わった」って言ってくださる方はたくさんいます。いままで目には入っていたけれど特に注目したことがなかったようなものに意識を向ける瞬間が増えたり、生き物ってこんな面白いんだなと思ったりする人がすこし増えることが役に立たないことかって言われたら、決してそうではないと私は思うんですね。

キリンの写真

本当にそうですね、大きな意味のあることだと思います。

郡司 だから、医学や工学はもちろんなんですが、それ以外にもいろんな可能性があるということを最近は言うようにしています。「私はキリンという不可思議な動物の進化について知りたくて研究をしているけど、あなたはキリンの研究にどんな価値を感じますか?」というふうに、相手に尋ねてみるような感じです。

もちろん「役に立たなそう」と言う方もいますけど、そもそもキリンを対象にして研究ができるということ自体に価値や驚きを感じてくださる方もたくさんいて、「キリンの遺体って手に入るんですね、そんな研究はできないと思っていました」と言ってくれる方もいたりします。

いま地球上には何万種もの動物がいるのに、研究で扱えている動物ってまだまだ少ないんです。だから、私個人の思いとしては、もっといろんな生き物を対象にいろんな研究が進んでほしいし、私の研究がいろいろな生き物を研究する人が増えることにすこしでも貢献できたなら、すごくうれしいなと思いますね。

取材・文:生湯葉シホ (@chiffon_06
編集:はてな編集部

お話を伺った方:郡司芽久さん

郡司芽久さんのプロフィール写真

東洋大学生命科学部生命科学科助教。2017年3月に東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程を修了(農学博士)。 同年4月より、日本学術振興会特別研究員PDとして国立科学博物館に勤務、2020年4月から筑波大学システム情報系研究員を経て、2021年4月より現職。幼少期からキリンが好きで、大学院修士課程・博士課程にてキリンの研究を行い、27歳で念願のキリン博士となる。

Twitter:@AnatomyGiraffe  HP:郡司芽久

気になるあの人の仕事観

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*1:生物を構成する分子のレベルで生命現象を研究する学問分野

自分の強みに気付けば、組織での“役割”が見える。ハロプロOG・宮崎由加&ハラミちゃんの「居場所の作り方」

宮崎由加(元Juice=Juice)とハラミちゃんに聞く、自分の強みを見つけ、居場所を作る方法

「周囲の同僚がみんな優秀に見える」「私の強みって、なんだろう」……。しっかり働いているはずなのに自分に自信をなくし、何をすべきか分からなくなってしまうことはないでしょうか。

そこで今回は「優秀な集団の中で自分にできること(=強み)」を見つけて伸ばした結果、自分なりの“居場所”や“役割”を見つけられた経験を持つおふたりに対談いただきました。

お話を伺ったのは、ハロー!プロジェクト(ハロプロ)所属のアイドルグループ「Juice=Juice」の元メンバーで初代リーダーの宮崎由加さん。そして“ポップスピアニスト”としてYouTubeなどの動画配信を中心に活躍するハラミちゃんさんです。

もがきながら前に進み、揺るぎない居場所を得たおふたりは、どうやって「自分の長所」を見つけたのでしょうか。

※取材は新型コロナウイルス感染対策を講じた上で実施しました

おふたりは今日が初対面ということで。まずはお互いの印象や、抱いているイメージなどを教えてください。

宮崎由加さん(以下、宮崎) コロナ禍での自粛期間中にハラミちゃんのYouTubeを知ってからよく見ているんですが、ずっと「こんなすごい人いるんだ!」って思っていました。

耳コピしてから弾き始めるまであっと言う間で、才能がすごいなって。私も小さな頃にピアノを習っていたけれど、全然だったので(笑)。

宮崎由加

宮崎由加……スマイレージやモーニング娘。などのオーディション落選を経て、2013年にJuice=Juiceの初期メンバーとしてデビュー。スキルが高い他のメンバーと比較されがちな環境の中で、初代リーダーとしてグループをまとめ、周囲やファンからの信頼を集めた。2019年6月をもってJuice=Juiceおよびハロプロを卒業し、現在はアパレルブランドのプロデューサーやラジオMCを中心に活動中。

Twitter:@yuka_miyazaki42 Instagram:@yuka_miyazaki.official


ハラミちゃんさん(以下、ハラミちゃん) わあ、うれしいです! 私は昔からハロプロが大好きで、Juice=Juiceもデビューのときから見ています……!

