誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、漫画家の瀧波ユカリさんに寄稿いただきました。
瀧波さんがやめたのは「すてきな食卓」であること。
以前は家族でテーブルを囲み、手料理を楽しむ……。そんな「すてきな食卓」を演出することが自分の役割だ、と感じていたという瀧波さん。
ですが、あるきっかけを経て、「やめてしまっていいんだ」と思えたそう。“やめる”ようになるまでの遍歴をつづっていただきました。
今、私のデスクのかたわらには、お弁当がある。夫がお惣菜屋さんで買ってきてくれたものだ。10歳の娘は、まだ塾から帰ってきていない。彼女の夕食は、おにぎりと冷凍のお惣菜ときゅうりの漬物だ。これも夫が用意してくれた。
昨日の夜は、私が作った。大根と鶏肉の煮物、サラダ、ごはんと味噌汁。一昨日の夜は、カレーのデリバリー。作ることより買うことのほうが多く、私が毎晩台所に立つことはない。
前はちがっていた。なるべく作るようにしていたし、作らなければならないと思っていた。家族3人でテーブルをかこみ、できたての手料理を楽しむ。そんなすてきな食卓を演出しなければ。それが自分の役割だと信じていた。
だけど、もうやめた。前向きにやめた。今はこれでいいし、これがいい。心は晴れ晴れとしている。やめてよかったと思う。
どうして私が「すてきな食卓」を背負い込んだのか、そして背負うのをやめたのか。それを説明するためには、時を30年近く巻き戻さなければならない。
料理にこだわりを持った母の、ある宣言
「私は娘に、料理をさせるつもりは一切ありません。包丁なんて握らせませんよ」
これは、私の母のセリフである。
中学の家庭科の授業で、私があまりにもおっかなびっくり包丁を握っていた。担任の先生(20代男性)が、家庭訪問でそのことを母に話した。すると母はそう言い放った、らしい。
「…って言ってたぞ。お前の母ちゃん、すごいな!」
家庭訪問の翌日、先生は少し興奮気味にそう言った。
「包丁も握らせないなんて、瀧波ってお嬢様なんだな」
先生なりに考えて、そう解釈したらしい。そういうわけじゃないんだけどな、と思ったけど、お嬢様という響きがまんざらでもなかったので否定はしなかった。
それに、実は私にもわからないのだ。どうして母は、私に料理を教えようとしないのだろう。まだ早いと思ってるから?教えるのが面倒だから?いや、そういう消極的な理由ではない。母からはむしろ「絶対に料理なんかさせない」くらいの気迫を感じる。
そういえば、母はよくこんなエピソードを私や姉に語って聞かせた。
「私は24歳まで料理をしたことなかったの。最初に作ったのは、カレーライス。カレールウを買ってから、作り方を知らないことに気がついた。だから箱の裏の説明書きを見て作ったの」
これを、自慢げなテンションで話す。恐らく、母にとってこのエピソードは純然たる自慢なのだった。女の子は料理ができて当たり前、料理上手であればあるほどよい…とされる日本において、このエピソードのどのへんが自慢なのかは謎であった。ちなみに母には24歳まで専属料理人がついていた…わけではなく、ごく普通の家庭の出身だ(8人きょうだいの末っ子なので、少し甘やかされて育ったらしいが)。
どうやら母にとって「料理をしないで生きる」というのは誇るべきことのようだ。しかし、そんな母は料理ができない…わけではない。普通にする。全然する。むしろ手抜きを嫌っている。こだわりも強い。シチューには白滝、カレーには豚のブロック肉、味噌汁に入れる絹豆腐は大きく切る、唐揚げの鶏肉には下味をしっかり。そんなふうに、母はいつも料理しながらこだわりについてしゃべっているので、私は料理を教わらずにこだわりだけ覚えてしまった。
おおいに、矛盾している。でも親が矛盾しているのなんて、おかしいことでもなんでもない。なんなら親の言うことなんて、矛盾しかないくらいだ。だから気にしたって、しょうがない。
自炊をしていないと、どうしてか罪悪感を抱く
それから数年、本当に包丁を握らないまま私は高校3年生になっていた。正確に言うと、皮むき器は時々握っていた。皮むき器の使用はなぜか許されていて、母に命じられて芋の皮をむいたりしていたから。
春になったら上京して、一人暮らしが始まる。皮むき器ひとつで自炊はたちゆかない。だけど母が私に料理を教える気配は、一切ない。事情を知った親友が、一肌脱いでくれた。彼女の家の台所で、私は彼女とそのお母さんからチャーハンの作り方を教わった。にんじんをみじん切りにする時は、先に格子状に切り込みを入れるとうまくいく。それからフライパンを熱して…そんなふうに教わったことを私は帰宅してすぐに母に話した。
「どうしてよそで教わってくるの!」