ハラミちゃん

ハラミちゃん……4歳からピアノをはじめ音楽大学に進学するも、ピアニストの夢を諦めIT企業に就職。「ついついやり過ぎてしまう」性格から体調を崩し、休職していた期間にストリートピアノに出会う。YouTubeに投稿したRADWIMPS「前前前世」の演奏動画が2週間で30万回を超えたことをきっかけの一つに、ポップスピアニストとしての活動を決意。知らない曲でも“耳コピ”して即興で演奏できる。大のハロプロファン。

Twitter:@harami_piano YouTube:@ハラミちゃん〈harami_piano〉


宮崎 ありがとうございます!

ハラミちゃん 最初はエースの宮本佳林ちゃんに注目していたんですけど、ゆかにゃ(宮崎さんの愛称)さんがリーダーに抜擢されて、気になって……。

ゆかにゃさんはアイドルの中でも特に「アイドルらしいアイドル」というか……。ファンを心から大事にしているイメージがあります。裏では大変な努力をしているはずなのに、それを表には出さないようにしていて。すごく、人として尊敬できるアイドルです。

宮崎 わあ……涙出ちゃいそうです、今。本当に、ありがとうございます。

宮崎由加(元Juice=Juice)とハラミちゃんに聞く、自分の強みを見つけ、居場所を作る方法

自分が人より「得意」なことで、誰かの「不得意」をカバーすればいい

宮崎さんは「おっとりしつつもしっかりまとめる」タイプのリーダーでしたよね。最初、選ばれたときはどう思いましたか?

宮崎 リーダーって「先頭に立ってグループを引っ張る人」というイメージが強かったので、私が任命されたことに、自分自身、戸惑いしかありませんでした

Juice=Juiceは宮本佳林ちゃんや高木紗友希ちゃんなど、ハロプロ研修生(ハロプロでのデビューを目指してレッスンを積む組織)としてレッスンを受けていた子ばかりで、みんな歌もダンスもスキルが高い“精鋭”だったので余計に……。

ハラミちゃん やっぱり、プレッシャーも大きかったんですか?

宮崎 はい。最初はできないことが多過ぎて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。「自分のことで精一杯なのに、リーダーなんて私には無理だ」って。

抱いていたリーダー像と自分がかけ離れていたので、いろんな人に「どうしたらいいですか」と相談したんです。そしたら、みなさん「そのままでいいんじゃない?」って。そこで初めて「“私”のままでいいんだ!」と思えて、肩の荷がすっと下りたんです。

私がリーダーだから」と、しっかり自分自身で意識するようになったら、周りのことも冷静に見えるようになりました。「役職が人を育てる」って、本当にそうだなと。

宮崎由加(元Juice=Juice)とハラミちゃんに聞く、自分の強みを見つけ、居場所を作る方法

ありのままの宮崎さんの姿を見ている人たちが「リーダーという役割に向いている」と判断して、抜擢しているわけですもんね。では「リーダーとしての自分の長所」にはどうやって気付きましたか。

宮崎 Juice=Juiceは、1年4カ月をかけて全国で225公演を実施するというハードなライブツアーを実施したことがあって、それだけ長くメンバーと一緒にいると、それぞれの良いところも悪いところも、得意なことも不得意なことも、全部見えてくるんです。

そこで「人はそれぞれなんだから、不得意なことは得意なメンバーがカバーすればいい」ということを強く感じて。私の場合は「人の話をきちんと聞く」ことが、他のメンバーと比べてできているなと気付いたんです。みんな、マネージャーさんの話、全然聞いてないんですよ(笑)。

伝達事項をメンバーに共有したり、提出物をリマインドしたりと、マネージャーさんとメンバーの間をつなぐ役割を意識していました。あとは、楽屋を出るときの忘れ物チェック。

ハラミちゃん 地味だけど大事なやつですね(笑)。私がハロプロを好きな一番の理由は、メンバーがそれぞれ切磋琢磨しているところなんです。みんな仲が良いけれど、それ以上に、ひとりひとりが自分のキャラクター、パフォーマンスにしっかりと向き合っているんですよね。

宮崎 (頷く)

ハラミちゃん 私は仕事にモヤモヤ悩んだとき、ハロプロをはじめとするアイドルのみなさんを思い出すことにしてるんです。社会に出ると、色んな人と一緒に働くことになるじゃないですか。そういう意味では、社会人もアイドルグループも、変わらないと思うんです。いろんなメンバーがいる中で、自分の立ち位置を把握して、自分にしかない「強み」を見つけて、目標を叶えて、ステップアップしていく

そういう姿に「この子、覚醒したな」とか「すごく良くなったし、なにかふっきれたのかな?」とか思いながら自分を重ねると、私も頑張ろう!って思えるんです。

長所を生かして見つけた、自分の居場所

ハラミちゃんさんは音大卒業後、一度会社員を経て今は「ポップスピアニスト」として活動されています。やはり自分の元々の長所だった「ピアノ」を生かしたいという気持ちがあったのでしょうか。

ハラミちゃん 私は小さい頃からピアノだけが得意で「ピアノを弾ける子」というのがアイデンティティで。だからこそ「自分より技術に優れた人がたくさんいる」という理由でプロのピアニストになることを挫折しました。けれど、今の活動を始めてから必ずしも「技術が高ければ高いほど、求められる」ではないかもしれない、と思うようになりました。

もちろん「技術力」はピアニストにとって、必ず必要な要素です。ただ、それよりも一人ひとりにあるその人にしか出せない音やパフォーマンスにちゃんと自分で気付いて、自己表現できる人の演奏が求められるんじゃないかなと。

なぜ、そこに気がつけたんでしょうか。

ハラミちゃん 休職時代に弾いた「前前前世」の動画がきっかけです。

私、会社員時代はぜんぜんピアノを弾いていなくて。あの動画のときも指がなまった状態だったので何度もミスタッチしていて、音大時代だったら絶対に投稿していなかったと思うんです。でも、ノリでUPしたら予想外にバズって。

コメントがいっぱい寄せられて、その中には「ハラミちゃんの音がすごく暖かくて、元気になりました」なんて感想もあって……。自分が想像していた反応とは180度違ったんです。

そこがブレイクスルーポイントだったんですね。

ハラミちゃん はい。自分が奏でる音を楽しんでくれる人に向けてパフォーマンスすることで、ピアノの魅力を大衆的に伝えたいと思えるようになりました。

私、身近なピアノのお姉ちゃんというか、みなさんの親戚のような存在になりたくて。姪っ子がテレビに出たら、うれしいじゃないですか? そういう気持ちで私を見てもらいたいんです。なので、綺麗めのドレスじゃなくて、あえてサロペットやキャスケットなどを着て演奏していたり。

宮崎由加(元Juice=Juice)とハラミちゃんに聞く、自分の強みを見つけ、居場所を作る方法

宮崎  私もアイドルをやって実感したんですが、ファンのみなさんって“好き”がバラバラなんです。ダンスをバキバキに踊る子が好きな方がいれば、優雅に心で踊っているような子が好きな方もいて。私も、ダンスが危ういですけど、応援してくださる方がいますし。

ハラミちゃん いやいやいや! ゆかにゃさん、素敵ですから(首を高速で左右に振る)!

宮崎 ふふふ、ありがとうございます(笑)。私は決して完璧ではないけれど、私が頑張る姿を求めてくださる方に向けて、一公演一公演、心を込めて歌って踊っていました。

そうやってめげずに「頑張れることを頑張ろう」と活動する中で、自分が「何度も繰り返し、地道な作業をコツコツ続けること」が得意だと気付いたんです。その中の一つが「ブログの更新」でした。

毎日休まず、常にグループの情報を発信しようと決めて、ブログの最後には「インフォメーションコーナー」を作り、メディアへの出演情報やコンサートの情報など、活動告知は欠かさず入れていました。

確かに、今でこそそういった告知コーナーを設けているメンバーは多いですが、当時は珍しかったですね。

<当時のブログ>
ameblo.jp

宮崎 そうですね。後輩メンバーがしっかりとブログで告知している姿を見ると、私がやり始めたことが、ちょっとでもいい方向に転がったのかな、無駄じゃなかったんだなと思えます。

挫折から学んだ「仕事」への向き合い方

宮崎由加(元Juice=Juice)とハラミちゃんに聞く、自分の強みを見つけ、居場所を作る方法

では、おふたりのこれまでの人生の中で「一番の挫折体験」はなんですか?