母は怒り出した。地雷はどこに埋まっているのかわからない。
「だって、お母さんは教えてくれないじゃない」
「だからって、よそで教わってきてもいいとは言ってない!」
なんで怒られているのかも、やっぱりよくわからない。
結局私は、親友の家でチャーハンの作り方を1回教わっただけの状態で、一人暮らしのスタートを切った。母は一通りの調理器具を揃えてくれた。だけど私がそれを使うことはほとんどなかった。学生街には手頃な定食屋さんがたくさんあったし、大学生活は自炊よりも楽しいことが泉のように溢れていたから。
それでもたまに、私はアパートの小さな台所に立った。ずっと自炊をしていないと、悪いことをしているような気持ちになるのだ。それを晴らすためだけに、肉野菜炒めなんかをでたらめなやり方で作った。自炊をしなさいなんて、だれからも言われていないのに。「お母さん」からすら、言われていないのに。
ちゃんとした食事を作るんだ、という気負い
27歳で結婚して、二人暮らしが始まった。夫が帰ってくるのはいつも22時をまわってからだし、飲んでくることも多い。また夫は、妻に家庭的なるもののあれこれを求めるタイプでもない。私がちゃんとした食事を毎日作る必要はまったくなかった。
それでも、週に何回かは料理するようにした。長い一人暮らしの間にさすがに簡単なものは作れるようにはなり、台所と私の距離は人並み程度に縮まっていた。料理にまつわるエッセイを読んで、真似してみるのも楽しかった。愛読していたのは平松洋子さんと高山なおみさんの本。こうしなければならない、ではなく、こうしてみると楽しい、おいしい、という姿勢が心地よい。それまでの自分にとって料理は作って食べる、だけのことだったけど、楽しむ、という要素もあるのを知った。
だけどやっぱり台所に立つ理由は、楽しさだけではないのだった。夕方が近付くと時折、冷たくて重い気持ちがどこかからやってきて、私にこう思わせるのだ。
「妻がごはんを作って待っていてくれる」のは男の人にとってはうれしいはず。
品数が多ければ、大切にされていると感じるはず。
だから、スーパーに行って食材を買わなければ。
ソファから体を起こして、冷蔵庫から食材を取り出さなくては。
そうして私はせき立てられるように台所に立つ。食材を包丁で切り始めると、少しだらけていた数日間がチャラになっていくような気持ちよさを感じる。今のこの自分は、だれに見せても恥ずかしくない。大人の女性として、そして妻として、ちゃんとしている自信がある。そう思えると、心が落ち着く。
手を動かしながら、「これは手がこんでるね」とか「おいしいね」と言いながら食べてもらえる時間をよく想像した。料理が大好きでも得意でもないけれど、がんばったぶんだけ褒めてもらったり、認めてもらえるならがんばれる。
食卓を巡る、どうしたらいいか分からない苦しさ
でもどうしても体が動かない日もあったし、そんな時は自己嫌悪に陥った。がんばってあれこれ作ったのに、夫が特にリアクションもなく食べきってしまった時には悲しくなった。その手の鬱憤を溜め込んではある日突然限界を迎え、
「料理の感想がほしい」
「おいしいならおいしいって言ってほしい」
「いつもより品数が多い時には気付いてほしい」
などと目に涙をためて抗議したりもした。そのつど夫は、とても申しわけなさそうにして私に謝った。ちゃんとおいしいと思っているのに、つい夢中になって食べてしまって言葉を忘れてしまってごめんね、今度から気をつけるよ、と。そして実際気をつけるのだが、数カ月に1度はうっかりノーリアクションで食べ切り、私が怒る。そんなことを、繰り返した。
夫にとっては、食事の時間はリラックスして何気ない会話を楽しむ時間。でも私にとっては、がんばりを認めてもらうための時間。そんなふうに、私たちの認識はズレていた。そしてズレていることはわかっていても、どうしたらいいかはわからなかった。どちらかが悪いなんてことはない。だからこそ、苦しかった。
30歳で娘を出産し、3人家族になった。日々の食事。離乳食。保育園に持たせるお弁当。いろいろ作った。凝ったものは作れないけど、なるべく質のいい食材を使って、栄養バランスの取れたものを食べさせたい。冷凍食品やレトルトは避けた。たぶん、がんばっていた。たぶんというのは、当時どんな食事を作っていたのかをあまり覚えていないからだ。
思い出せるのは、時間をかけて煮た大根が品種のせいなのか柔らかくならなかったこと。子どもが喜ぶかと思って作ったグラタンを、あまり食べてもらえなかったこと。そんな、失敗エピソードばかり。
頭の中はいつも、仕事と食事のことでいっぱいで、うまくやらなきゃ、手際よく進めなきゃ、そればかりだった。自分は世間の常識にとらわれないタイプだなんて思っていても、どこかで「母親たるもの、子供にちゃんとしたものを食べさせなければ失格だ」という重責はいつもずっしりと両肩にのしかかっていた。