宮崎 Juice=Juiceが結成されてすぐ「私って、こんなにできないんだ!」と実感したときです。メンバーみんな歌もダンスも上手で。加入前は運動も勉強も比較的なんでもできちゃうタイプだったので、結構衝撃で……。

逆境を、どう乗り越えたんでしょうか。

宮崎 まず、できない自分を認めてあげることから始めました。何も出来ない自分だけで悩みを抱えるよりも、マネージャーさんにすぐ相談したり、メンバーに素直に聞いたり、もっと人を頼ることにしました。ハラミちゃんはどうでした?

ハラミちゃん やっぱり、新卒で入社したIT企業を休職して、おうちに引きこもっていた時期ですね。過去の挫折が全部「つながった」経験でした。

どういうことでしょう。

ハラミちゃん 私、音大受験のときにストレスで難聴になって、第一志望に受からなかったんです。で、音大に入ったけどピアニストになる夢は諦めて……。そうしてパソコンに触ったこともないのにIT企業に入社したら、周りは「自分でアプリを作りました!」とか「起業経験があります!」といった同期ばかりで……。

でも、ハラミちゃんさんにも光るものがあったからこそ、採用されたのでは?

ハラミちゃん 多分、人事的には「ピアノを極めたなら、なにかやれるだろう」みたいなポテンシャル枠だったと思うんです(笑)。WordもExcelも何もできない状態だったので、周囲は「なんでこの子入ったんだ?」と思っていたはずなんですけど、本当にいい人たちばかりで……。マイナスのスタートなんだから頑張らなくちゃ! と必死になっていたら、頑張り過ぎて、休職しちゃって。

ピアノでもダメで、会社勤めもダメで。さあ、私は何をしようか? 何ができるんだろうか? と考え込んだ結果、心がポキッと折れてしまったんですよ。

宮崎 一生懸命だったからこそ、つらいですね……。

ハラミちゃん とても贅沢な悩みですが、まだ二十代で「どんな選択のカードでも選びやすい」環境の中で、自分が何を選択してどの方向に向かって走ればいいのか、社会から何を必要とされているかが分からなくなってしまいました。

でも同世代はみんな働き盛りでキラキラしていて、進路に悩んでいるように見える人もいなくて……。

パッと道が拓けたきっかけが、ストリートピアノだったんですね。

ハラミちゃん はい。落ち込んでいた私を見かねて、仲良しだった会社の先輩が「気分転換に、都庁でピアノを弾こう」と連れ出してくれて(東京都庁では2019年から誰でも自由に演奏できる「都庁おもいでピアノ」を設置)

久々に鍵盤を弾いた瞬間、すっっっごいアドレナリンが出たんです。こんなにも身体が熱くなるのか!と驚いて。日常にない、新たなよろこびを知りました。

宮崎由加(元Juice=Juice)とハラミちゃんに聞く、自分の強みを見つけ、居場所を作る方法

宮崎 分かります、私がライブで歌って踊ってるときも、まさにそうでした!

ハラミちゃん それまで弾いてきた王道のピアノも、就職した会社も、楽しかったんです。でも、ポップスというみんなが楽しく聴きやすい曲を弾くということが、すごく好きになってしまって。

でも、せっかく就職したのに辞めてYouTuberになると言うと、やっぱり周囲からは「え! 大丈夫……?」という目で見られちゃって。他人の目線が気になって悩んでいたときに、都庁に連れて行ってくれた先輩が「人生、笑った回数が多い人が勝ちだと思う!」と背中を押してくれました。

それで一旦、世間体やお金の心配は置いておいて「好きなこと」に真正面から向き合って自分が笑っていられることを優先しよう、この「ハラミちゃん」という活動を続けてみよう、と思えたんです。……その先輩が今のマネージャーです。

宮崎 えええー! すごい!! 一緒に会社を辞めたんですか?

ハラミちゃん そうなんです。「ハラミちゃん」は、先輩とのユニットだと思っているくらい存在が大きいんです。“気にしい”の私と真逆で楽観的でマイペースなので、救われることが多いですね。

宮崎さんも、大学進学を控えた頃にJuice=Juiceのメンバーに選ばれ、芸能活動を優先するために約1年で退学した経験がありますよね。アイドル活動一本に集中することに、迷いはありませんでしたか。

宮崎 性格的に、全方向に頑張るのが難しいんです。大好きだったハロプロでデビューできて、周囲はすごい人だらけの中で、「今」の私は勉強をするより真剣にJuice=Juiceをやりたい、という思いが強くなって。

なにより、大学は本気で学ぼうと思えば何歳からでも行ける。お金を出してくれた両親には申し訳ないという気持ちでいっぱいでしたが、父も母も「やりたいことをやった方がいいよ」と応援してくれて、退学を決断しました。

宮崎由加(元Juice=Juice)とハラミちゃんに聞く、自分の強みを見つけ、居場所を作る方法

ハラミちゃん 私も不器用だから、いろんなことが同時並行だと頑張れないな……。

宮崎 全部頑張ると、訳が分かんなくなりますよね(笑)。

「できないこと」も諦めるのではなく、「どうやったらできそうか」を考える

おふたりとも「できない」ことに対して、自分の「できること」を見つけて、それぞれの居場所や役割を見つけられたんですね。「できない」ことは、どう克服してきましたか?

宮崎 とにかく、練習しかないです。練習しても結局できないこともあるんですけど、それでも「自分は、絶対できる!」と暗示をかけていました。

あとは「周囲に頼る」こと。分からないことがあれば、積極的にメンバーに助けてもらいました。私はメンバーの中で一番年上だったので、最初は抵抗もあったんですが「できないことをできるようにするためには、自分のプライドなんて必要ないな」と割り切るようにしたんです。一度割り切ったら、素直に「分からない」と伝えられるようになりました。

ハラミちゃん すごい……! ピアノも、一小節を何日もかけて練習するくらい、1音1音のレベルの高さが求められる緻密な世界なんですよ。「こんな細かいところこまで誰も聴いていないんじゃないか……」と思っちゃうような音を極めることこそが、全体のレベルアップにつながるんです。

宮崎 大変な世界ですね……。

ハラミちゃん いえいえ、ハロプロのみなさんも大変かと……。

でも、練習って、実は「量」より「質」だと思うんです。同じように努力を重ねて、同じ量の練習をしても、本番で100%発揮できる人もいれば、50%しか発揮できない人もいる。

私は長年ピアノを弾く中で「人並みの量しか努力できない」と気付いたんです。だから「本番に向けた練習の量」ではなく「本番で自分の100%を引き出す練習方法」を考えて、できるだけ本番に近い環境で練習するようにしました。コンサート本番と同様に、家族に2時間ぴっちり演奏を聞いてもらって、お客さんとしてどう感じたかを全部書き出してもらったり。

自分も本番と同様に弾くと「後半はスタミナ不足で集中力が切れるな」といった、やらないと分からないことに気づけて、本番に向けてさらに対策できるんです。「練習は本番のように、本番は練習のように」がモットーですね。

大事なのは「自分を分析して、自分にあった“手段”を見つける」ことですね。そろそろ対談も終わりなのですが、今日初めて話してみて、いかがでしたか?

ハラミちゃん  私にとって「アイドル」って一番尊敬している職業で、崇拝している存在で……。でもゆかにゃさんのお話を聞いて、物事の捉え方や考え方が似ている……というとおこがましいですが、すごく共感できました。今日の対談、財産になりました。

宮崎 わ〜! 私もハラミちゃんのお話を聞いて、すごく考えが近いな、と思いました。仕事をしていると正解がないことも多くていろんなことに悩みますが、こういうふうに「真面目に頑張ってる人がいる」というだけで、自分も頑張ろうと思えるなって、今日改めて感じました。ありがとうございました!

宮崎由加(元Juice=Juice)とハラミちゃんに聞く、自分の強みを見つけ、居場所を作る方法

取材・文/小沢あや
写真/曽我美芽
編集/はてな編集部

宮崎由加さん出演情報


▼ TBS「ふるさとの未来」毎週水曜日 24:58〜25:28
▼ FM石川「宮崎由加のPinky Friday」 毎週金曜日 18:00〜18:30
▼ TBSラジオ「Music Palette♪」毎週土曜日 28:00〜30:00

ハラミちゃんさんリリース情報

ハラミちゃん デジタルシングル『雨』

ピアノ1台でさまざまな雨模様を表現した、オリジナル楽曲第2弾『雨』をデジタルシングルとして配信中。

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