いっぱいいっぱいなのにいちいち作ろうとする私を、夫は止めなかった。だけど時折、おいしいねって言って食べながらも、凝ったものじゃなくても全然いいんだよ、無理しなくて大丈夫だよ、と言ってくれていた。でもそれも今思えば、である。当時はちっとも耳に入っていなかった。「母親たるもの、しなければ」が、強すぎたのだ。
少しずつ変わっていった食卓
34歳の時、母が癌になった。家族で手を尽くしたが、1年後に亡くなった。
だれよりもパワフルで我の強い母が、私の人生からあっけなく消える。そんなことがあるなんて、信じられない。おおいに矛盾している。だけど、親とは矛盾しているものなのだ。だから「なぜ」と思い続けたって、しょうがない。
喪失感を紛らわすように、来た仕事はどんどん引き受けた。泊まりがけで東京に行き、家を数日あけることも珍しくなくなった。そんな時に夫は、特に問題もなく娘と留守番をした。夫は料理が得意ではないけれど、娘の好きなうどんやそうめんを作ったり、マクドナルドやレトルトやコンビニのお惣菜などをふんだんに活用して、留守の間の食卓を彩っていた。
夫が食卓を担う割合が少しずつ増えていくと、冷凍庫は便利なチルドや冷凍食品で賑わい出した。最初は、冷凍うどん。私は生うどんのほうがおいしいと思いこんでいたけれど、食べてみれば変わらない。チルドのミートボールはお弁当に便利だ。フリーズドライの味噌汁は、驚くほどのおいしさ。
食材の調達方法も変わった。夫が1週間ぶんの食材を宅配で注文するようになったのだ。野菜も肉も魚も、スーパーに並んでいるものと見劣りしない。夫のセレクトの精度もどんどんあがり、使い勝手のいい食材やちょっと特別感のあるお菓子まで、いろいろ織り交ぜて楽しませてくれる。いつのまにか私はスーパーにほとんど行かなくなった。
さらには夫が朝ごはんも担当してくれるようになった。今までは私が3人分の朝食を作って出していたのだが、夫は娘のぶんだけをちゃちゃっと作り、私を寝かせておくという戦法を取った。家族そろって仲良く朝ごはん、という固定観念をあっさりと打ち破ったことに私は驚きつつも、ありがたく朝寝坊するようになった。
過度な「こだわり」を捨てたらしんどさが減った
そんな変化にも慣れたある日、私はやっと、気付いたのだ。
恐れていたことなど、何も起きないと。
私が台所に立たなくても、だれも私を責めたりしない。家族にあきれられたりしない。それどころか、おいしいと言ってほしいとか味わって食べてほしいとか私が言わなくなって、夫も娘も気楽そうだ。冷凍食品やレトルトを増やしても、みんな健康だ。
これでいいんだ。
もう、「すてきな食卓」を私が作るっていう重荷を背負わなくていい。やめてしまっていいんだ。
冷凍庫に整然と並ぶ唐揚げや焼きおにぎりやうどんのパッケージを眺めながら、私は全然それでいい、と静かに思った。
夕方にやってきていた冷たくて重い気持ちはもう、少しの気配すらなかった。
それからさらに数年。最近になってもうひとつ、とても大事なことに気付いた。母が私に断固として料理を教えなかった理由。それは、「女は料理をしなければ」という社会からの圧力に、私が取り込まれないようにするためだった、ということ。
女は料理をしろ。女は料理をしろ。女は料理をしろ。この国で女として生きていれば、そのメッセージは太陽光線のように降り注ぎ、どうしたって逃れられない。それを母は、いやというほどわかっていたのだ。フェミニズムという言葉を使ったこともない母だったけれど、骨身に染みて知っていたのだ。だからこそ母はきっと、自分だけは娘に真逆のメッセージを送ろうと思ったのだろう。あんたは料理なんてしなくていい。包丁なんて握らなくていい。よそで教わってきたりしなくていい、と。
料理を教わらずに大人になったことを、コンプレックスに思っていた時期もある。積極的に台所に立ちたいと思えないのは、育ち方のせいなのかもと母を恨めしく思ったこともある。だけど今はありがたい。すごいものをもらったんだな、と。
そして振り返れば、私はふたりに助けられたんだなと思う。「すてきな食卓」を作らなければいけないという「呪い」にいつのまにか囚われてしまった私に、時間をかけて「こういう感じでいいんじゃない?」と示してくれた夫に。そして、夫が示してくれた「こういう感じ」を受け取れるように、「しなくていい」を仕込んでくれた母に。
もう少しで娘が帰ってくる。「お父さんが買ってきてくれたお弁当をおいしそうに食べるお母さん」を見せるのが、今夜の私に課せられた「母」としての大仕事だ。
著者:瀧波ユカリ
「わたしがやめたこと」バックナンバー
編集/はてな編集部